連休明けの朝、椿ケ丘の駅で降りると一気に夏が近付いた気がした。九重高校の生徒が夏用の服装に変わり始めたせいだ。
うちの学校は連休明けから夏服もOKとなっている。男子は学ランの着用が不要になり、女子のセーラー服は白地に紺色の襟とスカーフに変わる。パンツとスカートは紺と黒のままだけれど、上半身が白くなっただけで景色が一気に明るくなる。夏服の方が軽くて楽なので、肌寒い日でも冬服には戻らずにセーターやカーディガンを羽織る生徒がほとんどだ。
しぃちゃんも今日は夏服だろうか。
白と紺のセーラー服にはポニーテールが似合いそうだ。いや、下ろした髪がしなやかに風になびくのもいい。俺が「しぃちゃん」と呼ぶと振り返って微笑む。追いついた俺と一緒に歩いて……おいおい。
白昼夢に浸ってる場合じゃない。これが実現するように、しぃちゃんを見逃さないようにしないと。
それにしても、けっこうな日差しだ。去年は日傘をさしている女子がいてびっくりしたっけ……。
「あ、景ちゃん、おはよう」
「お? あ、おはよう」
廊下ですれ違いざまに手を振ってあいさつしてくれたのはしぃちゃん……ではない女子だった。結局、学校までの道でしぃちゃんには会わなかった。
「おはよー」
「あ、うん、おはよう」
「おはよう、景ちゃん」
「う、おはよう」
教室に入っても女子からのあいさつが続く。まるで礼央みたいだ。
こんなに女子から声が掛かると警戒心がむくむくと湧いてくるのが俺の性だ。
女子にいたずらでも仕掛けられているのか? 地味男子に女子みんなであいさつをするとか……? でも、教室を見回してみても、観察されている気配はない。男もいつもどおり、軽い合図を送ってくるだけ。
――でも、変な感じ。
一番後ろの席なのに前の入り口から入るのはクラス替え初日からの癖なのだけど、今朝は後ろから入ればよかったと思ってしまう。
自分の机にバッグを置いてもう一度見回してみる。教室内にはやっぱり変わった様子はない。しぃちゃんの姿がないのはべつに珍しいことではない。もっと仲良くなる努力をしようという意気込みに水をさされた感はあるけれど……。
「あ……、おはよう」
「お、おう。おはよ」
後ろの入り口から入って来た大和若葉。クラスで一番というくらいおとなしい女子だ。今までは目が合っても小さく頭を下げて横をすり抜けていくだけだったのに、今朝は顔を見てあいさつされてしまった。
これは球技大会の成果なのか? いちごが「景ちゃん」を広めたことがこんなことに? 打ち上げの誘いを断っても?
「景! おっはよー!」
「ぐっ、お、礼央、おはよ……」
礼央の剛力ハグにこれほど安心感を覚える日が来るとは思わなかった。滅茶苦茶守られてる感じ。
「礼央、しぃちゃんと話した?」
解放されて最初に訊いてみる。俺もしぃちゃんと話したいけれど、礼央の問題の方が優先だ。
「まだ来てないみたいなんだよね。あ」
しぃちゃんが前方の入り口から入ってきた。
「あれ?」
白いセーラー服は予想していた。姿勢の良い立ち姿も持っているリュックも、そして笑顔もいつものしぃちゃんだ。でも……髪が短い。
この前まで肩から背中へと流れていた髪が、肩の上あたりでばっさりと切られている。
一緒に図書委員の仕事していたときに、あの髪が俺の制服の袖に触れたこともあった。長いポニーテールは本物の馬のしっぽみたいで、俺は気に入っていた。そんな俺の記憶が長い髪と一緒にお払い箱にされたような、微妙な淋しさ。きのうの電話では何も言ってなかったのに。
と、少しばかりショックではあるけれど、くぅちゃんほどのショートではない髪型は、彼女の雰囲気をやわらかく変えた。その新しいしぃちゃんも好ましいことに変わりはない。イメチェンが成功している。
女子に囲まれたしぃちゃんが、足を止めて笑顔で髪に触っている。髪を切ったことを話しているのだろう。
いつの間にか礼央がほかの女子に混じってそこにいた。礼央にとっては性別の違いは何の障害にもならないのだ。でも俺は……あそこに加わるよりも、彼女が自分の席に来たときに話しかけることにしよう。出遅れるけれど、その方が落ち着いて話せる。
彼女が自分の席に向かって歩き出した。礼央に笑顔で声をかけ、礼央の「ありがとう」という言葉が聞こえた。
礼央の用事が終わるまで待った方がいいだろう。俺が行ったらふたりとも気を使うだろうし……なんて思って見ているあいだにも、ふたりはスマホを取り出した。
「あれ? 礼央と話してるの、大鷹?」
後ろからの声の主は相模宗一郎だった。
「うん、そう」
「髪、切ったんだな」
その口調の何かが引っかかって、思わず宗一郎の表情を探ってしまう。しぃちゃんを見つめる表情が俺の胸を波立たせる。
メガネをかけて、落ち着いた秀才風な顔立ちの宗一郎。見た目の期待を裏切らず、勉強がよくできるし、生徒会の役員でもある。スポーツもそれなりにできて付き合い上手でもあるから、誰とでも気軽に話せる関係を築いている。と言っても、それは男子中心であったのだけど……。
俺もしぃちゃんに視線を移す。ちょうど礼央の用が終わったところで、微笑みを浮かべたしぃちゃんがスマホをポケットに戻した。
――今かな? でも宗一郎がいるし……。
ためらったその瞬間。
「いいね。俺、すげぇタイプ」
「え?」
ぎょっとして振り向いたときには宗一郎は歩き出していた。
「大鷹、髪切ったんだね」
驚いている俺の耳に宗一郎の声がはっきりと聞こえた。しぃちゃんがあいさつした声は聞こえたけれど、その後に続いた言葉は分からなかった。
――え? え? どうしよ? 俺も行った方が?
彼女の席まではほんの数歩。礼央もまだしぃちゃんのところにいる。今ならまだ大丈夫だ。迷ってる場合じゃない。行かなくちゃ!
「しぃちゃん、おはよう」
「おはよう」
笑顔をちゃんと向けてくれた。でも、彼女の新しい髪型のせいでなんとなく照れくさくて、目が合う寸前で礼央に視線を移してしまった。
「大鷹、しぃちゃんって呼ばれてるの?」
宗一郎の声にはっとした。
「俺も呼んでいい?」
「あ、うん、もちろん」
「ありがとう。今の髪型と似合ってるよ、『しぃちゃん』って」
「え、そう?」
「うん。親しみやすい雰囲気……かな」
――やられた……。
宗一郎がこんなに積極的だとは思わなかった。普段は女子と絡まないから俺と同じように苦手意識があるのかと思っていたけれど、単に興味がないだけだったに違いない。目的があればこんなにしゃべるのだ!
それが分かっていれば「しぃちゃん」とは呼ばなかったのに。俺の方が親しいことを示そうとして使ったばっかりに……。
「しぃちゃんさあ、電車でよく本読んでるよね? どんな本が好きなの?」
――!!
ということは、よく同じ電車に乗っているということだ。
これはヤバい。
迷わず口にした「しぃちゃん」も、彼女が本好きだという情報を把握していることも、俺が途中から入ってもすぐに話を取り返したところも。宗一郎がライバルになると非常に手強いのは間違いない。
「外国の冒険ものとかファンタジーが多いけど、SFも読むし、ミステリーも読むし、日本の文豪もそれなりに読むよ」
しぃちゃんが答えている。読書は学校の課題しかやってこなかった俺には日本の文豪以外は作者名も作品も思い浮かばない。
「おお! 俺もSFとミステリー好きだよ。最近読んだ中ではアシモフの『われはロボット』がよかったな。少し古いかも知れないけど」
あしもふだって? 人の名前か? あし、もふ?
「それ、あたしも読んだことあるよ。ユーモアがあるお話とロボットの純粋さが悲しくなるようなお話があって……あたしもああいうの好きだな」
「俺はロボット心理学っていう切り口が面白いと思ったな。今は何を読んでる?」
「『ケルトの白馬』っていう本。イギリスの古代を舞台にした物語なの。ここに出てくる白馬の地上絵って、ほんとうにあるらしいんだよね」
「へえ。本に出てくる場所を実際に見てみたいよね。たとえば――」
ふと気付くと、礼央が袖を引っ張っている。退散しようということらしい。たしかに、しぃちゃんと宗一郎の話を阿呆面をさらして見ていても仕方がない。でも。
礼央にもう一度引っ張られ、しぶしぶその場を後にする。
「大丈夫。景の方が何歩も先行してるから」
俺の肩を軽くたたいて、礼央が慰めてくれる。
「うん……」
そうだ。俺には4月からの積み重ねがある。図書委員という接点もある。だけど、その程度のリードでは宗一郎のあの勢いですぐに追いつかれそうだ。
「礼央。俺も本を読むことにする」
「お。前向きな発言」
感心したふりで俺をからかう礼央。でも、俺は本気だ。
「俺の趣味は読書にする」
「いいねぇ、そういう宣言。覚悟を感じるよ」
うちの学校の図書館にはたくさんの本があった。あれだけあれば、俺が好きな本だってきっとあるはずだ。そして、しぃちゃんと本の話をするのだ!
決意を固めて昼休みに図書館に来たけれど。
「うーん……」
途方に暮れている。
ここにいる誰もが自分の目的を承知して動いているように見える。一緒に来た礼央だって、さっさと雑誌コーナーに行ってしまった。途方に暮れているのは俺だけだ。自分が場違いな場所にいるように感じて、ますます気後れしてしまう。
読書を趣味にしようと決めたのは、宗一郎に対抗することだけが理由ではない。読書ならすぐに始められることと、図書委員という“理由”がつけられるから。しぃちゃんに不思議がられてもちゃんと言い訳ができる。けれど……。
読みが甘かった!
“すぐに”始めるなんて無理だ。始める前に躓いている。このものすごい数の本の中から一冊を選び出すなんて!
朝、考えたように、俺が気に入る本はきっとあるだろう。でも、どうやったら見付けられる?
並んだ書架には分類を示す表示があることは教わった。情報、哲学、心理学、歴史、地理、政治、科学――まだまだある。俺はどの棚に行けばいい? 俺は何が読みたいんだ? 何なら読めるんだ? 考えただけでくらくらしてきた。
とりあえず端から回るべき? たぶん、しぃちゃんは小説を読んでいるのだろうから、そこだろうか。でも、それだけでも相当な量だ。
「あれ? 景先輩だ」
「わあ、景先輩、こんにちはー」
誰だ? 俺を「景先輩」なんて呼ぶのは……って、この子たちか。図書委員の絵島、見浦コンビ。
そう言えば、きのうの帰りに礼央が会ったって言ってたっけ。それにしても「景先輩」なんて、そんなに仲良くなったつもりはないのに……。
「先輩、今日は本を借りに来たんですか?」
「どんな本が好きなんですか?」
「いつも何を読んでるんですか?」
「いや、まあ、これから選ぼうと……」
やっぱりこの押しの強い感じが苦手だ。どうにか言い訳して離れたいけれど……。
「あ、じゃあ、先輩、ミステリーは好きですか? お薦めがあるんですよ! 学校で起こる事件を天才高校生が解決するシリーズなんですけど」
「うん、あれいいよねー! あ、でも、もしかしたら先輩には感動する本がいいかも。スガマサヒトって知ってます? まだ大学生の作家なんですけど、メチャメチャ泣けるんです!」
「ああ、そうそう!」
いいかも知れないけれど、きみたちと一緒に選ぶのは遠慮したい。どうにかして――あ、雪見さんだ! 雪見さんに訊けばいいじゃないか!
