夏が好きだ。もう一年中夏だったらいいくらいに、夏が好きだ。なんて言うと「情緒がないなぁ」と胡桃は呆れるんだけどさ。
「夏休み何する⁉ どこ行く⁉」
両手を勢いよく突き上げれば、アイスキャンディの滴がキラリと舞う。すでに学んでいる胡桃は、被害を免れるためにサッと拓実の後ろに隠れた。
終業式を終えた僕らは、四人並んでいつもの海沿いを歩いていた。前回の夏、僕はこの日、この場所で、莉桜と胡桃を傷つけた。それをずっと、後悔することになるとも知らずに。
嫌な記憶がみぞおちあたりまで押しあがり、僕はぶんぶんと頭を振った。
「あれはもう、なくなった過去だ」
誰にも聞こえないよう、僕は自分に言い聞かせる。あれはもう、僕の中にだけ残っている過去の出来事だ。
状況は変わった。もう二度と、同じことを繰り返したりはしない。いや、そういうことにはならないだろう。
「本当に葉は、夏大好き!って感じだよね」
無邪気に笑う胡桃の、夏服の襟がさわやかに揺れた。
四人で一緒に夏の海を前にアイスキャンディを食べる。これが当たり前なんかじゃないってこと。神様がくれたチャンスによって取り戻した夏なんだってことを、僕だけが知っている。だからこそ僕は、この夏を一生に残るものにしようと思っていたのだ。
「胡桃、今日何時に待ち合わせする?」
「授業始まるのが五時だから、十五分前くらいに着けばいいかなあ」
しかし、自然と繰り広げられる女子ふたりの会話に、僕は思わず首をかしげた。
授業? 五時に始まる?
「胡桃も、莉桜と同じ予備校に入ったんだっけ」
女子ふたりの会話に拓実が加わる。夏の強い日差しが、僕の心をジリジリと焼き付け焦がす。
高校三年生の夏休み。それは、受験生の夏休みとも言い換えることができる。たしかに最近は学校でもやたらと、進路についての話が出ているとは思っていた。だけどそのことが、僕の楽しみにしていた時間を奪うことになるとは。
「勉強漬けの夏休みかぁ」
がっくりと肩を落とす僕の背中を、胡桃がとんとんと軽く叩く。
「夏祭りは行けるし。それに受験が終われば、ぱぁーっとみんなで遊べるよ」
胡桃の言葉に、僕は気持ちを切り替えるように空を見上げた。入道雲がもくもくと立ち上る夏の空は、どんなときでも僕の好きな色をしている。
いつまでもうじうじしているのは僕らしくない。なによりも前へ進もうと頑張っている仲間の背中を押すのが僕の役目だ。
「莉桜は今でも成績優秀なのに、やっぱり受験って本当に大変なことなんだな」
「いやいやぁ。高い医学部の壁だって、莉桜様の前にはひれ伏すと思うけど」
おどけたような拓実の言葉に、じろりとそちらを睨む莉桜。いや、医学部って……。
「莉桜、医者になるの?」
そんなの初耳だ。そもそも僕たちは毎日を楽しくなんとなくだらだらと過ごしてきたけれど、こういった将来の話をしたことがあまりなかったのだ。みんな大学へ進学するのだろうとは漠然と感じてはいたが、具体的なことは話していなかった。
もしかしたら僕以外の三人は、それぞれで何かしらの情報を交換していたのかもしれない。あまりにも僕が、進路について無頓着だったから話題に出さなかっただけで。
「ああ、家を継ぐから」
莉桜は耳たぶを指先で触りながら、さらりと言った。
継ぐ──。つまり、莉桜の親って──。
「狭間病院の院長だよ。バイト先の裏にある、あそこのな」
拓実の言葉に、僕は思わず大声で「マジか‼」と叫んでしまった。隣にいる胡桃が両手で耳を塞いでいたので、相当な声量だったのだと思う。
狭間病院──、それはこの街では一番大きな総合病院だ。何かあれば狭間病院。救急車だって、目指せ狭間病院なのである。
そこの娘が莉桜だなんて、まったく知らなかった。
「莉桜は、ずっと医者になりたかったの?」
小さい頃から医者である親の背中を見ていると、自然と目指したくなるものなのかもしれない。
「〝なりたい〟っていうよりは、〝なるんだろうな〟みたいな感じ。小さい頃から、医者になるのが当たり前みたいに言われて育ってきたから」
いつもと同じ、冷静な莉桜の横顔。その言葉には、どんな感情も込められていないように感じた。夢を語るような期待感なんてまるでなくて、だからと言って自分のやりたいことをあきらめているという絶望感もまとっていない。
彼女の言う通り、医者を目指すことは莉桜にとって当然の出来事なのだろう。
「医者って、そう簡単に目指せるものじゃないだろ? それを当然って言えるの、本当にかっこいいな」
素直にそう述べると、莉桜は不思議なものでも見るような目をしたあと、ふっと吹き出す。何がおかしいのかよくわからなかったけれど、次いで胡桃が笑い出し、拓実までもがそっぽを向きつつ、口元を緩めていた。
これまでは、〝今〟だけが大事だと思ってきた。だけどこうして未来のことを話してみるのも、悪くはないのかもしれない。きっと僕らの未来には、それぞれお互いの姿があるから。
「胡桃は? 行きたい大学とかあるの?」
そんな莉桜と同じ予備校に通うことに決めた胡桃は、どんな未来を描いているのだろう。胡桃は大きな瞳を右上に動かすと、しばらく考えるような素振りを見せた。
「わたし、自信をつけたいんだよね。ちょっと高い目標を掲げて、そこに向かってちゃんと努力できるとか結果を出せるとか。そういうので自分もちゃんとやれるんだ、って思いたい。特になりたい職業や、やりたいことがあるわけじゃないんだけどね」
たしかに胡桃は、ふとした中で自分に対して不安そうな言動を取ることがあった。
例えば宿題の箇所を何度も確認したり、ふたりで会話をしているときに「今のわたしがした話、ちゃんと伝わった? 大丈夫?」なんて聞いてくることも一度や二度ではなかった。
大丈夫だよと僕が言っても、あまりその言葉が効いていなかったのは、自分に自信が持てずにいたからだったらしい。
「胡桃、すごいじゃん」
純粋に、胡桃の考え方をすごいと思った。
「自分で改善したいところを見つけて、どうしたら克服できるのかって考えてさ。自分の弱さと向き合うことだって難しいのに、きちんと行動ができるってすごいことだよ」
僕の言葉に彼女は少し目を見開いて、それからはにかむように微笑む。
「拓実は地元のF大でしょ? 葉はどうするの?」
莉桜の話に出てきたF大は、このあたりからは一番近くにある私立大学だ。偏差値もそこまでは高くないので、合格圏内だろうということだった。
僕以外、みんなちゃんと、将来のことを考えているんだ。いや、僕だってまったく考えていないというわけではない。
「僕は家を出て、働くことに決めたんだ。あと四年も勉強しなきゃいけないなんて、僕には耐えられそうにもなくて」
ぶるぶるっと大袈裟に肩を震わせ、自分の両腕をさすって見せる。
進学せずに働くなんて、なにか事情があるのだろうと思われてもおかしくはない。それでも、大変だなとか、かわいそうだとか、そういう感情は向けられたくない。この三人ならばそんな風に思ったりはしないだろうと自分に言い聞かせながらも、こうして表情を作ってしまう僕は、やはり信じ切れていないのかもしれない。
「幸か不幸か、僕にはかなえたい夢も学びたいこともあるわけじゃないからさ」
勉強は性に合わないみたいだ、と笑う僕を、三人はどんな目で見ているのだろう。それを確認するのが怖くて、なかなか前を向くことができない。
昔向けられたような同情の目がそこにあったらどうしよう。
腫れ物に触るような感覚で、接せられたらどうしよう。
次に僕はどんなおどけた顔をすれば、みんなが不審がらずに、いつもと同じ顔をしてくれるのだろう。
「働く──か。いいね」
俯く僕の耳を、莉桜のさらりとした声が柔らかくかすめていく。
「仕事はなにやんの?」
拓実の声も、何の濁りもなく鼓膜を揺らす。だから僕は、少しだけ顔をあげることができたんだ。
「……今のコンビニで、そのまま働いてもいっかなーって」
