貴族令嬢がジャンクフード食って「美味いですわ!」するだけの話

「もんじゃ焼き……? なにこの……これはまるで……下品だわ!!」




「ふぅー」

 リュックを置き、続いて疲れた体を席に投げ出す。一息つく彼女へ、店員のおばちゃんが近寄った。

「いらっしゃいませーおしぼりどうぞー」

 冷たいおしぼりをもらい、メニューを見ながら貴族令嬢マリーは今日の注文を呟く。

「えー、カレーもんじゃにシーフードのトッピングで。あと鳥バター焼きと枝豆。それとビール」

 流れるように注文。今日もマリーは欲望のまま、食欲のままに生きる。それが高貴なる者の宿命だからだ。

「はーいビールは瓶でいいですか?」

「瓶でお願いしますわ」

 力強く答える。生と瓶、その日によってカジュアルに使いこなしてこそ、上流の貴族なのだ。

「はいはーい」

 背を向ける店員を見送りながら、マリーは冷たいお絞りを広げだ。

「ふぅぅぅ」

 ゴシゴシと顔を拭き、続いて首筋まで拭いていく。

「やっぱりおしぼりで顔を拭くのはやめられませんわねぇ……」

 こればかりは止められない。

 フルタイムで働いた午後五時。汗ばんだ体には冷たいお絞りが効く。効きすぎる。

「はい枝豆でーすビール御注ぎしまーす」

「あドーモドーモ」


 コップに注がれた黄金の液体。今日もマリーを労ってくれる優しさを、一気に飲み干す。喉を通る刺激、そして快感。苦味、酸味、やがて爽快が踊る。

「あ゛あ゛っ!! うまっ!」

 思わず声が出た。続いて小鉢の枝豆を摘まむ。

「やはりあからさまな冷凍の枝豆……でももうすぐ生の枝豆がでてくるからそれまでの辛抱ですわね」

 そろそろ初物の枝豆が出る。根つきの枝豆を買って家で茹でるのが貴族令嬢の毎年の楽しみの一つなのだ。

「それにしても、仕事が増えてきたはいいですけれどどこもスケジュールの遅れを取り戻すために焦っていますわね、安全が第一というのに……」

 コロナで遅れたスケジュールを取り戻すため、現場は忙しい。だが働く人間の安全をないがしろにすることは許されない。マリーは人道系貴族令嬢なのだから。

「なにごとも安全は第一…そうこんなもんじゃ焼きを焼くときでさえも……」

 優雅な動作で鉄板に火をつけ、油を塗り込む。そして前回の悲劇を繰り返さぬ為に、ビール瓶は手元から離して置いた。

「はいお待ちどうカレーもんじゃ焼きのシーフードトッピングと鳥バター焼きでーす」

 やってくるカレーもんじゃ、そして鶏ももとバター。マリーの脳が即座にどうやれば最適かを計算する。
 知略こそが貴族の武器である。

「もんじゃ焼きをかき混ぜながら十分温まるのを……待つ……!」

 カチャカチャともんじゃの入った丼を優雅にかき混ぜる。むろんはみ出すような不作法はしない。

「貴族たるものあらゆる作法に通じていなければ恥をかくだけ……もんじゃを焼く程度は出来て当然ですわ」

 マリーに隙はない。もんじゃの焼き方に戸惑うような少女ではないのだ。

「今回は両面作戦ですわ。鉄板の片面に鳥バター焼きの鶏肉を並べる……」

 皮目を下にして、手際よく並べられる鶏肉。油が爆ぜて音を出す。

「もう片側にはもんじゃ焼きの『具』のみを投入し、まずはコテで炒める」

 丼からもんじゃ焼きの具の部分だけを鉄板に入れ、炒める。カレーの匂いが広がった。
 具材を炒めたら、ある程度火が通った所で中央を開けたドーナツ状に形成する。これを通称『土手』と呼ばれる形状である。

「そして中央の穴にもんじゃの汁を流す……汁を流さず火を入れながら土手をゆっくりまぜていく……」

 ドプドプともんじゃの汁がドーナツの穴に注がれる。汁に火が入ることで粘り気が生まれ、それを土手になった具とゆっくりかき混ぜていく。

「汁が粘性を帯びてしっかり固くなってきたら全体を混ぜて」

 グジュグジュと混ぜられるもんじゃ。あのもんじゃ焼きの姿になってきた。

「軽くしょうゆをかけて味を足す……もんじゃ好きはソース派としょうゆ派でわかれますわ。私はしょうゆ派」

 目の前に、黄金の海があった。鉄板の上に、少年のたちの思い出がある。
 端のほうを、マリーは薄く小手で鉄板にのばしておく。これが後からものをいってくるのだ。

「さあ出来上がり……、おっと鳥バター焼きも片面をひっくり返しておきましょう」

 ヒョイヒョイと鶏肉を返す。あとすこしだ。

「さてもんじゃ焼きを食べ……」

 ちびりと、小手でアツアツを一口。

「追ってビール!」

 一気にグラスを開ける。

「下町が舌の上で踊る…! 安い冷凍のシーフードミックスも、カレーで匂い消しされて旨味のみを存分に楽しめますわ!」

 これこそがマリーの狙い。やはりカレー味は偉大である。

「もんじゃ焼きのいいところはチビチビと食べれるの持ちの良さ……そして駄菓子でトッピングの幅が広がる自由なカスタマイズ性も魅力…懐の深く付き合いのいい男はモテるのが当たり前ですわ」

 ベビースター、キャベツ太郎にうまい棒。もんじゃと相性のいい駄菓子は数知れずにある。この懐の深さに子供も大人も見せられるのだ。

「そろそろ焼けてきた鳥肉に、上からバターを乗せてかるく醤油」

 最初に鉄板にバターを溶かして焼くと最後にバターが焦げ付くのでマリーはバター後のせ溶かし派である。

「バター醤油なんて酒に合って当然…!」

 グビグビと、ビールを空かす。楽しい。やはり鉄板焼きは、もんじゃ焼きは楽しい食べ物だ。


「店員さん、レモンサワーお願いしますわ」

「あいよーはいレモンサワー!」

 二杯目。今日もマリーの肝臓はベストコンディションだ。

「そしてもんじゃ焼き最後にして最大の楽しみは」

 マリーの視線は、鉄板の端に向く。

「この最初に薄く伸ばして放置していた部分……!」

 小手で薄くしたもんじゃ焼きをはがす。熱によりパリパリとしたもんじゃせんべいといえるものへ変わっていた。

「これこれ、このもんじゃ焼きのせんべいを楽しまないと話が終わりませんわ…!」

 パリパリと、そしてグビグビと、マリーは童心に返りもんじゃを楽しんだ。

「十万円給付まであと一週間、ここが耐えどころですわね……しかしどんなときも日々を楽しむことが貴族が貴族たる証……私は負けませんわ」

 空を、というか店の天井を見上げる。思い出すは、マリーにいつだって優しく接してくれたアラン男爵、アランの叔父様の笑顔だ。

「『楽しむということを忘れなければ、いつだってそこは天国になる』」

 それは、アラン男爵が言っていた言葉。

「実家から帰ってきた奥さんに小遣い減らされて昼食代が1日120円になったときも、叔父様はそういっていましたわ…」


 △ △ △


「まいどー」

 店員に見送られ、マリーは店を出る。外はほの暗かった。

「ふぅ……久々のもんじゃ焼き、堪能してしまいましたわ。まあ明日は休みですからゆっくりと」

 檸檬堂でものみながら、撮りだめしていたゴッドタンを見ようか、そう思っていた時。

 ピルルルル ピッ

 携帯が、鳴った。
 
「え、仕事っスか? 板橋? 朝8時から? ……遠いっスね。人手がない? あーはいはいわかりましたわかりました行きます行きますチィース」

「ふー、…とりあえず稼げる時に稼いでおきますか!」
「サイゼリヤ……? いかにも下層民が好きそうなところだわぁ」




「いらっしゃいませーお一人ですね。こちらにどうぞ!」

 店の中は閑散としていた。緑を基調とした看板をぐぐり、イタリアの田舎の食堂をイメージした店内に、ドレス姿が現れる。優雅な、それでいて力強い足取りで店員に案内され、やがて椅子に座る。
 そして、メニューも見ずに言い放った。

