あやかし色屋の色帳簿



 ある日突然この世界の猫がお喋りを始めた。それを皮切りにこの世界には今までにいなかったはずの生き物が現れた。例えば手のひらサイズの小さな人間、例えば足の生えた壺、例えば目が三つある犬、例えば尻尾が四つある狐、例えば川で悠然と泳ぐ河童。例えば空を飛ぶ天狗。

 一瞬にしてこんなにも大きく世界が変わったというのに親や友人は何も言わないし、テレビや新聞、そういうネタが大好きそうなネットですらそのことを報じないし触れもしない。そんなことがあるだろうか。

 どうやら周りの反応を見るに、変なものが見えているのは私だけらしい。そこで私は思った。変わったのは世界ではなく私の方なのではないだろうかと。

 そう思うとやはり自分の体が心配になって病院に行くことにした。最初はかかりつけの町医者に。先生におかしなものが見えるし聞こえるという症状をありのまま話すと、大きな病院で検査したほうがいいと言われて紹介状を出された。

 その紹介状を持って向かったのはこの辺りでは一番大きくて設備が整っている病院だ。その病院で目の検査をして耳の検査をして血の検査をして脳の検査をして、とりあえず他にも色々体の隅々まで調べてもらった。

 だけど先生はこう言った。「どこも異常はありませんね」と。私はこれだけ調べてもらったのだから「そうですか」と言うしかなかった。神妙な面持ちで私と私のカルテを見つめる先生の頭にはなぜかずっとヒヨコが乗っていたけど。ぬいぐるみ。趣味だろうか。場の空気を和ませるためとか。


「ですが先生、こうなったきっかけはあったように思うんです。最初に私の前でお喋りを始めた猫です」

「猫ですか」

「はい、猫です。一週間前、怪我をした猫が木の上から降りられなくなってるのを見つけたので助けてあげようと手を伸ばしたら、腕を思い切り引っ掻かれてしまって。そうしたら猫が私を見て『すまない人の子よ!うっかり引っ掻いてしまった!許せ!私は早く行かねばならんのだ!』って喋ったんです。いやこれうっかりってレベルの傷じゃないんだけどと思っているうちにその猫はどこかに行ってしまって、その日から変な生き物を見るようになったんです」

「猫に引っ掻かれて傷から何かに感染したのだとしてもそんな症状は聞いたことがないですね」

「お前、そりゃあ見鬼の儀をしちまったなぁ」

「えっ」


 今何か妙な言葉が聞こえたような。声がしたのは先生からではなくその後ろにいる看護師さんからでもなく、先生の頭の上。喋ったのはずっと黙ってぬいぐるみよろしくしていたヒヨコだった。


「今、なんて」

「ですから猫に引っ掻かれて傷から」

「先生違います!そのヒヨコ!今何て!?」

「わしはヒヨコではない。雀だ」

「雀?黄色い雀なんている?」

「わしは特別なのだ」

「まぁヒヨコでも雀でも何でもいいんだけど、それよりさっき何て言ったの!?」

「山岡さん」

「だからお前はその猫と見鬼(けんき)の儀をしちまったんだよ」

「何?見鬼の儀?」

「あやかしを見えるようにするための儀式さ」

「そんな儀式した覚えないんだけど!?」

「山岡早苗さん!!」

「え!は、はい!」


 先生が勢いよく立ち上がった衝撃でヒヨコは床にぽてっと落ちてしまった。鳥なのに飛ばないのか。あ、そういえばニワトリは飛べないんだった。


「紹介状を書きますので今すぐそこで診察を受けてください。いいですね。今すぐにです」

「え、あ、はぁ」


 うっかり余計なことを考えている間に診察室を追い出されてしまった。セカンドオピニオン、いやサードオピニオン?もっと精密検査を受けろと言うことだろうかと思って渡された封筒を見ると、精神科宛だった。なるほど、確かに体に異常がないと分かれば次は心の病気じゃないかと疑うのが普通だ。私だって今この手がかり(・・・・)がなければ、藁にも縋る思いで精神科に駆け込んでいたかもしれない。


「おい、どうしてわしを連れてきた」


 病院を出ると、私の鞄の中からヒヨコが不満そうに顔を出した。診察室を追い出される寸前に床に落ちたままのヒヨコを拾って鞄に入れて持って出てきたのだ。それにしても可愛い見た目とは裏腹に低音のダンディーボイスだ。


