しぃちゃんが図書室に誘ってくれたのは朝のできごとが原因では――?

そう気付いたのは夜になってからだった。

午後はずっと、一緒に過ごした時間を何度も頭の中で再生して幸せな気分に浸っていた。けれど、ふと我に返った。彼女はほんとうに俺が必要だったのだろうか、と。

考えれば考えるほど、しぃちゃんならひとりでも十分にやれたのではないかと思えてくる。だって、締め切りはまだ先だし、彼女はテーマで本を探すことが好きだと言っていたのだから。

もちろん、俺がまったく役に立たなかったわけではない。ちゃんと感謝してくれたし、「自分と違う連想が出てくるって面白い」と言ってくれたのは本心だと思う。だとしても、俺が必要だったかと問えば――それほどではなかったのではないだろうか。

だったら、なぜ彼女は俺に声をかけたのか。思い当たるのは朝のことだ。

宗一郎といちごに、俺の存在感が薄いことを、まるで俺がずるをしているみたいに言われたこと。ほんの二言三言だったけれど、胸に刺さって後を引いた。存在感が薄いことは俺のコンプレックスの一つだから。

あのとき、いちごと一緒に離れて行くしぃちゃんが振り返ったのを覚えている。そこに浮かんだ表情も思い出せる。気遣わしげな表情は同情か憐みか……。

――慰めようと思ってくれたんだろうな……。

隠したつもりだったけれど、顔に出ていたのかも知れない。でなければ、雰囲気で察したのか。どちらにしても、心配してくれたのだろうし、彼女の目論見は成功した。なにしろ昼休みの約束をした時点から、宗一郎たちに言われたことなど忘れてしまっていたのだから。

――なんだかなあ……。

自分の単純さが笑える。まるでしぃちゃんの手の上で自在に転がされているみたいだ。彼女は俺の性格なんかお見通しで、いい気分にさせるのも落ち込ませるのもちょちょいのちょい……なんて。

「ふ」

やっぱりしぃちゃんは俺にとっては魔法使いだ。でも、俺を幸せな気分にさせる仕事なんて、簡単すぎるかな?

――あれ?

電話の着信音。画面には――礼央だ。

「よう、礼央――」
『くぅちゃんと会う約束した! 景のおかげだよ! ありがとう』

俺の声に被さって興奮気味の喜びの声が聞こえてきた。

「そうか。よかったなあ。おめでとう」

朝のアドバイスが役に立ったらしい。女子に慣れているはずの礼央が俺なんかのアドバイスにしたがうというのも変な気がするけれど。

『昼休みに景としぃちゃんを見てて、やっぱり会って話すっていいなあって思って。スマホ越しじゃ、いろいろ足りないよね』
「ん?」

俺のアドバイスにしたがったわけじゃない? 昼休みの俺としぃちゃんを見てて……って。

「なんだよそれ。なんか恥ずかしいよ」

照れてしまう。だって、それはつまり俺たちが……何というか、いい感じに見えたということだ。照れくさいけれど、胸の底から笑いがこみ上げてくる。

『恥ずかしい? あはは、でも楽しそうだったよ、すごく』

まあ、たしかにすごく楽しかった。他人に見られていることを忘れるくらい。いや、恥ずかしいけど。

『景たちってなんて言うか、自然なんだよね。一緒にいることが特別に見えない――って言ったらがっかりする?』
「全然」

それって、俺たちがお似合いだって言われているようなものじゃないか。しかも、バランスが取れているということなら、俺だけじゃなく、しぃちゃんも同じくらい俺のことを……なんて?

「ん、あ、それで、いつ会うんだ?」
『ああ、それなんだけど……』

ここまでの良い調子が少し鈍った。

『景も一緒にどう?』
「え? 俺?」
『うん』
「なんで……?」

ふたりで会うんじゃないのか?

「俺、邪魔じゃね?」

学校で俺としぃちゃんと一緒に礼央がいても楽しいのは、しぃちゃんが俺の気持ちを知らないからだ。要するに、友だち付き合いという前提だってこと。でも、くぅちゃんと礼央は――。

『邪魔じゃないよ。邪魔どころか、くぅちゃんもお願いしたいって』
「ああ、もしかしてスキャンダル回避とか? くぅちゃん、恋愛禁止だったり?」
『それはくぅちゃんはそんなに心配してなかった。それよりも……俺たちまだ不安なんだよね』
「不安?」
『ふたりだけっていうのが』

礼央でも……?

