意識が保てたのはそこまでだった。オレの精神は限界を迎え気を失ってしまう。
目が覚めた時は病室で、家族が心配そうにオレを覗き込んできたのを見た時
夢で良かったと勝手に決めつけて安堵したのを覚えている。
その後、両親から歩道に乗り上げた車に楓が轢かれ意識不明の重体であることを知らされても、オレは気を失う前に嗅いだ鉄臭い臭いとは裏腹に、ここは清潔感のある消毒液の匂いがすると現実から目を背け続けた。
オレは周りから被害者のような扱いをされたが、事故原因を作ったのは間違いなくオレだ。
お前が道路に飛び出しさえしなければ楓はこんなになることはなかった。
誰もそう言ってオレを責めることはしない。責められるのはオレを避けようとした運転手ばかり。
状況をすべて見ていただろう聡でさえもオレを責めることはなかった。
オレが轢かれていれば良かったのに。
そう思っていたのは最初の内だけだった。
年月が流れるにつれて古くなった角質が剥がれていくように、罪悪感が少しずつ薄れていった。
それは記憶も同じで最後に見た楓の顔をはっきりと思い出すことが困難になった。
まるでなんでも飲み込んでしまう穴が徐々に広がっていくような感覚だった。
病室に行ってもチューブに繋がれた楓の姿は当時の事を思い出させてはくれない。
楓よりも強く残るものがオレにあれば、この穴を埋められる何かがあれば、そう思って唯一の取柄だったサッカーを我武者羅に続けた。
だけどブラックホールのようなその穴は決して埋まることはなく、寧ろ日増しに広がって行く。
絶望しかなかった。忘れたくないものが記憶から消えようとしている。このまま楓が完全に消えた時、この穴は内側からオレを飲み込んでしまうのだろう。
だから病院の帰りに何かに縋るように事故現場に行き、そこで公園で一人まるでそこに誰かがいるように楽しそうに話をする聡を見た瞬間、言いようのない黒い感情がオレを支配していくのがわかった。
聡には楓が見えている。
だったらオレもそれを見られるようにすれば救われる。
だが方法がわからない。そうこうしているうちに記憶から楓が消えていく。
焦燥にかられるは偶然女子高生が交通事故に遭う瞬間を目撃してしまう。オレの中で何かが変わったとすればあの時だった。
三年前を再現すればいい。そうすればオレはまた楓の事を思い出せる。
それからオレは死にたがりの女子を探しては、確実に死ねる方法と偽り、車道に飛び出すように仕向けた。
しかし、どれも失敗だった。車に跳ね飛ばされる少女たちはどれもチープな映画のワンシーンの様で、楓を想起させてはくれなかった。
何がいけないのか。それをあいつから指摘されてようやく気付いた。
あいつは何故か三年前の事故を知っている。だからあの場所で同じことを行なうと言われた時は正直驚いたが、あいつもそれで同意している。
思わぬ相手と利害が一致した。
これで最後になるだろう。ちょうど良い事に雨も降り始めた。
安全運転を心がけるバスはこちらの気持ちを急かせる。
走った方が早いと降車ボタンを押しそうになるが、雨が降っていることを思い出してボタンに掛けた指を引っ込める。
冷静になろう。この距離ならばバスの方がどう考えても早い。
窓から見える街の景色は一カ月前から一変して、銀杏の黄色に染まっている。それと同じように俺の環境も一カ月前からは一変していた。
それをしたのは糸杉だ。その糸杉はあの事故の関係者だった。そして俺に非難の視線を向けて来る。これはきっと偶然ではない。
あの事故を引き起こしたのは俺だ。
仙都があの日、雨の中わざわざ楓と一緒に帰ったのは俺に楓が好きだと言われたからだ。思惑通り、仙都は俺よりも先に告白する気でいた。
