企画立案にかなり厳しい東雲さんが、まさか一発オッケーを出すなんて。
異例中の異例の事態に、私は驚きを隠せなかった。
それに書いた話は、まったくもって等身大の恋愛小説ではない。
あれは言うなれば、デビュー作の主人公たちを殺さなかったような物語だ。
傷つきながら生きてきた高校生の男女が、大人になって再会し、お互いの傷を癒そうとする、私が千里くんに抱いた感情を爆発させたような、恋愛とは少し違う話。
それなのに本当に大丈夫なのだろうかと心配していると、東雲さんは出版までの具体的なスケジュールを計算しはじめた。
どうやら彼は本気らしい。
「ああ、そうだ。今回から近影も載せましょうか」
「近影?」
近影とは、書籍に掲載される著者の顔写真のことだ。
プロフィール非公開の私は、もちろん顔出しだってしたことはない。
「そんなのを載せてどうするんですか」
「簡単なことですよ。顔出しをして、著者が美人作家という付加価値を与えるんです。“美しすぎる女流作家”とでも謳えばメディアがこぞって飛びつくでしょうし、邪道な方法ではありますが売上の増加も期待できます」
すると、東雲さんは至極真面目な顔つきで突飛な発言をした。
そんな彼の言葉がなかなか頭に入って来ず、二の句が継げずに不自然な間を作ってしまう。
「……び、美人? 私が?」
「はい。別に卑屈になるような容姿ではないでしょう? 武器として十分に通用すると思いますが」
きょとんという言葉がぴったりな顔で、東雲さんが首を傾げる。
いや、さすがに自分でも二目と見られない容姿だとは思わないけれど、だからと言って人目を引くようなものでもないし、いたって平凡な顔立ちなのだ。
彼が言うような武器にはなりそうもない。
そんなことを考えながらこめかみを手で押さえていると、東雲さんは呆れたようにため息を吐いた。
「相変わらず自己評価が低いですね。謙遜もいいですが、あまりに過ぎると嫌みですよ」
「それは認めますけど、どう考えても売りにできるほどではないですし。っていうか東雲さんだって、今まで一度もそんなこと言わなかったじゃないですか」
「個人的に人の容姿に言及するというのは好きではないので。あくまでこれは客観的な意見です」
いやはや、それにしても担当編集者の贔屓目が強すぎると思うけれど。
冷静に言い切る東雲さんを、苦い顔で見つめる。
今日の彼はいつになく私への肯定感が強くて、なんだか怖いくらいだ。
「今回の周年記念作は、顔出しと新ジャンルの開拓を合わせて、日下部聖という作家のリブランディングを行おうと思っています」
ふと、東雲さんが呟いた聞き慣れない単語に、私はぽかんと口を開けた。
リブランディングとは、ブランドの再構築という意味だっただろうか。
「日下部聖という作家は“落ちぶれた元神童作家”というイメージが強すぎますからね。名前だけで敬遠する読者も大勢いるらしいですから」
「名前だけで!?」
まさか自分のイメージがそこまで悪かったとは。
容赦のない言葉で心にダメージを受ける私とは対照的に、東雲さんは「そこでリブランディングを行うというわけです」と淡々とした調子で続けた。
つまりは新ジャンルの開拓でイメージチェンジを図り、近影によって大人の作家へと成長していたことを印象づけ、読者の意識を変える作戦なのだという。
これまで培ってきたものを台無しにしてしまう可能性もあると言われたが、そのことに関して拒否感はわかなかった。
別に今さら失うものなんて何もない。
変わるチャンスがあるならば、私はどんな手だって使いたいのだ。
