「なんでもない、春休みのことです。その日、両親は仕事で出かけていて、家には俺と兄だけがいました。俺は自分の部屋で春休みの課題をしていたのですが、分からない問題があったので、兄に聞きにいったんです」
そこで、彼方さんの手がわずかに震え出したのが分かった。
自分では気づいていないのだろうか、彼はなんともないような様子で、ただ前を見据えている。
その手と表情を交互に確かめながら、私はハラハラと彼を見守ることしかできなかった。
「兄はいつもどおり、問題を分かりやすく教えてくれました。俺はそれにお礼を言ってから、少し兄と話をしようかと、兄のベッドに腰をかけたんです」
冷めた表情とは裏腹に、彼の震えは徐々に体の方へと広がっているようだった。
手にギュッと力を込めているせいか、指先が白く変色している。
「すると兄は突然、“早く自分の部屋に戻れ”と言いました。“勉強の続きをしろ”と怒りつつ、なぜだか焦った様子でした」
あまりにも苦しそうな彼方さんの姿を見ていられず、私は話を遮るように、わざとイスの音を立てながら腰を上げた。
しかしどうやらもう、彼の目に私は映っていないらしい。
焦点の合わない瞳が、ひたすら空をさまよっている。
「いつもはそんなことで怒ったりしないのに“どうして”と問うと、兄は俺を思いきり突き飛ばして、覆いかぶさってきました」
「……彼方さん」
「最初は悪ふざけをしているのかと思いました。しかし兄は見たこともない恐ろしい顔つきで俺を見下ろしたんです」
「彼方さんっ」
「そして、兄は、俺に――」
「彼方さんっ……!」
淡々と話を続けようとした彼方さんは、三度目の声かけでようやく私の声に気づいたようだった。
正気に戻ったのか、彼の目がまるで信じられないものを見たかのように見開かれる。
そのこめかみからはいつの間にか尋常ではない冷や汗が流れていて、それを見た私の息をヒュッと詰まらせた。
「もうっ、もういいですっ! 震えてますっ……顔色も真っ青です!」
「……いえ、先生さえよければ、このまま話をさせてください」
「でもっ」
「いつか誰かに知ってもらいたいと思っていたんです。それがあなたであれば、これ以上のことはない」
そう言って、彼方さんはへらりと力なく笑った。
その笑顔がとてつもなく痛々しい。
胸が苦しくなるのを感じながらも、私は大人しくイスに座った。
「それから、兄は月に一度くらいの頻度で俺の体を苛むようになりました。たぶんその行為のせいで、他人の体温を気持ち悪く感じるようになったんだと思います」
「そのことを、ご両親には……?」
「もちろん言えませんでした。もしも両親に知られたら、せっかくできた家族がバラバラになってしまう。俺はそれが何よりも恐ろしかったので」
「お兄さんは、なぜそんなことを」
「一度本人に聞いたことがあります。兄は、俺を愛しているのだと言いました。そのとき、兄も行き場のない思いに悩まされているのだと知りました」
ああ、そうか。
彼が向けられていた身勝手な愛情の正体は、こんなにも重たいものだったのか。
その重さを知りたくなかったような、けれどもどこかで感じ取っていたような、不思議な感覚になりながら息を吐く。
「ですが俺もそれ以上、兄に苦しめられるのは耐えられませんでした。俺は逃げ場所を求めるみたいに人気の少ない図書館へ通うようになって、そこで先生のデビュー作に出会ったんです」
ようやくいつもの穏やかな表情を取り戻しはじめた彼方さんは、ふいにあの『かなしき共犯者』について言及した。
「先生の本を手に取ったのは、同い年の中学生が書いたものに興味を抱いたからでしたが、俺は読み進めるうちに、自分と物語の中の二人を重ねていきました」
彼方さんの言葉に、私も作中の主人公たちによる回想を思い出す。