周りに囃し立てられても曖昧な言葉で濁して照れ笑いを浮かべる仙都を見ていて、仙都も楓が好きだということはわかっていた。
だから俺は仙都が楓に告白するように仕向けた。
自分で告白しなかったのは怖かったからだ。告白して断られた時、幼馴染の関係が崩れてしまう。だから卑劣な手を使った。
例え、仙都の告白が上手くいって二人が付き合うことになっても俺は幼馴染としての関係を保つことが出来る。一切傷つかずに相手の気持ちを知ろうとするからこうなった。あれは俺が引き起こした事故だ。
自分の気持ちを相手に伝える勇気があの時の俺に僅かでもあれば、多くの人間の歯車は狂わなかっただろう。
この話は誰にも言えなかった。だから事故後も俺を責める人は誰もいなかった。当時はそれでほっとしていた。しかし、月日が経つにつれて罪悪感が際限なく溜まって行くことに気づいた。
それと同時に俺の中に楓が深く刻み込まれている事にも気づいた。
それに気づいたからと言って誰も俺を責めてはくれない。責めてほしい相手は病院で眠り続けてこちらの声には応えてくれない。
楓の両親からも『君の応急処置で一命を取り留めた』『命の恩人だ』など感謝の言葉ばかりで憎しみの言葉なんて出るはずがなかった。その内に『君はここに来なくて良い』『君の人生を歩んでほしい』なんて、こちらの心配までする始末。
そうした言葉を投げかけられる度に罪悪感は積もって行く。
このまま罪悪感に蝕まれて俺は死んでいくのだろう。それでもいい。それが償いになるのなら。そんな時だった。いつものように病院帰りに事故現場にむかい、ベンチに座る楓を見つけたのは。
あの時と変わらない姿で俺に手を振っている。
俺が生んだ幻であることはわかっていた。俺はここまで狂ってしまったのだと実感もしていた。それでも俺には救いだった。俺を唯一責めてくれる相手が現れた。楓に糾弾され破滅させられるのならば納得がいく。このまま奈落の底に突き落としてほしい。
その日から放課後は病院ではなく、あの公園に行くようになった。
けれどそれもやめる時が来た。
俺を糾弾する人間が現れた。俺はそいつと逃げずに向き合わなければならない。
『あなたに私を刻みたいの』
糸杉は自分の目的をそう言っていた。悲哀を深く刻んだ、全てを諦めてしまった瞳で。
早くに気づくべきだった。それまでの行動を考えれば糸杉が何をしようとしているのかはわかったはず。
三年前の加害者側の人間が三年前と同じ場所で同じ事故にあって最期を迎える。それを目の当たりにするのは三年前の事故を模倣している人間。糸杉の死後にすべてが明るみになってその人間は全てに気が付くのだろう。
あいつは最初からそのつもりだった。
公園近くの停留所を告げるアナウンスが流れ、僅かに残った迷いを押しつぶすように降車ボタンを押す。
バスはゆったりとスピードを緩め停車する。
料金を払いバスを降りるのと同時に地面を蹴って走り出す。顔に当たる雨粒はじっとりとかいた汗のように不快だった。思えばあの日もこんな雨が降っていた。
やがて銀杏の黄色い街道に対抗するように深紅の紅葉に染まった公園が見えて来る。
その公園の前にある横断歩道で黒い髪を雨に濡らした糸杉が空を見上げて立っていた。
「糸杉!」
名前を叫んでも雨にかき消されてしまう。
来るタイミングがわかっていたように、ふと、糸杉がこちらを見る。
雨に濡れた糸杉は灯が消える寸前に見せる一瞬の美しさを伴って俺に微笑む。完璧だった。こんなものを見せられた後に、儚く砕け散ってしまえば誰でもその姿を刻まずにはいられない。
横断歩道の信号が青から赤に変わっていく。
先日の支倉と同じだ。相手は向かい側に立っている。何をするのかわかっていながらあの時の俺は一歩を踏み出せなかった。
信号は赤のまま。車道には車が容赦なく行き交っている。
