引っ越してから早くも一週間が経った。


 家の中もすっかり片付いて、おばあちゃんの体調に変わりはなく、お父さんとお母さんは毎朝バタバタと仕事に出かけ、わたしも頑張って早起きして登校する。家の中もほとんど片付き、家族が一人増えた他は今までと変わらない当たり前の日常が続く。


 ひとつだけ、当たり前じゃないことが変わった。
 初日から気付いていた、部屋にいる時のあの違和感だ。


 一人でいるのに感じる、誰かからの視線。食べっぱなしにして、いつのまにか減っているお菓子。それどころか、机の上の物の位置が微妙に動いていることさえある。たとえば、読みかけたままページを下にして机に置いた漫画が、いつのまにかきちんと表紙を上にして置かれてあったり。


「お母さん、今日帰ってきてから、わたしの部屋、入った?」


 夕飯の支度を手伝いながら、お母さんに訊いてみた。お母さんははぁ、と眉をひそめる。


「入ってないわよ。今日はまだ洗濯物も片付けてないし」
「そう。ならいいんだけど」
「どうかしたの?」


 訝しげなお母さんの顔に、どんな言葉を返すべきか迷う。部屋の中で視線を感じる、なんて言っても、気のせいじゃないのと流されるに違いない。


「夕べ、寝る前に漫画読んでて。途中で眠くなったから、読んだところまでページをめくったまま、机の上に置いたんだけど。帰ってきたら、普通に表紙を上にして置いてあったから…..」

「それ、花音の勘違いよ。お母さんは本当に今日は花音の部屋に入ってないし、おばあちゃんは車椅子だから、二階には上がれないでしょう? たぶん、寝ぼけてたか、朝、無意識のうちに元に戻したのよ」

「だといいんだけど……この家、わたしたちの他に誰かが住んでるってことはない?」

「はぁ?」


 半ば呆れたような声だった。


「たとえば、屋根裏に誰かが潜んでるとか……おばあちゃんが入院してる間、三ヵ月もこの家、誰も住んでなかったんでしょ? その時、誰かが忍び込んだのかも」

「そんなわけないでしょう。私、この家の中で他の人の足音なんて聞いたことないわよ」

「だから、足音を立てないように普段は屋根裏に潜んでて、誰もいない時にトイレを使ったり、冷蔵庫のものを盗み食いしたり……」

「花音、怖い漫画の読み過ぎよ。冷蔵庫のものが毎日なくなってたら、さすがにお母さんでも気付くわ。そんな馬鹿な話してる暇あったら、手を動かしてちょうだい」


 つっけんどんに言って、お母さんはお味噌汁の鍋に味噌を溶いている。

 やっぱり、家族以外の誰かがこの家にいるなんてわたしの思い過ごしなんだろうか。もしわたしの想像通り、屋根裏に知らない誰かが潜んでいたら恐怖で卒倒するけれど、たしかに家族四人、誰にも気取られず上手い事他人の家に潜り込むなんて、普通に考えたら不可能だ。

 いや、不可能じゃないのかもしれない。たとえばトイレに行く回数を減らすため、食事を最低限に済ませているとしたら。冷蔵庫の中のものを盗み食いなんてしないで、昼間、デイケアでおばあちゃんがいない間、近所の小さな商店で食料を調達しているとしたら。

 不可能では、ないんだ。


 夕食が済んだ後、自室でスマホを使ってビデオカメラについて調べた。誰もいない昼間の間、部屋の中を撮っておこうと思ったんだ。調べると個人で使える監視カメラのようなものも、いくつか見つかった。でも、どれも値が張る。中古ならどうか、とフリマサイトで検索をかけてみたけれど、中古でもそれなりの値段はする。とても月々三千円のお小遣いじゃ買えない。


 スマホを置き、ふうとベッドに横になる。今は、視線は感じない。視線はいつでもあるわけじゃなく、夜寝ようとしている時や、部屋でくつろいでる時、ふっと思い出したように感じるんだ。それがもう一週間も続いている。家族以外の誰かがこの家に潜んでいるとしたら目的は何か。

斬新なアイディアを思いついたホームレス? それとも、家族の誰かを狙っているストーカー? どちらにしろ、怖すぎる。目的がわからないから、怖い。

 いや……考えても仕方ないか。


 夏休み中は夜の一時や二時まで起きていたわたしは、強制的な早起きのお陰で生活リズムが戻り、夜の十時を越えたら眠気が襲ってくるようになった。お風呂は済ませた。宿題もやった。グループラインにメッセージはない。今日はこのまま寝てしまおう。


 タオルケットを被って、わたしは微睡みに身を任せた。

「父さん、今日もやっぱ、お菓子置いてあるぜ。この子ほんと、これ好きだよな。まぁ、俺も好きなんだけど」

「シンバ、欲張るな。せいぜい三個ぐらいにしとけ。それ以上減ってたら怪しまれるぞ」

「大丈夫だって。俺らがいるなんて、絶対わかんねぇよ」


 意識が夢と現実の境界線を彷徨っていて、夢の続きを見ているんだと思った。でも夢にしては声はくっきりと、鮮明な輪郭で耳に届く。これは夢じゃない、と悟った途端、意識ははっきり覚醒した。


「それにしたって、四個は欲張り過ぎだぞ。それ一個で、三人とも一日食べられちゃうんだから」

「腐るもんじゃないから、これくらい持ってくよ。余ったら俺がおやつに食う」


 これはいったい何の会話だろう。部屋の中に誰かがいるのはわかってる。でも減ってたら怪しまれるとか、三人とも一日分食べられちゃうとか、どういうこと? まさかこの家には一人どころか、三人も屋根裏の住人がいるの?

 いや、そんなにいたらさすがにお父さんもお母さんも気付くはずだ。この声の主は、いったい……?


「ほら、四個も担いだら歩くのも難儀じゃないか。そんなんじゃ、家に帰れないぞ」
「父さん、一個持って」
「仕方ないなぁ」


 どういう意味? この会話は何なの?

 わたしはそっと声の方向に顔を向ける。声の主は、机の辺りにいるらしい。でも人の気配らしきものは部屋にまったくない。二人も誰かいたら、さすがに気配でわかるはずだ。それがないってことは、この声の主は……

 もしかしたら、人じゃない何か?