校内で完璧な美少女を演じ、周囲に褒めそやされることによって、義父からの暴力で踏みにじられる自尊心を守ろうとする香澄。
そしてネクロフィリア(死体性愛)という性癖を、他者を拒絶することで秘匿しようとし、ずっと孤独に生きてきた陽太。
そんな秘密を抱える二人は共鳴し合い、いつしかお互いに唯一心を許せる関係になる。
「物語の最後で、香澄はいつか憎い義父に殺されるかもしれないならと、陽太の手にかかることを願いますよね」
陽太は香澄の願いと、そして愛する人を殺め、その死体を抱きしめるという自分の望みを叶えて、最後に自らも死を選ぶ。
それが私のデビュー作の真相と結末だった。
「ああいう結末を、メリーバッドエンドと言うのでしょうか。悲しい結末だと思いましたが、俺はそこにエネルギーを感じたんです。マイナスかもしれないけれど、とても強いエネルギーを」
自分の運命は自分で変えられる。
その行き先が天国だろうと地獄だろうと、すべての選択は己で決めてこその人生だ。
このまま他人に心を壊されてたまるかと、物語の中の二人に励まされた。
彼方さんはそう言って、お兄さんから離れるために、高校は全寮制の学校に進学したのだと教えてくれた。
「先生の本に出会わなければ、きっと俺は心が死んだまま人生を終えていました。だから俺がこうして生きていられるのは、先生のおかげなんですよ」
彼の声を聞きながら、いつの間にか私の目からはぼたぼたと涙が溢れていた。
中学生のころの彼方さんに会いたい。
幼い彼に会って、誰もいないところへ連れ出して、彼だけのための物語を書いて、笑ってもらいたい。
そんなことはできやしないと理解しながらも、そう思う気持ちを止められなかった。
「泣かせてしまってすみません。こんな話、聞きたくなかったですよね」
彼から差し出されたハンカチを受け取りながら、私は首を横に振った。
まるで子供のようにしゃくりあげながら、なんとか言葉を紡ごうと口を開く。
「デビュー作は、私自身の境遇を投影して書いたものでした。あのころの私は自分の不甲斐なさと、母親の過干渉に悩まされていたんです」
「そんな気がしていました。日下部先生もきっと、俺や主人公たちと同じように、何かに苦しめられながらあの物語を書いたんだと」
涙が出るのは、彼方さんの話に触発されて、あのころの感情を思い出してしまったせいでもあった。
私と彼方さんの境遇はよく似ている。
だからこそ、私は私自身を守るように、彼のことも守りたいと思った。
中学生のころの彼を救うことができないなら、せめて“身勝手な愛”に囚われ続ける今の彼を助けてあげたい。
そんなことを考えながら、音が出そうなほどに奥歯を噛みしめる。
「……彼方さんは、恋愛をしてみたいと思ったことはありますか?」
ひとしきり泣いて落ち着くと、私は唐突に彼方さんへと質問を投げかけた。
その意図をはかりかねたように、彼の眉が下がる。
「そうですね……この体質でなかったら、普通にしてみたかったです」
「それなら、私とデートをしてください」
「デート?」
「彼方さんは恋愛の練習をしに、私は、えっと……小説のネタ探しに行くんです!」
思いつきの言葉を並べながらも、私には明確な目論見があった。
それは彼が接触恐怖症を克服して、どこかの女性を愛することができれば、きっと身勝手な愛から完全に逃れられるはずだというものだ。
正直に言えば、自己満足で彼の傷を舐めている自覚はあった。
余計なお世話だというのも分かっている。
それでもどうしても放っておけないのだ。
おそらく据わっているであろう目で彼を凝視して、戸惑いを見せる彼方さんに圧をかける。
「手なんか繋がなくていいですし、もちろん人混みも避けましょう。あっ、そうだ! 短編集の中の『レプリカ』という話に出てくる美術館のモデルにした場所があるんです。そこにも行きたくないですか?」
「それは……ぜひ行きたいです」
