「婚約者の事なんだが……」
え? いまなんて言った?
驚愕して言葉が出ないこちらをよそに話を続ける。
「一緒にいても上の空というか……もしかすると他に」
「ちょっと待ってください。気持ちの整理を」
「音霧くん黙ってて」
叱責された上に、蔑むような視線を向けられる。
「お二人の出会いを教えていただけますか?」
「出会いはとあるバーで、私と彼はそこの常連で――」
馴れ初めを語る関山先生は嬉々として恋バナをする乙女のようである。十数年前に戻ったような彼女の話は無駄に長く、相手どうでもいい情報を永遠と聞かされる。
「それでその彼なのだが、最近は私に会うことも少なくなったんだ。もしも私に対する気持ちが冷めてしまったのなら……それだけではなく他に相手が……」
「つまり彼の気持ちを確かめたいということですね」
糸杉が簡潔にまとめる。
そんなもの探偵でも雇えよ。というより聞いた話だけでも浮気の可能性はたかい。関山先生の思いの重さに辟易したとかそんなところか。先生は気持ちが熱すぎる部分があるからな。
電話をしても忙しいからと切られ、遊びに誘ってもあまり楽しそうではない。奢ってくれる回数が明らかに減った。
状況証拠は揃っている。
ちなみに真剣に話しているが先生とお相手の彼とのお付き合いはたったの二カ月である。
まさかとは思うが妄想の類ではないよな。だとしたら案内する場所が探偵事務所からメンタルクリニックに変更になる。
「音霧、少しは考えていることを表情から隠せ。彼はしっかり存在しているぞ。幻覚ではない」
「すみませんでした」
先生は人を殺したことがありそうな鋭い視線を向ける。
読心術が可能であることを忘れていた。この人の前では心を無にする必要がある。
糸杉が邪魔をするなと言わんばかりにこちらを睨んでくる。この場に俺の味方はいない。
「この悩みを解決することで先生の生活は改善されますか?」
「そうだな……悩みがなくなれば全力で教育に力を注げるだろうな」
どうして俺の方を向いて答えるのだろう。悪寒がする。
それよりも糸杉の意図が図れない。
「待て。先生の婚約者がいたことは百歩譲って疑問に思わない事にするとして」
「百歩? 精々五十歩くらいにしてくれ。さすがに傷つく」
五十歩百歩って故事知ってますか? とは言えない。言ったら殺される。
「とにかく先生の相談と慈善活動と何の関係があるんですか?」
「音霧、君は慈善活動というものを勘違いしている」
関山先生は立ち上がると黒板に『慈善活動』と書いていく。これから授業でも始めるような雰囲気だ。ちなみに先生の専攻は数学であり、国語とは無縁だ。
「慈善活動とは人類への愛にもとづいて、人々の生活『well being』を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指している」
慈善活動の文字から枝分かれするように様々な活動が書き足されていく。どれも反吐が出そうなものばかりだ。
「自己の損失を顧みずに他者の利益を図る行動、それ自体が慈善活動ということになる」
「つまり他人の為に自己を犠牲にしろと言うことですか?」
「言い方に難ありだが、まあそんなところだ」
友人や家族ならともかく、何が楽しくて自分を犠牲にして赤の他人を助けなくてはならない。
道徳の授業を受けるつもりはない。
「おい。糸杉はこんな茶番に賛成なのか?」
味方を求めて糸杉に話を振る。この世は民主主義。つまり多数決である。糸杉が反対に回ればこの場はこちらが正しいことになる。そしてこいつは人の為に動くような人間ではない。
「もちろん。先生のお考えは素晴らしいです。感服しました」
開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。感服しましたとか日常会話で使用している場面に初めて遭遇した。
こいつがこんなことの為に労力を費やすとは到底思えない。絶対に裏があるはず。
「そうか、そうか。糸杉は理解が早くて助かる」
そんなことは読心術の使い手である先生にだって承知のはず。それなのに何も言わないということは先生にも考えがあってのことなのだろうか。
「では話を続けよう。慈善活動部は先ほどの理念に基づいて設立された部であり、相談もしくは願いを完遂することが活動内容にないっている」
つまり俺はこの活動を通じて他人に尽くせと言う事なのだろう。
先生がどうして俺を選んだのかなんとなく理解できた。
「つまりここは矯正施設と言う事なんですね」
「音霧ならそう言うと思ったよ。まあ、今はそういう事にしておくか」
関山先生は徒労に終わった熱弁に溜息を吐いてソファーへと座る。
慈善活動部、その正体は利他的行為を目的とした生徒指導活動の一環であった。
無理にでも逃げ出すことは出来た。それをしないのは関山先生の諦めの悪さと、糸杉に弱みのような物を握られているからだ。
「それでここまでの話を聞いて君たちはどう思う」
「その前に一つ申し上げたいのですが」
糸杉は人差し指を立てて先生をじっと見つめる。
「結婚とは今後の人生をその人と共に歩んでいくということ。それをたった二カ月で決断してしまうのはどうかと思います。いままで出会いがなかったので、この機会を逃したくない気持ちもわからなくないです。しかし、焦っている事が露呈してしまっては相手も引いてしまいます。今の先生は結婚というニンジンを目の前に出された馬と同様です。そうして一直線に突っ走っていつの間にかそのニンジンがなくなっている。そんな事態に陥った場合、次にまた走りだすことは容易ではありませんよ。もし仮にうまく結婚までたどり着けたとしてやっぱり違う。などとなったらもっと悲惨です。今度は×が付いてしまいます。×の付いた女をいったい誰が拾って」
「糸杉、そこまでにしておけ」
関山先生は一点を見つめて動かなくなっている。糸杉の正論という名の凶器に脳の処理が追い付いていない。
「大丈夫よ。先生はそこまで弱い人間ではないわ。実際に彼の浮気を疑っているからこそ、こうして相談しているのだもの。結婚という餌に群がるハエであったなら既に入籍しているはずよ」
それは過大評価だと思う。むしろこの人なら婚姻届けをもう用意しているまである。
「はやり……浮気なのか」
「状況証拠だけですので確実ではありませんが、彼の気持ちは既に離れているとみていいと思います」
俺と話す時とは違った意味で容赦がない。そんなにはっきり言う必要があったのだろうか。
「ははは……糸杉の言う通りだな……私は結婚を焦るあまり目を曇らせて……私は馬鹿だな。馬だけに……」
そういってポケットから取り出した婚姻届けを破っていく。
致命傷だった。先生も先生という肩書を脱いでしまえば恋する乙女なのだ。恋愛に年齢は関係ない。
「次がありますよ。きっと」
「音霧くん。どうして終わったつもりでいるのかしら?」
「まさか浮気じゃないと思ってるのか?」
「浮気の可能性は高い。けれど確定はしてないわ。物事を確定させなくては先生も前には進めません。ここは探偵を雇って調べるべきと思います」
最終的な結論は俺と一緒であった。無駄に傷をつけた分だけ糸杉の方がたちが悪い。
すっと立ち上がった糸杉は女神のような微笑みを携えて、項垂れる関山先生に救いの言葉を告げる。
「先生のwell beingが改善することを祈っています」
「ああ。相談に来て良かったよ。さっそく知り合いの探偵に依頼し来る」
先生の曇った眼に生気が戻り、意気揚々と教室を後にする。
想像とは異なっていたが、面倒な事態にならなかったことに安堵する。
「浮気調査をするとか言い出すのかと思ったよ」
「まさか」
思わずこぼれた俺の本音にすかさず反応を示しつつ、黒板に書かれた文字を跡形もなく消していく。
「そんなことをしている暇なんてないもの」
まるで先ほどまでの時間は無駄だったといわんばかりに黒板消しを置いた糸杉は窓際に置かれたデスクに向かう。
「じゃあ何の為に」
「音霧くん」
言葉を遮って振り向いた糸杉は俺にいつもの視線をぶつけてくる。
「雨。止んだわよ」
それだけ言うと再びデスクに向かう糸杉に、わざと聞こえるように舌打ちをしてから部室を後にした。
あいつは俺が何を聞いても素直に話すようなことはしない。それなのに常に俺の邪魔をしてくる。
『あなたに私を刻みたいの』
昼に言われた意味の分からない言葉に振り回されている自分を自覚して、廊下の窓に薄っすらと映った自分の顔を睨みつけた。
今日も本来降りるべきバス停を通り過ぎて俺はあの公園へ向かう。
遊具がほとんどなくなり寂しさだけが残った公園で楓は待っていた。
俺の姿を見つけて大きく手を振る楓はあの頃と何も変わっていない。
ここに来るまでに今日は何を話そうか考えて、糸杉の姿がちらつき不快な気分になる。その繰り返しをして何も決まらないままここまで来てしまった。
「お待たせ」
「全然、待っていないよ」
いつものあいさつを済ませると隣に腰を掛ける。
話を切り出すタイミングがつかめず無言の時間がしばらく流れた。
「何かあったでしょ」
俺の様子から察した楓はこちらを覗き込むようにして聞いてくる。
「まあ、ちょっと」
「聞かせて。聡くんがどんな学校生活を送ってるのか興味あるな」
俺の抵抗を全く無視して詰めてくる楓には糸杉の時のような不快な気持ちは感じない。それはきっと信頼関係というやつなのだろう。
「慈善活動部のことでなんだけど」
俺は先ほどあったことをそのまま話す。
「謎な部活だね」
楓は顎に指をあてて思案する。
「でも、聡くんにはぴったりの部活かも」
「そんなわけないだろ」
「そんなわけあるよ。それに……」
風に揺れる楓の葉に視線を逸らして独り言のように呟く。
「聡くんの優しさを独り占めするのはよくないから」
久しぶりに楓の浮かない表情をみて、話さなければよかったと後悔する。
こんな表情をさせるために俺はここにきているわけではない。
あの時のように笑ってほしいだけなのに、俺はあの日から楓の本当の笑顔を見られていない。
「それで一緒に活動している子ってどんなの子なの?」
暗かった表情をぱっと明るくした楓は身体をぴったりとくっつけて詰め寄ってくる。
「普通だよ。普通の女、の子」
「普通ってどんな感じに?」
「普通は普通だよ」
どんなに俺が話を終わらせようとしても、興味津々の楓はその話題を終わらせようとしなかった。
結局、この時間にまであいつが侵食してきている。
そのうちどこからともなくあいつが現れて楓も連れ去ってしまうのではないか。そんな恐怖を覚えながら何も対策をとれない自分が情けなく思えた。
後日、関山先生から婚約者は浮気ではなく事業の失敗で憔悴しているだけであったと聞かされた。
俺たちの見立ては大外れだったということだ。