本当は、進学しない理由ならちゃんとある。叔父さんと叔母さんに、これ以上迷惑をかけたくない。鈴との家族水入らずの時間を過ごしてほしい。
だけどこんなことは、みんなが知らなくていいことだ。これから受験で大変な時期に入るというのに、僕のことで色々気を遣わせたくはないから。
「いいね! 葉、あの制服似合ってるもん」
軽やかな胡桃の言葉が、僕の心にそっと寄り添う。
──ああ、大丈夫だ。この三人は、ここにいる〝僕〟を、見てくれている。
一般的な常識やものさしで測ったりせず、きちんとまっすぐ向き合ってくれる。
僕のそばにいる三人が、この三人で本当によかった。
「あー、なんか……幸せだー!」
熱いものが溢れる前に、僕は水平線へと身体を向けた。
分厚い入道雲に、穏やかに凪ぐ青い海。
たしかにこの夏は、きっともう二度は巡らない。それでも大事な三人が、将来へと向かうための大きな意義のある時間になることもまた事実だ。それならば僕は精一杯、みんなのことを応援しよう。たとえ夏休み中、なかなか顔を合わせられなくても──。
「若者たちよ! 夏休みは学校の図書室で勉強会なんていかがでしょう? 超優秀な講師付きよ!」
そのときだった。僕らの後ろに、この街には不釣り合いな真っ赤なオープンカーが停まった。
◇
「高野さん、絶対ひとりじゃ暇だからって、僕らを呼んだんだ」
赤いオープンカーで通勤する我が校の司書、高野さんの提案にまんまと乗ってしまった僕たちは、夏休みだというのに毎日毎日登校するはめになってしまった。
学校の決まりで、お盆期間以外は夏休み中も図書室を開けなくてはならないらしい。図書室を利用する生徒はほとんどいない状況にも関わらず、だ。そのため、仕事中に暇を持て余すだろうと予想した高野さんは、勉強会と称して僕らを招集したというわけである。
超優秀な講師というのは当然のごとく高野さんのことで、だけど実際に教わる場面はほとんどなかった。なぜなら、僕らには超優秀な莉桜というブレーンがいたからだ。
「こら石倉。人聞きの悪いこと言わないの! いいでしょ、仲間たちと図書室で勉強会なんて青春って感じじゃん」
分厚い小説を読んでいた高野さんは、僕の言葉にフフンと笑う。
たしかに、たしかにそれはそうなんだ。
胡桃と莉桜がほぼ毎日予備校に行くと聞いたときは、夏休み中に頻繁に会うことを諦めかけたけれど、この勉強会のおかげで今までと変わらず四人で過ごすことができている。胡桃たちはこの時間に予備校の宿題や予習なんかをやっていて、僕と拓実はそれぞれなんらかのテキストを解いていた。
「三人は過去問で、石倉は学年まとめの問題集?」
「一応ね。この状況で、僕だけスマホでゲームするわけにもいかないし」
高野さんは「意外と律儀だよねー」と笑う。
律儀かどうかはわからないけど、僕はこの夏休み、ひとつだけ決めていることがあった。それは絶対に、三人の邪魔はしないということ。
そうなると自然と、やることも集中力もない僕が高野さんと会話するという構図が出来上がる。まさに高野さんの狙い通りというわけだが、仕方ない。
「高野さんってさ、なんで司書になったの?」
三人とは少し離れた司書席に座る高野さんのもとで、座りっぱなしで凝り固まった体を捻りながら僕は問う。
この間、三人と将来のことを話したからか、一風変わった司書さんの歴史を聞いてみたくなったのだ。
「んー。なんだろう、とりあえず家業は継ぎたくなかったのよね。じゃあなにやる?ってなったとき、本が好きだから本屋か司書だなーと。それで結果、司書になってた」
夢も希望もなくて申し訳ないけど、と高野さんは言葉の割には全く申し訳なくなさそうに話す。だけど僕はそれよりも、高野さんの家業というものに興味が湧いた。それを素直に尋ねれば、「旅館」という短い返答だけが返ってきた。
「高野さんは、なんで旅館やりたくないの?」
「なんでって……。なんかさぁ、やりたくなかったのよ。決められたレールを走るのは性に合わないし」
「それだけ?」
「まあ、それだけっちゃそれだけだね。いくらでもかっこよさそうな理由を後付けすることはできるけど、実際そんな複雑な話じゃない。自分の道は自分で決めたかったんだろうね、あの頃のあたしは」
「ご両親は高野さんに継いでほしかったんじゃない?」
「そりゃそうだろうね、あたしひとり娘だし」
「継いであげたらいいのに」
「まあ、あたしの人生だからさ」
「……そっか」
高野さんの言っていることは、なんとなくわかるような気もした。だけどそれと同時に、なんだか心にしっくり来ないと感じたのも事実だった。
「高野さんって、不思議な人だよね」
二時間ほどの自習を終えたところで、紙パックのレモンティーをストローで飲み干した胡桃が口を開く。当の高野さんは、十五分ほど前に職員室へ行ったところだ。
「司書っぽくないし、なんかこう、大人はこうあるべき、みたいのに当てはまらないよね」
髪の毛だって明るいし、赤いオープンカーに乗っているし、口調だって若者のそれとまるで変わらない。
普通、学校で働いている大人というのは一貫して「ああしなさい」「こうした方がいい」「それはだめ」と人生の先輩として色々なことを教えようとしてくるものだ。だけど、高野さんにはそれがなかった。むしろ先ほどのように「実際そんな複雑な話じゃない」などと、一回りほど下の僕を相手に自分をさらけ出すこともある。
「わたしは、高野さんが羨ましい」
コーヒー牛乳のパックを手前に引き寄せると、今度は莉桜がぽつりとこぼす。
「親に家業を継げって言われてるってさ、わたしも同じじゃない? わたしはそのことになんの疑問も持たず、医者になりたいとか人々を救いたいとかそういう思いはないままに、ただ医者になるのが当然だって思ってきて。だけど高野さんは、ちゃんと自分を持っている」
先ほどの僕と高野さんの会話は、問題を解いていた三人にも聞こえていたのだ。
「老舗旅館の一人娘っていうだけで、そんなに期待や重圧があるんだな。僕には全然想像もつかない世界だよ」
僕の質問に答える形で、高野さんは旅館について簡単に話してくれた。
様々な重い足枷を外したかったがゆえ、若い頃はとにかくやんちゃをしたらしい。明るい髪色とあの雰囲気は、その時代の名残りというわけだ。それでもこの旅館の今後は娘に託したい。それが変わらぬ旅館高野の大旦那さんの意向。
しかしそのひとり娘は、自分で自分の将来を決めたいと思い、家を飛び出した。──というわけだ。
「たしかにふたりはタイプも違うし環境も違うけど、家業を継ぐということにつながれている部分は共通してるね」
胡桃も静かにそう頷いた。
家を継ぐということに疑問を抱いた高野さんと、抱かなかった莉桜。それでもふたりとも、両親から求められているというのは確かだ。
「高野さん、旅館継いであげたらいいのになぁ。意外と似合いそうだし」
情報を頼りにスマホで検索をかければ、高野さんの実家であろう旅館はすぐに出てきた。歴史のある、立派な旅館だということは写真だけでわかる。
こんなに立派な旅館を任せたいだなんて、それだけ両親に信頼されている証拠だ。反発して違う道を進んだ娘に対し、それでもなお、大事な旅館を任せたいと言っているのだ。
「求めてもらえる場所があるって、すごく幸せなことなのに……」
そう言っているうちに、僕は自分の状況と高野さんを比べていることに気が付いた。
高野さんの人生なのだから、高野さんの好きに生きていい。そう思うのに、その反面で「どうしてそんなに恵まれているのに」と思ってしまう僕もいる。だからこんなに固執してしまうのだ。
「葉、大丈夫? 顔色、悪いよ」
胡桃の言葉に、僕はごくりと空気の塊を飲み込んだ。今までの僕だったら、ここできっと笑顔を作ってかわしていただろう。気を遣わせるのが嫌だとか、同情されたくないとか、そういう思いが先行していたからだ。
だけどこの三人にならば、僕が抱えているものを見せてもいいのかもしれない。みんなならばまっすぐに、そんな過去ごと、きっと僕を受け入れてくれる。