「ありがとう。でも、ちょっと雪見さんと話してみるよ。じゃあ、また」
ついて来られる前に逃げよう! そして雪見さんなら――。
「こんにちは」
近付く俺に気付いて先に声をかけてくれた雪見さん。穏やかな笑顔にほっとする。薄いブルーのボタンダウンシャツにいつもの黒いエプロン。薬指にはめた飾りけのない指輪が幸せな家庭を連想させる。
「雪見さん。面白い本、ありますか?」
俺の質問を聞いた雪見さんは軽く眉を上げると、にこっと笑った。
「一番難しい質問をしてきたね」
「え? 難しいんですか?」
司書の雪見さんならお茶の子さいさいだと思ったのに。
「そう。一番難しい、でも、一番楽しくて嬉しい質問だな」
楽しくて嬉しい……。
たしかに雪見さんは嬉しそうだ。面白い本を尋ねただけで喜んでくれるなんて、ちょっとびっくりだ。
「何か希望はある?」
「え、希望……」
まさか質問が返ってくるとは思わなかった! しぃちゃんと宗一郎の会話に出てきた言葉は覚えているけれど、それを口に出すのはためらってしまう。
「じゃあ、今まで読んだ中で好きだな、と思ったものは何かある?」
答えられない俺の心中を察して質問を変えてくれた。それなら答えられる。っていうか、たいして読んでないのがバレてしまうな。
「この前の『五輪書』」
「ああ、あれね。そうか」
うなずいて、雪見さんが歩き出す。どうやら心当たりがあるらしい。
「面白い本はたくさんあるんだけど」
歩きながら雪見さんが言った。
「紹介した一冊で僕と読書の評価が決まると思うと、いつもチャレンジの気分だよ。よく借りる子は好きそうな本が分かるから、それを薦めればいいんだけど」
そうか! 雪見さんは面白い本をたくさん知りすぎていて、一冊に絞るのが難しいんだ。そのたくさんの中から俺が気に入りそうな本を選んでくれるって考えると、ずいぶん贅沢な話だ。
「鵜之崎くん、動物は好きかな?」
雪見さんが立ち止まったのは今月の特集「文系も理系も楽しめる! 読む理科本」コーナーの前。俺に向けて手にしているのは黄色っぽい表紙の本だ。『ソロモンの指環』と書いてある。
「これはね、動物行動学っていう分野を最初に研究したドイツの博士が書いた本なんだ。学術書っていうよりも、実際の研究の思い出話って感じかな。研究の経過とか面白かったこと、それから苦労話なんかがつづってあってね、少しのんきな性格だったみたいで、思わず笑っちゃう話もいろいろあるんだ」
「動物行動学……」
初めて聞く言葉だ。でも、どんな学問かはイメージできる。
「タイトルの『ソロモンの指環』っていうのは大昔のソロモン王が持っていた、はめると動物とも話ができたっていう伝説の指環だよ。この博士は研究の結果、鳥の鳴き声の意味が分かるようになって、いくつかは自分の命令を伝えられるようにもなったらしいよ」
「へえ」
少し前に、カラスの鳴き声を研究しているひとがテレビで紹介されていた。でも、この博士はずっと前に意思疎通ができるところまでいってたってこと? それはすごいかも。
「この研究はなるべく自然な状態で観察するっていうのが基本でね、そのために博士は人前で恥ずかしい思いをしたりもするわけ。でも、研究をやめないんだよね。それに、研究対象に向ける目がとってもやさしいんだよ。ほんとうに生き物が好きなんだなあって思うんだ」
「ふうん……」
今は雪見さんがこの本をどれほど好きかが伝わってくる気がする……。
「あ、ほら、鳥のヒナの『刷り込み』って聞いたことない?」
「ああ、卵から孵って最初に見た相手を親だと思うって……」
「そうそう。それを発見したのがこの博士なんだよね。そのときのエピソードもすごく面白いよ」
「へえ」
なんだか興味が湧いてきた。受け取って開いてみると、少し字が細かい。もしかしたら内容が難しいのかも……?
「鵜之崎くんなら十分に読めると思うな」
まるで俺の迷いを見透かしたように雪見さんが言った。
「理科系の本では『ロウソクの科学』が有名だけど、僕はこっちの方が好きなんだ。借りる前に少し読んでみるといいかもね。それとも別の本がいいかな? 科学エッセイなんかも面白いけど」
「あ、いや、借ります」
雪見さんが読めると言うなら読めるのだろう。この前の『五輪書』だって最初は戸惑いを感じたけれど、やめずに読んでみたら面白かった。この本も、読んでみないと分からない。
「そう?」
嬉しそうに顔をほころばせながら、それでも雪見さんは「自分に合わないと思ったら、途中で返してくれてもいいからね」と言った。あくまでも読書の主体は俺、ということらしい。それは当たり前のことだけど、雪見さんのような立場のひとはもっと強く薦めてくるものだと思っていたので意外だ。
「あの、せっかくだからもう一冊……」
貸し出しは一人二冊までだ。この際だから、雪見さんに訊いてみよう。
「うん、いいよ」
雪見さんのにこにこ顔を見ていると、何でも話してみようという気持ちになる。
「あの、SFとかファンタジーを読んでみようかと思うんですけど」
好きになれるかどうか分からなくて迷っていたけれど、雪見さんなら上手に選んでくれそうだ。
「なるほど。そうだなあ」
今度向かう先は文庫本の棚らしい。
「鵜之崎くんはファンタジーよりもSFがいいような気がするな。どの辺がいいだろう……?」
「あのう……、あしもふって……?」
「あしもふ? ああ、アシモフね。あるよ。読んでみる?」
あるんだ。しかも、俺のアクセント、少し違ってたのにすぐに分かってくれた。有名な作家なのかも知れない。
「最初だから短編がいいかな。ええと……、有名どころの『われはロボット』。ロボット工学三原則っていうのが前提にあってね――」
「こんにちは」
「それだ!」と思った途端、後ろから声がした。
「あ、しぃちゃん」
肩の後ろににこにこしているしぃちゃん。雪見さんが笑顔で「こんにちは」と返してる。
「あ、その本」
彼女が雪見さんが手にしている本に気付いた。雪見さんが「知ってる?」と表紙を向ける。
「鵜之崎くんにどうかな、と思って」
「わあ。景ちゃん、面白いよ、その本! あたしもお薦め」
ぱっと顔を輝かせて話しかけてくるしぃちゃん。新しい髪型の彼女にまだ慣れなくて、なんだか恥ずかしくなってしまう。彼女と宗一郎の会話に出てきた本だけど、雪見さんが選んでくれた流れになっていて少しほっとする。
「そう……? じゃあ、読んでみる」
しぃちゃんに薦められる前から読むつもりだった……というのは内緒だ。
「面白いね。しぃちゃんと景ちゃんなんだ?」
俺に本を渡しながら雪見さんがにっこりした。
「アルファベットのコンビだね。CとKって」
「ほんとだ」
「コードネームみたいかも」
俺たちも顔を見合わせてニヤリと笑い合った。
雪見さんにお礼を言ってカウンターに向かうと、しぃちゃんが俺の手元を興味津々でのぞきこみながらついてきた。
「ねぇ? もう一冊はなあに?」
「ああ、これも雪見さんに紹介してもらったんだけど、鳥のヒナの『刷り込み』を発見した博士の本なんだって」
「へえ、小説じゃないんだ? 面白かったら読んでみたいから教えてね」
「うん、もちろん」
なんだか一刻も早く読みたくなってきた。さっきの雪見さんの口調から、きっと面白いに違いないという気がする。もうすぐ放課後のカウンター当番があるから、それまでに内容を説明できるようにしておこう。
それにしても、読む前にしぃちゃんとこんなふうに話せてる。読書の効果、すごいや!
借りてきた『ソロモンの指環』を読みながら、本を読むってなんだか不思議な体験だ、と思った。
この本が書かれたのは20世紀で、書いた博士はもう亡くなっている。でも、そのひとが考えたことや感じたことを、この本を読む俺が同じように考えたり感じたりしながら読んでいる。
年齢も、立場も、文化的な背景も違うのに気持ちが分かるということが――考えてみれば当然なのだろうけど――新鮮な発見だった。博士がいろいろなハプニングに見舞われるたびに、一緒に情けなくなったりびっくりしたり慌てたり、自分の心が動くことが楽しい。
もちろん、学問的な面白さもある。
新しいことを知ったときの「そうなんだ?!」という驚き。授業で何かを教わるときとは全然違う。どこかで役に立つとも思えない知識なのに、知ることが純粋に楽しい。
それに、研究者という道の困難さと喜びを垣間見ることもできた。諒が進もうとしている研究の道というのはこういうことなのだとイメージできた。まあ、諒は家に研究対象を持ち込んだりはできないはずだからありがたい。
本を読むのはおもに通学の電車と寝る前。しぃちゃんと話すために始めた読書だけれど、すぐに、電車で本を読むのが当たり前になってしまった。今まで俺は、どれほどもったいない時間を過ごしてきたのだろう! と、後悔するほど面白い。
「しぃちゃんにもお薦めするよ」
放課後の図書館カウンター当番の日、薦める口調につい熱がこもってしまった。と言っても、本の面白さだけが理由というわけではない。
待ちに待った今日の当番。この数日、宗一郎と彼女が話しているのを見かけても我慢して、自分の中に話したいことを蓄えてきたのだ。
「とにかく面白いんだ。生き物の自然な行動を観察する研究だから、いろんな動物を家の中とか周りで放し飼いにしたり、育てたりしてて」
放課後の利用は勉強目的が中心のようで、昼休みよりもずっと静かだ。貸出と返却は最初の十分くらいでひと段落し、今はカウンター内に並んで座っているだけ。話す声が響かないようにトーンを落とすと、しぃちゃんがそっと肩を寄せてきた。予想していなかった彼女の動きに、一瞬、息が止まる。
「奥さんが小さい娘さんをサルのいたずらから守るために、娘さんのための檻をつくったこともあったんだって」
少し早くなった鼓動を隠し、声が届くように俺も体を傾ける。お互いの袖が触れたかすかな感触が鈴の音のように体を駆けぬけた。
「檻? サルじゃなくて子どもの?」
こちらに向けられた大きな瞳。この距離でまっすぐ視線を向けられると……思わず見入ってしまいそう。
「うん。絵があったよ。博士は奥さんの我慢強さとか工夫にすごく感謝してたみたい」
微妙なラインを越えないように、心を強く持って笑顔をつくる。
「育てたヒナと心が通じ合ってほっこりする話もあるんだけどね、カラスの群れに近付くために変装したり、鳥になりきって庭を歩きまわったり、自分でもいろんなことをやってみるんだよね。で、それを近所の人に見られちゃって」
心を強く持とうと思っても、こんな距離で話していると、もっと近づきたくなってしまう。おでこをごっつん、なんてしてみたら? 肩をちょん、と当てるだけなら?