相手に自分が立ち直るまで結婚は待ってほしいと言われてしまったようだが、等の本人は落ち込むどころか何も嵌められていない薬指を眺めてうっとりとしていた。おそらくいつまでも待つ気なのだろう。
先生の幸せ自慢を聞いている間の糸杉は全く興味なさそうに虚空を見上げていた。
やはり単純な人助けがこいつの目的ではないようだ。
関山先生が慈善活動部について何かしらを流布したのだろう。
あの日以降、部に依頼が来るようになった。しかし舞い込む依頼といえば倉庫の整理、用具の片づけ、荷物の搬入、落ち葉掃き、慈善活動どころか雑務ばかり。
これでは良いように使われているだけだ。
糸杉に異議を唱えるも『今後の為の種まきよ。地道な活動が大きな成果を生むの』なんてあの熱血教師が聞いたら泣いて喜びそうなことを言っていた。
もちろん糸杉の本心は違うところにある。あいつが人の為世の為に働くなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。
「音霧、何処へ行く」
ホームルームを終えた直後で賑わう教室で関山先生の呼び止める声が聞こえた気がしたが無視して廊下へ出る。
最近は雑務の所為で楓に会えていない。こんな日が続いてしまうと俺はいつか楓の事を忘れてしまうのではないか。そんな脅迫めいた感情が渦巻いている。
「何処に行くのかしら。音霧くん」
透き通った心地よい声が俺の足を縛り付けるように引き留める。目の前には糸杉が微笑みを湛えて立っていた。
放課後あなたが何をしているのか私は知っているのだと悲哀の色を深く刻んだ目がそう語っている。
楓との関係を吹聴されると楓に迷惑が掛かる。
それは俺にとって一番避けたい未来だ。
「部室に行こうかなって」
「そうなの。では一緒に行きましょう」
颯爽と部室に向かっていくその背中を思いきり蹴り飛ばしてやりたい。しかし、そんなことが出来るはずもなく、俺は犬のようにその後についていくしかなかった。
「その笑い方気持ち悪いから辞めたらどうだ」
「そう。上手く出来ていると思うのだけれど」
今は確認できないけれど、おそらく糸杉は今も気味の悪い微笑みを湛えているのだろう。
糸杉の笑みは他人が見れば慈愛に満ちた聖女のように映るのかもしれないが、俺には人形が浮かべた笑顔のように見える。
そんな風に自分を偽ってまで人に良く思わる意味がどこにあるのだろうか。
「嘘はいつかばれるぞ」
「そんなこと言われなくてもわかっているわ」
渡り廊下を渡り終えると声のトーンが一段下げられる。
周りから人気がなくなったからだろう。本当に徹底している。
「もしかして私を脅してどうにかしようとか思っているの?」
「するわけないだろ。メリットがない」
俺の即答に先を歩いていた糸杉は足を止めて振り返る。ぶつかる直前で止まった俺に刃物を突き立てるような視線を向けている。
「私で性的欲求や加虐心を満たそうという気はないみたいね」
「自意識過剰すぎるな」
そもそもお前を異性として見たことなんて微塵もないと言ってやりたかったが、そんなことを言えば倍返しどころではない。
放った矢がミサイルなって飛んでくる。
「どうして俺を連れて来たんだ」
「雨が降るからよ」
まるで糸杉の言葉を合図に雨が降り始める。
ぽつぽつと地面に斑点模様を作り出した雨は間もなく土砂降りになった。
傘を持ち歩かない俺はこの雨の中を帰る術を持っていない。濡れて帰っても構わないが、そこまでしてける理由も意味もない。
最近は何かと雨が多い。まるで目の前の女が降らせているのではないかと錯覚する。
「そんな目で見ないでくれる。私だって雨は嫌いなの」
お互いに責任を押し付けるように睨み合う。
「私が引き留めていなかったらびしょ濡れで無様に倒れていたかもしれないわね」
それはそれで面白そうだけど、と僅かに上がった口角が語っている。
「はいはい、ありがとうございました。それでこの雨、いつ止むんだ?」
「知らないわ。そんなこと。もうどうでも良い事でしょ」
雨が降ってしまっては例えこの後止んだとしても公園に行くことはない。そんなことは当然糸杉もわかっている。
最近は思い通りにならない事が増えた気がする。
何も抵抗できぬまま牢獄のような部室へと到着する。
温かみのない半分倉庫のその部屋は俺たちにはお似合いな気がしないでもない。
「そういえばあの公園。幽霊が出るそうよ」
世間話でも始めるように語りだす。
あの公園とは楓と会っているあの公園を指すのだろう。
「近所の子供が言っていたわ。誰も近寄らないって」
「……どおりで誰も居ないわけだ」
糸杉は俺の反応を逃さないようにじっと見据えていたが、暫くすると飽きたのか視線を外して荷物を降ろす。
「私は音霧くんを居ないものとして扱うから。ここに居てもいいわよ」
「ここにいることに糸杉の許可が必要だなんて初めて知ったな」
「…………」
無視された。
仕方なしに俺はソファーに腰かけて本を取り出す。糸杉は向かいにある事務用の机に向かって何かを書いていた。その背中を憎々しく睨んだが、すぐに取り出した本に視線を降ろす。
読書を始めるとすぐに眠気が襲ってきてうとうとしてしまう。
それでも眠気に抗い数ページを読み上げたころで、
「来たわね」
糸杉が訳のわからないことを呟いた。
「何が?」
その問いの答えは直ぐにわかることになる。
訪問者を知らせる弱々しいノックが部室に響く。
「どうぞ」
糸杉は机に広げていたノート類を丁寧な手つきで鞄にしまうと、扉に向かって声を掛けた。
「し、失礼しまうっ!」
余程、緊張しているのか、上ずった声の主は語尾を噛んでしまう。
そっと扉を開けて顔だけを覗かせたのは高校生にしては幼さを残した女子だった。
ウェーブの掛かった長い髪が彼女をより幼く見せている。人形のような外見は相手の保護欲を引き出す。
外見的にはあまり人のいない文化部、もしくは運動部のマネージャーだろうか。
どちらにしても雑務の可能性が高い。これ以上は勘弁してほしい。これではボラティアと何が違うのかわからなくなる。
彼女は俺たちを見つけると目を見開いて怯えだす。
「ご、ごめんなさい。お邪魔しました」
糸杉はすかさず扉を閉めて帰ろうとする彼女の腕をつかんで引きずり込む。こういった時には異常な素早さを発揮する。
「どうして謝るのかしら」
「え、だって、その、お取込み中ですよね?」
彼女は頬を赤く染めて俺たちを交互に見る。
壮大な勘違いをされている。
それは糸杉も同じであるのか不愉快な表情をしていた。
「あなたにはここにもう一人いるように見えるのかしら」
俺の存在を消されている。確かにさっき居ないものと扱うとか言っていたが。
「へ? だってそこに」
「ねえ、怖い事を言わないで貰えるかしら」
ばっちりと彼女と目が合うが、彼女は曖昧な笑みを浮かべると軽く会釈して視線を逸らす。
「一人でしたね」
この空気に合わせることを決意したらしい。
「糸杉、後輩を虐めるはそこまでにしてやれ」
「私は音霧くんを虐めていたはずなのだけれど」
そっちだったか。そんなことよりも、その底意地の悪さを隠さなくていいのだろうか。
「良かった。幽霊じゃないんですね」
心の底から安堵したように胸を押さえて溜息を零す。なんだか悪いことをした気分になる。悪いのは糸杉だけど。
「ごめんなさい。音霧くんの所為で不快な思いをさせてしまって」
「100パーセント糸杉の所為だけどな」
「音霧くんが存在しているからいけないのよ」
「存在を否定するな。本当に虐めに発展するだろうが」
「虐めとは嫉妬や優越といった何かしらの感情がその相手になければ起こらないものよ。その点、音霧くんは誰からも相手にされていないから平気じゃないからしら」
これ以上責めてもこちらの傷口が広がるだけだ。もう辞めよう。
「話が進まないからやめよう」
「同感ね。じゃあ目の前から消えて貰える」
「俺の話聞いてたか?」
「お二人とも仲が良いですね」
「あなたにはそう見えたのかしら」
「はい!」
「……そう」
少女の微笑みに糸杉の毒も浄化されてしまい、何も言えずにいた。
どんな言葉も毒に変えてしまう糸杉も無垢な笑顔の前には無力であった。
糸杉に弱点を見つけはしたが、俺には到底使えそうにない。俺はこの子と違い性根が腐っている。自分で言うと言われるよりも悲しくなるな。
「とにかく座って。話があるのでしょ」
「はい。失礼します」
彼女は勧められるままにソファーに座る。彼女の正面に糸杉も座りようやく話が聞ける態勢になった。
「えっと。まずは自己紹介ですよね。一年の小紫陽花です。ここへは関山先生の紹介で来ました」
「糸杉梓よ。よろしく小紫さん」
今さらのように他人様用の笑顔で対応する。
「音霧聡です。よろしく」
「糸杉先輩に、音霧先輩ですね。よろしくお願いします」
純粋で無垢な眩しい笑顔。そこには1パーセントも偽りがない。どこかの誰かさんとは大違いだった。
糸杉の偽物の笑顔を見せられて、微塵も警戒しない純粋さが逆に恐ろしい。
どんな育て方をされたらこんな純粋な子に育つのだろうか。
「じゃあ話を聞かせて貰えるかしら」
「はい……」
それまで陽だまりのように暖かな笑顔が深刻な表情へと急変する。
「実は最近、後を付けられているみたいなんです」
話しながら小紫はどんどん萎れていく。
「その根拠は?」
糸杉の視線が鋭くなる。
「視線を感じるんです」
根拠と言うには曖昧だ。
「それだけ?」
「はい……ただ後ろを付いてきているだけでして」
「そう……」
糸杉は目を閉じて考えに耽る。
ストーカーと決めつけるには根拠があまりにも薄い。これでは警察に相談したところで気のせいで片づけられてしまう。ただ用心に越したことはない。問題があるとすれば警察以外の大人、例えば探偵を雇うにしても金がかかるという事。高校生が頼れる大人は限られている。親に相談しないということは何か特別な事情があると予想できる。
「やっぱり気のせいですよね。それに視線を感じるのは雨の日だけですし、雨音が足音に聞こえているだけかもしれません」
雨の日。その一言を聞いて糸杉は閉じていた目を開いてあの瞳を小紫に向ける。
「典型的なストーカーね」
はっきりと室内の空気が変わったのを感じる。
「決めつけるのはどうかと思うぞ」
「被害がないのは度胸がないだけよ。近いうちに行動に移す可能性だってある」
俺の意見なんて聞く耳を持たず、糸杉の中ではすでに答えは出ていた。
「その悩み私たちが解決するわ」
俺の言葉を無視して糸杉は高々と宣言するように告げる。
「良いんですか? 相談しに来ておいてこんなこと言うのは変だと思いますが、まさか快く受けてくれると思っていなくて」
「相談者の生活に支障が出ているのなら、どんなことでも引き受けるわ。それにストーカーは放っておいたら必ずエスカレートするもの」
糸杉の中ではストーカーは決定事項らしい。流れはこの以前と似ている。ただ違うとすれば今回は自分たちが動くという事。
「ストーカーと決めけるには早くないか?」