というか、そんなことよりも。
「なんで今までそれを教えてくれなかったんですか……」
そんなにもイメージが悪いことを知っていたら、顔出しだろうが恋愛小説の執筆だろうが、もっと前から試していたのに。
私が恨めしげに言うと、東雲さんはきまりが悪そうに顔を顰めた。
「……あなたには、コアなファンに愛される細く長い作家生活が合っていると思っていたんです。知名度が上がりすぎると、過度な中傷を受けることや、ストーカーに悩まされるといったこともあるでしょう?」
言われてみればデビュー作が話題になったとき、私は辛辣な講評や中傷的な手紙をまともに受け取って傷ついたこともあった。
どうやら東雲さんは、そのことを懸念していたらしい。
まさかこの人が、そんな思いやりを持ってくれていたとは知らなかった。
「それになんだかんだと言って、私も日下部聖の紡ぐ物語を愛しているということですよ。無闇に消費されるより、あなたに合った売り出し方をしたかった」
照れ臭さが滲む顔を隠すように、東雲さんが眼鏡のブリッジを持ち上げる。
彼の仕草を見ながら、私は嬉しくなって笑ってしまった。
「ですがあなたは、その売り出し方に不満を持っていらっしゃるようでしたからね」
「東雲さんの気持ちは嬉しいんですけど、まあ有り体に言えばそうですね」
「そこが腑に落ちないんですよ。あなたはどちらかといえば目立つことが苦手なタイプでしょう?」
「そりゃあ私にだって作家としてもう一花咲かせたいっていう気持ちくらいありますよ。専業なんで生活もかかってますし、売れるに越したことはないですから」
それに一人でも多くの人に届けば、中学生のころの千里くんのように、私の紡ぐ物語を必要としてくれる方の手にも渡るかもしれない。
それはこの上なく作家冥利に尽きることだろう。
そこまで考えて、私は苦笑した。
ううん、そんなのはすべて綺麗事だ。
今の私は、千里くんただ一人に喜んでもらえればそれでいいと思っている。
彼のために物語を書いたと言っても過言ではないくらいなのだから。
仕事に対してとんだ私情を挟んでしまっていることに我ながら呆れていると、眼鏡の奥の東雲さんの目がかすかに細められたのが分かった。
「どうかしました?」
「日下部先生。あなた恋をしてますよね」
「は、はぁ!?」
「子供のころからあなたを見てきたんですから、それくらい分かりますよ」
感慨深いものですねと、茶化す言葉が続く。
飲んでいたブレンドコーヒーを吹き出しそうになり、私は慌てて口を押さえた。
「相手は誰なんです? 男の影なんて見えませんでしたが」
「やめてくださいよ! そんなんじゃないですから!」
「そうでなければ、あなたがいきなりあんな恋愛小説を書けるわけがないでしょう?」
「えっ? あの話って恋愛だったんですか……?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまうと、東雲さんは怪訝な顔つきで押し黙った。
なんだこいつとでも言わんばかりの彼の視線が、私の顔へと突き刺さる。
しかし驚いても無理はないだろう。
だって私は恋愛小説を書いたつもりなんてこれっぽっちもなかったのだから。
なぜ東雲さんから快諾を得られたのか不思議でならなかったけれど、彼が初めからあれを恋愛小説だと解釈していたのならば理解できる。
……えっ、じゃあ、なんだ?
あの話が恋愛小説だと言うのなら、私が千里くんに向けているこの感情も恋情だと言うのだろうか。
こんなぐちゃぐちゃとした、お世辞にも美しいとは言えない感情が?