「グラスビールをひとつ。マルゲリータピザと辛味チキン。それから小エビのサラダをお願いしますわ」

「はいわかりましたー」

 しばしの間。ドレス姿の貴人、伯爵令嬢マリーはその間をじっと目を閉じて待っていた。
 深く、深く集中している。

「はいお待ちどう様です、こちらグラスビールです」

 置かれた杯を、手にとりそして即座に喉に流しこむ。

 喉の鳴る音が、雄々しく店内に響き渡る。

「ううぅぅ……」

 唸った。貴族令嬢の喉が、魂が、唸った。

「今日は暑かったから染みますわねぇ……」

 彼女は、渇いていた。

「現場仕事が入るとこの陽気……参ってしまいますわね」

 ついこないだは肌寒かったのに、今度はいきなり暑くなった。天然自然だけはいかに高貴なる血筋でも自由には出来ないものだ。

「はいこちらマルゲリータと辛味チキンです!」

「ピザはやはりシンプルなマルゲリータ一択ですわ」

 ピザを一枚手に取る。そしてかぶりつく。パリッとした生地の触感に、熱いチーズ、トマトソースの芳香。
 そして追撃のビール。当然にうまい。

「辛味チキンというサイゼリヤ永遠の定番」

 ほのかな辛味が食欲を倍増させる。手羽の骨際の旨味が脳を焼く。逆らえない快感がマリーを貫いていた。

「そしてビール!」

 そしてやはり追撃のビール。もはやなにもいうまい。

「優勝! 優勝ですわ」

 今日も貴族令嬢マリーは無敵だった。八時間労働の体に染み込むアルコール、カロリー、そして脂質と塩分。すべてが高貴なる彼女を祝福している。

「店員さんストロングゼロひとつ。それからプロシュートと、試しに頼んでみましょうか。エスカルゴのオーブン焼き一つ」

 一つ、冒険をしてみることにした。マンネリな今を撃ち破るものは、いつだって挑戦しかない。

「……エスカルゴってカタツムリですわよね。どんな味なのかしら」

 ナマズやツキノワグマくらいなら食べたことがあるが、カタツムリはさすがに経験がない。

「でもなにごとも挑戦は大事だわ。そう挑戦は大事……履歴書書いて正社員募集探さないと」

 マリーには、挑戦するべき課題が多い。

「……果たしてこのご時世で正社員募集はあるのかしら」

 コロナ不況はまだまた猛威を振るっている。

「というかもう今更正社員狙おうというのがマズいような……」

「はいエスカルゴ、プロシュート、それにストロングゼロです」

 メニューが来る。しばしの沈黙の後、マリーはフォークを取った。
 まずは食べる。食べて呑む。話はそれからだ。
 エスカルゴをたこ焼き器のような独特の形状の皿から持ち上げ、しげしげと眺める。

「まあ、食べられそうな見た目はしてますわね」

 意を決し、口に放り込んだ。

「……あ、エスカルゴおいしい」

 ガーリックと旨味の爆発。なかなかの味わい。

「貝みたいな食感でガーリックバターめっちゃ合いますわ!」

「ストロングゼロとの相性も最高!」

 グビグビと度数9%を呑む。すっきりと洗い流されるエスカルゴの後味。そしてまたエスカルゴを食う。そしてプロシュートを摘まむ。ハムの塩味旨味、たまらない。

「旨いですわ……なにごとも挑戦は大事ですわね。店員さん、カルボナーラ。それとハンバーグ。あとストロングゼロもういっぱいお願いしますわ」

 △ △ △

「やっぱり麺類は豪快にすするのがおいしいですわね!」

 黒コショウを多めに振ったカルボナーラが、豪快なすする音と共に空になる。ねっとりとした卵とチーズのコクを、マリーは存分に味わう。

「今日不足していた肉分もハンバーグで補給!」

 一気に切り分けて、かぶりつく。柔らかな挽き肉の食感。デミグラスの旨味。存分に味わう。

「それをサイゼの聖水ことストロングゼロで流す!」

 ゴキュゴキュと、またも喉が鳴る。

「ふぅー……」

 至福であった。マリーはいま、ローマの風を感じている。


 △ △ △


「ありがとうございましたー」

 店員に見送られ、夜道を歩く。
 春とはいえ夜道は暗い。女性、特にかよわい貴族令嬢には不安もあるが、マリーは伝統派空手を護身用に嗜んでいる。それなりの夢枕漠的な、あるいは刃牙的な展開が飛び込んでこようとも対応できる自信があった。

「とはいえ、夜道が危険なことに変わりなし。ふぅ……ちょっと食べ過ぎてしまいましたわね。ちょっと運動を……? うわなんか踏んだ!?」

 足元に違和感、思わず飛び退いて左手を前に、右手を中段打ちの位置へ。いわゆる基本立ちの構えを無意識に取っていた。

「うう……」

 夜道の中で呻く人影。見慣れた貴族の服、長身の男性が倒れている。

「あそこに倒れているのは……」

 見覚えが、ある。

「大公殿下、またオーギュスト大公殿下ではないですか!?」

「おお君は……伯爵家のところの……」

 肩を貸す。細い体を立ち上がらせる。

「マリーですわ。今度はなにがあったのですか大公殿下様……」

「なぁに、少々の荒波を楽しんできたところさ」

 オーギュストの服は、前よりも煤けていた。だがそれでも立ち居振る舞いには気品が感じられる。老いてなお、この状況でなお、やはりこの方は貴種の中の貴種、貴族の中の貴族なのだ。

 オーギュストの胸ポケットには、雀荘のライターが入っていた。

「……玄人がおりましたの?」

「競馬もパチンコもしまっていたから、一つ雀荘にいってみたんだがこれがなかなかの玄人打ちがいてな……楽しめたよ」

「楽しみ代が高くついたようですわ」

「まあ、これも勝負だ」

「今この時期は賭け場全般が荒れているというのに……!」

「笑ってくれ。老いさらばえると、無駄に自分を試したくなるものだ」

 懐からカップ酒を取り出し、オーギュストが一口呑む。
 春の風の中で、老人は薄く微笑んだ。
 後悔はない。そう横顔が語っている。

「大公殿下様……」

 後悔はない。命を試したのだから。

「ところで、マリー君。三千円ほどまた貸してくれないか?」

「また上野? わたくしああいう薄汚れたところにはもう参りたくありませんのよ」



 燕湯

「う゛あ゛あ゛あ」  

 壁面には、雄大なる富山の立山が描かれていた。その横には今は貴重となった富士山の溶岩石によってつくられた岩山がある。
 そして、客の居ない湯船、うなり声がある。

「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……」

 湯船の中には美しい女がいた。陶器のように白い肌は赤くなり、優雅な輪郭は堅く食いしばれたことにより歪む。目を閉じ、ただずっと唸りながら湯船に肩まで使っている。

「あ゛あ゛あ゛ぁ……」

 貴族令嬢マリーは現在47度の熱湯風呂に肩まで浸かっていた。
 
 ここは上野有数の老舗銭湯である燕湯だ。まるで昭和時代のドラマのセットそのままな店構えとその内装は見るものを圧倒する。
 
「この銭湯は五十度近い都内有数の熱湯風呂が名物ですわぁぁ……煮込まれていくモツ煮になった気分……」

 燕湯の湯船温度は最大50度にも達する。いかに貴族といえどそう長く耐えられる温度ではない。

「限界が見えたら熱湯風呂から脱出!」

 豪快に湯船から立ち上がる、マリーの均整の取れた体。そのままシャワー場へ歩く。
 栓を押した。

「そのまま冷水シャワー!!」

 燕湯に水風呂はない。ザバザバと、冷水シャワーを頭から浴びながらマリーはゆっくりと息を吐いた。

「ふぅぅぅ、自律神経が整っていくぅ……」

 △ △ △

「銭湯上がりのコーヒー牛乳はなぜこんなにも美味なのか……」

 一糸まとわぬ全裸で腰に手を当ててコーヒー牛乳を飲む。扇風機の風を全身に浴びながら、タオルをスパンと肩に当てて担ぐ。まるでギリシャ彫刻の如き優雅な肉体美。
 マリーは銭湯の作法を完全に習得している。
 