「誰かいるの?」


 勇気を振り絞って、声を出した。返事はなく、電気を消した真っ暗な部屋の中は静まり返っている。


「誰かいるなら、教えて。返事をして」


 やっぱり返事はない。会話をしているってことは、部屋の中には少なくとも二人以上がいる。そして返事がないのはつまり、わたしに存在を知られるのがまずいってことだ。

 わたしはばさりとベッドから起き上がり、学習机に走り寄った。机の上でことことと何かが動く音がした。やっぱり、何かいる。テーブルライトの電源に手を伸ばす。

 カチッ、とスイッチが音を立て、部屋の中が白い蛍光灯の光に照らされる。暗闇に灯ったその光は、今まさに机から降りようとしていた二人をあかあかと照らし出した。


「――!!」


 本当に驚いた時は、声なんて出ない。

 わたしの目の前でお菓子を背中に担いでいるのは、ちっちゃな人間だった。二人いた。一人は、お父さんと同い年ぐらいのおじさんの姿をしている。もう一人は、わたしと同い年ぐらいの男の子。二人ともしまった、という顔でこちらを凝視している。


「あなたたちは……誰?」


 ようやく喉の底から振り絞った言葉は、それだった。日本語をしゃべってるんだから、こちらの言葉も理解できるはず。でも二人は、じっと固まって緊張感を限界まで上り詰めさせた表情のまま、動こうとしない。


「いったい誰……なの? この家に住んでいるの?」


 わたしが出す声も、震えている。この人たちは、何なのか。幽霊? オバケ? でも、夜中に人間の食べ物を盗んでいく、こんなに人に近い形の――いや、まるきり人型の――オバケがいるなんて聞いたことない。

 わたしが今見ているものは、いったい何なのか。


「見つかっちまったもんはしょうがないな」


 男の子の方がふう、と肩を落として言った。意志の強さを表すような、しっかりと芯の通ったテノールの声だった。


「俺はシンバ。この人は父さん。あともう一人、母さんがいる。この家に住んでる、小人だ」
「小人……?」


 シンバと名乗った男の子はこくりと頷き、おじさんの方はやれやれ、といった調子でため息をついた。

小人にお茶を出す日が来るなんて、誰が想像できるだろう。


 とりあえず二人に敵意はないことはわかったので、詳しい事情を聴くため、逃げないで、そのままテーブルの上にいて、と引き留めた。警戒心を解いてもらうため、咄嗟に、飲み物持ってきます、と言って部屋を出た。

一階に下りてキッチンで自分の分の麦茶を注ぎ、さて小人二人の分はどうしようかと思い悩む。お母さんが引っ越して真っ先に片付けた食器棚の隅っこに、おちょこを見つけた。ちょうど二つある。


「これ、俺の分? それでも相当でかいんだけど」
「シンバ、文句言うな。ありがとうね、お嬢さん」


 二人は自分の身体の半分ほどもあるおちょこを持ち上げて、ごくごく、麦茶を飲んだ。それにしても、小さい。たぶん十五センチか、二十センチくらいしかない。小人なんて、子どもが読む絵本や童話の世界にしかいないものだと思ってた。

小学校の時図書室で小人が出てくる本を見つけた時は、夢中で読んだっけ。あまんきみこさんの本だった。とても面白い本だったけど、でも本の中の世界が、現実になってしまうなんて。

 やっぱり夢を見ているのかと思い、頬をつねる。普通に、痛い。


「言っとくけど、夢じゃないぞ」


 シンバが鋭い声を出した。


「お前が見ているものは、間違いなく現実だ。俺たち家族はじいちゃんの代から七十年、この家の屋根裏、ちょうどお前の部屋の真上あたりで生活している」
「あなたたちは……本当に小人なの?」
「お嬢さん、信じられないかもしれないけれど、本当にいるんだ」


 シンバのお父さんが何かを観念したような声を出した。


「今では小人は、子どもが読む本の中の登場人物でしかないだろう? でも人類の歴史を遡ると、遥か昔から、人間が地球に登場したのと同時期に、小人も存在している。昔は、いい時代だった。

人間は小人に狩りで獲った食料を与え、小人はありがたくそれを頂戴していた。人間と同時に、宴を囲むこともあったーーでも人間たちが高度な文明を築き、人間の生活が便利になっていくにつれて、人間は小人を忌み嫌うようになった」

「それは、どうして……?」


 シンバのお父さんは、俯いたまま語り続ける。


「人間は自分の生活が豊かになるにつれて、ケチになっていったんだよ。小人に分け与えるわずかな食糧さえ、惜しむようになった。ひいては自分の家に棲みつき生活する小人を、邪魔者扱いした。生活が便利になると、心が貧しくなるのかもしれないね。

しかし人間に依存しないと、人間より遥かに非力な私たちは生きていくことができない。次第に小人たちは人間に姿を隠し、人間に気取られないようにひっそりと人間の家に住みついて生きるようになった。人間と宴を囲むことは、なくなった」

「あの……じゃあ、あなたたちみたいな人は、どの家にもいるんですか?」


 シンバのお父さんが弱弱しく首を振る。


「人間が飢餓や戦争や、凄惨な歴史を繰り返すと共に、小人の数も減っていった。今や絶滅危惧種で、地球上から存在すら危うい立場にある。だから小人が住む家は、珍しいよ。今どきのアパートやマンションにはまず住めないしね。小人が住む家は、だいたいこの家ぐらい、古い家だ。その家から生活に必要なものを『借り』て、日々つつましく過ごしている」

「――事情はわかりました」


 わかったと口にしてはみても、本当まだ半分も飲み込めていない。これは現実だっていくら厳しく言われたって、まだ夢を見ているみたいに思ってしまう。おとぎ話の設定をこれから受け入れてくれといきなり言われたところで、うんと首を縦に振れるほど、わたしは純真無垢な子どもじゃない。もう高校生なんだ。小人なんて絵本の中にしかいないって、そう思い込んで生きてきた。それが、当たり前のことだから。