いや、そんな、まさか。
「聖ちゃん」
「へっ!?」
そのときだった。
突然背後から千里くんの声が聞こえ、私の心臓は大げさに跳ねた。
今まさに考えていた人の声に空耳を疑ったが、振り返ればやはりそこには千里くんがいて、しかしなぜだか彼も驚いた顔をしている。
「ごめんっ、どなたかとご一緒だとは知らなくて……! 向こうから君の姿だけが見えたから」
「大丈夫だよ! よかったらこっちに座って」
踵を返して立ち去ろうとする千里くんを、私は咄嗟に呼び止めた。
今日は日曜日だから、彼はきっと休日をこの喫茶店で過ごすために訪れたのだろう。
元々この喫茶店は彼の行きつけなのだから、偶然会ってもおかしくはない。
入り口の方からは柱の影になって東雲さんの姿が見えなかったらしく、千里くんは声をかけたことを申し訳なさそうにしながらも、隣のイスに座ってくれた。
「紹介するね。こちらは私の担当編集者さん」
「初めまして、東雲と申します」
「こちらこそ初めまして。彼方といいます。そうですか、編集者さんでしたか」
東雲さんが名乗ると、千里くんはあからさまにホッとした様子で笑みをこぼした。
彼の目には、この編集者が悪徳な詐欺師か、もしくはインテリヤクザにでも見えていたのだろうか。
いつもと同じく不自然なまでににっこりとした笑みを浮かべる東雲さんに、見慣れた私でも圧倒され、辟易としてしまう。
「彼方さんというと、もしかしてよく日下部にファンレターをくださる方でしょうか?」
「は、はい、その彼方です」
「ご愛読ありがとうございます。なるほど、あなたが……」
そんな東雲さんは、どうやら彼方という名字の読み方を知っていたらしい。
彼のインテリぶりは見掛け倒しではないのだと改めて感心していると、その眼鏡越しの視線が意味深に私へと向いた。
……本当に、恐ろしく勘の鋭い人だ。
それからしばらくすると、彼は私と千里くんを残し、そそくさと喫茶店を出て行ってしまった。
あれは気を利かせたというより、どちらかと言うと面白半分での行動だろう。
「東雲さん、かっこいい方だね」
「うーん、まあ厳しいけど、仕事はできる人だしね」
千里くんの褒め言葉に、多少の違和感を抱きつつも同意する。
東雲さんはデビュー当時から二人三脚でやってきた、かけがえのないパートナーだった。
考えてみれば、ただの中学生と駆け出しの編集者という二人から始まって、よく10年もやってこれたものだ。
「あの人は昔から私を子供だと侮ったりしないで、一人の人間として対等に接してくれるの」
おかげで扱うテーマや話の方向性について意見が食い違うたび、本気でぶつかり合わざるを得なかったけれど。
シニカルで厳しくて掴みどころがない、それでも作品に対しては真摯で愛に溢れた東雲さんに出会えて、私は本当によかったと思っていた。
「信頼してるんだ」
「一応ね」
そう言って苦笑すると、千里くんは「そっか」と小さく相槌を打って俯いた。
微笑んでいるはずなのに、その表情はなぜかとても寂しげで、瞳には言い知れない熱のようなものを感じる。
穏やかな彼には似つかわしくない、まるで燃え盛る炎のような鮮烈な熱だ。
そんな熱を、彼は一体今までどこに隠し持っていたのだろう。
それにどうしてその熱で、私の心はかき乱されているのだろうか。
――あなた恋をしてますよね
東雲さんの声が、意識の奥で鳴っている。
その言葉をどこか遠くに置き去りにしたまま、私は彼の瞳に宿った炎を、ずっと見つめていたいような心地に駆られていた。
書きかけの物語の残り半分をこれまた一週間で書き上げた私は、こうしてあっという間に10周年記念作を完成させた。
執筆と並行して装丁のデザインも始められていたため、すぐに入稿され、校正・校閲作業へと進められる。
タイトルは東雲さんに考えてもらった『神様は目を閉じた』だ。
顔に似合わずロマンチックなタイトルを付けるものだと思いながら、そこはさすが編集者というのか、ストーリーによく合っていて、私は結構気に入っていた。
そしてすべての作業を終えて校了するころ、ついに書籍の宣伝も始められた。