「燕湯は銭湯でありながら国指定登録有形文化財。まさに貴族にふさわしい伝統の風呂でしたわね……御徒町駅から降りて来たかいがありますわ」

 今日は、上野を満喫するのだ。

「さあ、待望の十万円が給付されましたし、今日は貴族らしく昼風呂から上野を悠々と楽しみましょう」

 十万円が来た。耐え難きを耐えた、その報いが今。

「これぞパーフェクトプラン……!」

 その前に、服を着ろ貴族令嬢。

「まあ色々支払いで十万円もそれほど残っていませんが……まずこざっぱりとしたところで」


 △ △ △


立ち呑みカドクラ

 時刻は午前11時。数人の先客が卓を囲んでいる。ビニールシートが張られた店先を潜り、マリーはキッチン受付を目指す。

「始めはここですわ……ハイボール、ハムかつ、あと牛すじとキムチお願いしますわ」

 注文し先に会計する。本来ここはキャッシュオンデリバリーで商品と引き返しに会計する方式だったのだが、コロナの流行で先会計の券で呼び出すやり方に変えたそうだ。

「あいよーはいまずハイボールと牛スジ!」

 酒と煮込みはすぐに出てきた。マリーは風呂上がりの乾いた喉へ、迷うことなくハイボールをぶち込んだ。

 ゴキュゴキュ

 呑む。
 
 ゴキュゴキュ

 呑む。呑む。呑む。

 ゴキュゴキュ

 呑む。呑む。呑む。

 ズゾゾゾ

 そして底にある酒をすする。

 やがて、マリーはジョッキから口を離した。

「……ああああ!! 四日ぶりの酒は美味すぎですわこりゃあ!!!! SAN値すり減るぅ!!」

 令嬢は狂おしいほどに渇いていた。

「ハイボールおかわり! 濃いめで!」

 またもカウンターで注文、酒と引き換えに会計して席に戻る。ついでにハムカツとキムチも持ってきた。

「カドクラは焼き肉屋大昌園の系列…肉系のつまみに外れない、当然ハムかつは美味……!焼き肉屋ということでキムチも外れがないですわ!」

 ムシャムシャとむさぼりながら、さらにハイボールを傾ける。もういくらでも入っていきそうだ。
 
「やはり日が高いと飲む酒のうまさも倍に感じますわねぇ!!」

 グビグビと呑む。呑んで食う。その開放感、プライスレス。

「というか酒はやはり昼から呑むもんですわ! むしろ夜呑むほうが不健全!!」

 貴族令嬢の倫理観は一般人と少々異なっていた。貴族なので仕方がないことなのだ。

「しかし、アルコールやシートがペタペタ垂れ下がってはいますけれど、確実に人は店に戻ってきていますわね……」

 店にはいる時も検温してアルコール消毒をさせられた。飲食業としてはクラスター発生源となっては致命的になるかもしれないので必死になるのは仕方ないことなのだが。

「少しずつでも、いつもの日常が戻って行くのは嬉しいものですわ」

 グビグビと、ハイボールを呑む。

「酔っ払いがいない上野なんて米のないチャーハンのようなものですわ」

 貴族令嬢の上野観は偏っていた。

 △ △ △

肉の大山

 店先の立ち飲みスポットを抜けてやや薄暗い店内へ。検温とアルコール消毒を済ませて、マリーはカウンター席に着座する。

「大山盛り合わせスペシャルランチ一つ、あとは生ビール。それと特製メンチ二個。ライス無しで」

「はいわかりましたー」

 肉の大山、前回の上野ではここの立ち飲みスペースを利用した。だがここもまた上野老舗の一角。店内のレストランメニューも当然侮り難い。

「二件目はここですわ。大山はランチのコスパが抜群ですの。肉屋ならではのパワーあふれる肉洋食の味わい……堪能させてもらいますわ」

「はいビールとメンチカツ!」

 まず即座に運ばれる酒とメンチ。流れるような手つきでマリーはまずなにもつけずにメンチをかじる。

「そして飲む!!」

 ザクッとした衣、弾力ある肉。旨味。それらをビールの濁流で流し込む。

「荒々しい快感!!」

 いくらでも呑める。呑めてしまう。

「店先での立ち飲みも乙ですが、こうやって座って落ち着いて味わうのも良きものですわ。……店先の立ち飲みスペースにサラリーマンが結構いますわね。そりゃこんなの見たらこらえきれませんわ」

 これもまた上野の良き光景。酒と飯を分かち合う限り、人はみな優しく平等でいられる。日の高いうちから呑む酒は、この世から争いを無くすのだ。

「はいスペシャルランチー」

 運ばれる皿。肉の大山名物の一つ。

「さあ本命ですわ……!」

 サラダ、そして数々の肉料理がマリーを迎え撃つ。

「特選スペシャルランチはミニステーキ、ミニカツ、ミニハンバーグ、骨付きソーセージ、エビフライにポテサラという豪華な布陣。まさに大人のお子様ランチなのですわ」

 お子様ランチ。様々な種類のワンプレートだ。色々な料理を一度に楽しめるというワクワク感は、教育と修養により成熟した精神を持つ貴族令嬢でも抗い難い。

「目移りするような殿方たちを前によりどりみどりな一時……まずはステーキ! 肉のうまさを上品に噛みしめますわ!」

 ナイフで切ったステーキを口に運び、かみしめる。小さくても肉質は確か。

「ハンバーグにエビフライ、箸休めにポテサラもつまむ……洋食オールスターズで最後の最後まで食べる人間を楽しませてくれますわ、なんてエスコート上手な紳士達。……」

 フォークとナイフが止まらない。そして瞬く間にビールが空になる。

「生ビールおかわりお願いしますわ!!」

 高々と、貴族令嬢は空のジョッキを掲げた。

「ランチをつまみに酒を呑む、この背徳感が私を燃え上がらせますのよ……!」


 △ △ △


「ふぅーやはりランチの満足感で少し満腹になってきましたわね」

 アメ横から上野駅へ歩きながら、マリーは腹をさする。なかなかの充足感だ。

「しかしどこも平日の昼間から呑む人間ばかり……結局元の上野に戻ってますわね」

 さもあろう。コロナと言われても日常の喜びを捨てることなどそうはできない。

「花見もろくにできない3ヶ月分のストレス、みなさん発散できる時をまっていたのかしら。……次の店どうしよ」

 貴族令嬢は迷っていた。

「うーんと、ひさしぶりに上野来たらアレ食べようとか思ってても、いざ来たら忘れてしまっている……」

 なかなか思い出せない。

「いやですわね老化かしら」

「えーと、あ、そうだあれだアレ」

「牛丼ですわ」


 △ △ △


牛の力

「牛力丼、白一つっと」

 マリーの細い指が、食券の画面を押す。

「牛の力は国産牛、高級醤油を使ったハイエンド系牛丼が売りの店。三大大手牛丼屋を除いた言わば個人店インディーズ系牛丼屋でもかなりの有名店ですわ」

 細長いカウンターのみの構造の店内。その椅子に腰掛ける。食券を出す。しばしの間の後、おまちかねの丼が来た。

「はい牛力丼白お待ち!」

 褐色の煮込まれた薄切り和牛の上に、温玉とバター、そして海苔が彩る。

「白は牛丼にバター温玉ノリをトッピングした代物。私はこれに卓上の丸ニンニクを」

 テーブルにあるにんにく絞り器、そこに丸ニンニクを入れ、マリーそれを両手で持った。丼の上で構える。

「絞る……!」

 ギュウウウウ

 絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。

「もいっこ絞る……!」

 丸ニンニクをもう一つ装填し、絞る。

 ギュウウウウ

 絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。

「もう一個、力を込めて…!」

 丸ニンニクをもう一つ装填し、絞る

 ギュウウウウ

 絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。

「くたばれ、くたばれ消費税……!」

 憎しみとは力である。

 やがてニンニクマシマシな牛丼を混ぜる。溶けるバター、絡まる半熟。にんにくの芳香。

「そしてかっこむ……!」

 ガツガツと、マリーは牛丼を胃にぶちこんだ、

「国産牛の柔らかさ……バターの背徳感…そしてニンニクぅ! 他では食えない牛丼ですわ!」

 パワー。まさにパワーを今マリーは食らっている。生き抜くためのパワーだ。

「……ふぅー、汁物も味噌汁ではなくお吸い物なのも高級感を演出していますわね」

 吸い物を飲み、ようやく人心地つくマリー。やはりこのハイクラス牛丼はいつ食べても満足感が素晴らしい。

「うー満腹ですわ…」

 △ △ △

「ありやとやっしたー」

 店員に見送られ、マリーは店を出る。眼前には上野広小路口。多くの人間が行き交っている。

「ふぅーひさしぶりの上野にはしゃぎすぎてしまいましたわね……貴族たるものいつまでもこんな風ではいけませんわ」

 満腹から自己を反省する余裕が生まれる。常に自己を振り返る慎ましさが貴族に必要なものだ。

「……中断してた就職活動再開しませんと。YouTuberになれないかなとか現実逃避してる場合ではありませんわ」

 戦わないといけない現実は、まだまだある。

「でも、その前にもう少し楽しんでもいいですわよね。
ちょっと神保町まで腹ごなしに行ってみましょうか……」
「焼肉屋……? 下々はよくこんな煙臭いところでお食事ができるものねえ」