「実は、僕──」
ばくばくと暴れ出しそうになる心臓を押さえながら、口を開いたときだった。
「継ぐとか継がないとか。他人の家庭の事情に口を出すほど、野暮なことはないと思う」
キン、と冷たい声が響く。その声は、それまで黙っていた拓実のものだ。
「ずっと思ってたけど、葉は思い込みが強すぎるんだよ。感情だって考え方だって、人によって違う。なんでもかんでも首突っ込むなよ」
その場の空気が、ぴしりと凍り付いたのがわかった。「拓実」とたしなめる莉桜に、ハラハラとした表情の胡桃。
拓実は立ち上がると、窓際の席へと向かいこちらに背を向けて座ってしまう。
ヴン……という空調の音だけがガランとした図書室に静かに響く。僕が最も苦手とする、無言の時間。誰も破ることのできない、気まずい時間。
「あー……ごめん、そうだよね、拓実の言う通りだ」
ゆるやかに、僕は笑った。本当は笑いたかったわけじゃない。だけど怒りたかったわけでもなかった。
ただただ、自分に失望したのだ。
「僕が口出しするようなことじゃなかった。家庭のことは、家族にしかわからないもんな。ごめん、こんな空気にしちゃって。ちょっと飲み物買ってくるわ。みんな、僕のことは気にせずに、勉強がんばれ」
最後にもう一度、「ごめん」と頭を下げた僕は、そのまま図書室を後にしたのだった。
外の空気が吸いたくて階段をゆっくりと下っていくと、中庭の方からいぶされた煙の匂いが流れてきた。高野さんの吸うメンソールと同じものだと僕はわかってしまう。
それくらい、僕は高野さんと一緒に時間を過ごしてきた。
どうしようもない愚痴も、ただのおしゃべりも、高野さんにだから話せることがたくさんあった。自分よりも少し長く生きていて、大人という年齢に達しているのに、そのことに縛られていない不思議なひと。
そんな高野さんに、僕はいつも救われてきたはずなのに。
「お、若人よ。暗い顔してるね」
中庭を抜けて校舎裏へ向かうと、やはりそこに高野さんはいた。しかもなぜか、低いフェンスの向こう側だ。
「学校は禁煙なんじゃ」
僕がフェンスに背中を預けてそう言えば、後ろ側からはひゃひゃひゃという特有の笑い声が響く。
「だからほら、敷地から出てるじゃん」
携帯灰皿を背中合わせの僕に振って見せる高野さん。こういうところも、本当に子どもみたいだ。
大体、司書という人たちは煙草なんてを吸わないはずなのに──。と思いかけたところで、先程の拓実の言葉が蘇る。どうやら僕は本当に、思い込みが強いみたいだ。
どんな職業に就いていたって、みんな違う人間だ。煙草を吸う人がいれば吸わない人だっている。司書だから黒髪で眼鏡で真面目で禁煙者。だなんて、僕の思い込みに他ならない。
「はあ……」
「大きなため息だねえ」
目を覆いたくなるほどの眩しい太陽を、あえて僕は睨むように顔を上げた。自分のじめっとした暗い部分なんて、全部この太陽の光が焼いてくれればいい。
「本当なら、もっと楽しい時間のはずだったのに」
この夏は、神様が僕にくれた大きなチャンス。拓実は戸塚ちゃんと付き合わず、胡桃だって事故に遭うこともなく、だからこそ僕ら四人はこうして一緒に過ごせている。
それなのに僕はなにをしているんだろう。
拓実の言う通りだ。僕は自分と高野さんを比べ、何も知らないくせに、憶測でものを言った。自分が一番されたくなかったことを、僕は無意識にしてしまったのだ。拓実はそれを、的確に感じ取ったのだろう。
「……ごめん、高野さん」
「なにが?」
「僕、高野さんのこと、親不孝だって思った……」
カシャン、と背中でフェンスがきしむ。このまま後ろに倒れてしまえばいいのに、なんてことまで考える。
そののち、「あははっ」という軽快な笑い声が後ろで揺れた。そのままの姿勢で顔だけを半分捻ると、ちょうどこちらを見下ろしていた高野さんと目が合った。
「まあ、わたしでもそう思うし。それに言わなきゃばれないのに、自分で言っちゃうところが石倉らしいねぇ」
高野さんは目を細め、空へ向かって細長く煙を吐き出す。ああ、この人はやっぱり大人なんだなぁと僕はそんなことをふと思った。
「羨ましかったんだ、高野さんが」
ん? と高野さんはこちらに顔を向ける。その表情や柔らかく、この人が両親に対して不幸を働くだなんて、きっとありえないんだろうと自分の言葉を恥じる。
ただの事実だけを眺めてみたって、真実は見えてこない。僕はついさっき、僕が見えている一部の事実だけで高野さんという人を判断しようとしていたのだ。
「僕の家ってちょっと特殊で。両親が叔父夫婦なんだけど」
どこから説明すればいいのだろう。とにかく、自分の環境と高野さんのそれを比べてしまったことから説明しなければ。順を追って、きちんと。
「実は、僕──」
つい先ほど、三人の前で話そうとしていた言葉をもう一度口に出す。しかし、次いで出てきたのは、僕自身も予想していない言葉だった。
「母親に、捨てられたんだ」
本当は、「母親がいなくなったから、叔父に引き取られて」などと続けるつもりだった。しかし無意識にこぼれた言葉は、非情な響きを持っていたのだ。
自分でそう思っていたことに、僕が一番驚いていた。そしてその事実は、これまで積み重ねてきた僕の地盤を、じわじわと浸食していく。
『葉のことだいすきだから、待っててね』
『葉がお利口で待っててくれるから、ママ嬉しいよ』
『葉、おとなしく待っていてね。そしたらいつか、ママが迎えに来るからね』
封印したはずの幼い頃の記憶が、ガタガタと閉じたはずの蓋を揺らす。それはとてつもない恐怖に近く、僕はぎゅっと自分の目を閉じる。
「――でも石倉には、素敵なご両親がいるじゃない」
さらりとした高野さんの言葉に、ことん、と小さく蓋が音を立て、ぴたりとそれは動かなくなる。
「今の石倉は、愛されている人間の目をしているよ。毎日ちゃんと学校に来て、それなりにちゃんとやって、バイトをして友達を大切にして。それが出来てるっていうことは、石倉が大事にしたい人たちがいるからじゃないの?」
その言葉に、叔父さんと叔母さん、そして鈴の顔が浮かぶ。
叔父さんも叔母さんも、僕を引き取ってから色々な目を向けられてきた。悪いことなんて何もしていないのに、じろじろと他人は好奇の目を僕らに向けた。
「おいしいごはんとあったかいベッドとかさ……。そういう当たり前のことをくれた人たちだから。僕のせいで、迷惑をかけたり心配をかけたりしたくないんだよ。ただでさえ、お荷物なのに……」
いつでも笑顔で陽気に振る舞って。問題なんて起こさないで、小難しいことなんて口にしないで、どこにいても誰といても害にならない存在になって。
そうやって僕はずっと、自分の抱える大きな劣等感をごまかしてきた。
捨てられた。僕なんていらないんだ。誰からも必要とされていない。どこにも自分の居場所なんてない──。
そんな心の奥底の本音から、ずっと目をそらしてきたのだ。
「〝愛〟というものは、血も時間も超えてくもんでしょ」
高野さんは高らかに、宣言するようにそう言った。
「DNAを引き継いだ親子でも憎しみ合うことはあるし、元は赤の他人同士なのに慈しみ合うこともある。そんなこと、みんなわかってはいるのにね。それでも人間は、目に見えない〝愛〟を確認したくて、なにかの形に縋るの。血の繋がりだとか、契約だとか、印みたいな確固たるものをさ。愛情ひとつ証明するにも、人間は大変だよね」
青と白の間の色をした広い空に、高野さんはゆっくり煙をくゆらせる。僕はぼんやりと、その煙の行く先を目で追っていた。
関係性や気持ちを、目に見える形に証明するのはすごく難しい。だから僕たち人間は、目に見えるものに固執する。見えないものを、見ようとするんだ。
「……自分で思ってたよりも、僕はずっと弱かったみたいだ」
うまくやれてるつもりだった。他人との距離や付き合い方に、気を付けているはずだった。他人の気持ちを汲み取ることで、誰のことも傷つけないよう、そして自分が傷つかないようにしてきたはずで。
