貴族令嬢がジャンクフード食って「美味いですわ!」するだけの話

「いらっしゃませー」

 ドアとと共に熱風が吹き抜けた。午後2時、七月後半の最高潮の気温の中に佇む人影がある。
 ゆっくりと、クーラーが効く店内へ入る。その足取りは、どこかふらついていた。
 やがて、倒れ込むように案内された座席に座る。

 こけた頬で、かさつく唇で、息も絶え絶えに貴族は呟く。

「……ール、オナ……オナシャス、アトギョ」

 ボソボソとした声。店員が貴族に近寄り耳をかざす。

「……はい、はい。ギョーザ、生ビール、はーいいますぐ」

 店員を見送り、がっくりと彼女はテーブルに突っ伏した。

「……」

 ぐったりとしたまま、動かない。
 そのまま死んだように待つ。
 ビールを、待つ。
 ギョーザを、待つ。
 水分とタンパク質を、待つ。

「はいおまたせしやしたービールとギョウザ」

「……!!」

 ガバと頭を上げて運ばれてきた二品を見つめる。旅人が星から導きを得るように、希望のように、どこか懐かしいように、見つめる。
 やがて、震える手を差し出す。
 震える手が、ジョッキを掴んだ。

 震えるまま、ゆっくりと口に運ぶ。

 グビリと、喉が鳴る。
 またグビリと喉が鳴る。
 鳴る。鳴る。鳴る。
 呑む、呑む、呑む。
 空になったジョッキを机に叩きつけた。

「……アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!! ウマイイイイイ!!」

 マリーの精神は崩壊しかけていた。

「アアアアアアアアアア!!!」

 絶叫が収まらない。

「水分補給もほどほどに日中の現場上がり!!!」

 今日の気温は40度を超えた。あえて水分はほどほどに抑え今この瞬間の快楽にそなえていた。

「そこに生ビールを喉にぶち込んだら!!」

 このために乾いていた。このために渇いていた。このための乾きだった。このために汗を流した。

「そら発狂もんですわねえええ!!!」

 これは訓練を積んだ貴族階級のみにできることであり、一般庶民には危険が伴うのでおすすめできない。

 皿に酢コショウ。ギョーザをそこにつけて一口食べる。

「生ビール!!!! おかわり!!!!!」

 声がデカい。

「はいただいまー」

「はあ、はぁ、さすがにこの気温の現場仕事はなかなかきつかったですわね……空調服もないよりはマシでしたけれどもう少し性能上がらないかしら…」

 もう少し作業時間が長ければやばかったかもしれない。

「地球は確実に人類殺しにきてますわね。しかし、日高屋もすでに今月八回目……この日高屋シンドローム状態からそろそろ脱出したいのですが…」

「はい生ビールでーす」

 酷暑からの日高屋エスケープ。これがなかなか耐えきれないものだ。

「あ、どもども。駅近なのでフラフラとついよってしまう。だめよ貴族たるもの自分を律さなくては……」

「不況でも日高屋のギョウザは安いですわね…」

 安いつまみは助かる。特に毎日来る自分には。

「おつまみ唐揚げ、あとメンマ下さる?」

「はいただいまー」

「しかし今年は海もプールもお祭りも中止、しけた一年ですわねぇ……」

 この分では年末年始も似たようなものになるのではないか。

「そして毎年のこの猛暑。誰ですの今年は冷夏になるとほざいていたやつは……? ぶっ殺して差し上げますわ」

 マリーは毎日の暑さで気が立っていた。

「現場仕事はボチボチ戻ってきたけど正社員募集の求人もめったにないし……」

 すでに就活は30連敗である。

「やはりなにか新しい仕事を探すべき…? いやその前に資格を……貴族子女工業高校で取った資格ではそろそろ限界ですわね。溶接とフォーク、あと玉掛けでは戦えませんの?」
 
「はいおつまみ唐揚げとメンマー」

 運ばれてきた肉と油とそしてメンマ。貴族令嬢の思考が途切れる。

「……とりあえず今は飲んで食って明日考えればいいですわね。店員さん、黒酢冷やし麺大盛。あと大盛券ありますわ」

「はい冷やし大盛ー」

「明日は明日の風が吹きますわ! 貴族たるもの今を楽しむべし!」

 唐揚げ、メンマ、そしてビール。人に希望を与えるものは、なにも大きなことや物が必要なわけではない。ただささやかに、今日を支える糧でもいい。貴族とはそういうものだ。

「はい冷やし中華おまちー」

「この日高屋の冷やし中華、奇をてらわない味付けがいつ食しても見事ですわ!」

「日が高いうちから呑んでると思うとさらにうまさも倍付けですわ!」

 △ △ △

「ありがとうございましたー」

「ふー、しかしまたこのパターンにハマってしまった……日高屋ループからそろそろ抜け出さないと」

 外はまだむっとする熱気が漂う。この熱気は夜まで収まらないのだ。たまらない。
 だがマリーは今日を、今を強く生き抜かねばならない。明日を夢見るために、今年は冷夏だといったバカをぶん殴るために、帰って檸檬堂呑んで寝るために。

「……明日は油そばにしようかしら」

「大宮……? いかにも埼玉の田舎者が集まるところらしい街だわ」



「はいどうぞ」

 のれんをくぐり、コロナ対策に開け放たれた戸口をくぐる。アルコールと検温を済ませてマリーは長テーブルの丸椅子にどっかりと腰を落とした。
 ビニールの丸椅子など、ひさびさに見た気がする。

 首をコキリと鳴らしながら壁を見上げる。元は白色だったろう壁が茶色に染め上がり、そこにやはり茶色着いた品書きの札が一面に張られている。値段のところだけ白いのはそこだけ張り替えたから。

「えーと、赤星(サッポロラガー)。それとキュウリの一本漬けに煮込み、あとアジフライ」

 さらりとメニューを決める。よってきた店員のおばちゃんが、紙に直接メニューと値段を書き始めた。ここは徹底的なローテクで注文と会計をしている店だ。
 化石か。

「あいよーはいビールお待ち」

 なにはともあれ酒のレスポンスは早い。それが一番大事だ。ぽんと栓を抜かれたビールをコップに注ぐ。

「液体7の泡3で注いで」

 くっと、喉に差し込む。

「一気に飲む!」

 喉を通る刺激。灼熱の8月頭を乗り越えたマリーには染みる。

「ひさびさの赤星、効きますわね……」

 ここは大宮駅東口からすぐにある老舗居酒屋、いずみやだ。東口から徒歩十秒ほどの立地にある。朝の10時から秒で酒が呑める紳士の社交場、大宮のエルサレム、または埼玉のソドムである。
 とにかく大宮駅を降りてで手っ取り早く呑みたいならばここだ。

「早めに終わった仕事帰りでふらっと来てしまいましたけれど」

 たまに埼玉方面にくるマリー、大宮はあまり利用したことがなかった。いかにも酒飲みが寄ってきそうな場所だというのに。

「はい煮込み漬け物アジフライー」

 淡々と運ばれるメニュー。

「しかしまあこの店はなんだか落ち着きますわねぇ。なんというか大宮は埼玉県の“いいかげん”がぐぎゅっと濃縮された感じで居心地が良さそうですわね…」

 グビグビとビール、そしてポリポリときゅうりを摘まむ。

「とくに大宮駅降りて徒歩ゼロ分にあるこのいづみや……ドリフの酔っ払いコントに出てくるセットのような古臭い建物、そして昼間から堂々と酒を飲ませるスタイル……」

 落ち着いた住宅街。マンション開発の進んだ駅前。そういう小ぎれいになっていく街とはやはり大宮は雰囲気が違う。どう開発が進み人口が入れかわろうと、なんというか、雑なのだ。
 その雑さが、落ち着く。

「雑さがぶっきらぼうな優しさに見える、良い街じゃないですの大宮」

 煮込みに箸を伸ばす。ここの煮込みはとにかく安く、そして早く出てくる。

「ここの名物は煮込み、安さ速さに味が揃えば……」

 もつを味わい、グビリと呑む。

「当然侮り難し……」

 大宮に長年佇む、酒場の風格があった。

「見上げれば煤けた壁に同じく黄ばんだ紙に書かれた大量のメニュー……ちょっといくらなんでも多過ぎじゃありませんの?」

 焼き鳥や揚げ物はもちろんそれにプラス料金で定食もできる。元は酒屋が発祥だったそうで、酒のメニューも多い。無敵である。無敵要塞だ。

「長テーブルに丸椅子というザ☆チープな内装もしみじみと落ち着く……こういうのでいいんですわこういうので!」

 ビールを飲み干し、手を上げた。

「チューハイ! あとシシャモ!」

「ハーイ」

 △ △ △


「ありがとうございましたー」

「ふぅ……濃密な昭和感に思わず長居しかけましたがいけませんわ。今日はハシゴと決めておりますので。次は」


酒蔵力

 赤い。とにかく赤い店構えだった。
 看板が赤い。戸が赤い。店員の服装も赤い。なんだここは。共産主義か。

「大宮から浦和にかけての居酒屋グループならばここがまず有名ですわね。相変わらず真っ赤な店構え……」

 本店が浦和にある酒蔵力は、当然地元チームである浦和レッズを応援している。浦和レッズのチームカラーは赤。ゆえにこの烈火のごとく赤で染めている。
 それにしても、赤すぎる。大宮には大宮アルディージャがいるというのに。

