微かな物音に目を開けると先ほどまで見ていた夢は霧散してどんな夢であったのかさえ思い出せない。
 
 しばらく、ぼんやりと天井を眺める。

 寝る前は付いていた照明は消されており、日も落ちたせいで、部室の明かりは廊下から漏れる頼りない薄明りだけであった。

 雨は止んでおらず、雨だれの音が部室に響く。

 時間を確認すると、下校時刻も間近に迫っていた。今日は濡れて帰ることになりそうだ。途中で発作が起こらなければ良いのだが。

「おはよ。音霧くん」

 いきなり声を掛けられ、心臓が飛び出そうなほど驚く。

 糸杉は向かいのソファーに座り、俺をじっと見据えていた。

 微かに感じた物音は糸杉が立てた音だったらしい。

 驚いたことを悟られないようにゆっくりと息を吐くと、薄明りに儚く照らされた糸杉を睨む。

「用事があるんじゃなかったのか?」
「あったわよ。小紫さんについて色々と調べて来たの」
「そうか」

 まるで探偵みたいなことをするのだな。

「ところでどうしてこんなこと引き受けたんだ?」

 何を言っているのかわからないといった様子で俺に質問の意図を視線で問う。

「本当の目的が何か知らないけど、今回はかなり面倒だろ。危険を伴う可能性だってある上に時間もかかる。まさか本気で人助けをしたいってわけじゃないだろ」
 
 無償で人助けそんなことをする奴ではないことくらいは分かっている。

「可愛い後輩が困っていたから手を差し伸べただけよ。それに彼女は生徒会の書記だから恩を売っておいて損はないでしょ」
 
 それは調べてわかったことで、引き受けた段階では知らないはずの情報なはず。
 
 予想通り本当の事を言う気はないらしい。

 こいつは後をつけられるのが雨の日に限定されていることを知って態度を変一変させた。そのことについて指摘しても良かったが正直に話すことはないだろう。

「それで、何かわかったのか?」
「働かないで寝ているだけの人にどうして話す必要があるのかしら」

 どうやらこちらの方も話す気がないらしい。

「そうだな。じゃあ後はよろしく」

 こちらの方には特に興味もないので食い下がることもなく部室を出る。
 
 ふと糸杉はいつからああして俺の向かい側に座っていたのだろうと考える。
 
 いつもなら窓際の事務用デスクでノートを纏めているはずだ。

 薄暗い部室では本を読むこともはできないし、糸杉がスマホをいじっているところを見たことがない。もしかしたら持っていない可能性もある。
  
 だったらあいつは日が落ちかけて薄暗くなったあの部屋で俺の寝顔をずっと見ていたことになる。
 
 恐ろしくなって振り返ることなく廊下を歩く。

「今日みたいな日がいい。きっと楽に……それからこれを」
「はい……ありがとうございます」

 ふいに明りの付いていない教室から生徒の話し声が聞こえる。

「こんなことでしか君を……」
「いいんです。もう……」

 盗み聞きするつもりはなかったけれど、聞き覚えのある声に足が止まってしまう。

「君がどんな選択をしてもオレは責めることはしないよ」
「はい……」

 教室からパーカーのフードを目深に被った女子が出てくる。彼女は俺に気づく素振りも見せずに反対の方向へ歩いていった。
 
 その足取りは全てに絶望したように重く、この世から消えてしまいそうな印象を与えた。

「聡?」

 教室からもう一人。遅れてできた仙都は俺を見るなり幽霊を見たように驚く。しかし、その表情を隠すようにすぐに普段の柔らかい表情に戻した。

「いつからそこに」
「ついさっきだよ」
「このことは内緒にしてくれ。変な噂とかたったら相手に迷惑だから」

 妙な威圧に俺は無言でうなずく。

 そういった話に興味がない所為でもあるが、仙都が特定の女子と仲良くなっているという話は聞いたことがない。本人もそうならないように注意しているのかもしれない。

「でもまさか聡に目撃されるとはな」
「邪魔して悪いな」
「冗談だよ。ちょっと相談に乗ってあげただけ。それより、どうして聡がまだ学校に居るんだ? とっくに帰ったはずだろう」
「ああ、それなんだけど――」

 俺は事の経緯を掻い摘んで伝える。

 仙都は俺が慈善活動部なるものに所属していることは知っている。

 俺が話したわけではないが何故か知っていた。もしかすると糸杉が何かしたのかもしれない。

「なるほど、また糸杉か……」

 仙都が他人の事を呼び捨てにするのは珍しい。

「今日もまた変な依頼引き受けてたから、明日から面倒なことになりそうだよ」
「弱みでも握られてるのか?」

 鋭い指摘に仙都の表情を伺うけれど、本人は冗談のつもりか柔和な笑みを浮かべている。

「そういうわけじゃないよ。ただむこうが執拗に絡んでくるだけ」
「そうなのか。糸杉なら他人の弱みで脅すくらいはやりそうな気がしたんだけどな」

 仙都の表情は普段どおりなはずなのに、出てくる言葉はあまり糸杉をよく思っていないように聞こえる。

 最近の糸杉は教室に馴染んできたこともあり、変に目立つこともなくクラスでは極めて普通の存在である。きっと糸杉がクラスに居なくなったとしても平然とクラスは回るだろう。クラスメイトの前でのあいつは変に目立ったりする奴ではない。

