あのとき
きみに
言えばよかった
.
――ガコンッ。
3段目のボタンを押すと、ひざ下にある受け口にお目当ての物が落ちてくる。受け口の底に手を突っ込み、ひんやりとした感触ごとつかみ取った。
白と橙色の長方形。手のひらサイズの紙パック。
『オレンジ100%』
真ん中にでかでかと主張のある面の裏からストローを抜きとる。斜めにカットされた先端で小さな銀色の円に突き刺し、吸い込んだ。
「ん、おいし」
AM 8:20。
まだ朝のショートホームルームも始まっていない時間。人のまばらな廊下。2-6の教室のななめ前あたりで窓を開けると、涼しい風が吹き抜ける。
今日はいいお天気だなあ。真っ青な空。白い雲。絵に描いたような晴天、ってこういうことを言うのかな。
窓枠にひじを乗せ、ほのぼのとした気持ちで天を仰ぎながら、ストローをオレンジ色に染めた。朝からたまってしまった疲れを、糖分でいやしていく。
やっぱり飲むならコレだね。
オレンジジュース。
味覚をつんと刺激する酸っぱさ。そのあとに爽やかな甘さが口いっぱいに広がる。ごくりとのどの奥に流し込んだ。心臓の上あたりが冷えていく。
ずずっと吸い込み続けたせいか、紙パックがベコッとつぶれた。
「田中!」
階段側から怒鳴り声が飛んできた。
狙いは、わたし。
ため息と舌打ちが同時にこぼれそうになったところを、オレンジジュースを思い切り吸い込んでごまかした。紙パックの中の空気が抜ける。あ、また、つぶれた。
ドスドスと重たい足音が近づいてくる。ちらりと見やれば、ふきげんそうにつりあがった目とかち合った。
あーあ、最悪。
「もう一回あいさつしたほうがいいですか? センセ」
「はぐらかすんじゃない」
窓を開けたところに差しかかる手前で、ひとまわり以上大きな男性が立ち止まった。
きっちりしたグレーのスーツ。しわのない新品さながらのワイシャツ。七三分けの古風な髪型。ていねいに剃られたヒゲ。生活指導担当という肩書きを持つだけあって、上から下まで身だしなみはカンペキだ。
だけど、うーん……。なんか暑苦しいんだよなあ。見た目の圧がすごいというか、なんというか。
6月になり、衣替え期間真っただ中。だんだんと爽涼さを求めるシーズンへ移り変わってきた。
しかし、この男――二階堂先生には、圧倒的に爽やかが欠けている。ない。どこにもない。40代後半だからだろうか。威厳を手に入れた代わりに失くしたんだろう。残念である。せっかくここで涼んでたのに台なしだ。
「聞いているのか!」
わたしと人ひとり分ほどの距離が開いているにもかかわらず、つばが飛んできた。口調の圧もすごい。年中猛暑のようなヒトだ。
結露した水滴でぬれた手のひらで、つばを拭い取る。今すぐ手を洗いに行きたい。
「なんだ、その顔は」
不愉快さがそのまま顔に出ていたらしい。先生には誤解を与えてしまった。目元のしわがみっつ増え、当たりがきつくなる。とことんツイてない。
先生がイヤなわけじゃないよ。つばを飛ばされたのがイヤなだけ。
「反抗するのはやめなさい」
「反抗してないですよ」
「またはぐらかす気か」
本当なのに。なかなか伝わらないな。こうやって言葉を交わせるのにどうしてだろう。
信用、されてないんだろうな。先生にとっては、わたしの言葉など、まぶたの皮膚のようにうすっぺらく思っているにちがいない。
みかんの甘さが消えていく。舌の上に残る絶妙な酸味が、のどを締めつける。糖分欲しさにストローの先を噛んだ。
「そういう態度が反抗していると言っているんだ」
そういうって、どういうの。
これ? ジュース飲むこと? 先生との話し中に飲むのはマナー違反だったか。欲望に忠実になりすぎてた。うっかりうっかり。
「ごめんなさい」
今さらながらオレンジジュースの紙パックを背中に隠し、素直に謝る。先生は片方の眉を歪ませた。戸惑っているのが手に取るようにわかった。ごほんっ、と大きめにせき払いをして、調子を立て直そうとする。
わたしが謝ったことがそんなに意外だったの? わたしだって悪いと思ったことはちゃんと受け止めるし、ちゃんと謝れるよ。いくつだと思ってるの。高校1年生だよ。そこまでお子さまじゃない。
「な、何度も言うように、その髪と服装をどうにかしなさい」
指摘する点が、態度から髪と服に変わった。今度はわたしの身なりが反抗的だと言いたいらしい。
はあ……またか。
今年度新しく赴任してきた二階堂先生は、生活指導という大役を任せられた。たいそう張り切っているのだろう、こうして毎度毎度口うるさく戒めてくる。熱を持った指導は、もはや恒例イベントだ。
さっき、ほんの5,6分前、校舎に入るときにも聞いた。ていうか、昨日もおとといも、先週も、なんなら今年度の始業式から耳にタコができるくらい聞いてるよ。
そんなに聞いていて、直さないわたしもわたしだけど。
今度は謝らない。謝る気がないし、謝る理由がない。
「どこがだめなんですか」
「派手な恰好はやめなさいと言っているだろう」
赤みの強い茶色い髪。左耳の上に留めた、カラーピンふたつ。ふんわり巻いたミディアムヘアーの上半分は、おだんごにして結んである。
制服は少しだけ着崩すのが、わたし流。衣替え期間といってもまだ肌寒いときもあるから、お気に入りの白いパーカーを着て。その上には、学校指定のブレザーを羽織っている。
かわいいでしょう。
これのどこがだめ?