「はいいらっしゃいやせー」
 
 若い店員が小気味よく迎える。お年が上気味の淑女店員が多いいずみやより勢いがあった。

「ハイボール一つ。あと焼き鳥のモモ、かしら、レバー。全部塩で」

「へーい、ただいまー」

「ここは元は肉屋が本体ですので、肉メニューに外れがありませんわ」

「はいハイボール、それと焼き鳥でーす」

「ここは焼き鳥は二本から注文なので調子乗って頼むと結構な量食わされるので注意ですわ……」

 モモを一本手にとり、豪快にかぶりつく。もも肉の弾力と脂の旨味。塩が引き立てる。
 たまらずにハイボールを煽った。

「肉屋の腕は内臓肉にでる……ぷりっとした断面のレバー、なるほど鮮度がいいですわね」

 切り口に角の立つのは新鮮な証だ。それに絶妙な火の通りでレバーの味を引き立てる。

「臭みなくレバーの旨味が口に広がる、そこにハイボール!」

 もう一杯目が無くなった。

「店員さん、ハイボール濃いめでもういっぱい!」

「はいハイボール濃いめ一丁!」

「あらそうそう、この店に来たら頼んでおくものがありましたわ」

 マリーは思い出した。この店に来たら必ず頼むと決めていたあのブツのことを。
 中毒必至の、あの合法麻薬というべき代物を。

「焼き豚足、ハーフで」

「はいただいまー」

「豚足というと茹でたものを酢みそで食べるイメージが強いですわね。見た目からニガテな人も多いと思いますわ」

 なにせ豚の足そのままである。冷えた豚足を酢味噌や唐味噌というのもやはり好みがわかれそうだ。
 だが焼き豚足は違う。あれはもうヤバい。

「しかし私から言わせてもられば、あのような豚足の食べ方は二流ですわ」

「はいハイボール濃いめに焼き豚足!」

「豚足は焼いて食べるのが一番うまいのですから!」

 マリーの目に、暗い欲望があった。ジャンキーの目をしていた。

 半割りにされた豚足が、焼かれて焦げ目をつくっている。ジュクジュクと沸騰した脂に、にんにくダレがかかる。その香りが貴族、マリーの本能を誘う。

「焼かれてコラーゲンが溶け出した豚足に、大量のネギとにんにく風味のタレがかけられていますの……」

 豚足にネギを乗せ、手で持ち上げる。震える唇を、開く。

「これを手づかみでむしゃぶりつく!」

 ガツガツ犬のようにかじりつく。骨の周りの皮やとろけた関節コラーゲンをはがし、すする。ネギの辛味とにんにくの香り。たまらない。

「変わらず本能に突き刺さるお味ですわ! 今わたくしは餓えた野犬なの!!!!」

 豚足にかじりつく自分は今なんと浅ましい姿だろう。だが仕方ない。マリーは悪くないのだ。すべての責任はマリーを狂わせるこの豚足にある。

「まとわりつくコラーゲンと脂をハイボールで流す!!」

 グビリグビリと、ハイボールを呑む。炭酸の爽快感がまた豚足に向かわせる。

「これはまさに合法の麻薬ですわ!!!!!」

 退廃都市、大宮。ここでは焼き豚足と呼ばれる麻薬が乱用されていた。


 △ △ △

「またのおこしをー」

「ふう……焼き豚足キメると満足感がはんぱないですわね…さてあとは、ええっと」

 豚足の威力にマリーもひれ伏しそうになる。だがここで下がっては貴族ではない。マリーはかろうじて持ちこたえた。
 酒蔵力を出て、飲食店の並ぶ商店街をうろうろとあてもなくぶらつく。

 そこでふと、奇妙な店を見つけた。

「あれは大宮名物の……そうそう、大宮来たからには一度あそこいってみようと思ってましたのよ」

 マリーは、観葉植物と雑多なメニュー書きが並ぶ喫茶店へと足を踏み入れた。

伯爵亭

「はいいらっしゃいませー」

 中年男性の店員に席を案内され、座るマリー。しげしげとやや薄暗い店内を見渡す。

「……しかし個性的な店構えと内装の店ですわねここは…」

 まず間違いなく純喫茶のたぐいではない。無国籍喫茶とでもいうべきか。

「まず店の外側にはよくわからない植物や置物があり……」

 この時点でもう店の戦闘力が高い。

「デカデカとアピールされるのは『24時間営業』の文字……」

 さすがに緊急事態宣言中は自粛するらしいが。

「薄暗くこれまたシックなような雑なような統一感のない無国籍な内装……」

 メニューを開く。これも分厚い。おなじみの喫茶店メニュー、だけなわけがない。

「大宮ナポリタンが名物らしいですが、メニューを開ければ焼酎からビールにカクテルと酒ならなんでもござれ。喫茶なのにコーヒー飲ませる気が一ミリもありませんわ……」

 店奥にはバーカウンターらしきものがある。さすが大宮名物。ただの喫茶店なわけがなかった。なんだこの店は。

「食事メニューは通常の喫茶メニューの他にステーキや沖縄そば、インドやスリランカなどのアジアンもある……」

 24時間、いつどこの誰がきても挑戦を受ける。そんなマスラオの雰囲気があった。
 喫茶店なのに。

「埼玉のいいかげんさ、適当さが存分に出てカオスな店ですわねぇ……え? なにこれ『お嬢様セット』……? ナポリタン、唐揚げ、フレンチトースト……一体どこにお嬢様成分があるのよこれ……? ふざけてるの?」

 お前が言うな。

「ていうかそんなもうお腹に入りませんわ。とりあえず、名物ですので大宮ナポリタン頼んでおきましょうか……すいませんナポリタン一つ」

「はい大宮ナポリタンね!」

「大宮ナポリタンは大宮に店があって埼玉県産野菜を一種類使えば誰でも名乗れるそうですわね……条件緩すぎですわ」

 埼玉の緩さが、オーバードライブしていた。もとより埼玉県民が厳しい戒律などを守れるわけがないのだ。

 △ △ △

「へいおまち!」

 出されたナポリタンは、真っ赤だった。量が多い。

「しかし大宮名物伯爵亭のナポリタンならばこれぞという個性が……」

 フォークで巻き取らずズルズルとすすり込む。日本の生まれのナポリタンはこうして食うのが一番旨いものなのだ。

「個性……」

 ズルズルと、すすりながらマリーの言葉がゆっくりと少なくなっていく。

「……」

 やがて無言でマリーはナポリタンを食っていた。


 △ △ △

「ありがとうございましたー」

 店を出ながら、トボトボとマリーは空を見上げた。電柱の配線が雑だった。埼玉らしいと思った。

「……量が多いけど普通のナポリタンでしたわね」

「まあ美味しいことは美味しいんですが、普通というか…地方名物とはそういうものですわよね」

 トボトボと、街を歩く。

「しかしそれなりに大きい大宮でも閉まってる店がちらほらありますわね」

 マスクを売っている飲食店もあった。どこも必死なのだ。

「やはりコロナからの回復は遠いのでしょう。この雑で呑気な街のまま、というわけにはいかないのでしょうか……雑だ雑だと散々ディスってしまいましたが、大宮は良い街ですわ」

 大宮は雑だ。だが良い街だ。マリーはそう思う。

「だって、昼間から酒が呑める店がある街は良い街に決まっておりますもの。……あ、あっちに銀座ライオンある。よってこ」
「銀だこハイボール酒場……? 庶民らしい下等なところですわ」




「おメガハイボールをお一つ、お願いしますわ」

 マリーは丁寧に「お」をつけて頼む。貴族は丁寧さをわすれてはいけない。

「それとたこ焼きのネギたこ、あと壷きゅうりにたこの唐揚げ」

 向こう側の店先では持ち帰り客がたこ焼きを買っている。昼下がりも過ぎた平和な光景だ。
 その中で、今からマリーは酒を呑む。
 ドレスを翻し、ハイヒールを鳴らして入店し、そして客の往来に邪魔されない店の奥側という拠点を確保して、

 呑むのだ。
 
「はいメガハイボール!」

「最初の注文のレスポンスが早い店は助かりますわねぇ……」

 ゴキュゴキュと喉を鳴らす。八月も半ばである。なかなかに過酷な季節は、冷えた酒で乗り切るのだ。それが高貴なる血の運命である。

「午後三時の悦楽……!」

 日が高いうちからの酒は旨い。なぜ旨いのか、背徳感やあるいは呑みたいその瞬間に呑むから、答えはない。無くて良い。今目の前にあるアルコールだけが真実だから。アルコール度数の高さだけが価値だから。

「ふぅー、労働後のハイボールは染みますわね……」

 疲れた体には油ものとアルコールが染みる。マリーの高潔な魂は、癒やしを求めていた。癒される場を求めここ(銀だこ)に来た。

「築地銀だこハイボール酒場。たこ焼きチェーン大手銀だこがプロデュースするハイボールをメインとした酒場ですわ……」

 銀だこのカリッと揚げ焼きしたたこ焼きをつまみに、店先で一杯呑む。貴族でさえも戦慄する隙のない戦略である。マリーはこの見えざる計略の指にからめ取られてしまった。
 ここまで来たらもう呑んで食うしかない。

「たこ焼きで酒を一杯やる。酒飲みならば誰もが思いつくことを大手たこ焼き店が形にしたこの店……よろしくってよ」

 ならばこの運命、甘受するのみ。

「はいねぎだことタコ唐、あとキュウリです」

 運ばれるつまみ。こんがりと揚げられたタコ唐揚げに、ツボに入った切られたキュウリ。そして一面の刻みネギで彩られたたこ焼き。
 立ち上がるネギの芳香にゴクリとマリーは唾を飲み込んだ。

「ここのたこ焼きは4つ入りのつまみにちょうどいい個数で頼めますわ。まず最初はねぎだこからとわたくしは決めてますの」

 クシ二本でたこ焼きを持ち上げる。乗ったネギが落ちないように慎重に口に運ぶ。落とすなんて不作法は貴族には許されないのだ。

「大量の刻みネギが乗せられたたこ焼きを……出汁につけて食す!」

 口いっぱいに広がるネギの香り。カリカリの表面に、とろりとした中身、そしてタコの弾力と旨味。
 渾然一体となり弾ける。

「熱い……外カリ中トロの銀だこが、ネギの香味で爽やかに、だが熱い!」

 たまらずジョッキを持ち上げる。メガハイボール程度の重さなど、普段は解体現場のガラ運びや道路工事で鍛えたマリーの腕力の前には無力である。軽い。この程度では貴族令嬢は苛めない。
 マリーは人の命以上に重いものなど背負ったことはない箱入りの人道系貴族令嬢なのだ。

「そこにハイボールで鎮火……!」

 グビグビと喉が鳴る度に、巨大ジョッキが軽くなる。
 うまい。たこ焼きとハイボール。ベストパートナーだ。まさにロミオとジュリエット。サイモン&ガーファンクル。うしおととら。あるいは清原と桑田。