糸杉は躊躇なく足を前へ踏み出してこちら側に渡って来ようとする。このままでは間に合わない。
ふと糸杉の足が止まった。
俺は全力で走った勢いのまま、車道へ飛び出し糸杉に向かって突進する。勢いを押し殺すことが出来ない俺はそのまま糸杉と一緒に地面に転がった。
間一髪、僅か後ろを車が通るのがわかった。
突き飛ばされた糸杉は地面に叩きつけられ、鈍い声を上げる。
足の感覚が麻痺した俺はしばらく立ち上がることが出来なかった。上から打ち付ける雨に何かを塗られているような感覚で気持ち悪い。
痛みを堪えた表情の糸杉は地面に座り込んだまま俺を睨み付ける。
「お前を、轢いた側がどうなるのか、考えなかったのか? それとも自分は死ぬから関係ない、そう言いたいのか」
「…………」
息も絶え絶えながらも怒気を込めた訴えに糸杉はなにも言わない。この際だから全て言わせてもらう。
「人を殺せば例え事故だとしても世間が人殺しのレッテルを張る。それに関係した人間の歯車を狂わせる。それはお前もわかってることだろ」
「偉そうに。説教なんてしないで。それにあなたは部外者でしょ」
「それはお前にも言えるだろ。事故を起こしたのはお前の父親だ」
「あなたもそう言うのね……私には背負わなければならない理由があるの」
立ち上がった糸杉の目は悲哀の色を深く刻んで道路を見つめる。
「あの日、私はあの車に乗っていたの」
「それだけで」
「違う」
俺の言葉を遮った糸杉声には抑揚はなかったけれど、そこには確かに悲痛な叫びが籠っていた。
「すべての原因は私にある。腹痛なんて仮病を使わなければこんなことにはならなかった。土砂降り雨の中、腹痛を訴える娘を隣に乗せた父に、正常な判断が出来るわけがない。だから信号を無視して事故を起こした」
懺悔するように糸杉は続ける。
「私が居なければあの事故は起きなかったの。それなのに責められるのはいつも父。母は世間のバッシングに耐えられずに出ていった。父くらいは私を責めたって良いのにそんなことは決してしなかった。寧ろ父は自分と一緒にいると迷惑が掛かると私を親戚の家に預けて今は一人で暮らしてる。誰も私を責めない。出て行った母も私を責めることはしないで、寧ろ逃げ出した自分を責めてる」
糸杉も自分の所為で事故が起こったと感じ、誰かに糾弾されることを望んでいる。
「逃げるために死のうとしたのか?」
「違うわ。復讐のためよ」
糸杉は矛盾したことを口にする。糾弾されたいのなら、復讐をするのではなくされなければならない。
「黒田根市で起こっている事故。私には事故だとは思えなくて、色々と調べた。それが雨の日、女生徒、車道への飛び出し、三年前と酷似しているとわかって、それが三年前と関係していること確信したわ。父が轢きそうになったあの男子生徒が事故を誘発させている。あの事故に関わった人間は彼しか残されていない。だったらそいつに一生忘れられないように私を刻み込んでやる。あなたが壊した人間は一人じゃない。そう伝えるために」
相手に対する復讐。自分に対する糾弾。窒息するような罪悪感の中で見出した糸杉なりの救いだったのだろうか。
だが、それでは同じ人間を生み出すだけだ。やり方が間違っている。
「そして父が轢いたあの女の子と楽しそうに話している音霧くんを公園で見つけた。あの子がどうなったのか知っていたから、その光景が異常なことは直ぐにわかったわ」
「やっぱり見えてたんだな」
「ええ、今でもはっきり」
糸杉は俺たちの傍で今にも泣きだしそうな表情をしている楓に視線を向ける。
どういうわけか、糸杉にも楓の姿は見えているようであった。しかし、今更驚くようなことじゃない。初めて出会ったあの日、確かに糸杉は俺の隣にいるはずのない楓に視線を向けていたのだから。