「校則には反してませんよね?」
髪は茶色だし、ブレザーだって羽織ってる。
だめなところなんてなくない?
「校則に明記されていなくとも、身だしなみには気をつけなさい。他の生徒が真似をしたらどうする」
「いいんじゃないですか? 髪とか服とか、バリエーションが増えたら毎日楽しいだろうし」
「いいわけないだろう! 田中、お前はもう少し真面目に考えろ」
ぴしゃりと一刀両断された。廊下に反響して、エコーがかかっているかのように聞こえる。
同級生と思しき生徒が数人、窓側のわたしたちをチラチラうかがいながら教室側を通り過ぎていく。そちらを一瞥すれば、あわてて目をそらされた。
気まずいのはこっちも同じなんだけど。
「わたし、真面目ですよ。授業だってサボってないです」
「そういうことじゃない。態度を改めろと言っているんだ」
また態度ですってよ。身だしなみと態度はちがうと思うんですが、そう思うのはわたしだけなのでしょうか。
国産の甘酸っぱい風味でいやしたはずの疲労感がよみがえる。朝っぱらから疲れたくないのに、先生の圧は増すばかり。窓から入ってくる風も心なしか生ぬるい。ショートホームルームが始まるまでこの圧を受け続けるのは、体力的にも、精神的にもきつい。
こうなったら……逃げちゃうか。
「わたし、改めませんよ。自分の好きな恰好でいます。そのほうが気持ちがいいから」
先生のするどい眼光を真っ直ぐ見据え、きっぱり言い切った。
何度言われたって、わたしの答えは変わらない。これからもわたしはわたしを貫く。
先生の目には不真面目に映っても、わたしにとってはこれがわたし自身に真面目であること。ぜったいにゆずれない。
こしを90度に折り曲げる。呆然としてる先生に「ではっ」と敬礼をする。半分以上も中身の残っている紙パックを片手に、先生の来た方向とは逆方向に走り出した。
パタパタと上履きの音が鳴り出して、3秒、「た、田中! 待て!」と、先生はようやっと注意喚起を絞り出した。が、無視だ、無視。
先生もわたしも言いたいことは言ったんだ。今日はこれで見逃してほしい。これ以上先生にかまってあげられる暇はない。時間は有限なのだ。
「廊下は走るな!!」
典型的なルールが聞こえたのは、角を曲がってからだった。走るのをやめた。早歩きにシフトチェンジ。スタスタと2年生の教室を次から次へと素通りしていく。
また先生に捕まりたくない。二度あることは三度あるって言うし、追われても平気なように今のうちに距離を取らないと。
階段を駆けのぼった。最上階まで行くと、足腰にどっと疲労感が押し寄せる。下りていったほうがよかったかな、と気づいても、あとの祭り。
いいや。来ちゃったのはしかたない。いい運動になったと思うことにしよう。先生もここまでは来ないだろうし。
ぐっと伸びをしてオレンジジュースを補給した。無心で飲んでいたら残量があっという間に減っていった。
屋上に続く踊り場。
「立ち入り禁止」と注意書きされた重厚な扉。
すきまから透明な光がもれている。その光に誘われるようにドアノブに手を伸ばす。試しに回してみると、ギィ、と軋む音がした。
あ、開く。
施錠されていなかった。立ち入りを禁じているわりに不用心じゃないか。と、思いつつも、好奇心がうずく。
真面目ちゃんでも、禁止されたら気になってしまうのがヒトの性というもの。なんて、ヘタクソな言い訳を脳内に並べ立て、ドアノブをつかむ手を力ませた。
ゆっくり扉を押した。ギギギ、と音が激しくなる。すきまが広がる。光がまばゆくなっていく。思わず目を細めた。
「お……おおっ!」
すぐに光に慣れた視界に、開けた景色が鮮明に映る。かたい灰色の地面。錆びついた緑色のフェンスの奥には、さらに濃い緑に覆われた小山とスケールモデルのような住宅街。
引き寄せられるように、一歩、屋上に踏み入れた。
スカートがひらりとなびく。梅雨入りをひかえた風は相変わらず生ぬるいけれど、圧がない分、先ほどよりは断然心地いい。
窓から覗いたときよりずっと空が近く感じる。澄み切った群青に吸い込まれてしまいそう。
いい。いいね!
