それにもし、あかりが母と同じ末路を辿ったらと思うと、問題を放置したままではいけないという懸念があった。
母が拾おうとした、あのお守りはなんだったのか。
雷を落としたのは、赤子だった俺なのだろうか……。
「柊夜さん。考えごとですか? 手が止まってますけど」
あかりに声をかけられ、意識を引き戻す。
キッチンに立っていた俺は、天ぷら鍋を見下ろしていた。
鍋の中では、シュワシュワと衣を鳴らした海老が躍っている。
ふと横を見ると、あかりが澄んだ瞳で俺の顔を覗き込んでいた。
どきりと胸を跳ねさせたとき、背後から容赦のない声が飛んでくる。
「おい夜叉、ぼんやりして焦がすなよ! オレが買ってきた海老なんだぞ」
海老の出来映えを案じた那伽が、リビングから顔を覗かせる。
天ぷらパーティーをしようなどと言いだしたのは那伽なのだが、やつは料理を手伝うより子守のほうが得意なようだ。車の玩具で楽しそうに悠と遊んでいた。
「調理する者に、いっさいの権限があるのだ。文句を言わずに出されたものを食べろ」
傲岸に命じて、握りしめていた菜箸を操る。あかりが差しだした皿に海老を乗せていく。
母にまつわることを考えていたので、しばらく天ぷら鍋の前に佇んでいたようだ。こんなことではいけないとわかってはいるのだが。
「あかり。鍋から離れるんだ。危ないからな」
火傷でもしたら大変だと思い、そう声をかける。
妊娠九週目なので、まだ腹は膨らんでいないが大事な時期だ。
すると、彼女は気遣わしげに見上げてきた。
「でも、柊夜さんのことが心配なので私も手伝います」
「俺は大丈夫だ。少し考えごとをしていただけ……」
言い終わらないうち、夫婦の楽しい会話を邪魔する輩が視界に入る。
眉をひそめた俺の不機嫌は沸点に達する。
「ここは夜叉に任せよう。調理する人は邪魔されたくないんだよ。あかりは僕と、あちらでお茶でも飲もう」
歌うように朗々と述べた羅刹は、我が物顔であかりの手をすくい上げた。
間男め。調理中でなければ、やつの手を払い落としてやりたいところである。
羅刹は俺をからかうために、わざとあかりを誘惑して見せつけるような真似をする。とんでもない性悪だ。物腰が柔らかくて顔がよいため、さらに厄介である。
「俺は羅刹を家に呼んだ覚えはないのだが。なぜここにいる?」
「今日の会合は夜叉の家で天ぷらパーティーだと、那伽が言ったからだよ。僕は鬼衆協会の一員だろう?」
多聞天を主とする眷属であるはずの羅刹だが、忠節という言葉など知らない彼は気ままな鬼神だ。俺が羅刹を鬼衆協会から切り捨てられないと承知の上で、仲間だということを盾に取る言動は小賢しい。
だが夜叉の対となる羅刹を見放すわけにもいかず、この男と現世でも付き合わなければならないのは頭を悩ませることも多々ある。上司の言うことをきかない自信過剰の部下を持っているようなものだと割り切っている。
その一方で、彼が何者をも信じられない孤独を抱えている心情も理解していた。
神世の支配者のひとりとしてあやかしに傅かれ、驚異的な能力を持つ至上唯一の鬼神は人もうらやむ立場だが、実は孤独という檻に囚われている。
絶対的な存在ゆえに、誰からも理解されず、そしてまた理解されてはならないという面を持つ。
平たく言えば、寂しいのだ。
それなのに頼るものがいない。矜持が高いので甘えることも叶わず、鬼神として毅然とし、鎧を纏っていなければならない。
それは同情に値する。
守るものがなかったときの俺もそうだったので、よくわかる。
この虚しさはすべての鬼神が抱えているといっていい。羅刹もそうなのだ。
だが、羅刹が俺の家族とこの幸せを壊そうとしたときには、躊躇なく彼を叩きのめすだろう。
「堂々と俺の妻を誘惑しようとする貴様とは、いずれ決着をつける」
「その前に天ぷらと決着をつけなよ。――そうだ、あかり。僕の手土産の紅茶を一緒に飲もうか」
羅刹はあかりの手を引いて、リビングへ向かった。
リビングには那伽と悠、それにコマもいるのである。小さな子どもがいる部屋で、ゆっくり紅茶など飲めるわけがない。
「あ……私はジュースにしますね。カフェインはちょっと控えているので」
「ふうん? 会社ではコーヒーを飲んでいたよね」
「近頃は好みが変わったんです。会社でも飲まなくなったんですよ」
妊婦がカフェインを摂り過ぎると、赤子の発育不良につながる。一日にマグカップ二杯までならたしなめるそうだが、妊娠が発覚してからのあかりは徹底してコーヒーや紅茶などカフェインが含まれる飲み物を避けていた。
それだけ俺との子を大切にしているからだと思うと、胸に愛しさが込み上げる。
妊娠を羅刹に漏らさないのも賢明だ。
やつの正体は鬼神である。好きな女がほかの男の子どもを孕んでいると知れば、赤子を引きずりだして自分の女にしたいという凶暴さをひそませている。
その傲慢さこそが鬼神たるゆえんなのだ。柔らかな微笑の下に隠された羅刹の本性を、俺は知っている。