「それで勘違いして、俺を慈善活動部なんかに引きずり込んだのか」
「そうよ……けれど音霧くんは、部外者、だった」
さっきの仕返しのつもりなのだろう。部外者の部分をゆっくり、はっきりと述べる。
「だったら糸杉が死ぬ意味はもうない」
「どういう意味?」
「俺も部外者じゃない。事故が起こった要因は俺にもある」
俺は自分のしたことを包み隠さず糸杉に話す。自然と滞ることなく言葉が出て来る。誰にも話さなかった自分の罪を恥を曝け出しているというのに。
「俺が卑怯な手を使わなければ、あの日に二人が一緒に帰ることはなかったし、仙都が道路に飛び出すこともなかった」
「そう……」
全てを曝け出したからと言って罪がなくなるわけではない。
罪は決して分配されず、同じ質量で俺たちにのしかかっている。
この事故に関わった楓以外の人間に事故を引き起こす要因があった。
自分が存在していなければ事故は起こらなかった。それは罪を認識するための呪詛であり、罪から逃れるための慰めでもある。しかし、これからはそうした言い訳は許されない。
他人の落ち度を知ってしまったことで、俺たちはそれを責めずにはいられない。
「自分さえいなければ……そう思っていたのに」
糸杉は溜息と共に気持ちを吐露する。その背中は弱々しくて、小さくて、これが本当の糸杉の姿なのだと感じる。普段見せている冷淡で氷のような性格は、他人を近づかせない為の虚構に過ぎない。
世界から自分を切り離してしまった糸杉に俺が出来ることは一つしかない。
「俺はお前を許さないよ。だからお前も俺を許さないでほしい」
驚いたように見開かれた糸杉の瞳は変わらず悲哀の色に染まっていた。
「俺がお前を恨んでやるよ」
「上から目線は気に入らないわね。それからお前って言うのやめて」
ふと見せた和らいだ表情が何を意味するのか俺にはわからないけれどこれで糸杉が死のうとすることはないだろう。
再び糸杉は車道側に視線を向ける。
「その提案には乗ってあげる」
「思いきり上から目線なんだな。自分がされて嫌な事を相手にするなよ」
「別に憎んでる相手なら問題ないでしょ」
「そうか……それなら俺も問題ないな」
お互いに憎み合っているのに清々しい気持ちになる。
俺たちはお互いに憎み合い、世界と繋がりを持つことで生きていくことを決めた。
結末としては最悪かもしれない。物語にあるように全て水に流して仲直りなんて展開にはならない。なれるはずがない。俺たちは狂ってしまっている。一度狂った人間が清い関係を築くことは不可能だ。それならば狂っているなりにどこまでも転がって行くしかないだろう。お互いを道ずれにしながら。それも悪くないと今は思える。
倒れた時に痛めたのか、腕をさすりながら糸杉は汚物を見るような視線を向ける。
「俺の所為じゃないぞ」
「まだ何も言っていないのだけれど」
「目が言ってる」
糸杉の目はいつものように悲哀が深く刻まれている。その目は一生治ることなんてないのだろう。俺の目が腐っているのと同じだ。しかし、空虚な世界を映すその目ではっきりと見たはずだ。道路に飛び出さないように前を塞ぐ楓の姿を。だからあの時足が止まった。
「楓に感謝しないとな」
「……ええ。気が付いたら彼女が目の前にいたわ」
糸杉は直視することを拒むように横目で俺の傍の楓を見る。
楓はこちらに優しく微笑んで立っていた。
「ありがとう。楓」
足が遅い、もっと運動しろ、女の子は大切に扱いなさい、そんな事を言ってくるのかと思っていたが、楓は微笑んだまま何も言ってこない。まるで向こうとこちらでは世界のチャンネルが違う様に思えた。
それが別れだと感づくのに時間はかからなかった。
「ごめんなさい」
思わず口を衝いて出た糸杉の言葉に楓は表情を曇らせて首を横に振る。