だけど本当は、すべてのことと向き合うことから逃げていただけだ。誰からも求められず、誰かの大事な人にもなれず、愛されるということを知らない僕は、周りを信じているふりをして誰のことも信じていなかった。
大事な仲間のことも。僕自身のことさえも──。
「ねえ、石倉」
ふ、と高野さんがゆっくりと笑う。それからグイッと火の残る煙草を携帯灰皿に押し付けた。
「その弱さに気付かせてくれる存在がいること自体が、奇跡なんじゃない?」
よいしょ、とフェンスを乗り越えてこちら側へ来た高野さんは、ぽんと僕の肩に手を置いて去っていく。
入れ替わるように僕の前へとやって来たのは、口元をきつく結んだ拓実だった。
「なに、煙草でも吸ってんの?」
「ああ、大人のたしなみとして。拓実も吸う?」
ポケットから出したシガレットケースをカタカタと揺らして見せれば、「なんで持ってんだよ」と拓実は笑った。その笑顔にほっとさせられた僕は、ケースから一本取り出すとポキリとそれをかじる。
「シガレットラムネが、大人のたしなみね」
くつくつと肩を揺らす拓実は、そう言いながらも、僕が差し出したケースから一本ぬきだし、同じようにかじった。
コーラ味の菓子の香りが口の中で広がっていく。出かけるときに必ず持参するタバコ型のラムネ菓子は、叔父さんの好物だ。小さい頃は、よく一緒に本物の煙草のように吹かす仕草を真似したっけ。
「懐かしいな」
僕の独り言に、拓実が首を傾げる。
「ああ、小さい頃食べたなーって」
あの時期は、叔父さんも大変だっただろう。独身で働き盛り、遊びざかりの時期に突然小さな子どもを押し付けられたんだから。
当時まだ恋人であった叔母さんだって、きっとたくさん戸惑った。結婚したい気持ちはあっても、相手はコブ付き。しかも実の子供じゃない、なんて。
「……ごめんな」
突然の拓実の謝罪に、ラムネがぽきりと折れて落ちる。
「お前が高野さんの話をしたとき、俺、自分を重ねてたんだわ」
拓実の父親は、有名な柔道選手だったらしい。オリンピックにも出たことがあるというのだから驚きだ。現役を引退してからも後輩たちの指導にあたり、現在は道場を開いている。
「小さい頃は自分も柔道でオリンピックに出るんだーって信じてて。兄貴と一緒に大会とかも出て。でもそんな甘くないよなぁ。兄貴と違って、結局俺は努力ができなかった。頑張れなかった」
その頃から、拓実は父親や兄とあまり会話をしなくなった。兄と自分を比べられるのが嫌で、柔道をやめたことを責められるのが怖くて、逃げるなと叱咤されるのが苦痛で、ひたすらにふたりを避けた。
「なにをやりたいかはわからないくせに、柔道をやりたくないってことだけはわかってた。そのまま親父ともなんとなく話しづらくなって」
拓実も同じだったんだ。僕が自分の家庭環境を周りと比べたのと同じように、拓実は実の兄と自分を比べて逃げ出した。どうして僕たちは、いつでも誰かと自分を比べてしまうのだろう。
「葉が高野さんの家の話をしてるとき、俺は自分のことしか考えてなかった。親が喜ぶ結果を出せる兄貴と、ふらふらしてて『からっぽだ』って言われた俺」
「からっぽ……」
「だから葉の言葉を聞いたとき、自分を責められてる気がした」
拓実は普段、あまり自分のことを話さない。いつだって僕がしゃべっているばかりで、拓実は呆れながらも相槌を打ってくれて。
そんな拓実が、今こうして、自分のことを話してくれている。今まで僕は、拓実のことをなにもわかっていなかったんじゃないだろうか。そして拓実も、本当の僕をきっと知らない。だけど今ならば、もう少しちゃんと向き合える気がするんだ。
「拓実が僕のことを、思い込みが強いって言っただろ?」
「あれはまあ、勢いっていうかなんていうか」
「いや。あれさ、本当にその通りだなって思ったんだよ」
僕はゆっくりと、だけどしっかりと、自分がこの場所で感じたことを拓実に伝えた。
家庭環境のこと、自分が劣等感や不幸感を常に抱えていたということ。そのことについ今、気が付いたということ。
それを拓実に打ち明けるというのは、これまでの石倉葉として作り上げてきた人物像を壊すことと同じかもしれない。それでも僕は、拓実に話したかった。本心を打ち明けてくれた友に対し、きちんと自分を見せたいと思ったのだ。
「拒まれるのが怖くて周りの顔色ばかりを窺っている、ただの臆病者。それが、本当の僕なんだ」
僕がそう締めくくれば、拓実はふぅーと大きな息を吐き出した。それから、両手を上に大きく伸ばすと、コキコキと首を鳴らす。
「なんか、安心した」
すっきりとした表情の拓実の横顔に、僕は「へ?」と間抜けな声を出してしまう。
拓実はこちらを見ると、「悪い悪い」とくしゃりと表情を崩した。それは今まで僕がよく知っていたはずの拓実の笑顔と同じなのに、なんだか初めて見るような表情にも思える。
すかしたようなものじゃない、作ったようなものじゃない、ふわりと柔らかく細められる目。
「葉ってさ、喜怒哀楽の〝喜〟の部分しか見せなかったから」
拓実曰く、常に明るく笑ってばかりいる僕は、いつも一緒にいる拓実から見るとなにを考えているのかわからない部分があったと言う。
「なにをしても怒らないし、落ち込まないし、楽観的だし。さっきだって、普通なら怒る場面なのに、すんなり謝罪して部屋から出ていったじゃん? 本当はどう思ってんのかとか、本音が見えなかったんだよ」
さきほどまでは眩しすぎて痛いとすら感じていた陽の光が、さわやかな明るさで彼の髪の毛を照らす。
僕はずっと、みんなのことを大切に思ってきたつもりだった。一度失ってしまった僕たち四人の絆を守らなければと、何度も自分に言い聞かせてきた。争いごとは避けて、ひたすらに楽しく過ごすことだけが、彼らを守ることにつながる。
だけどそれは反って、みんなを不安にさせることもあったのかもしれない。
「高野さんが言ってたんだ」
「なに?」
「目に見えるものが、すべてじゃないって」
いつも一緒にいることだとか、無理やり始めた交換ノートだとか、やりとりしているメッセージの内容だとか。そういう目に見えるものばかりで繋ぎ止めた気になっていた。
空気を読んで、楽しい話題だけを提供して、みんなの笑顔を見れば、これで大丈夫なんだと安心した。
「ずっとこのままならいいって、思ってたんだ。変わりたくない、って」
僕の言葉に、拓実はじっと耳を傾ける。
「だけど、そんなことばかり言ってられないんだよな」
今までのように、毎日四人で過ごすなんて無理なことだし、新しい場所で別の交友関係を築いていくことにもなるはずだ。
僕たちは大人になる。そのこと自体が、変化なのだ。
「変わることを恐れてたら、前に進めないんだよな」
ほんの少しの静寂の中、カリッとという音が響く。拓実が口の中で、ラムネを噛み砕いたのだろう。
「いいじゃん、一緒に進んでいけば。環境とか会う頻度は変わっても、俺たちが重ねてきたものは変わらないんじゃん? ま、知らないけど」
普段あまり、そういうことを言わない拓実。最後の言葉は、照れ隠しに使ったのだろう。
案の定、拓実は口元を押さえながら、向こう側を向いている。しかも耳が赤い。
僕の心には、ゆっくりとあたたかいものが広がっていった。
「来てくれて、ありがとな……」
刹那的だったとしても、拓実は僕に対して怒っていたはずだ。それでもすぐに、こうして時間をあけずに話をしに来てくれた。探しに来てくれた。
もしも僕が拓実の立場だったら、彼のようにすぐに動くことができただろうか。
「胡桃に、行ってこいって喝入れられて」
「胡桃に?」
「〝思っていることがあるなら、すぐにでも伝えなくちゃ。言いたいことも言えないまま、会えなくなったらどうするの? いつもと同じ明日が来る保障なんて、どこにもないんだよ!〟って、ドーンと」