予定していたとおり、“日下部聖初の恋愛小説”というあおりと顔出しでの宣伝だ。
発売日の一ヶ月前から新聞や雑誌、テレビ、果ては駅の構内など、いたるところに広告が載せられ、これまでの比ではないレベルの宣伝料がかかっていることが窺えた。
これで売れなかったら、私は一体どんな贖罪をすればいいのだろう。
強気な初版の部数を思い出すと、嫌でも戦慄が走る。
そんな中、私が新作の編集作業に追われていたのと時を同じくして、千里くんも仕事に忙殺されているようだった。
彼曰く、研修期間も終え、家に帰るのもままならないほど研究に追われているらしい。
新人としてはいい経験を積めるようで嬉しいが、いかんせんあまりの忙しさに疲労困憊しているそうだ。
そのため私はしばらくのあいだ、彼に会うことはおろか、連絡を取ることすら躊躇してしまっていた。
しかし新作の発売情報が解禁されたその日、久しぶりに連絡をしてみると、すぐに“予約をした”との返事がきた。
“仕事は大変だけど、聖ちゃんの新作をご褒美だと思って頑張るよ”。
送られてきた文面を何度も読み返し、一人でひっそりと微笑む。
私の書く物語が千里くんの活力になるのなら嬉しい。
けれど私は別に、彼に心を返してもらいたいとは思わなかった。
だからきっと、これは恋ではない。
やはり私は彼に昔の自分を重ねて、その傷を舐めているにすぎないのだろう。
彼が今日も健やかで楽しく平穏に過ごしてくれていれば、それ以上のことはなかった。
仕事が一段落ついたら、また感想を聞かせてくれるだろうか。
私がそれだけを楽しみに仕事をする中、宣伝の甲斐があってか、新作の初週売上は予想を遥かに上回るものとなっていった。
「聖ちゃん、久しぶりだね」
「うん。千里くんは元気だった?」
千里くんに会うことができたのは、新作の発売から2週間が過ぎた日のことだった。
最後に会ったあのデートの日から実に3ヶ月もの時間が経ち、季節は夏真っ盛りとなっている。
今回は“新作発売のお祝いをさせてもらえないかな”と、彼の方から食事に誘ってくれたのだ。
久しぶりに見えた彼は、少し痩せたような気がしたが、きらきらとした笑顔は変わっていなかった。
待ち合わせをしたのは個室のあるダイニングバーで、私たちは揃って白ワインを頼んで乾杯をした。
「10周年おめでとう」
「ありがとう。千里くんも読んでくれたんだよね? どうだった?」
「すっごく面白かったよ。聖ちゃんってこういう話まで書けるんだって驚いた」
「記念作だから3冊も買ったんだ」とか「途中で出てきた洋食屋さんのモデルって俺と行ったところだよね」と言いながら、千里くんはいつものように生き生きと感想を話してくれた。
特に「中学生のころの俺にも読ませてやりたい」と言ってもらえたとき、私は嬉しくて舞い上がってしまった。
その言葉を聞きたいがために、『神様は目を閉じた』を書いたと言っても過言ではないくらいだ。
さすがに重たすぎると分かっているから、彼にその事実を伝えるつもりはないけれど。
「巷のブックランキングもずっと一位をキープしてたよね」
「うん。予想以上の売れ行きみたいで、発売前に重版もかかったんだ。今もう5刷だったかな」
「すごいなぁ。俺が持ってる初版本、そのうちプレミア物になるかも」
「絶対に売ったりなんかしないけど」と千里くんが自信たっぷりに笑うから、私の目尻ははからずもだらしなく下がってしまう。
「そうだ。新作が注目されたおかげで既刊作品も再評価されたんだ。夢想探偵シリーズの続編発行も決まったよ」
「本当に!? それはすごく嬉しい! 聖ちゃんに直接感想も言えたし、ああもう俺、こんなに幸せでいいのかな」
「ふふっ、喜んでもらえて私も嬉しい」
それに加えて、まだ公にはできないけれど、実は『神様は目を閉じた』は実写映画化の声も掛かっていた。
しかも今一番注目度の高い若手女優に主演を務めてもらえるという話だ。
情報が解禁になったら、千里くんはもっと褒めてくれるだろうか。
想像すると、今から楽しみで仕方ない。
「そう言えば今朝はテレビにも出ていたね。朝から聖ちゃんの姿が見えて驚いたよ」
