思えば、私はいつから花と関わる道を志したのだろう。
 明確な時期は覚えていないが、「フラワーデザイナー」という職業があるのを知ったのは、中学生の時だった。それまでは、生花店に勤務するパパの影響で「お花屋さんになりたい」とか「植物園で働く人」とか漠然とした夢ばかり追いかけていた。高校に入学した直後のクラスメイトの中には、芸能界デビューやらスポーツ選手の奥さんになるやら言っていた子たちが、「短大行って卒業したら幼稚園の先生になる」とか、「やっぱ普通に就職でしょう」と現実的な選択をするようになっていた。園芸がやりたくてこの科を選択する子が思いの外少なくてショックを隠せない時期もあったけれど。それでも私は、花が好き過ぎて――それ以外の道は考えられなかった。
 進路指導の先生には専門学校を進められたが、私はママと二人暮らし。両親が離婚して以来、私は2LDKのアパートにママと一緒に住んでいる。
 夢は叶えたい。でも、だからといって家の事情も考えずに行きたい学校を選択するという考えは私には浮かばなかった。もちろん、実家を出て一人暮らしをしてみたいとか、専門性の高い知識や技術を思う存分学びたい気持ちは少なからずあったけれど。自立を望む反面、親なしでは一人で生活していくこともできない。私はもう18歳。いくら成人したとはいえ、まだお酒もタバコもできない18歳の子どもなのだ。
 そういう面も全部含めて、私は実家に限りなく近い公立の四年制の学校、『東堂文化大学』を選んだ。この大学では、二年生の後半からフラワーデザイナーになるための専門科目が履修でき、卒業までに就職に必要な資格もいくつか取得できる。それだけでなく、推薦入試合格者の中から若干名、ニ年間分の授業料が免除されるという特待生制度が適用される。
 もうここしかない――私はそれにすべてをかけ、面接試験では精一杯の思いを伝え、無事合格した。そして、念願の特待生制度の適用も認められた。
 高校卒業まで残り三ヶ月と迫った頃のことだ。進路も無事に決まり、一息つく間もなく与えられたのが卒業制作だった。三年間の集大成として、何か一つ作品を作らなければならない。テーマは自由なので、私はずっと作りたかったものを作ることにした。
 それは、ウェディングブーケ。
 結婚なんてまだ先のことかもしれないけれど、私はいつか自分が結婚する時が来たら、ブーケは絶対に自分でアレンジしたものを使いたいと決めていた。そのこだわりと「彼氏もいないくせに」という自己突込みはさておき。普段興味がないと言っておきながら、漠然と”いつか結婚するだろう”と信じていることはさておき。
 とにかく、人生の節目を大好きな花で飾る――そんな毎日が、これからも続けばいいと高校生ながら思っていた。
「恋、か……」
 まるで想像もつかない。恋愛でさえ未経験なのに、本当にこんな調子でウェディングブーケを活用する日が本当に来るのだろうか。よく、恋は突然にとか、前触れもなくやって来るとか聞く。たとえば、梨歩はバイト先で知り合って常連客だった彼からのアプローチで交際に発展している。本当に些細なことから始まるのだとしたら、私が最後に出逢った人は一体どこに……?
「ダメだ、私が男性自体を見なさすぎてピンと来な――」
 

 あ。
 そういえば。



「……あったかも、しれない。いや……」

 微かな記憶を頼りに、私は思い当たるシーンを片っ端から繋げ、整理する。




「――思い出したわ」
 そう。確かあれは……

   ☆
 大学の合格通知をもらった翌日のことだ。
「今日は学校もバイトも休みか……」
〈ピロロロ……〉
 私のケータイが鳴った。
「あ」
 メッセージの通知が画面に表示された。
〈若葉、合格おめでと!〉
 梨歩からだ。梨歩にしてはご丁寧に、クラッカーのスタンプ付きで送信してくれている。
〈ありがとう。これでやっと一段落できるわ〉
 トークが続く。
〈お疲れ~。何かお祝い用意しとくね〉
〈うん、ありがとう。梨歩はもうすぐ検査でしょ? 無茶しないでね〉
〈は~い。あ、そうだ、今ね、お母さんが持ってきてくれたマカロン食べてるんだけど一緒にどう?〉
 え?
 梨歩は一応重病患者のはずだ。でも、食欲は入院する前から衰えていない。病院で栄養管理がされた食事以外にも、お菓子のつまみ食いはしょっちゅう。そういえば、この前はドーナツを持って行ったら4つとも全部一人で食べてしまったなんてことも。程々にしないと、入院長引いたりするだろうから、食べ物の差し入れのし過ぎには要注意だ。
 私は少し考えてメッセージを送信した。
〈そうなんだ。行きたいけど、卒業制作の課題がまだ片づいてなくて。ごめん、また今度行くね〉
 進路が決まって一息つく間もなく、卒業制作が最後の追い込み課題となる。
〈そっかあ。じゃあ今回は若葉の分も食べとくね。卒業制作頑張れ~〉
 結局食べるのか……。梨歩は小柄で華奢な割によく食べるから、こうなるともう止められない。
〈はいはい、食べ過ぎ気をつけてね〉
〈はーい〉
 私は梨歩の返事を確認し、トーク画面を閉じた。