「この熱さが……癖になりますわ!!」

 たこ焼きは焼きたて。熱さこそが命。マリーは持ち帰りのふにゃふにゃしたたこ焼きをみる度に悲しみにさいなまれる優しい心の持ち主である。やはりたこ焼きは店先で食うものだ。

「このタコ唐かみしめるほどに旨味が……良いですわね。合間につぼきゅうりをつまみ口内をリセット……! さらにねぎだこに挑む……!」

 ポリポリとキュウリを、ムグムグとタコ唐揚げを、そしてアツアツのネギタコ。もう止まらない。

「熱さと快楽の永久機関ですわ!!」

 恐るべし。恐るべし銀だこハイボール酒場。

「現場仕事後に高タンパク質でタウリンを豊富に含むタコを摂取で疲労回復。これは利に叶った呑み方ですのよ!!」

 合理性と快楽。貴族足るもの二兎を追って二兎を得るものだ。
 しかし、ひたとマリーがジョッキをつかむ手が止まった。

「……また日雇いの仕事が減ってきましたわねぇ」

 現実が、マリーのか弱い心を締め付ける。どれだけ気丈に振る舞おうと、肉体労働のおかげで握力が50キロほどあろうとマリーは所詮箱入りの貴族令嬢である。か弱い乙女なのだ。

「Uber EATSのバイトもあまり儲からなくなってきましたわ……」

「コロナのダメージがここにきてかなり来てるような……」

「特別定額給付金…第二弾あるのかしら…あるなら早めで……」

 マリーの弱さがむき出しになる。誇り高い貴族といえど、明日が見えぬことは心を折る。

「ダメですわ貴族たる私がこんな他力本願を……人生は自らでつかみとるのよ!! 貴族に重要なことは気合いですわ!」

「明太子チーズたこ焼き! それと普通のたこ焼きもお願いしますわ!」

 不安をふりきる。ふりきるためにはつまみがいる。

「あと、メガハイボールもういっぱい!!!」

 あと酒もいる。


 △ △ △

「はいたこ焼き二種にメガハイボールお代わりですねー」

「明太子チーズたこ焼き……お好み焼きでよくある組み合わせがたこ焼きに合わないはずがないですわ……」

 チーズのコクと明太の旨味がたこ焼きと融合する。

「ハイボールループ再発動!!」

 アツアツをハイボールでやっつける。もはやマリーは無限ループから抜け出せない。

「そして普通のたこ焼き……やはりこれを食わないと落ち着かないですわねえ…ソース味は偉大ですわ……」

 ポン酢で食う方法もあるが、やはり結局はたこ焼きはソースに落ち着く。人はソースから離れては長く生きられないのよとかそんなことをラピュタとかでも言っていたような気がする。

「ふぅ……少し落ち着いてみれば焦燥も薄れてきましたわね。コロナといえど明日は明日の風が吹くことは同じ。今までのなんの変わりがあるものでしょうか」

 人はいずれ死ぬ。それがいつかは誰にもわからない。どれだけの不安があろうとも、今を生き明日を迎える以外に生き方などないのだ。
 だからこそ、今は。

「店員さん、ソース焼きそばおひとつ」

 焼きそばが無性に食いたかった。


 △ △ △

「はい焼きそばー」

「やはりソース味は偉大ですわねぇ! 大事なことだから二度いいましたわ!!」

 ズルズルとそばをすすり込む。ソース味、キャベツの歯ごたえ。青海苔の香り。止まらない。

「そして追ってハイボールッッ!!」

 豪快に飲み干す大ジョッキ。カラリと氷が音を立てた。

「粉もの万歳ですわ……」

 △ △ △

「ありがとうございましたー」

「ふぅ……最後の焼きそばが、思いのほか効きましたわねぇ…」

 満腹になった腹をすすり、店の外を歩く。夕方、いまだ昼の熱気は消えていない。
 マリーの白い柔肌に、じんわりと汗が浮かぶ。

「結局は、明日が見えないことはコロナ前でも後でも変わらない…今を懸命に生きるしか人ができることはないのですわ……新しいバイト、探しましょうか」

 貴族令嬢は、明日もまた戦うのだ。
「なにこの店は……? ホルモン焼き……? いかにも庶民が好きそうな下品な食べ物だこと」


「一人ですわ。とりあえず生ビールで」

 扉を開けながら、入店と同時に注文を放つ。もはや軍人が銃を構えるような反射的動作に達している。厚い生地のドレスを纏うマリーの額には、滝のような汗があった。クーラーの冷気が濡れた肌を打つ。気持ちがいい。

「はいこちらどうぞー」

 笑顔で対応する店員。招かれた席に優雅に腰掛けて、メニューを開く。

「ふぅー、最近食べてないと思ったらつい入ってしまいましたわ……でも暑くて最近食欲が減退気味なのですわ」

 ここはホルモンが中心の焼き肉屋だ。生のホルモンしか仕入れず、そして今日は市場が休みの日の次の日。タイミングは良い。
 暑さに食欲減退気味な自分にどこまで戦えるのか。貴族令嬢であるマリー、当然その胃腸もエレガントかつ繊細な代物である。
 だがやるしかあるまい。戦う前に負けることを考えるのはバカのやることだ。

「はいおしぼり、それとビールでーす」

「ふぅー」

 手渡された冷たいおしぼり。汗だくの顔を拭き、続いて首元を拭う。はしたないがこれはやめられない。

「とりあえずさっぱりとしたところからいきましょうか」

 さっぱりと、この落ちた食欲をフォローしてくれるものを頼みたい。

「店員さん。豚バラ、シマチョウ、レバー、それとオイキムチお願いしますわ」

「はいーただいまー」

 マリーの胃腸は繊細だ。しかし酷暑のせいで落ちた食欲でも、豚バラ程度ならマリーは勝てる。

「ホルモン焼き屋といっても基本は二種に分かれますわ」

 ホルモン。焼き肉屋におけるいわゆる内臓料理の総称だが、その内容はディープにして複雑である。

「串焼きで出すスタイルと、網焼きで出すスタイル。ほぼ別のジャンルの料理といっても過言ではありませんわ」

 グビリと生ビールを一口すする。渇きに染み込むアルコール。思わず唸る。

「う゛ぅ……」

 流れる手つきでロースターに火を付けた。タイミングよく肉とキムチが運ばれてくる。

「ここはガスロースターで出す後者。ゆえに焼き加減を好みで調節しやすいところが利点」

 かつて、焼き肉の達人と呼ばれた寺門ジモンも語っていた。慣れが必要な炭火に比べガスロースターは初心者でも簡単に火力を調節できる優しさがあるのだと。
 鉄板の隅や真ん中にお冷やの水をすこし垂らす。じゅわりと音を立てて水滴が沸騰しながらしばらく残る。ライデンフロスト現象というやつだ。十分に鉄板が暖まっている証拠である。
 焦ってならない。常にベストの状況で肉を焼くのだ。そうしなければジモンに追いつくことはできない。

「さあ網が温まってきたら初手、豚バラから……!」

 じゅう、と肉が音を立てる。分厚い脂つきの三枚肉が、鉄板の上に並んだ。その数、3。
 鉄板の大きさから一度に並べる枚数は余裕を持たせ三枚がベスト。バラ肉の枚数は九枚。つまり都合3ターンでブタバラにキルする。
 焼き肉を焼くとき、マリーは一皿を何枚にわけて焼き、何回で終わらせるかがベストなのかを習慣的かつ自然に考えている。焼き肉に必要なものは鋼鉄の秩序だ。なにも考えずに一度に乗せて焼き、火力を不安定にすることは肉をまずくする愚の骨頂である。
 戦術と忍耐。焼き肉に求められるものは、貴族の生き様と同じだ。
 
「火をやや落としじっくり焼きで脂を落とす……!」

 焦げを最小限に、脂身から脂が落ちてカリカリ気味になった当たりを狙う。

「間をオイキムチで繋ぐ……! 夏はやはりキュウリのさっぱり感を有効活用したいですわね」

 きゅうりの爽やかさ、そしてキムチの辛味とうまみ。肉を眺めながらグビリとビールを飲む。

「当然ビールとの相性も約束済み!」

 いくらでも呑める。だがここはセーブだ。

 「さあ焼けた豚バラ……最初の一枚は塩コショウで……そこにビール!」

 脂の旨味、赤みの歯ごたえ。シンプルに塩とコショウがそれを引き立て、そしてビールが全てをぶちかます。

「夏を生き抜く快感……!」

 二枚、三枚。肉が消える。即座にトングで肉を並べる。肉を焼くことはリズムだ。崩してはいけない。

「すいませんレモンハイお願いしますわ。あとナムルと韓国海苔」

 ビールをやや残しながらつぎの酒を注文する。なおかつ援軍も呼び寄せていよいよ万全に。
「はーいただいまー」

「焼けた豚バラを今度はタレとコチュジャンで…いただく!」

 脂、肉、そして辛味とコク。旨いに決まってる。

「豚は人類の友よ……! 次手、豚の脂がしっかりと染みた鉄板へレバーを投下!」

 ブタバラの脂が染みた鉄板にレバーがならぶ。都合6枚なので一度に3枚焼きで2ターンで決着だ。

「夏を乗り切るにはやはりレバーが必要……! 豊富な栄養を食わずにすごす道理無し!」

 新鮮なレバーは甘い。切り口のたったこのレバー、かなりの鮮度と見た。

「ほどよく焼けた辺りをタレで……やっつける!」

 レバー、ビール。エンドレスフォードリームである。

「レバーが食えないとかダメとか抜かす輩は所詮子供ですわね……酒の味を覚えたら人はもうレバーから抜け出せないのですわ!」

「そしてシマチョウ……脂肪の多いここの焼き方で焼き慣れした玄人か素人か、わかりますわ!」

 シマチョウ。牛の大腸である。店によっては茹でたものを使うなど扱いやすくするが、この店ではもちろんこれも生だ。

「まずは皮目から…!」

 じゅわりと脂を鳴る。この皮目から焼くことが大切なのだ。

「皮を長めにやいてじっくりと脂を落とす……火の加減を調節しながらかりっとした食感を目指すのですわ。焦らないで、私!」

 やがてもうもうと煙が出始める。生のホルモンは焼く時には大量の煙が出るものだ。店によってはこの煙を抑えるために茹でるなど工程を加える。
 だが、この店はそれでも生ホルモンにこだわっている。そしてマリーは煙程度に臆する貴族令嬢ではない。

