八月下旬。今日は熱帯夜になるかもしれない。発熱したてみたいに、身体に気だるさを感じる。夕立のせいか、湿った空気が漂っていて、まるで温水プールのよう。
 首筋に流れる汗が鬱陶(うっとう)しく、人ごみの中を歩き続けるのが億劫(おっくう)になり、足を止めそうになる。けれど、人の波は次々に押し寄せ、立ち止まることを許してくれない。
 やがて、眠らない都会のネオンがあちこち点灯しはじめ、水晶みたいな光の粒がまとわりついては通り過ぎていき、自分が水槽の中に迷い込んだような錯覚に陥った。
 雑踏(ざっとう)に紛れ、スクランブル交差点を通り過ぎる。しばらく人が方々に散っていくのを見送ってから、野良猫が気まぐれにそうするように細い路地にふらっと身を滑り込ませ、凛(りん)音(ね)はやっと一息ついた。
 不意に、さっきまで勤めていた店でのやりとりが脳裏に蘇(よみがえ)ってきた。
『――そういうわけだから、申し訳ないけど……君には辞めてもらうことにしたから』
『そんなっ。私、雑用係でもいいです。裏方で構いません』
『じゃあ、なんのために君はパティシエをやってるの? 人の手なら足りているんだよ』
 悔しい。いきなりクビにするなんて、そっちだって充分に理不尽じゃないか。
 腹が立ったけど、言い返せなかった。相手はもう私には興味がなく、一刻も早く話を終わらせたいというオーラが伝わってきて、もう望みはないと受け入れるしかなかった。
「……つらい」
 これから通勤帰りの満員電車に乗るのが億劫だ。自炊をするのも面倒だ。休息する地を求めてどこかの店に入ろうとしたが、金曜日の夜はどこもすでに混み合っている。
 せめて通りかかったコンビニでお弁当を買おうかと足を向け、その場で踏みとどまった。明日からのことを考えたら、急にお腹が痛くなってきたのだ。
「だめだ。やっぱり、なんか作ろう……」
 明日から無職なのだ。生活の保障がどこにもない。定期的に入ってきていた毎月のお給料がなくなるのだから、今は無駄遣いしている場合ではない。
(私、二週間後、ちゃんと生きてる?)
 銀行口座の残高がたちまち心配になった。
 絶望の中、ぼんやりと思い出すのは、自分が作った数々のスイーツのことだった。夢や目標に満ちあふれ、寝る間も惜しんで毎日デザイン画を描いたこと、先輩パティシエにならって厨房で試行錯誤した日々。
 それらが次々に浮かんできては、ただ虚(むな)しく凛音のお腹の音を鳴らした。
(なんでこうなっちゃうかな……)
 やりきれなさが、苦いコーヒーの後味のように喉の奥に広がって、胸を重苦しくさせる。さっきまで空腹で倒れそうだったのに、急に食欲がなくなってしまった。
 高校を卒業後、凛音は製菓学校に通いながら地元のケーキ屋でアルバイトし、その後、都内のパティスリーに採用された。いつか自分の店を持てるようになるまでパティシエとして頑張っていこうと心に誓ったことが、遥か遠い昔のように感じられる。
 これからどうしたらいいのか。まだ二十三歳だし、選(え)り好(ごの)みしなければ、いくらだってやり直しはきくかもしれない。しかし凛音はほかの職業なんて考えられなかった。
 実を言うと、凛音がクビになったのはこれで三回目だった。一店舗目は自(じ)由(ゆう)が丘(おか)、二店舗目は中(なか)目(め)黒(ぐろ)、三店舗目は表(おもて)参道(さんどう)……。
 起死回生を図るべく、次こそはと気合を入れて臨(のぞ)んだのに、今回もクビになってしまった。さすがに次はもうない気がしている。
 特段なにかをやらかしたわけではないし、不正を働くような疚(やま)しいこともしていない。ただひたすら真面目にやってきた結果がこれなのだ。努力だけではどうにもならない現実を突きつけられている気分だった。
(私はこの世界に嫌われているのかも……そう思うしかないよ)
 世界から拒まれているなら、自分ではどうすることもできない。もういっそ別の世界線に移動できたらいいのに――何度そう思ったことか。