「さて、そろそろ始めるか」
 いよいよだ。長期間温め続けた卒業制作のウェディングブーケにいよいよ着手する時が来た。
 ブーケホルダーというマラカスによく似た形の便利な道具もあるが、今回はそれを使わずに花材とワイヤーだけを使ったシンプルな方法で制作することにした。
「うう、緊張する……」
 初の試みにもかかわらず意地っ張りかもしれないが。
 やるからには一つ一つ緻密に手作業で行いたいというこだわりがあった。シンプルなだけに、丁寧に行わないと作品に粗が出てしまう。なかなか根気のいる作業だ。
 私はテキストを開く。
「まずは……基本のラウンド型。半球の形が崩れないようにバランス良く配置、と。じゃあ今回はカサブランカをメインにして、グリーン系のアジサイ、ガーベラで囲も」
 花の配置もバランス良く。メインの花を崩さないように、中央から螺旋を描くように。
 私は同じ花材が偏らないよう、等間隔に並べた。
 花の配置が決まったら、崩さないように一つに束ねていく。
 でも……。
「……あっ!」
 当然、初めからうまくいくわけもない。
「あれ? ワイヤーが外れ……って違う! 花首(はなくび)がもげてる! うわぁ、早速やっちゃったぁ~」
 締めすぎたのか。メインのカサブランカの花首が、ワイヤーで掻き切られた……。
「よし、今度こそ」
 諦めの悪い私は、何とか材料の再利用をしようと――もげた花首の丈夫なところにワイヤーを通し、一輪挿しの花のような形にする。
「とりあえず形は整ったわ。あとはワイヤーを隠すように」
 ひらひらひら。
「!!」
 散った。
「うそ、何で?」
 数少ない生花が、一瞬で昇天。
「うわぁ、ごめんね~っ」
 いくら練習用とはいえ、生花は生花。生かすどころか、私の手で儚くも散らせてしまったその命。
 その罪悪感が、創作意欲を減退させる。
 これで、いいのか? と自分に問う。
 練習のために犠牲になっていく命――もしかして、私は間違ったことをしているの?
(ああああ~~!)
 一度迷うと、なかなかそこから抜け出せない。
 それでも、作らなければ。
(進路決まったのに卒業できないなんて、笑い話にもならないよね……)

 そんなこんなで悪戦苦闘すること二時間。
 いくつか学校で支給された花材(かざい)をいろいろ組み合わせてみたものの、イメージの配色と違ってくすんで見えたり、安定感がなくスカスカで貧相に見えたり。事が思うように運ばないストレスで、モチベーション維持が困難に思える瞬間もあった。

「はぁ……。これで何度目だろう」
 花も決して安くはない。学校で支給されるものもあるが、ないものは各自で用意しないといけないので、予算のことを考えると失敗をする余裕すらない。
「う……」
 うまくいったかと思えば、締まりが悪くてすぐに解けたり、指先にワイヤーの切り口が刺さったり。
「これって、”後がある”って思うから油断しちゃうのかな?」
 私はその瞬間、一つの答えを導き出した。

「思い切って高価な花使ったら、失敗しないかも」

 思い立ったが吉日。私は花のこととなると、途端にフットワークが軽くなる質だ。そんな人、世界中のどこを探しても恐らく私ぐらいしかいないだろう。
 私は作業の手を休め、バッグを手に掛けた。そして、バイト先のアートフラワーショップ『ロゼッタ』へ向かった。