「か弱い女の子を付け回してストーカーではない理由がどこにあるのかしら」
「それは……片思いしている男子とか」
「いかにも音霧くんが考えそうなことね。もしかして経験者?」
気持ち悪い、と言葉に出さなくても目が語っている。
「そんな経験ない。だけどその可能性もあるってことを言いたいだけだ」
蓋を開けてみるまで何が出て来るのかわからない。それに蓋を開けてみて本当のストーカーであった場合、俺たちにどんな対処方法あるというのか。
「告白する勇気がないから陰ながら見つめるのって、されている方は気持ち悪いだけなのよ。ずっと好きでしたって言えば純情みたいに聞こえるけれど、行動力や決断力の欠如を自分で曝け出しているだけ。それに告白するまでの間、発散することの出来ないその感情はどうやって抑え込んでいたのかしら。自分で慰めていたのだとしたら」
「もういい。そこまでにしてやれ」
どうやら糸杉の方は経験があるらしい。主に被害者側で。
「どちらにしても視線の正体を突き止める必要があるでしょ。そうでなくては小紫さんの生活に支障がでるわ」
糸杉の言っていることはもっともであり、正体不明の視線に困っているのは事実だ。
「すみません。こんなことお願いしてしまい」
「気にする必要はないわ。これがこの部の存在意義なのだから」
糸杉は立ち上がるとすっと小紫に手を差し伸べる。
「あなたのwell beingを改善しましょう」
「はい!」
出された手を握り、目を輝かせる小紫には糸杉が女神のように映っているのだろう。
まるで宗教の布教活動に参加させられている気分だ。
こうして視線の正体を暴く活動が開始されるのだが、やはりこういう事は学生のすることではないように思えてならない。
この部の方向性が未だに掴めていない。最終的にはどこへ行きたいのだろうか。
「じゃあ、本格的な活動は明日からにしましょう」
糸杉は有無を言わさずそのまま部室を出て行った。
不敵に浮かべた糸杉の笑みが嫌な予感をさせる。どうせ碌な事を考えていない。
「糸杉先輩って格好いいですね」
「小紫にはそう見えるんだな。俺には性悪女にしか見えない」
「それはきっと音霧先輩に気を許しているという事ですよ」
糸杉が俺に気を許すなんてこと絶対にあり得ない。糸杉はどうにかして俺を陥れようとしている。
「それではわたしも今日は失礼します」
「送っていこうか?」
「今日は親が迎えに来るので大丈夫です」
「そうか。それじゃまた明日」
「はい。また明日です」
ソファーへ寝転がるとたった今自分の口から出た言葉を反芻する。
また明日。つまり俺は明日楓に会いに行かないという事。明日だけではなくこの件が解決するまではこの別れの挨拶は繰り返される。
楓に事情を説明したくても窓を打ち付ける雨は止みそうにない。
急に襲ってきた睡魔に俺はそのまま身を預けることにした。目が覚めた時に雨がやんでいることを願って。
「えへへ。そうだよね。どうしてこんなこと言ったんだろう」
いつも以上に照れくさそうに笑う彼女を見ていられなくて、オレは逃げるように傘から飛び出る。
あんな痛々しい笑顔は見ていられなかった。
大事に育んできたものを一時の過ちで台無しにしてしまったような、もう二度と同じ関係には戻れないことを悟っている、そんな笑顔。
そんな顔をさせたのは他でもないオレだ。
情けなくて、悔しくて、オレは逃げ出した。
「まって車が!」
ブレーキ音が彼女の声を切り裂いていく。
ヘッドライトに照らされた視界は白い靄に包まれ、時間が緩やかに進んでいく感覚に陥る。
これが走馬灯なのか。
けたたましいブレーキ音が耳を劈き、このままオレは彼女に謝ることも、本当の気持ちを告げることも出来なのだと思った。
そんなのは嫌だ。オレはまだ死にたくない。
願いが通じたのか、雨を切り裂いて向かってくる車は直前でハンドルを切りすぐ横を通り抜けた。
ブレーキ音を引き連れて通り過ぎた車は何かにぶつかる鈍い音を立て、次いで地面を揺らす程の音を轟かせる。
壊れたクラクションが、時間を引き延ばしたようにいつまでもなり続けていた。
微かな物音に目を開けると先ほどまで見ていた夢は霧散してどんな夢であったのかさえ思い出せない。
しばらく、ぼんやりと天井を眺める。
寝る前は付いていた照明は消されており、日も落ちたせいで、部室の明かりは廊下から漏れる頼りない薄明りだけであった。
雨は止んでおらず、雨だれの音が部室に響く。
時間を確認すると、下校時刻も間近に迫っていた。今日は濡れて帰ることになりそうだ。途中で発作が起こらなければ良いのだが。
「おはよ。音霧くん」
いきなり声を掛けられ、心臓が飛び出そうなほど驚く。
糸杉は向かいのソファーに座り、俺をじっと見据えていた。
微かに感じた物音は糸杉が立てた音だったらしい。
驚いたことを悟られないようにゆっくりと息を吐くと、薄明りに儚く照らされた糸杉を睨む。
「用事があるんじゃなかったのか?」
「あったわよ。小紫さんについて色々と調べて来たの」
「そうか」
まるで探偵みたいなことをするのだな。
「ところでどうしてこんなこと引き受けたんだ?」
何を言っているのかわからないといった様子で俺に質問の意図を視線で問う。
「本当の目的が何か知らないけど、今回はかなり面倒だろ。危険を伴う可能性だってある上に時間もかかる。まさか本気で人助けをしたいってわけじゃないだろ」
無償で人助けそんなことをする奴ではないことくらいは分かっている。
「可愛い後輩が困っていたから手を差し伸べただけよ。それに彼女は生徒会の書記だから恩を売っておいて損はないでしょ」
それは調べてわかったことで、引き受けた段階では知らないはずの情報なはず。
予想通り本当の事を言う気はないらしい。
こいつは後をつけられるのが雨の日に限定されていることを知って態度を変一変させた。そのことについて指摘しても良かったが正直に話すことはないだろう。
「それで、何かわかったのか?」
「働かないで寝ているだけの人にどうして話す必要があるのかしら」
どうやらこちらの方も話す気がないらしい。
「そうだな。じゃあ後はよろしく」
こちらの方には特に興味もないので食い下がることもなく部室を出る。
ふと糸杉はいつからああして俺の向かい側に座っていたのだろうと考える。
いつもなら窓際の事務用デスクでノートを纏めているはずだ。
薄暗い部室では本を読むこともはできないし、糸杉がスマホをいじっているところを見たことがない。もしかしたら持っていない可能性もある。
だったらあいつは日が落ちかけて薄暗くなったあの部屋で俺の寝顔をずっと見ていたことになる。
恐ろしくなって振り返ることなく廊下を歩く。
「今日みたいな日がいい。きっと楽に……それからこれを」
「はい……ありがとうございます」
ふいに明りの付いていない教室から生徒の話し声が聞こえる。
「こんなことでしか君を……」
「いいんです。もう……」
盗み聞きするつもりはなかったけれど、聞き覚えのある声に足が止まってしまう。
「君がどんな選択をしてもオレは責めることはしないよ」
「はい……」
教室からパーカーのフードを目深に被った女子が出てくる。彼女は俺に気づく素振りも見せずに反対の方向へ歩いていった。
その足取りは全てに絶望したように重く、この世から消えてしまいそうな印象を与えた。
「聡?」
教室からもう一人。遅れてできた仙都は俺を見るなり幽霊を見たように驚く。しかし、その表情を隠すようにすぐに普段の柔らかい表情に戻した。
「いつからそこに」
「ついさっきだよ」
「このことは内緒にしてくれ。変な噂とかたったら相手に迷惑だから」
妙な威圧に俺は無言でうなずく。
そういった話に興味がない所為でもあるが、仙都が特定の女子と仲良くなっているという話は聞いたことがない。本人もそうならないように注意しているのかもしれない。
「でもまさか聡に目撃されるとはな」
「邪魔して悪いな」
「冗談だよ。ちょっと相談に乗ってあげただけ。それより、どうして聡がまだ学校に居るんだ? とっくに帰ったはずだろう」
「ああ、それなんだけど――」
俺は事の経緯を掻い摘んで伝える。
仙都は俺が慈善活動部なるものに所属していることは知っている。
俺が話したわけではないが何故か知っていた。もしかすると糸杉が何かしたのかもしれない。
「なるほど、また糸杉か……」
仙都が他人の事を呼び捨てにするのは珍しい。
「今日もまた変な依頼引き受けてたから、明日から面倒なことになりそうだよ」
「弱みでも握られてるのか?」
鋭い指摘に仙都の表情を伺うけれど、本人は冗談のつもりか柔和な笑みを浮かべている。
「そういうわけじゃないよ。ただむこうが執拗に絡んでくるだけ」
「そうなのか。糸杉なら他人の弱みで脅すくらいはやりそうな気がしたんだけどな」
仙都の表情は普段どおりなはずなのに、出てくる言葉はあまり糸杉をよく思っていないように聞こえる。
最近の糸杉は教室に馴染んできたこともあり、変に目立つこともなくクラスでは極めて普通の存在である。きっと糸杉がクラスに居なくなったとしても平然とクラスは回るだろう。クラスメイトの前でのあいつは変に目立ったりする奴ではない。
そういったことから仙都が糸杉を悪く言う理由が思い浮かばなかった。
もしかしたら俺と同じように個人的に何かされているのかもしれない。
「糸杉と何かあったのか?」
「何もないんだけど、糸杉ってなんとなくやばい感じがするからさ」
「やばい感じか」
曖昧な答えをしてしまう。
「聡も色々大変だと思うけど、あまり関わりすぎるなよ」
「言われなくてもそのつもり」
仙都は本能的に糸杉の本性を見抜いているのかもしれない。それは俺も同じだった。同じように警戒して、近寄らないようにして、それなのに今はこうして糸杉に振り回されている。
この差は一体なんのか。
「男子が女子の陰口なんて女々しいことしているのね」
足音も立てずに俺の背後に立っていた糸杉はいつものように俺に毒を浴びせる。
「別に性別は関係ないだろ。人間性の問題だ」
俺と仙都に差があるとすれば、それは人間的に狂っているか、いないかの違いだ。
あんなことがあっても仙都は真っ当なままだ。
対して俺は歯車がどこか掛けてしまっている。それを自覚したうえで日々を過ごし、それを積極的に治す気はない。それは糸杉も同じだ。
類は友を呼ぶように俺は糸杉を呼び寄せてしまった。
そう考えると、今の状況は必然だったと言えるかもしれない。
「どうして彼と友達なの? はっきり言って音霧くんとは人間のタイプが違うと思うのだけれど」
糸杉は仙都が歩いて行った方向を見ながらはっきりと問いかける。
「友達というより腐れ縁みたいなものかな」
「腐れ縁?」
「俺と仙都は幼馴染だからな」
仙都との関係を聞いて、糸杉は見落としを指摘された時のようなハッとした表情を見せる。そんな反応を見るのは初めてだった。
