二限目あとの休み時間になって、僕は、誰にも気づかれないように屋上の階段へと向かった。
すると、すでに三日月さんは階段に座って待っていた。
僕に気づくと、スマホに落としていた視線を向けて、
「ちゃんと来てくれてありがとう!」
まるで、こうなることを予測していたかのように笑った。
けれど、僕からすれば、
「……そりゃあ、あれだけ脅迫されたら誰だって来るでしょ」
「脅迫? なんとことー」
髪の毛を指に絡めてクルクルと遊びながら、それより、と言って立ち上がった。
「見つからないうちに早く行こう!」
こんな場所に呼び出されて行く場所なんて、一つしか検討がつかないけれど、
「……どこに?」
「屋上!」
案の定、分厚い扉を指さした。
「いや、なに言って…」
「なにって屋上に行くんだよ?」
まるで、僕がおかしいのかと言いたげな表情で、キョトンとしたから、
「じゃなくて、もうすぐ授業始まるじゃん! なのに、なんで…」
「だから」僕の言葉に被せたあと、分厚い扉のドアノブへと手をかけて、
「授業サボって、屋上で青春してみたいから」
そう言って、ニコリと笑うと、ドアノブをひねる。
ガチャっと音を立てて開いた扉の向こうから、まばゆい光が差し込んで、僕は思わず、目を細めた。
三日月さんは、扉を跨いで屋上へと踏み込んだ。
「ちょ、…本気なの?」
けれど、僕は、まだそこを跨ぐことができなくて、僕と三日月さんの間にある扉が大きな境界線に見える。
そんな僕を見つめて、本気だよ、と声を落としたあと、
「向葵くんもそんなところに立ち止まってないで早く来たら?」
「だ、だけど…」
「それに扉開いたままだと、ここに誰かがいるってすぐに気づかれちゃうよ」
判断できない僕に追い討ちをかけるように告げられた言葉に怖気付いて、致し方なく僕も足を踏み入れた。
瞬間、チャイムが鳴って、
「これで授業サボった共犯だね!」
なんて言ってクスッと笑ったあと、
「もし見つかったとしたら一緒に怒られようね」
「……やだよ」
一も二も切り捨てて、突き放す。
授業サボった共犯になんて、されたくない。
第一僕はここに呼び出されただけだ。自分の意思で授業をサボろうと思ったわけじゃない。
それに、三日月さんと僕は違う。
三日月さんは、授業をサボったり屋上に行ったり、そんなの当たり前かもしれないけど、僕は違う。
授業なんて一度もサボったことなければ、学校だって休んだことがない。
だから当然、僕がいなければ先生たちだって怪しむだろう。
「んー、風が気持ちいいねぇ」
そんな僕の心なんて知らずに、大きく両手を広げて、空を見上げる彼女。
「なんか不思議だよね」
「……なにが?」
「授業中なのに向葵くんと一緒にいるって。だってさ、体育以外ではほとんどないでしょ?」
そんな一緒にいてたまるかっ。
それに僕は、今でも先生に見つかるんじゃないかと不安しかない。
最悪、藍原に見つかりでもすれば、僕が文句言われるんだからな。
「……不思議って、自分で呼んでおいてよく言うよ」
ボソッと呟いた小さな声は、彼女には届いていなくて、
「でもさぁ、こういうのなんかいいよね。同じ時間を共有してるっていうのかな。向葵くんもそう思わない?」
「僕はべつに…」
全然、思わない。
むしろ、一方的に連れて来られたというか、脅迫まがいなメッセージもらったら誰だって嫌でも来るだろ。
「なんだ。てっきり同じ気持ちでいてもらえてると思ったのにー」
唇を尖らせて拗ねる彼女は、世界は自分中心に回っているのかとさえ思ってしまう。
閉めた扉の前に背を預けた僕は、
「…それで、授業中にここに呼んだのって何か理由があるんでしょ」
尋ねると、ああうん、と頷いて、くるりと僕の方へ振り向いた。
「私ね、一度屋上で大の字で寝転がってみたいと思ってたの。何も考えずに、ぼーっと空を見上げて過ごしてみたいんだ」