 自宅から歩いて十五分程で着いた店先には、いつも明るく気前のいい店主の佐伯(さえき)さんがコサージュ作りをしていた。
「あら、若葉ちゃん」
「こんにちは」
「こんにちは。卒業制作は順調?」
「それが……なかなか難しくて。失敗して材料がなくなっちゃったので見に来たんです」
 この店の特徴は、フラワーアレンジメントの花材を専門に取り扱っていること。生花(せいか)以上に精密でカラーやパーツのヴァリエーションが豊富なアーティフィシャルフラワー(いわゆる造花)やプリザーブドフラワー(生花に保存液を含ませたもの)を中心に、ブライダルやアニバーサリーギフトのオーダーも受け付けている。
 専門家もご用達(ようたし)で、有名なデザイナーや講師の人たちからは「ありそうでなかなかない物が豊富にあるところが嬉しい」と支持率もかなり高い自慢の店だ――と佐伯さんは自負している。
 私もこの店が好きだ。あまり大きな店ではないが、アットホームで華やか且つ居心地がとてもいいので何度でも足を運びたくなる。私にとっては、ここは第二の我が家のようなもの。
 店内を見渡すと、今は来店客がいない様子。普段接客中はなかなかゆっくり店内を見て回れないので、この機会に売場の在庫も確認しておこう、と私は巡回がてらブーケの花材を探す。
 いつか佐伯さんに教えてもらった青い薔薇の話を思い出しながら、アンティークローズのコーナーの前で足を止めた。
 見たこともないくらいの、鮮やかなロイヤルブルーの薔薇や同系色の薔薇。その隣の生花コーナーにある着色薔薇も同じような色味をしたものが数点ある。
「ごめんね。春先ならもっといろんなのあるんだけど、今寒いからどこも冬眠中でね。特に青いのは。苗というか、枝だけになったやつならうちにあるけど、売り物じゃないのよね」
「そうですか……」
 薔薇は四季咲きで、年間通して花を咲かせる。でも、さすがに寒さには弱く、見頃は春と秋。師走のこの時期に、ただでさえ珍しい青の薔薇を求める方が難しい。特に、あまり一般的には知られていない珍しい品種などは、入手自体が難しいので、手に入る可能性は限りなく低くなる。
 いつか佐伯さんが語った、青い薔薇の話。
「薔薇には本来青い色素がないから、青い薔薇は実現不可能だといわれていたの。英語でBlue roseっていうのは”不可能”っていう意味を表す言葉としても使われているほどよ。でもね、世界中の薔薇の育種家が何度も品種改良を重ねて、着実にその夢を実現させようとした。だから今、Blue roseは”不可能を可能にする”という意味に変わってきているの。青い薔薇は、人々に夢をもたらす奇跡の花なのかもね」
 私は一瞬で虜になった。世界中の青い薔薇を調べていくと、確かにどれも青みがかった青紫……
 「うーん……。確かに青っぽいけど、私の思う青、ではないなぁ……」
 着色薔薇も綺麗だけど、やっぱり本物には適わないのだろうか。
 どれもピンと来なかったのだが、たった一つだけ「これだ!」と思う青の薔薇に漸く出会うことができたのは昨年の春頃だ。
 それは“ブルーヘヴン”という品種だ。ロゼッタでバイトを始めて二年目になる頃、佐伯さんに本物を見せてもらったあの瞬間、私は運命を感じた。正直なところ、それは決して「青という青」ではない。鮮やかさには欠けるものの、あのグレーが入った淡いパステルブルーのシックな色合い。限りなく白に近いのに、どんな青よりも奥が深く、控えめな色調なのに存在感があるミステリアスな花。
(今、目の前にあるけど……枝だけになっちゃってるのが残念)
「……じゃあ、これにします」
 ブーケは白とグリーンのシンプルなものにする当初の予定とはだいぶ異なるが、急遽ブーケは青系統で制作することにした。ロイヤルブルーの着色薔薇をメインに、同系色のグラデーションが入った薔薇を3本、白の薔薇を3本選び、アクセントに使う小花のかすみ草とブルースターもつけて……。
(うわ、結構いっちゃったかも)
 お財布の中を確認する。予算は3000円以内と決めていたのだが、急に青い薔薇を使いたい衝動に駆られて、気がつけば青いのばかり選んでいたからだ。
「あら、素敵なブルーで統一したのね」
「は、はい。卒業制作に使うためなんですけど、ちょっと贅沢すぎますかね」
「いいじゃない。作りたいように作った方が、生き生きとした作品に仕上がるし。それに、それだけ思いを込めて作ってもらえれば、花だって喜ぶわ」
 佐伯さんが丁寧に包装してくれた。
「はい、じゃあ全部で2000円ね」
「え?」
 佐伯さんはにっこりと微笑む。
「卒業制作、できたら私にも見せてちょうだい」
「そ、そんな! だってこの薔薇1本だけでも……」
 500円はする。いつも見ているから間違いない。それでも……。
「店主命令よ。はい、2000円」
 か、神様――!
「あ、ありがとうございます!」
 卒業制作、頑張ります! ――そう言って、私は店を後にした。