「どうかしたか?」
「別に……音霧くんと幼馴染の彼に同情しただけよ」
反射的に舌打ちをして昇降口へと向かう。
糸杉も黙って一歩後ろをついて来ていた。
俺に毒舌を浴びせることであいつは何かを誤魔化した。それを見抜けない程、俺は間抜けではない。
こちらの領域に容赦なく入り込んでくるくせに、こちらが入り込もうとすると毒を吐いて拒絶する。
そういった態度を取られても、とりわけ悲しいとか寂しいとかそういった感情は湧いて来ない。
一方でふっと湧いた苛立ちに俺は困惑していた。
あまり他人に興味を示さない俺が糸杉にははっきりと苛立ちを覚えている。
こうやって俺は失った感情を一つ一つ糸杉によって植え付けられるのではないだろうか。これでは糸杉の思うつぼのように思えてならない。
そうしていつの間に俺の中に糸杉が刻み込まれ目的は達成される。
しかし、たった今覚えた感情になんの意味がるというのか。マイナスの感情は何の役にも立たないどころか他人を傷つけさえする。
昇降口に辿り着いて思いがけず足を止める。
雨が降っていることを失念していた。雨は現在も止む気配を見せずしとしとと降り続けている。
足を止めた俺に対して糸杉は靴に履き替えると、躊躇なく校舎から出た。
数歩歩いたところで足を止め暗くなった空を見上げる。
髪を転がっていく雨粒が街灯に反射して宝石のように輝いて見える。
「最悪な気分。音霧くんもそうでしょ」
道連れにするようにこちらに微笑む。
「そうだな」
こちらもすぐに靴に履き替えて隣に立つ。頬にあたる雨粒は土の匂いを含んで肌にまとわりつく。
この上なく不快だった。
いつまでもそうしているわけにもいかず、駅に向かって歩き始めると糸杉は俺の一歩後ろをついて来る。
「私が傘を持ってなくて残念に思ってる?」
「いや、寧ろ幸運に思ってる」
あの日の光景が目に浮かぶ。一つの傘を分け合う男女の背中は誰が見てもお似合いで違和感など存在しない。
思わず足が竦み雨に濡れるのもお構いなしに立ち止まる。
「持っていたとしても入れることはしないけれど」
不意に後ろから聞こえて来る声は雨音をすり抜けるようにこちらの耳に届き意識が現実に戻される。
「俺も勘違いされても困るから入らないけどな」
まるで悪魔に後ろから囁かれているようで、ストーカーより恐ろしいものを感じる。
「それより、さっきは冗談のつもりだったのだけれど」
「どれの事だよ」
「部室での事よ」
それくらいわかれと言う様に責める口調で言われるが、そんなことわかるわけがない。
「嫌みにしか聞こえなかったな」
「それは受け取る側の問題でしょ」
悪いのは自分ではないと言い張る姿は清々しくもはや尊敬の域に達している。
「それで何かわかったのか?」
「何があったというわけではないけれど、小紫さんの成績は良くもなく、悪くもなく、可愛らしい見た目はしているけれど、男友達は極端に少ない。実際、彼女自身も男に苦手意識があるらしく、クラスの男子と話す時でさえも視線を合わせることが出来ないでいるそうよ。でも、それを初心と捉える男も少なくないようで陰ながら人気は高い。なら女子からの人気はどうなのかと言われれば、こちらも可もなく不可もなく。しっかりと自分を持っている一方でちゃんと空気も読めるからトラブルはゼロと言っても良い」
「普通だな」
「普通過ぎるのよ。おそらく彼女は普通を演じている」
だから今回のような問題が起こる理由がない。話を聞く限り、小紫側に原因があるというのは考えにくい。
「だったらストーカーの件は消すべきじゃないか?」
「短絡的ね。どんなに存在を薄くしたって人の悪意は見逃してくれない」
小紫がなぜ普通を演じているのか、そのことについて糸杉は知っている様子であったが話す気はないらしい。
「それでどうする気だ?」
「誘い出すしかないでしょうね。どんな手を使っても」
こんな話をわざわざ俺にするということは……
嫌な予感しかしない。
昨日の雨は翌日には上がり、雲一つない晴天であった。今日なら公園で楓と落ち合うこともできるだろう。しかし、放課後の俺は自然と部室に足を向けていた。
ストーカーだと決めつけることは今でも間違いだと思っている。だが、ストーカの可能性を完全に否定できないのならば早急に解決しなければならない。
頭のなかでだらだらと言い訳を述べながら部室に入と小紫の姿はまだなく、糸杉はいつものように事務用の机に向かってノートに何かを纏めていた。
俺が入ってきても特に反応を示さない。よく見ればイヤホンをしているので、何かを聞いてそれを纏めているようだ。
何をそんなに真剣にしているのか。隙を見せない糸杉にしては珍しい。
授業の内容なんてことはあるまい。もしかしたら糸杉の本当の目的と関係があるのかもしれない。
そう考えてしまうと興味を抑えきれず、糸杉の後ろに立って覗き込もうとした時、廊下から慌ただしい足音が響いてくる。
「すみません! 遅れました!」
小紫が急いだ勢いそのままに扉を開き入って来る。その音に振り返った糸杉と目が合った。
見張った目がすぐに射抜く様に鋭くなる。悲哀の色が深く刻まれた目からは嫌悪感が滲み出ていた。
何を言っても言い訳にしかならない気がして言葉に詰まる。
「ごめん」
「何か謝らなけらばならないことでもしたのかしら?」
「すみません! お邪魔しました!」
小紫は入ってきたときの勢いのまま出ていこうとする。
「邪魔じゃない。寧ろ居て欲しい」
「本当に大丈夫ですか?」
ただならぬ空気を察している小紫は追い詰められた小動物のように怯えている。
「全く問題ない。俺は飲み物買って来るから。何か希望のやつある?」
「わたしは、なんでも大丈夫です」
「わかった」
これなら自然な流れ手で部室から逃れることが出来る。飲み物を奢るはめになったが、あの気まずさから逃れられるのであれば安いものだ。
扉に手を掛けたとき、それまで黙っていた糸杉が俺に向かって声を掛ける。
「私は『爽やかマスカット水』で」
その言葉には全く爽やかでないドロドロとした思いが籠っていた。
「了解」
もちろん何か買ってくるつもりではいた。ただ、糸杉の頼んだものは自販機で売っているものではなく、俺はコンビニまで行かされる破目になった。
ここからコンビニまでは往復で十五分程、おそらく糸杉は俺がいない間に今後の方針を話し合って決めるはず。そうでなければ態々俺をコンビニまで向かわせる理由はない。
あいつが『爽やかマスカット水』を飲んでいるところ見たことないし。
ただの嫌がらせの為だけに『爽やかマスカット水』を頼んだとは思いたくない。
小紫は外見からの印象で甘い物が好きだろうと予想して『まろやかイチゴ&ミルク』を、予想が外れた時の為に、俺は無糖の紅茶を購入。
「遅かったわね」
部室に戻るなりいきなりそんな事を言われる。
遅いのは糸杉の所為だし、何なら少し早歩きしたし。
「こんなの走れば五分で済むじゃない」
走る前提だった。俺を何だと思っているのか。
悪態をつきながら『爽やかマスカット水』を俺からひったくると、ストローをさして飲み始める。
さっきの事はこれで水に流してくれるらしい。内容を穿り返すのは避けよう。
「はい。これイチゴミルク」
「あ、ありがとうございます」
差し出したイチゴミルクを丁寧に両手で受け取ると、小紫はすぐに視線を合わせないように落とす。
「イチゴミルク苦手だったか? だったらこっちの」
「違います。そうじゃないです。イチゴミルクは大好きです」
「そっか。それなら良かった」
「はい。良かったです。ははは」
まるで聖杯でも受け取ったように『まろやかイチゴ&ミルク』高々と掲げる。
絶対何かを吹き込まれたな。これ以上無い程に不自然だ。
問いただしたい気持ちはぐっと抑えて問題解決の方へ話を持っていく。
「それで、どうするのか決まったのか?」
「ええ。良い案が決まったの」
こういう時は大概、良い案でないことが多い。
「私が小紫さんに変装して視線の正体を探ろうと思うの」
「却下だ。ストーカー相手にそんな小細工通用するわけがない」
そもそも糸杉と小紫では身長が違う。糸杉が長身というわけではないが、小紫は小動物のように小さい。髪型や服装を変えたくらいでは誤魔化せない。
「それなら代案を出してくれないかしら」
急にそんな事を言われても困るが、このままでは糸杉の案が通ってしまう。無駄な事に時間を割くことはしたくない。
「ならこういうのはどうだ。俺と小紫で嘘の恋人を演じて」
「はうあ! げほげほ」
大人しく『まろやかイチゴ&ミルク』を飲んでいた小紫は咽て咳き込む。
「ごめん。嫌だったか?」
「嫌に決まっているわよね。こんな目をしている人が嘘であっても恋人だなんて」
咳き込む小紫に代わって糸杉が応える。
「それは糸杉の意見だろうが」
「すみません。ちょっとびっくりしただけす。嫌ではないので安心してください。それに音霧先輩の目は腐っていても素敵です」
「やっぱり腐って見えるんだな」
「は! すみません。失礼なことを言ってしまって。ここだと我慢せずに思ったことを口に出しても許される気がして」
フォローになっていないし、寧ろ傷を抉られた気分。
俺の目が腐っていることは置いといて話を続ける。
「もし仮に視線の正体がストーカーだとすれば、ストーキングしている相手に恋人が出来れば何かしらの行動に出るはずだと思う。小紫に危険が及ぶからあまり良い案じゃないが、糸杉の案よりはましだと思う」
「その方が良いかもしれないわね」
自分の意見が否定されてさぞ悔しい顔をしているのかと思ったが、その反対で糸杉は謎の微笑みを見せていた。
「わたしもその案に初めから賛成でした」
「初めから?」
「あ! またわたし余計な事を」
「まさか」
糸杉は笑いが堪えられない様子で口元を押さえて視線を逸らす。
ここまでくればある程度は察する。糸杉が俺と小紫を嘘の恋人になるように指示することは容易い。しかし、そんな指示を俺が素直に従うわけがない。それを解決するために、巧みにこちらからその提案をするように仕向けたのだ。
自分で言ってしまった手前、この案を却下するわけにもいかない。
「しっかり守ってあげてね。彼氏さん」
本当にこの女は油断ならない。
視線の正体を暴くべく恋人のふりを初めて一週間がたった。間が悪いことにこの一週間は雨が降る日はなく、小紫が視線を感じることもなかった。
それでも万が一を考えて俺は彼氏のふりをし続けている。
「すみません。お待たせしました」
昇降口で待っていると書記の仕事を済ませた小紫が遅れてやってくる。
「じゃあいつも通りに」
この一週間、俺たちは適当な場所を寄り道しながら下校を共にしている。
これだけで本当に付き合っているように見えるのか不安だが、あまり本当に見えすぎても解決した後の事が面倒だ。
糸杉はというと俺たちの後方から距離を置いてついて来る。