「ああ、うん。人前に出るのは得意じゃないんだけど、出演依頼の数が多くなってきたから断りきれなくて」
予想を超えた空前のヒットに、編集部も大いに沸いているのだ。
ここからさらに売上を伸ばすため、メディアには積極的に顔を出せとのお達しも来ている。
おそらくブームが下火になるまでは、この先もちょくちょく出演しなければならないのだろう。
「そっかぁ。昔からのファンとしては誇らしいことだけど、なんだかちょっと寂しくもあるなぁ」
「ええっ?」
「急に聖ちゃんが遠い人になったみたいで。ううん、元々こうして会って話せるような人じゃないんだよね」
「もう、何言ってるの。大げさだよ」
話に夢中になっていると、いつしかお互いに3杯目のワインに口をつけていた。
お酒が入った千里くんは、いつもより目がとろんとしていて、少し舌ったらずになってしまっている。
体質なのか、首の方までほのかに赤く染まっていた。
「俺に出会ってくれてありがとう。聖ちゃんは本当にすごい。奇跡の存在。俺の希望」
「どうしたの千里くん。もしかしてだいぶ酔ってる?」
「そんなことないよ。全部本音だから」
右手で頬杖をついて、千里くんは蕩けそうなほどににっこりした笑みを浮かべた。
心の底から幸せそうに見えるけれど、これは半分お酒の力によるものなのだろう。
「聖ちゃんを見てると、俺も頑張ろうって思えるんだ。このあいだ、初めて受診もしてみた。克服できるかどうかは分からないけど、接触恐怖症と向き合ってみようと思って」
「そうなんだ……! 千里くんこそすごいよ!」
千里くんの言葉に興奮して、私の声は上擦ってしまっていた。
自分の痛みと向き合うことすら簡単ではないのに、それを乗り越えようとするには、より一層の努力を必要とするはずだ。
それを分かった上で自分自身に立ち向かう覚悟を決めた千里くんを、私は心の底からすごいと思った。
そんな彼の意識を変えるきっかけが自分であることが嬉しくて、私の方こそ誇らしくなる。
このまま接触恐怖症を克服して、そしてもう一度、誰かを愛することができたらいい。
千里くんの隣に佇む女性を想像する。
それは望んでいた光景のはずなのに、しかしなぜか私は、漠然とした焦燥に駆られるような心地がした。
いつかまた彼が恋をしたら、彼の中での私の存在は少しずつ色褪せ、跡形もなく消えていってしまうのではないだろうか。
「聖ちゃん?」
「あっ、ごめん、なんでもない」
千里くんが不思議そうに小首を傾げたのを見て、慌てて笑みをつくる。
最悪だ。
私、今、彼の決心を踏みにじるようなことを考えていた。
彼が離れていってしまうことを、寂しいと思ってしまうなんて。
口の奥に苦味が広がるような不快感を覚え、押し流すようにグラスに残っていたワインを呷る。
同じものをもう一杯注文し、それもまた勢いよく飲み込めば、目の前の千里くんが心配そうに眉根を寄せた。
「聖ちゃんこそ、そんなに飲んで大丈夫なの?」
「へ、へーきへーき。仕事の疲れをアルコールで飛ばしたい気分だったから」
動揺を悟られないようにへらへらとした声で答えたものの、千里くんはなおもジッと私を見つめた。
「やっぱり大変なんだね」
「取材も執筆依頼もかなり増えたからね。でも睡眠時間はきちんと取れてるから」
「それならいいけど、本当に大丈夫? 何か困ってることとかはない?」
「うーん……あっ、えっと――」
先日のとある出来事を思い出して、私はつい思わせぶりに話を切ってしまった。
そのせいで、千里くんの目が動揺したように強張る。
わざわざ彼に話して心配をかけるつもりはなかったのだけれど、ここまできて押し黙るわけにもいかず、私はしぶしぶ口を開いた。
「……実は一昨日、マンションのポストに変な手紙が入れられてたの」
「変な手紙?」
「内容はファンレターなんだけど、切手も消印もない手紙だったんだ。だから直接ポストに入れられたみたいで」
「なにそれ、ストーカーかもしれないってこと? 警察には通報した?」
「うん。パトロールを増やしてくれるって話だけど、怖いから引っ越すつもり。でも忙しくてそんな時間も取れなさそうでさ……」
そこまで言うと、千里くんは顔を顰めて口を閉ざしてしまった。