胡桃の声真似をした拓実は、そのときの彼女の動きも真似したのだろう。両手を体の前に出すと、突き出すような動作を見せた。
思わず僕は吹き出してしまう。その様子が容易に想像できたからだ。
「普通さ、こういうときって女の子が慰めに来るのがお約束じゃん?」
拓実はそう言いながら、僕のことを横目で見て笑う。葉だってそっちのが嬉しかっただろ? と。
僕はそれに「まあなぁ」と軽口で答えながらも、そうしなかった胡桃を愛おしく思った。すごく、すごく胡桃らしい。
「胡桃は、強いんだよ」
僕は素直に、浮かんだ言葉を声に乗せる。
彼女は大事なものがなにかということを本質的にわかっていて、周りの状況に臆したりしない。人の気持ちを汲み取ることに長けていて、凛とした強さを持っている。あの小さな体のどこに、そんな強さとパワーを宿しているのだろう。
「胡桃、いいよな」
拓実がぽつりとこぼした言葉に、僕口はぽかんと開く。間抜けなほどに。
「かわいいのに芯があって、強くて。だけどちょっと抜けてるところが、またいい」
多数の女の子たちとの関係を自在に操るの拓実の口から、未だかつて胡桃をこれほどまでに褒め称える言葉が出たことがあっただろうか。
「な……」
ヒヤリ。背筋を一筋、嫌な汗が流れ落ちた。
「なに言ってんだよ! だっ、だめだってば! 胡桃はだめ! 大体ほら、莉桜にも胡桃だけはだめって言われてるって……!」
ニヤリと拓実が嫌な笑みを浮かべるから、僕はさらに焦ってしまう。
胡桃は拓実に対して、恋愛感情は抱いていないはず。だけど、女の子との接し方がとことんうまい拓実が本気を出したら、どうにかならないとも言い切れないじゃないか。
「とにかく絶対だめだから! 胡桃だけは、いくら拓実でも渡せない!」
そこまで一気に言い切ってしまったあと、今度は別のにんまりとした笑みが目に映る。どうやら、まんまと罠にはまってしまったらしい。
ぐんぐんと急上昇していく顔の表面温度。きっと真っ赤になっているであろうことは、鏡なんてなくても簡単に想像できてしまうほどに熱い。
拓実はトン、と僕の左肩に自分の右肩を軽くぶつけた。それから「心配すんなって」と笑った。
「俺、好きなやついるからさ」
人間というのは、鏡みたいなものだと聞いたことがある。自分が素直になれば、相手も素直になってくれる。自分が本音で話せば、相手も本音で話してくれる。
全部が全部、その法則にあてはまるわけじゃないとは思うけれど、少なくとも今の僕と拓実の間では、それが立証されたみたいだ。
──拓実には、好きな人がいる。
ごくりと僕の喉元が、大きな音と共に上下した。
その日の夕方、僕は胡桃とふたりで海沿いの道を歩いていた。特進クラスの莉桜は特別授業を受けに予備校へ行き、拓実はバイト。特に予定のなかった僕たちは、ふたりでアイスキャンディ片手に帰路についていた。
「今日は、ありがとう」
僕が口火を切ると、胡桃は「なんのこと?」ととぼけた。胡桃は嘘をついたり素知らぬふりをするときには、唇がつんと尖る。本人は気付いていないみたいだけど。
あのあと、拓実と僕は照れくささのようなものを抱えながら図書室へ戻った。ちょうどそこでは高野さん含めた女子三人が会話に花を咲かせている最中で、僕たちはなにもなかったかのようにその場所へ戻ることができたのだった。
「とにかく、感謝してるってことだよ」
僕は彼女のとぼけた表情に笑いながら、ぐーっと両手で伸びをする。手首をツウっと、アイスキャンディの雫がつたう。
「また汚してる。子供じゃないんだから」
「暑くなってきたから、溶けやすいんだよ」
呆れながらも、僕の手元をタオルでぬぐってくれる胡桃。
こういうのって、なんだか恋人同士のようでくすぐったくて、心地よい。
だけど当の胡桃にはそんな発想はないらしく、「葉はなんでもすぐにこぼすんだから、タオル持ち歩いた方がいいよ!」などと小言をこぼしている。
恋をする、というのは、ちょっとしたことが幸せに感じられることなのかもしれない。
「それにしても、拓実の片思いの相手が戸塚ちゃんだとは……」
恋という言葉で、図書室でのやり取りが思い出される。
「わたしはずっと、そうじゃないかなぁって思ってたけど」
拓実には好きな人がいる。その相手があの戸塚ちゃんだと本人がカミングアウトしたのは、女子三人が繰り広げていた恋愛ドラマの話がひと段落ついたときだった。
しかしながら大声をあげて驚いたのは僕ひとりで、胡桃と莉桜は「今更?」みたいな顔をしていたし、高野さんに至っては「誰?」と頬杖をついていた。
「なんだ、胡桃はわかってたのか」
どうして、どこが、と詰め寄る僕に、拓実はうざったそうな顔をしながらも「あの子と俺は似た者同士だから」と説明をした。
もしかしたら一度目の夏だって、本当は拓実から戸塚ちゃんに告白をして付き合ったのかもしれない。それを僕は、逆だと思い込んでいたのだ。
「うん、なんとなくだけどね。コンビニでの接し方も、拓実は感情を押し殺しているように見えたし」
空の半分が青とオレンジのふたつに分かれる。この時間帯の海はどちらの色も映し出し、互いが溶け合うような不思議な輝きを放っている。
「そっか……。戸塚ちゃんが苦手だから目を合わせなかったわけじゃなくて、その反対だったんだな」
記憶を手繰り寄せれば、あの日の帰りにも胡桃は同じようなことを言っていた。まったく僕は本当に、恋愛に関してはとことんだめだ。
さらに過去の僕は、莉桜の気持ちまで勝手に推測して傷つけるという失態も犯した。その後悔は、ずっと胸の中に残っている。
「あれ……」
しかし、そこでコツンと、違和感という名の小石が胸の奥で転がった。
確かに戸塚ちゃんは、何度か僕らのバイト先を訪れている。しかし今回、胡桃はあの場に居合わせていなかったように記憶している。
「胡桃って、コンビニで戸塚ちゃんに会ったんだっけ……?」
正直に言うと、僕もそのあたりの記憶は曖昧だ。重複している日の出来事は、どちらがどちらだったかわからなくなることもある。それでも今回のような印象深い日の出来事は、きちんと覚えているはずなのだ。
すると胡桃は、きょとんとした表情を浮かべ、それから軽快に笑う。
「ああ、お店の中にわざわざ入らなくても、ガラス張りの店内はよく見えるんだよ。わたし、おばあちゃんのおつかいで病院によく行くでしょ。帰りにいつも、葉たちいるかなーって覗いたりしてたの」
普段通りの胡桃の様子に、「ああ」と納得しながら息を吐いた。
ここには存在しない、別の〝過去〟があったことを、胡桃が知っているのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎったのだ。あの過去は胡桃にとっても僕らにとっても、決して幸せなものではなかった。そんな過去を、彼女が知る必要はない。
「莉桜は、もっと前から気付いていたみたいだけどね。不特定多数の女の子と遊ぶのをやめて、はやく素直になればいいのにって。いつも言ってた」
「そうなんだ……」
思い込みはやめると決めた。それでもフラッシュバックしてしまうのは、過去に見た、莉桜の陰った表情。素直に祝えないなんて友達失格だと言った、弱々しい笑顔。
だけどそれが意味するのは、僕が想像していたような恋愛感情に直結するようなものではないのかもしれない。
「莉桜は、拓実には幸せになってほしいって言ってた」
その言葉もきっとまた、莉桜の本心なのだろう。胡桃が言っていた通り、〝好き〟には色々な感情があるのだから。
それなのに、僕ときたら──。
『莉桜、僕たちには本心を話したっていいんだよ』
『拓実がいなくて寂しいって、認めていいんだ。本当は拓実のこと──』
前回の夏、莉桜に放った言葉が頭の中でリフレインする。自然と足が止まってしまい、その場で頭を抱えて「はあ……」と大きなため息を吐きだした。
「本当に、僕はなにもわかってなかったんだな……」