視線を感じたらこちらからスマホで連絡する手はずになっていた。
小紫と二人ならんで歩いていると、ふとスマホがメッセージを受信する。
『思ったのだけれど、音霧くんと付き合っているふりをするって罰ゲームよね』
『それクラスの友達からも言われました。どうして罰ゲームなのでしょうか? むしろ突き合わせてしまい申し訳ない気持ちです』
すかさず小紫はウサギが焼き土下座しているスタンプを送る。小紫には悪気はないだろうが、傷をかなり抉られた気持ちである。
『どうしてそのメッセージを本人のいるグループで送った』
『音霧くんに言ったのだけれど、陰口だと思ったの?』
こいつは悪気しかない。何も答える気になれずスマホをポケットにしまう。
出来る事なら連絡先を糸杉に教えることはしたくなかった。相手の表情が見えない文字だけの悪口って結構心に響く。
「連絡先をまだ交換していないのは意外でした」
「したくなかったんだよ。こうなるから」
これでどこにいても糸杉から連絡が来てしまう。無視をすればどんな仕打ちをされるか。憂鬱でならない。
「糸杉先輩は悪い人じゃないですよ」
「小紫に対してだけな」
「そんなことはないですよ」
「それより視線は感じるか?」
小紫は少し考えてから首を横に振る。
それもそうだろう。今日は雲一つない空だし、そんな簡単に事は運ばない。それでも気長に続けていればきっと向こうから接触があるはず。
そんなことは百も承知の癖に糸杉は俺たちに無茶な要求をする。
『あそこのお店、恋人限定のメニューがあるわよ』
「これは入れってことでしょうか?」
小紫の疑問もスルーして俺はそのままスマホをスリープにした。
するとすぐに通知音がなる。
『あそこのお店、恋人限定のメニューがあるわよ』
読んだうえで無視してるんだよ。既読って文字が読めないのか。
さらに無視すればまた同じ文章が来るのだろう。全く同じ文章が幾つも並んだメッセージ覧を想像してぞっとする。
『あそこは年齢層が高くて高校生が入ると異様に目立つ』
俺の返信に小紫がどうしてそんなに詳しいのかと視線を向けてくる。
「色々あってな」
それだけ言えば小紫の性格上踏み込んでこられない。思った通り小紫は曖昧な返事をして個以上聞くことはしなかった。
『まるで入ったことがあるような口ぶりね』
しかし糸杉は違った。
『別にどうでもいいだろ』
『そうね。年齢層の高いお店に一人で入店している音霧くんなんて想像するだけで笑いが込み上げてくるけれど気にしないことにするわ』
猫のキャラクターが爆笑して転げまわるスタンプが送られてくる。こういう系のスタンプ流行ってるのか。
『どうして一人だってわかったんです?』
すかさず小紫が疑問を挟んでくるが、本当に一人で来たので何も言えない。
『そんなことより目立つのであれば好都合ではないの?』
糸杉は何事もなく話題を戻す。傷を広げられたくないので俺もその波に乗ることにする。
『変に目立つ必要はないだろ。無駄に刺激するだけだ』
俺たちは視線を感じることが目的ではなく、視線の正体を暴くことにある。
『別にいいじゃない。もともと刺激することが目的なのだし。あなたたちに危害を加える前に取り押さえれば良いことよ』
『それは危ないですよ』
小紫の意見に俺も同意する。糸杉は自分が他人を傷つけることには敏感なくせに、自分が傷つけられることに関しては無頓着だ。
誰しも傷つけられたくない。だから、慎重に行動するし、失敗を恐れたりする。
糸杉は自分を単に犠牲にすることを慈善活動と勘違いしているのだろうか。だとしたらどこかで必ず痛い目を見る。そうした時、糸杉はどうするのだろう。
『もっと入りやすいお店にしよう』
返信はなく既読だけが表示される。
これって賛成なのか。それとも否定なのか。
「それなら、わたし行きたいところがあります」
小紫は目を輝かせて提案する。
糸杉に任せると面倒なことになりそうなのでここは小紫に任せることにした。
辿り着いたのは学校帰りの若者で賑わうハンバーガーショップだった。
俺と小紫が注文を済ませて席に着いた後で、糸杉が入店する手はずになっている。
「ここに来たかったのか?」
「はい」
もしかしてこういうお店が初めてとかじゃないよな。俺の心配をよそに小紫はカウンターへと向かっていく。
「今日もお疲れ様です」
小紫は新人にレジ業務を指導していた女性に向けて話しかける。営業スマイルを欠かさない女性クルーは俺たちを見て驚いたように目を見張る。
「陽花ちゃん。今日は元気そうだね」
「はい。先日はありがとうございました」
どうやら小紫と面識があるらしい。
年は三十を過ぎたくらいといったところだろうか。それよりも若いかもしれない。
はきはきとした話し方や頬笑み、ナチュラルなメイクに大人の余裕がある。長い髪は綺麗に結ばれ清潔感を感じさせる。
他のクルーとは違う制服を着ていることから社員だろうと予想する。もしかすると店長なのかもしれない。名札には谷中と書かれている。
小紫にここまで仲の良い大人の知り合いがいることは意外だ。
彼女はこちらをちらりと見ると、それだけで何かを察した様子で小紫に小声で話しかける。
「もしかして彼氏さん?」
「えっと、まあ、そんな感じです」
今は嘘でも恋人同士であることを思い出した小紫は否定の言葉を飲み込み、小さな声で肯定する。嘘の関係であるにも関わらず、小紫の頬は真っ赤だった。
「ほほう、陽花ちゃんは目が少し曇っている駄目な男がタイプなのか」
「音霧先輩は駄目な男ではないですよ」
「目の方は否定してくれないんだ」
「そこは否定しようのないことなので」
真面目に冗談を混ぜることなく言われる。
本当に正直な子だ。ただ、ここで嘘でも優しくしないところが彼女らしくあり。逆に適度に空気を読める彼女からしたら不自然ともいえる。
どう対処すれば相手が一番喜ぶのか。その術を知っているのにわざと避けているように、まるで相手との境界線が見えているようにそれ以上は踏み込まない。一歩近づけば一歩遠ざかる。それはまるで糸杉に似ている。
集団の中に溶け込み相手の印象に残らないような振る舞いを小紫も熟知していた。
「ねえ君。名前は?」
「音霧です」
「音霧くんね。君は雨が好き?」
「……嫌いですね」
質問の意図はわからないが、嘘をつく意味もないので正直に答える。
質問に答えた俺に彼女が向けた視線は客に向けるそれとは程遠く、まるで値踏みするようである。
「何か?」
「いえ、陽花ちゃんの選んだ子を目に焼きつけようと思ってね」
言葉では冗談を言っているけれど表情はそうではなかった。
嬉しいけれどどこか寂しい。そんな複雑な笑顔を見せる。
「選んだって。まだ私たちはそこまで」
「そこまでってどこまでかな?」
「それは……ちゅ、注文をしないと他のお客さんに迷惑がかかりますよね。これください。これとこれも」
「はい。ありがとうございます」
小紫はこれ以上つっこまれないように手当たり次第に注文をする。ユヅキさんはそれを慣れた手つきで注文を受けていた。
メニューに注視する小紫を微笑ましく見る彼女はまるで保護者のようであった。視線について相談するならば、この人にするべきだったのではないだろうか。
この人なら小紫の話を親身になって聞いてくれる。そうした確信があった。
店の外で除者にされた糸杉が恨みの籠ったメッセージを送ってくる。
『さっさとしなさい。恋人がいちゃついているみたいで不愉快だわ』
俺たちはちゃんと恋人同士に見えているらしい。
とりあえず、順調にことは運んでいる。後は視線の主が行動を起こしてくれさえすればいい。小紫に危険が及ぶことがあるのなら、その時は俺が身体を張って守れば済む。
何かに洗脳でもされたように、自分の身を投げ出すことを平然と考えている。
この部に入ってからの俺は完全に歯車を狂わされてしまっていた。
商品を受け取った俺たちは店の中心に位置する二人かけの席に座る。
ようやく入店できた糸杉は俺にしかわからないようにきつい視線を送るが、それには気付かないふりをする。糸杉はコーヒーを注文して一人掛けの窓際のカウンター席に座った。
カップルに見えるようにしなくてはならないのだが、そんな経験は一度もないので何を話していいのかわからない。数日を過ごしてもこの関係になれることはなかった。
「あの人とはどんな関係なんだ?」
小紫はアイスを食べる手を止めて視線を落とす。握ったカップが僅かに凹む音がした。
「ユヅキさんは恩人みたいな人です」
迷った挙句に選んだ話題だったが、小紫の様子を見るにこの話題はカップルに見えるような雰囲気になりそうにない。早々に切り上げて何か別の話題にしよう。
「いい人なんだね」
「他人とは思えないくらい優しいんです」
「そうか。ところで生徒会の仕事はどう?」
「詳しいことは聞かないんですね?」
話を逸らそうとすると小紫の方から話題を戻して来る。
「俺が知りたかったのは小紫との関係だから。何かあったのかまでは興味がない」
少しきつい言い方だったかと後悔したが小紫は何ら気にした様子は見せない。
それにそういうことは本物の彼氏にでもやってもらえばいい。偽物の出番はない。
「音霧先輩って糸杉先輩に似てますね」
「心外だな」
この世にある数多の悪口の中でも一番の悪口だと思う。
「ちなみにどの辺が?」
「他人との距離の取り方とか。糸杉先輩もわたしが話したくないことは何も聞きませんでした」
こちらとしては単に深い関係を築きたくなかっただけだ。あいつだって自分の利にならないと感じていただけだろう。
「だけどそんなお二人の優しさに甘えていてはいけませんよね」
小紫は両手に持ったカップを置くとしっかりとこちらに視線を合わせる。
普通であることを愚直に演じる彼女が動機はわからないけれど、それを破ろうとしている。ここまでさせて話さなくていいとは言えなかった。
「わたし小さいときに母に捨てられてるんです。まだ幼かったので記憶は曖昧なんですけど、寂しかったことだけは覚えています」
普通ではない境遇がいままで彼女をどれほど苦しめてきたのか。それは今の彼女を見れば想像に容易い。
普通の人間が普通でない人間に憧れるように、普通ではない人間もまた普通の人間に憧れる。
だから小紫は不必要に普通を演じていた。
「今はいい人に出会えて余るほどの愛情をもらっています。それは凄く幸運なことです。引き取られた先で上手くいかない子は沢山いますから」
小紫は暗い話にならないように笑顔を絶やさない。
どんな言葉をかけるべきなのかわからない俺を、小紫は黙って話を聞いてくれる良い人だと勘違いしたのかさらに話を続ける。