屋上は風が強くて、彼女の髪の毛を攫う。心地良さそうにユラユラと揺れる。
「一度くらいしたことあるんじゃないの?」
だって、彼女は目立つグループに所属しているはずで。
だったら、そんなの当たり前に経験しているはずなのに。
「ないよ、一度も」
と、わずかに声色が落ちた、気がした。
「だから、屋上が開いてるの知って、どうしてもしてみたくなったの!」
けれど、すぐに明るくなった彼女の顔を見て、今のは気のせいだったのかもと思った。
「開いてるって確認しに来たわけ?」
「え? うん、この前一度ね」
確認までしてるってもはや確信犯だな。
ていうか、べつに、
「授業中じゃなくてもよかったんじゃないの。休み時間とか昼休みとかさ」
「それじゃあ意味ないの!」
矢継ぎ早に言い返したあと、
「授業中に屋上で大の字で寝転ぶことに意味があるんだからね!」
「……サボって何の意味があるんだよ」
思わず呟くと、
「なんか青春って感じするでしょ!」
そう告げたあと、うーん、と背伸びをして気持ちよさそうに顔を緩ませる。
何が青春だよ。何が意味があるだよ。
どうせ、見つかったら怒られるのに。
僕には三日月さんの気持ちが全然理解できそうにない。
「それより向葵くんも寝転んでみたら?」
告げられて、視線を向ければ屋上の真ん中でほんとに大の字になって寝転んでる三日月さんが視界に入る。
その姿を見て、ドアに背もたれたまま立ち尽くす自分がバカらしく思えて、彼女のそばへと近づいた。
少し距離を空けてそこに寝転ぶと、視界いっぱいに広がる淡いスカイブルー。
柔らかそうな白い雲が、ゆっくりとゆっくりと動いているように見える。
僕は、こんなふうに空を見上げることがなかった。
「なんか、不思議な気分」
思わず口からもれた声に、え、と困惑した声をもらしながら顔だけを僕の方へ向けた彼女。
「授業中なのに僕たちだけがこんなことしてるじゃん。本来ならいけないことなのに……」
その先の言葉を言ってしまうと、今までの真面目な僕じゃなくなってしまうんじゃないかと口ごもっていると、
「すごく気持ちが清々しい?」
僕の心を一発で当てた彼女の声に、どきっとしながらも、「…うん」と頷いた僕。
さっきまであまり乗り気ではなかったし、授業をサボることが僕の中では許されるべきじゃないものだと思っていたから。
それなのに、
「こうやって空を見上げてるからじゃない?」
僕の顔を見てクスッと笑ったあと、だってさ、と続けると、
「人ってどこかに寝転んで空を見上げることなんか普段は滅多にないでしょ。いつも何かと向き合って、それが自分のストレスにもなってるわけだし」
確かに普段の生活でストレスを感じることばかりな気がして、あー、と納得していると。
「でもね、空を見上げることによってそれが全部なくなるの。嫌なこと全部、忘れさせてくれると思うの」
短く言葉を切ったあと、その瞬間だけでも、と彼女が告げた。
その言葉は僕の心の真ん中に落ちて、しっくりと収まった。
「だからね、私、今すっごーく今、気分がいいんだ!」
空に向かって真っ直ぐ手を伸ばす彼女。
それにつられて僕も手を伸ばした。
もうすぐ真っ白な雲に、手が届きそう。
……なんて、そんなことないのに錯覚してしまう。
「あともう少しで手が届きそうだな〜」
突然、そんなことを言った彼女の言葉に反応して思わず起き上がる。
「えっ? ど、どうしたの?」
「あー…いや僕も……」
今同じことを考えた、なんて口からもれそうになったけれど、
「いや、なんでもない…」
咄嗟に言葉を飲み込んだ。
だって、さっき三日月さんが言った『同じ時間を共有してる』その言葉が、頭に浮かんで、なんだか照れくさくなったから。
「そ、それより、写真は?」
