「うわ、懐かしいな……。なんだ、胡桃が持ってたのか」
それは、僕がどうしてもと三人を巻き込んで始めた交換ノート。とは言っても一周もせず、そのノートはどこに行ったのかわからなくなっていたのだ。
まだ、ほんの数か月前のことだ。それなのになぜか無性に懐かしくなり、僕はそのノートを開いた。一番最初のページは僕だ。わざわざひとりひとりの名前を呼んで、熱いメッセージが綴ってある。
「こうして見ると、僕って本当に思い込みが激しくて、暑苦しいやつだな……」
読み返すのを辟易してしまうものの、どこか微笑ましくも思ってしまう。
次のページは莉桜。彼女らしい綺麗な文字で日付が書いてあって、あとはりんごの模写。なぜりんご? たださすがは美術部員、とてもうまい。僕じゃこんな風には絶対描けない。
そしてページを開く。胡桃の番だ。
『交換ノートなんて小学生ぶりに書くよ。えっと……なにを書いたらいいのかなぁ。今日の夕ご飯はおばあちゃん特製カレーでした!』
くすりと小さく笑ってしまう。戸惑いながらも一生懸命書いている姿が浮かんだからだ。しかしそのページはその一行で終わっている。僕はぺらりと次のページを開いた。
『ちょっと聞きたいことがあるんだけど……。みんなは、自分がどこになにを置いたか忘れることってある? 一度や二度じゃなくて、頻繁に』
僕の眉間には、ゆっくりと力が入っていく。かろうじて読み取れるその一文は、ぐるぐるとボールペンで消すようにされている。僕は次のページに目を移した。
『今日一瞬、おばあちゃんがわたしのことを忘れていた。わたしのことを見て「志保ちゃんのお友達?」って。志保ちゃんって、お母さんのこと。おばあちゃん、本当にわからないのかな』
もう誰にも渡すことはないと決めたのか、そこからの言葉は全て、僕らへ向けてのものではなくなっていた。そう、これは〝胡桃の日記〟だったのだ。
『みんな、ちゃんと進路を考えていてすごい。わたしはどうなんだろう。まだあのことが解決していないのに、本当に大学なんて目指してもいいのかな』
『歴史のテストの結果が散々だった。必死に勉強したはずなのに、頭の中が真っ白になった。もしかしてこれも、症状のひとつなのかな。先生には考えすぎないでって言われたけど、色々考えてしまう』
『みんなの前でも、わからなくなってしまった。たこ焼き屋なんて、境内の中にひとつしかなかったのに。みんな変に思ったよね。どうして思い出せないんだろう。簡単なことなのに、どうしてわからなくなっちゃうんだろう。記憶障害が起こる病気は、遺伝することもあるらしい。怖い』
日付は特に記されてはいない。だけどこれが夏祭りのときのことだろうということは察しがついた。
あのとき、たこ焼きを買った出店の場所がわからないと、胡桃は不安そうな表情を浮かべていた。その背景には、彼女のこの想いがあったのだ。
「記憶障害……? 病気って……」
僕はなにかに取り憑かれるようにそのノートのページをめくった。そこに書かれていたのは、漠然とした彼女の不安感。そして、僕らとの日々が彼女にとってどれほどにかけがえのないものであるかということ。その想いが強くなればなるほどに、比例して大きくなっていく恐怖心が書かれていた。
ドクドクと心臓に血液が集中していくのがわかる。酸素が薄くなったように感じ、僕は浅い呼吸を繰り返した。
胡桃は心配性だ。起きてもいないことを危惧して、わからない未来を案じて、最悪の事態を想定して必要以上に不安になったりする。
「他人のことなら、ドーンと背中を押すだけの大胆さがあるのに……」
なぜか、自分のことには妙に慎重だった。きっと胡桃は、考え過ぎだ。もっと気楽に生きていいのに。できれば僕が、この不安を取り除いてあげたい。
――ペリ。ページをめくろうとしたときに、それまでの捲る感覚とは違うものが指先に伝わった。紙自体が張り付いているような、硬さを持っていたのだ。
「……涙?」
ぎゅんとした焦燥感が身体を包む。心はそのページを捲りたくないと拒否反応を示したが、僕は大きく深呼吸をしてそれを無視した。破いてしまわぬよう、ゆっくりと。そのページをめくったのだ。
『十代でこの病気を発症する人なんて、世界的にもほとんどいないらしい。限りなく0に近い確率に、どうしてわたしが入ってしまったんだろう。やっぱり運命は、変わらないみたい』
僕は何度も、その文章を目でなぞった。何度も、何度も。
病気を発症? わたしが入ってしまった? それはつまり、胡桃が、記憶障害が起こる病気だと診断されたということか?