 凛音は帰り道、泣きたいのをずっと我慢していた。泣いたらすべてが無駄だったことになりそうだからだ。喉の奥に力を込め、耐えに耐えて空を見上げた。それでも、せり上がってくるものは止められそうになかった。
 コンビニを通り過ぎ、再び雑踏に紛れながら嗚(お)咽(えつ)を漏らし、一度だけ手の甲で目元を拭った。それでも次から次へと、目尻を伝って涙が流れていく。気づいたら、子どもみたいに泣いていた。
 時々、うっかり通りかかった人が、見たくもないものを見てしまったと疎(うと)ましげな視線を向けてくる。でも、他人のことなんて今はどうでもよかった。
 このまま消えてしまいたい、そう強く願ったとき。不意に、大好きだった祖父・修(しゅう)治(じ)郎(ろう)の言葉が鼓膜に蘇ってきた。
『なあ、凛音。天命(てんめい)という言葉を知っているかい? 人には生まれながらに持つ役割、使命というものがある。おまえが持つ特殊な力には必ず意味がある。今はつらくともいつか必ず、答えにたどり着けるはずだ。大丈夫じゃ。わかってくれる人間は必ず世界にひとりはいる。ここにいる儂(わし)がそうじゃろう』
〝特殊な力〟なんていらないから、普通がよかった。凛音の口癖(くちぐせ)はそれだった。悲しいことがあるたび、近所にあった祖父の家に駆け込み、よく祖父に泣きついていたことを思い出していた。
(おじいちゃん、それってさ、おじいちゃんがいなくなったら、私にはもう誰もいないってことだよ)
 これから理解してくれる人が現れるとも思えない。なぜなら、凛音は自分が持つ〝特殊な力〟を誰かにわざわざ明かすつもりはないからだ。
 空気は湿気をはらんでいるが、見上げた空はもう、夏の終わりを予期させた。濡れた露草や土からは秋の匂いがしてくる。夏の終わりの匂いと、秋のはじまりの匂い。それらが、凛音をますます切なくさせた。
 さっきの夕立が嘘(うそ)のように、空はどこまでも澄(す)んで青く美しい。夜に溶けてゆく茜(あかね)色の空に、宵(よい)の明星(みょうじょう)が瞬(またた)いていた。その周りに小さな淡い星たちが姿を現しはじめる。しかしその時間は短い。光力を増した都会のネオンが、星の輝きをあっという間に隠してしまう。
 小さくても儚(はかな)くても、美しく瞬き続ける星のように、自分が自分らしくいられる場所はこの世界のどこかにあるんだろうか――。
 そういえば……と凛音は思い出したかのようにバッグの中に忍ばせていた手紙を引っ張り出した。
 これは自宅のポストに届いていたものだ。消印は一週間前。差出人は〝天(あま)ケ(が)瀬(せ)時(とき)生(お)〟。知らない名前だった。親切にもルビが振られていた。まるで芸能人みたいな綺麗な名前だと、凛音は思ったくらいだ。
 封は蝋(ろう)でシーリングされていて、初めはなにかの招待状のようにも見えた。しかし招待状をよこすような関係を持った人は記憶にない。
 中を開いたら、コーヒーの香りが漂ってきた。古紙に染みついたかぐわしい匂いはどこか懐かしさを感じさせ、誘われるように指先でそっと開いた便箋(びんせん)には、修治郎の遺言という題で、達筆な文字が綴(つづ)られていた。
『池(いけ)田(だ)凛音様 前略。突然のお手紙失礼いたします。修治郎さんからの相続物件について伝言を託(たく)されております。直接会ってお話できれば幸いです。ご都合のよろしいときにいつでも構いません。箱(はこ)根(ね)骨董(こっとう)カフェ迷彩(ラビリンス)にお越しください。心よりお待ちしております。草々。天ケ瀬時生』
 祖父が亡くなったのは二年も前だ。なぜ祖父の遺言を添えた手紙が、今頃自分に届くのか、凛音にはまったく思い当たる節はなかった。
 この天ケ瀬という人物は、祖父とどういう関係なのだろう。たとえばこの人が弁護士、あるいは店主なら、肩書の入った名刺が同封されていてもおかしくはない。だが、そういったものはない。一筆添えた手紙だけ。
(ラビリンスって迷宮っていう意味じゃなかった?)