「そうか! 他人に見られちゃうんだ。それは恥ずかしいね」
声をひそめてしぃちゃんが笑う。笑いながら姿勢が戻り、ふたりの距離はただの“カウンター当番”に戻った。残念な一方で、緊張から解放された気分であることも確かだ。
「でも、やっぱりすごい人なんだよね」
この距離で聞こえる小声もちゃんと出せるのだ。
「何年もかけて観察を続けたってこともそうだし、実際に鳴き声で意思の疎通ができたってこともすごいよ。何があってもくじけないでさ。それに文章がいいんだ。気さくで、少しとぼけた感じで面白くて、でも動物に対する愛情が伝わってきて」
「そうなんだ……」
しぃちゃんが微笑んでほうっと息をついた。
「景ちゃん、いい本と出会ったね」
――あ。
そうか。これが本との出会い……いい出会いなんだ。楽しいと思えて、それが嬉しくて、誰かに話したくなるような。
「うん。雪見さんとしぃちゃんのお陰だね」
「え? あたしは何もしてないよ」
「そんなことないよ。しぃちゃんがいなければ、本を読むこと自体を思い付かなかったと思うよ」
しぃちゃんは「そうかなあ?」と首を傾げてから、思い出したようにふっと笑って。
「そんなことないよ。図書委員なんだから!」
「そりゃそうか」
カウンターの中でこっそり一緒に笑うって、なんて楽しいんだろう!
まあ、正確に言えば宗一郎の存在も読書を始めた理由の一つだけれど、ふたりでいるときに宗一郎の名前など出すものか!
放課後の当番は30分程度。その後は雪見さんが一人で対応するそうだ。しぃちゃんとこんなふうに過ごせるなら、もっと当番の回数が多くてもいいと思う。……でも、部活の大会前はちょっと困るかな。
「そうだ」
この数日、言わなきゃと思っていたことを思い出した。
「礼央の頼み、きいてくれてありがとう」
しぃちゃんが不思議そうな表情で見返してくる。「ほら、くぅちゃんのこと」と言うと、彼女は驚いた様子で首を横に振った。
「あたしは伝えただけだよ。いい結果になったのは、礼央くんが自分でくぅちゃんの信用を勝ち取ったからだよ」
「うん。でも、しぃちゃんは礼央の頼みを断ることもできたはずだよ。しぃちゃんも礼央を信じてくれたってことだよね」
「そう言えばそうね……」
彼女は小首を傾げた。それから顔を上げて。
「うん。あたしも礼央くんを信用してる。でもね、それは景ちゃんが礼央くんを信じてるからだと思う」
「俺?」
「うん、そう。景ちゃんと礼央くんが一緒にいるときって、ふたりともすごくリラックスしてる。ありのままっていうか。だから、景ちゃんを信用できるなら礼央くんも大丈夫って」
この笑顔。屈託なく向けてくる視線。彼女は心から言ってくれているのだ。
しぃちゃんは俺を礼央よりも先に信用できると思ってくれたんだ。もしかして、俺、しぃちゃんの中では好感度抜群だったりするのかな? 意外と第一印象から、とか――。
「クラス替えの最初の日にね」
――やっぱり?!
「いちごと景ちゃんのやり取り見てて、いちごが景ちゃんのこと信用してるって分かったの。だからあたしも、景ちゃんのことは信じていいんだなって思ったの」
――いちごかーーーーーっ!
人前で俺を貶めてばかりいるいちごのお陰だなんて、なんて皮肉な結果だろう。いちごがこれを知ったら、また感謝しろって言われそうだ。
「いちごがいなかったら、景ちゃんとはなかなか話せなかったと思うな。景ちゃんって女子とはあんまり話さないでしょう? 図書委員で一緒になっても接し方に迷って、もっと事務的な感じになってたと思う」
「そうかなあ……」
いちごがいてもいなくても、俺は俺だし、しぃちゃんはしぃちゃんなのに。
「でも……」
しぃちゃんがつぶやいた。それからにっこりして。
「景ちゃんって、やっぱりいいひとだなって思うな」
「え……」
――いいひとって……。
思わず固まってしまった。その意味を判断しかねて。
褒められたのだということは分かる。好感度が高いということも分かる。でも、どのくらい?
友だちとして信頼できるということか。それとも、彼氏になり得るということか。この感じだと……?
彼氏に、つまり恋愛の対象としてだったら、こんなにストレートに言うだろうか? もう少し恥ずかしそうに、とか、何かそれらしい素振りがあるのでは? つまりこれは、そういう対象じゃないという牽制?
「そ……、そうかな?」
いやいや、牽制だと決めるのは早い。もうひと押し、何か言ってくれないかな? お願い、何か言って!
「うん。意地悪なところとか、他人を馬鹿にしたりするところがないし、親切でやさしいでしょ? 乱暴な言葉を使わないところも、話していて安心なんだよね。一緒にいてストレスがないって感じ?」
「ふうん……、そうかー……」
めちゃくちゃ褒めてくれた。褒めてくれたし、「一緒にいてストレスがない」というのは「一緒にいて構わない」とも受け取れる。だけど……、だけど!
「ありがとう。そんなに褒められると申し訳ないような気がしちゃうな。あははは」
「でも、本当だよ?」
その表情が!
あまりにもまっすぐ過ぎる!
――せめて「一緒にいたい」って言ってくれたら。
この言葉なら手放しで喜べるのに……。
それでもまあ、仕方ない。全体的に見れば高評価なわけだし。友だちから恋人になる可能性だってあるわけだし。
「俺、書架整理行ってくるよ」
気を取り直してカウンターから出たところで思い付いた。
「あのさ」
カウンター越しにしぃちゃんに声をかける。もちろん小声で。そして決意が鈍らないように急いで。どんどん大きくなる鼓動を隠しながら。
しぃちゃんが「なあに?」という表情で軽く身を乗り出した。
「しぃちゃんも、すごくいいひとだと思う。俺もしぃちゃんのこと信用してるよ」
くるりと向きを変えてカウンターから離れた。たぶん、俺の顔はかなり赤くなっているから。そのまま急ぎ足で書架の間に飛び込む。
――言っちゃった。
バクバクしている心臓。額に噴き出てくる汗。大きく息を吸って、ゆっくり吐いて。
――しぃちゃんはどんな顔してるだろう?
気になるけれど、自分が落ち着くまでは確認する勇気はない。ひたすら本の背を見ていられる書架整理はちょうどいい作業だ。
二列ほど終わったところで隙間からカウンターを窺うと、しぃちゃんは日誌を書いていた。穏やかな表情はやさしげで、いつもと変わった様子はない。
――そうだよな。
彼女は俺に堂々と「いいひと」だと言ったのだ。自分が言われても恥ずかしくもなんともなくて当然だ。
俺だけがこんなふうに照れている。それは、俺の想いが一方的だってことなのかな……。
しぃちゃんとの距離をもう少し縮めたいと思いつつ、毎日が勉強と部活であっという間に過ぎていく。高校生ってどうしてこんなに忙しいのだろう?
休み時間や昼休みは授業の片付けやちょっと誰かと話しているあいだにチャンスが消えている。帰ってからも、気付くと寝る時間で、すぐに次の日がやってくる。その繰り返し。
俺の決断力と行動力が足りないせいだと分かっている。ただ、一方でなんとなく、以前に比べて女子から声をかけられることが増えたような気がしている。それで小さなチャンスが消えてしまう、みたいな。もちろん、クラスメイトとしてごく普通の接し方だけど。
宗一郎はちゃんとしぃちゃんと話す時間を作っていて、それを見て落ち込みそうになったときには、“他人と比べない約束”を自分に言い聞かせている。
そんな中でも読書は続いている。二冊目の『われはロボット』ももうすぐ終わりだ。
もともとしぃちゃんと共通の話題作りのために始めた読書だから、やめるという選択肢はない。でもそれだけじゃなく、読書が基本的に自分だけで完結する行為であるというところが俺に向いている気がしている。
読むことも、感じることも、俺の自由。誰にも迷惑はかけないし、俺と本――著者――との間には誰も入ることができない。感想を誰かと話し合うとしても、言葉にして伝えられるのは一部分に過ぎず、大半は自分だけのものだ。だから読書はとても個人的なもので、そしてそこが、自分に自信が持てない俺には安心できる部分だ――というのもあるけれど、実際のところ、本が面白いのだ。それが一番の理由。
部活では三年生が引退し、部長は俺たちの学年のエースアタッカー、津久井光至が引き継いだ。驚いたことに副部長に俺の名前が挙がり、津久井からの「景が副部長なら、俺も安心して部長をやれそう」という言葉の有り難さに負けて、引き受けることに決めた。
先輩から説明を受けてみたら副部長はほぼ事務担当であると分かり、俺としてはかなりほっとした。津久井がリーダーシップを存分に発揮できるように、俺は雑用をしっかりこなしていこうと思う。
図書委員会の五月の会議では、夏休みの読書推進の企画が議題になった。六月下旬から夏休み向けのコーナーを設けるということで、学年ごとにテーマを決め、本を選んでPOPを作る担当と、コーナーの飾りつけ担当に分かれるのだ。
今回も俺は文章を書かなくていい「飾りつけ担当」に入った。しぃちゃんは何か言いたそうな顔で俺を見ていたけれど何も言わなかった。ただ、図書新聞のときのように何が起きるかわからないので、覚悟だけはしておくつもりだ。
そして、五月も中旬を過ぎたころ、九月の九重祭文化部門のクラスの出し物決めがおこなわれた。
うちの学校には、九重祭で二年生が劇をやるという伝統がある。劇じゃなくても舞台で発表するというのが学校中で暗黙の了解になっていて、もともとこれを楽しみに入学してくる生徒も多い。うちのクラスでも特に反対はなかった。
九重祭では生徒と来場者による人気投票があり、まずは観客をどれくらい呼べるかが一つのポイントになる。つまり、企画が大事なのだ。すでにいくつかの案が挙がっていて、その中から明治時代を舞台にしたロミオとジュリエット的な恋愛もの『呂海雄と珠璃』に決まった。監督と演出は演劇部の田原理久、シナリオは大和若葉がやるという。
演劇部の理久は予想どおりとして、ほとんど存在感のなかった大和が企画の中心部に躍り出たことに、みんな少なからず驚いた。そして、ふたりが指名した主役二名は――宗一郎としぃちゃんだった……。
「気になるよねー」
部活に向かいながら、礼央が劇のことを話題にした。俺に同情するような顔をしているけれど、からかいを含んでいるのは声で分かる。
「仕方ないよ。監督と脚本の意見が一致してるんじゃ」
理久は宗一郎を指名した理由を「真面目で硬い感じの見た目」と「顔と名前が売れてること」と説明した。観客を呼ぶために、有名であることは重要なポイントだ。生徒会役員である宗一郎はどちらの条件も満たしている。
しぃちゃんが選ばれた理由はコーラス部で鍛えた声と舞台度胸だった。俺としては、そこに彼女の「凛とした佇まい」を付け加えたい。珠璃は元武士の家の娘という設定で、姿勢の良さや芯の強さを感じさせる表情ではしぃちゃんの右に出る者はいないだろうと思う。
しぃちゃんは自分が指名されると驚いて、辞退しようとした。でも、驚きながらも引き受けた宗一郎に「やろうよ」と言われると、それ以上は言えなくなってしまった。話し合いが長引いてみんなの反感を買うことを恐れたということもあるかも知れない――というのは俺の憶測だ。
「ねえ、景も出れば? 劇」
キャストは主役の二人以外は後日とのこと。どうやって決めるのかも分からない。
「えぇ? 絶対無理」
舞台の上で何かをやるなんて、絶対に無理だ。大勢に見られることを想像しただけで、緊張で気絶しそうだ。
「景は背が高いから、舞台で映えると思うけど」
「俺よりも礼央が出た方がいいんじゃね? 友だち多いから観客動員数で貢献度大だよ」
「うーん、そうだなあ……。高校生活の思い出に出てもいいかも」
思わずはっとした。高校生活の思い出なんて。
礼央の口から出ると、とても大切なものに思えてくる。誰にとっても三年という同じ時間なのに。俺はその時間を大事にしているだろうか?