 でも、シンバもシンバのお父さんもひどく張りつめた表情をしていて、その言葉に嘘はないと信じられた。七十年この家に住み続け、その存在を隠していた小人たちが、こうして人間を前にして、切実に自らの不遇な境遇を訴える。少なくとも二人は、悪い人じゃない。やむにやまれぬ事情があって、こっそり生き続けて来ただけだ。


「それで、お嬢さん。こちらの事情を話した上で、あなたにお願いがあるんだが……」
「なんですか?」
「俺たちを見たこと、誰にも言わないでほしいんだ」


 シンバが強い口調で言う。よく見るとシンバの顔はくっきりと彫りが深く、まるで外国人みたいだ。小人のルーツは、外国にあるのかもしれない。


「小人の世界では昔から、ひとつ守らなければいけない掟がある。人間に見られてはいけない、って。弱い俺たちを守るための掟だった。だからお前に姿を見られた以上、俺たちは本当はこの家にいてはいけない」

「引っ越すの?」

「それも大変だ。さっき父さんが言ったけど、俺たちはどの家にも住めるってわけじゃないから。だからこれからも、俺たちはここにいたい。お前が家族にも友だちにも俺たちの存在を明らかにしなければ、俺たちはこれからもこの家に居続けられる。すべてはお前に懸かってるんだ」


 シンバの口調は、切実だった。シンバのお父さんがぐい、とシンバの後頭部に手をやり頭を下げさせ、自分も頭を下げる。


「私からも頼む。お願いだ。私たちを見たこと、誰にも言わないでほしい」


 頭を下げる、二人の小人。このお願いは、シンバ一家の運命が懸かった大きなものだ。

 しばらく、間があった。テーブルライトだけを点けた薄闇の部屋に、時計の秒針がちく、たく、と時を刻む音だけがやたら大きく響く。


「……わかりました」


 ほっとした顔で、二人が頭を上げる。シンバに至っては、唇の両側がうっすら持ち上がっていた。


「あなたたちはわたしたち家族に危害を加えるわけじゃない。必要なものを少しだけ『借り』て生活してるんですよね? それならわたしに、あなたたちの存在を拒む理由はありません。どうぞ今までどおり、屋根裏で暮らし続けてください」

「ありがとう……お嬢さん」

「お前、話のわかる奴だな!」

「シンバ、お嬢さんに失礼だろ。奴とか言っちゃ」


 シンバがお父さんに頭を小突かれている。そんな姿は思春期のやんちゃな子どもに手を焼く親子そのもので、わたしたち人間とまったく変わりないように見えた。

 小人は身体が小さいだけで、心は人間と同じなんだ。


「お前、名前なんて言うんだ? 最近は人間の世界では、キラキラネームだのDQNネームだの、流行ってるんだろ? お前も変な名前なのか?」

「何それ、失礼ね、あなた……たしかにわたしの名前、ちょっと響きは外国人っぽいけど、DQNネームっていうほど変わってないよ。同級生には読めないような名前の子もいるんだから」

「へー、なんて名前だ?」

「花音。荒川花音。花に音って書いて、花音って読むの。死んだおじいちゃんがつけてくれた」

「年寄りが考えたにしては、イケてる名前じゃねぇか。これからよろしくな! 花音! 俺、花音がほとんど毎日食べてるそのお菓子、結構好きなんだよ。明日からも借りてくから!」

「好きにしていいよ、シンバ」


 シンバが小さい手を出して、小指を出した。爪の先ほどの、ちっちゃな小指だった。


「とにかく、俺たちのことは絶対に誰にも言うなよ! 指切りげんまん!」

「指切りげんまんって。シンバ、歳は見たところわたしと同じくらいなのに、発想が子どもっぽいね」

「うっせーよ! 早くしよーぜ! 指切り!」


 せがむシンバのちっちゃな指に、わたしは自分の小指をそっとあてた。
 初めて触った小人の身体の小さな小さな一部分は、やわらかかった。
スマホのアラームの無機質な音が、眠りの世界からわたしを強制的に引きずり出す。直前まで見ていた夢の記憶が、あっという間にばらばらになって頭の後ろに砕ける。まだ眠い。五分だけスヌーズして、このまま眠ってしまいたい。まだ身体じゅうに眠気がびっしり詰まっていて、ベッドから這い出したくない。五分だけなら。そう、たったの五分。

 スマホに伸ばした手を、思いっきり誰かにはたかれる。


「起きろよ! 花音! 遅刻するぞ!」


 どこか楽しそうな声に眠気のせいで重たい身体をむくりと持ち上げると、枕元にシンバがいた。朝が来たことを心から喜んでいるかのように、顔全体が輝いている。


「さっさと起きて支度しろよ! 人間の子どもは、学校ってやつに行くんだろ?」
「うるさいから、朝から騒がないでよ……シンバ。耳がキンキンする」


 シンバのはしゃぎ声が寝起きでまだ上手く働かない耳を容赦なくひっかく。小人の声帯って、いったいどうなってるんだろう。身体の割に、声が大きい。

 ようやくベッドから身体を起こして、改めて枕元にちょこんと立っているシンバを見やる。まず間違いなく、小人だ。小さい頃童話の中で読んだ小人の姿と、そっくりそのまま。

 夕べテーブルで麦茶を一緒に飲み、話したのは、夢じゃなかったんだ。


「花音、夢じゃなかった、って今思ってるだろ?」
「……なんでわかるの」
「顔でわかるよ。残念でしたー! 俺たち小人は、まぎれもなく現実にいるんだぜ! ほら、こんなちっちゃえ身体でもここまでジャンプできる!」


 と、ぴょんぴょん、ベッドの上でトランポリンみたく撥ねてみせる。十回ぐらい跳ねたところで、バランスを崩してうぉ、と着地に失敗してお尻をついた。思わずぷ、と笑ってしまう。シンバが露骨に顔をしかめる。