 そういったことから仙都が糸杉を悪く言う理由が思い浮かばなかった。
もしかしたら俺と同じように個人的に何かされているのかもしれない。

「糸杉と何かあったのか?」
「何もないんだけど、糸杉ってなんとなくやばい感じがするからさ」
「やばい感じか」

 曖昧な答えをしてしまう。

「聡も色々大変だと思うけど、あまり関わりすぎるなよ」
「言われなくてもそのつもり」

 仙都は本能的に糸杉の本性を見抜いているのかもしれない。それは俺も同じだった。同じように警戒して、近寄らないようにして、それなのに今はこうして糸杉に振り回されている。

 この差は一体なんのか。

「男子が女子の陰口なんて女々しいことしているのね」

 足音も立てずに俺の背後に立っていた糸杉はいつものように俺に毒を浴びせる。

「別に性別は関係ないだろ。人間性の問題だ」

 俺と仙都に差があるとすれば、それは人間的に狂っているか、いないかの違いだ。

 あんなことがあっても仙都は真っ当なままだ。

 対して俺は歯車がどこか掛けてしまっている。それを自覚したうえで日々を過ごし、それを積極的に治す気はない。それは糸杉も同じだ。

 類は友を呼ぶように俺は糸杉を呼び寄せてしまった。

 そう考えると、今の状況は必然だったと言えるかもしれない。

「どうして彼と友達なの? はっきり言って音霧くんとは人間のタイプが違うと思うのだけれど」

 糸杉は仙都が歩いて行った方向を見ながらはっきりと問いかける。

「友達というより腐れ縁みたいなものかな」
「腐れ縁?」
「俺と仙都は幼馴染だからな」

 仙都との関係を聞いて、糸杉は見落としを指摘された時のようなハッとした表情を見せる。そんな反応を見るのは初めてだった。

「どうかしたか?」
「別に……音霧くんと幼馴染の彼に同情しただけよ」

 反射的に舌打ちをして昇降口へと向かう。

 糸杉も黙って一歩後ろをついて来ていた。

 俺に毒舌を浴びせることであいつは何かを誤魔化した。それを見抜けない程、俺は間抜けではない。

 こちらの領域に容赦なく入り込んでくるくせに、こちらが入り込もうとすると毒を吐いて拒絶する。

 そういった態度を取られても、とりわけ悲しいとか寂しいとかそういった感情は湧いて来ない。

 一方でふっと湧いた苛立ちに俺は困惑していた。

 あまり他人に興味を示さない俺が糸杉にははっきりと苛立ちを覚えている。

 こうやって俺は失った感情を一つ一つ糸杉によって植え付けられるのではないだろうか。これでは糸杉の思うつぼのように思えてならない。

 そうしていつの間に俺の中に糸杉が刻み込まれ目的は達成される。

 しかし、たった今覚えた感情になんの意味がるというのか。マイナスの感情は何の役にも立たないどころか他人を傷つけさえする。

 昇降口に辿り着いて思いがけず足を止める。

 雨が降っていることを失念していた。雨は現在も止む気配を見せずしとしとと降り続けている。

 足を止めた俺に対して糸杉は靴に履き替えると、躊躇なく校舎から出た。

 数歩歩いたところで足を止め暗くなった空を見上げる。

 髪を転がっていく雨粒が街灯に反射して宝石のように輝いて見える。

「最悪な気分。音霧くんもそうでしょ」

 道連れにするようにこちらに微笑む。

「そうだな」

 こちらもすぐに靴に履き替えて隣に立つ。頬にあたる雨粒は土の匂いを含んで肌にまとわりつく。

 この上なく不快だった。

 いつまでもそうしているわけにもいかず、駅に向かって歩き始めると糸杉は俺の一歩後ろをついて来る。

「私が傘を持ってなくて残念に思ってる?」
「いや、寧ろ幸運に思ってる」

 あの日の光景が目に浮かぶ。一つの傘を分け合う男女の背中は誰が見てもお似合いで違和感など存在しない。

 思わず足が竦み雨に濡れるのもお構いなしに立ち止まる。

「持っていたとしても入れることはしないけれど」

 不意に後ろから聞こえて来る声は雨音をすり抜けるようにこちらの耳に届き意識が現実に戻される。

「俺も勘違いされても困るから入らないけどな」

 まるで悪魔に後ろから囁かれているようで、ストーカーより恐ろしいものを感じる。

「それより、さっきは冗談のつもりだったのだけれど」
「どれの事だよ」
「部室での事よ」

 それくらいわかれと言う様に責める口調で言われるが、そんなことわかるわけがない。

「嫌みにしか聞こえなかったな」
「それは受け取る側の問題でしょ」

 悪いのは自分ではないと言い張る姿は清々しくもはや尊敬の域に達している。

「それで何かわかったのか?」

「何があったというわけではないけれど、小紫さんの成績は良くもなく、悪くもなく、可愛らしい見た目はしているけれど、男友達は極端に少ない。実際、彼女自身も男に苦手意識があるらしく、クラスの男子と話す時でさえも視線を合わせることが出来ないでいるそうよ。でも、それを初心と捉える男も少なくないようで陰ながら人気は高い。なら女子からの人気はどうなのかと言われれば、こちらも可もなく不可もなく。しっかりと自分を持っている一方でちゃんと空気も読めるからトラブルはゼロと言っても良い」

「普通だな」
「普通過ぎるのよ。おそらく彼女は普通を演じている」

 だから今回のような問題が起こる理由がない。話を聞く限り、小紫側に原因があるというのは考えにくい。

「だったらストーカーの件は消すべきじゃないか?」
「短絡的ね。どんなに存在を薄くしたって人の悪意は見逃してくれない」

 小紫がなぜ普通を演じているのか、そのことについて糸杉は知っている様子であったが話す気はないらしい。

「それでどうする気だ?」
「誘い出すしかないでしょうね。どんな手を使っても」

 こんな話をわざわざ俺にするということは……

 嫌な予感しかしない。