「わたし欲張りなんです。今の両親がいくら愛情を注いでも、本当の親に愛されなかった劣等感は拭えませんでした。だから先日喧嘩をした時に酷い事を言ってしまったんです。『自分の子供が居たらわたしなんてどうでも良いんでしょ。わたしは代わりなんでしょ』って。当然なんです。誰だって自分の子が可愛いです。だけどそのもしもはあり得ないわけで、両親の愛情も偽物なんかじゃない。家を飛び出した私は途方に暮れて、もうあの家には帰れないと悲観的になりながら、ここで悩んでたんです。そんな時にユヅキさんが声を掛けてくれて、事情は何も知らないのに親身になって励ましてくれたんです」
その時の心情を思い出したのだろう。小紫の声は震えて目には涙を溜めている。
「もういいよ。それより早く食べないと溶けるよ」
やはりかける言葉が見つけられず、溶けかかったアイスを勧める。的外れな事をしている自覚はあった。
それでもこれ以上は聞いていけない気がした。小紫が何を言われて、どう気持ちに折り合いをつけたのか。それを聞いていい権利は偽物の俺にはない。
「先輩の気持ちわかりますよ。私も偽物ですから」
溶けかかったアイスを口に運びながら小紫は誰に言うことなくぽつりと呟いた。
この子は本当に周りが思っている以上に周りをよく見ている。
「話したらスッキリしました。ありがとうございます」
小紫は頬をかきながら笑ってみせる。
その笑顔に無理な様子はなく自然体であった。
「小紫って簡単に騙されそうだな」
「心外ですね。わたしはちゃんと人を見ているつもりですよ」
鼻を鳴らしながらアイスを頬張る小紫は頭が痛くなったのか、うなりながら頭を押さえる。その様子からは先ほどの悲痛な面持ちが消えていた。
無理をしている様子は見えない。それはこの件に関して小紫の中では解決している事の証だった。
外見の子供っぽさからつい保護の対象として見えてしまうが、小紫は俺なんかよりもずっと大人だった。彼女はちゃんと過去を受け入れて、前を見て進んでいる。
染みついた生き方を変えることが出来ないだけだ。それも時間がたてば解決していくことだろう。
ふと後方で物が落ちる音が響く。
「すみません」
振り返れば申し訳なさそうな表情を張り付けた糸杉が店員に頭を下げている。その相手は谷中さんであった。
彼女は朗らかな笑顔で床に落ちたトレイを拾い、後片づけをしていく。
ふと糸杉の方を見ると、誰にも気づかれないようにひっそりと悲哀の色を深く刻んだ目を向けていた。
わざとこちらの気を引くような真似をしたらしい。
『不審な客がいたのか?』
『いないわ。客はね』
その答えだけ何が言いたのかわかった。
『もう少しそこでカップルを演じていて。小紫さんには知らせずに』
俺がメッセージを送るよりも先に糸杉は行動に出ていた。頼んだコーヒーを全て飲み干すとそのまま店を出て行く。
「糸杉先輩どこか行くんですか?」
「外から様子を見るらしい。少し目立ちすぎたからな」
「そうなんですね……」
小紫は糸杉の行動を不審に思っていたが、小紫以外に店を出て行く糸杉を不審な目で追っている者はいない。
糸杉も凡そのよその目星はぼしはついているのだろう。
ただ、どうしてそんなことをしているのか理由がわからない。それでも確かめる必要がある。そうしなければ前に進めない人がいる。それを手助けするのが俺たちの活動だ。
「糸杉先輩と音霧先輩の関係はどうなんですか?」
糸杉の後姿を目で追いながら考えを巡らせていると、小紫は期待に目を輝かせて訪ねて来る。しかし、その期待に応えることは出来そうにない。
どう言ったらいいのだろう。俺と糸杉はまだ出会って日が浅い。ただ同じ部活で活動しているだけの他人に過ぎない。
「ただの知り合いだな」
「昔からの中に見えるくらい息ぴったりですけどね。お似合いですよ」
「さすがの俺も今の発言は看過できないな」
「そうですね。今はわたしの彼氏ですもんね」
自分の過去を話したことで吹っ切れてしまったのか俺に対してそれまでの遠慮がなくなっている。
「でもそうなったらいいなと思っていますよ」
「俺に死ねといっているようなもんだな」
――あなたに私を刻みたいの――
先日言われたことが頭にこだまする。
あいつは本当にそれだけの理由で俺をこんなことに巻き込んでいるのだろうか。他に重要な何かが隠されているように思えてならない。
若干ではあるが、俺の中に糸杉が刻まれているのは否定できなかった。
今のところは糸杉の思い通りに事が運んでいる。
「わたしには糸杉先輩は何かをするんじゃなくて、何かをして欲しいように見えます」
「あいつが他人に何かを望むことなんてあり得ないだろ」
想像しようとしても出来なかった。無理に想像しようとしてもあの悲哀の色を深く刻んだ目が邪魔をする。あれは諦めてしまった人間の目だ。
それからしばらくは他愛のない雑談をしていた。
日が暮れたころポケットにしまったスマホがようやく通知を告げる。
『そろそろ店を出て』
糸杉からメッセージ。間髪入れずにもう一つのメッセージが届く。
『もうすぐ雨が降る』
待ち望んでいたはずの雨。それでも気分は最悪でこれから起こることを考えると憂鬱でしかなった。
「もうこんな時間なんですね」
「悪いな。こんな時間まで付き合わせて」
「何を言ってるんですか。付き合わされているのは音霧先輩の方ですよ」
小紫は無垢な笑顔を振りまいて隣を歩く。
糸杉の言う通り店を出てまもなくして雨が降り始めた。コンビニで買ったビニール傘には霧吹きのような細かい雨粒が音もなく張り付いていく。
帰宅時間帯と重なったため人通りが多く後ろを付けられていても気づくことは難しい。糸杉に考えがある様子だったが今のところ明確な指示はない。とりあえず俺は小紫を自宅まで送り届ければいいのだろう。
「そういえば糸杉先輩はどこにいるのでしょうか?」
「さあな。案外近くにいるかもしれないぞ」
俺たちの会話を聞いていたかのように、糸杉からメッセージが届く。
『私の指示に躊躇なく従える?』
今更それを聞くのか。いったい俺に何をさせようというのだろうか。
『従わなかったら後が怖いからな』
『人を悪魔みたいに言わないでよ』
悪魔の方がまだ優しい気がする。
こちらがメッセージを受信してから間髪入れずに指示が送られてくる。俺がどう答えようと送る気だったのだろう。わかっていたことだが、もとから俺に拒否権はない。
糸杉から送られてきたメッセージを見て思わず眉を顰める。
いったい何のためにこんなことをする必要があるのか。
「どうかしました?」
指示の内容を見られないように咄嗟にスマホをポケットにしまう。
「ちゃんと後ろにいるらしい」
不安そうにこちらをのぞき込む小紫は俺がこれから何をしようとしているのかを知る由もない。
まるでこの指示は糸杉から俺に対する挑戦のように思えた。
糸杉が監視するように俺をあの目で見ていることは後ろを振り返って確認するまでもない。
別に楓の件を握られているからと言って、すべての事に従わなくてはならないわけではない。糸杉の指示を実行してしまえば俺は後には引けなくなる上に楓に合わせる顔がなくなってしまう。
糸杉の指示に従うふりをして、歩幅を調節して歩く速度を落としていく。
渡ろうとしている信号は点滅し始め周りの人々は急いで渡ろうと速度を上げていく。俺はその波に逆らうように歩道と道路の際、その一歩手前で足を止めた。
「音霧先輩?」
つられて足を止めた小紫は俺の一歩前に立つ。タイミングは狙った通りでまもなくして信号は赤へと変わった。
「やっぱり何かありましたよね?」
勘の鋭い小紫はこちらの様子がおかしいことに気づいたようだったが、それを無視して小紫の後ろにある車道に目を向ける。
横断歩道を横切る車は飛び出してくる人など想定するはずもなく、速度を落とすことなく通り過ぎていく。
これはふりだ。本気でやるわけじゃない。
自分に言い聞かせてピントを小紫に合わせる。
小紫は憂わし気な表情でこちらを見上げている。直ぐに視線を逸らし、傘を持っていない方の手に意識を集中させる。
この手を前に押し出せば、華奢な小紫は抵抗もできずに道路へと身を投げ出されるだろう。
そうなった後は……小紫に起こることは……
目の前の光景にノイズが走り、その合間を縫うようにあの日の事が蘇る。強烈な眩暈と吐き気に耐えながら小紫の背後にある信号の色を確かめる。
信号は赤のままだ。
これはふりだ。何も起こらないし起こさない。
再度自分に言い聞かせた後、空いている手を持ち上げる。
ふとその腕を誰かが握ったかと思うと、そのまま身体の後ろへと持っていかれ、さらに足を掛けられ地面に押さえつけられてしまう。
雨の降っているアスファルトは想像以上に冷たい。
何が起こっているのか把握しないうちに俺は現行犯で逮捕されたような方になってしまった。
「妙な動きをしたらそのまま腕をへし折るぞ。騒いでも同じだ」
耳元で囁かれた脅しにはありったけの怒気が詰められ、腕に走る激痛が冗談ではないことを物語っている。
周りの人間は俺たちの変わった様子に気づいていながらも静観することを決めたらしく、誰一人として俺を助けようとする者は現れなかった。
か弱い女子高生に乱暴しようとした男と思われているのだろう。
スマホで撮影する人間がいないだけまだましだと思うようにしよう。
「え? なんで?」
状況が把握できない小紫は困惑した声で俺を押さえつけている人物に声を掛けるが、この状況が好転することはない。出来る人間がいるとすれば一人だけ。
「それはあなたをずっとつけていたからよ」
まるで魔法のように糸杉の言葉があたりに響いた瞬間、信号が青に変わる。
人々は俺たちを空間から切り離すように避けて通っていく。
人込みから颯爽と現れた糸杉の表情は余裕を感じさせ、事のタネを明かしていく。
「やればできるじゃない」
「こうなることわかってたのか?」
「もちろん」
こちらを見下ろす糸杉に非難の視線をむけるもののまったく動じない。
余裕の表情を見るに糸杉は初めからこうなることを予見していたようだ。結局俺はこいつの手のひらの上で踊らされているに過ぎない。
「音霧くんなら最高のヒール役になれると思っていたわ」
『ヒール役?』
小紫と俺の腕を固めている人物の声が重なる。
「さっさと本題に入れよ。というかそろそろ腕を離すように言ってくれ。感覚がなくなってきた」
こんな会話をしてはいるが俺の腕は未だにがっちりと締め上げられた上に押さえつけられている。
「それもそうね」
糸杉は鋭い視線の矛先を俺にのしかかる相手に向ける。
「あなたが心配しているようなことは起こらないから安心してください。店員さん。名前は谷中だったかしら?」
決められている腕から彼女の動揺が伝わってくる。
「なるほど私は嵌められたのか」
状況を把握したらしい彼女はついに俺の腕を開放すると乾いた笑い声をあげる。
「詳しく話を聞かせてもらうかしら」
「それは断っても構わない?」
しきりに目を逸らし、腕時計を見る。この場から離れたいと態度で物語っている。
「女子高生をストーキングする店員がいるとクレームが入っても構わないのならばどうぞ」
これでは脅しているのと変わらないな。こいつはどうしてこんなやり方しかできなのだろうか。