「何笑ってんだよ、花音」
「ううん。話し相手ができて、嬉しいなって思っただけ」


 こうして、わたしとシンバたちとの共同生活が始まった。




第三章親友は小人





「目が悪いわけでもないのにコンタクトレンズつけるなんて、人間も馬鹿げたこと考えるもんだよな」

「馬鹿げたことじゃないよ。カラコンつけると、目が大きく見えるんだもん。ほら、ちょっと違うでしょ?」

「まぁ、本当にちょっとだけだけどな。でも学校に行くために、なんで毎日化粧したり髪の毛巻いたり、そんなにおしゃれが必要なんだよ」

「わたしたちのグループでは、メイクも巻き髪も常識だから。すっぴんで学校に行ったら、女が見た目に手抜いちゃ駄目だよ、とか言われる」

「面倒臭いんだな。人間のグループって」


 いつもは心の内側に隠してる本当の気持ちを、シンバはずばりと言い当てる。それはちょっとドキリとするけれど、でも共感してくれるのがほんのり嬉しい。


 シンバと出会ってから、今日で四日目。わたしたちは朝のひと時や、学校に帰ってから、そして寝る前も、いろんなことを語り合う仲になった。

どうもシンバは初めて喋る人間の女の子に興味を示したようで、学校という場所はどういうところなのか、ここは田舎だけど都会と言われる場所はどんなところなのか、果てはこれから人類はどういう未来を歩むのかまで、いろんなことを知りたがる。わたしには難しい、答えられない質問もあった。でも難しい質問に頭を捻ることすら楽しいほど、わたしとシンバの時間は充実していた。

 まだお互いいろいろ知らないことだらけだけど、まるでこれはわたしが自分にも欲しいと望んでいた、親友、と呼べるような関係に近い気がする――。


「ちょっとシンバ、家に帰ってよ。これから着替えるんだから」
「いいじゃん、別に。俺、あっち向いてるから」
「そう言っといて、こっそり振り返ったりするんでしょう」
「何だよ、今さら恥ずかしがるなよ。花音の裸なんて、出会う前から何度も見たから既に知ってるし」
「ばっちり覗いてるじゃない!! シンバのスケベ!」


 ち、とシンバは舌打ちをして、すごすごと屋根裏に戻っていく。小人と人間、種族が違うとはいえ、人間の姿をしていて人間の言葉が通じるから、動物のようには思えない。シンバも、それは同じなのかもしれない。


「なぁ花音」


 パジャマのボタンを二つ目まで外したところで、斜め上から声が振ってきた。ちょうど押し入れの天袋のところ。そこが、屋根裏への秘密通路に繋がっているらしい。


「帰ったらまた、学校の話聞かせてくれよ。この前花音が言ってた文化祭ってやつとか、すげぇ興味ある」
「いいよ。いくらでも話したげる」


 シンバがに、と笑った。笑うとシンバは、猫に似ている。


「じゃ、またな、花音」
「またね、シンバ」


 天袋が閉まる音が聞こえる。わたしは着替えを再開する。
 こんな非日常な日常が、既に当たり前になりつつあった。

もう五分も、里美と鈴子は二人っきりでしゃべり続けている。茉奈は退屈そうに爪の手入れをしていて、わたしはぼうっと二人の話を聞いていた。


「毎回毎回家デートだと、なんか嫌になるよねー。もう、やる事ひとつしかないっつーの!」

「うちもそう。でもそれは嫌だ、たまには公園をお散歩したりとか、それだけでいいって言ったら、近くの公園ぐるっと散歩して、芝生で二人で昼寝したけど」

「鈴子の彼氏は聴き分けいいねぇ。うちなんて、公園でも人気のないところに連れてかれるよ。公園でヤッてみたい、とか言われてー!」

「えーマジ? 野外プレイー!?」
「ちょっと里美、声でかいよっ」


 怒りながら楽しそうに笑う鈴子。まるでここは女子校か、と言わんばかりにこういう話を二人は昼休みの教室であけすけにする。まぁ、廊下では男子がキャッチボールをしてはしゃいでいるし、男女混合グループの方がテンション高いから、誰もわたしたちのことなんて気にしてないんだけど。


「花音と茉奈もさぁ、早く彼氏作んなよ。男がいるって、いいもんだよ」


 自分の名前をいきなり呼ばれて、びっくりする。わたしはぼうっとしながら、今日はシンバから小人の話をもっと聞きたいな、なんて思っていた。最近いつも、暇さえあればシンバのことばかり考えている。


「えぇっと……いや、あの、その。わたしにはまだ、そういうの早いっていうか……」

「何言ってんのー、早くないよ? あたしなんて初彼、幼稚園の年少さんだったんだからねー!」

「あたしは小五!」
「それ、何度も聞いたよー」


 二人に合わせて笑っていると、茉奈につんつん、肩を叩かれる。


「花音さ、トイレ行かない?」
「うん」
「いってらー!」


 トイレに行くまでのうるさい昼休みの廊下で、茉奈は一言もしゃべらなかった。疲れた様子で短いトイレを済ますと、その割には手を丁寧に洗いながらようやく口を開く。


「里美も鈴子も、毎日彼氏の話ばっか。正直疲れた」
「そう……」
「テンション高くてウザ過ぎ」


 人の悪口を聞くと、心にペパーミントの香りの風が吹く。とってもいい匂いなのに、ちょっと切ない。

 茉奈はわたしと二人きりの時は時々こういう悪口を言うので、その度に悪い事をしている気分になってしまう。


「彼氏なんて、別にいなくてもいいじゃん! 高校生になっても彼氏ができなくて、何が悪いのよ!」
「そう……だよね」
「同盟、作ろう! 花音とあたしは、彼氏いない同盟!」


 廊下にも聞こえるような大きな声だったけど、茉奈がちょっと元気になった気がして嬉しかった。


「わかった。わたしも高校生の間は、彼氏作らない」
「セックスもしない?」
「うん。しない」
「やっぱ花音は、話がよくわかるよね」


 茉奈はにんまりと笑った。
 どうして女の子のグループって、四人グループでも二対二でごちゃごちゃしちゃうんだろう。小学校の時も中学校の時も、ずっとそうだった。


「花音と話したらすっきりしたー! 教室戻ろ!」


 茉奈は明るい顔で、教室に戻っていく。わたしはその左側を、黙って歩く。
 昼休みはまもなく終わって、午後の授業がやってきた。大好きな古文の授業なのに、全然集中できなかった。