まるで問い詰めるような勢いで捲し立てたものの、一応彼の気を引くことはできたらしい。
「あのお話も大好きなんです」と言いながら彼の目がきらきらしだすのを見て、ホッと息をつく。
「あなたに好意を持つ女性はきっとたくさんいます。それなのに、その体質のせいですべてを諦めるなんてもったいないです! 世界中の女性たちにとってもかなりの損失だと思います!」
「先生は俺を買い被りすぎですよ」
別に買い被っているつもりはないのだけれど。
ははっと響いた彼方さんの楽しげな声に、私もなんだか嬉しくなって笑う。
彼にはそういう表情の方が似合うと思った。
「私、気合いを入れてプランを立てますね」
「じゃあ俺は車を出します。電車もバスも乗れないので」
「ありがとうございます。楽しみにしていてください」
こうして約束を取り付け、私たちは再来週、不可思議なデートをすることになった。
勢い任せで提案してしまったものの、今さら前言撤回するつもりもない。
家に帰ると、私はさっそく慣れないプランを考えていた。
以前書いた話のモデルになったガラス工芸の美術館は、庭園やカフェも隣接していて、出任せで言ったにしてはデートにぴったりな場所だった。
海が近かったはずだし、ドライブをするにもぴったりだろう。
あとは周辺でランチの美味しいお店を何件か探しておこうか。
そう考えて、めったに開かないSNSを駆使しながら情報収集をしていると、アプリの広告なのか、とあるファッションブランドの新作を載せたバナーが目に飛び込んできた。
そこに映ったトップスやサンダルなどの夏めいた色合いに目を奪われる。
そうだ、着ていく服はどうしよう。
私は普段カジュアルな洋服ばかりを好むけれど、デートならば少しはそれっぽい雰囲気のものを着た方がいいのかもしれない。
ワンピースやフレアスカートなんて着るような柄ではないが、かわいい服はデート気分を演出してくれるはずだ。
明日、久しぶりに買い物でも行ってみようか。
中途半端に肩まで伸びてはねている髪も、せっかくだから美容室で整えてもらおう。
頭の中で計画を立てながら、いつもの癖でノートパソコンを開く。
その真っ暗な画面にいつもと違う表情の自分を見つけて、私はひそかに顔を熱くさせていた。
彼方さんと連絡を取り合い、件のデートは水曜日の昼間に実行されることとなった。
休日よりはわずかでも人出が少ないだろうということで、基本的に土日休みの彼が、わざわざ調整してまで平日に休みを取ってくれたのだ。
当日、私の住むマンションの真下まで迎えにきてくれた彼は、真っ白な車に乗って現れた。
「あれ? 先生、髪を切られたんですね」
やっぱり彼方さんは白が似合うなぁと思っていると、車から下りた彼は開口一番、私の顔を見るなりそう言った。
「お似合いです」と微笑まれ、たどたどしく「ありがとうございます」と返す。
ミントグリーンのワンピースも相まって、気合いを入れすぎていると思われてはいないだろうか。
ショートボブの襟足を触りながら、急に恥ずかしくなって俯いていると、彼は気にした様子もなく助手席のドアを開けてくれた。
「俺、昨日は楽しみでよく眠れませんでした。せっかくなんで『レプリカ』も読み返したりして」
車が走り出すと、彼方さんは揚々とした調子でそう言った。
ちらりと横目で見れば、その表情もうきうきとしているのが分かる。
「あの美術館については、ファンのあいだでも意見が割れてたんですよね」
「意見?」
「ご存知ないですか? ネット上で行われてる、一種の恒例行事のこと」
続いた彼方さんの言葉に、さらに首を傾げる。
しかし話は実に分かりやすいものだった。
私はどの物語でも、基本的に作中で具体的な場所や物の名称を書いたりはしない。
だからこそ、新作が出るたびにモデルとなった物や舞台を、ファンの方はネット上で予想し合っているそうなのだ。