「言うべき言葉が違うらしいぞ」
「そうね……ありがとう」
糸杉の感謝の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべた楓は雨が作り出す靄の中へと消えて行った。
「ありがとう……」
結局、俺たちは一番憎んでほしい相手には初めから許されていた。そんな気持ちを無視して俺たちは、自分を自分で傷つけ僅かな不幸で背負っている気になっていた。
「どうしてお前らには見るんだろうな」
楓を見送ってすぐ、傘を差した仙都が公園の影から現れる。
「もう俺には楓がどんな風に笑ったのか思い出すことが出来なんだ。だからせめてあの時の顔だけでも思いだそうと……」
何かを言おうと一歩踏み出そうとした糸杉を制止させて仙都に近寄る。
「まだこんなこと続けるのか?」
「ああ、俺は楓が消えたら生きていけない」
「こんなことをしている間は無理だと思うぞ」
「偉そうなことを言うんだな」
「仙都は楓が轢かれる瞬間を見てないだろう。仙都が思い出すべき楓はそこにはいない」
あの時一つの傘を分け合う二人をこっそりと隠れて見ていた俺にしか楓が轢かれる瞬間を見ていない。車道で立ち尽くしていた仙都なら尚更見られるはずがない。
「……なるほどな。どうりで何も思い出せないわけだ」
酔いから醒めたように仙都は切迫した表情を緩ませる。その瞬間を狙ったように仙都のスマホが着信を知らせる。ふとポケットに自分のスマホがない事に気づき、辺りを見回す。
「うわ……」
俺のスマホはさっきの衝撃で無残な姿となって地面に転がっていた。画面は蜘蛛の巣が張ったように割れている。
「自業自得ね」
「それをお前が言うのは間違ってるぞ」
「またお前って言った。あなた鳥よりも脳みそ小さいの?」
「憎い相手の嫌がることをしてるだけだ」
俺たちの不毛な会話の間に仙都は要件を済ませる。
「はい……はい……ご愁傷さまです」
消え入るような声で通話を切ると仙都はスマホをポケットにしまい一度大きく息を吐く。毅然とした表情が強がりであることは明らかだった。
「たった今、楓が息を引き取った」
三年前と同じような土砂降りの雨はいつの間にかあがり、雲の合間から太陽が顔を覗かせていた。
それから数日後に楓の葬式が行われた。
楓の葬式には大勢の人が来た。彼らはまるで楓を利用して同窓会でもしている気分なのだろうと、心のどこかで思ってしまう。だから、すすり泣く数名の生徒を見ても白々しい思いしかしなかった。
そこに楓はいない気がして、焼香を済ませるとさっさと帰った。
視界の端に糸杉を見た気がしたが、それを確かめることはしなかった。
放課後、関山先生に呼び出された俺は戦々恐々としながら職員室へと入る。放課後直後ということもあって生徒の姿もちらほら見える。
「話って何ですか? 先生からの呼び出しでいい思い出ないんですけど」
もしかしてまた暑苦しい事に参加させられるのだろうか。今度は地域のボランティア活動だろうか。それとも、生徒会が募っている地域交流だろうか。
「音霧、答えを聞かせて貰おうか」
「答え? 何のですか?」
「慈善活動部に入るかは一カ月後に答えると言っただろ」
そんなことかと安堵する。
その場しのぎの為に言ったに過ぎなかったのですっかり忘れていた。
「続けますよ」
楓がいなくなったもうあの公園に行く意味はない。
それに約束もしてしまった。俺にはあの部室に行かなくてはならない理由がある。
「案外あっさりしているな。抵抗するものだと思っていたぞ」
「こんな時間の使い方も悪くないというか、そんな感じです」
「そうか。そうか。拒否するならそれなりの手段を考えていたのだが行使せずに済んで何よりだ」
満面の笑みで怖いことを言って来る。一体何をやらかすつもりでいたのだろうか。
