彼方さんと連絡を取り合い、件のデートは水曜日の昼間に実行されることとなった。
休日よりはわずかでも人出が少ないだろうということで、基本的に土日休みの彼が、わざわざ調整してまで平日に休みを取ってくれたのだ。
当日、私の住むマンションの真下まで迎えにきてくれた彼は、真っ白な車に乗って現れた。
「あれ? 先生、髪を切られたんですね」
やっぱり彼方さんは白が似合うなぁと思っていると、車から下りた彼は開口一番、私の顔を見るなりそう言った。
「お似合いです」と微笑まれ、たどたどしく「ありがとうございます」と返す。
ミントグリーンのワンピースも相まって、気合いを入れすぎていると思われてはいないだろうか。
ショートボブの襟足を触りながら、急に恥ずかしくなって俯いていると、彼は気にした様子もなく助手席のドアを開けてくれた。
「俺、昨日は楽しみでよく眠れませんでした。せっかくなんで『レプリカ』も読み返したりして」
車が走り出すと、彼方さんは揚々とした調子でそう言った。
ちらりと横目で見れば、その表情もうきうきとしているのが分かる。
「あの美術館については、ファンのあいだでも意見が割れてたんですよね」
「意見?」
「ご存知ないですか? ネット上で行われてる、一種の恒例行事のこと」
続いた彼方さんの言葉に、さらに首を傾げる。
しかし話は実に分かりやすいものだった。
私はどの物語でも、基本的に作中で具体的な場所や物の名称を書いたりはしない。
だからこそ、新作が出るたびにモデルとなった物や舞台を、ファンの方はネット上で予想し合っているそうなのだ。
彼曰く、それが私のファンのあいだでの恒例行事であるらしい。
しかし今日訪れる予定の美術館は、彼らの中でも特に特定困難なものであったそうだ。
そのため彼は今日、作者公認の場所へ行けることがとても嬉しいのだろう。
ファンはそういうことでも作品を楽しんでくれているのかと予想外の事実を知りつつ、ハッと我に返って危機感を覚える。
もしかして彼はデートというより、作者を横に置いた聖地巡礼気分なのかもしれない。
「彼方さん! あのっ、これは一応デートなんですからね」
今さらながら“デート”という言葉を発することに気恥ずかしさを感じながら、にこにことしている彼方さんの横顔を見やる。
すると彼は「はい、そうですね」と、どこかぽやんとした相槌を返してくれた。
……うん、やはりいまいちデートっぽくない。
どうしたらもっと雰囲気が出るのかと、眉間に皺を寄せながら熟考していると、そんな私とは対照的なからからとした笑い声が聞こえた。
「でしたら、敬語をやめましょうか? 俺ら一応同い年ですし」
「あっ、いいですね! そうしま――じゃなかった、そうしよう!」
敬語がなくなれば、一気に距離も縮まる気がする。
ついでに下の名前で呼んでもいいかと問うと、彼は「もちろんいいよ」と快諾してくれた。
「ちさとくん、千里くん……」
彼の名前を確かめるように何度か呟いてみる。
男の人を下の名前で呼ぶなんて、一体いつぶりだろう。
口に馴染まない単語を繰り返しながら、私はどことなく面映ゆく思った。
「あんまり下の名前で呼ばれないから、なんだか慣れないなぁ」
「そうなんだ。せっかく綺麗な名前なのにね」
由来を聞くと、千里くんは“老驥櫪に伏するも志は千里にあり”という言葉から来ていると教えてくれた。
老いた駿馬は馬屋につながれていても千里を走ろうとする気持ちを失わないという、つまるところ英雄は年老いてもなお志を持ち続けることのたとえで、いつまでも志高く育ってほしいとの願いが込められているらしい。
休日よりはわずかでも人出が少ないだろうということで、基本的に土日休みの彼が、わざわざ調整してまで平日に休みを取ってくれたのだ。
当日、私の住むマンションの真下まで迎えにきてくれた彼は、真っ白な車に乗って現れた。
「あれ? 先生、髪を切られたんですね」
やっぱり彼方さんは白が似合うなぁと思っていると、車から下りた彼は開口一番、私の顔を見るなりそう言った。
「お似合いです」と微笑まれ、たどたどしく「ありがとうございます」と返す。
ミントグリーンのワンピースも相まって、気合いを入れすぎていると思われてはいないだろうか。
ショートボブの襟足を触りながら、急に恥ずかしくなって俯いていると、彼は気にした様子もなく助手席のドアを開けてくれた。
「俺、昨日は楽しみでよく眠れませんでした。せっかくなんで『レプリカ』も読み返したりして」
車が走り出すと、彼方さんは揚々とした調子でそう言った。
ちらりと横目で見れば、その表情もうきうきとしているのが分かる。
「あの美術館については、ファンのあいだでも意見が割れてたんですよね」
「意見?」
「ご存知ないですか? ネット上で行われてる、一種の恒例行事のこと」
続いた彼方さんの言葉に、さらに首を傾げる。
しかし話は実に分かりやすいものだった。
私はどの物語でも、基本的に作中で具体的な場所や物の名称を書いたりはしない。
だからこそ、新作が出るたびにモデルとなった物や舞台を、ファンの方はネット上で予想し合っているそうなのだ。
彼曰く、それが私のファンのあいだでの恒例行事であるらしい。
しかし今日訪れる予定の美術館は、彼らの中でも特に特定困難なものであったそうだ。
そのため彼は今日、作者公認の場所へ行けることがとても嬉しいのだろう。
ファンはそういうことでも作品を楽しんでくれているのかと予想外の事実を知りつつ、ハッと我に返って危機感を覚える。
もしかして彼はデートというより、作者を横に置いた聖地巡礼気分なのかもしれない。
「彼方さん! あのっ、これは一応デートなんですからね」
今さらながら“デート”という言葉を発することに気恥ずかしさを感じながら、にこにことしている彼方さんの横顔を見やる。
すると彼は「はい、そうですね」と、どこかぽやんとした相槌を返してくれた。
……うん、やはりいまいちデートっぽくない。
どうしたらもっと雰囲気が出るのかと、眉間に皺を寄せながら熟考していると、そんな私とは対照的なからからとした笑い声が聞こえた。
「でしたら、敬語をやめましょうか? 俺ら一応同い年ですし」
「あっ、いいですね! そうしま――じゃなかった、そうしよう!」
敬語がなくなれば、一気に距離も縮まる気がする。
ついでに下の名前で呼んでもいいかと問うと、彼は「もちろんいいよ」と快諾してくれた。
「ちさとくん、千里くん……」
彼の名前を確かめるように何度か呟いてみる。
男の人を下の名前で呼ぶなんて、一体いつぶりだろう。
口に馴染まない単語を繰り返しながら、私はどことなく面映ゆく思った。
「あんまり下の名前で呼ばれないから、なんだか慣れないなぁ」
「そうなんだ。せっかく綺麗な名前なのにね」
由来を聞くと、千里くんは“老驥櫪に伏するも志は千里にあり”という言葉から来ていると教えてくれた。
老いた駿馬は馬屋につながれていても千里を走ろうとする気持ちを失わないという、つまるところ英雄は年老いてもなお志を持ち続けることのたとえで、いつまでも志高く育ってほしいとの願いが込められているらしい。