彼曰く、それが私のファンのあいだでの恒例行事であるらしい。
しかし今日訪れる予定の美術館は、彼らの中でも特に特定困難なものであったそうだ。
そのため彼は今日、作者公認の場所へ行けることがとても嬉しいのだろう。
ファンはそういうことでも作品を楽しんでくれているのかと予想外の事実を知りつつ、ハッと我に返って危機感を覚える。
もしかして彼はデートというより、作者を横に置いた聖地巡礼気分なのかもしれない。
「彼方さん! あのっ、これは一応デートなんですからね」
今さらながら“デート”という言葉を発することに気恥ずかしさを感じながら、にこにことしている彼方さんの横顔を見やる。
すると彼は「はい、そうですね」と、どこかぽやんとした相槌を返してくれた。
……うん、やはりいまいちデートっぽくない。
どうしたらもっと雰囲気が出るのかと、眉間に皺を寄せながら熟考していると、そんな私とは対照的なからからとした笑い声が聞こえた。
「でしたら、敬語をやめましょうか? 俺ら一応同い年ですし」
「あっ、いいですね! そうしま――じゃなかった、そうしよう!」
敬語がなくなれば、一気に距離も縮まる気がする。
ついでに下の名前で呼んでもいいかと問うと、彼は「もちろんいいよ」と快諾してくれた。
「ちさとくん、千里くん……」
彼の名前を確かめるように何度か呟いてみる。
男の人を下の名前で呼ぶなんて、一体いつぶりだろう。
口に馴染まない単語を繰り返しながら、私はどことなく面映ゆく思った。
「あんまり下の名前で呼ばれないから、なんだか慣れないなぁ」
「そうなんだ。せっかく綺麗な名前なのにね」
由来を聞くと、千里くんは“老驥櫪に伏するも志は千里にあり”という言葉から来ていると教えてくれた。
老いた駿馬は馬屋につながれていても千里を走ろうとする気持ちを失わないという、つまるところ英雄は年老いてもなお志を持ち続けることのたとえで、いつまでも志高く育ってほしいとの願いが込められているらしい。
読みそのままの“せんり”にならなかったのは、ご両親が産まれた彼の顔を見た瞬間に、“ちさと”の方がいいと思ったからだそうだ。
たしかに彼の雰囲気には、訓読みの柔らかい感じの方が合っている。
「あっ、そうだ。実は私の本名も訓読みなの。聖って書いて、本当は“ひじり”」
「そっか、ひじりちゃんかぁ。……うん、ぴったりな名前だね」
自分の名前が自分に合ってると思ったことはないけれど、千里くんから見たら“聖”っぽく見えるのだろうか。
私を真似るようにして、千里くんも私の名前を何度も呟く。
やはりどこかデートっぽくはないけれど、彼が楽しそうなら何よりだ。
お昼にはまだ少し早いが、とりあえず腹ごしらえをしようと、私たちはまず調べておいた洋食屋さんに向かった。
創業70年の老舗だというその洋食屋さんは、レンガ調の外観が素敵な昔懐かしいお店だ。
私はそこでオムライスを、千里くんはステーキハンバーグをそれぞれ注文した。
出てきたオムライスは、デミグラスソースのかかったふわふわとしたタイプのものだ。
なかなか家では再現できない味に感動しつつ昼食を終えると、お次は満を持して美術館へと向かった。
ガラス工芸品を扱うその美術館は、平日のせいか、目論見どおり来場客がまばらだった。
まずは常設展示をゆっくりと見て回りながら、ときどき二人で感想を言い合う。
以前取材で訪れたときはあまり時間がなく、展示品も鑑賞しきれなかったから、私にとってもその時間は魅力的なものだった。
計算されているであろう照明器具に照らされて作品たちが繊細に輝いているのを、千里くんが興味深く眺めている。
その様子を、私は時おり盗み見るようにして観察した。
作品の放つ光が彼の真剣な瞳にも映り込んで、吸い込まれそうなほど綺麗だと思う。
