私は悲しみの海底を彷徨い、その奥深くから出られないでいた。

静かなはずだった海が、
彼という生き物が棲みつき、
波音がだんだんと強くなり、
海面をオレンジ色に染め上げた。

それは私という海で。
でも、もう、彼は居ない。
二度と私の海原は波立つ事はない。


私は浜辺に立ち、ゆっくりと靴を脱ぐ。向こう岸には蜃気楼がゆらゆらと揺らめいているだけ。
海渡くんはそっちに居るの?
彼との思い出を浮かべながら、静かな海へと入って行く。


ぶく、ぶく……


もう日差しが届かない所まで来た。

彼もここに眠っているのだろうか?

彼にやっと逢えるんだ。
 


『千波』


美しいあの生物が近付いて来る。私と彼を結びつけてくれたあの生き物だ。


海渡……くん?

その美しいくらげは、彼へと形を変える。

その瞬間、温かいぬくもりに包まれ、海面へと戻される。


「ごぼっごぼっ!海渡くん?!」

『千波、ごめん。勝手に居なくなって』

「海渡くん、会いたかったよ……」

『死んだらだめだ!君はもう1人じゃないよ。だからちゃんと生きるんだ』

「……1人、じゃない?」
どういう事?


『僕の青いノートを見て。完成した小説を千波に見て欲しい』

「うん……分かったよ」

彼はにっこりと微笑み、
『好きだよ』
その言葉だけを残し、くらげの様に消えていった。



目を覚ますと……私は青いノートと共に浜辺に横たわっていた。

さっきのは、幻だったの?

蜃気楼?


涙を浮かべながら、ノートを開いた。

ノートには、私への愛の言葉がたくさん綴られていた。

「可愛い女の人に出逢った」
「小説を書くと言って告白をしてしまった」
「付き合う事になって凄く嬉しい」
「くらげの水槽の前で初めて手を繋いだ。ドキドキした」


彼の日記の様だった。


「海を見ながらキスをした。恥ずかしかったけど、凄く幸せだった」
「こんなにも千波を愛しく思う」
「もっともっと抱き締めたい」
「ずっとずっと一緒に居たい」

ノートをたくさんの涙粒が濡らしていく。


最後のページに原稿用紙が挟まっていた。

彼が完成させた小説だった。



「くらげの恋」
水族館のくらげが美しい女性に恋をするお話。彼女には恋人がいたがくらげは人に形を変え、健気に彼女を愛し続けた。

彼女の恋人が病気で亡くなり、彼女は思いつめて海に入る。そこをくらげが助ける。健気な片思いが叶い、彼女とくらげは恋人同士になる。でも、くらげだという事は言えない。

そこで奇跡が起きる。
彼女とのキスで人間になる事が出来たのだ。そして、2人は永遠に幸せになりましたとさ。  


私達の物語はハッピーエンドにはならなかったけれど……この2人が私達の様に思えた。
お互いを思いやる気持ちが一緒だった。
それだけは真実だ。


……でもやっぱり、
ハッピーエンドになりたかった。



その数日後、

私はお腹に宿った小さな命に気付く。
彼が遺してくれた大切な命。 
彼と私の愛の証。
私は1人じゃない。
ちゃんと生きなきゃいけないんだ。
彼が私に生きる意味をくれた。


「海渡くん、ありがとう」


end