『怖くないよ。オジサンたちはみんな優しいし。変なことしたらもう紹介しないって言ってあるから下手なことはしないし』
『じゃあ……』
私はそのおいしい話に飛びついた。渡りに船だった。
指定された場所に行くとヒョウ柄ワンピースの派手な女が声をかけてきた。凜だった。凜はすぐさま隣にいた男を紹介した。スーツを着た中肉中背のいたって普通のサラリーマンだった。凜は制服姿の私と男をタクシーに押し込んだ。車が停まったのはヤシの木のイラストが描かれたピンクの壁の立方体の変な建物だった。車を降りると男は断りもなく、私の肩を抱いた。なんともいえない男の体臭が鼻を突いた。
狭くて急な階段を登り切ると鉄扉があった。中はピンクと赤の陳腐な色合いの壁と、ギラギラとシャンデリアが光る部屋だった。男は丁寧に制服を剥がし、私の幼い体を貫いた。天井のシャンデリアの粒を数えて終わるのを待った。男は客でありながらコドモの私に丁寧に礼を言い、代金のほかに小遣いをくれた。初めて手にする札束に手が震えた。
それからというもの、私は凜から男を紹介してもらい、体を売った。中には暴力的な男もいた。おしっこを飲ませろという気持ち悪い男もいた。回数を重ねるにつれ、金額も落ちていったが毎回もらえる万札を郵便局のATMに預けていた。
罪悪感はなかった。若さを切り売りする貴重な職業とさえ思った。未来への投資と思えば体を売ることは善だった。ただ、コトを終えてベッドから降り、下着を身につけるときになると母の姿が脳裏をかすめた。荒れた指先で錆びた縫い針を持ち、背中を丸めて穴の空いた下着を繕う見窄らしい母の姿が。何故にそんな姿を思い出すのか自分でも分からなかった。
あんな惨めなひと……。
いや。あんなふうにはなりたくない。働いても働いても貧乏な大人にはなるもんか。人並みの生活をしたい。ただ、それだけ。大学さえ卒業すれば。きちんと学歴とスキルを身に着ければ。
勉強する時間もできで、成績は再び上位ひと桁に食い込むところまで回復していた。通帳の残高も150万円を超えた。これで大学に行ける、そう確信した。
冷たい雨の降る夜だった。高校卒業後は大学に行きたい、そう、母親に告げた。ボロ服を繕う母は進めていた縫い針の動きを止めた。そんなお金はない、すぐに働いて家にお金を入れてほしい、私とは目も合わさずにそうぼそりと言うと再び指を動かした。古く雨漏りのする6畳間の隅では弟がゲームに興じている。その弟をちらりと見て、あの子もこれから授業料がかかるだろ、と母は独り言のようにつぶやいた。私は反論した。教師になりたいから大学に行かせてほしい、お金は奨学金とバイトで賄うから迷惑はかけないからと、正論で彼女を畳みかけた。彼女は無言だった。天井から垂れた雨水が畳の上に置かれた洗面器をたたく音に混じり、ゲーム機は私を嘲るようにピコピコという電子音を鳴らした。私は正座した太腿の上で両手で拳を強く握った。体を売ってまで稼いできた、嫌な男でも相手をしてきた。遊びにもいかず、お洒落もせず、ひたすらに耐えてきた。なのに、ろく
に勉強もせずに高校に進学するつもりの弟を優先するなんて。拳が震えた。限界だった。ぷつんと自分の中の糸が切れた。膜が破れた。ついに……言ってはいけないひとことは母をひるませた。
『お母さんがバカだから! だからお父さんにも逃げられるんだよ!』
母は何も言わなかった。針を動かしていた。
*-*-*
「……恵、梢恵?」
隣にいた博人の声で私は意識を戻した。スイーツスタンドで紙に包まれたドーナツをほおばるお客さんに幼い頃を思い出してしまっていたらしい。私の家ではドーナツは高級品だった。他の家では普通におやつだったショップのドーナツ。カードの点数を集めてもらえる景品も私には手の届かないものだった。
「なんだ、ドーナツを食べたいのか?」
「あ……うん」
じゃあ帰りに、と博人は私の頭をポンと叩いた。
黒塀と瓦屋根の古民家が連なる道は乗用車がギリギリすれ違えるくらいの道幅で、まるで歩行者天国のように観光客はゆったりと歩いている。そのひとつに目指す雑貨屋があった。その軒先には古めかしい文机の上にシンプルな黒のノートや鉛筆などが積まれていた。博人は大きな手でその硝子の引き戸をガラガラと音を立てて開けた。天井から吊された裸電球はボンボリのように優しく光を放つ。使い古された学校の机がいくつか並び、その上に消しゴムはんこが置かれていた。