やはり心配をかけてしまったのだと分かり、居心地が悪くなる。
こんな私のために、彼が心を砕く必要なんてないのに。
「しばらくホテル住まいをするし、それにマンションのセキュリティーはしっかりしてるから、そんなに心配しないで」
「何言ってるの。心配するに決まってるでしょ」
不安を軽くできるかと思って発した言葉は、どうやら逆効果だったらしい。
真剣な千里くんの表情に、申し訳なくて胸が痛くなる。
「何かあったら些細なことでもすぐに連絡して。俺でよければ力になりたいから」
「うん、ありがとう」
「約束だよ?」
念を押すように言われ、ゆるゆると頷く。
けれど心の中で、私は千里くんに頼ることを躊躇っていた。
これ以上私が千里くんに近づくのは、きっと彼のためによくない。
幼かったころの自分の身代わりに彼の傷を舐めていた自覚はあったけれど、あまりに過ぎれば、もはやこれは依存ではないだろうか。
私は己の傷を癒すために彼を利用しているのだ。
彼はもう、私が手を出さずとも前を向いて歩いていけるはずなのに。
あんなにも苦しめられた母からの身勝手な愛と同じものを、今度は私が千里くんに向けようとしている。
そのことに気づいた私は、体が震えるような恐ろしさを感じていた。
どんなに母の存在に抗おうとしても、私に彼女の血が流れているのは紛れもない事実だ。
悔しいけれど、母と同じ愛し方をしてしまわない自信なんてない。
どうしよう、このままいけば、私は母の二の舞いを演じてしまう気がする。
それだけは絶対に避けたかった。
いっそ千里くんの連絡先を消して、一切の交流を絶ってしまおうか。
しかし理由も伝えずにそんなことをしたら、彼の心をいたずらに傷つけてしまうかもしれない。
そう考えると結局どうすることもできず、私の心は宙ぶらりんのまま落ち着くことはなかった。
調子の悪い日が続いていても、もちろん仕事は待ってくれない。
日々項目の増えていくToDoリストとにらめっこをしながら、私はなんとか求められるものに応えていく。
まるで心だけ置いてきぼりにされているような、はたまた大切な物を根こそぎ奪われてしまったような、そんな空虚で心細い環境で、私は生きていくことに精一杯だった。
そんな日常を送っていたある日のこと。
その日は遅くまで雑誌の取材があり、帰路に着くころにはとっくに日付が変わっていた。
疲れきった体と安全面を考慮し、電車を使わずにタクシーで帰宅した私は、自宅マンションの手前で降りると、ある異変を察知したのだ。
エントランス付近に怪しい人影がある。
全身黒ずくめでキャップを深く被った、おそらくは恰幅のよい男性だ。
その人は辺りをキョロキョロと見回しながら、誰かが来るのを待っているようだった。
怪しい、怪しすぎる。
もしかして例の手紙を私のポストに入れた人物だろうか。
恐ろしい仮定が頭に浮かび、思わずその場に立ち竦んだ私は、手に持っていたスマートフォンを握りしめた。
マンションの管理人さんはとうに退勤してしまっている。
近くに頼れる人もいないし、こういうときは警察に連絡をした方がいいのかもしれない。
しかしあの人が手紙の差出人とも私のストーカーとも決まったわけではないのに、少し大げさだろうか。
不審者ではなくマンションの住人だったり、本当に誰かと待ち合わせをしているだけなら、はた迷惑な通報になってしまう。
とはいえ、このままあの人の横を通ってマンションに入るのはどうしても躊躇われた。
今からでもホテルを予約した方がいいかもしれない。
しかしもう深夜であるのに、今からでも泊まることなんてできるのだろうか。
――何かあったら些細なことでもすぐに連絡して。
これからどうするべきかを悩んでいると、ふいに千里くんの言葉が脳裏に過ぎった。
彼ならきっと、この状況から逃れるために力を貸してくれるだろう。
しかし思い直して、慌てて首を横に振る。
時刻はもう0時を過ぎているのだ。
こんな時間に電話なんて迷惑だし、すでに就寝しているかもしれない。
それにこれ以上、私の事情に彼を巻き込むことはしたくなかった。