「礼央、くぅちゃんとは連絡取った?」
気になっていたことを思い出し、声を落として尋ねてみる。礼央が「うん」と答えた。
「メッセージと……電話を一回。特に問題なし」
「“問題なし”って……」
思わず笑ってしまう。まるでルーティンの報告みたいだ。俺の顔を見て礼央は「まあね……」と頭に手をやって。
「楽しいよ。ただ、楽しいけど、なんていうか……上っ面だけ、みたいな?」
「向こうが?」
「うーん……、いや、俺もかな。当たり障りのないことだけやり取りして、またねって感じ」
「そうか……」
考えてみると、礼央とくぅちゃんの出会いは普通とは違った。お互いを傷付ける言葉で始まったのだ。その反動のように、仲直りした午後は一気に距離が近付いたように見えた。あの日から時間を置いた今、顔も見えない状態では勝手が違うのは当然だろう。
「向こうも同じように思ってるかもな。まあ、俺のことなんかどうでもいいのかも知れないけど」
自嘲気味の言葉。なんとかしてあげたいけれど、俺に何かができるわけもない。でも、黙っていることもできない。
「あの日はすごく気が合ってるように見えたよ」
そう。俺の記憶の中のふたりはほんとうに楽しそうだった。太河も一緒にたくさん笑って。
「くぅちゃん、俺には遠慮してたけど、礼央には全然違ってた。礼央も学校の中とは違ってて、けっこう厳しいこと言ったりしてた」
「ああ、最初に性格悪いところ見せちゃったからね。取り繕ってもしょうがないし」
「うん、それで良かったんじゃないかな」
「そうかぁ?」
礼央が疑わしげな視線を向けてくる。でも。
「だって、あんなに楽しそうだったんだから。今さら性格のいい礼央なんか見せられても、戸惑いしかなくない? きっと“こんなひとだっけ?”って思われるよ」
「俺、年がら年中、性格悪いわけじゃないぞ」
俺の肩を押して礼央が笑う。それからため息をひとつつくと、「たしかに探り探りになってるからなあ……」とつぶやいた。
「俺はさあ」
どう言えば上手く伝わるのかと言葉を選ぶ。
「俺と一緒にいるときの礼央が好きだから、くぅちゃんにもそのくらいは出してもいいんじゃないかと思うよ」
ふわふわした明るさでみんなに親しまれている礼央だけど、それは礼央の渡世術のようなものだ。俺といるときは、口調は軽いものの、もっと真面目でシニカル、そしてたまに甘えん坊だ。
「ふふっ、景、大胆なこと言うね」
「え?」
「だって」
ニヤリとした礼央が両手を広げた。
「女の子にこんなことしろだなんて!」
「ぎゃ……っく」
礼央の腕が俺を締め付けた!
「違うっ、これじゃなくて……」
こんな力で締めつけたら、くぅちゃんの背骨が折れてしまう。違う意味で避けられるぞ!
「なーんだ、違うのか」
わざとらしく残念そうな表情をつくって俺から離れた礼央。でも、すぐににっこりして、「ありがとう」と言った。
「顔が見えないと本音は言いにくいんだよね。失言を警戒して、思ったことをそのまま言えない。ひどいことを言っちゃっても、次の日に学校で謝れるわけじゃないから」
「ああ……、そうだな」
俺は……どうだろう? しぃちゃんと電話で話したとき……。
「あーあ、やっぱり会って話したいなあ」
言いながら、礼央が伸びをした。
「顔が見えるって大事だと思わない? 景」
「そりゃそうだよ」
相槌を打ちながら、しぃちゃんのくるくる変わる表情を思う。そして、まっすぐに俺を見つめてくる瞳を。電話やメッセージではそれを見ることはできない。相手の存在を肌で感じることも。
「会おうって言ってみたら?」
「そうだよねぇ。でもなあ……」
断られる可能性を考えているのだろうか。くぅちゃんが有名人だから迷っているのだろうか。
――俺は?
しぃちゃんとゆっくり話したい。でも、一度決心したのに、やっぱり何もできていない。図書委員の当番が頼みの綱だ。
――礼央もこんなに迷うんだ……。
これは新しい発見だ。
迷って足踏みしている礼央を“ダメなやつ”とは思わない。ということは、俺もまだ“ダメなやつ”ではないってことだ。何も行動に移せないからと言って落ち込むのは早い。
「いっぱい迷おう。期間限定ってわけじゃないから」
思わず言葉が口をついて出た。自分の言葉に自分でうなずいてしまう。
「そうだよ。だって、『急いては事を仕損じる』って言うじゃん?」
「ははは、景らしい言葉だと思うけど、たしかにそうだね」
礼央がほっとした様子で笑った。
礼央と同じ迷いの中にいると思うと気持ちが軽くなる。ただ、俺の場合はそこに『急がば回れ』で読書が加わっていて、どこまで回り道をすれば気が済むのか分からないのが情けない。
――そういえば……。
しぃちゃんは大丈夫だろうか。主役を仕方なく引き受けた感じだったけど……。
――よし。やっぱり連絡してみよう。
ようやく心が決まったのは夜になってからだった。
劇の主人公に決まったしぃちゃんのことが心配になったのは部活が始まる前。部活が終わり、帰り道でまた思い出し、それからずっと迷いに迷って、やっと今だ。
もしかしたら、もう彼女の中では気持ちの整理がついているかも知れない。でも、そうじゃないかも知れない。俺が役に立つことだってあるかも知れないじゃないか。彼女のためになるのなら、俺の弱気など後回しだ。
ということで、少々遅い時間だけれど、電話してみることにした。メッセージでは大事なことを伝えきれないような気がしたから。
『……景ちゃん?』
探るような気配を含んだ声がした。
「うん。ごめんね、夜に」
鼓動が少し早くなっている。でも、今日はちゃんと最初の言葉を考えてあるから、以前よりは余裕がある。
「今日のホームルームのこと、大丈夫かな、と思って。劇の主役に指名されたこと」
『ああ……』
一呼吸置いてから、『ありがとう』と声がした。
『心配してくれたんだね』
「うん、まあ……。主役おめでとう……じゃない、よね?」
『全然おめでとうじゃないよ~!』
ためらいつつ発した質問に、勢いよく答えが返ってきた。やっぱり言えずに溜めこんでいたことがいっぱいあるのだ。
『なんであたしなの? 声なんて、運動部のひとだって出るでしょう? やりたいひと、絶対いるでしょ? 舞台映えする子だっているでしょ? そういうひとが練習頑張ればいいじゃない。あたしである必要、ある?』
一気に言って、そこでひと息。
『――って感じのことを、いちごに散々聞いてもらった』
「あ、そうか」
しぃちゃんにはいちごがついているんだった。俺に礼央がいるように。俺が慰めなくても――。
『でもね、ちっとも心が晴れない。ひとりになると、あのときのこと思い出しちゃって』
「そうか。じゃあ、電話してみてよかったかな」
『うん、もちろん』
彼女は嬉しそう――と思うのは都合が良すぎるだろうか。
「名前が出たとき、びっくりしたよね」
『うん……』
あのときの景色は俺の記憶にも焼き付いている。
名前を呼ばれた瞬間、こわばったしぃちゃんの背中。集まる視線と、おろおろと断ろうとする彼女の声。黒板の前では九重祭委員と理久と大和が期待や不安の表情で注目している。そして、横からかかった宗一郎の声。それを聞いた彼女が数秒、動きを止めて、その後、力の抜けた肩ががっくりと下がった……。
「事前に何もなかったんだ?」
『そう。若葉がシナリオを書くっていうのは知ってたけど、今日のホームルームまでは案が三つあったでしょう? だから言わなかったんだと思うけど……』
ため息が聞こえた。
『いろんな声が頭を駆けめぐった。みんながきっと思ってるに違いないこと。『なんでコイツ?』とか、『断るなんてカッコつけてるだけ』とか、『どうでもいいじゃん』とか。自分でも、素直に引き受けたら『いい気になってる』って思われそうだし、逆に断っても反感買いそうで、頭の中ぐちゃぐちゃだった』
「苦しかったね」
『うん』
しみじみした声。突然、肩を抱いてなぐさめたい、という思いがこみ上げる。でも、俺の隣はからっぽだ。
『まあ、よく考えてみれば、あそこで指名された時点で、もう断っちゃダメなんだよね。盛り上がってる雰囲気に水を差すことになるし、選んでくれた若葉たちにも悪いしね』
「うーん……、それはそうかも知れないけど……」
『ね? びっくりして『無理』って言っちゃったけど、あのとき、相模くんが声かけてくれてよかったよ。あきらめがついたから』
「そうか……」
宗一郎のあのひとこと。それが「よかった」?
俺はそんな意味にはとらえていなかった。彼女の逃げ道を塞いだように感じていた。でも、あれがしぃちゃんを落ち着かせるための言葉だったとしたら……。
――有り得る。
いつも余裕のある態度の宗一郎は、一段上から状況を見ているようなところがある。だから生徒会にも向いているわけで。
たしかに、あそこで宗一郎が「やろうよ」と言わなかったら、話し合いが混乱して、彼女が非難されるような雰囲気が生まれたかも知れない……。
「じゃあ……、覚悟ができてるんだね」
『覚悟か……。ふふ、うん、そうだね。まさに覚悟って感じ。まな板の上の鯉的な?』
「あはは、でも俺は」
一瞬迷う。でも。
「あー…、似合ってると思うけど」
思い切って口に出した瞬間、心臓がひときわ大きくドン、と打った。思わず止めた息をゆっくりと吐く。
『えぇ? ほんとう? 命がけの恋をする少女役が?』
心底驚いた声。
『ふふふ、そっか。どうもありがとう』
俺が勇気を出した言葉を、彼女は単なる慰めのお世辞と受け取ったらしい。その可能性は予測していたけれど、やっぱりがっくりくる。
『ねえ? 景ちゃんも一緒に出ようよ、劇』
彼女の声が明るくなった。と思ったら、早速、俺をからかい始めた。
「そんな。無理だよ、俺には」
『そんなことないよ。そしたら一緒に練習できるじゃない。ね?』
――一緒に……?