その澄んだ眼球すらも、共に並べて展示してしまいたいくらいだ。
「ガラス工芸は好きなの?」
「うん。ガラスは化学だからね」
そう言うと、千里くんは途中にあった解説よりもずっと詳しく、ガラスの化学成分や製造方法についての説明をしてくれた。
この美しい工芸品を見て、頭の中が理数的な思考になるなんて、私にはとても考えられない。
二人の真逆な脳内が面白く、私は密かに笑みをこぼしていた。
それから油彩画の特別展示やミュージアムショップも見終えると、私たちは隣の庭園をおさんぽしてから、美術館に併設されたカフェへと入った。
かなり歩いてしまったせいか体温が上がっていたため、二人ともアイスコーヒーを頼み、風の気持ちいいテラス席へと座る。
そしてしばらくはそこで、展示されていた作品と『レプリカ』の話に興じた。
クライマックスのシーンは階段の踊り場をモデルにしたとか、作中に出てきた作品はあのひときわ大きな紫色の花器だったとか、そういった裏話を思い出せる限り語ると、千里くんはやはり目を輝かせながら聞いていた。
「なんだか俺ばっかり楽しませてもらっているみたいで悪いな」
「そう?」
取り留めのない話が一段落するころ、千里くんはふいにそう言って苦笑した。
今日のこのデートは彼の恋愛の足掛かりになればと企画したのだから、そんなことを気にする必要はないのだけれど。
ともあれ、彼はそんな私の意図など知る由もないのだから、上げ膳据え膳のこの状況を不思議がられてもおかしくはない。
ならば少しの“対価”でも求めれば、彼の気も楽になるだろうか。
「じゃあ、いつもどおりインタビューに答えてもらってもいい?」
「いいけど、まだほかに聖ちゃんに話せるようなことなんてあったかな」
「うん。千里くん、前に好きな人がいたこともあるって言ってたでしょ? どんな人だったのか聞きたいなと思って」
千里くんにとっても分かりやすいであろう“対価”を明示すると、彼は「ああ、そのことかぁ」と照れたように笑った。
その話を知ったときから、いつか彼女の話を聞いてみたいと思っていたのだ。
それに恋の話をすれば、彼の恋愛欲を刺激できるかもしれないという打算もあった。
期待に膨らんだ目で千里くんを見つめる。
すると彼は降参というように両手を挙げてから、訥々と話し始めてくれた。
「彼女は同じ化学科の学生でね、勉強一筋って感じの、真面目で大人しい子だったよ。少し猫背で、黒縁のメガネをかけてて、いつも一人で静かに過ごしてるような子だった」
千里くんの声を聞きながら、会ったこともない女性のことを思い浮かべる。
しかし彼から語られるその人の姿は、正直、私が予想していたどの女性とも印象が違った。
彼には見るからに朗らかでかわいらしい、どちらかと言えば彼女とは正反対の女の子が似合うような気がしていたのだ。
彼自身も出会った初めのころは、そんな彼女を近寄り難く思っていたらしい。
しかしグループワークで一緒になってから、段々と話をするようになったそうだ。
「喋ってみると、けっこう面白い子でさ。好きなものの話をするときなんかは饒舌で、すごく早口になるんだ。その早口を揶揄うと、唇をギュッとつぐむように照れて、そんな仕草がかわいかった」
懐かしみながら語られる口調から、溢れるような愛しさが感じられて、私は思わず胸をときめかせた。
千里くんは、本当に彼女のことが好きだったのだろう。
誰かのことをそこまで愛することができるのならば、やはり彼にはもう一度恋をしてもらいたいと思う。
それから千里くんは、彼女とのエピソードをいろいろと教えてくれた。
彼女とは同じ分野に興味があって、よく遅くまで一緒に勉強をしていたこと。
彼の体質を理解してくれた彼女が、なるべく彼が人と接近しないように気を遣ってくれていたこと。
優しくて飾ったところがない彼女の話を聞くたび、千里くんがその人を好きになった理由もよく分かるような気がした。