「一番手は上タン。網に置いてから、上面に汁が浮かんできた所で皿に取り」

 燃える炭。陽炎が踊る網の上で、牛タンが焼かれる。高熱に炙られ、表面に浮かぶ肉汁。
 マリーはそのタイミングを逃さず、トングで取ってレモン汁の 入った小皿の上へ。
 みじん切りのネギを肉に乗せる。

「そして食べる」

 肉を食らう。同時に伸びる手がジョッキを掴んだ。

「すかさず生ビール!」

 流し込む、その衝撃。

「これ、これですわ!」

 貴族令嬢マリーは焼肉屋の中心で愛を咆哮した。

「食べてから三枚乗せる、焼けたら食べてまた三枚乗せる……」

 感動に震えながら、機械のような精密運動を行う。焼肉を遂行するには、感情は不要だ。衝動ではなく、徹底した焼肉哲学に基づいた動きが成功を左右する。

「このペースが炭火焼き肉の鉄則、網に乗せまくるものは死罪にすべきですわ」

 焼肉は、遊びではないのだ。

「あー、一人焼き肉のビールめっちゃ旨い」  

 グビグビとジョッキを明かす。
 今日のマリーの姿は、いつもと違っていた。靴は革靴。長い髪はひとまとめに縛っている。そして、服装はいつものドレスでなない。
 グレーのリクルートスーツだった。

「タン塩後の第二手は……店員さん、マルチョウとミノをお願いしますわあと生ビールおかわり」

「はいただいまー」

 マルチョウ、牛の小腸である。ミノは牛の第一胃だ。

「間を繋ぐオイキムチ……焼き肉屋のレベルはキムチでわかりますわね。ん、美味しい」

 ボリボリとキュウリを噛み砕く。甘さと辛さのグラデーション。いいキムチだ。

「まずは脂少なめのミノを焼く、内臓なのでしっかりめに火を通してから」

 焼いたミノをタレにつけ、頬ばる。コリコリとした食感、そして肉の旨味。

「そして飲む……!」

 そこにぶち込む生ビール。

「当然、当然の如く美味!」

 焼いた肉、ビール、それは約束された勝利である。

「次のマルチョウ、牛の小腸ですわ。ここは茹でではなく生のホルモンを扱う店ですわ。レベルも期待できるというもの」

 貴族令嬢はホルモンを生で扱う店にしか足を運ばないのだ。かさねていうなら水曜日曜の肉市場が定休日とその次の日も来店は避ける。新鮮な内臓肉を狙うためだ。

「皮部分を七部、脂部を三分。ゆっくり脂を落とすように焼いて……」

 腸のホルモンは脂が多い。この脂をどう残しどう落とすかで焼く人間の技量が問われるのだ。
 貴族令嬢マリーは脂をじっくりと落としてカリッとした食感を目指す派である、

「焼けたらコチュジャンを多めに解いたタレで……」

 かみしめる、モツの旨味。
 そして迎え撃つビール。

「……美味い!」

 当たり前である。

「店員さん、網の交換を。それとハラミ、上カルビ、あとライスをお願いしますわ」

「はいはい今お持ちしますねー」

「それから3杯目は……マッコリをお願いしますわ。焼き肉屋でぐらいでしか飲めないものですからね」

 △ △ △

「新しい網にハラミを並べる喜び……脂もほどほどで赤みの旨さを楽しめるハラミ。焼き肉界随一のエレガントですわ」

 牛の横隔膜、ハラミ。肺を支え動かすための筋肉、ハラミは少ない脂肪分と濃い肉の旨味が楽しめるホルモン界の四番だ。

「ほどよくレア目の焼けた頃を見計らいサンチュの上にオン!!」

 肉と野菜がいまここに究極合身。

「コチュジャン! キムチ! 巻く! そして食べる!」

 流れるような動き。リクルートスーツといえどマリーの動きに淀みはない。焼肉屋とは貴族にとって常在戦場の場。油断はない。

「追ってマッコリ!」

 口の中にはじける甘酸っぱさが肉の後味を洗い流す。

「昼から呑めるので当然のごとく旨さ杯付けですわ!」

 時刻は昼12時である。

「……就職活動なんてやってられませんわ!」

 マリーは、就職面接をフけていた。

「慣れないリクルートスーツまで着て!」

 数年ぶりに袖を通したリクルートスーツは、少し腹と胸がきつくなっていた。

「わざわざ移動費かけて!」

 往復520円は自腹である。

「人事部のクソハゲゴミヘドロ顔面スピロヘータの千葉県民に未来のビジョンがないとか社会でやってけないよとかウダウダウダウダウダウダイヤミ言われるなんてのをなんで何回も何回もやらないといけませんの!!!!!」

 現在就職活動8連敗である。

「いけませんの!!!!!」

 大事なことなので二度いった。

「……取り乱すなんて、わたくしとしたことが貴族らしくありませんでしたわね。だめですわ。今を楽しまないと」

 貴族とは、反省ができる生き物である。

「ハラミを焼き肉界のエレガントと称しましたが、やはり焼き肉界の頭領と言えば上カルビ。それに白飯を添えればその姿は王と王妃の威容……」

 王家である。マリーの目の前に、華麗なる一族があった。

「まずは焼くべし……」

 炭の熱に、カルビの脂が沸騰する。人は火を見ると本能的に安心する習性がある。太古の昔に外敵に怯えながら火を囲んだ本能だろう。
 そして、太古の昔から人は火で肉を焼き食らってきた。
 肉を焼くことは、原始的な、人間という生き物の根幹に根ざした喜びなのである。

