最近、仙都の様子がおかしい。

 それの噂を聞いたのはクラスでいつも通り一人で時間を潰している時だった。

 いつも教室の前で騒いでいるグループが、何という事もなくそんな話題を口にしていた。もちろんそこに仙都の姿はない。

 内容としては、付き合いが悪い、ノリが良くない、などどうでも良い事だったが、部活に顔を出していないという部分だけは妙に気になった。

 仙都があの事故以降も頑なに続けたサッカーを簡単に辞めるわけがない。

 仙都の様子が変わったことには俺も気づいていた。人と話していても上の空で聞いていない時があるし、こうして昼休みは席を外すことが多くなっている。

 支倉の件が関係していることは明らかだった。

 その後も本人が居ない事を良い事に、クラスメイトの信憑性のない世間話は続く。それに嫌気がさした俺は飲み物を買いに行くふりをして席を立った。

 別に喉が渇いているわけではなかったし、その辺をぶらぶらして時間を潰そう。

 そう思い、一階まで降りると遠くの廊下に仙都を見かけて思わず隠れてしまう。

 そっと角から様子を伺うと、仙都は周りを警戒しながら校舎の奥へと進んでいく。やましい事がないのなら堂々としていればいいはず。

 様子のおかしい理由が見つかるかもしれない。

 好奇心に駆られた俺は一定の距離を保ちながら仙都を尾行する。

 仙都は誰も近寄ることのない校舎裏で女子と待ち合わせをしていた。

 清楚で大人しめな彼女は仙都の姿を見つけると、そっと微笑んで頭を下げる。

 仙都はもちろん女子からの人気は高い。それ故に告白をされる回数も両手では数えきれない程とか。しかし、仙都が女子と付き合った話は一度も聞いたことがなかった。

 その事は周知の事実であり『越水仙都は女に興味がないのでは』という噂があったりもするほど。

 そんな噂が出鱈目であることは俺が一番よく知っている。あいつは今でも楓の事が。

「告白ね。つまらない。興ざめだわ」
「は!? 糸杉!」

 心臓が口から飛び出しそうになり思わず口を塞ぐ。

「あまり大きな声を出さないで、ばれたらどうするのよ」

 平然と俺の背後にいた糸杉は険しい視線をこちらに向けて文句を言う。

「いきなり背後にいる糸杉が悪いんだろうが」
「私の存在が薄いって言いたいの?」

 むっとした表情にはわかりやすいくらいに憤りが浮かんでいる。怒らせてもこちらにメリットはないので適当に謝って済ますことにする。

「そうじゃないよ。悪かった」
「何に対する謝罪なのかしら」
「あーもう、面倒くさいな。今はそれどころじゃ……」

 先ほどまであった二人の姿はどこにも見当たらなかった。俺たちに気づいて場所を変えてしまったのだろうか。

「見失ったわね」

 嫌味の一つくらい言われるのかと思ったけれど、糸杉は何も言わず淡々とした足取りで教室へ戻っていった。

 支倉の件以降、糸杉の様子もおかしかった。

 以前は簡単に引き受けていた依頼も現在はほとんど受け付けていない。

 その為俺たちの関係は以前よりも淡白なものになっている。部室に行っても会話らしい会話をした覚えがない。

 間違いなくあの事件は俺たちを変えてしまった。

 仙都もそうなのだろうか。

 仙都がサッカーよりも優先させる何かがあることに違和感を覚えたが、俺も仙都の全てを知っているわけじゃない。


 放課後、眠そうに大きな欠伸をする仙都に声を掛ける。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「それって急ぎか?」

 口には出さないけれど微笑みながら拒否を示してくる。

 支倉の事故から俺たちの関係もどこかぎくしゃくしていた。

「今日じゃないと駄目だな」
「わかった。場所を変えよう」

 俺の返答が予想外だったのだろう。一瞬微笑みがひきつるのがわかった。

 俺たちは教室から出てトイレに入る。これなら糸杉も付いてこられない。あいつの悔しがる顔を想像すると気分が晴々する。

「で、話ってなんだ?」
「サッカー辞めるのか?」
「誰からそんなこと」

 仙都は鼻で笑いながら鏡に映った自分の顔を見つめる。

「クラスの連中はその話で盛り上がっているよ」

 ここで仙都が辞めると言ったところで俺は止める気はない。そんな権利はないだろうし、仙都は衝動的にそういう事をする奴じゃないと思っている。

 仙都なりの考えがあっての行動なのだろう。

「辞める気はない。今はそれよりも優先したことがあるだけだ」
「優先したいことってなんだ?」
「あ……まあ、色々だ。色々」

 仙都は適当に笑って誤魔化す。

 本当は先日の件が尾を引いているんじゃないのか。糸杉のように他人の気持ちを考えずに聞けたら良いのにと思ってしまう。

「やっぱり聡は変わったな」
「え?」

こちらの心情を見透かすように仙都は冷たい視線を向けていた。

「今までだったら絶対に他人に気を遣うことなんてしなかっただろ」

 言われてみればそうかもしれない。少しずつではあるけれども俺は他人に興味を示すようになっている。

「あいつが原因なのか?」

 あいつ、それが糸杉をさしていることはすぐにわかった。仙都が他人の事をそんな風に呼ぶのは糸杉の他にはいない。

「一因ではあるかも」
「そうか……じゃ、俺は先に」
「あともう一つ。支倉の事故があったあの時、仙都はどこにいたんだ?」
「もちろん探してたよ。それじゃ」

 溌溂とした笑顔を浮かべて去って行く背中をぼんやりと見つめる。やはりいつもと変わらず、沈んだ様子なんて欠片ほどもない。

「どうしてもっと突っ込んで聞かなかったの?」

 入口で聞き耳を立てていた糸杉が堂々と中へ入ってくる。

「どうして堂々と入って来るんだ」

 というより会話を聞かれていたことにこいつの執念深さが伺える。

「音霧くんはなにをしたかったの? てっきり昼間の女子の事を問いただすのかと期待していたのだけれど」
「確かめたかったんだよ」
「何を?」
「仙都が変わったのかどうか」