千里くんへの発信ボタンをスマートフォンに表示させたまま葛藤を続ける。
すると、遠くに見えていた男の体がこちらへ向き、目が合ったような気がした。
悪い予感は的中し、やはり男は私を目がけて走ってくる。
逃げなくては。
頭では分かっているのに、あまりの恐怖で体が動かない。
「日下部先生ですよねっ」
「きゃっ……!」
向かってきた男に強く腕を掴まれる。
その拍子にスマートフォンが手からこぼれ、地面に落ちる乾いた音が響いた。
目の前でニタニタと笑う男に見覚えはない。
おそらく会ったことなど一度もないはずだが、この人は今、日下部先生と言っただろうか。
やはり私を待っていたのだと分かり、背筋が凍る。
「会いたかったです……! あの、俺、先生のファンで」
それから男はぼそぼそとした声で、何やら聞き取れない言葉を呟いた。
掴まれた二の腕から生温い体温が伝わり鳥肌が立つ。
どうしよう、怖い、気持ち悪い。
パニックで上手く働かない脳内で、それでも私は必死に落ち着くように自分へ言い聞かせた。
ここは相手を刺激せず、冷静に対処しなければ。
「は、放してください、痛いです」
「テレビで見るよりもお、お綺麗ですね」
「放してください……!」
「先生を見たとき、俺の運命の人だと思いました」
だめだ、言葉が噛み合わない。
掴まれている腕は、私の意に反してどんどんと力を込められる。
恐ろしいほど爛々とした目に見下ろされ、いつしか歯の根が合わないほどガタガタと震えていた。
怖い、嫌だ、助けて――――。
「誰かっ……!」
恐怖が極まったころ、私はついに悲鳴を上げた。
冷静にとか、もうそんなことを考えている余裕はなく、ただその手から逃れられるようにと必死にもがく。
しかし私が暴れたことに驚いたのか、男は焦ったように私の口を手でふさぐと、そのままマンションの裏手へと引きずり込んだ。
電灯もない真っ暗なその場所に投げ倒され、口から内臓が出てしまいそうなほどに強く背中を打つ。
手も足も地面で擦り切れ、身体中が痛い。
“殺される”。
自然とそんな死の予感がした。
怖くて、ただ怖くて、すでに声は出ず、代わりにしゃくり上げるようなか細い呼吸音が口から漏れる。
散々もがいたせいで、まともに抵抗する力は残っていない。
その体をなおも強く押さえつけながら、男は私の腹の上に跨った。
このまま身も心も蹂躙されるのだろうか。
男の荒い息遣いが頭上で響くのを聞きながら、この上なく絶望的な気持ちになる。
いっそ気を失ってしまえたらいいのに、感覚はむしろ鋭敏に働いた。
かすかな低い笑い声。
背中に擦れる固いコンクリート。
土と汗と、どこかから流れた血の匂い。
肌をまさぐるガサガサとした皮膚と体温。
それらが残酷なほどに心を引き裂いていく。
諦めとともに目を閉じて、私はすべてが終わるのを待とうとしていた。
そのときだった。
遠くから、誰かが駆けてくるような足音が聞こえた。
かと思えば次の瞬間、私の上にいた男が不細工な声を立ててふっ飛んだのだ。
腹を圧迫していた体重が急になくなり、反動で思いきり咳き込んでしまう。
いったい何が起こったのだろう。
涙を滲ませながら、それでも暗闇に慣れてきた目を凝らしてみると、今しがた現れたばかりの人物が、男の胸ぐらを鷲掴みにしているのが見えた。
「っ痛ぇ……」
「あんた誰? 自分のしたこと分かってるの?」
「ひっ」
「彼女のポストに変な手紙を入れたのもあんたの仕業? そういうの、なんて言うか分かる? ストーカーって言うんだよ」
「ちさと、くん……?」
聞こえてきたのは、紛れもなく千里くんの声だった。
しかしその声は、激しい怒りを孕んだかのように低く震えている。
どうして彼がここに。
理由は分からないけれど、どうやら彼は男の脇腹を蹴り飛ばし、私を助けてくれたらしい。
痛む体をなんとか起こして、呆然と彼らを見やる。
するとそのうち、逃げ出そうとする男と取り押さえる千里くんで揉み合いになってしまったようだった。
男が千里くんの腕を押しのけようと彼に触れているのに気づき、怖れと怒りでわなわなと体が震え、頭も熱くなっていく。
「やめて……」
そんな手で彼に触らないで……!