夏はリセットされた。莉桜は僕に言われた言葉をなにも知らない。だけど、僕が彼女を傷つけたこと、拓実や戸塚ちゃん、そして胡桃を悲しませたことは、紛れもない事実だ。
「誰かを傷つけてしまったとき、同じ傷が自分にもできるんだって」
僕に合わせ、その場で歩みを止めていた胡桃。彼女の言葉は、リン、と胸の奥の鈴を鳴らし、停滞してしまった僕の心にやわらかな風を送り込んでくれる。
「傷つけることも傷つくことも、できれば避けて生きていきたい。だけど、悪意なく傷つけてしまうこともあれば、それがわかっていても傷ついてしまうこともある。誰だって笑顔で、楽しいことだけで生きていきたいだけなのにね」
僕の中に残る大きな後悔。それはときに、ジクジクと鈍く強い痛みを放つ。もしも胡桃の言う通りだとするならば、僕の中には僕自身がつけた傷跡が残っているのかもしれない。深くて重い、消えることのない心の傷跡。
だけどそれでいい、消えなくていい。この痛みがあるから気付いたことがある、知った真実がある。これからもこの想いを抱えながら、ときに痛みを取り出しながら、大事なものと向き合っていくのだ。
「──応援しないとな、拓実の恋」
二度目の夏、戸塚ちゃんと拓実の距離が近づいてしまわぬよう、僕は目を光らせていた。親友を誘惑から守ろうという考えからの行動は、結果として親友の恋路を邪魔することとなった。
それがすべての理由ではないかもしれないけれど、ふたりが付き合ったはずの日付を過ぎても、こうして八月になっても、彼らは恋人同士になっていない。
「拓実が本気で戸塚ちゃんを好きなんだから、うまくいくように全力で応援する。莉桜だって、拓実の幸せを願ってるんだもんな」
拓実の本心を知った今、親友としてできることは、「戸塚ちゃんは遊び人だからやめた方がいい」と彼女を知らない僕が勝手な忠告をすることではなく、「がんばれ! 幸せになれ!」と心から応援することだ。
「葉、変わったね」
目を細めた胡桃が、優しく微笑む。
「そうかな」
そう言いつつも、本当は自分でも感じていた。内側で、小さな変化が起きているということに。
だけどそれは、決して自然に起こった変化じゃない。一度目の夏に、ただ通り過ぎてしまっただけの出来事。それらとひとつずつ対峙することで、僕は色々なことに気付かされているのだ。
「葉は変わったよ。ひとりひとりと、それから自分自身と、面と向かって話をしてる。わたしも葉みたいに、逃げたりせずに自分と向き合わなくちゃ」
胡桃は胡桃なりに、いろいろな悩みを抱えているのだろう。生きているのだからそれはきっと当然のことで、大学受験を前にした彼女には多くのプレッシャーなどがのしかかっているのかもしれない。
「胡桃は胡桃のままでいいんだよ。それでも苦しいときは、いつだって頼ってほしい」
一度目のからっぽだった夏、僕はただ呼吸を繰り返していただけだった。だけど今、僕はたしかにこの瞬間を〝生きている〟。
僕だってもう、気付いているんだ。夏休みが終わり、イチョウの葉が黄色くなり、街が雪化粧をしたあとに、僕たちは卒業する。
いつまでも、この日々が続くわけじゃないことを。
「僕はいつでも、胡桃の味方だ」
限りがあるからこそ、強く思う。僕たちに残されたこの日々を、この時間を、めいっぱいに使い果たしたい。
離れ離れになったとしても、たしかな絆が重なるように。思い出が、未来の僕らを繋げるように。
地球温暖化という教科書の中の言葉が、やたらと現実味を持って体を火照らす。
「あぢぃ~」
バイト先の狭い更衣室で、僕は汗だくになりながらコンビニの制服を羽織る。何が悲しくてこんな至近距離で拓実と着替えなければならないのか。
時折腕がぶつかったりして「うへぇ」とべたつく肌に辟易しながらも、僕らは時間通りにタイムカードを切った。
「それにしても、戸塚ちゃんのどこがそんなに……いや、なんでもない」
揚げ物の準備を進める僕と、たばこの補充をする拓実。
コンビニの仕事は色々あるけれど、僕はこのホットスナックを作るのが好きだ。料理なんて普段しない僕でも、お客さんがうまいって言ってくれるものを作れるという充実感みたいなものがあるから。僕がこんなうまいものを作った!みたいな。
「シフト被るの、久しぶりだよな」
「毎日図書室で顔合わせてるじゃん。夏休みだってのにさ」
拓実のカミングアウトから、僕たちは『拓実応援団』を結成した。具体的な活動としては、戸塚ちゃんの好みの男性をリサーチしたり、さりげなく拓実の良いところをアピールしたり、拓実の叱咤激励などだ。
「しかし戸塚ちゃん、意外だよな」
「なにが」
「あんな感じなのに、部活に熱心なのが。週に三日くらいは、学校に来てるじゃん」
「絵を描くのが、本当に好きなんだろ」
戸塚ちゃんの家はこのあたりなのか、彼女はひとりでもコンビニへやって来たり、部活動に来ていたところ顔を合わせたりと、夏休み中にも関わらず会う機会は多かった。
しかしながら女の子と接するのがうまい拓実が、どうにもこうにも戸塚ちゃん相手には本領が発揮できないのである。というよりは、発揮する気がないという方が正しいかもしれない。
「ちなみに、戸塚ちゃんのどこが好きなの?」
かわいらしくて人形のような容姿の戸塚ちゃんは、夏休みを残り少しにした今でも、相変わらず不特定多数の恋人立候補者たちと過ごしている。
この間は大学生らしき男が車で校門まで迎えに来ていたので、守備範囲の広さには年齢も含まれていることが判明したところだ。
それがわかっていても、拓実はやっぱり彼女のことが好きだと言う。
「……あの子の描く絵がさ、すげー綺麗なの」
たばこの銘柄をひとつずつ確認しながら、拓実はぽつりと呟く。
「すげー綺麗な海の絵なのに、あの子、泣きながら描いてた。だけど、めそめそと泣いているんじゃないんだ。鋭い眼差しでキャンバスをまっすぐに見つめながら、涙を流してた」
美術部の戸塚ちゃんは、確かなにかの賞をもらっていた。拓実は普段見かける戸塚ちゃんではなく、そちらの姿が本物だと感じたのだろう。
「僕には、戸塚ちゃんがあんな風に過ごしている理由はわからないけどさ。それでも本当に、心の底から、拓実の恋がうまくいけばいいと願ってるよ」
傷ついたっていいし、ボロボロになってもいい。そのときには僕たちがいるんだから。
「とりあえず、戸塚ちゃん以外の女の子と遊ぶのは、もうやめた方がいいと思う。戸塚ちゃんに本気だってことを見せないと! ちなみに莉桜と胡桃は別だからな」
最後の例外も、忘れちゃいけない。
明るい髪の毛をクシャクシャと混ぜた拓実はひとつ息を吐き出すと、ポケットからスマホを取り出した。
「連絡先とか全部消したら、本気だって信じてもらえんのかな……」
「その大きな一歩には、なると思う」
珍しく弱気な拓実の発言に、申し訳ないと思いつつ、内心嬉しくなってしまう。だってさ、こんな表情も見れるのは親友だけの特権だから。それくらいの仲に、なれてるってことだから。
「石倉くーん、フライのあと、花火の品出ししといてくれるー?」
奥の事務所から店長が顔を出す。この季節では、手持ち花火もコンビニの人気商品だ。
「了解っす!」
返事をしながらフライドチキンのビニール袋をびりりと開ける。カチコチに冷凍されたチキンが、この油の中でみるみるうちにジューシーな逸品に仕上がるのだから不思議なものだ。しかも誰が作っても、温度さえ間違えなければ同じように作ることができる。
「戸塚ちゃんと、花火でもやってみたら?」
ジュワッ。この音が気持ちいい。
「花火なんて子供っぽいとか、思われるかもしれないじゃん」
一度油に入れたら、あとはフライヤーが自動で上がってくるのを待つだけ。
「……じゃあ、夏祭りに誘うとか」
なるべく声に表情がにじまぬよう、意識を油へと集中させる。
本当は、夏祭りは四人で行きたかった。だけど、拓実には想いを実らせてほしい。卒業すれば、戸塚ちゃんとだって毎日のように会えなくなるんだ。
「夏祭り、か」