 学校は楽しいけれど、時々しんどいことも起こる場所だ。



 
 帰りのバスの中で、男の子がおばあちゃんに席を譲っていた。

 優先席に座っている人が寝ていたから、その前の席に座っていた男の子が立った。いいものを見たな、という気分になった。こういうことがあると、バス通学もそんなに悪いものじゃない。


「ただいま」


 家に帰ると、入浴介助が終わったおばあちゃんが窓辺で日向ぼっこをしていた。おばあちゃんはこの場所が大好きだ。まるで猫みたい。


「ただいま、シンバ」


 部屋に入ると机の上でシンバが漫画を読んでいた。クラスメイトが次から次へとメールで秘密を暴露されていく漫画だ。怖いのは苦手なんだけど、この漫画だけは面白くて、何度も読んでいる。


「この本、めっちゃ面白いな。花音が読んでる漫画はどれもありえない展開の恋愛漫画ばっかりだけど、これはありえない設定なのに面白い」

「犯人、誰だと思う?」

「今推理してるところ。でも俺は、この友だちが怪しいと思うんだよな」


 と、真犯人とは違う女の子を指差す。違うんだけど、ネタバレしたら可哀相だから黙っておいた。


「花音はこれから出かけるのか?」
「ううん、宿題やる」
「花音って真面目だよな、毎日勉強して」
「わからないところがあると、わかるところまで知りたくなるの」
「だから成績、良いんだな」
「まぁ、クラスの中の上らへんだけどね。わたし、馬鹿だから」
「中の上は、馬鹿じゃないだろ」


 シンバはちょっと難しい言い回しや人間の恋愛事情にも詳しい。シンバによると小人の世界では、十二歳から『借り』を始める。その前はお父さんやお母さんから、人間のことをいろいろ学ぶんだそうだ。小人の世界には、代々伝わる歴史の教科書や人間の世界の教科書、数学の教科書まであるらしい。


「今日もいつものやつ、ある?」
「あるよ。学校の近所のコンビニで買ってきた」
「よっしゃあ」


 ガッツポーズをするシンバが可愛くて、思わず口元がにやけてしまう。シンバの大袈裟な仕草が、最近可愛らしくて仕方ない。一人っ子なのにいきなり、弟が出来たみたいな気分だ。


「麦茶持ってくるね」
「オッケー」


 階段を下りる足音が軽い。台所で、鼻歌を唄いながら麦茶を飲む。aikoの「桜の時」。


「花音、何かいいことがあったのかい?」


 おばあちゃんが日向ぼっこしながらのんびりと聞く。


「学校でいいことがあったんだ」


 さすがに、シンバのことはおばあちゃんにも言えない。そういう決まりなんだから。


「そうかい。学校が楽しいのは、いいことだねぇ」
「なんでいいことがあるってわかったの?」
「花音は子どもの頃から、いいことがあると鼻歌を唄うんだよ」


 おばあちゃんは、なんでも知ってるなぁ。敵わないなぁ。そんなことを思いつつ、グラスとおちょこを運ぶ。


「うちのおばあちゃん、離れて暮らしても家が近所だから、保育園の頃は毎日迎えに来てくれたんだ。その時は腰も曲がってなくて、元気いっぱいで歳より若く見えたのに」


 麦茶を飲みながら、シンバに愚痴る。


「おじいちゃんが亡くなっても、元気だったの。毎日自転車で、二キロかけて買い物に行けるくらい。このへん山道なのに、上り坂も押して歩かないんだよ。でも、脳出血になってからいっぺんに老け込んじゃった」

「怖いんだな、脳出血って」

「脳梗塞よりはマシだけどね。しかも、繰り返すらしいし……」


 シンバがちょこん、とわたしの腕に飛び乗った。そのままてくてく肩まで移動して、髪を撫で始める。


「花音の髪は、すべすべできれいだな。いい匂いがする」
「そう?」
「髪を大切にする人は、心のきれいな人だって母さんが言ってた。花音は心がきれいだから、おばあちゃんもきっとまた良くなるよ」
「……ありがとう」


 じわり、目の奥が熱くなって涙をこらえる。シンバはいつもは弟みたいなのに、時々お兄さんみたいに、優しくて強い。

 冬の海みたいだった心に春の風が吹いた頃、シンバは机の上に戻った。小人の身体には大きなおちょこで、ごくごく麦茶を飲み、ぷはぁー、と元気に息を吐いた。
「学校って、楽しいところなんだろう?」

「うーん、楽しいと言えば楽しいけど。退屈な授業もあるし、面倒くさい人間関係もある。でも文化祭や体育祭は、盛り上がるよ」

「みんなでお祭りするんだろ? 人間の祭りって、一回行ってみたいんだよな」

「うちの文化祭は十月だから、もうちょっと先。来週になったらロングHRで、出し物決める」

「HRって、どんな事を話し合うんだ? いわゆる、学級会だろ?」

「その日によって違うよ、特に変わったことがなければ、すぐに終わっちゃう。うちの学級委員長はしっかりしてるから、特に何もない日は夕べのニュースについてどう思いますか、なんて聞いたりするけど」

「結構難しいこと聞かれたりするのか?」

「戦争はどうしたらなくなるのかとか、ね」

「答えはなんだったんだ?」

「人はそれぞれ、信じてる神様が違うから、って」

「……そうかもしれないないな」


 シンバはしばしの間黙り込んで、開け放たれた窓から入ってくる秋の風を感じていた。キンモクセイの甘い香りが、鼻孔をつん、と刺激した。


「なぁ花音、俺も学校に行ってみていい?」
「えぇ!?」


 思わず、大きな声が出た。シンバの目がきらきらしてる。


「俺も見てみたいんだ、授業とかHRとか、休み時間とか。話には聞いてるけど、実際どういうもんなのか、この目で見てみたい」
「……どうやって行くの」

「花音の机の中に、ひっそり隠れていればいい。スカートのポケットの中でもいいよ」
「別にいいけど……」


 正直、不安だ。他の人間に見られちゃいけないシンバを、学校なんて人だらけの場所に連れて行くなんて。


「お父さんとお母さんに聞いてからにしたら?」
「絶対駄目って言うから、山にどんぐりを取りに行くって伝える。どんぐり集めは、一日中かかるからな」

「お父さんとお母さんに嘘つくの?」
「人間だって親に嘘、つくだろ。小人も同じだよ」


 たしかにわたしは、お父さんとお母さんにだいぶ嘘をついている。おばあちゃんにも。学校は楽しい? って言われて、いつも楽しい、って答えてる。本当は楽しくない時も、たくさんあるのに。