「それで、2年の夏ごろかな。彼女の方から告白されたんだ。一生触れられなくてもいいから、付き合ってほしいって」
「なんて答えたの?」
「すぐには答えられなかった。俺も彼女のことを好ましく思っていたけど、俺みたいなやつが人並みに恋愛をできるとは思わなかったから」
そう言った千里くんの真っ直ぐにそろったまつ毛が徐々に伏せられていく。
その様子をじっと見つめながら、私はふと、いつか聞いた彼の寂しげな声を思い出していた。
「そういえば、彼女の心を傷つけてしまったって言ってたね」
「うん。ちょうど返事を保留にさせてもらってたころのことかな」
それは二人並んでキャンパス内を歩いていたときの出来事だったそうだ。
対向から来た集団の一人にぶつかられた彼女が、その拍子に彼の腕に掴まってしまったらしい。
そこまで聞いて、私はその結末が手に取るように分かってしまった。
「きっと予想どおりだよ」と、千里くんも自嘲ぎみに笑う。
「聖ちゃんにもやってしまったみたいに、俺は咄嗟に彼女の手を振り払ってしまったんだ。罪悪感いっぱいで謝る俺に、彼女は動揺を隠しながら必死に笑顔をつくってくれた」
「優しい人だね」
「うん。そんな優しい子の心を、俺は傷つけてしまったんだ」
もしもこの先彼女と付き合ったら、いつかきっとまた同じ顔をさせてしまう。
そう思った千里くんは結局告白を断ってしまい、そこから彼女とも疎遠になってしまったのだと言った。
……どうしよう、恋愛欲を煽るどころか、むしろ墓穴を掘ってしまったみたいだ。
悲しげに笑って俯く千里くんの表情を見ながら、なんとかして話題を変えなければと考えていると、パッと顔を上げた千里くんが「聖ちゃんは?」と呟いた。
「わ、私?」
「ずっと思ってたんだ。恋愛ものを書くなら、俺みたいなやつの話を聞くより、自分の経験則から書いた方がいいんじゃないかって」
「ああ、そっか。実は私もね、付き合ったって言うのがおこがましいくらいの経験しかないの」
「それは……俺が聞いてもいい話?」
気遣わしげに尋ねられた声に、おずおずと頷く。
これだけ彼に話をさせておいて、自分の話をしないというのもフェアではない。
しかし、いかんせん私の恋愛経験も碌なものではないのだ。
頬を人差し指でかきながら、何から話せばいいだろうかと逡巡する。
「彼氏がいたのは、高校と大学のときの2回だけ」
そう言いながらも、もはや私は彼らの顔すらはっきりとは思い出せなかった。
そんな薄情さに、我がことながら呆れてしまう。
思い出せることといえば、二人とも明るくてよく喋るタイプの男の子だったということくらいだろうか。
どちらにも突然「ずっと気になってて、話してみたかった」と言われ、押し切られるようにして付き合い始めたのを覚えている。
けれど付き合ってみると、彼らは想像していた以上に優しくて、私を大切にしてくれた。
それでも私は結局、半年も経たずに別れを切り出したのだ。
「彼らを好きにはなれなかったってこと?」
「うん。私はまず、自分のことが好きじゃなかったから」
こんな私のどこに惹かれるものがあるというのだろう。
そう考えると、彼らが私のことを好きだと言ってくれる気持ちも信じられなかった。
「私、自己肯定感がすごく低いの。主治医の先生曰く、それは家庭環境のせいだろうって」
あれはデビューから少し経った高校生のころのことだ。
東雲さんの薦めで心療内科を受診した私は、そこで軽度の発達障害と、両親の不仲や母からの依存による精神的負担があったことを診断された。
今もなお続く自己肯定感の低さも、その家庭環境で培われたものだろうと。
そのせいで彼らと付き合っているとき、私はいつもどこか怯えていた。
いつか迂闊で出来損ないな自分に気づかれたとき、きっと幻滅されて、惨めに振られてしまう。