一緒にって言った? つまり、一緒に練習できたら嬉しいってこと……でいいんだよね?
「そりゃあ、やってみたら面白いかも知れないけど……」
『そうだよ! きっとそう。やってみたら面白いよ、きっと』
「うーん……」
練習風景が目に浮かぶ。しぃちゃんは宗一郎と恋人同士の役をやるわけだけど、その場に俺もいれば、彼女と一緒の時間を確保できる。宗一郎が劇の中以外で彼女に近付くのを阻止することも。
だけど。
「やっぱり無理だ、俺には」
『え~? どうして?』
断る俺を不満に思ってくれるのは嬉しい。嬉しいけど。
「舞台の上でしゃべるなんて絶対無理。考えただけで気が遠くなりそう」
『そんな。でも、景ちゃん、バレー部で試合に出るでしょう? 同じようなものじゃない』
「いや。バレーにはセリフなんかないもん。ボールに集中して動いていればいいだけで」
『むぅ』
あれれ。もしかして、ふくれてる?
いつもと違うしぃちゃんを見てみたい。やっぱり電話じゃ物足りないな。
物思いの隙に電話の向こうで『あ』という声。それから『ちょっと待ってて』の数秒後。
『もしもし? 紅蘭です。景くん、元気?』
「わ!」
しぃちゃん以外がいることを想定していなかった! 思わずスマホを耳から離して見つめ、あわてて戻した。
「あ、ああ、くぅちゃん? 久しぶり。びっくりしたよ」
『えへへ。ボクたち、同じ部屋だから。今、居間から戻ってきたの……って、ダジャレのつもりじゃなくて』
『くぅちゃん、恥ずかしいからやめてよ、へんなダジャレ。あ、ごめんね、景ちゃん。ちょっとあいさつする? って言ったら……』
「ううん、いいよ。くぅちゃん、元気そうだね」
俺の言葉はよく聞いていないようで、なにやらごにょごにょ話し声が聞こえる。ふざけ気味のくぅちゃんをしぃちゃんが諫めているようだ。すぐにくぅちゃんの『分かった分かった』という声がして、今度ははっきり『ねえ、景くん』と聞こえた。
『副部長になったんだって? バレー部の。すごいね』
『え? あたし聞いてない』
しぃちゃんの責めるような声。たしかに俺は誰にも言っていない。
「どうしてくぅちゃんが――って、礼央か」
『うん。景くんなら適任だって、礼央が言ってたよ』
「あはは、適任なんていう言葉を使うほど複雑な仕事はないみたいだけどね」
くぅちゃんは礼央との電話でもこんなふうに話すのだろうか。だとしたら楽しそうだ。
『景ちゃん、どうして教えてくれなかったの?』
今度はしぃちゃんだ。やっぱり少し不満らしい。
電話で聞くと、ふたりの声が似ていることが分かる。でも、くぅちゃんの方が勢いのある話し方だ。
「べつに報告するほどのことじゃないと思って」
『教えてくれてもいいのに』
「んー、ごめん」
最近、話す回数が減っていたことに、しぃちゃんは気付いてないのかな。でも、それでも俺との関係が変わっていないと思っているのは喜ぶべきことなのかも――。
『こんなふうに拗ねてるけどね』
今度はくぅちゃんの声がした。
『しぃちゃん、さっきまではため息ばっかりで、もう暗くて暗くてしょうがなかったんだから』
『くぅちゃん!』
「うわ」
叫ぶような声のあとはごそごそ音がする。スマホの取り合いでもしてるのか?
『それで一旦部屋を出て、戻ってきたらにこにこで。ほんと、景くんのお陰』
『くぅちゃん!』
――そうなんだ……?
俺の電話でしぃちゃんが笑顔になった? 俺がしぃちゃんを笑顔にした?
『もうっ』
憤慨した声に続いて遠ざかる笑い声。それから『ごめんね、景ちゃん』としぃちゃんが言った。どうやらくぅちゃんは部屋から出たらしい。
「いや、俺の方こそ、こんな時間にごめん。明日、また学校で」
『うん。劇のこと気にしてくれてありがとう。また明日ね』
「うん、じゃあ……」
『おやすみなさい』
電話を切るまでいつもより時間がかかったのは俺だけだろうか……。
翌朝、教室に着くとしぃちゃんが俺の机に来てくれた。朝の電車で『われはロボット』を読み終わったから話ができる――と思った、のに。
「ねえ、景ちゃん。副部長になったのって、立候補?」
あいさつもそこそこにぶつけられたのは副部長になったことへの質問だった。電話の効果で普通のおしゃべりをしに来てくれたのだと期待したのに、ちょっと力が抜ける。でも、きっとしぃちゃんはこれを確認したくて仕方なかったに違いない。そう思ったら、なんだか可笑しくなってしまった。
「いや、違うよ。先輩たちから指名されたんだ」
「そうなんだ……。前からそういう雰囲気あったの?」
「うーん、それは俺も考えてみたんだけど、何もなかったと思う。部長はなんとなくみんなが予想してたとおりだったけど、副部長候補に俺の名前は挙がってなかったよ。みんなが意外だったと思うな」
彼女がうなずきながら考える。そして。
「でも、引き受けたんだね。やりたいと思ってたとか……?」
「いや。俺よりしっかりしてるヤツ、いくらでもいるし」
答えながら気付いた。彼女は自分に来た主役と俺の副部長を重ね合わせて考えようとしているのではないだろうか。
「最初は断ろうと思ったんだ。でも、コウ……新しい部長が、俺が副部長なら安心して部長をやれそうだって言ってくれたから、そういうの、有り難いなあ、と思って引き受けることにした」
「ふうん……」
「でも、先輩から引き継ぎ受けてみたら、副部長って事務仕事の担当っぽくて、今は意外と俺向きかもなあって思ってる。部長が部員の心をまとめるシンボル的な存在で、俺は裏方」
そう。劇の主役とは重さが全然違う。残念だけど、しぃちゃんの役には立てそうにない。
「裏方?」
「うん。名簿と部費の管理とか、試合のエントリー手続きとか。まあ、マネージャー的な?」
「え、でも、そういうの、面倒がるひともいるでしょ?」
「ああ、そうかもね。でも、俺は気にならないから。むしろ、ほかで役に立たない分、雑用でいいならいくらでもやるし」
「景ちゃん……」
どうしてそんなに驚いてるんだろう? 俺らしくないことでも言ったかな?
と、しぃちゃんがほうっと息をついた。表情も穏やかに変わる。そういえば、向かい合って話すのは久しぶりかも知れない。俺を見上げる彼女の顔の位置がこんなに低いんだって、あらためて実感するくらいだから。
ひとつ瞬きをして、彼女が口を開いた。
「景ちゃんのそういうところ、」
「おっす、景、しぃちゃん」
低い美声と同時に肩に手が。そこにいたのは。
「宗一郎。……おはよ」
思わず「おはよ」に力がこもった。何食わぬ顔をしているけれど、俺としぃちゃんの邪魔をしようという意図があった疑いが濃厚だ。
しぃちゃんは親しみのこもった笑顔であいさつを返している。俺に言いかけた言葉など忘れてしまったようだ。
「おはよう、紫蘭!」
今度はいちごの登場だ。しぃちゃんの笑顔が一気に無邪気で楽しげに変わる。「いぇーい」と言いながらハイタッチをしたりして。
「なんの相談? もしかして、景ちゃんも劇に出たいとか?」
「まさか! そんなつもりは全くないよ」
いちごにははっきりと意思表示しておかないと。曖昧にしておいたら、面白がって俺を推薦しかねない。
「いちごはどうなんだよ? 出ないのか?」
「うーん、どうかなあ?」
本気で考えているらしい。冗談で言ったのに。
「まあ、若葉次第かな」
その言葉にしぃちゃんもうなずいた。
「大和次第? 理久は?」
「キャスティングは若葉が中心になると思うよ。脚本書くときに具体的に誰かを思い浮かべる方が楽って言ってたから、そのひとが指名される可能性が高いんじゃないかな」
「ふうん」
それなら俺は出なくて済みそうだ。大和が存在感の薄い俺を思い浮かべることはないだろう。
「あ、景ちゃん、今、俺は安心って思ったでしょ。目立たない性格だからって」
「たしかに景は他人事って顔してた。気楽なヤツだなあ」
いちごと宗一郎が言い、しぃちゃんがくすくす笑う。
「いいだろ? それに、名前出されてもそもそも無理だし」
「そんなに頑なにならなくてもいいのに。文化祭の劇なんて、ただのお楽しみなんだから」
宗一郎があきれた笑いを残して立ち去ると、いちごもしぃちゃんを連れて行ってしまった。
――いいじゃないか、安心してたって。
机の上に置いたままだったバッグから教科書を出しながら、もやもやした気分が胸に滞っている。最後にちらりと振り返ったしぃちゃんの表情が頭の隅にちらつく。あれは憐み? それとも同情?
――目立たないのは仕方ないよ。
俺が目立たないからといって、誰かが困るわけじゃない。ただ、たまに得をすることがある、というだけ。学校生活全体を通して見ると、淋しさや不安を感じるマイナス面の方が多いのだ。
小学校のころからクラス替えやチーム決め、行事の写真を見たときなど、自分が忘れられていると思い知る場面が何度もあった。その度にあきらめ、少しずつ、自分の中にある<自分>という存在――認識? 自我?――を削ってきた。その結果が今の状態だ。ほとんど注意を向けられない状態が今の俺にとっては当たり前で安心で、注目されることは苦痛。
宗一郎やいちごのように如才ないタイプには、俺の性格は理解できないだろう。「人前で緊張するのは当たり前」「自分だって同じ」――こんな言葉をいろんなひとから言われた。あのふたりだって言うだろう。でも違うのだ。明らかに。
話しても反論されると分かっているから、もう今は、これについて説明はしない。礼央や何人かの友人たちのように分かってくれる友だちがいてくれれば、それで十分だ。たぶん、しぃちゃんも――。
「景! おはよう」
「ああ、礼央。おはよ」
いつも楽しそうな礼央の笑顔だ。こんな気分のときは特にほっとする。
礼央も如才ない性格だけど、宗一郎とは何かが違う。なんていうか……俺を信じて、好きでいてくれているところかな。
「そういえば、きのう、くぅちゃんと話したよ」
礼央の顔を見たら、自然とくぅちゃんを思い出した。
「え、いつ?」
「夜に電話で――」
――しまった!