「じゃ、明日、俺を花音のカバンに入れてくれよ」
「明日ぁ!?」


 いくらなんでも急すぎる。シンバはぴょんぴょん、飛び跳ねる。


「思い立ったら吉日、って言うだろ」
「そりゃそうだけど……」
「なんだ? 花音、そんなに俺と出かけるのが怖いのか?」

「万が一人に見られたら……」
「俺がそんなヘマ、するわけないだろ。万が一見られたとしても、普通の人間は小人の存在自体信じないだろうし」
「ま、そうだけど……」
「じゃ、約束なっ!!」


 そう言ってシンバは、可愛らしい右手の小指を突き出した。

 

  第四章



「花音、お弁当入れておくわよ」
「やめてっ!」


 トーストを齧りながら大声を出したら、お母さんがぎょっとした顔でこっちを見る。


「カバンの中に学校に入れちゃいけないものでも入れてるの?」
「そうじゃないけど。もう高校生だから、自分でやる」


 とってつけたような言い訳をしながらパンを咀嚼し、お母さんに見えないように気を付けながら自分でお弁当を入れる。一瞬だけ見えたシンバは、身じろぎもせず膝を抱えて丸まってた。


「花音はえらいねぇ」


 おばあちゃんが褒めてくれる。お母さんもそう、とにっこり笑う。
 よかった、なんと誤魔化せた……
 学校に小人を持ってきちゃいけない、というありえない校則は、わたしが勝手に作った。

 高速で朝ご飯を済ませ、ゆっくりバス停まで歩く。一人になるとさっそくシンバはカバンから出てきて、器用に身体をよじ登り、胸ポケットの中に入った。


「ここらへん、都会よりいい場所だろ」
「うん。あっちからもこっちからも、キンモクセイの香りがぷんぷんするけど」
「俺、キンモクセイって好きだぞ。でも花音、ギンモクセイは知らないだろ」
「何それ」
「ギンモクセイは、白い花が咲くキンモクセイなんだ」


 山で『借り』をするシンバは、山のことにすごく詳しかった。食べられる木の実。食べられない木の実。食べられる虫と食べられない虫。汚れた水の浄化の仕方。


「あのおばあちゃん、いつも朝から掃除してるよな」


 五軒離れた近所の腰が曲がったおばあちゃんが、掃除をしている。シンバか少し声を落とす。


「働き者で、すごいマメなおばあちゃんなんだ。俺、働き者は好きだぜ」
「わたしも、働き者は好き。うちのおばあちゃんも、朝五時に起きて庭を掃除してた」
「歳とっても元気に身体を動かせるっていいよな。俺もそうなりたい」


 そう言って、シンバはひょこっと頭を隠した。


「おはようございます」
「はい、おはよう」


 箒の手を止めて、のんびりした声が返ってくる。もう八十歳を超えているだろうけれど、とても優しいおばあちゃんだ。


「またどんぐり狩り、行かなきゃなぁ」
 おばあちゃんの家を過ぎると、シンバがまた首をひょっこり出す。


「どんぐりは、日持ちするんだよ。すりつぶして粉にして、パンケーキの材料にする。小人は秋になると、一年分のどんぐりを集めるんだ」
「今度山狩り、シンバと一緒に行きたい。鳩に乗るシンバを見てみたい」
「お前、山なんか登れるのかよ。そんな、棒みたいな脚で」
「体力に自信はないけど、根性はあるよ」


 そう言って筋肉も脂肪もない腕でガッツポーズをしてみせると、シンバはにい、と歯を見せて笑った。


 学校で、シンバはおとなしくしていた。わたしはいつも学校についてすぐ自分の席に座って、教科書やノートを机に入れてから里美たちと話すんだけど、シンバはその時えいやっとカバンから飛び出して一緒に机の中に飛びこんだ。手にくるんで入れてあげるつもりだったのに、本当に運動神経抜群だ。

 朝のHRも授業中も、シンバは息ひとつせず静かにしていた。あのおしゃべりなシンバが、よくじっと黙っていられるなぁ、と正直感心していた二時間目の英語の授業中、シンバが教科書の陰にのって机の上に飛び乗ってきた時は、本当にびっくりした。


「何してるの」
 ひそひそ声で話しかける。シンバもひそひそ声で答える。

「みんな発音悪ィんだもん」

 たしかに今英語の授業中だけど、そんな事が気になるのか!
 シンバは外国人みたいな彫りの整った顔をしているから、英語にうるさいのかもしれない。


「しょうがないよ。ネイティブの高速の発音聴きとれる子なんて、よほど耳がいい子しかいないんだから」


 小学校の頃から英語の授業はあったけど、みんなやっぱり発音は苦手だった。わたしも今だに、RやVが上手く発音できない。


「発音記号ってわけわからないんだもん」
「簡単じゃねぇか」
「どうやって、唇をぶるって回すの」
「簡単じゃん」
「その簡単、がわからないんだよ」


 わたしは本当に口が不器用だ。蕎麦も啜れないし、口でおならもできないし、典型的なクチャリャー。よく噛んで食べなさい、と言われて育ったから、どうしてもそうなる。


「荒川、ひとりで何しゃべってるんだ」


 先生の声がしんとした教室に響き渡る。みんなが一斉にこっちを見る。
 ばくん、と心臓が胸の真ん中で大きく跳ねた。


「何しゃべってたのか、英語で言ってみろ」
 必死に頭を動かす。

「アイアムスピーキングピークドロファー!」
 咄嗟にそう言うと、クラス中が爆笑に包まれた。
 シンバが笑いをかみ殺している。わたしは顔が耳まで熱くなった。

「花音って天然だったんだねー!」
 里美の元気な声がクラスじゅうに響き渡る。良かった……ほんとに小人かいるって思われなくて、本当に良かった。

「荒川って、真面目だけど冗談も言える子だったんだな。新たな発見だ。ユーアーソーユニーク!」
「スーパー!!」

 クラスじゅうが一斉に笑い声に包まれた。
 爆笑の渦の中で、恥ずかしいけれど、ハートがほんのり、赤くなった。



 さっきからずっとドキドキしている。
 昼休みの教室で、いつもの四人組で喋っていても、心はここにあらずだ。胸ポケットにいるシンバがバレないか、気になってしょうがない。