人間も、そんなものかもしれない。人は誰でも己の醜い性を隠しているのだろう……。
母が拾おうとした、あのお守りはなんだったのか。
雷を落としたのは、赤子だった俺なのだろうか……。
「柊夜さん。考えごとですか? 手が止まってますけど」
あかりに声をかけられ、意識を引き戻す。
キッチンに立っていた俺は、天ぷら鍋を見下ろしていた。
鍋の中では、シュワシュワと衣を鳴らした海老が躍っている。
ふと横を見ると、あかりが澄んだ瞳で俺の顔を覗き込んでいた。
どきりと胸を跳ねさせたとき、背後から容赦のない声が飛んでくる。
「おい夜叉、ぼんやりして焦がすなよ! オレが買ってきた海老なんだぞ」
海老の出来映えを案じた那伽が、リビングから顔を覗かせる。
天ぷらパーティーをしようなどと言いだしたのは那伽なのだが、やつは料理を手伝うより子守のほうが得意なようだ。車の玩具で楽しそうに悠と遊んでいた。
「調理する者に、いっさいの権限があるのだ。文句を言わずに出されたものを食べろ」
傲岸に命じて、握りしめていた菜箸を操る。あかりが差しだした皿に海老を乗せていく。
母にまつわることを考えていたので、しばらく天ぷら鍋の前に佇んでいたようだ。こんなことではいけないとわかってはいるのだが。
「あかり。鍋から離れるんだ。危ないからな」
火傷でもしたら大変だと思い、そう声をかける。
妊娠九週目なので、まだ腹は膨らんでいないが大事な時期だ。
すると、彼女は気遣わしげに見上げてきた。
「でも、柊夜さんのことが心配なので私も手伝います」
「俺は大丈夫だ。少し考えごとをしていただけ……」
言い終わらないうち、夫婦の楽しい会話を邪魔する輩が視界に入る。
眉をひそめた俺の不機嫌は沸点に達する。
「ここは夜叉に任せよう。調理する人は邪魔されたくないんだよ。あかりは僕と、あちらでお茶でも飲もう」
歌うように朗々と述べた羅刹は、我が物顔であかりの手をすくい上げた。
間男め。調理中でなければ、やつの手を払い落としてやりたいところである。
羅刹は俺をからかうために、わざとあかりを誘惑して見せつけるような真似をする。とんでもない性悪だ。物腰が柔らかくて顔がよいため、さらに厄介である。
「俺は羅刹を家に呼んだ覚えはないのだが。なぜここにいる?」
「今日の会合は夜叉の家で天ぷらパーティーだと、那伽が言ったからだよ。僕は鬼衆協会の一員だろう?」
多聞天を主とする眷属であるはずの羅刹だが、忠節という言葉など知らない彼は気ままな鬼神だ。俺が羅刹を鬼衆協会から切り捨てられないと承知の上で、仲間だということを盾に取る言動は小賢しい。
だが夜叉の対となる羅刹を見放すわけにもいかず、この男と現世でも付き合わなければならないのは頭を悩ませることも多々ある。上司の言うことをきかない自信過剰の部下を持っているようなものだと割り切っている。
その一方で、彼が何者をも信じられない孤独を抱えている心情も理解していた。
神世の支配者のひとりとしてあやかしに傅かれ、驚異的な能力を持つ至上唯一の鬼神は人もうらやむ立場だが、実は孤独という檻に囚われている。
絶対的な存在ゆえに、誰からも理解されず、そしてまた理解されてはならないという面を持つ。
平たく言えば、寂しいのだ。
それなのに頼るものがいない。矜持が高いので甘えることも叶わず、鬼神として毅然とし、鎧を纏っていなければならない。
それは同情に値する。
守るものがなかったときの俺もそうだったので、よくわかる。
この虚しさはすべての鬼神が抱えているといっていい。羅刹もそうなのだ。
だが、羅刹が俺の家族とこの幸せを壊そうとしたときには、躊躇なく彼を叩きのめすだろう。
「堂々と俺の妻を誘惑しようとする貴様とは、いずれ決着をつける」
「その前に天ぷらと決着をつけなよ。――そうだ、あかり。僕の手土産の紅茶を一緒に飲もうか」
羅刹はあかりの手を引いて、リビングへ向かった。
リビングには那伽と悠、それにコマもいるのである。小さな子どもがいる部屋で、ゆっくり紅茶など飲めるわけがない。
「あ……私はジュースにしますね。カフェインはちょっと控えているので」
「ふうん? 会社ではコーヒーを飲んでいたよね」
「近頃は好みが変わったんです。会社でも飲まなくなったんですよ」
妊婦がカフェインを摂り過ぎると、赤子の発育不良につながる。一日にマグカップ二杯までならたしなめるそうだが、妊娠が発覚してからのあかりは徹底してコーヒーや紅茶などカフェインが含まれる飲み物を避けていた。
それだけ俺との子を大切にしているからだと思うと、胸に愛しさが込み上げる。
妊娠を羅刹に漏らさないのも賢明だ。
やつの正体は鬼神である。好きな女がほかの男の子どもを孕んでいると知れば、赤子を引きずりだして自分の女にしたいという凶暴さをひそませている。
その傲慢さこそが鬼神たるゆえんなのだ。柔らかな微笑の下に隠された羅刹の本性を、俺は知っている。
人間も、そんなものかもしれない。人は誰でも己の醜い性を隠しているのだろう……。