「千里くんっ!」
激昂し、勢い余った私は、なぜか千里くんの名前を叫んでいた。
その瞬間、彼の意識がわずかに私へ向き、男が隙をついて脱兎のごとく走り去る。
それでも追いかけようとする千里くんをもう一度呼び止めると、彼はようやく男を諦め、私の方へと戻ってきてくれた。
「聖ちゃん……」
息を荒くしたまま立ち尽くす千里くんと目が合い、その整った顔が苦しげに歪むのを見上げる。
彼は自分の羽織っていたカーディガンを私に被せてくれると、その場に座り込んでから深く息を吐いた。
力なく項垂れているが、なだらかな肩はかすかに強張っているようだ。
「千里くん、ごめんね」
「え……?」
「さっき、あ、あの人に触られちゃったでしょう? だから気持ち悪いんだよね?」
私の言葉にパッと顔を上げた千里くんは、しかし戸惑ったように瞳を揺らした。
その反応を見て、私も目を瞬かせる。
何か見当違いなことを言ってしまっただろうか。
「……ああ、そうか。だから俺を止めてくれたんだね」
首を傾げる私に対し、すぐさま事情を把握したらしい千里くんは、なぜか悲しそうに笑うと、右手でくしゃりと前髪を握った。
「君はもう、こんなときに人の心配なんかして……」
「だって千里くんが傷つけられるかと思ったら私、悔しくて、怖くてっ……!」
千里くんが傷つくところを見るのは、きっと自分が傷つけられるよりも辛い。
いっぱいいっぱいになりながら喚くようにそう言うと、彼は今にも泣き出しそうなくらい眉根を寄せてから、それでも私を気遣って微笑んでくれた。
「俺は平気だよ。頭に血が上ってたから、聖ちゃんに言われるまでそんなこと忘れてた」
「本当に……?」
「うん、だから大丈夫。聖ちゃんこそ、怪我をしてるんでしょう?」
「わ、私も平気。大丈夫」
「無理なんかしないで? 怖い思いをしたね。もう安心していいから」
千里くんの優しい言葉に、ぼんやりとしながらも頷く。
それから彼が腰を上げるのに合わせて、私も地面に手を突きながら立ち上がった。
骨が軋むような嫌な感じと、腕や足の擦り傷に汗がしみる痛みはあるが、ほかには大した怪我もしていないようだ。
「電話なんて珍しいなと思って出てみたら悲鳴が聞こえて、心臓が止まりそうになった」
警察への通報を終え、到着を待っているあいだ、千里くんは落としたままだった私のスマートフォンを探して拾ってきてくれた。
どうやら男に接近される直前、私の指は偶然にも発信ボタンに触れていたらしい。
残業終わりで、ちょうど自宅へ到着するところだった千里くんは、その着信を聞いて、ここへ駆けつけてくれたのだそうだ。
なんて運がよかったのだろう。
九死に一生を得たようだが、どこか現実味がなく、足元が浮くような心地がする。
「俺も聖ちゃんと同じだよ。君が傷つけられているかもしれないと分かって、生きた心地がしなかった」
すると千里くんは、強く訴えるようにそう言ってくれた。
その目があまりにもひたむきに見えて、思わず呼吸を忘れてしまいそうになる。
彼は優しい。
きっとその言葉も本心から出たものなのだろう。
ただそれを聞いた私は、ひどく悲しい気持ちになってしまっていた。
こんな私に関わることになった彼は、本当に不幸だと思わざるを得なかったのだ。