一度目の夏、僕にとって四人で訪れる夏祭りは、なによりも大事だった。恋人を優先させた拓実に対し、勝手に失望した。だけど今の僕にとっての大事なことは、みんなの幸せだ。拓実がいなくても、僕は胡桃と莉桜と夏祭りを楽しむことがきっとできる。そして、胡桃を守ることもできるはずだ。
「いや、いい。夏祭りは、お前らと行く」
「いいって、僕たちに気を使わなくて。高校最後の夏祭りなんだから」
ジュワジュワという音とチキンのいい香りが漂い始めると、拓実がトレイを僕に手渡す。
「だからだよ」
だから、の意味が分からずに顔を上げれば、拓実は「ばーか」と少し耳を赤くしながら悪態をつく。
「俺だって、高校最後の夏祭りは四人で行きたいんだよ」
たまにしか本心を見せてくれない拓実。特にこうして言葉にしてくれたのは、前回に次いで二度目のことだ。
「拓実……」
「うるせ、こっち見るなって」
「耳、赤い」
「葉の油が跳ねたんだよ」
「拓実~! わが友よ!」
どたばたとふざけていると、「仕事しろ~!」と店長の声が扉の向こうから響き、僕らは顔を見合わせた。それから顔をそらして互いに笑った。
思い込みの強い僕だけど、拓実も僕らと過ごす時間を大事に思っているということは、思い込みではなかったみたいだ。
◇
「ただいまー」
「おかえりなさい。バイト、今日も遅かったね」
玄関でスニーカーの紐を緩めると、パジャマ姿の叔母さんがリビングからやって来た。鈴を寝かしつけた後だろうに、わざわざ起きて待っていてくれたらしい。
いつもそうだ。僕が帰宅するとき、叔母さんは必ずここまで迎えにやって来る。出かけるときも同様だ。それが僕には、正直負担だったりもする。申し訳なく思ってしまうから。
「お夕飯、ハンバーグなの。すぐあたためるね」
キッチンへ向かう叔母さんとは反対方向の洗面所の扉を開き、「いらないよ」と声をかける。なるべく家で食事を摂りたくない僕は、大抵バイト先で済ませるようにしているのだ。
叔母さんだって、いい加減気付いているはずだ。バイトがある日、僕が夕飯を食べないということくらい。それなのに毎日毎日、必ず僕の分まで作っている。それもまた、僕にとっては負担だった。
「僕の分まで作らなくても、平気なのに……」
手洗いうがいを済ませたらリビングの扉を一旦開けて、晩酌中のおじさんに顔を見せる。部屋でカバンなど片付けをした後、風呂に入ってベッドの中へ。
これがバイトがある夜の、僕のルーティンだ。しかし、この日はその通りにはいかなかった。風呂から出た僕を、叔父さんが待ち構えていたからだ。
「なになに? こんな改まって」
いつもと違う状況に内心焦りを感じつつも、その空気を打破しようと明るく振る舞う。
四人がけのダイニングテーブル。叔父さんと叔母さんが並んで座り、僕がその向かいに座っている。
普段、この三人で食卓を囲むことはない。いや、鈴が生まれる前まではそういうことも多かった。だけど鈴が生まれ、中学に進学した僕は、部活や勉強を理由に同じ食卓につくことから徐々に遠ざかるようになっていたのだ。
「葉、最近学校はどうだ?」
地元の銀行に勤めている叔父さん。真面目で優しい人だけど、きっとそれが度を過ぎているんだと思う。いつも面倒なことばかりを押し付けられ、損を見ていると昔、叔母さんが苦笑いしながらも言っていたっけ。
そういうことも関係しているのだろうか。叔父さんは未だ何の役職にもついてはいない。
「いや、特に変わったことはないよ。毎日楽しく過ごしてるから、なんの心配もいらない」
このやりとりは、今までだって何度もしてきた。叔父さんは昔から、僕の学校での様子を尋ねるのだ。
「学校が楽しそうなのは、すごくわかるわ。高橋くんたちみたいな、素敵な友達もいるみたいだし」
一方の叔母さんは、昔はバリバリのキャリアウーマンだったらしいが、鈴の妊娠を機に退職。現在は自宅でオンラインの英語スクールなんかをやっている。詳しくは知らないけど。
「葉、大学はどうするか決めたかな」
しかしそこで、叔父さんが柔らかな雰囲気を崩さないまま本題を切り出してきた。
どんなときでも、穏やかな叔父さん。今までだって、僕は叔父さんに怒られたことがなかった。鈴のことはピシャリと怒ることもあるのに。
やっぱり血が繋がっていないと、遠慮が生まれるのだろうか。
僕の中で、ジリリと胸の奥が小さく焼ける音がした。
今まで、こんな風に感じたことはなかったのに。もしかしたら僕は、開けてはいけないパンドラの匣を、自分で開いてしまったのかもしれない。
「夏休み明けに、三者面談もあるでしょう? だからその前に葉くんの気持ちも聞いておきたいなって思って」
叔母さんの言葉に、僕は笑顔の裏で小さくため息をついた。三者面談の手紙は学校で捨てたはずなのに、どうして知っているのだろう。
大丈夫だよ、迷惑をかけたりはしないから。僕のことは放っておいてくれれば、うまくやるよ。今まで散々世話になって、迷惑をかけて、家族水入らずの時間を邪魔してさ。高校まで行かせてもらって、もう本当に十分だから。
僕は小さく深呼吸をしてから、にこやかな笑顔を見せる。
「卒業したら家を出ることにしたんだ。働いて、一人暮らしをする。だから三者面談も来なくて大丈夫だよ」
今までこの話題が出ることはなかったし、僕の意見を尊重してくれるはずだ。それに何より、僕が出ていけばみんなが楽になる。金銭的にも、精神的にも。やっと、家族水入らずで過ごすことができるようになるのだから。
「──だめ」
ピンとその場の空気が張り詰めるのがわかった。叔母さんが、低くて鋭い声を出したのだ。叔母さんが僕に対してそんな声を出したのは、初めてのことだった。
「葉くん、それはだめよ」
まっすぐに見つめられるその瞳には、なにかの想いが込められている。だけど僕にはその正体がなにか、汲み取るだけの経験がなかった。怒りなのか、悲しみなのか、体裁なのか、なんなのか。
「家を出てもいいし、進学をせずに働いてもいい。葉くんの人生だから。だけど、勝手にひとりで決めたことを、はいそうですかと許可はできません」
そんな言葉に少しの間呆気に取られていた僕だったが、次第にじわじわとみぞおちのあたりから反抗心が湧き上がってきた。
僕の人生だから好きにしていいって言っているくせに、勝手にひとりで決めたことは許可できないなんて。そんなの矛盾だ。ここまで僕がすることに何も言わなかったのに、どうして突然そんなことを言い出したのだろう。僕が出ていけば、スッキリするはずなのに。
「ねえ葉くん、ちゃんと一緒に考えようよ」
僕は普段、怒りを感じることがあまりない。とりわけ、家庭内ではそれは顕著だった。多分、恩人であるふたりに対し、そんな感情を抱くこと自体が罪だと思ってきたのだろう。
それでも今、胸の奥底に湧き上がるのは、ふつふつとした怒りだった。どうしてこんなに腹立たしいのか、その正体もよくわからない。だけど僕はその怒りを、表現する方法を知らない。ぶつける方法がわからない。
だから、とりわけ長くて細い息を口から吐き出したのだ。
「とりあえず、落ち着いてよ。叔母さん」
へらり。無理やりに口の両端を持ち上げれば、不自然ながらに笑顔は作れる。正体不明のこの感情が暴れ出しそうなのを、笑顔でぎゅっと押しつぶした。
「心配はありがたいけど、僕のことなら大丈夫だよ、バイト先でも正社員にならないかーなんて声駆けられるほどには、仕事も任されてるんだ。一応自炊もできるしさ。もちろん家賃だって自分で払うし、叔父さんと叔母さんに迷惑をかけたりはしないから」
「そういう問題じゃないの。家賃とかお金のことはどうでもいいの。大体、迷惑なんてそんなこと──」
まあまあ、と叔母さんの言葉を僕は笑顔で遮った。迷惑だなんて、叔父さんや叔母さんが口にするわけがない。そんなことはわかってる。だから僕が、あえて自分で言葉にしたんだ。
「感情的になってぶつかっても、お互いにしんどくなっちゃうだけだし。もうやめようよ」