「そしてタレべっとり漬けからのオンザライス……!」

 肉と米。逆らえる日本人などいるのか。

「で、食べる」

 肉と米を、胃袋にぶち込む。ぶち込み尽くす。

「マッコリで流す……」

 グビグビと、ただグビグビと酒を飲み干した。

「これがエピキュリズムの極地!!!!」

 快楽の果てがここにある。

 △ △ △ 

「ありがとうございましたー」

「就職活動のストレスで思わず焼き肉屋に飛び込んでしまいましたわ……後でファブリーズしないと……」

 衝動で行ってしまった焼肉。だが時には貴族とて衝動に身を任せたくなる時もある。仕方ないことだ。

「明後日も面接……焼き肉で活を入れたのだからここで頑張らないと」

 肉。肉と酒がマリーを支えてくれるのだ。

「……あ、あっちの焼鳥屋開いてるちょっとよってこうかな」

「インド……カレー屋……? どうせバングラディシュかネパール人が作ってる店なんでしょ?」




「……やってる?」

 昼だというのに薄暗い店内、ドアをくぐる貴族令嬢マリーはどこかおっかなびっくりに声を出す。

「ヤッテルゥ、ヤッテルヨーオ客サァーン」

 店内奥から人懐っこい声で店員が出てきた。浅黒い肌のアジア系、だが何人かはよくわからない。多分インド人ではない。

「オ客サァーン、コチラドゾー」

 案内された席にマリーは腰をかける。隣の席に仕事着が入ったリュックを置いた。

「ふぅー」

 仕事終わりの疲れから一息吐く。メニューをめくりなにを頼むかしばし思案した。

「えーと、タンドリーチキン、あとバターチキンカレー。それとナン。瓶ビール」

「ハイネー。辛サドースル?」

「一番辛いやつで」

 貴族は迷わない。

「死ヌヨー」

 店員の警告はドストレートだった。

「いいからやって」

「ワカッタヨー」

 スタスタと店奥に引っ込む店員。なんというか毒気を抜かれる接客だ。

「相変わらず緩い接客ですわねぇ。私、友の裏切りは許せても辛くないカレーは許せませんの……」

 貴族令嬢には許せないものが三つある。辛くないカレー、辛くない麻婆豆腐、ノンアルコールビールだ。

「ストレスがたまると、無性に辛いものが食べたくなりますわね……」

 就職活動は現在15連敗。辛さだ。辛さだけがマリーの心を癒すのだ。

「アイヨー ビールネー」

 栓を抜かれ運ばれるビール瓶。アハヒスゥパァドゥラァイだ。

「これこれ」

 トクトクと、コップにビールを注ぐ。泡3に液体7の黄金比に整えた。
 そして一息に飲み干す。

「ふぅー……ストレスが緩和されますわぁ」

 コップにビールを注ぎつつ、薄暗い店内から外を見る。マスクをした高校生達、帰りのサラリーマンやOLなどがいた。
 
「もうすぐ夏休みねえ……どうせコロナだし、特に仕事しか予定はないんだけれど」

 遊ぶ予定はない。遊ぶ相手もとくにいない。ついでに海もここ最近行ってない。

「ないんだけれど」

 ついでにそんな余裕もない。

「ないんだけれど!!!」

 カレーは、救い(カレー)はまだか。


「オ客サーン チキンヨー」

 店員の姿より先に匂い立つ芳香がマリーの元に届いた。複雑なスパイスの香り。焼きたてのタンドリーチキンの香り。

「タンドリーチキン、まあようはカレー味のチキンなんですけれど、カレー屋にくるといつも頼んでしまいますわね……」

 フォークで黄金色の鶏肉を口に持って行く。

「ここは本式のタンドリーでパリッと焼いてくれるのが売り。そこにアサヒビール……」

 グビリと、呑む。

「印日同盟成立ッッ!!」

 日本とインドの共同歩調、平和への道のりがマリーには見える。

「なぜビールとカレー味はこんなにも合うの……」

 ムシャムシャと鶏肉を食い、ビールを呑む。インドの奥深い文化にマリーはおぼれていた。


「しかしUber EATSも参加者が増えてなかなか仕事がこない…」

「十万円給付も来たはいいけどいろいろ支払いで大して残らないし……」

「アイヨー カレートナンネー」

 救いだ。救い(カレー)がやってきた。

「……悩むのは後回しにして食べましょう。蒸し暑くも冷たい世の中でもバターチキンだけは私を包み込んでくれますわ…ナンをちぎってカレーにつけて」

 ぶちっとちぎってカレーをとっぷりとつける。

「食べる!」

 かぐわしいカレーの芳香、奥深い香り。そして鮮烈な辛さ。

「追ってビール!」

 飲み干す一杯。

「ナマステッ!!」

 旨さに思わず挨拶してしまった。

「辛いッッ!! そりゃ辛さマックスで頼んだわけだから当たり前だけど、やはりカレーは辛くないと食べた気がしませんわ!!」

 ナンをちぎる、カレーに漬ける。食べる。そしてビール。手が止まらない。美味い。

「海外では中華とインド料理はどこにでもあると言われているそうですが、たしかにあらゆる民族にこのスパイシーさはウケて当然ッッ!」

 インドの強さ、ここにあり。

「それに酒が合えば向かうところ敵なし……ゼロの概念、インド映画のボリウッド、テレポートにヨガフレイム。インド恐るべしですわ…」

 貴族令嬢のインド観はかなり貧弱だった。

「店員さん、ビールお代わり。あとほうれん草のカレーとチーズガーリックナン一つ。激辛で」

「アイヨー」

 雑だが小気味よく返事。本当にこの店の接客は独特だ。緩すぎる。

「一杯程度では収まりませんわ…今宵火がついたカレー欲は…!」

 今日はどこまでも激辛で行きたい。明日にトイレでどうなろうともうマリーは構わないのだ。

 △ △ △

「ハイカレートナンネーチーズガーリックヨーあとビール」

「ナンの真骨頂はチーズ入りに有り……!アツアツを千切ってのばせば!」

 ナンの中に入れられたチーズがたらりたらりと糸を引く。チーズの糸を何回か巻いて引きちぎり、チーズだらけのナンをもって、カレーの上へ。

「伸びるチーズをカレーにドブヅケしてぇ!」

 豪快にカレーに漬ける。つけるというか沈めるに近い。
 それを引きずり出して口へ運ぶ。

「食べる! そしてビール!」 

 スパイスの辛さを、ガーリックの鮮烈さを、チーズのまろやかさを、ビールの爽快感が洗う。

「you win!!!!」

 勝利確定。もう手が止まらない。本能の、衝動のままにナンにカレーを次々と沈め、引き上げ食らう。

「カレー! ガーリック! チーズ! そして辛さマックス! うまさの竜巻旋風脚ですわ!!」

 瞬く間に空になる皿。

「ふぅー、やはりインド料理にハズレ無し……待ちガイルのごとき鉄板戦略ですわ」

 トタトタと、店員が一息ついたマリーへなにかを持ってくる。

「ハイネーコレサービスノラッシーネー」

「あ、どうも……」

「ユックリシテネー」

「接客は雑だけど、サービスは丁寧なのよねえ……」


 △ △ △

「マタキテネー」

 手を振る店員、どうにも子供っぽく見えて困る。

「接客は緩いものの、結局店員の愛嬌が印象に残る店ですわねぇ……しかしこのコロナ禍、あの店も来年にまたいけるのでしょうか」

 一寸先は闇。こんな時代ではどうなることか。

「…その前にまず私のほうが来年無事に正月を迎えているのかがわかりませんけれど」
「あらあらこんな兎小屋に私を? ここが蕎麦屋? 庶民は窮屈な所で下等なものを食べるのが好きなのねぇ」




「剣菱の冷や。それと海苔。あと卵焼きをお願いしますわ」

 席に就くと品書きを見ながら五分の熟考の末、マリーはそう注文した。

「はい只今」

 やがて店員のおばさんが、徳利と木箱を持ってきた。
 酒を注ぎ、箱を開ける。中には練炭で炙られた海苔。

「蕎麦屋呑みと言えば剣菱。赤穂浪士も討ち入り前に呑んだと有名ですわね」

 まずは冷やを一口すする。口内にすっと広がる日本酒の香り。そしてすっきりとした後口。

「この冷や酒に、あぶった海苔の香ばしさが合うのですわ……」

 海苔を一口かじる。パリパリとした食感に、磯の香り、海苔の味。そしてそこに追いつく酒。
 ほぅ、と貴族令嬢は息を吐いた。

「昼の蕎麦屋酒を一人楽しむ……」  

 時刻は昼の1時。今日は休みだ。なにも予定はない。
 天気は良く、気温もほどほどだ。
 遅く起きた時、今日は蕎麦屋で呑ろうと思い立った。
 寝る前に剣客商売を読んだからだろうか。
 ネギ入りの卵焼きが、やたら記憶に残る。

「池波正太郎の世界を味わっている感覚ですわね……」

 チビリチビリと酒を煽り海苔を齧る。時間はゆったりと流れ、ただどこか好ましい倦怠感に包まれている。立ち食いや居酒屋ではなく、本式の蕎麦屋で呑む。酒飲みならば一度は憧れるものだ。

「はいこちら卵焼きですぅ」

「どうもどうも、あ、にしんの棒煮とお酒もう一つ。冷やで」

 空になった徳利と引き換えに卵焼きを受け取る。焼き目がしっかりとついた店で焼いている卵焼きだ。ふんわりと香るのは、中に日本酒を入れて焼いているため。

「蕎麦屋の卵焼きには蕎麦屋の命たるそばつゆのかえしが入っていますのね。一味ちがいますわ……」

 箸で千切り、大根おろしをのせて一口。はふはふと熱気を冷ましながら冷や酒できゅっと迎え撃つ。

「ふはぁ……」

 うまい。うまいに決まっている。箸が止まらない。酒も止まらない。


「お待ちどう、にしんの棒煮とお酒ですぅ」

 皿の上にはとろりと甘露煮されたにしんの半身。いわゆるにしんそばの具のにしんである。

「このにしんの棒煮も蕎麦屋以外ではあまり食べないもの……こっくりと甘辛に煮られていて酒が進みますわ」

 これもチビチビと千切り食べ、チビチビと呑む。甘辛い煮られた身欠きにしんが実にいい酒のつまみだ。

「いい天気ですわねぇ……」

 窓の外は快晴。梅雨入りしかけている今では珍しいだろう。だが外の人手は少ない。

「アベノマスクってまだこないのかしら……」

 近くにあったスポーツ新聞を捲る。スポーツはほぼ休止してるので、野球選手やサッカー選手の感染報道ばかりだ。
 こんな記事では酒の肴にはなりそうもない。

「ウーバーイーツの仕事も最近ちょっと減ってきて…わたくしこのままずっと独身なのかしら……」

 マリーはそろそろ結婚適齢期が近い。だが、結婚の予定はまだなかった。

「で、でも結婚って今どんどん遅くなっておりますわ。まだですわ。まだ焦る時間じゃないですわ……」

 結婚の予定は、まだなかった。

「……だ、だめですわ弱気になっては! 攻めの姿勢! 貴族は常に攻めの姿勢でなくては!」

 マリーは、後退のネジを外しているのだ。

「天ぷら盛り合わせお願いしますわ!」

 とにかく、なにかアガるものを食べよう。ゲン担ぎ的な意味で。


 △ △ △


「蕎麦屋の天ぷら、定番ながら安定の味。エビはぷりっと、キスはほっくり、最高ですわ」

 天ぷらをむさぼる。揚げたての熱々に天つゆを浸し食べるこの快感は貴族でも虜になる。
 一口目に感じるゴマ油の香り。食欲をそそる芳香と、そして火の通りも絶妙だ。エビもキスもやや半生で仕上げ素材の甘味を舌に感じる。