「だって出来るなら自分の心を疑いたくないじゃない。あれもこれも全部私の頭の中の妄想だなんてそんなの嫌でしょ。あなたがそうならないための唯一の手がかりなのよ」

「わしはこの病院の守り神だぞ」

「え、そんなにすごいヒヨコなの?」

「雀と言っておる」

「そっか神様なんだ。私神様まで見えるようになったのか。あ、だけどそれだと連れ出すとまずい?私の身に何が起きたのか聞きたかっただけなんだけどどうしよう、戻った方がいい?」

「ふん、まぁ仕方ない。少しくらいなら許してやろう。わしは思慮深く縁を大事にするからな」

「ありがとう」


 本当に思慮深い人は自分のことを思慮深いとは言わないだろうけど。





 ふと周りの人間の視線が妙に突き刺さるのを感じた。やはり周りにはこのヒヨコの姿は見えないし声も聞こえていないらしい。とすれば周りから見れば私は大声で独り言を言っている怪しい人間だ。奇妙な生き物が見えるようになってからその奇妙な生き物とまともに会話をするのは初めてで、すっかりそのことを失念していた。

 どこか人気のない所に場所を変えようと思ったけど、通りすがりにでもこんな場面を見られたら不審者扱いは免れない。私は少し考えて鞄の中を探り、スマホを取り出し耳に当てた。


「何だ、何をしている」

「人間は見えないものと話をしているとおかしく思われるの。それこそ精神科を紹介されるくらいにはね。まぁ勝手におかしく思われるくらいならいいんだけど通報とかされると困るし。これだと電話相手と話してるみたいでいいでしょ?」

「ふん、まぁわしらが見える人間なんて滅多といないからなぁ」


 そう言うとヒヨコは鞄からバサッと羽ばたいて私の肩にとまった。可愛い。


「あ、飛べるんだ」

「飛べるに決まってる」

「さっきは飛ばなかったじゃない」

「飛ぶか飛ばないかはわしが決めることだ」


 よく分からないけど鳥なりの矜持みたいなものだろうか。まさか鳥の矜持について考えることになるなんてと苦笑しながら、私は近くにあったベンチに腰かけた。


「それで、さっきの話の続きなんだけどそもそもあなた達って何?神様って言ってたけど本当?」

「嬢ちゃんが見たという手のひらサイズの小さな人間やら足の生えた壺やら目が三つある犬やら、あとなんだったか」

「尻尾が四つある狐と川で泳ぐ河童と空を飛ぶ天狗」

「それらは全てあやかしと呼ばれるものさ」


 河童と天狗を見た時点でなんとなくそんなような気がしていたけど実際にそうだと言われると不思議だ。今まで十九年間生きてきてオカルト系の話しは信じてこなかった。神様とかはいそうだなというか、困ったときの神頼みくらいには存在を信じてはいたけど。


「あやかしと妖怪は別物?」

「同じだ」

「じゃああやかしと神様は別?」

「同じようなものだ」

「ようなもの?つまり厳密には違うの?」

八百万(やおよろず)の神と言うだろう。神にもいろいろいるが元々は全てあやかし。人間に崇められ神になったあやかしもいれば、長い間生きて神になったあやかしもいるし勝手に神を名乗るあやかしもいる」

「ヒヨコさん、それってヒヨコさんも自称神様ってこと?」

「失礼な。わしは自称も他称も神だ」


 なるほど分かった。このあやかし(自称神)は悪いあやかしではなさそうだけど少し胡散臭い。大体、風貌からして全く神様ぽくないのだ。神様がどんな風貌かと問われればもちろん正確なところは知らないけど。


「それよりヒヨコさんって何だ」

「もちろんあなたの名前」

「わしの名前はそんなけったいなものじゃない」

「じゃあ名前教えてくれる?あ、私は山岡早苗。よろしくね」

「ふん、高貴な神の名をおいそれと知れると思うなよ」


 風貌が可愛すぎて高貴さが微塵も感じられないのだけど、それを言うとなんとなく傷つけそうなのでやめておこう。


「じゃあやっぱりヒヨコさんで」

「せめて雀さんだろう!」


 だがやはりヒヨコみのほうが強いのだ。


「ほら、ヒヨコのほうが呼びやすいし」

「……」

「嫌?」

「……」

「ヒヨコさんがその呼び方嫌だったらやめる」

「…………まぁいい。わしは心が広いからな」


 と言いつつ今相当葛藤があったような。やぶ蛇になりそうだし触れないでおこう。


「じゃあ無事呼び名も決まったところで、見鬼の儀とやらの解説お願いします」


 ヒヨコさん曰くあやかしが見える力のことを見鬼の才、そして見えない人間があやかしを見えるようにするための儀式のことを見鬼の儀と言う。見鬼の儀に必要なのは力が強いあやかしの血と自分の血。その儀式は互いの血を一滴ずつ交換することによって成立するんだとか。もちろん私はそんなことをした記憶はない。だけどもしやという心当たりならある。