そう考えた結果、傷つく前に私から関係を終わらせ、中途半端に彼らを振り回してしまったのだ。
「まあでも、この歳になってまで親を理由にするのも情けないね」
つまるところ、私はただ単に不器用で臆病なだけなのだろう。
大人になった今でも、自分自身を認めて愛してあげる術を見つけられない。
他人と向き合う勇気も、それで傷つく覚悟も持てない。
「私にとって恋愛は、他人の家の綺麗な庭みたいなものなの。すごく素敵なものだと思うけれど、自分には大それた、縁のないもの」
物事には向き不向きがある。
だとすれば、私のような弱い人間に恋愛は不向きなのだ。
「それでも聖ちゃんは恋愛小説を書くの?」
心配の色が浮かんだ表情で、千里くんが私に問う。
その問いに、私は迷うことなく頷いた。
「私には小説しかないから。どんなことをしてでも、すべてを投げ打ってでも、守りたいの」
そう言うと、千里くんも何かを言いかけて、けれどもすぐに口を閉ざしてしまった。
不用意な言葉は人を傷つけるかもしれないということを、彼は知っているのだろう。
その優しさが、臆病な私にはとてもありがたいと思った。
デートの最後、私たちは近くの浜辺に寄って、砂浜の散歩をした。
足を取られてしまう砂浜は、履いてきたパンプスでは歩きにくく、自然と遅くなってしまう私の歩調に、千里くんは何も言わずに合わせてくれている。
やっと少しだけデートをしているような気分になりながら、夕日に染まる海を眺めた。
「聖ちゃんの作品って、よく海が出てくるよね」
「そうだっけ? 自分では気にしたことなかったな」
「そうだよ。新作にも海辺のシーンがあったし」
「ああ、たしかに」
だとしたら、それは実家のそばに海があったからかもしれない。
実家の方の海は日本海で、私は暇になるとよくその景色を見に行っていたのだ。
冬なんかは特に風が強く吹いて、轟々とした音が恐ろしいような、でもその偉大さに引き込まれるような、不思議な心地になったものだ。
その話をすると、千里くんは「俺も見てみたいな」と無邪気に笑った。
「聖ちゃん」
「ん?」
すると突然、少し前を歩いていた千里くんが、私の方に振り向いた。
誰もいない砂浜の真ん中に立ち止まり、柔らかく微笑んでいる彼を見上げる。
夕陽に溶け込みそうなその姿は、今日美術館で見たどの作品よりも儚げで綺麗だと思った。
「デートなんて一生できないと思ってた。だから俺、すごく嬉しいんだ。本当にありがとう」
「どういたしまして。楽しんでくれたなら私も嬉しいよ」
素直なお礼の言葉が嬉しく、そしてどこか気恥ずかしさもあり、風ではためくワンピースの裾を押さえる振りをして下を向く。
そのままにやにやと緩みそうになる口元を隠していると、下げた視界の中に差し出される形で彼の手が映り込んで、私は戸惑ってしまった。
これはいったいどういうことなのだろう。
まるでこの手を取ってほしいと言われているみたいだけれど、接触恐怖症の彼にとって、他人と手を繋ぐというのはあり得ない行為のはずだ。
その真意が掴めずに大きな手を見つめていると、彼はやはり「よかったら手を繋いでみてもらえないかな?」と言った。
「でも――」
「恋愛の練習って言ったのは聖ちゃんの方でしょう?」
「それは、そうだけど」
千里くんが照れ臭そうに言う。
しかし彼は以前、自分が他人に触れられるのは、私がヘビに巻きつかれるようなものだと言っていた。
そんな精神的にきつすぎる行為を、ここで無理して行う必要なんかないのに。
「頑張っている君を見ていたら、俺も触発されるような気がしたんだ」
「千里くん……」
どうやら彼は、今この瞬間に一歩踏み出そうとしているようだった。
懇願するような目に射抜かれ、そんな強い覚悟を裏切りたくはなく、意を決して手を伸ばす。
自分の生白い腕が、なんだか本当にヘビのように見えて、私の方が恐ろしさに震えていた。