「レモンハイお待ちーあとナムルと海苔ですー」

「焦りは援軍のナムルと海苔で吹き飛ばす! 煙りが出ますわねぇ…!!」

 やがて、待ちかねたものが出来上がった。

「皮七分、脂肪三分で焼いてコチュジャンを溶かしたタレで食えば……!」

 そしてチューハイ。

「キングオブジャンキー味っ!!」

 落として焼くことにより適度になったシマチョウの脂の旨味、そこにタレの味が加算されたまらない。そしてそれをチューハイで洗い流す。

「ホルモン! チューハイ! ホルモン! チューハイ! 無限ループの完成ですわ!」

 グビグビと飲み、食い、そして焼く。縦横無尽にみえてマリーの動きは一定のパターンとリズムを刻んでいた。どれほどの喜びに憑かれようと、マリーは焼き肉をしくじらないのだ。貴族たるものあらゆる作法を完璧にこなせて当然であるのだから。

「……しかし、この社会の停滞感がハンパないですわねぇ」

 ふと、マリーは酒をテーブルに置いた。

「人が集まるところは全部ダメで、なにかあればすぐ注意される……」

 停滞し、そして窮屈な世の中になっていくような気がする。

「やることは職場と家の往復だけ……たまの休日は録り溜めしたアニメやタモリ倶楽部をみるだけで終わる……私、このまま年をとっていくのかしら」

 いつまでも若い人間はいない。やがてマリーも衰える。今この時でさえも。

「……ああ、だめねなにを考えてるのかしら私は。店員さん、豚タンとハラミ! あと冷麺!」

 △ △ △

「はいお待ちー」

「豚タンとハラミはさっと焼いて…コチュジャンと韓国ノリで巻く!」
 
 歯ごたえある豚タン。かみしめると旨味が強い。一方ハラミは柔らかく、それでいて脂が少ないので食べやすい。

「追ってチューハイ!」

 グビグビと飲み干す。

「エレガントッッ!!」

 焼き肉屋の中心で愛を叫んだ令嬢。

「そして締めにはやはり麺類、冷麺の歯ごたえはやはりやみつきになりますわねぇ」

 △ △ △ 

「ありがとうございましたぁー」

「ふぅー、外に出れば当然のごとく快晴…長かった梅雨が懐かしいですわねぇ……」

 まだ気温は高い。高すぎる。

「一着しかないドレスにカビが生えてしばらくジャージで過ごした最悪の六月でしたけれど……」

 とぼとぼと、路地裏を歩くハイヒールに

ムニュ

 とした感触があった。

「……あ」

 もはや踏んだ感触でなにかわかってしまった。だって三度目だから。

「うぅ……」

 倒れる貴族服の老人がいた。手には発泡酒の缶。

「オーギュスト大公殿下……またですの?」

 見下ろす老人は、また始末が悪そうに笑う。

「大公殿下、こんなところでなにを? さすがにこの時期この時間帯下の野宿は死にますわよ?」

「君は……伯爵家の……」

 またこのやりとりか。

「マリーですわ。しっかりしてくださいませ殿下! なにがあったのですか!?」

「……白鯨攻略戦に三回連続で負けて」

「あれほど今はまだまだ店が回収モードを続けているは言ったではないですか!」

「いけると思ったんだ……今日の私なら」

「養分はみなそう思って散っていくのですわ!」

 悲しい現実だった。

「肩に捕まってくださいませ殿下。家までお送りしますわ」

 老人を引っ張り上げて肩を貸す。なんだか前よりも軽くなっているような気がした。

「すまんな……しかしなんだか昔よりずっとたくましくなったな君は。背中が広くなったよ」

「肉体労働には慣れておりますもの」

 力強くマリーが笑う。強くなければ貴族は生き残れないのだ。

「足立区の原付で駆けてくシンデレラと呼ばれていた君とはもう違うんだね」

「イヤですわ大公殿下。それはもう昔の話ですわ」

 懐かしさに、マリーが笑う。
 陽炎の街の中を、二人が行く。
「街中華……? こんなすす汚れた店に私のような貴族が入ると思っているのかしら……」



「はいいらっしゃぃぃ」

 のれんをくぐると、プルプルと震える老婆が出迎えた。割烹着を身につけた彼女は座席を示す。

「好きなところどうぞぉ」

 手が震えてるので具体的どこなのかよくわからない。
 貴族令嬢は、無言のまま適当にあたりをつけて席についた。マリーの表情には緊張が漂っている。慎重、かつ無言に手書きのメニューを見つめた。

「なんにぃしましょうかぁ」

 老婆の言葉にしばしの無言。やがてマリーはゆっくりと口を開く。

「ビール、瓶でお願いしますわ」

「うちアサヒしかないんですけどいいですかぁ」

「じゃあそれで」

 とんと、ビールの瓶とコップが置かれた。マリーは呑む、前にまず瓶の持ち上げて凝視する。

「……ビールの賞味期限は新しめですわね。客の回転がしっかりしてる証拠ですわ」

 客が来ない店は、仕入れた酒が古い場合が多い。サーバー洗浄をきちんとしているかわからない店に入ったならば、生ではなく安定した瓶ビールを選ぶという酒飲みの基本的なテクニックがある。
 だがそれはあくまで瓶ビールの鮮度まで落ちていないことが前提のものだ。いい加減な個人店では古い瓶ビールが来ることも念頭にいれねばならない。

 この店はちがうようだが。

「この適度な床とテーブルのヌルヌル具合……」

 ハイヒールを床に滑らす。ここまでのヌルヌル加減は一朝一夕で作れるものでない。振られた鍋と蒸発したラードが形作る実績である。

「ここまでのこの店の『当たり店』の確率は四割といったところですわね…」

 コップにビールを注ぐ。コップはきちんと凍ったものだった。
 少なめに注いだビールをくっと一息に飲み干した。
 ほう、と優雅に一息つく。

「新規開拓……ギャンブルですわ」

 マリーは今、はじめての店にいる。

「うちの近くで少し気になっていたんですけれどとうとう入ってしまいましたわ」

 駅から少し離れた立地である。なかなか昔からやってる店のようだったが、入る機会がついぞなかった。

「外の食品サンプルの埃のかぶり具合になかなかのヴィンテージを感じましたけれど、こういうともすれば小汚……じゃなかったヴィンテージ感のある街中華に旨いところがあるのも事実」

 個人店の街中華。たいていは値段もそこそこでまず外れがないジャンルである。
 マリーは街中華を愛していた。煤けた店の雰囲気や、ぬるむ床と、なぜか似た傾向になりやすい漫画の品揃えと、店内のテレビで見る甲子園中継と、そしてタンメン。
 だが愛しているからこそ視点は厳しくなるものだ。外れないジャンルといえど、煮え湯を飲まされることもある。マリーは油断はしない。常に残心を持つことが貴族のふるまいである。
 
「積んである漫画本が結構充実していてゴルゴ13に刃牙が多めにそろってるのもプラスポイントといったところでしょうか……」

 マリーの評価方法は加算方式である。
 グビリとビールを飲み、思考を冷やす。

「あー、ビール旨い……」

「床のヌルヌルは油を多く使う中華を料理し続ければ、油の蒸発で自然とそうなってしまうもの…つまり繁盛の証、客の回転の証拠ですわ」

 グラスを持ったまま、ゆっくりと店を見渡す。

「見渡すと客と撮った写真も多い。しかも古めだわ。ポラロイド写真なんてひさしぶりにみましたわよ……それだけ長く親しまれているということ。プラスポイントにボーナスもつけていいですわね」

 傍らの壁に貼られた写真を少しめくって裏の壁を見る。茶色の壁の色がその下だけ真っ白だった。壁の色は年季の色だった。

「しかし貴族たるもの慎重さを忘れてはならない。まずは小手調べですわ。おばちゃん、餃子一枚」

「はぁい」

 愛嬌よく、老婆の店員が答えた。

△ △ △

「はい餃子ねぇ、あとこれサービスでメンマあげるからぁ」

「あ、ありがとうございます……」

 運ばれる餃子をつまみ、酢醤油で食う。はじける旨味そしてにんにくの香味。
 なかなかの味だ。

「旨い……ニンニク入り肉野菜半々のクラシカルな餃子ですわね…なにより焼き加減が絶妙ですわ。メンマのも味付けも既製品ではなく手作り……」

 しゃくしゃくとメンマをかじる。心地よい歯ごたえにビールも進む。

「あの造っている料理人はお爺ちゃんだけ……夫婦だけで営んでる中華料理屋ですのね」

 厨房の奥、まるで店そのものと一体化するように鍋を振る古老がいた。

「当たり、ですわね、この店は……」

 マリーは確信する。ならば攻めの一手あるのみ。

「おばちゃん、生姜焼きと焼売」

「はぁい」

「当たりとわかれば様子見は不要、推されてるメニューからちょいちょいつまみましょうか」

 壁のメニューを見る。炒め系がオススメのようだ。

「こういう定食屋がメインの店で呑むのもいいものですわ……特に日が高いうちからは……」

 今日もマリーは夕方前上がりだ。
 やはり酒は昼に限る。夜に呑むのは不健全、不健康だ。太陽を拝みながら呑むのが人間らしい生き方というやつである。

「はい生姜焼きと焼売ねぇ」

 キャベツ千切りと共に盛られた薄切りバラ肉の生姜焼き、醤油ダレの照りの良さがすでにただ者ではない雰囲気である。
 三個入りの焼売。でかい。つまり強い。

「一口に生姜焼きと言っても薄いバラ肉か厚めの一枚肉かなどで店により方向性が全く変わる料理ですわ。ここは薄いバラ肉を玉ねぎと炒めるご飯との相性重視派ですのね」

 口に運ぶ。甘めの味付けに生姜の風味がしっかりと利いている。炒められた玉ねぎの甘味と豚バラの脂の甘味の三重奏が旨味をさらに引き上げる。

「だが飯に合うものは酒にも合って当然……! 追ってビール!」

 キャベツ千切りでさっぱりとさせ、ビールで流す。そしてまた肉。ループ発動である。

「おばちゃん、ビールもう一本!」

 やはり一本では足りない。

「あいよー今出しますねー」

 運ばれるもう一瓶。即座にグラスに注ぐ。

「そして焼売。この大きめながらも不揃いなところはまさしく手作り……! からしと醤油をを多めにつけて」

 大ぶりをガブリと食いちぎる。炸裂する肉汁にのけぞる。

「ミートオブジャスティスッッ!」

 正義はここにあり。

「餃子は野菜多めが飽きが来ずに楽しめるものですが、やはり焼売は肉多めでダイレクトに肉の旨さを楽しむのが本道……!!」
 
 餃子は本来野菜料理である、とは某格闘漫画で言われていたことだが、焼売は違う。蒸したことによる肉と脂の旨味を上品かつダイレクトに味わう肉料理だ。

「さらに追ってビール!」

 ぐいと、またグラスを明かした。

「チャイナとゲルマンの融和……!!」

 もはや自分がなにを言っているのか自分でもよくわからない。

「炒めも蒸しもなかなかもレベル。ここの店主なかなかの古老とみるべき……」

 しみじみと冷静にふり帰る。焼き(餃子)良し、煮込み(メンマ)良し、炒め(生姜焼き)良し、蒸し(焼売)良し。隙がない、まさに野武士のような隙の無さ。

「競争激しい飲食で、老齢となるまでこの仕事を続けられるのはまさに腕があるから……リスペクト、その年季と腕前マジリスペクトですわ」

「この尊敬をいかにして店主
に伝えるか……」

 マリーは悩む。この気持ち、いかにして店主に届けるか?