これを言ったら、俺がしぃちゃんに電話をかけたことがバレてしまう。いや、もしかしたら、くぅちゃんに電話したと勘違いされる? でも、俺がくぅちゃんの連絡先を知らないって礼央は知ってるよな? いや、そんなことじゃなくて。
「景……」
ニヤリとした礼央が肩を寄せて来る。
「景が電話したの? それとも逆?」
「え、あの、くぅちゃんにじゃないよ?」
「分かってるよ、そんなこと」
呆れた様子で礼央が肩をすくめた。たしかに、俺がためらいなくくぅちゃんの名前を出した時点で、礼央に対して後ろめたさがないことは分かるに違いない。
「元気いっぱいだったよ、くぅちゃん」
安心して報告すると、礼央は「だよね」と笑った。
「俺、思ったんだけど……」
余計なお節介かも、と迷う。でも。
「礼央とくぅちゃんは顔を合わせて話す方がいいような気がする。ふたりが話してるところ想像すると、火花がいっぱい散ってるけど、すごく楽しそうだよ」
「それってさあ、めっちゃ気の合う友だちってやつじゃない?」
「あはは、でも、もしかしたら次は違う雰囲気になるかも知れないじゃん」
「うーん……、まあ、いいんだ、火花が散ってても。お互いに本来の自分でいられて、それが楽しければ」
「うん。そうだな」
本来の自分でいられるって、それほど簡単じゃない。でも、礼央とくぅちゃんならそれができるような気がする。
礼央と話して気が晴れたのも束の間、授業が始まってしばらくすると宗一郎といちごの言葉を思い出して、またもやもやした気分が戻って来てしまった。自分のこういうところが情けなくて、自己嫌悪に陥る。まあ、誰にも気付かれなければいいのだから……。
「景ちゃん」
2時間目の体育のために教室を出て行く前にしぃちゃんがちょこちょこっとやってきた。
「お昼休み、図書館で相談に乗ってもらえる?」
周囲を気にするような抑えた声に、思わず俺も反射的に小声で「うん」と答える。でも、俺に相談って、何を?
けれど、彼女は俺の返事を確認しただけでさっさと行ってしまった。まるで立ち止まりなどしなかったようにまっすぐ前を見て、背筋を伸ばして。俺の中にクエスチョンマークだけを残して。
……いや、違う。
彼女が俺の中に残したのはクエスチョンマークだけではない。不思議な、そして微かに振動する甘酸っぱさと期待。
お昼休み、図書館で……。
彼女は俺を相談相手に選んでくれたのだ。もしかしたら今朝だって、ほんとうの目的はそれだったのかも知れない。
だとしても。
相談って何だ?
しぃちゃんの相談のことが気になって、午前中はそわそわしているうちに終わった。ようやく昼休みになり、礼央に図書館に行くことを伝えると、礼央も「俺も」と一緒に教室を出た。
図書館で待ち合わせていることが気になったけれど、考えてみたら、礼央は図書館ではたいてい俺とは別行動だ。しぃちゃんが図書館に来ることも特別ではないから、わざわざ話しておく必要はないだろう。
「景のお陰で図書館のハードルが下がったよ」
階段を下りながら礼央が言った。
「自由に使えるって忘れてた。……っていうより、図書館自体を思い出さなかったもんね」
「うん、俺も」
もちろん、存在は知っていた。でも、自分には関係のない――個人的な用事では――場所だと感じていた。
「社会に出てからもさあ」
礼央がずっと遠くを見るような表情をする。まるで未来を見ているように。
「市立図書館が使えるんだって気がついたんだ。調べてみたら、休日も開いてるし、夜は七時までだから仕事の帰りに寄ることもできる。俺さあ……」
「うん」
「就職したら、もう自由時間がないって思ってたんだ。ほら、働く時間って、学校の授業よりも長いじゃん? 春休みとか夏休みとかないし。だから、仕事が終わったらまっすぐ家に帰って、太河とご飯食べて、あとは家のことやって終わり、みたいな。もちろん、太河と一緒だから楽しいと思うけど」
「……うん」
礼央の覚悟だ。俺に自分が恵まれていることを思い出させる覚悟。そして、礼央に何もしてあげられない自分の無力さが悔しくなる――。
「でもさ、図書館に行ったら自分を取り戻せるような気がするんだ。図書館にいるひとって、みんな自分のやることに集中してるじゃん? 他人のことなんか関係なくって。だから、そこにいる間は完全に自由で……って、分かるかなあ?」
照れたように礼央が笑う。
「うん。分かる。俺は本を読んで、似たようなこと感じた」
周囲との関係が断ち切られた自分。孤独ではなく、独立。自分に問いかけ、自分の思考に潜りこんでいく時間。
「ん……、そっか。うん。景なら分かってくれると思った」
一足先に社会に出る礼央が、自由を取り戻せる場所がある。そう思うとずいぶん慰められる気がした。
図書館に着くと、礼央はふわりと離れて行った。俺はカウンターで本を返し、館内を見回してみる。なんだか緊張してきた。教室を出たのは俺の方が先だったから、彼女が来るまで次に読む本を――。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
隣にひょっこり現れた頭はもちろんしぃちゃんだ。分かっていたけれど、心臓が跳ね上がった。
「いや。俺も今、本を返したばっかりだから」
「そう? ありがとう、頼みを聞いてくれて」
俺を見上げる瞳がやさしく輝く。向けられた笑顔には信頼が込められている……と思う。自分の口許が変に緩んでいる気がして困る。
「あのね、図書委員会の夏休み向けのコーナーに出す本のことなんだけど」
「あ、ああ……、あれ」
「テーマに沿った本が決まらなくて困ってるの」
「そうなんだ……?」
これは……。
もしかしたら、単なる仕事の相談か?
「それで、景ちゃんに一緒に考えてもらおうと思って。景ちゃんは飾り付けの担当だから、本の心配はいらないでしょう?」
「あ、うん。そうだね」
そうだったのか……という脱力感。けれど、だとしても、今、ふたりで一緒にいるという事実がある。彼女は本について相談する相手として俺を選んでくれたのだ。俺よりも本を読んでいるらしい宗一郎ではなく!
「テーマは<夜空を見上げて>だったよね?」
誇らしさを感じると同時に、仕事だったという認識で緊張が解けた。心臓は平静を取り戻し、顔の筋肉もリラックスしている。
「そうなの。本が被らないように連絡取り合ってるんだけど、迷ってるうちに、知ってる本はほかのひとに決まっちゃって……」
まつ毛が長いんだなあ……なんて考えていることに気付かれてはいけない。顔を上げた彼女に「なるほど」とうなずいてみせ、どうやって選ぶのか尋ねる。
「連想」
彼女が楽しそうに答えた。
「ブレーンストーミング的な感じかな」
それはちょっと面白そうだ。
「最初に思い付いたのは『夜のピクニック』っていう本。ある高校の歩行祭っていう二十四時間歩き続ける行事のお話」
「二十四時間歩く。すごい行事だね」
「でしょ? 主人公たちは高三で、最後の歩行祭なの。途中でちょっとした謎が解けたり、思っていたよりも深い友情に気付いたり、今までの思い出とか……いろんなことを考えて、最後に新しい決意をするの。キツいんだけど、星空の下を歩きながら思い浮かべる言葉が印象的でね」
「ふうん。夜も歩くからそのタイトルなんだね」
「そう。過酷な行事だけど、この学校の生徒には特別なの。まあ、これは有名な本で、すぐに紹介者が決まっちゃったんだ」
有名だと言われても、俺は知らなかった。本好きの間では知られている――ということか。でも、俺もちょっと興味がわいた。いつか読んでみよう。
しぃちゃんに促されて空いている席に向かい合って座る。
「で、次に思い付いたのは『銀河鉄道の夜』」
机越しに身を乗り出して彼女が言った。正面から距離が近付いて、思わず照れてしまった自分を隠した。
「あ、それは知ってる。宮沢賢治だ」
「そう。でも、それもほかのひとに決まっちゃった」
「そうだよなあ……」
俺が知ってるほどの作品だから、誰でも思い付くだろう。
「あと、ほかに決まってるのが銀河系を舞台にしたSFと竹取物語」
「竹取物語って、古典の?」
「そう」
たしかにかぐや姫は月を見上げて淋しそうにしていたんだっけ。よく思い付いたな。
「それから花火師の仕事紹介と夏の星座、それにギリシア神話」
しぃちゃんが指を折りながら教えてくれる。仕事紹介と星座なんて、小説以外も選択肢に入るのだと今さら気付いた。
「俺、やっぱり飾り付け担当になっておいてよかったよ。本の知識が足りないから選べないもん」
思わずつぶやくと、しぃちゃんが「何言ってるの」と、呆れた顔をした。
「今、あたしだって決まってないでしょう?」
「そうだけど、仕事紹介とか星座の本とか、みんなすごいよ」
「それはテーマから連想して、あとは雪見さんに手伝ってもらってるんだよ。最初から仕事紹介の本を知っていたわけじゃなくて」
「あ、そうなんだ?」
<夜空を見上げて>から花火を連想して、花火関連の本を雪見さんに教えてもらうってことか。
「最終手段として、雪見さんに連想も手伝ってもらうっていう方法もあるの。でも、まずは景ちゃんに聞いてみようと思って」
しぃちゃんの瞳がきらりと輝く。
「だって、相棒でしょ? 頼ってもいいよね?」
「も、もちろん」
頼ってくれた? 彼女が俺を。こんなふうに親し気に微笑んで。
めちゃくちゃ嬉しいぞ!
「なるべく雰囲気が偏らないようにしたいんだよね……」
椅子の背にもたれながらしぃちゃんが言う。
「夜空っていうと宇宙を思い浮かべるけど、銀河系と星座が入ってるでしょう? ギリシア神話も星座関連だから、宇宙からは離れたいなって」
「じゃあ、ガリレオはダメか」
俺の言葉にしぃちゃんが目をぱちくりさせた。
「ほら、天体観測して地動説を唱えたんだよね? まさに夜空を見上げてるなって。でも、宇宙から離れるなら――」
「いや、でも、ガリレオなら伝記だし、ありだよ」
「そういう括りでいいんだ?」
それほど悪いアイデアではなかったらしい。小学生のときに読んだ漫画版の伝記がこんなところで役に立った。しぃちゃんは机に肘をついて考え始めている。
「天体観測なら望遠鏡もあり? たしか、すばる望遠鏡の本があったような……。ああ、だけど、それじゃあまた宇宙? でも技術系の話なら……」
「『星の王子さま』って空は見上げないのかな?」
「え?」
彼女が俺を見る。
「いや、なんとなくしか知らないけど、小さい星に住んでるイメージが……」
「うん、そうだ。そうだったよ。あたしも紹介文しか読んでないけど、宇宙の中の孤独な王子さま――」
しぃちゃんが立ち上がった。
「見に行こう」
「あ、うん」
文学のコーナーに向かう彼女に慌てて続く。
ところが、彼女も俺も、作者の名前が思い出せない。小説は原作の言語別に作者の苗字順で並んでいる。仕方がないから手分けして端から見ていったけれど、どうしても見つからない。
あきらめて雪見さんのところに行くと、呆気なく「ああ、サン=テグジュペリだね」と教えてくれた。
「フランス文学だから953だよ。ハードカバーと文庫本、両方あるよ」
追加でもらった情報に、「フランスか」と顔を見合わせた。さっきは外国文学の中で一番多い英文学の場所を探していたのだ。
再び書架に向かいながら、いつの間にかにこにこしている自分に気が付いた。
「楽しいなあ」
すごく楽しい。しぃちゃんと一緒にあたふたしていることが。同じことを分かち合っていることが。
ぽろりと出た言葉はしぃちゃんに聞こえたらしい。俺を見上げてにっこりした。
「うん。ほんとにね」
――そうか。しぃちゃんも同じなんだ。
胸がきゅーんとした。彼女も俺と一緒で楽しいなんて!