 佐伯さんのご厚意で大負けしてもらった花材たち。私は思わず浮かれてしまう。
 ウキウキが止まらない。
(あぁ~ッ! 何て幸せ!)
 だから、すっかり前を見て歩くことも忘れていた。

「――っ!」
 
 視界が急に暗くなる。同時に顔面に衝撃を受け、そのまま舗道に腰から不時着した。
()っ……!」
「あ、ごめんっ」
 
 (かす)かに聞こえた相手の声。私はただ、焦点の合わない視線でぼーっと地面を見つめていた。
「あの……大丈夫?」
 私は地面を辿るように相手の方へと視線を向ける。
 まず、黒のレザーシューズと光沢感のある黒のスキニーパンツが視界に入った。二、三回ほど瞬きをして焦点を取り戻す。視線の先に映ったのは、モスグリーンのマフラーに黒のロングコートを羽織った、ブロンドの髪の男性。
 年齢は私と同じくらいだろうか。二十歳前後の、まるでロックミュージシャンのような風貌。その彼の肌は眩しいくらいに白くて透明感がある。何よりも驚いたのは――
「!!」
 少し長めの前髪の隙間から覗いた、翡翠(ひすい)色の双眸(そうぼう)。その鮮やかなグリーンに、私は吸い込まれるような感覚に陥った。
 彼は私と視線の高さが同じくらいになる位置まで腰を(かが)めた。
「立てる?」
 男性にしてはやや高めのハスキーな声。一瞬女性かと思ってしまうほど。何て甘美で透明感のある声なのだろう。その柔らかな声質に、どこか懐かしさが漂う。
「す、すみませんっ、その、つい浮かれてて……」
 私がそう口走ると、彼が急に噴き出した。
「う、浮かれてたって……! 君、そんなこと自分で言っちゃうんだ」
 あはは、と彼は続けて笑う。
「面白い子だね」
 私は途端に気恥ずかしくなる。
(そんなに笑わなくてもいいのに)
「あ、あの……私、その……」
 うまく言葉にならない。
 どぎまぎしていると、彼が私の手元に視線を向けて言った。
「その薔薇、綺麗だね」
「あ、これは……」
 彼はロイヤルブルーの花弁を指さす。
「青い薔薇なんて、初めて見た」
「こ、これは……着色薔薇なんです。白い花に専用の着色剤で色をつけた水を吸わせてあるもので」
「へぇ、そうなんだ。花、好きなの?」
「は、はい。物心ついた時からずっと」
「もしかして、その道を目指しているとか?」
「はい。まだまだ勉強中ですけど……」
「素敵な夢だね。是非叶えて欲しいな」
 彼は私の手をとって私を立たせてくれる。
「あ、ありがとうございます」
 私はそれ以上何も言えなかった。
 しなやかで細長い指。そして、その手は思いの外大きくて温かかった。
「……」
 冬の寒さも感じなくなるほど、顔が火照るように熱帯びた。呼吸もだんだん苦しくなって、心拍数が上昇していくのが体全体で感じるほど。
これは、眩暈(めまい)? 何、このふわふわする感じ……)
 手が離れた。
「それじゃ、気を付けて帰ってね」
「あ、はい。えっと、ありがとうございました――」
 最後に見たのは、軽く片手を上げて去っていく彼の後ろ姿。
   ☆ 

「そういえば、あの人……」
 不意に思い出した、数か月前の出来事。
 慌ただしく走り去るように過ぎた日々の中で、すっかり忘れかけてしまっていた。あんなに衝撃的な出逢いだったはずなのに――。
 もしかしたら、今思い出したのも……何かの縁。なのかな?

「もう一度、会いたいな」
 お互いに名前も知らない、たった一度きりの出会いだとしても。
 もし、奇跡が起こるなら。
 神様がいるのなら。
(もう一度、彼と巡り合わせてください)
 私は、高鳴る鼓動を抑えきれず自室の窓を開け放った。
 ひんやりとした夜風が、火照るように熱くなった私の頬を(かす)める。