「つまりお前を引っ掻いた猫はあやかしだったんだよ」

「引っ掻かれたときにお互いの血が体に入ったってこと!?確かに向こうも怪我してたけど……でもそれって儀式でもなんでもなくただの事故じゃない」

「そう言っても実際にこうなってしまっているんだから仕方ないだろう」

「でもそれだと矛盾してない?だってその猫のことは引っ掻かれる前から見えてたんだよ?」

「力の強いあやかしは稀に見鬼の才を持たない人間にも見えることがある」

「あんまり力が強いようには見えなかったんだけど。どちらかというと普通に可愛かったし。白い毛と紫の目だったんだよなぁ。珍しいなって思ったけどあやかしだったんだ」

「見た目と力の強さは必ずしも一致しないものだ」

「そうなんだ」


 人間だと顔つきとか体格とかでなんとなく察しがつくときもある。そんな感じで一致してくれたほうが分かりやすいし警戒しやすかったのに。





「ねぇヒヨコさん、あやかしを見えるようにする方法は分かったんだけど、見えなくする方法はないの?」

「見えなくなりたいのか?」

「まぁ出来ることなら」

「その方がいいだろうな。見える人間は狙われやすい。そういう人間を食おうとするあやかしはいるからな」

「え、あやかしって人間食べるの!?」

「色々だ。食べるやつもいる」


 この一週間いろいろなあやかしを見てきたけど、その中に襲ってくるようなあやかしはいなかった。遠くの方から見ていただけだったから良かったのだろうか。それとも幸運だっただけだろうか。もしその時まかり間違って話しかけでもしていたら今頃私はこの世にはいなかったのかもしれない。


「ねぇ、ヒヨコさんは食べないよね……?」


 もしその可愛い風貌で人間を食べるなんてことになったらとんだ裏切りだ。許せない。ヒヨコさんは私が少し怯えているのが面白かったのかチチチと笑った。あ、ダメだ笑い方が可愛い。可愛すぎる。笑い方は完全に雀のそれだ。ヒヨコなんて言ってごめん。

 そんな私の心の声を知らないヒヨコさんは私がずっと怯えていると思ったのか溜めに溜めてから「わしは食べない。良かったなぁ」と告げた。リアクションを期待されていそうだから大袈裟に安堵してみると実に満足げだった。鳥に表情があるなんて知らなかった。あやかしだから分かりやすいだけだろうか。

 どうしよう私、今まで猫派だったんだけどこれを機に鳥派に変わりそうだ。


「残念だが一度見鬼の儀を行うとそれを取り消すことは出来ないと聞く」

「そっか、そうなんだ」

「何だ、もっと落ち込むと思ったが」

「まぁ今のところ襲われたこともないし見えるくらいで特に不便は感じないしね。病院の検査で体は正常って分かったし、見えないようにする方法がないならこのままでも良しとしておくよ」


 どうにもならないと分かっていることを嘆いたり憂いたりするくらいならその時間を他のことに充てたほうがよっぽど充実するし健全でいられる。そう思えるばかりでもないけど。