「あたし、こうやってテーマを決めて本を探すのって大好きなんだ。連想するのも探すのも楽しいし、新しい本に出会えるのも嬉しい。景ちゃんも楽しいって思ってくれて嬉しいな」
――あれ……?
「あ……うん、うん、もちろん」
違ってる。勘違いだった。俺の早とちり。
しぃちゃんが楽しいのは本を探すこと。俺と一緒にいることではなくて。
胸の中でそっとため息をつく。だよな、と思う。けれど。
俺に笑いかけてくれるしぃちゃんが隣にいる。これは勘違いでも早とちりでもなく、事実だ。
それに、“俺と一緒にいても”楽しいってことは、俺が一緒にいてもいいってことに違いない。
しぃちゃんが図書室に誘ってくれたのは朝のできごとが原因では――?
そう気付いたのは夜になってからだった。
午後はずっと、一緒に過ごした時間を何度も頭の中で再生して幸せな気分に浸っていた。けれど、ふと我に返った。彼女はほんとうに俺が必要だったのだろうか、と。
考えれば考えるほど、しぃちゃんならひとりでも十分にやれたのではないかと思えてくる。だって、締め切りはまだ先だし、彼女はテーマで本を探すことが好きだと言っていたのだから。
もちろん、俺がまったく役に立たなかったわけではない。ちゃんと感謝してくれたし、「自分と違う連想が出てくるって面白い」と言ってくれたのは本心だと思う。だとしても、俺が必要だったかと問えば――それほどではなかったのではないだろうか。
だったら、なぜ彼女は俺に声をかけたのか。思い当たるのは朝のことだ。
宗一郎といちごに、俺の存在感が薄いことを、まるで俺がずるをしているみたいに言われたこと。ほんの二言三言だったけれど、胸に刺さって後を引いた。存在感が薄いことは俺のコンプレックスの一つだから。
あのとき、いちごと一緒に離れて行くしぃちゃんが振り返ったのを覚えている。そこに浮かんだ表情も思い出せる。気遣わしげな表情は同情か憐みか……。
――慰めようと思ってくれたんだろうな……。
隠したつもりだったけれど、顔に出ていたのかも知れない。でなければ、雰囲気で察したのか。どちらにしても、心配してくれたのだろうし、彼女の目論見は成功した。なにしろ昼休みの約束をした時点から、宗一郎たちに言われたことなど忘れてしまっていたのだから。
――なんだかなあ……。
自分の単純さが笑える。まるでしぃちゃんの手の上で自在に転がされているみたいだ。彼女は俺の性格なんかお見通しで、いい気分にさせるのも落ち込ませるのもちょちょいのちょい……なんて。
「ふ」
やっぱりしぃちゃんは俺にとっては魔法使いだ。でも、俺を幸せな気分にさせる仕事なんて、簡単すぎるかな?
――あれ?
電話の着信音。画面には――礼央だ。
「よう、礼央――」
『くぅちゃんと会う約束した! 景のおかげだよ! ありがとう』
俺の声に被さって興奮気味の喜びの声が聞こえてきた。
「そうか。よかったなあ。おめでとう」
朝のアドバイスが役に立ったらしい。女子に慣れているはずの礼央が俺なんかのアドバイスにしたがうというのも変な気がするけれど。
『昼休みに景としぃちゃんを見てて、やっぱり会って話すっていいなあって思って。スマホ越しじゃ、いろいろ足りないよね』
「ん?」
俺のアドバイスにしたがったわけじゃない? 昼休みの俺としぃちゃんを見てて……って。
「なんだよそれ。なんか恥ずかしいよ」
照れてしまう。だって、それはつまり俺たちが……何というか、いい感じに見えたということだ。照れくさいけれど、胸の底から笑いがこみ上げてくる。
『恥ずかしい? あはは、でも楽しそうだったよ、すごく』
まあ、たしかにすごく楽しかった。他人に見られていることを忘れるくらい。いや、恥ずかしいけど。
『景たちってなんて言うか、自然なんだよね。一緒にいることが特別に見えない――って言ったらがっかりする?』
「全然」
それって、俺たちがお似合いだって言われているようなものじゃないか。しかも、バランスが取れているということなら、俺だけじゃなく、しぃちゃんも同じくらい俺のことを……なんて?
「ん、あ、それで、いつ会うんだ?」
『ああ、それなんだけど……』
ここまでの良い調子が少し鈍った。
『景も一緒にどう?』
「え? 俺?」
『うん』
「なんで……?」
ふたりで会うんじゃないのか?
「俺、邪魔じゃね?」
学校で俺としぃちゃんと一緒に礼央がいても楽しいのは、しぃちゃんが俺の気持ちを知らないからだ。要するに、友だち付き合いという前提だってこと。でも、くぅちゃんと礼央は――。
『邪魔じゃないよ。邪魔どころか、くぅちゃんもお願いしたいって』
「ああ、もしかしてスキャンダル回避とか? くぅちゃん、恋愛禁止だったり?」
『それはくぅちゃんはそんなに心配してなかった。それよりも……俺たちまだ不安なんだよね』
「不安?」
『ふたりだけっていうのが』
礼央でも……?
「礼央って……今まで彼女って……?」
『うーん、中学のときにそれらしい相手はいたけど……、一緒に帰ったり、バレンタインにチョコもらったり。でも、今思うと、なんだか学校生活の一部みたいな感じだったなあ。高校が別になってそれっきり』
「ふうん……」
俺はもちろん経験はないけれど、しぃちゃんに対して慎重になっているのは、終わってしまったあとの気まずさを想像してしまうからだ。その場で断られるにしても、一旦付き合ってから別れるにしても――って、ダメなことが前提って、俺らしいよな。
『くぅちゃんとはまだ一度しか会ってないから、お互いに相手の性格を勘違いしてるかも、なんて考えちゃうんだよね。会わないあいだに想像で理想のタイプに仕上げちゃってるとかさ。それに気付いたときに気まずくならないように、景たちにも一緒にいてもらいたいんだけど』
「え? 俺だけじゃないのか?」
今、「景たち」って聞こえた。
『あれ? そうだよ。くぅちゃんがしぃちゃんに頼んでる。四人で行く計画』
「!」
そりゃそうだ! くぅちゃんだって俺には礼央以上に気を使うだろうから。
でも、ということは、礼央とくぅちゃんが上手くいけば、しぃちゃんと俺ももっと仲良くなれるチャンス……?
「ああ……、そうなんだ?」
ガツガツしちゃダメだ。落ち着いて。でもにやにやしてしまう!
「しぃちゃん、OKするかなあ?」
声が微かに震えた。弱気になってると思われてしまうかな。もっと喜びを出しちゃってもいいだろうか? 相手は礼央なんだし。
『え? 俺、まったく疑ってなかったけど』
「あ、そう? そうか。へえー」
疑ってなかったのか。つまり、しぃちゃんは俺と一緒に出かけること――ふたりで、ではないが――を了承すると、礼央は信じている。これはやっぱり――。
『んー、景、気が進まない?』
「あ?」
『景は人見知り激しいもんね。よく知らないひとと出かけるのはハードル高いよね』
「いっ、いや、そんなことない。くぅちゃんは大丈夫。大丈夫だよ。この前、電話でしゃべったし。知らないひとじゃないから。それに礼央は――」
『やーい、引っかかったー♪ そんなに慌てなくても分かってるよ』
礼央が笑ってる。
『ちょっとからかっただけ。景が感情を出さないこと分かってる。ほんとうは喜んでるってことも知ってるよ』
「なんだよ、それ?」
「喜んでる」なんて明言されたら恥ずかしいじゃないか。誰も聞いていなくても。
『ねぇ、行くよね、景? もちろん、しぃちゃんも行くことが前提だけど』
「うん、いいよ。行き先は?」
『くぅちゃんがしぃちゃんと相談するって』
「そうか」
つまり、くぅちゃんも、しぃちゃんは断らないと思っているということだ。
「じゃあ、予定が決まったら教えて」
『うん。ありがとう、景。また明日』
「うん、明日な。おやすみ」
スマホを置いたら、妙に心が静かになった。さっきはドキドキしていたのに。
――礼央とくぅちゃんか……。
上手くいってほしい。純粋に礼央のために。
そして、できれば俺も――あれ?
スマホにメッセージが。しぃちゃんからだ!
くぅちゃんと話したのだろうか。画面に触れる指が滑って、自分の焦り具合に苦笑する。
『景ちゃん、『星の王子さま』大正解! 読んでよかったよ。』
――ん?
出かける話じゃない……?
『まだ途中だけど、全部の言葉がまるで贈り物みたいなの! テーマにもぴったりで。景ちゃんのおかげだよ。どうもありがとう!』
昼休みのお礼だ。すごく喜んでる。それは間違いない。けど……、俺はどう返すべき?