「酒が止まらない……!」

 そして二本目の徳利が空になる。空になってしまう。

「このボルテージを最高潮のままにして」

 手をあげて、貴族令嬢マリーは高貴に、しかし力強く叫ぶ。

「店員さん、ざるそば。大盛でお願いしますわ。あとお酒もう一つ!」

 △ △ △

「うっめ、うっめ」

 一気に蕎麦をすすり込む。ここは更科だ。蕎麦の実の中心を使った白い蕎麦は、貴族に相応しい上品なのどごし。
 なによりここは汁がうまい。

「ぷはぁ」

 蕎麦を食べきり、蕎麦湯を注ぐ。グビグビと飲み、そして交互に冷や酒を呑む。
 蕎麦湯で薄めた汁。これがまたつまみにやれるのだ。

「あー全部汁飲んじゃった……」

 貴族は、塩分過多など気にしない。

 △ △ △

「まいどー」

 店員に見送られ、帰り道を歩く。日はまだまだ高い。風はどこかぬるい。
 ふわりとした虚脱感。いい酔い心地だ。

「ふう……なんとかことなきを得ましたわ。酔い醒ましに少し歩こうかしら」

 トボトボと、白いドレスが街を行く。
「餃子……? 下品な食べ物を出す店は店構えも客層も品が無いわねぇ、この……王将という店は」



「いらっしゃっせー!!! お一人っすか!!!!」

 いきなりの気合いの入った接客。しかし貴族は動じない。

「ひとりですわ。あと瓶のおビールとお餃子二人前」

 席につきながらまず注文。メニューは見ない。
 即座に店員がビールとグラスを持ってくる。

「はいこちらビール!!! お疲れ様です!!!」

「あどーもどーも」

 トクトクと注がれるビール。とりあえずは冷えたやつを一杯飲み干す。

「あ゛あ゛!! うまいっ!!」

 最近気温が上がってきた。暑い外仕事帰りにビールが染みる。

「えい! リャンガーコーテー!!」

 店員がキッチンスタッフに絶叫する。エコーが店内に響き渡った。

「このコールを聞くだけでも来る価値がありますわねぇ……」

 グビグビと、店員のシャウトと店内のラードの焼けた香りをつまみにビールをあおる。
 客入りはコロナにしてはボチボチ。夕方の餃子の王将は、今日も熱く燃えていた。

「はい餃子二人前!」

 最速で最短で真っ直ぐに運ばれてくる餃子。これぞまさに餃子の王将の魂というべき根本だ。

「王将は『餃子のタレ』が置いてあるのですわね。関東出身の私としてはタレは醤油ラー油などでつくるもの、あらかじめタレがあるなんてと驚いたものですわ」

 王将の餃子は王将の食べ方がある。マリーは餃子のタレに酢多めがマイスタイルだ。

「王将の餃子……常にハイスピードで出てくるまさに王将の魂ですわ」

 より早くよりうまく。あまねく餃子に飢えるものたちのために、餃子の王将は今日も焼かれる。
 一口、餃子を食べる。野菜そして肉。それらにニンニクの香りがまとわれ一体となる旨味。

「今時はにんにくのない餃子も増えましたが……やはりこのにんにくが利いてる王将の餃子はいいものですわね。そしてビール」

 ぐいとコップのビールをあおる。餃子とビールという完璧なコンビネーションに、マリーはしばし沈黙した。
 
「ノスタルジィ……」

 昭和から変わらない街中華の原風景。日本人にしかわからない、日本人のための中華料理。ただ貴族としてマリーは敬意を表するのみ。

「さて、次手はなにをすべきか……ここはやはりジャストサイズを活用したいですわね」

 王将ジャストサイズ。豊富なラインナップの王将の中華を、少なめお手頃価格で注文できるシステムである。

「ニラレバ、エビチリ、ジャストサイズで。あと鶏の唐揚げお願いしますわ」

「あいよー!!!」

 豪快な挨拶。キッチンへ注文を絶叫する。

「中華メニューの充実レベル、やはりその辺は日高屋とは比べものにならない高さですわね……昔は関東でも鶏のチューリップ頼めたのに、今はもうダメなのはちょっと気にくわないけれど」

 エビチリが食べたい。バンバンジーが食べたい。ゴマ団子が食べたい。もし真夜中にそんな欲望にかられたら、人はどうする?
 王将ならば、そんな人も癒やすことができるのだ。

「それにしてもまただんだん仕事が落ちてきましたわねぇ……コロナ自粛復活から上がったテンションが落ちてきたような」

 なんともいえない倦怠ムードが社会を包み込んでいる。こればかりはいかに貴族といえど払拭はできない。

「Uber EATSもあまり稼げなくなってきたし、やはりなにかべつの副業か転職を……」

 だが、正社員の就職活動はまだ成功していない。

「ダメですわ……呑んで、呑んで不安を忘れるのよ!」

 餃子を食いビールで洗い流す。いまはこの快感だけでいい。

「はいご注文の品お待たせしましたー」


「きたきた。色々な品を少なめに頼めるのがジャストサイズの良いところですわ……あ、ビールもう一本お願いしますわ」

 まずはエビチリ。ぶっくりとしたエビに絡むチリソースが光る。嬉々として貴族令嬢は口にぶち込んだ。

「エビチリ! 甘辛のソースにエビの旨味…超大好きですわこれ!」

 そして追ってビール。快楽が舌と喉を灼く。

「大好物のニラレバ!! レバーの旨味とニラもやしの香ばしい歯触り、ビールを呼んでいる!」

 レバーの味、そしてニラやもやしの歯触り。止まらない。もうマリーは暴走列車だ。

「はいお客さんビールです!!」

「あらありがとう……でもすぐになくなりそうね。三本目も、いやここはチューハイにしとくべきかし」

「……もし、あなたは?」

 不意にかけられる声。思わず声の方向を見上げる。

「え」

 思わず、呆けた声を出すマリー。懐かしい人物が、二度と忘れられない人が、そこにいた。

「あ、ああ、」

 言葉がうまく出ない。まさかこんなところで会えるとは。
 いまこの瞬間が、夢なのかもしれないとさえ思えてくる。
 
 流れるような、輝く銀髪は柔らかに揺れている。整った顔立ちにどこか憂い眼差し。慈母のように穏やかな笑みと、気品溢れる振る舞い。高い身長とマリー以上に均整の取れた体型を、金の刺繍が飾る絹のドレスで包み込む。
 それはまるで月下に咲く一輪の白菊のような。
 
「あなたは!」

 伯爵家という高位の家柄に生まれた貴族令嬢マリーでさえ、どこか引け目を感じてしまうほどの高貴を超えた血筋と品位を感じる。
 変わっていない、なにもこの人は、あの頃と変わっていない。


「あなたは……お姉さま、コニーお姉様ではありませんか!?」

 コランティーヌ、愛称はコニー。貴族子女工業高校時代にマリーを可愛がってくれた先輩令嬢だ。

「ごきげんようねマリー」

 思わず立ち上がる。ドレスの裾を持ち上げ、敬意をこめて挨拶を返す。いかなるときも貴族は礼儀を欠かしてはならない。例えそれが数年ぶりのどれほどに嬉しい再会であっても。

「ごきげんようですわお姉さま……!」

「こんなところで会うなんて……一体いつぶりでしょうか」

 懐かしい。懐かしさがなかなか言葉にできない。やっと一息つき、マリーは喋り出した。

「お姉さまが貴族子女工業高校を退学になられて、実家に帰って以来……五年ぶりですわ」

 貴族子女農業高校への殴りこみ、もとい交流が発端となりコニーは退学になったのだ。マリーも問われたその責は、コニーが全て指示したと自ら背負った結果である。
 その後に祖父母のいる関西に帰ったと聞いたが、連絡を取っていなかった。