「触れるよ」
千里くんはそう宣言をすると、そっと確かめるようにして私の手に触れた。
振ればすぐに解けるくらいの力が加わり、右手と右手で握手をするような形で手を繋ぐ。
いつ放してもらってもいいよう、私は手に力を込めず、彼の表情を確認することにだけ集中した。
「手汗が浮かんできたかも。気持ち悪くてごめん」
「そんなの気にしなくていいよ」
それよりも、私は千里くんの体調の方が心配だった。
先ほどまで微笑んでいたはずの顔が強張り、うっすらと青ざめてきている。
体の方もわずかに震え出して、鳥肌が立っているようだ。
今にも倒れてしまいそうで、気が気ではない。
「千里くん、無理しないで」
「大丈夫。むしろ本当にごめん。俺からお願いしていることなのに、こんなふうに震えてたら不快な気持ちにさせるよね」
「私は構わないから。でも本当に大丈夫なの……?」
「うん、思ったより平気なんだ。相手が聖ちゃんだからかな」
しかし彼のへらりとした笑い方は、明らかに無理をしているときのものだった。
その無理をごまかすためか、彼は繋ぐ手を左手に変えると、気合いを入れるようにして力を込めた。
「車に戻るまで、こうしていてもいい?」
「大丈夫だよ」
「ごめんね、ありがとう」
私の手を引いて、彼が再び歩き出す。
その背中を見ながら、私はなぜだか心臓を鷲掴みにされたような心地でいた。
彼の手と触れている部分が、どんどんと熱を増していく。
これまで気にしたこともない自分の体温が彼を無遠慮に苦しめるのが分かって、どうしようもなく悲しい。
けれどもこの熱を知っている女性は私以外にはいないのだと思うと、仄暗い優越感のようなものもわいてくる気がした。
同情や庇護欲や独占欲が綯い交ぜになって、そのどれでもないものに変化しながら、自分の奥底で渦巻いていく。
とても衝動的な、あるいは少し暴力的とも思える感情に、私は密かに怯えていた。
こんな気持ちになるのは生まれて初めてのことだった。
まるで荒れ果てていた私の庭先に、小さな花の咲いた苗をぽつんと置かれてしまったような気分だ。
道具もなければ知識もなく、どうすればいいか分からない。
頼りない自分の元にあってもしょうがないなら、いっそ散らしてしまった方がいいかと考えてしまうくらいだ。
それでも、初めて手にしたこの花を守りたいという願いは、私の中にも確かにあった。
ああ、この人の手を離したくないな。
腐っても小説家だというのに、自分の感情に明確な名前も与えられないまま、私は初めての経験に翻弄されていた。
小説を書きたい。
今まさに自分の中で蠢いているものを、文字にして吐き出さなければ。
使命感にも似たそんな欲求に駆られた私は、千里くんとのデートを終えて帰宅するなり、机にかじりつくようにして執筆を始めた。
それは“等身大の恋愛小説”とは毛色が違う話だと分かっていたけれど、どうしても書かずにはいられなかったのだ。
寝食すらも忘れて書きつづったその没頭ぶりは、処女作のときの勢いすらも凌駕するもので、私は約一週間で半分ほどを書き終えると、一応東雲さんにデータを送った。
おそらく求められているものとの方向性の違いで一蹴されてしまうだろう。
しかしそんな私の予想に反し、意外にも東雲さんは会って話がしたいと言ってきた。
「送ってもらった原稿はすべて読みました」
東雲さんと待ち合わせをしたのは、千里くんと初めて会った日に行った喫茶店だった。
席に着くなり口火を切った東雲さんは、いつでも冷静沈着な彼には珍しく、どこか気が逸ったような様子だ。
「端的に言います。このまま続きを書き進めてください」
「えっ! 本当ですか!?」
「ええ。相変わらず文章に色気はないですが、清潔で切ないストーリーには合っていますし、内容も若い女性を中心に受けるでしょう」