「すみません、五目あんかけ焼きそば、大盛りで」

 △ △ △


「あいよー、おまちどうさんねぇ」

「片面をバリッと焼き上げた麺に醤油味のあんが染み込んでますわねぇ!! 期待通りですわ!」
 
 ずるりのあんかけの絡んだ麺をすすり込む。白菜、豚肉、人参玉ねぎ、キクラゲ、そして思ったより大ぶりの海老だ。登頂部にうずらの玉子がある。
 濃いめのあんかけに焼いた麺がしっかりも絡み、すする度に幸福が訪れる。
 そして卓上の酢の小瓶を取り豪快に回しかけた。

「そこに酢を大量に! そしてからし! 一気にすすり込む! 欲望へダイレクトアタックですわ!!」

「追ってビール!!」

 豪快に最後の一杯を飲み干す。喜びである。純粋な歓喜だけがそこにあった。

「ふぅー……」


 △ △ △

「ありがとうございましたぁー」

 見送りを背に受けてマリーは街を歩く。
 見知らぬ戦場であった。だが今日もマリーは勝ったのだ。

「ふぅー、新規開拓は成功ですわね。やはり貴族令嬢たるもの慎重さは重要ですわ」

 額の汗を拭う。知らぬ店とは常に真剣勝負である。もう夏も終わり、いくらか涼しい風が吹いていた。

「……それにしてもああいう老夫婦だと跡継ぎはいるのかしら。息子や娘さんは見かけなかったけど」

 後継者問題は街中華業界だけではない。日本という国全体の問題である。貴族たるもの、先を見据えなければならない。

「跡継ぎがいなければ店は……今も色々なところがコロナで閉まってますものね。あの店もいつまで行けるものか」

 いつでも行ける、いつでも食べれる。そう客が油断していくつもの店が閉まっていった。店は生きている そしていずれ消える。いつかはない。今この時にいくべきなのだ。

「というか、そもそも今の私の仕事のほうが不安定というかそういえば来週の仕事の予定まだ入ってなかったような……正社員の就活もストップしたままだし……」

 とりあえず他人より自分の足元を見ておけ貴族令嬢よ。

「……今は帰って呑みましょう。呑んで忘れましょう」


「新宿……? 騒がしくて下品な街だこと……」



ベルク

「レバーハーブパテ、ソーセージ&クラウト、ギネス樽生をお願いしますわ」

 注文を出し会計を済ませるマリー。慌ただしい雰囲気あふれる店内で、店員が答えた。

「はーいこちらでお待ちくださーい」

 受け取り口で待つ貴族令嬢。騒乱の新宿駅の中、ビール&コーヒーが売りの店ベルクにて立つ彼女の姿は嵐の中に咲く白薔薇の如く。

「……現場が近かったし早めに上がれたので久しぶりに来てしまいましたわね、新宿」

 新宿、いわずと知れた日本最大の利用客数を誇る新宿駅と、日本最大の繁華街歌舞伎町を持つ眠らない都市である。
 圧倒的な人間の種類と圧倒的なエネルギーが渦巻くこの街はその魅力に引きつけられて様々な作品の題材となった。具体的にいうとガメラやオーラバトラーが来たり魔界になったりする。
 だがこのコロナ禍で、新宿は少し違っていた。

「相変わらず移り変わりが忙しい街だわ……でも、こんな新宿になるものなのね」

 移り変わりは激しい。だがいままではなにかが無くなれば何かが入ってくるはずだった。入ってこないのだ。日本最大の喧騒都市の場所の空きが目立ってきている。
 まあそれでも変わらないところもあるのだが。

「しかしベルクは相変わらず凄まじい店内ですわね……これ店のファンがつくったのかしら?」

 新宿駅にあるベルクはさほど広い店舗ではない。それでも新宿内の店としては広めなのだが。
 ベルクは新宿駅東改札駅から徒歩5分ほどにある駅内のビール&コーヒーハウスである。
 特色は様々なメニューを手作りすることにより高品質を低価格でだしてくること。その実直な営業姿勢に根深いファンが多い。
 店先にはメニューの紹介の他に店オリジナルのTシャツまで売っている。 
 さらに店内にはなんと店員ではなく客の描いたポップや店の紹介文がところ狭しと並んでいるのだ。なかなかの圧巻である。
 

「ベルクの立ち退き問題は有名な話ですわねー…大企業相手に小さなビアショップが一歩も引かず、多数のファンからの署名を集め対抗し店の営業を守ったという逸話、このわたくしも思わず敬意を表しますわ」

 勇気あるものには敬意を。それが貴族の矜持である。

「ハムもソーセージもパンもみな手作りなのね……こういう徹底したところがファンをつくるのかしら」

「はいお待たせしましたお客様ぁー」

「あ、はいはい私です私です」

 △ △ △

「ふぅ、客が多いから席を取るのに苦労しますわねぇ……」

 客が少なめの時間帯を狙ってもこの有様である。コロナ禍など関係ないのだ。
 席につき、マリーは自らセレクトした品々を見つめる。

「この店は手作りのものが数多いですがとりわりその第一の顔といって良いこのソーセージ、粒マスタードを山盛りにしてまず一口……」

 丁寧かつ優雅にマスタードを塗って、野性的にかぶりつく。パリっとした音が脳内を直撃。やはりこの食べ方がいい。

「溢れ出す肉汁と肉の旨味のスプラッシュに、このギネスビールを合わせれば……」

 グビリと、ギネスビールを煽った。濃厚と泡と、軽やかな味わいが肉の旨味を引き立てる。

「ダンケ……ダンケシェーン…!!」

 感謝……! ただただ圧倒的感謝……!

「そしてザウアークラウト、キャベツの発酵漬けの酸味と食感で口の中をリフレッシュ……これは無限に食べれますわ!」

 本場ドイツ人オススメの食べ方である。止まらなくて当たり前だ。

「次にこのレバーパテ。こちらもベルグ手作りの逸品。香り高いライ麦パンと合わせれば……」

 口の中にはじける旨味とライ麦の香り。

「噛み締めれば、臭みなくハーブの爽やかな香りとレバーの旨味が広がる……そしてギネス…!」

 止まらないビール、新宿駅にドイツが出現した。

「旨さのXYZですわ……! 新宿だけに!」

 貴族令嬢はシティでハンターしてたりする作品のファンである。
 ムシャムシャと食いグビグビと呑む。しっかりと食べ飲むことが明日のためのパワーを生む。力、力こそパワー。それが貴族だ。

「ふぅ……思わず堪能してしまいましたが、まだ行きたい店がありますからセーブしておきましょうか…あ、、そうだアレ頼んどかないと」

 新宿は広い。まだまだ貴族令嬢には行きたい場所があるのだ。コロナなど知ったことか。
 貴族の自由は誰にも止められない。

「ブレンドコーヒーひとつお願いしますわ」

 コーヒー、これもベルクの名物である。眠らない都市、新宿の住民の目を覚まし続けた逸品だ。

「これもベルグ手作りのコーヒー。これを堪能しないと出ていけませんわね」

 △ △ △


「しかし新宿もしばらくいってないとすぐに様変わりしますわねぇ……」

 白のドレス姿がトボトボと新宿の街を行く。たしかにここは新宿である。人通りは多い。だが、それは他の街と比べてみた場合にすぎない。例年と比べて明らかに活気が減っている。
 マリーが今歩く南口付近の都庁近くは歌舞伎町と比べ元からそれほど人は多くないのだが、それでも去年と比べ減ったように見える。なにより、少し裏側にいくと空き店舗が目立つ。

「歌舞伎町側はともかく、南口側も結構店が変わってますわ。コロナの影響かしら……」

 南口付近は歌舞伎町ほどの入れ替わりの激しさはない。ないはずなのだが。

「でもあの店はまだ営業していると信じていますわ……」

 これからマリーが目指す店は、マリーの新宿の魂の故郷と呼べるかもしれない場所だ。

「わたくしが新宿でトンカツを食べるなら、あの店しかないのだから……」

 南口からしばらく歩き、都庁前の裏路地に入る。そこにはマリーの求めていた場所がある。

 豚珍館(とんちんかん)