「もうそんなに経ったのね。あなたの綺麗な金髪ですぐに思い出した。変わっていないのね」

 マリーの金髪を撫でながら、コランティーヌは微笑む。変わらない。貴族子女工業高校で姉妹の契りを交わしたころからなにも、変わっていない。

「お姉さまもお変わりなく……あれからどうしていたのですか?」

 どうしても気になる。コニーはなにをして過ごしていたのか。

「実家の関西に帰って家業を手伝っていたのよ。岸和田の」

 岸和田? たしか聞いていた話しでは。

「お姉さまはたしか実家は神戸のほうだと」

 コニーの微笑みが、止まった。

「……ええ、神戸よ、岸和田は家業の支店があるほうね。すこし間違えてしまったわ。オホホ」

「そ、そうでしたの。神戸と岸和田では偉いちがいですものね!」

「そうねマリー。神戸と岸和田ではね!」

 しばし笑いあう。だが、コニーの笑い方はどこか固かった。

「というわけで、実家が関東に支店を出すことになって、その準備にこっちに戻ってきたのよ。懐かしいわね、東のほうは……」

「まあ! お姉さまのお家の家業とはどんなお仕事ですの?」

「そうね、解体業よ……いろいろなものの」

 一体なにを解体しているのか、

若頭(カシラ)! 逃げた社長の居場所つかみましたで! あのタコオヤジどないイワしますかいな!?」

 突然、コニーの後ろから大柄の中年が寄ってきた。ダブルのスーツに、ごま塩頭。そして顔には刃物の傷跡がある。

「な、なんですのこちらの方はお姉さま……?」

「外じゃカシラじゃなくて専務と呼べいうたろうがこのホンダラがぁ!」

 コニーの手が卓上にあった空のビール瓶を掴み、一閃。同時に中年の男がのけぞる。
 今までの慈母の微笑みではなく、激怒の形相を浮かべる先輩令嬢コニー。

「アダッ!!?」

 ガン、という小気味よい打撃音。
 マリーも言葉を失う。

「昔のツレん前で恥かかすなやボンクラがぁ!!!」

 さらに殴打、殴打、殴打。中年の男が腕で必死にガードしている。

「せ、専務! 堪忍して下さい!」

「お、お姉さま、ここは店の中ですので……」

 マリーの制止にやっとコニーの動きが止まる。表情に慈悲の微笑みが宿った。

「はぁ、はぁ、……イヤだわはしたない、つい故郷の神戸の喋り方がでてしまって……恥ずかしい」

「神戸ってそんな土地でしたっけ」

 思ってた神戸と違う。

「ごめんなさいねお見苦しいところをお見せしてしまって。それでは仕事が入りましたので、名残惜しいですが今日はここまでで、ごきげんようマリー」

 ゆっくりと優雅に別れの一礼をし、たおやかに店を去っていくコニー。その振る舞いは貴族子女工業高校の頃からなにも変わっていない。

「いくぞグズ!」

 中年を蹴って、起こす。

「へ、へい専務!!」

「あ、はいごきげんよう…」

「……」

 なんというか、言葉が出ない。とりあえず座り直す。

「……唐揚げおいしいですわ」

 もぐもぐと口に運ぶ。バイオレンスの後でも中華はおいしい。


「ショッキングなことがあっても美味しさは変わらないですわ、さて締めに頼むのは、醤油味の焼きそば、大盛で…!」

 △ △ △
「はい大盛り醤油焼きそばおまち」

「この醤油とオイスターソースの香りがたまらないですわ!」

 一口すする。香ばしさと旨味が炸裂。ビールが進む。

「そこに酢を足してさらにサッパリ加減をアップ!」

 ダクダクと酢をぶち込む。小瓶の半分まで入れるのはもはやノルマだ。

「焼きそばを飲み込みながら、追ってビール!
ベストコンビネーション!!」


 最後の一杯を、高らかに飲み干した。

 △ △ △


「ありやとやっしたー」


「ふぅ……王将、日高屋並みに店舗が関東にあったらこちらのヘビーローテーションしてしまうところですね。私の分の会計を払っていてくれたのね。ありがとう、コニーお姉さま……」

 トボトボと街を歩く。生きていれば、歩き続ければ、懐かしい相手とまた出会えるものだ。

「……お姉さま、お仕事頑張っているのでしょうね。なんのお仕事かよくわからないですけれど」

 コニーの仕事は、マリーにはよくわからない。

「あ、あっちに新しいやきとん屋開いてる。ちょっとみてこ」


 終わり
「いわし……庶民はこういう下魚ばかりありがたがって食べているのね。かわいそうなことだわ」


 がらら、と引き戸が開く。外の雨音が雪崩れ込み、人影がのれんをくぐる。傘たたみながら店内へ。
 すすけた壁と使い込まれて飴色を放つカウンター、その椅子に腰掛けながら貴族令嬢はゆっくりと今日の品書きに目をこらす。

「へいらっしゃい」

 居酒屋の大将の言葉を無言で流し、少しの沈黙の後に貴族令嬢は口を開いた。

「お新香、日本酒……八海山の冷やで。あとは……イワシの刺身、それと塩焼き」

「あいよ」

 即座に出される徳利とぐい飲み、そしてお新香。注ぎながら、マリーはため息を吐いた。
 そしてまず一杯を飲み干す。

「ふぅぅ……」

 少しだけ、マリーの目尻に涙が浮かんでいた。

「梅雨でドレスがカビましたわ……」

 マリーの服装は今、ジャージであった。
 貴族子女工業高校の校章が入った紫のクソダサイジャージであった。それとスニーカー。長い金髪はひとまとめにして巻いてある。

「まさか二着同時にカビが生えるとは……この貴族の目でも見抜けませなんだ」

 現在、ドレスはクリーニングと補修に出している。

「また金がかかる……給付金ほとんど残ってませんわ」 

 江戸時代、金には足が生えていると言われていた。まるで足が生えているようにすぐに逃げてしまうという意味である。
 マリーは思う。現在では金は進化した。足どころか翼が生えていると。

「ですが失ったものを悔いても仕方ないこと……振り向かないことが誇り高い生き方なのよ……!」

 貴族は前に進み続ける。例えどれほどの別れがあろうとも。
 もう一度、酒をあおる。これは弔いの酒である。ドレス二着分のクリーニングと補修費への弔い。

「へいイワシ刺、それと塩焼き」

 冥福への祈りを断ち切る大将の言葉。運ばれてきた料理にマリーの視線が移った。

「入梅イワシ、梅雨入りのイワシは油が乗って最上とのことですがどれほどのものか見せていただきましょうか」

 刺身をしょうが醤油で一口。口内に広がる油の甘味、いわしの旨味。

「そこに合わせて酒!」

 ぐいと呑む。合わさる喜び。

「旨いですわ……」

 梅雨らしく、しっとりと喜びを呟く。旨い。旨くて当然だ。

「ただでさえ旨いいわしの刺身が、油が乗ってさらに旨い……ああ、私の心がいやされていきますわ」

 刺身をつまみ、酒をちびちびとやる。この居酒屋に流れる有線はいつも昭和ムード歌謡だ。音は控えめなので、外の雨音が聞こえてくる。
 蒸し暑くろくなことがない梅雨でも、こうして呑めるならば悪くはないものだと思えてくる。

「さて次はいわし塩焼き……」

 箸で身を摘まむと、見事な油のてかり。大根おろしと共に一口頬張ると焦げた皮と油の香ばしい香りがする。

「追って日本酒!!」

 またぐいと呑む。いわしの旨味を日本酒がよりふくよかにさせてくれる。

「これは何杯でも飲めますわね」

 イワシはかつて下魚とされ、豊漁だった江戸時代は畑の肥料にされたという。今はもう高級魚になりかけているというのに。

「時代により扱いは変わるもの。それは貴族もイワシも同じですわ」

 逃れられないのだ。魚も人も時代からは。

「……仕事、途絶えましたわね」

 梅雨入りの雨が続き、外現場の仕事が途絶えた。

「しかし耐えなければいけません。耐えることも貴族の美徳……! それには活力が必要。そして活力とはなにか」

 活力とは、生きる力を与えるものとはなにか。

「それは油ものですわ。大将、このイワシの大葉チーズフライ、それと中生」

「あいよ」


 △ △ △

「はいイワシ大葉チーズフライ、それとビールね!」

「来ましたわぁ」

 開かれた後に、くるりと巻かれフライにされたイワシ。それをマリーはそのまま豪快にかぶりつく。
 マリーは歯が丈夫なので小魚の小骨程度は気にしないのだ。顎が強いことは貴族のたしなみである。

「ふはぁ、衣のサクサク、揚げられたイワシの旨さに、チーズと大葉が渾然一体となり……たまりませんわぁ!」

 そこにビールをぶちかます。梅雨を吹き飛ばす爽快感。

「くぅぅ……無限に呑めますわぁ!」


 △ △ △

「ありあとやっしたー」

 大将に見送られ、マリーは店を出る。
 そとは相変わらずの雨であり、蒸し暑さは変わらない。
 だがマリーの心にはいくばくかの爽やかさが戻っていた。

「天気予報では明日は晴れ……仕事も予定が入っていますわ。今日を不幸が覆っても、明日には明日のやるべきことがある。人生とはそういうものですわ。なによりもそれが自由というもの」

 ピチャピチャと、雨の中をジャージのマリーが歩く。

「……やっぱドレス着ないほうが快適ですわね」

「発泡酒を開けて」

 缶のプルタブを開ける。シュワシュワと炭酸の弾ける音は、駅前の雑踏にかき消された。
 マリーは少し周りを見渡すと、壁と壁の角に残業明けの疲れた体をぴったりとはめ込む。