「紫のリップ欲しいんだよねー」
「スリーコインズで、三百円で買えるよー!」
「あれ、発色悪いじゃん。もっと発色のいいやつが欲しい!」
「紫のリップなんてキモい」


 茉奈の発言に、里美と鈴子がえーっと声を合わせる。


「紫リップ、カッコイイじゃん! 海外のアーティストみたい!」
「あたしも紫リップ、好きー!」
「リップはピンクが一番いいよ。わたし、赤のリップすらつけられないし。花音もそう思うでしょ?」


 茉奈に同意を求められ、色付きのリップクリームしかつけないわたしは慌てて頷く。


「ほらね、花音もそう言ってるじゃん」
「花音はリップ、何色がいちばん好きー?」
「ピンクかな」


 小声でそう言うと、胸ポケットの中のシンバが身じろぎをした。


「ほら、やっぱリップはピンクだよ。夏はオレンジだけど」
「えー! あたし、夏でも真っ赤なリップつけたいー!」


 里美が大声を出して、里美&鈴子VS茉奈のリップは赤かピンクか論争が始まった。この子たちって、なんでこんなに気が合わないのに友だちやってるんだろう……

 そんなことを思いながらぼけっとしていると、シンバが動き出した。え、ちょっと、シンバ、何やってるの?

 すぐわかった。ブラジャーの上からだから最初は気付かなかったけれど、シンバが胸を揉んでいる。この変態小人!! 小さな手でごりごり胸を揉むのに、すごい力だ。初めて男の子に胸を揉まれたドキドキ感で顔が熱くなる。

 シンバの馬鹿! スケベ! 何やってるの!!


「花音の胸、今、動かなかった?」


 鈴子が言う。シンバの動きがびたっと止まる。
 ヤバイ……
 二人同時に、そう思っていたのは間違いない。


「な、何言ってるの。胸が勝手に動くわけないじゃん……」
 慌てて笑いの顔を作りながら喋る。


「でも花音、今日胸ポケ、大きいよねー? なんか入ってるのー?」
「飴入れてきた」
「あ、じゃあそのせいかもしれないねー?」


 ひとつ頂戴、と言われなくて本当に良かった……と胸をなでおろす。
 まったくシンバってば、女の子の胸勝手に揉むなんて! 何考えてるの!!


「それよりさー、みっくんがさー!」
 と、里美が彼氏の話を始める。


「マジ最近、ヤリたがってばっかで、正直ウザいー!」
「高校生の男の子なんてそんなものじゃない? 里美が見る目ないんだよ」
「鈴子の彼氏はいいなー! ヤリたがりじゃないから」
「たっちゃんもヤリたがるよ。だからなるべく、家には呼ばないようにしてる」
「マジかー! そうすればいいのかー! でも、彼氏がいるだけいいよねー!」
「うん、男はいい」
「茉奈と花音はなんで彼氏作らないのー?」


 里美があっけらかんと問いかける。わたしは、ぼうっとしててついしどろもどろになる。


「わたしは……片想いしかしたことないから。小学校も中学校も、気になる男の子をずっと目で追ってるだけ」
「でも、このクラスにタイプの男子とかいるでしょー? 誰―?」
「いや……今は特に、いないか、な」


 運動神経が悪くて外遊びが苦手だから、幼稚園の頃からひとりで教室で本を読んだり、お絵描きしているのが好きだった。人見知りが激しくて、誰かに声をかけられるまでじっと机に座っているタイプで、小学校も中学校も好きな男の子はいたけれど、遠くから見ているだけ。

 わたしは、男子とあけすけな話ができるタイプじゃない。男の子の友だちは、シンバが始めてだ。


「花音、トイレ、行こ」


 茉奈が立ち上がる。里美と鈴子が揃っていってらー! と声をかける。


「あーあ。あたしだって、高校生になったら彼氏作ろうって、中三の春休みぐらいには思ってたのになぁ……」


 ツインテールを鏡の前で手櫛でとかしながら、茉奈が言う。わたしも、手櫛で前髪の乱れを直し、ほんのり発色する色付きのリップクリームを塗る。


「花音、今好きな人っている?」
「特には……いないかな」
「そうだよね。高校生になって彼氏どころか好きな人もいないなんて、全然、普通だよね?」
 念押しするように茉奈が言った。


「恋愛なんて、大人になってからいくらでも出来るじゃん。里美も鈴子もちっとも勉強しないで、彼氏とおしゃれの話ばっか。最初は気が合うと思ってたけど、今はなんか無理」
「うん……」


 か細く答えるわたしの胸ポケットで、シンバがひとつ、ちいさな身じろぎをした。


「あたしマスカラ直してくから、花音は先、教室戻ってて」
「わかった」


 昼休みの蜂の巣を突っついたような大騒ぎの廊下をひとり歩く。遠くで、昼連をしている野球部の校舎の周りを走る掛け声が聞こえる。

 わたしはこういう、自分が嫌いだ。友だちの話に合わせてばっかりで、本音を言えない。自分のこういうところ、本当に何とかしなきゃいけないと思う。


「花音―! おかえりー!」
 教室に戻ると、里美の元気な声に迎えられる。慌てて笑顔を作る。


「今さ、鈴子と二人で、茉奈ってウザいなって話してたんだよねー!」
「え」


 思わず、声が固まった。


「うちらが彼氏いるからって、絶対僻んでるよ! あいつ」
 鈴子も大きな声で言う。心臓がひやりと縮んだ。


「だいたい、茉奈ってダサいんだよねー! 何よ、高校生になってもあのツインテール! 背が低いからロリキャラ狙ってるんだろうけど、胸が断崖絶壁だから、まるで小学生みたいー!」
「わかるわー! 彼氏作る以前に、あのダサいメイクなんとかした方がいいよね」
「花音もそう思うでしょー?」


