シング・ア・ラブソング!


「なんでもしてくれるって、さっき言ったよね」
 低くて柔らかい声が、鼓膜を揺らす。
 目の前に迫った綺麗な瞳が、私を真っ直ぐに見据えていた。

「言ったけど……」
 私は絞り出すように呟いた。

 ほとんど話したことのないクラスメイトの男子と、狭い部屋に二人きり。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 私があんなことを言わなければ。

 一時間くらい前、私は教室の掃除をしていた。
 掃除当番は私を含めて五人いたはずなのだが、私以外はみんな、遊びに行ったり、部活に行ったりしてしまった。端的に表現すると、押し付けられたということになる。

 柚子(ゆずこ)が「教室掃除、光莉(ひかり)が全部やってくれるって」と、笑顔で言うものだから「マジか。水岡、サンキューな」「ラッキー。今日合コンあるんだよね」などと言って、みんな教室を出て行ってしまった。

 もちろん、私はそんなことは言っていない。否定しようとして口を開くと、柚子に睨まれる。

 まあ、私が否定したところで、他の人たちは柚子の言うことを優先するだろう。そっちの方が都合がいいから。

「ってわけで、よろしくね」
 つい数秒前の笑顔が嘘のような、見下すような目で私を見て、柚子も帰って行った。

 野島(のじま)柚子はクラスでも影響力のある生徒で、男子からも女子からも人気な上、教師からも評判がいい。外面がいいとも言える。

 私も去年、一年生のときに同じクラスで話すようになって、二年生になった今も「今年も同じクラスだねー」「うん。よろしくー」なんて笑顔で言葉を交わしたりするくらいには親しかった。

 けれど、それも少し前までのことだ。一週間くらい前、些細なことがきっかけで柚子に嫌われてしまったのだ。

 まったく悲しくないというわけでもないけれど、まあ、そういうこともあるよね、という感じだ。

 柚子は私にとって、かけがえのない親友ってわけでもない。同じクラスになったんだから、きっとみんなで仲良くやっていける、などという馬鹿みたいな幻想を抱いてもいなかった。

 私を嫌っているのは、柚子と彼女のグループの数人だけなので、学校生活に大きく影響があるわけでもない。他にも仲の良い人はいるし、そういう人とは普通に話したりはする。

 女子っぽい振舞いが苦手な私と、意地っ張りな柚子の性格を考えれば、この溝の修復は不可能だろう。

 嫌われる分には別にいいのだけれど。私に対する嫌がらせには、さっさと飽きてほしい。

「……はぁ」
 一人残された教室で、私は息を吐いた。

 もちろん怒りもあったけれど、呆れの方が強い。柚子に対しても、他のクラスメイトに対しても。

 私も帰ってしまおうかと思ったけれど、掃除をさぼるわけにもいかない。損な性格だと思う。
 ロッカーから箒を取り出して床を掃き始める。

 まだ何人か残っていたクラスメイトも、一人で掃除をしている私を、気の毒そうな目で見つつも、何も言わずに去って行く。もしも私を手伝おうものなら、柚子に何かされると思っているのかもしれない。その可能性は大いにあるし、それがわかってしまうだけに、私も気軽に、手伝って、などとは言えない。

 なんとか床の掃除を終わらせる。
 あとは……黒板も綺麗にしないと。

 黒板消しを手に取り、六時間目の数学の授業で使われた数式を消していく。しかし、上の方には背伸びをしてもギリギリで手が届かない。

 何やってんだろ……。
 鼻の奥がつんとして、涙が出そうになった。

 諦めて、踏み台の椅子を持って来よう。どうせなら、柚子の椅子を使おう。上履きのまま乗ってやろう。

 そう思って振り返ろうとすると、
「手伝うよ」
 横から声がした。

「え?」
 クラスメイトの男子がそこには立っていた。

「あ、ごめん。もしかして、一人で全部やりたいみたいな感じ?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」

「じゃあ、上の方消すね」
 優しくて、柔らかい声だと思った。こうしてちゃんと声を聞くのは初めてだからかもしれない。

「あ、うん」
 彼は私が届かなかった高いところに手を伸ばして、軽々と消していく。

 藪本(やぶもと)(しん)。それが、彼の名前だった。クラスでも目立たない男子。

 身長は少し高めで、かなり細い体形をしている。スタイルがいいというよりは、弱々しいと表現した方がしっくりくる。無造作に伸ばした髪を見て、頭髪検査に引っ掛かりそうだな、などと場違いなことを考えた。

 よくわからないまま、私と藪本くんは教室の掃除を終わらせる。
 出そうになっていた涙は、もう引っ込んでいた。

「あとは、ごみ捨てだけかな」
「そうだね」

「じゃ、僕はこっち持ってくから、水岡さんはこっちをお願い」
 藪本くんはそう言って、二つの袋にまとめられたごみの、軽い方を私に差し出した。

「あの、本当に助かった。手伝ってくれてありがとう」
 まだちゃんとお礼を言っていなかったことに気づいて、私は頭を下げる。

「別に、たいしたことはしてないよ。僕、あっちにいたんだけど、水岡さんが一人で掃除してるのが見えたから、ちょっと気になっちゃって」
 彼は教室の窓の方を指さしながら言った。