「わかったよ。あそこで話をしよう」
谷中さんはすぐそばにあったファミレスへ歩いていく。
「小紫はどうする?」
未だに状況を把握しきれず呆けた顔で佇む小紫に声を掛けると、谷中さんの背中に焦点を合わせてじっと見つめる。
「私は帰ります。その方が話しやすいでしょうから」
こんな時まで他人を気にする必要などないと言いたいが、それが彼女の生き方で変えることは簡単ではない。
「じゃあ、送っていくよ」
俺は糸杉に目配せをすると、小紫と一緒に点滅しだした信号を急いで渡った。
特に会話もないまま俺たちは一週間ともに歩いた道を歩いていく。
ふと赤信号で立ち止まり先ほどの事を思い返す。
もしもあのまま誰も俺を止めることがなかったのだとしたら俺は小紫を突き飛ばしただろうか。
それはありえない。
あの時の俺は金縛りにあった用に身体を動かすことが出来なかった。
では、相手が糸杉だったのなら。
「どうかしましたか?」
小紫に声を掛けられて我に返る。
赤だった信号は青に変わっており、渡ろうとしない俺の隣で不思議そうに小紫が見上げている。
「なんでもない」
悟られないように平静を装う。
相手が糸杉であったとしても俺はそんなことをしないだろう。もしもそれをしてしまえば俺は楓に合わせる顔がなくなってしまう。
特に会話もないまま家の近くまで来てしまう。一つ先の路地を曲がればこの関係も終わりを迎える。
それも当然だ。小紫を悩ませていた視線の相手は既に確保されている。恋人ごっこをする必要はもうない。
それに抵抗するように小紫の歩く速度は遅くなっていった。
「やっぱり残った方がよかったでしょうか?」
「そう思うならどうして残らなかったんだ?」
責めたような言い方になってしまい、慌てて言葉を重ねる。
「これは小紫の問題だから。他人の事を気にする必要はなかったと思う。むしろ積極的に言った方が……」
そこまで言って自分が的外れなことを言っていることに気づく。
そんなことが出来ているのなら悩むわけがないのだから。
小紫は自分の境遇の影響で人との距離に敏感になっている。得ることよりも失わないことに重きを置いている。
「なんか……すみません」
「謝られることをされた覚えはないよ」
「そんなことないです。腕は大丈夫ですか? それに制服だってびしょびしょですし。それは私の……」
別に小紫の所為ではない。誰かに責任があるとすればただ一人。
「とりあえず、また明日。部室で」
また明日。その言葉を聞いた途端、小紫は俯かせていた顔を上げる。
「報告とか色々あるし、あれだけ校内で見せびらかしたからね。急に会わなくなると変な噂とか流されそうだし」
こちらが言い訳をつらつらと並べると、小動物のようにくつくつと喉を鳴らして笑いだす。
「はい。また明日ですね」
こちらに一礼してから、玄関を潜り暖かな光が漏れる家へと入って行く。
また明日などという挨拶を交わしたのは何年ぶりだろうか。確証のない未来を口にするのが怖かった。
今は不思議と恐怖を感じていない。
未来の事を考えて行動するなんて二度と来ないと思っていたのに。
何をすべきでどうすることが最善なのか。どれもはっきりとわからないまま、二人が待つファミレスに向かう。
これからしようとしていることは余計なことなのかもしれない。気づかないふりをして気のせいで終わらせてしまえば、何も変わることなく終われたはずだ。
彼女もそれ望んでいる。否定する権利は俺にはない。
糸杉に弱みを握られているというだけでは説明がつかないほど、俺は他人との関係に深く足を踏み入れようとしている。
自分が誰かの何かを変えてしまう。それが嫌で俺は今まで他人と関わることを避けてきた。それなのにどうして今になってまた関わろうとしているのか。
気持ちの整理がつかないうちに二人の待つファミレスについてしまった。
「意外と早かったのね。もう少しゆっくりしていてよかったのに」
「俺がいないと何をするかわからないからな」
嫌味で返しても相変わらず糸杉は気にした様子はない。
糸杉の隣に腰を掛けながら様子を伺うけれど特に何かを話した様子ではなかった。
「今飲み物を持ってくるよ。大丈夫、支払いは私がするから」
谷中さんはこちらの返事をさせずに席を立つとドリンクバーへと向かってしまう。この空間から逃げ出したかったのだろう。俺だって糸杉と二人きりでファミレスなんて奢られても断る。
「それでこの後はどうする気なんだ?」
監視するように谷中さんの背中を凝視する糸杉に小声で話しかける。
「彼女が素直にすべてを話せばそのまま解放するわ」
「まるで犯罪者を捕らえたみたいな台詞だな」
「その通りでしょ」
糸杉としては彼女の行いがストーキングであることは決定事項らしい。
「そんな簡単なことに思えないけどな」
「随分肩入れするのね」
「肩入れという訳じゃない。先ほどの態度を見るに谷中さんが小紫に危害を加えようとしている可能性は低い」
「それを肩入れというのよ。ピンチの時に助けて相手を油断させている可能性だってあるじゃない」
こいつの周りには悪人しかいなかったのだろうか。
「ウーロン茶で良かったかな?」
「ありがとうございます」
よく冷えたウーロン茶は乾いた喉に沁みた。
向かいに座った谷中さんは湯気の立っていないコーヒーを一口飲むと溜まった何かを吐き出すように息を吐いて視線を店の外へと向けた。
「君達の目的を聞いても良いかな?」
「私たちの目的は小紫さんの生活を脅かすものを阻害することよ」
どうしてそんな言い方しかできなのか。
「それはあの子が言ったの?」
谷中さんは縋るような視線を向けるが、それには意に介さず不遜な態度そのままに糸杉はさらに続ける。
「そうよ。小紫さんは大変困っている。後ろを付きまとわれて困惑しない女子がいるわけがないでしょ」
「糸杉」
俺の非難の視線も無視して続ける。
「けれどストーカーが女性だったなんて予想外だった」
「ストーカー。そうかあの子はそんな風に」
「自覚がなかったの? 後をつけるなんてストーカー以外誰もしないことよ」
糸杉はわざと挑発の意味でその言葉を浴びせている。冷静さを欠けば本音が聞けると思っていのかもしれないが、こんなやり方では誰も得をしない。
今の言葉や先ほどの行動からもわかる通り、やはり谷中さんは小紫に危害を加えるつもりはない。むしろ逆なのだろう。
「どういうつもりで行動しているのか知らないけれど、あなたの気持ちは彼女には届くことは」
「それ以上は辞めろ」
思ったよりも語気が強くなったことで店内の空気が凍ってしまう。糸杉も目を見開いてこちらを見つめた。直ぐに店内は普段通りの賑わいに戻るが席の空気は重たいまま。それでも黙っていては何も進まない。
「小紫の意思を曲げてまでするようなことじゃない。小紫は別に恐怖を覚えたりはしていなかった。確かに戸惑っていたかもしれないが、ただ知りたかっただけだ」
「……そうね。依頼人の意志は尊重すべきだったわ」
糸杉が珍しく引き下がった。
「……確かにストーカーだな」
沈黙を破り溜息を吐いた谷中さんの表情は穏やかだった。
「少し言い訳をさせてくれないかな?」
「円満に解決できるのであればそれに越したことはないわ」
険のある言い方であったが、その表情にいつものような鋭さを感じない。
「先にこちらの方から話してもいいですか? 勘違いを解いておきたいので」
「勘違い?」
小紫が俺たちに依頼するまでの経緯とそれからの事を簡潔に話す。その間糸杉は口を噤んで口のつけられた様子のない自分の分のコーヒーをじっと見つめていた。
「つまり音霧くんと陽花は恋人関係ではないんだね」
念を押すように確認される。
「そうです。すみません。嘘を付いて」
「それを聞いて本当に安心したよ」
安堵の笑みを浮かべて胸をなでおろす。どういう意味だとは聞かないでおこう。
「じゃあ今度は私の番だね」
居住まいを正した彼女の瞳には覚悟が伺えた。
「私は陽花を守りたかったんだ」
「誰から?」
それまで黙って聞いていた糸杉が間髪入れずに問いただす。いつも諦めたように濁っている眼光が獲物を見つけた獣のように鋭く光ったように見えた。
「最近、女子高生が道路に飛び出す事故が多発しているのは知っているかい?」
以前そんなことを糸杉から聞いたような気がする。
「ええ。その殆どが自殺だと言われているけれど、遺書もなく動機も不明瞭。彼女たちは衝動的な何かに突き動かされたように飛び出している。それが何か?」
糸杉は原稿を読むようにすらすらと抑揚なく話す。
「あなたも調べているんだね。もう一つ加えるならその事故は必ず雨の日だという事」
雨の日の事故。その事柄だけで心臓が針金で縛られたような感覚になる。
「あの子は色々と抱えているからね。心配で見守っていたんだ。冷静になって考えてみればストーカー行為と変わりなかったけれどね。そしたら変な男を彼氏と言って連れてくるじゃない」
変な男。聞くまでもなく俺の事だ。変である自覚はあるから素直に受け入れることにする。
「さらにその男は雨の日に不審な行動をとろうとした」
糸杉が説明を付け加える。
「あいつは陽花に危害を加えようとしているんじゃないか。そう思ったら勝手に体が動いていたよ」
それがここまでの経緯だった。
「どうしてそこまでするんですか?」
俺の質問に視線を他の席の女子高生へと逸らすと考えこむように瞳を閉じる。しばらくして開いた瞳には迷いが消えていた。
「陽花は私の娘なんだ」
不思議と驚きはなかった。心のどこかでそうなのではと思っていた。
「私は十七の時にあの子を産んでね。私には親はいなかったし止める人は誰もいなかった。あの頃の私は現実を甘くみてたんだ。高校も出てない女が子供を育てるなんて無理があった。頼る宛がなかった私は結局、施設にあの娘を捨てたんだ。自分が生きていくために」
自分が犯した過ちを忘れないように、決して望んでしまわないように。呪いの言葉を自分に言い聞かせていように聞こえる。
「それからは真面目に働いてここまで来た。最近ではお店を任されるようにもなって、やっと心のゆとりができ始めた時に、目を泣き腫らした陽花がお店に来たんだ。施設に預けて以降、会ってないのにすぐに陽花だってわかった。それと同時に神様のいたずらだなって思ったよ。だけど私はその神様のいたずらを利用することにしたんだ。名乗れなくても構わない、あの子が幸せになれるのであればどんなことでもしてあげたい。あの子が苦しんでいる理由を作った私がこんなことを言うのはおかしな話だけどね」
乾いた笑いを浮かべて谷中さんはコーヒーカップに口をつける。
掛ける言葉を見つけられなくて、俺は目の前に置かれたウーロン茶を飲むことで誤魔化した。何の味もしない。無味な液体が食道を通って行く。
「ごめんね。こんな話に付き合わせて。これからは後もつけないから安心していいよ」