「話聞かせてくれてありがとう。連れ出しちゃってごめんね。病院戻るでしょ?」

「ふん、今日一日だけお前があやかしに襲われないように見張っててやろう。なにしろわしは縁を大事にする神だからな」

「ありがとう。でも大丈夫だよ。危ない場所にはいかないしちゃんと見えないフリもできるから」

「なんだ、わしだと力不足だとでも?」

「そうじゃないんだけど」


 なにより病院の守り神だと自称されているのに長時間不在にさせてしまうのは病院に何かあったときの罪悪感がすごそうなので嫌だ。


「私、この後バイトの初出勤なの」

「バイト?」

「そう、アルバイト。神様連れて出勤するわけにいかないしね」

「よし。ならばそのバイト先に危ないあやかしがいないか見てやろう!」


 あれ、断り文句だったはずなのに俄然やる気にさせてしまった。


「ねぇ病院、ほんとに戻らなくて大丈夫なの?バイト先ちょっとここから遠いよ?」

「さぁ早苗、早くバイト先とやらに連れていけ」


 ヒヨコさんはばさりと羽ばたき、私の肩から頭に移動した。全然話を聞いていない。まぁだけど本人がいいというのだからいいか。

 腕時計を確認すると時刻は午前十一時過ぎ。店長に指定された時間までまだ時間はあるけど場所が分からなかったときのために少し早めに行っておこうか。

 見える人が見たら奇妙な光景だろうなと思いつつヒヨコさんを頭に乗せたままバイト先に向かうことにした。私が一人暮らしをしているアパートからさっきの病院まではバスで二十分程。バイト先はアパートに近い場所を選んだからその方面まで戻らなければならない。周りには見えていないと分かっているけどヒヨコ(雀)を頭に乗せてバスに乗るのは初めてのことなのでわりと緊張した。ヒヨコさんもヒヨコさんでお構い無しに話しかけてくるものだからうっかり返事してしまいそうになって何度も慌てた。歩いているときもバスに乗っているときも通話の振りは出来ないのだからぜひとも自重してほしい。

 近くのバス停で降りてそこからは徒歩で向かう。スマホのナビを確認しながら商店街を抜け、駅の方に向かった。雑居ビルが立ち並ぶ駅前通り。平日の昼間だからか仕事中だったり昼休みのランチに並んでいる人たちがたくさんいる。ちなみに人だかりから少し目を離すと、あやかしのような生き物もいた。見ない振りをしたけど、向こうからはきっと私の頭の上のヒヨコさんは見えていることだろう。二度見されていた。あやかしにも驚かれるってどうなの。

 普段ならこの時間は大学の講義を受けているけど、今日は病院に行きたかったのとバイト先の店長に来られるならきてほしいと言われて講義をとっていないから大学は丸一日休みだ。

 雑居ビルの間、細い路地を通り抜ける。大通りから外れると人通りはなく街の喧騒は遠い。私はそこでスマホ片手に足を止めた。


「あれ、この辺りのはずなんだけど……」


 スマホのナビを使って住所を打ち込み現在地と照らし合わせて確認してみる。だけど合っている。この辺りに店があるはずなんだけど。




「なんだ、店の場所も知らないのか」

「実際に行くのは初めてなの。住所は分かってるんだけど」


 見渡しても人の気配はないので答えることにする。

 なぜ実際に行ったことがないのかと言うと、アルバイト募集の求人広告がうちの近所のスーパーに貼られていて、面接をお願いするためにそこに電話をかけたらなぜか電話で即採用されてしまったからだ。

 店の名前は「十五夜堂」。ちょっと古めかしい古風な感じの響きがいいなと思った。求人広告には仕事内容は雑務としか記されていなかったけど店の名前から考えるにきっと雑貨屋か喫茶店か、変化球だと古本屋とかだろうと踏んでいる。ネットで店の名前を調べても出てこなかったからめちゃくちゃ古いタイプの店か最近できたばかりの店かのどちらかだろう。

 それにしても電話で即採用。さすがにちょっと大丈夫なのだろうかと思ったけど、店長さんの電話対応も良かったし時給はこの辺りにしては良い方だったしで断る理由はなかった。即採用に驚きながらも働く旨を伝えると、店長さんは「急に人員が必要になってしまってすぐにでも来てほしいから助かる」と話してくれた。もし働いてみて合わなければそのときにまた続けるか辞めるかを考えれば良い。それに私も早く次のバイト先を見つけなければいけなかったので即採用はありがたいといえばありがたかった。

 どうしてそんなに焦ってバイトを探していたのかというと、元々バイトをしていた喫茶店の店長のお母さんが病気で介護が必要になってしまい、ばたばたするからとしばらくお店が閉まることになったのだ。しばらくといっても再開はいつになるか分からないと言われ、仕方なく他のバイトを探すことにした。大学の学費のこともあるし普段の生活費のこともあるし、実家からの仕送りだけではなかなかやっていけないのが現状だ。


「通りすぎたとかかな。ちょっと戻ってみようか」


 かなり分かりにくい場所にあるのかもしれない。早めに来ておいて良かった。初日から遅刻なんて洒落にならない。

 そのときヒヨコさんが私の頭から飛んだ。


「早苗、この辺りはあやかしが出るかもしれんぞ。気を付けろ」

「え、そうなの?そういう感じ?」

「他の場所より常世(とこよ)の気配が濃い」

「常世?」

「あやかしの棲む世界のことだ」

「あやかしの国ってこと?」

「そうだ。まぁ人間の嬢ちゃんが迷いこむことなどそうないだろうが、少し見てきてやるから待ってろ」

「ありがとう」


 そこからヒヨコさんは高く飛んでいき、見えなくなった。自称神は見た目に反して意外と世話焼きだ。

 そうしてヒヨコさんが戻ってくるのを待っていると、ふとこの先の路地の奥に開けた場所があるのが見えた。突き当たりかと思ったけどどうやらそこにはまだ先がある。あの辺りはまだ探していないしもしかしたら店があるかもしれないと私はヒヨコさんの忠告を忘れてそのまま真っ直ぐ進んだ。途中、人一人が通れるくらいの小さな鳥居があり、なんの疑問も抵抗もなくそれをくぐり抜けた──瞬間。世界が変わった。