 窓からは特別教室棟が見える。理科の授業で使う実験室や、視聴覚室、放送室などがある。

 部活か何かで向こうにいたのだろうか。少なくとも、運動部ではなかったと思うけど。

 でも、わざわざ見に来てくれたんだ。
 引っ込んだと思っていた涙が、またこみあげてくる。

「もしよかったら、何か、お礼させてくれないかな」
 それをごまかすように、私は言った。

「お礼?」
 藪本くんは少し驚いたような顔をしている。

「うん。私にできることなら、なんでも」
 借りを作りっぱなしなのはなんだか落ち着かない。几帳面な性格は、私の長所でもあり、短所でもある。

 そして、この軽率な発言が、思いがけない事態を引き起こすきっかけになるなんて、このときは予想できなかった。

「なんでもしてくれるって、さっき言ったよね」
 藪本(やぶもと)くんと、狭い部屋に二人きり。ドアは彼の背中の方にある。逃げ場はない。

「言ったけど……」
 そうだ。たしかに、私はそう言った。

 けれど、こんな展開は予想外だ。
 ジュースをおごるとか、宿題を見せるとか、そういうのを想像していた。

 なのに、どうして……。
「好きな曲で大丈夫だから」
 私はカラオケボックスにいるのだろう。

「好きな曲って言われても……そんないきなり……」
 藪本くんが差し出した、曲を入れる端末を見ながら、私は困惑していた。



 教室の掃除が終わり、手伝ってもらったお礼をさせてほしいと申し出た私を「じゃあ早速、一緒に来てほしいところがあるんだ」と言って、薮本くんはカラオケに連れてきた。

「えっと、どこに向かってるの?」
 私は道中でそう尋ねる。そのときはまだ、目的地を知らなかった。

 私の質問に、薮本くんはこう答えた。
「一曲、歌ってほしいんだ」
 それに対する私の返答は「は?」だった。

 結局、どこに向かっているのかも、歌ってほしいという言葉の真意も、何がなんだかわからないまま、学校から歩いて十分ほどのところにあるカラオケの大手チェーン店で手際よく受付をする藪本くんを、私はボーっと眺めていた。これがつい一分前のこと。

「ずっと、気になってたんだ」
 端末を私の目の前に置いた薮本くんは、今度はマイクを手に取る。身を乗り出してきて、私の手をマイクごと握る。彼の手のひらが、私の手の甲に触れた。温かい、などと悠長に感想を抱いている場合ではない。

「え、何。ちょっと待って。どういうこと?」
 近い。普段は前髪でよく見えないけど、思ったより綺麗な目をしてるな――なんて冷静な分析をしてる場合でもない。

 気になってたって? 私のことが? 何を? どう気になってたの?
 クエスチョンマークでいっぱいになった私の頭はショート寸前だ。世界がぐるぐる回っているような気さえする。

水岡(みずおか)さんの声が、理想の声にピッタリなんだ」
 そんなよくわからないことを、薮本くんはマイクと私の手を力強く握りしめながら、真剣な表情で言った。

「理想の……声?」
 私の声が? それってどういうこと? 余計わからなくなった。あと近い。肌も白くて綺麗だ。もしかして藪本くんは、漫画や小説でよくお目にかかる隠れイケメンというやつなのだろうか。現実に存在するなんて思ってなかった。男子に対する免疫がない私にとって、この現状はとてもヤバい。ひえぇ。誰か助けて。

「あっと、ごめん。ちょっと興奮しちゃって」
 我に返ったらしく、ようやく身を引いてくれた。私の手はマイクを持ったまま、空中で静止する。心臓がバクバクいってる。変な汗が出そうだ。

「あ、うん。大丈夫。で、何か歌えばいいの?」
 よくわからなかったけど、とりあえずそれが藪本くんへのお礼になるのであれば、一曲歌うくらいなんでもない。

 いや。掃除を手伝ってもらったお礼に一曲歌うってどうなんだろう。
 色々とイレギュラーな出来事が続いていて、思考力が麻痺しているような気もする。

 まあ、こっそり動画撮影して笑いものにしようとするようなタイプには見えないし、別にいいかな。

 歌は好きだ。カラオケにも月に一、二回は行く。一人でも行くし、友達と行くこともある。

 そういえば、柚子(ゆずこ)とも一緒に行ったことがあったなぁ。などと、どうでもいいことを思い出しながら、端末を操作する。

 どんな曲を歌えばいいのだろう。友達と一緒のときは、好きな曲をそのまま入れれば、趣味が似ているからそれで問題なかったけれど……。ここは藪本くんの趣味に合わせるべきだろうか、と考えたものの、そもそも彼のことを全然知らないので、どうしようもない。というか、なぜ私はほとんど話したことのない男子とカラオケにいるのだろう。

 お礼をしたいと申し出たのはたしかに私だけど、カラオケに連れて来て、歌を要求する男子って、どう考えてもおかしいでしょ。ちょっとだけ正気に戻った。でも、今さらやっぱり嫌だなんて言うのも申し訳ないような気がするし……。

 平均よりは上手いけれど、プロのレベルには到底及ばない。
 それが、私の歌唱力に対する自己評価だ。

 別にプロを目指しているわけでもないし、上手くなりたいとも強くは思わない。歌を歌うことはただの趣味で、それ以上でもそれ以下でもない。正直、歌の上手さなんて自分ではよくわからない。けれど、一緒に行った友達からは、結構な頻度で上手いと言われる。それはただのお世辞なのかもしれないけれど。

 悩みに悩んだあげく、タッチパネルを操作して、若者の間で流行っている曲を入れた。ネットでも話題になっていて、高校生ならほとんどの人が耳にしたことはあるはずだ。

 イントロが流れたとき、藪本くんも「あ、いいね」と呟いていたので、彼も知っているのだろう。