「……ふうん。まあ、時間を空けたところで、あなたはわたしを選ぶことに変わりはないからね。華嵐妃の仰せのままに」
 紺碧の双眸に挑戦的な色を含ませ、朱雀は優雅な所作で華の手をとった。
 最上級の淑女にそうするように、手の甲にくちづけを落とす。
 熱い接吻は、美しい皇子が垂らす毒の一滴にも似ていた。
 華嵐妃を取り巻くこれらの求愛は、遊びではない。皇子たちの命運をかけた戦いなのだと、華は思い知った。

 園の主殿へ戻ってきた華は、頭を下げる宮女たちに命じた。
「みなさん、下がっていいわ」
 闘技場での一件は、華嵐妃となった自覚を否応もなく促された。
 この園では、嵐妃の寵愛を巡って男たちの争いが繰り広げられる――。
 宮女たちが下がると、主殿まで送ってきてくれた瑛琉は踵を返す。
「少しは主らしくなってきたじゃないか。用があったら遠慮なく宮女に頼めよ。それじゃあ、俺は青龍殿に戻るからな」
 ふと顔を上げた華は、瑛琉の袖が裂けていることに気づく。服には血がにじんでいた。
 白虎と戦ったときに、ついたのだ。
「瑛琉、血が出てるわ……!」
「ああ、これか。かすり傷だ」
「行かないで。手当てするから」
 去ろうとする瑛琉を引きとめ、華は傷の手当てをするための道具を棚から持ってきた。
 饅頭屋の仕事では忙しく立ち回る日々を送っていたから、木枠に指を引っかけるなどのかすり傷を作ることは常だったので応急処置は慣れている。
 手当て用の箱には、傷を消毒する薬や清潔な包帯がそろえられている。桶に水を張り、血と泥を拭うのための布も用意する。
 長椅子に腰を下ろした瑛琉は、上着を脱いだ。
「それじゃあ、手当てをしてもらおうか」
 名匠が彫った彫像のごとく鍛え上げられた上半身を目にして、どきりと胸が弾む。
 瑛琉の裸体を見たのは初めてのことだった。
 ど、どうして、こんなにどきどきするの……?
 浮ついた気持ちになるのがいけないことのような気がして、華はそっと呼吸を整え、胸の高鳴りを抑えた。
 瑛琉は怪我をしているのだから、まずはその手当てを早急に行わなくはならない。
 彼の腕を見たところ、刀傷はごく浅いものだった。
 そのことに、ほっと胸を撫で下ろす。
 水を絞った布でこびりついた血を丁寧に拭き取りながら、華はつぶやいた。
「お願い、瑛琉。もう危ないことはしないでほしいの」
 華にそんなことを言う資格はないのかもしれないが、彼に傷ついてほしくなかった。
 消毒液を塗り込むと、わずかに腕がぴくりと動いたが、瑛琉はなにも言わない。
 二の腕に包帯を巻いて、傷の手当てを終える。
 手当ては済んだので、瑛琉は自分の宮殿へ戻ることになる。それを華は寂しいと思った。
「俺は、おまえを守ると誓った。だからそのために血を流しても、すべてはかすり傷ってことだ」
 微笑を浮かべた瑛琉は、華の髪に飾ったリンドウを摘まむ。時間が経ったので、花はすでに萎れていた。
「それじゃあ……瑛琉が怪我をしたら、また手当てをさせてくれる?」
「ああ、もちろんだ。ま、おまえを心配させないためにも、今後は慎むさ」
 立ち上がった瑛琉は花を携え、出口へ向かった。背を見せながら、空いたほうの手を軽く上げる。そちらは怪我をしている腕なのに。
「また明日な」
 瑛琉には見えていないのに、華はその背に向けて、手を振り返した。

 翌日、朝餉を終えた華は瑛琉の訪れをそわそわしながら待っていたが、彼はいつまでたっても現れなかった。
 来客があったので腰を浮かせると、丞相が現れ、主殿に仕える宮女や宮男がどのような人物で、いかなる仕事をするか説明を受ける。
 主に後宮の妃嬪に仕える宮女とは女性である。男性の場合は局部を切断した宦官が近隣諸国では使われているが、嵐陵国では宦官制度がない。宮仕えの男性は『宮男(きゅうだん)』と呼び、宮女と同列となる。
 年配の丞相は熱弁を振るった。すでに一刻ほど彼の話を聞いているので、すっかり疲れてしまった華だが、辛抱強く引きつった笑みを保つ。