 そこは青々とした竹林だった。振り向くと鳥居の向こうは雑居ビルの路地。鳥居を挟んであまりにも世界が違っていた。


「すごい……この町にこんな場所があったなんて」


 手入れをされているようで、ただ生い茂っているわけではなく歩くための石畳の道もある。竹の緑の隙間から太陽の光が細々と差し込んでくる光景は思わず足を止めてしまうほどに浮世離れした美しさだ。もしかして私有地だったりするだろうか。勝手に入り込んではいけない場所かもしれない。

 一度戻ろうとしたとき、石畳が続く道の奥に先に開けた場所がありそこかなひっそりと佇む建物が見えた。看板のようなものがあるけどここからだと何が書いてあるかは読めない。

 それだけ確認してみようと竹林を進むとそこにあったのは少しばかり古めかしい木造瓦葺きの二階建て建物。屋根に掲げられた木の看板には「十五夜堂」と記されていた。あった。ここだ。まさかこんなところに建っているなんて見つけられないはずだ。知る人ぞ知ると言ったようなニッチなお店だったりするのだろうか。

 店には看板の他に大きな白い暖簾が下がっていてそこには黒い文字で「色」とだけ書かれている。色、どういう意味だろう。店に関連する文字で間違いないのだろうけど、一体何のお店だろう。文字をそのまま当てはめるとすると「色屋」ということになるけど。

 そのとき晴天の空からヒヨコさんが勢い良く私の元に飛んできた。


「おい早苗!!」

「あ、ヒヨコさん。ねぇ見てこんなところにお店が」

「すぐに戻るぞ!ここは常世だ!」

「え?」

「人間が簡単に迷いこむはずないのだが、見鬼の才のせいかもしれん」

「常世って、あやかしが棲む世界って言ってた場所?ここが?」

「そうだ。だから早く現世(うつしよ)に戻るぞ」


 実に浮世離れした美しさだとは思ったけど、まさか本当に違う世界だったなんて。妖怪の棲む世界なんていうからもっと薄暗くておどろおどろしい場所だと思っていた。




 だけど戻ろうと言われても一つ大きな問題がある。


「ねぇヒヨコさん、私のバイト先ここみたいなんだけど……」

「は!?ここがか!?」

「そう十五夜堂。看板に書いてあるし間違いないと思う。ちょっとお店の人に声かけてみる」

「正気か!?常世にあるということはあやかしの店だぞ!?」

「どうして常世の店の求人広告が私の家の近くのスーパーにあったんだろ。まさかの採用されちゃったし」

「まさか働くなんて言わないだろうな」

「それはさすがにないかな。ただ、断るにしてもちゃんと理由は話すべきじゃない?それに電話で店長さんすごく困ってる感じだったんだよね。初日から私が辞めちゃったらきっと困らせるかも。せめて次の子が見つかるまで」

「どうなっても知らんぞ。店にいるのが人間を食うあやかしだったらどうする」

「そのときは走って逃げるよ」

「……人間は妙なところで度胸がある」


 ヒヨコさんは複雑そうな顔をしながらそう呟き、私の肩にとまった。それはこのたった数時間で私にとってすっかりお馴染みで安心感のある重みに変わっていた。


「ついてきてくれるの?」

「今日一日あやかしに襲われないように見張ってやると言った」

「律儀だね。ありがとう。本当はちょっと緊張してるんだけどヒヨコさんがついていてくれると思うと安心できるよ」

「ふん、わしは思慮深く高貴だからな」

「うん、そうだね」


 ヒヨコさんが尾を揺らす姿が可愛くて、思わず笑ってその小さな頭を人差し指で撫でると。


「かーっ!神を気安く撫でるな!」

「あ、ごめん嫌だった?もうしないから。本当にごめんね。許して」


 確かにペットのように撫でるなんていけなかった。だけど可愛くてつい。肩を落として謝る私にヒヨコさんは今度は慌てたようにチチチと鳴いた。


「べ、別にそこまでに反省せずともよい」


 そう言って少しあたふたする姿はごめんやっぱり可愛い。最初に少し胡散臭いとか思ってごめん。


「今後気を付けるね。よし、じゃあ中に入ってみ」


 ──バシャッ


 次から次へと何かが起こる。突然頭上から滝のように落ちてきた大量の水のせいで私とヒヨコさんはびしょ濡れだった。今のは明らかに雨じゃない。見上げると店の二階の窓から身を乗りだして木桶を構えた男がいた。十中八九この男に水をかけられたのだ。