 細かい部分に突っ込みつつ、いたずらかな、と凛音は訝(いぶか)しんだ。
 とくに期日は記されていなかったため、そのまま放置していた。催促の連絡が来ることはなかったが、祖父の遺言ということが引っかかって捨てられず、肌身離さずに持ち歩いていたのだった。
 知らない相手からの手紙だけれど、祖父とのつながりを持つそれが、知らずのうちに、凛音の心の拠(よ)り所になっていたのかもしれない。
(行ってみようか)
 凛音は衝動的にそう思った。
 箱根なら都内からそう遠くないし、一泊二日くらいの宿代なら貯金から支払える。このへんで一度リフレッシュをした方がいいのかもしれない。
 そう考えた凛音は帰宅したあと、さっそくオンラインで宿の予約をしたのだった。

     ***

 一週間後――。
 温泉宿に一泊した翌日の朝、凛音は骨董カフェを目指していた。
「このまままっすぐ行くのかな」
 スマホの地図アプリを見ながら、歩みを進める。
 住所からすると観光地のエリアにあるはずなのだが、実際は賑(にぎ)やかな場所からは少し離れていた。
 箱根湯(ゆ)本(もと)駅から登山列車とケーブルカーを乗り継ぎ、五十分ほどで早雲(そううん)山(ざん)駅に到着した。駅を出ると、かの有名な芦(あし)ノ(の)湖(こ)や国立公園が眼下に広がっていた。反対側には富士(ふじ)山(さん)の雄姿が一望できる。
 到着したあとは、完全に徒歩になった。
 黙々と歩いて十五分ほどが経過し、だんだんと人通りが少なくなっていく。ひとまず地図アプリが示す通りに山の散策路へと入った。
 振り返ると、来た道はとうに緑に覆い隠され、木々の間からは湖(こ)畔(はん)の水面がちらちらと反射している。その向こうには先ほど見えた富士山の姿があった。美しい風景に癒(い)やされたのも束の間、凛音は少し心細くなってきていた。
 富士山は悠然(ゆうぜん)とそこに存在していて、少しも位置が変わっているようには感じられない。しかし、けっこうな距離は歩いていると思う。
(……まだ行くの?)
 いくら歩いてもたどり着かず、やがてだんだんと道が狭くなり、木々のざわめきや小鳥のさえずりくらいしか聞こえなくなっていく。まるで異世界へとつながる入り口みたいに、自分だけが別の世界に誘われていくかのよう。
(大丈夫? 私、迷子にならない?)
 不安を感じはじめる頃、凛音はようやく開けた場所にたどり着いた。目的の建物は、迷子になった散策者の道(みち)標(しるべ)のように、森の中にぽつんと存在していた。
(え、すご……)
 凛音は言葉を失った。
 その建物は、中世ヨーロッパ、あるいは大正時代の迎賓館のような立派な外観をしていた。今にも華麗なる一族が出てきそうな瀟洒な邸宅といえばいいだろうか。
 左右対称の立派な庭園は貴婦人が散歩でもしていそうだし、背丈の何倍もありそうな二階の窓には立派なバルコニーがあり、貴族たちの舞踏会が開かれていそうな雰囲気さえある。一階部分の窓にはめ込まれているのはステンドグラスだろうか。七色に透けたモザイク模様が美しい。
 ぼうっと見惚(みと)れてから、空を翔(か)ける鳥の鳴き声により、凛音は現実に引き戻された。
(ちょっと待って。今って何時代よ。令和でしょ。平成、昭和、明治、大正……)
 指折り数えてみたが、江戸時代から先は元号が多すぎて、頭の中で歴史の教科書をぱたりと閉じる。
 凛音はただ呆然(ぼうぜん)と立ち尽くし、感嘆のため息をついた。
 時を超えた迎賓館……そんなタイトルが思い浮かんだ。
「え、というかほんとにここ?」
 どこを見渡しても、『箱根骨董カフェ迷彩』などという看板はない。だいたい観光地といえば車で通りかかってもはっきりと見えるくらいの看板を出しているはずなのに。
 鬱蒼(うっそう)とした森の中、車は一台も停まっていないし、人の気配も感じられない。しかしアプリの地図はたしかにここを目的地として示している。ほかに建物は見当たらない。
 箱根の上の方はだいぶ涼しい気温で、一足先に秋の訪れを感じられる。しかし早くたどり着きたくて急いだからか、額からは汗が流れていた。鎖骨のあたりまで伸びたセミロングの髪が首筋に張りついてくる。いったん足を止めて、ポケットに入っていたヘアゴムで邪魔になった髪を結い上げた。ひんやりとした風が火照(ほて)った頬や首元を優しくなだめてくれる。しかし汗が引いたら体が冷えてしまいそうだ。
(ここまで来たんだし、行ってみよう)
 迷いつつ、凛音は歩みを進める。開かれたままの門をくぐり、石畳が敷き詰められた長い玄関アプローチを入っていくと、左右に広がるヨーロピアン風の庭園に出迎えられる。きっと春には様々な花が咲き誇るに違いない。
 圧倒されている凛音の視界に、灰色の猫がふらりと現れ、こちらを見た。眦(まなじり)がきゅっと上がった、エメラルド色の宝石をはめ込んだみたいな綺麗な瞳をした猫だった。
(ロシアンブルーっていうんだっけ?)