「ほらやってた」


 △ △ △

「お一人ですわ」

「はいいらっしゃいませ! こちらへどうぞ」

 二階への階段を上がる。店員が愛想良く出迎えた。
 席に着きながら、一息つく。

「お昼休みの少しあとだから空いていて良かったわ。昼はほんと込み合ってて落ち着かない店だから……」

 豚珍館は都庁前の有名トンカツ屋である。昼頃は客でごった返しまさに地獄の戦場と化すのだ。

「それだけ人気がある店だから仕方ないのですけれど。ライス豚汁お代わり自由ですものね」

 もちろん味もいい、だがコスパも最強なのだ。

「ロースカツ定食、それと瓶ビール。ごはん後で」

「はいわかりましたー」


 △ △ △

「はいロースカツ定、あと瓶ビールっすね」

「来ましたわぁ。まずは……瓶ビールを飲んで一息」

 興奮を鎮めるために、ビールに頼る。ギネスの後のスーパードライもまた乙なものだ。

「ひさしぶりに拝みましたわね…いつ見ても……分厚くデカいカツですわ。新宿のパワーを感じますわねえ」

 それは分厚く、大きく、あまりにこんがりと揚がっていた。カツと呼ぶにはあまりに大きすぎる。

「……世間ではやれトンカツを塩で食えデミソースで食えというのがブームらしいですが、わたくしそのような浮き足立ったものに興味はございませんの」

 貴族令嬢は不器用な生き物である。浮ついた時代の流行に合わせることなどできない悲しい生き物なのだ。

「トンカツには昔からこの備え付けのドロドロのソースをザブザブかける一択しかありませんわ!!! ここは辛口と甘口があるからブレンドしてかけるのがわたくし流!!」

 ザブザブと、本能のままにソースをぶっかける。そして辛子を添える。

「キャベツには豚珍館特製のドレッシング!!」
 
 ここの隠れた名物である甘辛いチリソースドレッシングは、キャベツ千切りとの相性は抜群である。

「そのまま突撃!!」

 ガブリと肉片食いちぎる。

「この分厚いトンカツが、驚くほどに柔らかい…! 昔から通っていますが、この値段でこのレベルのトンカツはそうそうお目にかかれませんわよ!!」

 貴族令嬢はトンカツにうるさい。高貴なる貴族ならばトンカツについて深く語ることができる程度は当然の教養である。
 寿司や焼き肉のように、トンカツもまたディープな世界観がその衣の中に無限に広がっている。
 肉はロースかヒレか牛か豚かという初級者向けから始まり、揚げ油に植物油やラードを使うか、二度揚げか、衣は生パン粉か乾燥パン粉か。無限の選択肢から最適なカツをビルドするためのルートを探すのだ。揚げたカツをカツ丼に使うのかカツカレーに使うかでもやり方はまた変わってくる。
 
 トンカツを舐めてはいけない。

「そこにビールで追う!」

 カツにビール。誰が止められるのかこのタッグを。

「エレガンツッッ!!」 

 カツ、ソース、ビール。答えられない快感。

「これが豚が食えて酒が飲める国に生まれた者のみが噛み締められる幸せですわ……!!」

 特定のものが食べられない宗教、酒が飲めないという教え。これらはマリーにはどうにも理解できないものであった。

「さらにトンカツの端、脂身のところと白飯でフィニッシュを目指す……!」

 トンカツの一番うまいところである。脂こそ旨味。脂こそ強さ。

「トンカツは国の宝ですわ…!!」

 △ △ △

「ありがとうございましたー」

 店員に見送られ、裏路地を歩く。まだ日は高い。

「ふぅ……新宿のトンカツ。ひさびさに堪能しましたわね。やはり私には雑居ビルの狭間にある豚珍館のカツが合っていますのよ……」

 マリーは新宿の空気が好きだった。ドライなようで、様々な人間を受け入れる大らかさがある。大宮のような雑さとはまた違った魅力。

「それにしても十年前からほとんど値上げしてない…すごいトンカツ屋ね……」

「さて、腹もほどほどにくちてきたしどこか立ち飲みやかそれとも……」

 それとも、なにをしたいのか。どうせなら新宿にしかない店に行きたい。

「うーんと、……なにか麺が食べたいわねぇ」


 新高揚(しんこうよう)


「地下一階というなんだか秘密基地みたいな立地のラーメン屋なのよねぇ」

 トントンと階段を下りると、店があった。

「はいいらっしゃいませ」

「一人ですわ」

 マリーはカウンターにゆっくりと腰を下ろした。

「この新高揚はパイクーメンなどの豚や鳥の揚げ物を載せたラーメンがウリの店……なにげに創業昭和57年からの新宿では老舗な部類の店なのよねぇ」

 ラーメン屋の流行り廃り、移り変わりは速い。長く続けられるということかそれはすごいことである。

「……でも先ほどはトンカツを入れてしまったので」

 今胃の中にはソーセージとトンカツが入っている。これは冷静に状況を考えねば。

「あっさりとこのぱいくーめんの麺少なめにしましょうか」

 貴族令嬢の胃腸はエレガントであった。


 △ △ △

「はいぱいくーめん、麺少なめおまちどうさまです!」

「きたきた」

 間髪入れず箸を割り、麺をすすり込む。そして揚げ豚をかじった。

「うっめ! やっぱ豚の揚げ物にあっさり醤油ラーメンの組み合わせ最高ですわぁ!」

 ハフハフと、ズルズルと、貴族令嬢の箸は止まらない。

 △ △ △

「まいどありがとうございましたー」

「……ちょっとさすがに食べ過ぎたようね、若い頃はこれくらいはいけたんですけれど」

 ウップとなるのを抑える。マリーは高貴なる身分、人前でそのような下品を晒すわけにはいかない。

「しかし、歌舞伎町側と比べると南口側はまたゆっくりしてるほうなんですけれど、かなり昔と変わってますわねぇ……」

 マリーが昔歩いていた新宿都庁前は、まだもう少しのんびりしていたような気がする。

「あっちには昔は鬼太郎の妖怪ハウスみたいなタヒチコーヒーとカレーの店があったんですけどもう跡形もないですわ……タヒチコーヒーにラム酒入れ放題だった面白い店だったのに」

 なんでも中野に移転したらしい。

「昔は変わることにわくわくしたのに、今は少し寂しいと思ってしまいますわ。これが大人になるということかしら……」

 生きることは変わるということ。ならばなにかが変わるたびに覚えることの感傷は、生きているということの傷跡なのか。
 マリーの胸中の問いに、答えるものはない。眠らない街は今日も変わり続ける。

「~♪ ~♪」

 シティがハンターしたりする新宿が舞台の例のやつのエンディングを口ずさみながら、令嬢は新宿を歩いた。
「秋刀魚……? いかにも下々が好きそうな油臭い魚ですこと」




「いらっしゃい」

「お一人ですわ。キュウリの浅漬け。それと……涼しくなってきたからビールという気分ではないですわね。久保田の冷やで」

 流れる金髪が、指を一本立てて入店する。足取りは軽く、だが背負ったリュックサックの重さで足音は重く。まるで彼女の生まれもった高貴なる家名の重量を象徴するように、ハイヒールは軋んでいた。

「へい」

 流れる有線は90年代もの。大将の言葉は少なく、腕は信用できる。そういうところに酔客は長居したくなるものだ。

「ふぅ……」

 リュックを下ろし隣の椅子に置く。ミシリと椅子が鳴った。

「えーと、オススメは……」

 キョロキョロと周囲を巡る。黒板に書かれた品書きに目が止まる。オススメにはピンクのチョークで花丸が付いていた。大将の趣味か。

「アジ刺し、それと豆アジの南蛮漬け」

「あいよ」

 同時に浅漬けと日本酒が来た。

「すっかり涼しくなってありがたいのですけれど、現場仕事も長めになってきましたわねぇ」

 秋はいつの間にか深くなっていた。こんなときこそ、季節を偲ぶのが高貴な生き方というものである。
 きゅうりをつまみ、ぽりぽりかじる。ぐいと冷や酒をあおった。

「日が落ちるのが早いと外仕事は面倒になって困りますわ……」

 すぐ暗くなると、外仕事は難儀になる。
 またも日本酒を呑み、マリーはほうとため息をつく。

「浅漬けと日本酒でしっとりと呑める……私も少しは大人になりましたわね」

「へいアジ刺しと小アジ南蛮」

 醤油に生姜を溶いて、刺身を摘まむ。夏も終わりだが、まだまだアジに脂を感じる。

「いかように料理しようとも味がいいからアジ……なんて直球な名前の魚かしら」

 アジ、生でも焼いてもうまい。干してもうまい。隙のない、そつのない魚だ。しかも値段も安い。

「そこに合わせて久保田……」

 うまい。しみじみとした、それでいて奥行きがある。なによりこの少し寒さを感じる秋という情景に、マリーは浸っていた。
 
「盛りをとうに過ぎて名残のアジ……あえて粋を外すのも乙なものですわ」

 江戸っ子は旬を大事にする。それも早めに出回る走りものを食べることを粋とする。だが味は盛りや名残の頃のほうが上だ。
 粋にやろうと片意地を張るのもまた粋ではない。甲を目指して力むのではなく、どこかで力を抜いて乙に落とすのもまた粋である。

「その食材の美味しくなる手前を走りといい、一番美味しくなることを盛り、時期の終わりかけを名残という。昔の人々は季節の捉え方が繊細でしたのね……」

 豆アジの南蛮を箸でつまむ。ザクザクと頭からかじった。ここの南蛮漬けは漬け込みが長めで頭から食べられるから好きだ。

「今日はゆるりと上品に池波正太郎的な世界でお送りしますわ……」

 貴族令嬢はこういうこともできる。ビールと油物と炭水化物だけにうつつを抜かすだけでは高貴な身分の示しにならないのだ。

「豆アジの南蛮漬け、からりと揚げた小アジを野菜を千切りにして作ったピリ辛の南蛮酢に漬けたこの逸品。飯のおかずにもいいですが、やはり酒と合わせてなんぼのもんですわ」

 チビリチビリと杯を空かす。

「当然久保田との相性は良くて当然……!」

「すいません、お銚子もう一本!」

「へい」

 運ばれる酒、とくとくと注ぎまた呑む。

「今年はイワシが豊漁でサンマは不漁だそうですわね。自然の摂理には所詮人は叶わないもの……」

 人は自然から恵みを受け、自然から奪われる。いかに科学が進もうとも人類が天然自然に翻弄される存在であることは変わらない。

「私も雨が続いて日雇いが途絶えたら、耐えるしかありませんものね」

 マリーもまた自然に翻弄される存在である。できれば変わりたい。

「家で安酒あおりながら録画してたタモリ倶楽部みてるだけの毎日も乙なものですわ……タモ様、なぜ私は手ぬぐい止まりなのですか? その程度の女なのですかわたくしは……」