 男はまるで喪服のような真っ黒な着物に、同じく真っ黒の細長い布を巻いてなぜか両目を隠している。両目を隠しているはずなのに男はまるで見えているかのようにこちらを見下ろしていた。


「借金は全額返したはずだ!これ以上つきまとうならこっちにだって考えが……あれ、お前さんたち誰だ?」


 男はそう言って心底不思議そうに首を傾げる。私は額にペタリと張り付いた前髪を分け、目を細めながらこう返した。


「その前に、とりあえず何か拭くものをいただけないでしょうか……」




 *



「本当に悪かった!店の外が騒がしくて、時間的にアルバイトの奴はまだだろうから借金取りが来たのかと思ったんだ」


 彼は何度も頭を下げて謝罪をしてくれた。いきなり水をぶっかけるなんてどうかしているとしか思えないけど、その後の対応を見る限り電話で受けた印象と変わらず悪い印象は受けない。言葉遣いは荒いところもあるけど対応は紳士的と言ってもいい。とりあえずどんなあやかしか分からないけど、会っていきなりガブリじゃなかったから良かった。ちゃんと話せそうだ。

 濡れ鼠ならぬ濡れ雀になってしまったヒヨコさんをタオルで拭いてあげると身震いをしていた。濡れたのがショックだったのがさっきから全然喋らない。鳥って水浴びをするとは聞いたことがあるけど、こんなにびしょ濡れになってしまって大丈夫なのだろうか。まだ確認できていないけどポケットの中の私のスマホはお亡くなりになっているかもしれない。防水機能ついてたっけなぁ。私の前髪から水がしたたり落ちるとヒヨコさんの頭に当たって、ヒヨコさんはもう一度ぷるぷると身震いした。


「いえ、店の外でうるさくしていた私たちも悪いので」


 店の中を見渡す。木目調の床と壁に、手前にはカウンターがあり一見すれば喫茶店のようにも見える。足元にはいくつも行灯(あんどん)が並んでいて、雰囲気があってとてもオシャレだ。だけどそれら全てを台無しにするほどの、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ。この有り様、到底客を呼ぶ店とは思えない。片付け下手というよりそもそも片付けようという気持ちの欠片さえ感じない。


「ですがお客さんだとは思わなかったんですか?今って営業時間ですよね?」

「ああ、お客ね。最後に客が来たのいつだったかな……」


 目隠しの向こうで遥か遠い目をしていそうだ。記憶を遡れないほど客が来ない店というのは相当だし、借金取りに取り立てられていたというのも相当だ。この店大丈夫なのだろうか。そもそもどういうお店なのだろう。喫茶店のように見えるけど、喫茶店でバイトをしたことがある身とすれば違う。普通お店なら中に入れば商品なりなんなりがあるはずなのに、ここには何屋なのか連想できるものが一切ないのだ。





「あの、ここって何のお店なんですか?」

「暖簾に書いてあっただろ。ここは色屋、色を売る店だよ」

「色を売る店……?」


 当然のように言われたけど聞いたことのない店だ。色、色、色。色を売る──数秒その意味を考えてから私はハッとした。確か色を売るというのは春を売るとかと同じような意味で、体を売るという意味だ。つまり。


「……」

「何?」

「……その、あなたが、売るんですか?」

「こんな小さな店に俺以外に働き手なんていないからな」

「そ、そうですか」


 あやかしの間でもそういう店があるのか。しかも見た目だけで決めつけるならこのあやかしは男性。つまり男性が女性に、いやまさか男性が男性に。それともあやかしにはそういうくくりはないのだろうか。

 私はなんとなく視線を反らしつつ、チラリと少しだけ彼を盗み見る。年齢は二十代後半、いや三十代前半辺りだろうか。あやかしなら見た目の年齢はあてにならないかもしれないけど。

 見た目は目隠しのせいでハッキリとは分からないけど顔立ちは綺麗そうだし、黒く短い髪を後ろで一つに結っていてこのゴミと共生しているとは思えないほど清潔感がある。そして鎖骨の辺りが少し色っぽいような。いやもうそうだと思うとそういう感じで見えてきてしまう。やめよう。これ以上深掘りしても得はない。