聞いたところでこちらに利益はないので聞かないでおこう。
「何はともあれ、糸杉を頼むぞ」
「そこは頼まないでください」
「とか言いつつも音霧はやってくれる奴だと信じているよ」
先生の言葉には色々な意味が含まれているような気がした。もしかしたら俺たちがどういう答えを出したのか知っているのかもしれない。生徒を更生させるためには手段を択ばない熱血ぶりだし、違法な方法で情報を入手していたとしても不思議ではない。
「それから越水の件は申し訳なかった」
先生は恥も外聞も無く頭を下げる。他の生徒に見られると面倒なのでやめてほしい。
「先生が謝るようなことではないと思いますけど」
「いや、あるよ。私はまたしても生徒の闇を見抜くことが出来なかった」
そのことが余程堪えているのかよく見ると先生の目のしたにはくまが出来ていた。化粧を厚くして誤魔化そうとしても完璧には誤魔化せていない。
そんな暗い表情だと婚約者に逃げられますよ。とか軽口を言えるような空気ではない。励まそうとしても俺に言えることなんて見つからなかった。
「隠しているものを見抜こうとするのは無理ですよ。それに狂ってしまった人間はなにをしたってその狂いを治すことは出来ないですから」
仙都が狂ってしまっていることを知っていたとしても俺たちに出来たことはほとんどなかっただろう。仙都が狂ったのは事故が原因であり、その事がなくならない限りその狂いを戻すことは出来ない。もちろん過去は変えられないのだから、その狂いを、過去を、受け入れるしかない。
所詮他人が与えられる影響は限られている。きっかけは作れるけれど最終的には当人の意思次第だ。それを俺はこの一カ月で見せつけられた。
「いや、他人と関わることで人は変われる。それは音霧が証明してきたじゃないか。君は間違いなく変わったよ。君だけじゃない。糸杉もだ。それは君らが関わりを持ったからだ」
「あんなやつと関わりなんて持ちたくなかったですけどね」
「ひどい言い方をするな。糸杉の魅力に気づけないのなら私が一から教えてやろう。そこに座れ」
「急いでいるんで失礼します」
熱血指導が発動する前に職員室を出る。
部室に向かう途中、廊下の窓から雨が降り出しそうな寒空を眺める。
校舎に下がっていた『祝サッカー部県大会出場』の垂れ幕は撤去されていた。
仙都はあれからすぐに自首をした。我が校の英雄的存在が犯罪に手を染めていた衝撃的なニュースは瞬く間に世間に知れ渡り、関山先生はその対応に現在も追われている。
早く迎えに来てあげて欲しい。でないと萎れてしまいそうだ。
「関山先生は窮地を乗り越えると、寧ろ強くなるタイプよ」
いつの間に俺の後ろにいた糸杉は、いつものように悲哀を深く刻んだ目で俺を見つめる。
「俺の心を簡単に読むな。それと先生を戦闘民族みたいに言うな」
お互いに憎むと約束したが、関係は何も変わっていない。
「これで私は殺人犯の娘ね」
誰に言うわけでもなく空虚に向けて呟く。
「その方が憎みやすい」
「そう。どんどん憎んで良いのよ」
「怖いな。その言い方」
後で何十倍にもなって返って来そう。
その後はお互い無言のまま部室に向かう。以前は息苦しかった沈黙がいつの間にか何も感じなくなっている。
「糸杉せんぱーい! 助けてくださいー」
部室の扉を開けると半泣き状態の小紫が糸杉に抱き着こうとして避けられていた。避けられた小紫はバランスを崩して壁に激突する。
「どうして避けるんですか?」
「私は小紫さんとそこまで仲良くした覚えはないわよ」
「地味に酷い!」
泣きっ面に蜂とはまさにこの事。人を傷つけることに躊躇がない。
俺以外にそれをするのは珍しい。
「それで何が大変なんだ?」
「それが……」