「でさーうちの旦那がギャハハハハハ」

 中年のおばちゃん同士が話し込む。旦那の悪口で爆笑していた。

「このあとタピオカいくー?」

 女子中学生のグループが笑いながら歩いている。駅前のタピオカ屋に向かっていった。

「さきいかをつまみに呑む」

 開けた袋から頭だけ出したサキイカを、くわえる。そのままムシャムシャと噛みながら、発泡酒を一口グビリと呑んだ。
 マリーの視線は駅前の人々を見つめ続けている。その眼差しは、冷めていた。

「えーその件ではうちのミスですので本当に申し訳なく……」

 携帯越しに話しながらペコペコと頭を下げるサラリーマン。家路を急ぐOL。そんな人々を見ながら、マリーは冷めた目で酒を呑む。

「つまみに呑む……」

 もぐもぐとさきいかを飲み込み。酒を流し込む。やがて、貴族令嬢の手が止まった。
 
「……」

 そして、ぐしゃりと空になった缶を握りつぶした。

「ステーションバーなんてぜんぜん楽しくないですわ!!!」

 漫画でやってたからとりあえず試してみたが、やはりこれはダメだ。

「駅の隅っこ挟まってその辺のおばちゃんや学生見ながら酒のんでなにか楽しいんですの!!!??」

 なにが楽しいんだろうか。

「なにが!!! 楽しいんですの!!?」

 大事なことなので二回言ってみた。

 △ △ △

「あー試しにやってみましたけれど、飲み代無駄にした気分ですわ……」

 微妙だと思ったものはやはり試すべきではない。貴族たるもの慎重に戦うべきであった、

「この傷心は、次の店で癒やすしかありませんわね」

 そういうと、貴族令嬢は優雅な足取りで立ち食い寿司屋ののれんをくぐった。

「はいいらっしゃい」

 店員の出迎えに、指一本立てて返す。

「一人ですわ」

「ではこちらのカウンターで」

「ビール、それと味噌汁を」

「へい今すぐ」

「大きめの駅の中には立ち食い寿司屋というものがありますわ。立ち食いそばのように立って職人の握った寿司を食わせるスタイルの店ですの」

 カウンターのみで寿司や酒を出す。電車の待ち時間に気軽に寿司を食えるといったスタイル。
 目の前で寿司職人が握ってくれるところを直に見れるところも売りだろう。寿司マシンとはやはり味わいも違って感じるものだ。

「回転寿司よりも上、だが回らない本格的な寿司よりは下という微妙な中間ラインを駅ナカという入りやすさを武器に攻めるジャンルの立ち位置……」

「江戸前寿司の発祥はこういった立ち食い屋台で食べさせる寿司屋、実は本来の源流にもっとも近いあり方の寿司屋スタイルと呼べるものですわね」

「はいビールと味噌汁です」

 受け取ったジョッキに口をつけた。

「まずは喉にしめりけを!」

 グビグビと呑む。

「季節のネタから攻めたい気分ですが、それは後に取って……タイ、アジ、赤貝お願いしますわ」

「へい」

「寿司の食い方はいろいろこだわりを問われますが……」

 白身など味わいが淡白なものは先に。油の強いものは後に。ガリはホイホイ食べ過ぎない。色々と寿司食いには堅苦しいものがある。

「私はその時の気分で好きにやる派ですわ」

 貴族令嬢は、寿司だけは食べ方に指図されるのがこの世で一番嫌いだった。

「寿司食ってるときに細かいことなんか考えたくありませんの!!」

 自分の稼いだ金で寿司を食うのである。他人が文句を言われる筋合いはないと貴族令嬢は考える。

「日本人なら目の前の寿司に無心になるべきですわ!」

 寿司は自由だ。自由に寿司を食うべきなのだ。少なくとも、この一瞬は。

「残業で疲れて空腹のときはなおさらに!!」

 今夜のマリーのHPは20くらいしか残ってない。

「へいタイアジ赤貝」

 出された寿司、その鯛をマリーは素手でつかむ。マリーは寿司は素手でたべる派だ。

「回転寿司もけして悪くはありませんが、懐に余裕があるうちはやはり目の前で職人が握るやつをガッツリ食べておきたいものですわね……」

 寿司は旨い。安くても少し高くても旨い。寿司を逆さにし、醤油にネタの方をちょいとつけ、一口で頬張る。

「タイ、白身の基本…そして夏が旬のアジ、私の好きな赤貝……」

 ヒョイヒョイと寿司が消える。交互にビールで流し込む

「追って味噌汁!」

 あおさの味噌汁。熱い旨味が胃を癒やす。

「外人にこの快感はわかりますまいに!!」

 カリフォルニアロールが好きなやつらにこれをわかってたまるか。

「ひらめとうなぎ、あとハマチお願いしますわ」

「へい」

「開いた間をガリをつまみつつ味噌汁を味わう……寿司屋のガリはついついつまみすぎて困りますわね」

 しゃくしゃくとガリを噛む。甘酢と生姜の爽快感はやはりやみつきになるものだ。

「あおさノリの味噌汁、大好きですわぁ」

 ズズズと味噌汁を啜る。店内のオススメをみながらなにを頼もうか考えを巡らせる。この瞬間がマリーは好きだった。

「あと日本酒、八海山で」

「あいただ今」

 運ばれてくる升酒。

「ビールから日本酒への切り替え、スムーズに行えるかが酒飲みの技量というもの。ここは経験がものをいうのですわ」

 そろりと頼んだ寿司が並ぶ。それらを貴族令嬢は無心で食べ、飲み込み、胃にぶち込む。そして酒で流す。シコシコとしたひらめ、濃厚なツメのうなぎ。ハマチの油の甘み。
 順番なぞ関係ない。食べたいときに食べたいものを食う。寿司を前にすればマリーは獣だ。
 
「ここらでそろそろ旬のものを……するめいか、それとイワシとすずき」

 されど獣とて季節は愛でるもの。

「へい」

「寿司を思い通りに食える。社会人になった喜びですわね」

 正直好きなときに好きなだけというわけではないが。

「へいいかにイワシとすずき!」

 即座に寿司に伸びる手。

「イカの甘味、最高……イワシも脂がありますわねぇ…」

 そして升酒。コップの縁に口をつけた。

「もっきりの八海山……」

 すすり込む。日本酒の芳香が、寿司を何倍もうまくする。高めあう両者。

「口中に夏の日本海…!」

「開いた隙間へ升に入った分を注ぐ…!」

 慎重に作業。粗相は許されない。

「一滴残らず…! この作法だけはきっちりやっておきたいですわね…あ、あと炙りとろサーモンとかわはぎお願いしますわ」

「へいかわはぎ、それととろサーモン今炙りますねー」

 そして突き出される白身のカワハギ。焼きたての香り漂う炙りとろサーモン。

「かわはぎは夏が旬……そしてかわはぎの本体とも言える肝を上に載せてくれるありがたさよ」

 歯ごたえあるカワハギに肝のとろりとした旨味が加わる。応えられない。

「そして炙りとろサーモン。江戸前にサーモンはないなんて今はもう言うのも野暮というものですわ。美味いものが寿司屋にあってなにが悪いというの」

 サーモンの脂が熱で溶け出しこれも絶品だ。

「八海山、冷やでもう一杯お願いしますわ」

「へい、八海山の冷や!」

 酒だ。酒がどうにも足りない。

「近頃は低糖質といいながら酢飯を残す人もいるという、愚かしいですわね。このシャリとネタの渾然一体となったものを味わわずしてなにが寿司ですの……」

 貴族令嬢は寿司の食い方に文句はつけられたくないが、他人の食い方には遠慮なくつける女だった。

「あと酒、寿司に絶対酒必要ですわ。手巻きのあなきゅう、あと漬けマグロに生だこ」

 △ △ △

「はいまいどありがとうございます」

 のれんを出る。そろそろ夜九時近い。遅くまで呑もうという気もおきないので、そろそろ帰るか。

「ふぅ…思ったより食べてしまいましたわねぇ。やはり寿司屋、気が抜くと勘定が思ったより高かったりしますわ……」

 レシートをみながらスタスタと駅中を歩く。何度見返しても頼んだものしか書かれていなかった。

「ふぅ……人手不足で明日の現場も多分残業ですわね。明日の気温は……」

 スマホで明日の天気を見る。

「天気予報だと超快晴の38度かぁ。家で寝てたいですわあ……」

 七月の時点で、太陽は人を殺そうとしている。

「……いえダメですわこういうときに諦めてはサボり癖がつきますわ。行くといった以上はいかないと」

「貴族たるものは働けるうちに働くのよ、マリー」