「まさか人間が来るなんて思わなかったが、特に何の問題もないし今日から働いてくれるんだよな?」

「人間でもできる仕事なんですか?」


 まさか色を売る店のバイトだとは思わなかったけど。どう考えても私には力不足の職種だ。そもそもほとんど客が来ていないような店にアルバイトが必要なんだろうか。電話では急に人員が必要になったと言っていたけど。


「できるさ。というか、ぶっちゃけお前さんはなにもしなくていい」

「なにもしなくていいとは」

「そのままの意味だが」

「求人には雑務と」

「ああ、雑務。なにもしなくていいからただそこにいてくれっていう仕事。もちろんちゃんと給料は払う。ここに来ている間は自由に過ごしてくれて良いし、万が一客が来ても全て俺が対応する。どうだ?」

「どうと言われましても」


 つまり何もせず店にいるだけで時給が発生すると?正直美味しい。美味しすぎる。美味しすぎて絶対に怪しいし何か裏がある。というか店長が客が来る可能性を〝万が一〟と表現力するのはいかがなものなのか。疑うような視線を向けてしまったからか、店長は頭を掻きながら気まずそうに口を開いた。


「あ、もしかして怪しんでる?」

「いや、あの、はい……人間社会では〝うまい話には裏がある〟という非常に的を射た格言がありまして」


 正直今のところ怪しい仕事というイメージしかない。


「分かった。正直に言うと実はこの店の店主に次の視察までに従業員を増やしておけって言われたんだよな。店主には逆らえないからさ」


 つまりこのあやかしは雇われ店長ということだろうか。


「厄介なのは次の視察がいつなのか分からないこと。今日かもしれないし来週かもしれないし来月かもしれない」

「つまり店長さん的には本当はアルバイトは必要ないけど、店主さんの要望でいれなければならないと」

「そういうこと」


 店長側の理由だけを考えれば分かりやすいけど、店主側から考えると途端にその理由は分からなくなる。


「ですがお客さんが少ないならアルバイトをいれると余計に経営が悪化するのでは?借金するくらい経営難なんですよね」

「借金は心配ない。もう返したから。それに経営難ではないよ。そこはうまく回してる」


 つまり客単価がとんでもなく高いということだろうか。確かにそういう(・・・・)店は値段が高いイメージはあるけどそこまでなのか。


「あのアルバイト募集の紙、あやかしにしか見えないんだよ。だからお前さんをあやかしだと思って採用したんだが、まぁ仕事をしてもらう気はないから俺としてはあやかしだろうが人間だろうがどっちでもいい。資格経験不問。条件はこの店に辿り着けることの一点のみ」

「あの、あやかしにしか見えないのならどうして私に見えたんでしょう」

「それはお前さんが見鬼の才を持っているからだろ」


 そういえば確かにあの広告を見たのは〝猫〟に引っ掻かれた後だ。


「……え、もしかして無理?辞める?」

「……」


 悩む私の沈黙を肯定と受け取ったのか店長は慌てた様子で私に詰め寄った。


「アルバイト募集を出してもう一月経つんだが電話してきたのお前さんだけなんだよ!頼む!お前さんに辞められると困るんだ。何か不満があるなら言っていい!俺が生理的に無理か!?拘束時間が長いか!?給料もっとあげてほしいか!?」

「いや、それらの不満はないんですが」

「やめておけ早苗。常世で働くということはあやかしの客が来るということだ。人間のお前さんには危ない場所だ」


 体が乾いたからかずっと黙っていたヒヨコさんがようやく喋りだした。だけどすぐに店長がそれを否定した。





「ここ常世じゃないぞ」

「常世じゃない?」

「ここは常世と現世の境目にある〝狭間(はざま)〟だから」

「狭間……だから早苗は容易く迷いこんでしまったのか」

「狭間って何?」


 ヒヨコさんに訊ねる。


「その名の通りあやかしの棲む常世と人間の住む現世(うつしよ)の境にある空間だ。常世よりも現世に近く、現世よりも常世に近い。その()のある人間が迷いこむこともしばしばあると聞く」

「そうだ。だからここにくる客はあやかし九割人間一割ってところだな」

「人間がここに色を買いに来るんですか?」

「見鬼の才を持つ人間なら来る」

「見える人って結構いるんですか?」

「お前さんの言う結構がどの程度を指しているか分からないが、多分お前さんが思っている以上にいると思うぞ。うちのお得意様にも人間がいたな。まぁそのお得意様も最後に来たのは半年も前だが。そういえばそのときに来月も来ると言っていたがそうか、死んだのかもしれないな……」


