私にとって恋愛とは、他人の家の綺麗な庭のようなものだった。
美しく咲く花々を見れば素直に素敵だと思うし、庭を懸命に整えている人の姿だって応援したくなる。
けれど私はいくら綺麗な庭に憧れようとも、自分の庭に花を植えようとは思えなかった。
育てる技術や知識のなさはおろか、いつも自分のことだけで精一杯の私は、きっとすぐに花を枯らしてしまうだろう。
こんな不器用な人間が綺麗な庭を持ちたいと思うなんて、そもそもが分不相応な話なのだ。
私にとって恋愛とは、他人の家の綺麗な庭のような、つまり自分とはまったく縁のない尊いものだった。

「なんですかそれ。次のエッセイのネタですか?」

喫茶店のテーブル席で向かい合っていた東雲(しののめ)さんが、冷めた目でコーヒーをすする。
私たちのあいだに落ちた不自然な沈黙によって、店内でゆったりと流れていたジャズが鮮明に聞こえ、私はそれを打ち破るようにため息を吐いた。

「違います。私に恋愛小説の執筆は無理って話です」

「ファンタジー作家は異世界の住人ではないですし、ホラー作家だって幽霊を見ることはできませんよ」

理知的な銀縁の眼鏡も相まって、どこか詐欺師のように聞こえる胡散臭い語り口に遠い目をする。
空想でしか描けない世界と現実に蔓延る恋愛を同列で語らないでほしい。
しかし東雲さんは、そんな私を気にする素振りもなく完璧な笑みを浮かべてみせた。

「作家生活10周年の記念すべき年なんです。いいじゃないですか、25歳女性作家の等身大の恋愛小説。やはり王道ですよ」

「絶対に売れます」という根拠のない言葉に、本日二度目のため息を吐く。

「……私の文章には色気がないって言うくせに、恋愛小説なんて」

「実際にないですからね、色気は」

あけすけな物言いにノックアウトされ、私はついにテーブルの上へと突っ伏した。
飲みかけのアイスティーの氷が、まるで試合終了を告げるゴングのようにカランと音を立てる。
まったく、この掴みどころのない編集者には一生勝てる気がしない。
周年記念である次回作の打ち合わせは、かれこれ1時間ほどを費やしていたものの、やはり平行線を保ったまままとまることはなかった。

「まあ少し考えてみてください。ああ、あとこれはファンレターです」

最後に軽そうな紙袋を私の眼前に置いて、東雲さんは颯爽と出版社へ帰っていった。
その後ろ姿を見送ってから、残された紙袋の中身を確認する。
中には十数枚の封筒が入っており、そのうちの一枚を適当に取り出せば、“日下部聖(くさかべせい)先生へ”と丸く丁寧に書かれた文字が目に映った。
差出人の名前に見覚えはないが、筆跡から察するに女子学生からの手紙だろう。
読書が好きで、大人しくて、けれどしっかりと自身の哲学を持った女の子。
筆跡だけでそこまで想像する自分に苦笑して、見も知らぬ彼女の姿に釣られるように、私の思考は己の学生時代にまで飛んだ。

あれはまだ、私が古めかしいジャンパースカートの制服を着ていたころのこと。
最終候補作に選出されれば当時憧れていた作家から選評をもらえるという特典に釣られて、初めて書いた小説を新人賞に応募した。
それがなんの因果か受賞にまで至り、本名を音読みにした筆名で出したデビュー作は、現役中学生作家という肩書のおかげでそこそこ話題になった。
しかし神童と持て囃されたのも束の間、周囲からの過度な期待に釣り合わない実力のせいで、文壇での評価は下がる一方となっていった。
二十歳過ぎればただの人とは先人もよく言ったものだが、その言葉を体現するかのように、ここ5年ほどは鳴かず飛ばず。
それでも細々と食いつなげる程度に作品を出版しつづけ、私はうだつが上がらないまま、今年ついに作家生活10周年を迎えてしまったらしい。