――本のことだけ、だよな。
この様子だと、出かける話はまだ知らないみたいだ。一緒に住んでいるからといって、すぐに話せるとは限らないもんな。返信は本のことだけで。
『よかった。『言葉が贈り物』ってきれいな言葉だね。紹介文に使えそう。さすが!』
『ほんとう? 褒められたら、なんだか自分に文才があるような気がしてきた。どうもありがとう! 夜にごめんね。また明日。おやすみなさい』
すぐに返ってきてちょっとびっくり。でも、「おやすみなさい」だ。これでお終いってこと。
『うん、また明日。おやすみ』
最後の「おやすみ」は入れるかどうか迷った末に入れた。でも、入力した文字にはためらいは表れない。文字の上では俺は決断力のあるしっかり者かも。
――今日はふたりから感謝されちゃったなあ……。
礼央もしぃちゃんも“俺のおかげ”だと言ってくれた。
大切に思う相手の役に立てたことが純粋に嬉しい。俺がふたりからいろいろなことを学んだりもらったりしているように、俺からもふたりに何かを提供できているということが、少しずつ心の中に積み重なって俺という存在を確かなものにしてくれる。
――そうだ……。
ずっと、俺は存在感の薄い自分に合わせて、自分が思う自分も削ってきた。それは、他人に忘れられていても傷つかないようにするため。仕方ないよ、とあきらめやすくするため。
けれど、今は違う気がしている。
自分を削ってきたのは、いろいろな良いものを吸収するためだったのかも知れない――と。
礼央やしぃちゃんや、諒からも、いろんな思いや言葉をもらって、自分が編み上げられていくような、そんな気がする。宮本武蔵の本や、嬉しそうに本を紹介してくれる雪見さんからも。
これから俺にどんな出会いがあって、どんな俺が出来上がっていくのか……。
想像するとわくわくする。
次の日、朝練から教室に行く途中、一年生部員二人が俺の名を呼んで追いかけてきた。しぃちゃんの様子を確認するために早く教室に行きたかったけれど、真剣な顔のふたりを見たら「あとで」とは言えない。
礼央は気を利かせて先に教室に行った。ところが、なかなか言い出せない様子のまま時間が過ぎていく。いったいどれほど重い相談なのか、いやそれよりも、これではしぃちゃんどころか遅刻になってしまうかもと不安になってきたころ、やっと伝えられたのは、
「高砂先輩は僕たちの何が気に入らないんでしょう?」
だった。一年生全員が同じように不安を感じていて、このふたりが代表で話に来たという。
なるほど、高砂は部活中は不機嫌に見える。太い眉とぎょろりとした目が迫力があるし、男だけのときには笑わないからだ。だけど、べつに怒っているわけじゃない。ただ、顔が怖くて真面目なだけだ。高砂から一年生に対する不満を聞いたこともないし。
難しい相談じゃなくてよかったとほっと――というよりも脱力――しながら説明すると、尚も一年生は食い下がった。彼らのクラスの女子が高砂のことを「面白い先輩」と言ったと。なのに、入部して一か月、ほぼ毎日顔を合わせている自分たちはまだ親しく話したことも、笑顔を見たこともない。それは自分たちが嫌われているからではないか?
――高砂め。
女子の前でだけ態度が変わるなどと説明したら、高砂の人間性に問題があるように思われそうだ。先輩としての威厳にも関わるだろうし。こういうとき、礼央が一緒にいてくれたらフォローしてもらえるのに。
とりあえず、高砂は俺たちにも笑顔は滅多に見せないのだと話して納得してもらうしかない。笑顔は女子のために温存しているとは後輩には言えない。歯切れの悪い説明に疑惑の表情を向けながらも、ふたりは一応了承して戻って行った。
なんだか疲れた気分で教室に着くとちょうどチャイムが鳴り、しぃちゃんに「おはよう」を言う暇もなかった。
休み時間に理科室へと移動しながら礼央に一年生の相談の内容を話すと景気よく笑ってくれた。そして「たいへんだったねえ」と労ってくれた。
「でも、景だから相談しに来れたんだと思うよ。ツッキーはバレーにストイックなところがあるから、バレー以外の相談はしづらいよね」
ツッキーというのはうちのエースで部長の津久井のことだ。礼央が言うとおり、バレーボールに文字どおり青春をかけている津久井には、同学年の俺でも同じレベルで話すことに気後れを感じることがある。同じくバレーに熱心でも少し抜けたところのある高砂とは違うのだ。礼央は持ち前の人懐こさで「ツッキー」なんてニックネームを付けてしまったけれど。
「高砂に、一年生ともう少し話すように言ったほうがいいかなあ?」
考えながらつぶやくと、礼央は「そこまでしなくてもいいんじゃない?」と明るく答えてくれた。
「俺たちが高砂を適当にコントロールしようよ。そのうち、一年生にも分かると思うよ。それにしても、高砂を面白いって言った一年の女子って、あの図書委員の子たちかなあ? ほら、電車で会ったって話したよね?」
「あ! 今朝のふたりって何組だっけ? そういえば1組だったような……」
その可能性が高い。どうもあの図書委員の一年生コンビは俺の日常に小さな波を立てるめぐり合わせのようだ。
ため息をつきながら、胸の中ではほっとしていた。礼央が今回の件について一緒にフォローしてくれると分かったから。持つべきものは礼央のような友だちだ!
一つ事件が片付いて、やっとしぃちゃんと話せる――と思ったら、次の休み時間に声をかけてきた田原理久。後ろに半分隠れるように大和若葉の姿が。九重祭の劇担当の組み合わせに、嫌な予感が一気に膨れあがる。
「景と礼央も劇に出てほしいんだよ」
見事に予感的中だった。よろけそうになって、礼央の肩につかまった。
「ほら、主役のふたり、引き受けてくれたけど、大鷹はちょっと困ってただろ? だから今度は事前に伝えた方がいいってことになって」
「それ、断っても……?」
「断るのはなしにしてほしい」
理久がきっぱりと言った。
「希望を聞いてるときりがないし、大和がそれぞれのイメージでシナリオ書いてくれてるんだ。それに、相模と大鷹は断れない状況で引き受けてくれたわけだからね」
「うん、そうだね」
礼央が返事をしてくれた。それを胸の中で繰り返す。うん、そうだ。あそこで断るわけにはいかなかった。そのとおり。
「俺たち、どんな役?」
動揺が収まらない俺のために礼央が尋ねる。そうだ。役が大事だ。もしかしたらナレーションとか――。
「染井くんは呂海雄の友人で、鵜之崎くんは珠璃のお父さん」
半分隠れていた大和が前に出てきてきっぱりと言った。メガネ越しの瞳の真剣さに、思わず体を引いてしまう。でも、お父さん……?
「染井くんの役は呂海雄を悪ふざけに誘ったりするお金持ちの友だちなの。医学生で勉強ばっかりしてる呂海雄を遊びに連れ出して、そこで珠璃と会うの」
なるほど。それは礼央向きの役だ。でも……。
「鵜之崎くんは厳格なお父さん。明治維新のあと商売を始めた元武士の家を継いでいるけれど、商売は上手くいっていなくて、家を守るために娘を羽振りのいい家に嫁がせたいと思ってるの」
「ひでぇ父親……」
俺の役はそれか……。
俺、そんなキャラに見られていたのか……。しかもおじさんだし……。
「あ、あの、べつに鵜之崎くんがこういうひとだと思ってるわけじゃないよ? これは誰かがやらなくちゃいけなくて、鵜之崎くんの背の高さなら厳格なお父さんの雰囲気でるなあって」
「劇だからさあ、いい役も悪役もあるんだよ。見る方も分かって見てるわけだから、嫌なキャラクターを演じても、本人がそうだなんて誰も思わないよ」
大和と理久の説明が単なる言い訳にしか聞こえない。頭では理解しているけれど、最初に「イメージでシナリオを書いている」と言ったじゃないか。それがどうしても引っかかってしまう。
「分かってる」
納得しきれていなくても、笑ってこう言うしかない。ここで俺がゴネたら、頑張っているこのふたりがかわいそうだ。でも、舞台に上がる覚悟は簡単にはできなくて、「大丈夫」も「頑張るよ」も言えなかった。
次のターゲットに向かうふたりを見送りながら、礼央にとりあえず宣言してみる。
「俺、『ロミオとジュリエット』を読んでみる」
「ああ、それいいかもね」
うなずいた礼央が笑いをこらえているのを感じる。だから思い切って。
「礼央ぉ、俺、おっさんっぽいかなあ……?」
「えぇ? 景、何言ってんの?」
驚き方がわざとらしい。でも、それも俺を笑わせるためだ。
「景のどこがおっさんだって? 顔かな? いや、皺ないし。髪には……白髪なし。もしかして加齢臭とか?」
「うわ、それはダメだ。それはないから! 絶対ない!」
「あははは、当然だよ。十代は臭くても加齢臭って言わないもんね」
「え、俺、臭い? 汗臭い? スプレー使ってるけど」
急いで自分のシャツの匂いを嗅いでみる。でも、よく分からない。しぃちゃんに臭いなんて思われたら困るのに!
「大丈夫。一緒にいて、今まで気になったことないよ」
落ち着いた礼央の答えに、とりあえず気分が静まった。まあ、焦ってもすぐにどうにかなるものでもない。
「俺は、劇に出るのは面白そうだなって思ってるよ」
礼央がにやりと俺を見る。
「ま、俺はおっさん役じゃないけどね」
「だよなあ?」
でも、だいぶ受け入れられそうな気分になってきた。よく考えると、別な人間になるのは面白いかも知れないし、礼央やしぃちゃんと一緒に練習するのも楽しいだろう。劇に出るなんて、俺の人生で一度きりのことだろうし。
「シナリオ書くのって大変だろうなあ」
受け入れられそうだと感じたら、大和の仕事に思い至った。セリフに個々のキャラクターの性格を出す必要があるだろうから、モデルがいた方が書きやすいというのはそのとおりなのだろう。
――いや、だけど……。
だからって、俺をおじさん役に当てはめようと思われたショックはやっぱりあるわけで。大和は俺の背の高さのことだけしか言わなかったけれど。どうしても出なくちゃならないのなら、もう少し若い役がよかったな……。
「景ちゃんも劇に出るんだってね?」
昼休みに『ロミオとジュリエット』を借りて教室に戻るとしぃちゃんが駆け寄ってきて言った。
「あ、うん」
礼央がこっそり笑いながら俺から離れて行く。遠くから見守ってくれるつもりらしい。
「あたしのお父さんの役なんだって?」
「うん……、そうらしいよ」
「面白いね。どんなお父さんになるんだろう? ね?」
「そう……だね」
「厳しいっていう設定だから、あたしのこと怒るのかな? 大きな声で」
なんだか想像と違う。しぃちゃんは楽しそうだ。ちょっとはしゃいでいるようにも見えるけど……?
「景ちゃん、もっと胸を張らないと! 元武士の家系なんだから」
「え? え? こんな感じ?」
「そうそう」
点検するように眺められて、どんな顔をしたらいいのか困ってしまう。
「あのね、楽しんでやろうね」
その口調にはっとした。彼女の表情は静かで、向けられた瞳はやさしげで……。
「嫌だって思ったままじゃもったいないって思ったんだ。最初はショックで、いちごと景ちゃんに心配かけちゃったけど」
そうだ。主役の彼女は俺よりももっと大きなショックだったはずだ。
「今はだんだんキャストが決まってきて落ち着いてきた。一人じゃないって分かったから」
そこでちらりと俺を見た表情が――。
「景ちゃんもいるし」
自分が特別だと思ってしまいそうだ……。
「あ……、これを読んでみようと思って」
後ろポケットから借りてきた文庫本を取り出す。
「なに? あ、『ロミオとジュリエット』! すごい。えらい」
彼女が目を丸くした。
「いや、まあ、原作を知りたいと思って……」
「原作って戯曲でしょう? じゃあ、中は」
「うん。セリフになってる」
実はこんな本があるとは思っていなかったのだ。雪見さんに見せられてびっくりした。
「景ちゃん、やっぱり真面目」
笑われてしまったけれど、しぃちゃんの笑顔を見ると、心がリラックスして大きく翼が広がるような気がする。これも彼女の魔法の効果だ。
彼女に礼央たちと出かける話を確認しなかったことを思い出したのは、ベッドに入ってからだった。でも、礼央から中止の連絡もないし、きっとしぃちゃんもOKなのだろう。