 いやそれ多分死んでないと思います、とは口が裂けてもいえない。

 それにしても今の話が本当なら偶然迷いこんだというわけでもなく意図してこちらに来ている人間がいるということ。私が知らないだけであやかしと人間の交流はあるところにはあるらしい。それでもあやかしや常世、この狭間の存在が明るみに出ていないということは皆見えることを隠して生きているのだろうか。見えない人間に話したところで信じてもらえるとも限らないけど。今までオカルトの類いを信じてこなかった私もこうして自分の身に体験しなければ信じられなかっただろう。


「狭間だからといってあやかしが来る以上は危険だ。やめておけ早苗」

「危ないあやかしは来ない。だいたいそんな危ないあやかしがわざわざ狭間にまで色を買いに来ると思うか?言っておくがここ立地最悪だぞ」


 立地が最悪だから客数も少ないのだろう。人間が客として来ているのならその辺りの言葉は信用できそうだけど、それでもヒヨコさんは頑なにだめだと言い続ける。


「分かった。もしそれでも怖いなら護り(・・)を施した部屋を用意しよう。護りがあればあやかしは入れない。もちろん俺も入れない。勤務中はその部屋に閉じ籠っていてくれていい!あ、店主が来たときだけは顔出してくれよ?」


 もはやなりふり構わずといった感じだ。そこまで言われてしまうと非常に断りにくい。うまい話の裏話の暴露もしてもらえたし、なによりやはりその他の条件が良すぎる。ただ一つ気になることはここが色を売る店だということ。いくらバイト中何をしてもいいと言われていても、自ずとそういう場面を見てしまうことになるのではないだろうか。それはちょっと、いやかなり複雑だ。私の心は働いてもいいかなという気持ちに傾きつつ、それでもまだ迷っていた。ヒヨコさんはまだ反対表明をしている。


「大体そいつはわしに水をかけた!わしは水が嫌いなんだ!わしを殺すつもりか!ろくなあやかしじゃないぞ!」

「夜雀が水を被ったくらいで死ぬはずないだろ。心臓二つも持ってるくせに」

「え!ヒヨコさん心臓二つもあるの!?」

「ヒヨコ?」


 彼は私の発言を繰り返してきょとんとしてから吹き出すようにして笑った。


「夜雀をヒヨコって呼んでるのか?傑作だな」

「黄色いので」

「なるほど。それは実に言い得て妙……と言いたいところだが今のお前さんの言葉を少しだけ訂正してもいいか?」

「と、言いますと?」

「そいつは正しくは黄色じゃない」

「黄色じゃないんですか?」

「ほら、よく見ろ。ちゃんと見ろ」


 もう十分ちゃんと見ているつもりだけど。


「何だわしで遊びおって!」


 店長に指を差されて怒っているのかヒヨコさんはぷりぷりと尾を振る。その姿は申し訳ないけどひたすら可愛い。


「黄色にしか見えないんですが」

「そうか。まぁ最初は比較対象がないと難しいか」

「正解は何色なんですか?」

梔子(くちなし)色だよ。黄色よりも少し赤みがかってるだろ」


 言われて見ればそう見えないこともないけど、正直言われなければ全く分からない。


「ま、お前さんはそんなことは覚えなくてもいい。色を売るのは俺の仕事だから。というわけで働いてくれるよな?いいよな?」


 ──ん、色?

 私はそこでとてつもない引っ掛かりを感じた。


「え、色って、色って……色ですか?」

「随分と漠然とした質問だな」

「ここ、色を売る店なんですよね?」

「そうだ」

「色って何ですか?」

「色は色だ。おかしなことを聞く。お前さんが知っていそうな色をあげるとすると赤、青、黄とか」

「……っ」


 まさか正真正銘文字通りの〝色〟だとは。深読みしすぎた自分が穴があったら入りたいほど恥ずかしい。勝手に誤解して、勝手にそういう感じに見えてきただなんて自分が最低すぎる。


「どうかしたか?何か問題あっ」

「いえ!何も!」


 恥ずかしすぎて食いぎみで返事をしてしまった。


「ですが色を売るというのは具体的にどういった」

「興味あるなら次に客が来たときに見せてやる。無駄遣いはしたくないから今は見せられない」


 よく分からないけどとても健全そうなお店だった。確かによくよく考えてみればこんなゴミに溢れた店がそういう店なはずがなかった。他の店なら許されるのかと言われればまったくそんなことはないけど。

 さて、唯一の気になる点が綺麗さっぱりと消えた。そして勝手に誤解してしまっていた罪悪感と共に私の心は固まった。


「店長、今日からよろしくお願いします」


 店長の歓声とヒヨコさんの絶叫が店内に響き渡った。