小紫は俺たちが居なかった間の経緯を話し始める。途中で頭痛がしてくるほどに大変な状態だった。
「依頼の受け過ぎね。それにこの購買部で人気の商品を買うってただのパシリよ」
「そうなんですか? 慈善活動って難しいです……」
それもそうだが、『近日発売のスマホの列に並ぶ』『代わりに彼氏に別れ話をする』が気になってしょうがない。ここは代理業者じゃない。
「断るのか?」
「いいえ。受けてしまった以上、途中で投げ出すことは部の信用に響くわ」
無駄に責任感だけは強い。巻き込まれる方はたまったものではない。
「けれど私たちが手伝ってしまうと今後の小紫さんに悪影響がでるわね。全て自分でこなすべきよ」
「そんな~」
いきなり一人でスカイダイビングを命じられたような不安な表情をする。
「魚を与えても成長にはつながらないわ。魚の釣り方を学ぶべきよ」
それには一理ある。ここで小紫を手伝ったところで彼女の成長はない。
「安心してフォローはするから。まずは『美味しいお菓子の作り方』を済ませましょう。小紫さんなら出来るわよね? 家庭科室も今日なら空いているでしょうし。依頼人を連れて済ませて来て」
「今からですか!?」
「今やらなくて明日からやれる根拠を教えてくれるかしら」
「今からやります!」
弁明が面倒になったのか小紫は素直に従って荷物を纏める。
厳しくもあるが、後輩を指導する糸杉は今までになく生き生きしているように見えた。
「それにしてもお二人はいつの間にそこまで距離を縮めたんですか?」
「何の話だ?」
「だって二人一緒に部室に来るなんて初めてですよ。まるで恋人」
「関係ない話は良いから、早く行きなさい」
心底不愉快な表情を浮かべて糸杉は小紫に指示を出す。
「はーい」
小紫は空気よりも軽い返事をして依頼人のところへ向かって行った。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。あの子家庭科部だし」
そういう問題の大丈夫ではない。小紫が人に何かを教えるところが想像できない。もちろん糸杉もだが。
ようやく静けさを取り戻した部室に、窓に雨粒が当たる音が響く。
それを合図にさらさらとした雨が降り始めた。
「音霧くん傘は?」
「もってないな」
「持っていたら借りて帰ろうと思ったのに」
「借りたら俺が濡れるだろうが」
「音霧くんに傘は必要ないでしょ」
「そう思っているなら、傘を持っているか聞く必要がないだろ」
「確かに、その通りね」
一通り会話を楽しんだ後、糸杉はいつものデスクに座る。
こんなことに付き合わされても不思議と不愉快ではない。こうして二人で時間を潰す行為が日常になっている。
俺たちの関係はいつ壊れてしまうかわからない。それでも壊れてしまうその日まで俺は糸杉を世界に繋ぎ続けようと思っている。それは糸杉も同じなのだろう。時には雨が降ることもあるだろう。その時は傘をさして守ることはしない。
自分たちに降りかかる不幸に相手を引きずり込むこと。それがあの日俺たちが交わした約束なのだから。
それを確かめるために傘はささずにいようと思う。
「さて家庭科室に向かうわよ」
纏めていたノートを閉じて意気揚々と立ち上がる。
「俺も行くのか?」
「当り前じゃない。毒を食べてくれる人がいないと」
「毒を食すことは決まっているんだな」
つまりはこういうことだ。お互いの面倒ごとに付き合う。こんな風にして俺たちは普通に近づいていく。
「それから……」
ふと足を止めた糸杉は窓の外に向かって話しかける。
「これからもよろしくね」
「こちらこそよろしく」
糸杉が見た方向を見ながら答える。今日の雨は簡単に止みそうにない。今日も俺たちはずぶ濡れになって帰ることになるのだろう。
一人じゃないのならそれも良い。
(了)