「名乗りでるつもりは」
突き刺すように糸杉が質問をする。
「しないよ。絶対に。私はあの子を捨てた。生きていくためには邪魔だったからね」
戒めのように言い聞かせる言葉はまるで自らの体に杭を打ち付けているように聞こえた。
「理由はどうであってもそのことに変わりはない。なかったことにして母親面する資格はない。自業自得なのさ」
別に放っておけばいい。本人がそう言っているのだ。これ以上立ち入ることに意味なんてない。
「小紫さんの悩みを知ってもなおその言葉が言えるのね。まだ間に合うというのに……」
そんなことは糸杉だって承知しているはずなのに、責める言葉を止めようとはしない。
「別に勝手にすればいいわ。ただ、あなたの小さなプライドの為に小紫さんが犠牲になっていることは忘れないで」
俺には今の糸杉が八つ当たりをしているように見える。
「結局あなたは彼女に拒絶されるのが怖いだけでしょ。娘の為ならどんなことでもすると言っておいて、自分がしたことを謝ることすらできない」
糸杉らしくない強い語気に困惑する。こんな風に感情を顕わにするのは初めてだ。
「あなた達にはまだ未来がある。償うことだってできる。何をすべきかもう一度考えなすことね」
言いたいことを言い終えた糸杉は、千円札を叩きつけるように机に置くとそのまま席を立った。
「拒絶されるのが怖い……か」
糸杉の言った言葉を繰り返しながらコーヒーの黒い液体を見つめている。
「すみません。あんな言い方しか出来なくて」
「正論を叩きつけられて寧ろ清々しい気分さ」
そう言って頬をかきながら破顔する谷中さんから小紫の面影を見る。
「君も同じ意見なのかな?」
「俺は……」
ふと二人が仲良く街を歩いているところを想像してみる。幸せそうな二人の姿に得体の知れない感情が芽生える。
「このままなかったことにして過ごすのもありかと思います。小紫だってどうしても自分の出生を知りたいわけではないでしょうし、知ったところで悩みが全て解決するわけではない。現状維持であれば犠牲になるのはあなただけで済むでしょうし、余計ないざこざで他人を巻き込むような事態には……」
芽生えた感情の正体に気づいて思わず口を噤む。きっとこの感情は嫉妬だ。
償う機会があるこの人が羨ましいのだ。だから適当なことを言って流そうとしている。
「すみません」
「謝られるようなことを言われた覚えはないよ。寧ろ甘やかされていたと思うけどね」
微笑みながらコーヒーを飲む谷中さんは俺の真意に気づいていない。
「君は女子高生の子供がいる女性を甘やかして何を企んでいるのかな?」
「別になにも深い意味は……」
「冗談だよ。今のはからかっただけだ」
谷中さんはすっかり冷めてしまったコーヒーに映る自分の顔をみて嘲笑する。
「君たちは良いコンビだね」
「それは最悪の悪口ですよ」
俺の言葉から何を感じ取ったのかわからないが谷中さんは決心の付いた表情をしている。
「過去に縛られて今を殺すことで私は償ったつもりでいたのかもしれないね」
彼女の言葉は今を殺し続けている俺にも深く突き刺さる。
「追いかけた方が良いよ」
谷中さんは糸杉が置いていった千円札を俺に押し付ける。
「あの子、酷い顔をしていた。彼女を慰められるのは君だけだろ」
心外だった。そんな役目を買った覚えはない。
「私の心配はいらないよ。どうするかはもう決めたから。君たちのおかげでね」
ここにきて一番の笑顔を向けられる。
「私がもう少し若かったら君に惚れていたかもしれないね」
「年下の男子をからかうのは良くないですよ」
「からかわれたくなかったら早く追うことだね」
追い出されるように店を出る。
外は相変わらず音のしない霧のような雨が降っている。
このまま帰っても誰も責めはしないが、押し付けられた役目を放棄する気にもなれず頬に当たる雨に不快感を覚えながら糸杉を追いかけることにした。
走ると空気中に漂う水分が頬に纏わりついて気持ち悪い。
糸杉はさほど遠くへは行っておらず、近くの交差点でぼんやりと佇んでいた。ふとした瞬間に道路に飛び出してしまいそうな雰囲気を感じ取り思わず声をかける。
「糸杉」
こちらが声を掛けても振り返ることはしない。
その方が良かった。弱っている糸杉の顔を俺は見たくない。そんなものを見てしまったら忘れられなくなる気がする。
「今振り向いたら音霧くんは優しく慰めてくれる?」
「冗談が言えるなら大丈夫だな」
俺は糸杉の背中に、糸杉は誰も居ない前方に。信号が青になっても渡ることなく、一定方向の会話は続く。
「これで良かったのかしら。説教なんてらしくないことしたと思うわ。少し感情的になってしまったし」
「言葉に嘘がなければ構わないと思うけど」
正直なところそれが良かったのかわからない。けれど、わからないとは言いたくなかった。わからないと言ってしまう事は考えることを放棄している気がして、関わってしまった手前それでは無責任だ。答えが出なくても向き合うことでその責任を果たしたい。
こうした曖昧な感情に振り回されることも、人との関わりがあるからであり、本来ならそれが普通なのだろう。
「音霧くん、少し変わったわね」
「糸杉もな」
以前ならこうした感情を持つことはなかった。以前の俺は他人との関係を簡単に絶ってしまえて、他人の感情に鈍感だった。それは糸杉も同じだ。
認めたくはないが、俺たちは何処か似ている。
「人間って意外と悪意のない生き物なのね」
「俺の目前にいる人間は俺に対して悪意しか見せないけどな」
「だって私は人間じゃないもの」
平然とした返事が返ってくる。
落ち込む背中に追い打ちをかけるように揶揄したが、俺程度がこいつを傷つけることはできないらしい。
「そうかもな。あんな指示を出すほどだし」
――小紫さんを道路に突き飛ばして――
これが糸杉からの指示だった。狂っている。念まで押させて俺が本気で実行するとでも思っていたのだろうか。
「たとえ本気で実行しようとしたとしても彼女が止めていたでしょ。音霧くんは全く気付いてなかったけれど、私たちはあなたのすぐ後ろにいたのよ」
あの瞬間俺がどんな気持ちでいたかなんてこの女には関係ないのだ。自分の目的のために平気で自分ですら蔑ろに出来る奴なのだから。
「まあどちらの結果になっても私にはどうでもよかったのよ」
道路へ吐き捨てるような言葉には何の感情も籠っていない。またわざと嫌われるような言葉を並べている。
これ以上近づかせないように。自分からも近づかないように。
「本当に人間じゃないのかもな」
「だったら今すぐ私を突き飛ばした方がいいんじゃない?」
糸杉の向こう側では車が速度を落とすことなく通り過ぎていく。ふとその背中が刑の執行を待つ罪人のように見えた。
『糸杉先輩は何かをするんじゃなくて、何かをして欲しいように見えます』
ふと小紫が言ったことを思い出す。糸杉は俺に何を望んでいるのだろうか。他人と深く関わることを避けている俺にはたどり着くことの出来ない答えだ。
「雨が強くならない内に帰る事ね。風邪を引いても休ませないから」
答えに迷っている間に糸杉は信号を渡って行く。俺は後を追わない。一人になりたかった。それは糸杉も同じだろう。
お金を返しそびれていることに気づいたが、その頃に信号は赤に変わり糸杉の姿は通り過ぎる車に遮られて見えなかった。
その後、雨はあっけなく止んでしまった。
そのまま家に帰る気にはなれず、何かに縋るように街を彷徨っているといつの間にかいつもの公園に辿り着いていた。
夜の公園は静寂に満ちて湿った落ち葉を踏む音すら大きく聞こえる。
「あれ? こんな時間にどうしたの?」
楓はいつもの場所で街頭に照らされた紅葉を眺めていた。
「なんとなく寄ってみた」
そう言いながら俺は制服が濡れることも厭わずにベンチに座る。湿ったベンチは想像以上に居心地が悪かった。
どうしてここに来たのだろう。こんな姿を楓に見せて心配させてしまうだけだというのに。
「何かあったんだね」
透き通った水晶玉のような瞳がこちらを捉える。
「……」
こういう時には相変わらず鋭い。
目を逸らしてしまった為に誤魔化すことは出来なかった。
「話してごらん。楓お姉さんが聞いてあげるから」
とてもお姉さんとはいえない笑顔で優しく語り掛ける。
掻い摘んで話すつもりだった。けれど、話し始めると止まらなくなり、自分が思っていた以上に溜めこんでいたのだと思い知らされる。
楓は一言一句聞き逃さないように真剣に俺の話を聞いていた。
「余計な事をしたんじゃないかって思ってるんだね」
俺は黙って首を縦に振る。
きっとそれは糸杉も同じだったのだろう。自分が何かをしたことで誰かの関係が壊れてしまう。それを俺たちは恐れている。
「大丈夫。その親子なら大丈夫だよ」
何の保障もない大丈夫が妙に心強い。
「それと、その気持ちは聡くんが正常だって証だよ」
楓は何かに安堵するようにこちらに微笑む。いつもは太陽のように眩しい笑顔が今日は少し優しく感じる。
「だからその感情を捨てないでね」
それだけ言い残して楓はふっと何処かへ行ってしまった。気を遣わせてしまったようで申し訳ない気持ちになる。
数日後、俺たちは小紫からユヅキさんが実の母親であったと報告を受けた。
小紫は照れくさそうに頬をかきながら笑い、愛情が二倍になったと純粋に喜んでいた。
結局、俺たちの心配は杞憂であり余計なお世話だったわけである。
またしても俺たちは想定した形での改善を思う様に果たすことが出来なかった。
ただ一つだけ改善した点があるとすれば、小紫の報告を聞きながら興味なさそうに本を読んでいた糸杉が、ふっと笑みを浮かべたことくらいだろう。
クラクションは時間を引き延ばしたようにいつまでもけたたましくなり続けている。
その音に圧倒されオレのまるで身体の動かし方を忘れてしまったように固まったまま後ろを振り返ることが出来ずにいた。
なんとかして地面に張り付いた足を引き剥がして歩道を振り返る。
そこにはクラクションをけたたましく鳴らす車が歩道に乗り上げ電柱に衝突して止まっていた。
「うそだろ……」
俺に衝撃を与えたのは歩道に乗り上げた車よりも、そのそばでピクリとも動かず地面に横たわった楓の姿だった。
雨が降っているにも関わらず、楓の周囲は鮮血の赤で染まりその範囲を広げていく。
悪夢のような光景にオレの身体は未だ自由が利かない。
こんな時はどうすれば良い……
どうしてこんなことになった……
誰の所為でいでこんな……
狼狽えるオレをよそに誰かが楓に駆け寄る。
「楓、しっかりしろ! おい!」
彼は手早い判断で楓を仰向けに寝かせ救命処置を施していく。
まるで映画のワンシーンを見ているようで現実感は皆無だった。
ただその場に立ち尽くだけしかできなかったあの時のオレを今でも恥じている。しかし、あの時のオレに何が出来たのか。その答えは見つかっていない。
それにも関わらず、記憶は残酷にあの時の事を消し始めている。