僕たちは普通の家族じゃない。ちょっとした血の繋がりはあったって、所詮は他人だ。
こんな風に僕ひとりの存在で、叔母さんが感情を振り回されたり、叔父さんが難しい顔をしていること自体が嫌なんだ。この家族の癌に、僕はなりたくないんだ。
「家族だぞ」
ひときわ低い声が、静かに、だけど地鳴りのように響いた。
「迷惑だとか、しんどいだとか、そんなのは関係ないだろ」
ぶわ、と鼻の奥から熱いものが込みあがるのがわかる。だから僕は、両手をぎゅっと強く握ったんだ。
耐えたいと思った、せまりくる波に呑まれないようにしないと──って。
「葉は、俺たちの息子なんだから」
叔父さんの瞳を見た瞬間、様々な残像が頭の中を駆け巡る。
若くて綺麗だった母親の姿。後ろ姿と、遠ざかるハイヒールの音。きつい香水とアルコール。
幼いながらに死んじゃうのかなと思った僕を抱きしめた、叔父さんの大きな腕。初めて食べた叔母さんのカレーライスに、テレビでしか見たことのなかった遊園地。ほにゃほにゃと柔らかい生まれたての鈴を、初めて抱っこしたときのあの感じ。
押し寄せてくる波に耐えるのに必死で、僕の笑顔は歪んでしまって。
「ちょっと頭冷やしてくるわ」
どうにか、ニッと歯を見せた僕は、わざとゆったりとした足取りで家を出たのだった。
素直になる、ということはどうしてこんなにも難しいのだろう。叔父さんの言葉を聞いて、嬉しくないわけがなかった。だけどそれをそのまま受け入れるほどの余裕と成熟さが、今の僕には足りなかったのだと思う。
「ほんと、自分が嫌になるな……」
どうしてこんな自分なんだろう。なんでこれほど弱いんだろう。まっすぐに生きることができないんだろう。
どうしようもなく、幼い自分。胡桃に「葉は変わった」と言われたけれど、まだまだだ。家庭環境という部分で僕はまだ、なにとも向き合うことなんてできていない。
「……胡桃、なにしてるかな」
こんなとき、彼女の声が聞きたくなる。コロコロと楽しそうに笑う彼女と、なんでもない話をしたい。ただただ声を聞きたい。
そう思ったときには、手が勝手に動いていた。三コール鳴らして出なかったらすぐに切ろう。
海沿いの道を歩きながら、スマホを耳にあてる。
プルルルル。
勢いでかけたけど、なにを話そう。
プルルルル。
いやいや今は夕飯時だし、出ないに決まっている。
プルルルル。
いいんだ、繋がらない方が。弱いところは見せたくないし、きっとすごく心配するし。
『──もしもしっ!』
切ろうとした瞬間、胡桃の声が受話器で弾む。よほど慌てていたのだろうか、その勢いに僕は小さく笑ってしまう。この状況でも笑える自分がいることに、僕は内心驚いていた。いや、それが胡桃のパワーなのかもしれない。
「葉だけど。ごめん、忙しかった?」
自分がどんな暗闇にいたとしても、世の中はいつも通りに動いている。胡桃の声にはそのことを教えてくれる力があって、家を出てから入りっぱなしになっていた肩の力がふっと抜ける。
胡桃は「ううん!」と言いながらもなにやらバタバタとしている。後ろで家族がなにかを言っているのが聞こえたが彼女はそれには答えず、やがてその背後は静かになった。
「ごめんね、ちょっと慌ただしくなっちゃって」
「いや、平気だよ」
うん、と頷いた胡桃の応答に、僕は言葉が出なくなってしまっていた。理由はよくわからない。ただ、彼女がこの電波の向こうにいてくれるというだけで、胸がいっぱいになっていたのだ。
「……葉? なにかあった?」
彼女の声に、真綿のようなやわらかさが含まれる。
「……自分のこと、よくわかんなくてさ」
いつから自分のことが、こんなにもわからなくなったんだろう。嬉しいことに嬉しいと言えず、悲しいことや怒りは偽物の笑顔で包むようになって。ひたすらに明るく振る舞い、深く考えることにストップをかけて。
そうやって生きてきたらここに来て、本当の自分というものがわからなくなってしまった。
「本当は別に、働きたいわけじゃないんだ。だからといって、大学で学びたいことがあるわけでもない」
どんな大人になりたいかなんてわからないし、ただひたすらに与えられた毎日を消化するだけ。
僕が見つけた唯一の居場所である仲間たちとの関係だって、これから形は変わっていく。それでいい。変わらないものだってあると、僕はちゃんと理解している。
それでもどこかで、自分だけが取り残されていくような不安感を抱えていたのも事実だった。
「僕はさ、自分があの家を出ることがみんなにとって一番いいと思ってきたんだよ……。僕が自立すれば、経済的にも精神的にも落ち着くんだ。鈴だってこれからやりたいことや欲しいものが増えていく。そんなときに、少しでも恩返しできるようにと思って今から貯金をしてる。僕はあの家族の邪魔をしたくないだけなんだ」
「お父さんとお母さんが、そう言ったの?」
静かな胡桃の言葉に、僕はゆっくりとかぶりを振る。そんなことをあの人たちは絶対言わない。そして多分、思ってもいない。
「あのふたりはそんなこと言わないよ。本当に優しい人たちだから」
「葉は本当に、ご両親のことが大好きで、たいせつなんだね」
胡桃の優しい声に、僕はゆっくりと顔を上げる。ジャリ、と小さく砕けた貝殻がスニーカーの下で音を立てた。
〝両親〟のことが、〝大好き〟で〝大切〟。
「葉の言っていることって、全部家族のことを想っての言葉だもん。お父さんとお母さんにこれ以上負担をかけたくない。鈴ちゃんがやりたいことができるようにしてあげたい。家族みんなに、幸せでいてほしい」
こうして客観的に自分の気持ちが言葉になるというのは、とても不思議な感じがした。自分で考えるといつだって『でも』とか『だけど』がついてしまう。そんなものを全て取っ払ったら、これほどにシンプルな想いが残るのだろうか。
「前に葉が、自分の両親は本当の親じゃない、って言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな」
なんでだろう。一から十までを彼女に話したわけではないのに、胡桃の言葉は僕の中に渦巻いていた正体不明の固い岩を柔らかく包んでいく。きっと僕が叔父さんに抱きしめられたあの日から積み重ねてきてしまった、ひねくれた恩や愛情の、あるべき姿を思い出させてくれるように。
「葉たちはもう、ずうっと前から、本当の家族なんだよ」
受話器から流れ込んだその言葉に、潮風がぶわりと空へと舞い上がる。パチパチパチッと砂が僕の脛に当たっては流れていった。
そのとき、遠くから僕の名前を呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。
「言葉にしなくちゃ伝わらないことが、いっぱいあるよ」
受話器を耳に押し当てて、ゆっくりと振り返る。暗い暗い向こう側から、誰かがこちらへ走ってくるのが見えた。
「だからちゃんと、言ってあげてね。葉の本当の気持ちを」
やたらと綺麗なフォームでこちらへと近づいてくるその人は、やっぱり僕の名前を呼びながら腕を振る。割とどんくさいところがあるから、勝手に運動音痴なのだとばかり思い込んでいたのに。
「胡桃、ありがとう」
気付けば僕は、笑っていた。彼女に「またあとで連絡する」と告げ、通話終了のボタンをタップする。それから全力疾走してくる、ある人の到着を待った。
「葉くんっ‼」
ずっと一緒に暮らしてきたのに、こんなに綺麗なフォームで、しかもこれほどに速く走れるだなんて。僕はずっと、知らなかったよ。
目に見える部分でも知らないことがあるんだから、言葉にしていない心のうちなんて、きっともっと、知らないことばかりなんだ。
知るべきことも、伝えるべきことも、僕たち家族にはたくさんある。。
「走るのめちゃくちゃ速いじゃん、──〝お母さん”」
僕のものか、それともお母さんのものなのか。もしかしたら、ふたりのものだったのかもしれない。胸が震える音がした。