「礼央って……今まで彼女って……?」
『うーん、中学のときにそれらしい相手はいたけど……、一緒に帰ったり、バレンタインにチョコもらったり。でも、今思うと、なんだか学校生活の一部みたいな感じだったなあ。高校が別になってそれっきり』
「ふうん……」

俺はもちろん経験はないけれど、しぃちゃんに対して慎重になっているのは、終わってしまったあとの気まずさを想像してしまうからだ。その場で断られるにしても、一旦付き合ってから別れるにしても――って、ダメなことが前提って、俺らしいよな。

『くぅちゃんとはまだ一度しか会ってないから、お互いに相手の性格を勘違いしてるかも、なんて考えちゃうんだよね。会わないあいだに想像で理想のタイプに仕上げちゃってるとかさ。それに気付いたときに気まずくならないように、景たちにも一緒にいてもらいたいんだけど』
「え? 俺だけじゃないのか?」

今、「景たち」って聞こえた。

『あれ? そうだよ。くぅちゃんがしぃちゃんに頼んでる。四人で行く計画』
「!」

そりゃそうだ! くぅちゃんだって俺には礼央以上に気を使うだろうから。

でも、ということは、礼央とくぅちゃんが上手くいけば、しぃちゃんと俺ももっと仲良くなれるチャンス……?

「ああ……、そうなんだ?」

ガツガツしちゃダメだ。落ち着いて。でもにやにやしてしまう!

「しぃちゃん、OKするかなあ?」

声が微かに震えた。弱気になってると思われてしまうかな。もっと喜びを出しちゃってもいいだろうか? 相手は礼央なんだし。

『え? 俺、まったく疑ってなかったけど』
「あ、そう? そうか。へえー」

疑ってなかったのか。つまり、しぃちゃんは俺と一緒に出かけること――ふたりで、ではないが――を了承すると、礼央は信じている。これはやっぱり――。

『んー、景、気が進まない?』
「あ?」
『景は人見知り激しいもんね。よく知らないひとと出かけるのはハードル高いよね』
「いっ、いや、そんなことない。くぅちゃんは大丈夫。大丈夫だよ。この前、電話でしゃべったし。知らないひとじゃないから。それに礼央は――」
『やーい、引っかかったー♪ そんなに慌てなくても分かってるよ』

礼央が笑ってる。

『ちょっとからかっただけ。景が感情を出さないこと分かってる。ほんとうは喜んでるってことも知ってるよ』
「なんだよ、それ?」

「喜んでる」なんて明言されたら恥ずかしいじゃないか。誰も聞いていなくても。

『ねぇ、行くよね、景? もちろん、しぃちゃんも行くことが前提だけど』
「うん、いいよ。行き先は?」
『くぅちゃんがしぃちゃんと相談するって』
「そうか」

つまり、くぅちゃんも、しぃちゃんは断らないと思っているということだ。

「じゃあ、予定が決まったら教えて」
『うん。ありがとう、景。また明日』
「うん、明日な。おやすみ」

スマホを置いたら、妙に心が静かになった。さっきはドキドキしていたのに。

――礼央とくぅちゃんか……。

上手くいってほしい。純粋に礼央のために。

そして、できれば俺も――あれ?

スマホにメッセージが。しぃちゃんからだ!

くぅちゃんと話したのだろうか。画面に触れる指が滑って、自分の焦り具合に苦笑する。

『景ちゃん、『星の王子さま』大正解! 読んでよかったよ。』

――ん?

出かける話じゃない……?

『まだ途中だけど、全部の言葉がまるで贈り物みたいなの! テーマにもぴったりで。景ちゃんのおかげだよ。どうもありがとう!』

昼休みのお礼だ。すごく喜んでる。それは間違いない。けど……、俺はどう返すべき?

――本のことだけ、だよな。

この様子だと、出かける話はまだ知らないみたいだ。一緒に住んでいるからといって、すぐに話せるとは限らないもんな。返信は本のことだけで。

『よかった。『言葉が贈り物』ってきれいな言葉だね。紹介文に使えそう。さすが!』
『ほんとう? 褒められたら、なんだか自分に文才があるような気がしてきた。どうもありがとう! 夜にごめんね。また明日。おやすみなさい』

すぐに返ってきてちょっとびっくり。でも、「おやすみなさい」だ。これでお終いってこと。

『うん、また明日。おやすみ』

最後の「おやすみ」は入れるかどうか迷った末に入れた。でも、入力した文字にはためらいは表れない。文字の上では俺は決断力のあるしっかり者かも。

――今日はふたりから感謝されちゃったなあ……。

礼央もしぃちゃんも“俺のおかげ”だと言ってくれた。

大切に思う相手の役に立てたことが純粋に嬉しい。俺がふたりからいろいろなことを学んだりもらったりしているように、俺からもふたりに何かを提供できているということが、少しずつ心の中に積み重なって俺という存在を確かなものにしてくれる。

――そうだ……。

ずっと、俺は存在感の薄い自分に合わせて、自分が思う自分も削ってきた。それは、他人に忘れられていても傷つかないようにするため。仕方ないよ、とあきらめやすくするため。

けれど、今は違う気がしている。

自分を削ってきたのは、いろいろな良いものを吸収するためだったのかも知れない――と。

礼央やしぃちゃんや、諒からも、いろんな思いや言葉をもらって、自分が編み上げられていくような、そんな気がする。宮本武蔵の本や、嬉しそうに本を紹介してくれる雪見さんからも。

これから俺にどんな出会いがあって、どんな俺が出来上がっていくのか……。

想像するとわくわくする。