外の空気が吸いたくて階段をゆっくりと下っていくと、中庭の方からいぶされた煙の匂いが流れてきた。高野さんの吸うメンソールと同じものだと僕はわかってしまう。

 それくらい、僕は高野さんと一緒に時間を過ごしてきた。

 どうしようもない愚痴も、ただのおしゃべりも、高野さんにだから話せることがたくさんあった。自分よりも少し長く生きていて、大人という年齢に達しているのに、そのことに縛られていない不思議なひと。
 そんな高野さんに、僕はいつも救われてきたはずなのに。

「お、若人よ。暗い顔してるね」

 中庭を抜けて校舎裏へ向かうと、やはりそこに高野さんはいた。しかもなぜか、低いフェンスの向こう側だ。

「学校は禁煙なんじゃ」

 僕がフェンスに背中を預けてそう言えば、後ろ側からはひゃひゃひゃという特有の笑い声が響く。

「だからほら、敷地から出てるじゃん」

 携帯灰皿を背中合わせの僕に振って見せる高野さん。こういうところも、本当に子どもみたいだ。
 大体、司書という人たちは煙草なんてを吸わないはずなのに──。と思いかけたところで、先程の拓実の言葉が蘇る。どうやら僕は本当に、思い込みが強いみたいだ。
 どんな職業に就いていたって、みんな違う人間だ。煙草を吸う人がいれば吸わない人だっている。司書だから黒髪で眼鏡で真面目で禁煙者。だなんて、僕の思い込みに他ならない。

「はあ……」
「大きなため息だねえ」

 目を覆いたくなるほどの眩しい太陽を、あえて僕は睨むように顔を上げた。自分のじめっとした暗い部分なんて、全部この太陽の光が焼いてくれればいい。

「本当なら、もっと楽しい時間のはずだったのに」

 この夏は、神様が僕にくれた大きなチャンス。拓実は戸塚ちゃんと付き合わず、胡桃だって事故に遭うこともなく、だからこそ僕ら四人はこうして一緒に過ごせている。
 
 それなのに僕はなにをしているんだろう。

 拓実の言う通りだ。僕は自分と高野さんを比べ、何も知らないくせに、憶測でものを言った。自分が一番されたくなかったことを、僕は無意識にしてしまったのだ。拓実はそれを、的確に感じ取ったのだろう。

「……ごめん、高野さん」
「なにが?」
「僕、高野さんのこと、親不孝だって思った……」

 カシャン、と背中でフェンスがきしむ。このまま後ろに倒れてしまえばいいのに、なんてことまで考える。
 そののち、「あははっ」という軽快な笑い声が後ろで揺れた。そのままの姿勢で顔だけを半分捻ると、ちょうどこちらを見下ろしていた高野さんと目が合った。

「まあ、わたしでもそう思うし。それに言わなきゃばれないのに、自分で言っちゃうところが石倉らしいねぇ」

 高野さんは目を細め、空へ向かって細長く煙を吐き出す。ああ、この人はやっぱり大人なんだなぁと僕はそんなことをふと思った。

「羨ましかったんだ、高野さんが」

 ん? と高野さんはこちらに顔を向ける。その表情や柔らかく、この人が両親に対して不幸を働くだなんて、きっとありえないんだろうと自分の言葉を恥じる。
 ただの事実だけを眺めてみたって、真実は見えてこない。僕はついさっき、僕が見えている一部の事実だけで高野さんという人を判断しようとしていたのだ。

「僕の家ってちょっと特殊で。両親が叔父夫婦なんだけど」

 どこから説明すればいいのだろう。とにかく、自分の環境と高野さんのそれを比べてしまったことから説明しなければ。順を追って、きちんと。

「実は、僕──」

 つい先ほど、三人の前で話そうとしていた言葉をもう一度口に出す。しかし、次いで出てきたのは、僕自身も予想していない言葉だった。

「母親に、捨てられたんだ」

 本当は、「母親がいなくなったから、叔父に引き取られて」などと続けるつもりだった。しかし無意識にこぼれた言葉は、非情な響きを持っていたのだ。
 自分でそう思っていたことに、僕が一番驚いていた。そしてその事実は、これまで積み重ねてきた僕の地盤を、じわじわと浸食していく。