 マリーはジャンパーが欲しかった。

「さて、秋も深しならばサンマも食べたくなるものですが、ないならないで我慢もすれば、あ、マツタケあるんだ…」

 品書きの真ん中にマツタケがあった。値段が高めだったので、どうやら本能的に視覚から拒絶していたらしい。金銭感覚は認識に影響を与えるものだ。

「……マツタケの天ぷら? はー……まあ中国か北朝鮮産かカナダ産でしょ、値段は……」

 土瓶蒸しの値段と、日本酒の値段を比べる。
 マツタケ焼きの値段と、日本酒の値段を比べる。

「……マツタケよりも日本酒もう一本頼んだほうがいいですわね……あ、サンマある。でも焼きだけで刺身はないわねぇ」

「冷凍もんですけどねーどうしますか」

 いつのまにやら来ていた店員の兄ちゃんが人懐っこい笑顔で聞いてきた。
 去年の冷凍ものだから刺身は避けたのか。
 どうするか、貴族令嬢は迷う。

「……一尾、焼いてもらおうかしら」 

「うっす」

 頷いて、青年は大将に注文を伝えた。

 △ △ △

「はい焼きサンマ!」

 じゅくじゅくと焦げた皮に脂が沸騰する。さんまの焼ける匂いは、この魚はなぜこんなにも人の魂をたやすく掴むのか。

「ここは焼き魚には大根おろし多めにしてくれるのが嬉しい店なのですわ……醤油とレモンで、いただく!」

 熱く焼けた身をたっぷりの大根おろしで冷ます。そのまま口に運べば、力強い秋の味がした。
 貴族令嬢マリーは焼き魚の大根おろしは多めでないと許せない女だ。大根おろしをケチる店は死罪にすべきだと思っている。

「やはり秋はサンマですわね……冷凍ものでも、サンマを秋に食べるというこの感動が大事なのですわ!」

 秋に秋の物を食べ、酒を呑む。ただそれだけでいい。風流とは、本来は贅沢なことではない。富めるものにも貧しきものにも季節は平等に過ぎるもの、春夏秋冬を味わうことは誰にでも開かれた楽しみである。

「肝の苦味も私の好み! 久保田が、久保田が足りないわ……!」

 マリーは凛々しく、空の徳利をかかげた。

 △ △ △

「ありがとやっしたー」

「ふぅ……やはり秋にサンマを食べると食べないでは満足感が違いますわね。冷凍ものでも、おいしいものはおいしいものですわ。それに、もう少し待てば生サンマにも出回るはず……」

 最初は水揚げがなくとも、後から復活することもある。今は焦らずにゆっくりと待とう。
 秋風に吹かれながら、夜の街を歩き出す。深くなった夜は、そるでもまだどこか生ぬるかった。酔いを冷ますほどではなくて、それでもまだ喧騒は戻らなくて。

「『会えないことは、もう一度会ったときに嬉しさを倍にしてくれる』そう叔父様は仰っていましたわね……」

 微笑えみながら、マリーはアラン男爵の言葉を反芻する。アスファルトを蹴るハイヒールは、酔いにどこか踊っていた。

 「二度目の浮気がバレて奥さん子供に実家に帰られて、子供に二年間会わせてもらってない叔父様……」

「また日高屋……?何度も貴族をバカにして……いい加減にしてくださるかしら……?」




「すっかり涼しくなって秋ねぇ」

 とぼとぼとジャージ姿が夜をさ迷う。長身に整ったプロポーション、闇のなかに輝くような金髪をひとつかみにまとめたマリーは肌寒くなった秋の空気を吸い込んだ。
 ペタペタと、履き古したサンダルの音が道に響く。重なる鈴虫の鳴き声。


「秋なら秋らしいものが食べたくなるものだわ」

 時刻は深夜1時ごろ。日中部屋の掃除や洗濯を済ませて気がつけばうとうとと寝てしまった。目が覚めればこの時間である。

 無性になんだか空腹だった。
 気がつけば、外に出ている。

「秋らしい深夜に、秋を強く感じられる場所といえば」

 駅前の店舗にマリーの足が向く。深夜でも明るい店内。写真を多用したデザインよりわかりやすさ全開の店先。
 それは彷徨うものが最後にいきつく場所だ。どんなものも優しく迎え入れてくれる場所だ。

「……イラッシャマセー」

 アジア系の店員が、死んだ目で挨拶する。

「深夜営業の日高屋しかないわねぇ……あまり知られてはいませんが、日高屋は秋の終わりごろを意味する晩秋の季語なのですわ」

 ※嘘です。

「さりげない動作でレシート入れに捨てられていた大盛無料券を拾い……もといお救いし」

 ゆっくりと、席につく。

「あんかけラーメン、大盛で。券ありますわ。それとメンマ」

「……アイヨー」

 店員が返事をしキッチンに戻る。見慣れたいつもの光景。

「明日は休み、一日中寝てられるのでつい夜中に来てしまいましたわ」

 夜中にやるこの好き勝手。社会人となっても夜更かしは楽しいものだ。

「晩酌はすでに昼間に済ましておりますので、今は呑みません」

 貴族令嬢とていつも飲んでいるわけではない。状況と節度を守れることが一人前の貴族の証明である。

「人生の豊さに必要なものとはなにか…… 金、人、地位、無数にあるなかで、あえて一つ。ひとつだけをあげるとするなら」

 人生に必要なものは多い。だがあえて、数々の選びがたいものから選ぶとするなら。それは。

「自宅から徒歩15分以内に24時間営業のラーメン屋があるか、という点ですわね」

 食いにいきたいときに食いにいける。それは大事なことだった。

「深夜に食べるラーメン。そこに罪などあるわけがございませんわ……」

 本能に、生きるという意思にしたがって食っているのだ。誰がそれを裁けるのか。貴族に罪なし。

「しかし時刻はさすが深夜1時ですわ」

「■■■■■■■ッッッ!!!」

 言葉にならない大声。大声をからし笑いながら絶叫しあう泥酔したサラリーマンふたりがいる。

「■■■ッッッ!! ■■■ッッッ!!!」
 
 すでにどこの国の言語かさえわからない言葉らしきもので会話なのかよくわからないことをいいながら酒を空ける。三次会か、それとも終電を逃したのか。

「10101111111000000010001110!!」

 泥酔した大学生らしき二人組。こちらも言語形態が人間の枠から外れてきている。

「1010111111111100000111!!」

 なにかしきりに泣いている男を、相手の男が肩を叩いて慰めているらしいのだが、なにを言っているのか理解できない。

「二次会三次会上がりか、それとも朝まで呑むつもりなのか。もはや生ゴミかヘドロになりかけた皆様がお集まりになってとてもぶっ壊れてますわね……これこれ、深夜の日高屋といったらこれですわ」

 都会の中に突如現れた無法のジャングル。深夜1時を回り終電を諦めた人間が来るということは、こういうことなのだ。貴族令嬢はこのもはや野生の王国と化した日高屋の空気が、どこか好きだった。

「酔っ払いをおかずにほどほどの味のラーメンを食う。深夜のラーメンなんてそんなものでいいですのよ」

 それでいいのか。

「ハイ、オマチヨー」

「あら、ありがとうございますわ」

 置かれたどんぶりを眺め、箸を取る。

「この五目あんかけラーメン、普通のラーメンにようは中華丼のあんかけをかけただけの代物ですけれど」

「コショウと酢をもりもりかけて……」

 酢は小瓶の半分いれるのがノルマだ。

「すすり込む!!」

 熱いあんかけと麺を一気に喉にぶちこんだ。

「秋味ッッッ!!」

 貴族令嬢の背後が光った、ような気がした。

「あんかけのラーメン、寒いときに食べたくなって当然のメニュー。そして想像通りの味ッ! てらいはなく外れもない。それが日高屋ですわ!!」

 そうこれが日高屋だ。最初の期待値を高くもなく低くもなく越えていく。このわかりやすさ、安牌感が日高屋なのだ。

「しかし当然あんかけは熱い……水、水を……」

 熱いラーメンは当然水分が欲しくなる。口中を冷ましたい。そんな衝動に駆られる。

 「水……み……ウォッカのソーダ割りおひとつ!」

「アイヨー」

 △ △ △


 ゴキュゴキュとウォッカ割りを飲み干す。乾きが癒される。

「ふー」

 だん、とテーブルに半ばまで減ったグラスを置いた。

「思わず頼んでしまいましたわ……呑む気はなかった、呑む気はなかったはずなのですが……ロシア語でウォッカは水の意味もありますので、まあこれは仕方ないケアレスミスというやつですわね」

 良質な教育を受け豊富な教養を身に付きた貴族と言えどミスは起こる。大切なことはミスをいかにリカバリーできるかだ。

「呑んでしまったものは仕方ない。人生は風のふくまま、あるがままにですわ」

 アクシデントを楽しむ。それが人生を楽しむこつだ。

「さて、一杯呑めば二杯呑んでも同じこと……店員さん、餃子、あとハイボール」

「アイヨー」

 マリーは思う。果たして呑む気で呑む酒と、呑むまいと思い結局呑んでしまう酒の味に違いがあるというのか。
 マリーは思う。後者の酒のほうがなんだか旨く感じるものだと。