 薔薇の棘みたいな言葉みたいに、黙って首を縦に振った。
 バスに揺られて帰ってきて、家までの道をのんびりと歩く。秋の初めの夕暮れ時は、西の山がオレンジに染まり始めて、とっても綺麗だった。ところどころ、もう紅葉しているところもあるのか、茶色っぽかったり赤になったりしているところがある。


「学校、どうだった?」


 胸ポケットに入れているシンバに話しかける。シンバはポケットから器用に出てきて、ちょこんと肩に乗る。


「うん、面白かった。なんでもかんでもでっかくて、授業も聴いてて面白かった。数学はちんぷんかんぷんだったけど」
「わたしも数学、苦手。計算は速いけど、グラフや図形が出てくると頭が混乱しちゃうタイプ」
「俺も。男だけど女性脳なのかな、俺」
「シンバは力持ちで運動神経がいいから、男の子だよ」


 シンバが黙り込む。少しひんやりした風が膝上十センチのスカートを揺らす。


「授業は面白かったけど、友だちといる時の花音は、ダサかったな」
「なんで?」
「だって、友だちの機嫌窺ってばっかりで、全然自分の気持ち言えてねぇじゃん。そういうの、すんげぇダサい」


 ぐさりとくる言葉なのに、シンバが言うと素直に受け入れられる。だって、本当にその通りだから。


「俺と話す時はいつでもものをズバズバ言うのに、なんで友だちの前だとあんなんなんだよ。本音を言えない友だちなんて、本当の友だちじゃなくね?」
「……シンバは、友だちいたことあるの?」
「小人の友だちは、いねぇな。山狩りしてても、今は滅多に、他の小人に出会うことはねぇから」
「友だちがいないシンバに、友だちのことはわからないよ」


 シンバがしばし黙り込む。遠くの空を飛行機が一台、横切っていく。


「たしかに俺は、小人の友だちなんてまだ出来たことねぇょ」
 シンバの声が、ちょっと鋭くなった。


「でも俺は、もし友だちが出来たら、なんでも言い合える関係になりたい。花音みたいに相手の機嫌窺ってばっかの友だちなんて、嫌だ。本当の友だちになりたい」
「……男の子は、そうかもね。でも女子グループって、難しいから」
「女子も男子もねぇだろ」


 シンバが冷たく言って、ふうとため息を吐く。


「花音はほんと、いい子過ぎるんだよ。優し過ぎて、いつも人の顔色窺い過ぎ。人に気を遣い過ぎ。なんで家族の前ではあんなにいい子なのに、友だちの前だとああなっちゃうんだよ。お前はあいつらといて本当に楽しいのかよ」


 そこまで言われると、言葉が出てこない。
 シンバはわたしの抱えているもやもやの正体を、見事当ててしまった。


「ま、花音の問題だから、花音がなんとかするしかねぇけどな」


 そう言って、シンバは遠くから犬の散歩をしているおじいちゃんを見つけた途端、胸ポケットに戻って行った。
 シンバのいる左胸がじくじく、痛かった。

 

  第五章

 シンバはあの日から、学校に行きたいとは言わなくなった。
 ダサいわたしの姿を、これ以上見たくなかったんだと思う。
 それでもわたしは毎朝、制服を着てカラコンをつけて髪の毛をブローして薄くメイクして学校に行く。


「たっちゃんが、最近ラインの返事遅いんだよね。これって倦怠期ってやつなのかなぁ」


 鈴子が神妙な顔で言う。里美がいつものようにテンション高めに答える。


「そういう時は、今何してるー? とか、入れればいいんだよー!」
「えー、でもこの前ポップティーンの特集に、今何してるー? とかのラインはNGって書いてあった」
「雑誌なんて本当のこと書かないってー! たっちゃんが好きなら、たっちゃんを信じなよー!」
「倦怠期じゃなくって、それって別の危機なんじゃない?」


 茉奈が冷静な声で言って、二人がしんと固まる。


「他に好きな女でもできたかもね」
「ちょっと、やめてよ茉奈! それをいちばん心配してるのに!」
「そうだよ茉奈―! 鈴子の気持ち、ちゃんと考えてあげてー!」
「……ごめん」


 茉奈が掠れた声で言った。張りつめたムードに、わたしはどうしていいのかわからない。
「トイレ行きたくなってきた」


 茉奈がツインテールを揺らし、逃げるようにして教室を出て行く。途端に里美がまくしたてる。


「茉奈ってさ、うちらのこと僻み過ぎだよねー?」
「ね。彼氏いないからって、あんな冷たいこと言うことないじゃん」
「茉奈ってブスだよね。横顔真っ平で、唇がやたら分厚いしー!」
「スケベ顔。ああいう女が、意外と男にだらしないんだよ。大人になったら誰とでも寝てそう」
「わかるー!」


 茉奈の悪口を言う里美と鈴子に対して、どんな反応をしていいのかわからない。そんなことないよ、茉奈はいい子だよ、なんてわたしの口から言えない。
 なんでわたしは、こんな時に茉奈を庇えないんだろう。
 シンバのように、ストレートに本音を言えないんだろう。


「ねぇこれから、グループラインから茉奈のこと外しちゃわない?」
 鈴子がにやりと笑う。その悪魔の笑みに心臓が凍り付く。


「いいねー! 外そ! 外そ! もう、茉奈としゃべりたくないもんー!」
「花音もいいでしょ?」
 鈴子に言われ、一瞬固まる。数秒の沈黙の後、首を縦に振る。


「うん……」
「よかったー! 花音が味方してくくれて! てっきり、花音は茉奈の味方すると思ってたよー! 花音、やたらと茉奈と仲良いからさー!」
「じゃ、決まり。これで茉奈はハブ」
「いつやるー?」
「今夜!」


 盛り上がる二人の前で、「こんなことしちゃ駄目だよ」のひと言が言えない自分を恥じていた。


 小学校の時も中学校の時も、仲良しグループでこんなことはいくらでもあった。でもわたしは友だちが間違ったことをしていても、それは駄目だよ、なんて言えない。