ぐるぐると目が回る。いや、なにかの間違いに決まっている。このあとだって、日記が書かれた形跡はある。きっとこのあと、その間違いが訂正されるに違いない。
ぐっと奥歯を強く噛みしめ、僕はまたページを捲る。指先が震えていることには、気が付かないふりをして。
『本当に忘れちゃうのかな。こんなに毎日ちゃんと生きてるのに、いろんな思い出がたくさんあるのに、全部本当に忘れるの? なんで? どうして忘れるの? お父さんのこともお母さんのこともおばあちゃんのことも、わからなくなるの? 葉に拓実に莉桜のことも? こんなにずっと一緒にいるのに? あんなにたくさん楽しいことがあったのに? 忘れろって言われても無理なのに、本当にいつか全部消えるの?』
『病院に行った。まだ本当に初期の段階だからそんなに気落ちしないでって先生から言われて、叫びだしそうだった。初期だろうがなんだろうが、病気なのは確かなのに。わたしだって知ってる。この病気は、完治することがないっていうことも』
『全部夢だったらいいのに。夜もいつ眠ってるんだか、いつ起きてるんだかよくわかんない。なにも考えたくない』
『今日葉から、みんなで夏祭りに行ったときの写真が送られてきた。あのときは楽しかった。空気がキラキラしてて、青春って感じで。葉が家まで送ってくれて、すごく嬉しかった。一生忘れないだろうなって思った。だけど忘れるのかな。この瞬間にも、わたしの脳の細胞は、どんどん壊れていってるのかな。
本当に? やだよ、忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない』
──胡桃はひとり、闘っていた。
特効薬があって感知する可能性の高い、インフルエンザじゃなかった。今の医療では治すことは難しい──限りなく不可能に近いと言われている病と、胡桃は対峙していたのだ。
「……なにかの、間違いだよな」
わなわなと唇が震えてしまう。
間違いだと思いたい。間違いだと信じたい。
だけどこの日記から伝わってくるのは、胡桃のどうしようもない絶望と心の叫びだ。
「だって僕は……胡桃を事故から救ったじゃないか……記憶を失った彼女の過去は、僕が塗り替えたはずじゃないか……」
胡桃は過去に一度、事故によって記憶を失っている。だけど僕が時間を戻して、それを阻止した。
あの時点で胡桃が記憶を失うという運命は変わったはずなのだ。だからきっとこれもなにかの間違いで──。
「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」
トントントン、という包丁の音と共に、おばあちゃんの歌声。次いで、お出汁のやさしい香りが奥から風にのってやって来た。
おばあちゃんはもう、ゴミを燃やすことからは意識が離れていったようだ。僕がここにいることも、もしかしたら忘れてしまったかもしれない。
そこでふと、日記に書かれた言葉が思い出された。
──遺伝性の病気。
しわくちゃに笑うおばあちゃんの顔と、不安そうに瞳を揺らした胡桃の顔がぼんやりと重なった。
「運命は、変わってなんかいなかったのか……?」
中田胡桃は、いつか必ず記憶を失う。
それが、彼女の運命だというのだろうか──。
「……葉?」
ずっと聞きたかった、恋しかったはずの声が、僕の鼓膜をゆるやかに震わせた。