「深夜のラーメンが一呑みに切り替わる…これも秋の風情ですわ。あーハイボール旨い……」

 ぐびぐびと呑む。酒は旨い。だからそうなってしまうものは仕方ない。別にこれは貴族令嬢の意思が弱いわけではないのだ。多分。

「日高屋の餃子は……いつもほどほどの味ですわね」

 モグモグと餃子を飲み込む。

「君は……伯爵家の……マリー君か?」

 名前を呼ばれ振り向く。その先には日高屋店員のユニフォームがあった。そして、見慣れた老人の顔。

「た、大公殿下っ!? なぜ日高屋の店員の格好を!?」

 なぜこのようなところに貴種の貴種たるオーギュスト大公殿下がいるというのか。マリーにはわからなかった。

「いわゆる貴族の嗜み……バイトというやつだよ。深夜は時給がよくてねぇ」

 どこか恥ずかしそうに、はにかみながら大公は頬を掻いた。

「殿下、奥様は今はなんと……?」

 あれから、関係の修復はできたのか。

「あれはまだ許してくれないようだ。まあ仕方あるまい」

「頑張っておられるのですね」

「ああ、老いぼれでもやれることはある。それにそろそろ我狼の新台も出るしな」

「軍資金集めですか……」

「バイトー! △○×※※※△!」

 キッチンでアジア系の店員が叫ぶ。大公が振り返った。

「×※※※※※※!」

 笑顔でサムズアップを返す店員。笑うオーギュスト大公殿下。パーフェクトコミュニケーション。

「……今のは?」

 聞きなれぬ言語を流暢に返す大公殿下。こんな言葉を話せたのか。

「南ベトナム語だよ。バイトの子から教わったんだ」

「殿下は頑張ってらっしゃるのですねぇ……」

 △ △ △

「ありがとうございました」

「それではさようなら大公殿下」

 頭を下げる大公殿下に手を振り、深夜の街を貴族令嬢は歩く。
 自由に呑めて、自由に食べて、自由にさ迷える。これがこの国のいいところだ。

「思わぬ時間に思わぬ人と出会ってしまいましたわねぇ……」

「しっとりとした深夜と、少しの驚き。それが秋というものなのでしょうか……」

 コロナの緊急時事態宣言が解除されとりあえずは普段の様子となった街。まだおっかなびっくりとだが、それでも元にもどっていく。
 
「またコロナが流行ったらお上からの要請で店が閉まるのかしら……もしかしたら店で酒を呑むななんて禁酒法まがいの話しになるのかも……なんてそんなわけないですわよね。食べ物と酒に寛容なのがこの国の美徳なのに。ハハッ」

 そんな状況など想像するだけでまっぴらごめんだ。

「それにしても知り合いが働いてるとなんだか行きにくいんですわよねぇ……」

「焼酎……? はぁ、こういう品のない安物を飲んでいるからあなた方はそういう風になっていくのですわね」



「うぅ、さぶかったぁ」

 かじかむ白い手で戸を開ける。冷たい11月の空気を引き連れて、高貴なる姿が安居酒屋に飛び込んだ。
 縄のれんをくぐり、ボリュームのあるドレスがカウンターの椅子にどっかりと腰をおろした。

「へいらっしゃい」

 すかさずよってくる店員に、鼻をすすりながらも上品にマリーは注文を告げる。

「黒霧島、お湯割り。あと梅干し一つ」

「へい」

 マリーは上に和柄のスカジャンを羽織、その下にドレスを着ていた。背中には刺繍の金で作られた竜と虎。奥ゆかしい高貴な柄である。上野アメ横で買ったお気に入りだ。

「寒すぎですわよ……人間が外に出ていい気温ではありませんわ」

 だが現場仕事がある以上はでなければいけない。貴族に泣き言は許されないのだ。

「はいお湯割りと梅干し」

 どんと置かれた湯気の立つ陶器のタンブラー。横には小皿に置かれた梅干し。
 マリーは梅干しをお湯割りにぶちこんだ。

「お湯割りに梅干しを箸で崩していれて……」

 グジグジと箸で焼酎の中の梅干しを崩す。

「すする……」

 口をつけてズズッと一口だけすすり混む。熱により際立つ霧島の香り。梅干しの塩気と酸味。そして冷えた体を暖める熱量そのもの。

「……染み渡りますわねぇ」

 ほう、と息を吐くマリーの姿はどこか色っぽくさえ見える。ような気がする。多分。

「最近警備員のバイトも増やしてみましたけれど、ちょうど気温も下がってくるとは……令和は相変わらずデスモードですわねぇ」

 11月はまだそれほど寒くはならないと思っていたがこんなに冷え込むとは。

「若い頃は焼酎のお湯割りなんてジジイの寝酒と思っていましたけれど、冬の外仕事の後に呑むならそりゃハマりますわ」

 ズズズとすする。鼻水がまた出そうになった。

「梅干しいれるとつまみもそれほどいらないのもいいですわズズズ」

 この店の梅干しは今流行りの減塩やはちみつを使った食べやすい梅干しではない。塩気の強い昔の梅干しのだ。それがまた酒飲みの肴になる。
 梅干し、塩、そんなそっけのないもので酒を呑む。体には悪いだろうが、そういうことをするとやっといっぱしの酒飲みになったようが気がする。

「といってもこれで乗り切るほどわたくしもまだ老いてはいないのも事実……」

 労働後のマリーの腹は、減っていた。

「黒霧島のお湯割りと梅干しをもういっぱい。それとおでんを3品ほど見繕ってちょうだい。あとめざし」

「へい」

 小さく返事をする店長。マリーはやや冷めたお湯割りを今度はぐびぐびと飲み始める。

「焼酎はやはり芋ですわぇ」

 マリーは芋焼酎の荒々しい味わいを愛していた。臭いという人もいる。苦手という人もいるだろう。だがこれが個性だ。
 美点や優れた点を愛でることは誰にでも出来る。嫌われるかもしれない欠点や眉をひそめられる癖を受け入れることが真にそれを愛するということ。
 人の愚かさを慈愛を持って愛するように、マリーは焼酎の荒さを愛していた。
 深く、深く胸の奥に受け入れるように杯を空かす。

「へい、薩摩揚げ、はんぺん、しらたきです。それとめざし、あとお湯割りと梅干し」

 注文が来る。湯気を立てるおでん。梅干しを再びお湯割りの中で崩し、ウキウキとマリーはおでんに箸を向けた。

「チョイスはまずまずね。まずはからしべったりつけてはんぺんから」

 口に入れば出汁の味とともにふわふわと崩れる。そしてからしの辛さが広がる。

「このふわふわ食感からお湯割りで追いかけて」

 ズズッと、また熱々のお湯割りをすすりこむ。

「まさに淡雪……!」

「肌寒い春もいいですけれど、やはりおでんは冬場が花ですわねぇ。薩摩揚げも染み染みですわ」

 染みてくったりとした練り物、出汁を吸ったしらたきもいい。お湯割りが進む。

「こうしてお湯割りをいれてほっこり温まってみると」

 タンブラーを大きく傾ける。タンブラー奥にあった梅干しの果肉を噛みながら、焼酎の香りを堪能する。

「こんどは冷たいものでクールダウンしたくなるのが人の業……コンビニでアイスクリームが一番売れるのは冬といいますものね。店員さん、黒霧島、今度はロックで。それとカットレモンつけて下さる? それからもつ煮も」

 頷く店員。即座にマリーの注文に応える。

「へい、まず焼酎ロックとレモン!」

 運ばれたグラスに大きめの氷。それと焼酎。

「これにレモンを絞って……」

 ギュウと、汁がこぼれる。

「絞って…」

 ギュウと、汁がこぼれる。

「渾身の力をこめて…」

 ギュウと、絞ってももうなにも出ない。

「死に腐れ年金保険料…!!」

 もう絞ってもなにもでないぞ貴族令嬢。

「ふぅ……」

 汗をぬぐい、こくりと一口呑む。

「このロックの芋の荒さに、レモンの清涼感が素敵なのですわ……」

 怒りと共に貴族令嬢は焼酎を飲み込んだ。マリーは大人なのだ。理不尽も怒りも耐えられるはずだ。

「味噌味のもつ煮、定番を食べながら荒れ狂う芋焼酎ロックで押し流す。乗ってきましたわよ……!」

 グビリ、ムシャムシャと消える酒と肴。こういうことは火がつくと抑えが効かないものだ。

「年末が近づいてくる雰囲気、このせわしなさも前年までは好きなものだったのですが、今年は違いますわねぇ」

 マリーに陰りがあった。高貴なる美女に、憂いの表情。それはまるで朧月のように儚げで幻想的に。

「とくに年末に多くなる工事現場の警備員をしているとドライバーの気性の荒さが社会経済と密接に結びついているといやがおうでも察してしまいますわ」

 グビリと呑む。不景気とドライバーマナーの関係性について思いを巡らせる。これは統計して発表したらなにか賞もらえそうな気がしてきた。

「ドライバーの横暴さに思わず伝統派空手を使ってしまいそうになる瞬間もある……しかし我慢、我慢こそが人生なのですわ」

 怒りは振るってはならない。怒りは腹に納めてはいけない。怒りは足元にこめて己を支える礎にするのだ。それもまたノブレス・オブリージュ。

「ダメですわね。暗い酒はいけませんわ……そう、なにか〆、心が軽くなるような〆は……焼酎尽くしの流れ、このまま酒飲みらしい渋いものを一つ腹に入れて締めたいですわねぇ」

 おにぎり、茶漬け、にゅうめん。そういったものが浮かぶ。

「さっぱりとしたのを入れてさっと出て行くのが粋な酒飲みというもの……しかしここは聞いてみるのも手ですわね」

「店員さん、なにか〆でオススメありますの?」

 声をかけた店員は、最近店に入ったらしい金髪のバンドマンの青年だ。

「そうっすねー! うちは焼き肉乗せキムチチャーハンがよくでてますよ! うえに目玉焼き乗ってるやつ」

「……」

 しばし、声が出なかった。マリーの中で「なにかが違うでしょう?」という葛藤があった。
 この流れなら、もう少し別の選択肢があったはずだと思う。どうするか。
 十秒の沈黙の末、マリーは決断した。

「じゃ、それで」



 △ △ △


「うっめ! キムチチャーハンに焼き肉のマリアージュうっめ!!」

「半熟たまご潰して豚カルビ肉と合えるとうまさ爆発ですわ!」

△ △ △

「ありがとうございましたー」

店員に見送られ、マリーは夜の街を歩く。焼き肉のせキムチチャーハンというガソリンで暖まった体に冷たい夜風でさえ心地いい。

「ふぅ、なんだかんだでがっつり決めてしまいましたわ。仕方ないのよ、冬はカロリーが必要ですもの。南極越冬隊は体温維持にカロリーを消耗するからがっつり食べても痩せるのは有名な話ですし」

 結局は、肉と脂が力となるのだ。

「こうして忙しく働く身になってみると、学生時代が懐かしいですわ。お姉様との思い出……東京モード学院へカチコ、交流にいったのはこんな寒い日でしたわね……」

 そして懐かしさもまた明日への力となる。

「モード学院四天王、今なにしてるのかしら」