 猫はまるでついてきなさいと言いたげに背を向け、しっぽをゆらりと揺らした。
「飼い猫かな?」
 しなやかな猫の闊(かっ)歩(ぽ)に誘われ、門から延びている石畳を進み、玄関に到着した凛音は、板チョコみたいな綺麗なドアの前に立ち、おそるおそる呼び鈴を鳴らした。
 しかし反応はない。
 猫は凛音を見上げたあと、興味が失(う)せたようにあくびをして庭の方に戻っていってしまった。
 猫の気まぐれに苦笑しつつ、呼び鈴を二度ほど鳴らして待ってみる。応答がなかったので、ドアノブに触れてみる。錆(さび)ついた真(しん)鍮(ちゅう)の丸いドアノブはゆっくりと回転し、そっと手前に引いたドアは難なく開かれた。
「あ、開いた」
 誰もいなければ施錠されているはず。誰かはいるのだ。その誰かとは、あの手紙をくれた天ケ瀬時生という人物かもしれない。
 緊張が増して、心拍数がどんどん上昇していく。急に酸素が少なくなった感じがして、凛音は無意識に胸のあたりを押さえた。
 どんな人が待っているのだろう。高級ホテルをいくつも経営しているような白髪の老人だろうか。理知的な眼鏡をかけた中年男性だろうか。それとも、毛並みのいい猫を飼っている貴婦人だったりして……。案外、チンピラ風の人が出てきたらどうしよう。
 様々な想像を巡(めぐ)らせながら、凛音は深呼吸をし、そのまま思い切ってドアを大きく開いた。蝶番(ちょうつがい)が軋(きし)んだ金属の音を立て、カランとした心地のよいドアベルの音が玄関ホールに響きわたった。
 中に入ってみて、凛音はますます圧倒された。玄関ホールには深紅色の絨(じゅう)毯(たん)が敷かれ、高い天井からは豪奢(ごうしゃ)なシャンデリアが吊(つ)るされている。目の前にはいかにも高級そうな漆黒(しっこく)の大階段があり、調度品はすべてマホガニー素材のものだろうか。まさに和洋折衷の大正モダン風といったところ。
(すごい……本当に大正時代にでもタイムスリップしたみたい)
 玄関の右手には、ステンドグラス風の小窓がついたドアが半開きになっていた。上部の方にさっき外から見えた窓枠が確認できたので、バルコニー側につながっているかもしれない。左手は廊下のようだが、暗くてよく見えない。
(誰もいないわけがない、よね。玄関が開いているんだし……)
 とりあえず右手の半開きのドアの方へ進んでみることにする。中は電気こそついていないが、陽の光が入り込んでいて明るい。
「ごめんくださ――」
 と声をかけようとしたときだった。ドアの向こうから、誰かがやってくる足音がした。
 再び緊張して待っていると、顔を見せたのは、白いシャツにギャルソンエプロンをつけた、すらりとした男性だった。
「いらっしゃいませ。当館になにかご用事でしょうか?」
 にこやかな微笑みと共に、柔らかな低い声が紡がれる。
 勝手に想像していた、白髪の老人でも、眼鏡をかけた中年男性でも、猫を抱いた貴婦人でも、チンピラ風の人でもなかった。
 見たところ凛音よりもいくつか年上の、二十代後半くらいだろうか。均整のとれたスタイルと、目元が涼しげなさっぱりとした顔立ち。襟足(えりあし)が少しだけ伸びた漆黒の髪とは対照的な、色素の薄いセピア色の瞳が印象的だ。
 中性的で、どことなく少年のあどけなさも残っているが、その佇(たたず)まいには落ち着いた品のよさがあり、凛音の頭の中に、公爵とか貴公子という言葉が思い浮かんだ。レトロでモダンなお屋敷に違和感なく溶け込んでいて、まるで美しい肖像画と向き合っているような感覚に陥る。
 うっかり見惚れてしまってから、凛音はハッと我に返る。彼は肖像画ではないし、生身の人間だ。話を聞くためにここに来たのだ。
 そうだ、手紙だ。凛音は慌てて腕に提げていたバッグから手紙を引っ張り出した。