 それで俺は何をしたかったのだろう。力になろうとでもしたのだろうか。そんな権利は俺にないはずなのに。

「そう。それで」
「そもそも俺は今までの仙都を知らなかった」

 それは俺がちゃんと向き合ってこなかったことの代償だ。

「期待外れね」
「だけど仙都が嘘をついたことはわかった」
「どんな?」

 仙都は事故の瞬間あの場所にいた。それは間違いない。嘘をつくことの意味が俺にはわからない。

 そのことを説明すると糸杉は腕を組んで表情を変える。

「音霧くんもなかなかやるわね。期待外れなんて言ってごめんなさい」

 それだけ言うと糸杉は男子トイレから出て行く。

 どうするつもりなんだ? その簡単な問いを聞くことが出来なかった。
 
 だってあいつのあの表情は間違いなく笑っていたから。

 すべてを悟ったような気味の悪い笑みが頭から離れなかった。



 部室に向かうと部室の前で小紫が困った様子で立っているのが見えた。

「あ、音霧先輩」
「こんなところで何をしているんだ?」
「いえ、鍵が開いていなくて入れないんです」
「鍵?」

 ドアに手を伸ばして引くけれど確かに鍵がかかっている。

 いままで考えもしなかった。ここに来ればいつも鍵は開いて、そこには糸杉がいた。

 あいつはあの後部室に向かったわけではなかったのか。

「借りてくるから少し待ってて」

 鍵を借りて中に入ると、何も変わってないはずなのに何かが足りないようなもの悲しさが漂っていた。

「糸杉先輩どうしたんでしょうね」
「さあな。そのうち来るだろ」

 それから下校時刻になるまで糸杉がここに来ることはなかった。


 自宅へ帰ると、自室にこもり換気の為に窓を開ける。金木犀の匂いが風に乗って入り込んでくる。思いの他風が冷たく、すぐに窓を閉めた。

 秋特有の乾いた虚しさが部屋に残る。

 冷たく湿った風は暑さのピークをとっくに過ぎて、冬の訪れを示唆している。

 最近の季節の変わり方は極端でこちらの感覚が追い付かずに戸惑うことがある。俺の環境も同じだ。

 いままでは一人で過ごして、一人で終わっていた。教室には特に居場所はなくて勉強をしに来ているだけ。仙都が話しかけてきたりもしたがそれは仲が良いというよりも昔からの付き合いといった感じだった。

 それで良いと思っていた。友人を作る必要もその資格もないと思っていた。
 
 しかし、今はどうだろうか。教室では相変わらず一人だが、慈善活動部という居場所が出来ていた。友人と呼んでいいのか、そのままの自分で話せる相手が居る。手がかかるが後輩も出来た。

 世間一般で言う普通の高校生活を俺は送っている。

 こうした劇的な変化に俺は戸惑っていた。

 これで良いのだろうか。そうした迷いは今も消えることはない。

 考えを切り替えるために、制服から部屋着に着替えてベッドに横になる。

 今は自分の事よりも考えることがある。

 多発している交通事故。偶然と言い切ってしまう事も可能である。偶然、偶々、それは現状を説明する際には都合の良い言葉であるが、事実を覆い隠すこともしてしまう。

 他がどうなのかわからないが、支倉は間違いなく誰かから連絡を受けていた。

 糸杉の考えは間違っていなかった。

 誰が何のためにしているのか。

 糸杉は一足先に答えにたどり着いているのではないか。

 俺を慈善活動部に引きずり込んだ理由も、率先して慈善活動をしていた理由も、自分を犠牲にして無茶をする理由も、全てがこの事につながっているとしたら。

 俺に自分を刻み込むなんて言うのは方便に過ぎなかったという事だろうか。はたまた、それらが刻み込むことに関係しているのだろうか。

「あら? 帰ってたの?」

 ベッドに横になり天井を眺めながら考えていると、ノックもせずに母が部屋に入って来る。

「部屋に入る時はノックくらいしてくれ」
「だって、いつもこの時間は居ないから」

 そう言われて時計を見る。確かにこんな時間に家にいるのは久しぶりだった。

 高校に入ってからは時間さえあればあの公園に出向いていた。これも環境の変化の影響なのだろうか。

「友達でも出来た?」
「何で?」
「誰かの事を考えてる顔してたから」

 どんな顔だよ。と思いながらもそれを否定することは出来なかった。

 俺の中で楓の影よりも糸杉の影の方が濃くなりつつある。

 いよいよ決断する時なのかもしれない。

 初めから目の前にあり、はっきりと見えていた現実。それを受け入れる時期はとっくに過ぎている。

 完全に狂ってしまう前にそれに気づいたのは幸運なのだろうか。