梢恵と博人は消しゴムはんこを手に取り、眺めた。ハートマークや音符などの記号の他に猫や犬、ウサギといった動物はんこや、ありがとう、回覧といった文字のものもあった。2センチ角のミニ版からクリスマスカードのようなハガキサイズもある。名刺や住所などもオーダーメイドで作成してもらえるようだ。
普通の印鑑やはんこと違い、消しゴムは触った感じが柔らかい。機械でなく手彫りなのも温かみを与える要因だろう。いくつか気に入ったものを手にしたまま、他の消しゴムはんこを見ていた。
すると隣からクスクスと笑う声が聞こえた。博人だ。見上げれば私を笑っている。ただし、優しく包み込むような表情で。
「先輩?」
「ごめんごめん。可愛いなあと思って」
「この消しゴムはんこが?」
「違う違う。梢恵がだろ。梢恵って好きなものをあとに取っておくタイプだよね。給食みたいにドンって一皿にいくつもかのおかずが並んでたら、先に苦手なものを食べて、好きなものはあとからだろ?」
「そうかも」
子どもみたいだと笑われたようで恥ずかしく、そのままレジに行き、会計を済ませた。
来た道を歩き、ドーナツ屋まで戻る。買い求める列は10人ほど。その最後尾にふたりで並ぶ。モスグリーンのレトロなワゴン車を改造した移動販売車だ。前に並んでいた同じ年代の女性らは可愛いバスだよねと話している。車体の屋根からは紅白縦じまのひさしが伸び、日陰を作る。車体の横には大きな窓があり、そこから店員さんがドーナツの受け渡しをしている。黒く丸い眼鏡をかけた背高のっぽの男性だった。黒のシャツにモスグリーンのエプロンだったが、ひさしの色合いからしてウォーリーにも見えてしまう。私と同じことを感じたのか前の女性もウォーリーみたいと笑っている。
最前列に並んでいた客らが白い紙に包まれたドーナツを手にし、かじりながら歩いて離れていく。どんどん前に進み、目の前にはウォーリーになった。ウォーリーの前のカウンターにはドーナツが皿に並んでいる。チョコやナッツでトッピングされたデコレーションドーナツだ。ドーナツは渦巻き状で穴がない。ロリポップキャンディのように棒が刺さっている。
「あ、かわいい。うずまきの形になってる」
「ほんとだ。迷うなあ」
「うん。迷うね」
迷うには理由がある。ドーナツのトッピングはどれひとつとして同じものがなかったのだ。ピンクのチョコやホワイトチョコ、ナッツもピスタチオ、アーモンドスライス、くるみとそれぞれに違う。
色とりどりの丸い輪たちはまるで宝石箱のそれのようだ。目移りしてしまう。でも早く決めないと後ろの人も待っている。私は一番目を惹いた水色のアイシングがたっぷりかかったドーナツを指さした。博人はその隣のシナモンシュガーのそれにした。ウォーリーはただただ微笑んでそれぞれをワックスぺーパーに入れる。
お代は博人が払い、ドーナツを受け取ると後ろの人に場所を譲る。
「随分派手なのを選んだな」
「あ、うん。そうね。なんだか懐かしくて」
来るときに見かけたツインテールの女の子に自分の幼い自分を思い出した。水色のワンピース。デパートで両親が買ってくれた新品のそれ。そういえばひっかかる。ランドセルも体操着も中学や高校の制服もおさがりばかりだったのに、何故ワンピースは新品だったんだろう。
「懐かしい?」
「小学校に入学するときに両親が水色のワンピースを買ってくれたの。その色を思い出したから」
「ふうん。それを着た梢恵の写真見てみたいな」
「実家にならあるかもしれない」
「これから見に行かないか?」
実家……。雨の日は部屋の中でも雨が降る古い平屋。カビの臭いのする壁。狭い台所。すり切れた畳。あんなところに博人を連れて行くわけにはいかない。
「でも遠いし」
「ここから車で1時間くらいだろ?」
「連絡してないから行ってもいないかもしれない」
「なら今、電話してみたら?」
博人の魂胆は分かっている。母に会って言うつもりなんだと思う。私が返事をしないから。ずっと濁してきたから。私には結婚する資格なんてない。こんな素敵な人に似つかわしくない汚れた体だから……。
そもそも実家には帰れない。もう、あの家を、いや、親を捨てて出てきたも当然だから。