『葉のことだいすきだから、待っててね』
『葉がお利口で待っててくれるから、ママ嬉しいよ』
『葉、おとなしく待っていてね。そしたらいつか、ママが迎えに来るからね』

 封印したはずの幼い頃の記憶が、ガタガタと閉じたはずの蓋を揺らす。それはとてつもない恐怖に近く、僕はぎゅっと自分の目を閉じる。

「――でも石倉には、素敵なご両親がいるじゃない」

 さらりとした高野さんの言葉に、ことん、と小さく蓋が音を立て、ぴたりとそれは動かなくなる。

「今の石倉は、愛されている人間の目をしているよ。毎日ちゃんと学校に来て、それなりにちゃんとやって、バイトをして友達を大切にして。それが出来てるっていうことは、石倉が大事にしたい人たちがいるからじゃないの?」

 その言葉に、叔父さんと叔母さん、そして鈴の顔が浮かぶ。

 叔父さんも叔母さんも、僕を引き取ってから色々な目を向けられてきた。悪いことなんて何もしていないのに、じろじろと他人は好奇の目を僕らに向けた。

「おいしいごはんとあったかいベッドとかさ……。そういう当たり前のことをくれた人たちだから。僕のせいで、迷惑をかけたり心配をかけたりしたくないんだよ。ただでさえ、お荷物なのに……」

 いつでも笑顔で陽気に振る舞って。問題なんて起こさないで、小難しいことなんて口にしないで、どこにいても誰といても害にならない存在になって。
 そうやって僕はずっと、自分の抱える大きな劣等感をごまかしてきた。

 捨てられた。僕なんていらないんだ。誰からも必要とされていない。どこにも自分の居場所なんてない──。

 そんな心の奥底の本音から、ずっと目をそらしてきたのだ。

「〝愛〟というものは、血も時間も超えてくもんでしょ」

 高野さんは高らかに、宣言するようにそう言った。

「DNAを引き継いだ親子でも憎しみ合うことはあるし、元は赤の他人同士なのに慈しみ合うこともある。そんなこと、みんなわかってはいるのにね。それでも人間は、目に見えない〝愛〟を確認したくて、なにかの形に縋るの。血の繋がりだとか、契約だとか、印みたいな確固たるものをさ。愛情ひとつ証明するにも、人間は大変だよね」

 青と白の間の色をした広い空に、高野さんはゆっくり煙をくゆらせる。僕はぼんやりと、その煙の行く先を目で追っていた。
 関係性や気持ちを、目に見える形に証明するのはすごく難しい。だから僕たち人間は、目に見えるものに固執する。見えないものを、見ようとするんだ。

「……自分で思ってたよりも、僕はずっと弱かったみたいだ」

 うまくやれてるつもりだった。他人との距離や付き合い方に、気を付けているはずだった。他人の気持ちを汲み取ることで、誰のことも傷つけないよう、そして自分が傷つかないようにしてきたはずで。

 だけど本当は、すべてのことと向き合うことから逃げていただけだ。誰からも求められず、誰かの大事な人にもなれず、愛されるということを知らない僕は、周りを信じているふりをして誰のことも信じていなかった。
 大事な仲間のことも。僕自身のことさえも──。

「ねえ、石倉」

 ふ、と高野さんがゆっくりと笑う。それからグイッと火の残る煙草を携帯灰皿に押し付けた。

「その弱さに気付かせてくれる存在がいること自体が、奇跡なんじゃない?」

 よいしょ、とフェンスを乗り越えてこちら側へ来た高野さんは、ぽんと僕の肩に手を置いて去っていく。

 入れ替わるように僕の前へとやって来たのは、口元をきつく結んだ拓実だった。