これ以上聞かれたくなかったから、僕は、話を逸らす。
「あ、ほんとだ。また忘れちゃってた」
そう言って、起き上がるとスカートのポケットからスマホを取り出した。
「今日はどうやって撮ろうかな。向葵くんは、何かいい案ある?」
「……被写体はなしだから」
「え、またそれ? せっかく屋上に大の字で寝転がってるのに被写体なかったら何も意味なくない?」
「じゃあ自分だけ撮ればいいじゃん」
何も、僕を撮らなくても。
それに、
「制服写ってたら学校名バレるだろ」
「大丈夫。それは、ちゃーんと加工するから問題ないよ」
と、言って親指を立ててウインクするけれど、
「僕が問題あるんだって」
「そこをなんとか!」
お願い、と頭を下げる三日月さん。
「いや、無理だって」
「ほんの少しでいいの! 腕でも袖でも髪の毛でもちょびっとだけで!」
どこまでも食い下がる三日月さんの顔を見て、ここから逃げるのは無理だと観念した僕は、はあ、と盛大にため息をついて、
「……分かった」
渋々、それを承諾する。
「ほんと! いいの?!」
「でも、ちゃんと学校がバレないように加工してよね」
「うん、もちろん! 約束する!」
どうしても彼女には言葉で敵わないらしい。
それからそのあと撮った写真は、大の字で寝転ぶ僕と三日月さんがお互い見切れた状態で。
べつにわざわざ僕まで映さなくてもよかったんじゃないかと、そう思った。
「……またSNSにアップするつもり?」
「そうだよ!」
鼻歌混じりに撮った写真を加工したあと、ほら、と言ってズイッと僕にスマホを見せる。
「これが私のSNSなんだ〜」
僕にそれを見せられてもやったことがない僕からすれば未知の世界で、それを評価できるほど詳しいわけじゃない。
だから、へえ、と適当に相槌を打ったあと、
「そもそも何でSNSなんかするの?」
そう尋ねると、え、と一瞬固まった三日月さん。けれど、そのあとは何事もなかったかのように、んーとね、と顎に指を当てながら。
「SNSにアップしておくと、日付も表示されるし文章だって打てるから、いつ何があって、こういう思いをしたって“青春”を追いかけることができるでしょ?」
「……そういうものなの?」
「そうだよ! だからまあ、日記みたいに日々の日常をアップしてる人もいるんだよ」
SNSを日記代わりに……?
それなら普通に日記をつけた方が楽な気もするけれど。
アナログな僕は、ネット社会にはどうやらついてはいけなさそうで。
けれど、三日月さんが言う“青春”を僕は、ほんの少しだけ分かったような気がしたんだ──。
*
今日は朝から、土砂降りの雨。
そのせいで普段から憂鬱な気持ちが、さらに跳ね上がる。
空の色は、どんよりとした灰色で、とめどない雨粒が空から降り注ぐ。
そのせいで外に出られない人たちも、教室に居ざるを得なくて。
そんな人たちの中、僕はいつも教室の隅で本を読んでいる。
だから、昔から雨は嫌いだ。
僕が、ひとりぼっちだということをみんなに主張しているみたいな気持ちになるから。
新しく図書館で借りた本を片手に、廊下の窓から外を見て、そんな嫌な気持ちに浸っていた。
「マジでー?」
突然、聞き覚えのある声がして、おもむろに視線を向ければ、教室の入り口の前で、三日月さんに話しかけていた藍原がいた。
うーわ、懲りないやつだなぁ。
ていうか、よっぽど三日月さんのこと好きなんだ……。
でも、なにも教室の前で話さなくてもいいじゃん。
そこ、通り抜けないと隣の僕のクラスに行けないんだけど。
……あーあ。ほんと、タイミング悪い。
きっと、藍原と僕は相性が悪いんだ。こうなる運命なんだよ。
もう、気にせず廊下の端っこ歩こう。
重たいため息一つついて、本を片手に歩き出す。まだ僕のことに気づいている様子はない。
このまま教室まで無事にたどりついてくれ。