私は水色のドーナツにかぶりついて返事をごまかした。アイシングの上のカラフルな粒が口の中ではじけた。ソーダのようにシュワシュワと音を立てる。そしてドーナツ生地はサクサクとして。
もうひとくちかじろうと口を開けると不意にドーナツは消えた。
「梢恵」
見上げるとドーナツは博人の手で上に掲げられていた。
「先輩、何するんですか」
「電話して。実家に行こう」
「いないかもしれないし」
「だから電話するんだろう? 電話したらドーナツは返すから」
博人がこんな大人げないことをするのは初めてだった。博人の目はきつく私を見つめていた。きっと怒っている、そう思った。でも実家に博人を連れていく気は毛頭ない。
「先輩ごめんなさい」
「どうして謝る」
「別れてほしい」
「どうしてそんなことを言う」
「どうしても」
「俺と結婚したくないから?」
「……そう」
「どうして」
「私は先輩にふさわしくないの」
「どこが」
「家柄も私自身も、すべて」
「俺の実家は名家でも豪族でもない。一般的な家庭だし。梢恵っだってなにを引けを取ることがあるか」
「ダメなの。だって私は……」
「”私は”?」
私は?と問われて黙り込む。自分から過去のことなど言えるわけはない。俯くと地面には博人の靴が見えた。
「ひょっとして、凜とのことか?」
「え?」
思わず顔を上げた。やっぱりそうか、と博人は大きく息を吐いた。
「凜を知ってるの?」
「ああ。だって俺も梢恵も凜も同じ高校だろ。あれだけ派手な格好してれば否が応でも目に入るよ」
あれから凜とは会っていない。私は同窓会にも出ていないし、彼女のその後は知らない。博人が聞いた噂によると、凜は地元でも有数の大企業の社長夫人だとか。すっかり社交界で幅を利かせるポジションにいるらしい。
「凜も過去のことは封印して生きてる。だから梢恵も過去は封印して生きていったらどうだ?」
「し、知ってたの?」
「さあ。俺は知らないよ。分厚い封筒を凜から受け取ってた地味な子を見かけたことはあるけど、それ以上は知らない。仮にそうであったとしても、その地味な子にも事情はあったと思うから。だから俺は気にしない」
「でも好きでもない人に抱かれて、そんな女の子を……」
「んなこと言ったら、俺だって童貞喪失の相手は好きでもないバイト先のお姉さんだったし? 俺だって遊んでた時期はあった。それとどう違うんだ?」
消しゴムでは消せない過去。それを含めた自分なんじゃないか……? 消しゴムはんこは消すためのものじゃない。身を削り、それを押して新たにカタチをみせるものだ。長方体からいびつになった体をそのまま刻印する。
「結婚しよう、梢恵。ほら早く実家に電話しろよ」
『ほうら、できたよ』
よみがえるのは母の声。
『違う! こんなんじゃない!』
声を荒げた私に驚いた顔をして、その直後、さみしそうな表情になった母。
『ごめんね梢恵』
近所にできたドーナツショップのドーナツが食べたいといった私に母は自宅にあった材料でドーナツを作ってくれた。でも私は学校で話題になっていたそのお店のドーナツが食べたかったのだ。300円で1枚渡されるカードを集めてもらえる麦わらトートが欲しかった。母は不格好で大きさのそろわないドーナツを乗せた皿を台所に戻した。そのあと母が買い物に行った隙にドーナツを食べた。素朴なドーナツの味。
ほろり、と頬の上を涙が伝う。
「……私の実家、貧乏なの」
「ああ」
「平屋の借家で雨漏りもして。父は蒸発して、母は定職にはついてるけど収入も少なくて」
「ああ」
「ほんとうに驚かない?」
「金持ちの家で育ってわがまま放題の娘よりすっといいだろ。梢恵は梢恵の足できっちりと歩んできたんだから。食べ終えたら行こう。日が暮れる」
私はカバンからスマホを取り出し、実家の番号をタップする。数コールで出た母にこれから帰るとひとことだけ告げた。
「あ、お母さん。ドーナツ、作れる?」
作れるよと母は返事をした。
博人は涙を指でぬぐい、微笑みかけた。
*-*-*
夕暮れ時。
ヒビの入ったガラス戸はガムテープでところどころ留められている。フランケンシュタインの額のようだ。それをがらがらと引く。目じりにしわの増えた母。にっこりと笑って出迎えてくれた。6畳間にはこたつ、こたつの天板の上にはお手製のドーナツ。
「お母さん、ご……」