なんとも言えない解放感。屋上ってこんな感じなんだ。お気に入り登録したいくらい落ち着く。
校舎の構造上、屋上には、出入口のついた四角い出っ張りがある。扉の横にははしごが設置され、その上にある給水塔へのぼることができる。
あの上からは景色はどんなふうに見えるんだろう。
ショートホームルームまではもう少し時間がある。のぼってみようかな。ちょっと気になるし。だめかな。でも、うん、のぼってみたい。
残りわずかのオレンジジュースを一気に飲み干した。ズズズ、と最後の一滴まで吸い尽くす。口の中にひんやりとした感覚が来なくなった。空っぽになった紙パックはずいぶん軽い。右手で簡単に握りつぶせた。
ぺちゃんこにした紙パックを歯でがっちりくわえ、はしごに両手をかける。ざらざらとした感触を避けることなくのぼっていく。
「よいしょ、っと……」
最上部に手が届いた。ひょっこり顔をのぞかせる。またコンクリートの地面が見えた。奥の角に給水タンクが立っている。意外と面積が広い。こっちのほうが風に当たりやすい。
それから。
風を受けてもびくともせずに寝そべっている、先客がひとり。
思わず地につけようとした足を引っこめた。
だ、誰だろう……。
片うでをまくら代わりにして横になっている。わたしからは背中側しか見えない。
紺色のズボンに、黒色のカーディガン。少し乱れたダークブラウンの短髪。上履きに入っているラインは、わたしと同じ、赤色。
2年生の男の子。……ぽい。
まさか先客がいるとは思わなかった。びっくり、びっくり。
とりあえず。よいこらせ、とおっさんじみたかけかけ声で、宙ぶらりんだった体を給水タンクエリアへ持ち上げる。
不安定だった足場が、どしりとした感覚に変わる。パーカーが少し汚れてしまっていた。白の生地についた錆びを叩いて落とす。スカートのすそが折れていたのを直し、頬にへばりついた髪をうしろへ流す。強く食いしばって持っていた紙パックを取り、右手でぎゅっと握った。紙パックがよりいっそうつぶれて丸くなる。
さてさてやってまいりました。屋上のさらに上。
先客は置いておいて、まずは本命の景色をたんのうしよう。そうしよう。
「……んあ、ふはぁああ」
フェンス側に向き直そうとしたとたん、盛大なあくびがこぼれた。わたしじゃない。うしろにいる先客だ。本当に寝ていたんだ。そして今起きたんだ。おはようございます。
反射的に振り返った。先客も気配を感じ取ったのか、もう一回あくびをしながら首を回した。
「あ」
「……あ?」
お互いにヤンキーさながらの威嚇をしたわけではない。わたしは間の抜けた一音を、先客はあくびをした口のまま声を出した結果、声音がそろってしまったのだ。
ばっちり合っている彼の双眼は、まあるく見開かれている。おそらくわたしの目もそうなっているのだろう。鏡を見なくても想像できる。
だって、わたし、びっくりしてる。さっきよりもはるかに。
長い長い沈黙が落ちた。いや、実際はそう長くないのかもしれない。わたしの体感ではたった1秒が30分、1時間、それ以上にも感じられた。
風が横切る音も、校舎から響くあいさつも、一切聞こえなくなる。聴覚が受け付けようとしないのだ。唯一わかるのは、ドクドクと不安定に揺らぐ、自分の鼓動だけ。
まじか……。こんな偶然ある?
「…………」
「…………」
「………き、」
「田中、まひる」
ポツリ、と。
わたしよりも先に低い声が紡いだ。
わたしの、名前を。
「え、ええっと……はい、そう、です。田中 まひるです。よく知ってましたね?」
おどろきの連続だ。まさか名前を覚えられているとは思わなかった。しかもフルネーム。
とうに平静を装えずにいる。歯切れのわるい口調にカチコチの敬語を使ってしまったのもそのせいだ。
心音が大きくなる。こっちも平静さを忘れてしまったらしい。不整脈がいっこうに治らない。どうしてくれよう。
「有名だからな」
「有名? わたしが?」
「ああ。不良少女ってうわさになってた」
「不良!?」
何がどうしてそうなった。わたしはいつ不良デビューしたんだ。まったく身に覚えがない。うわさの内容が非常に気になるところ。
先客の男の子は上半身を起こして、探るような視線でわたしを見てくる。うわさを鵜呑みにしてはいないんだろうけれど、実際にうわさがある以上警戒しているんだろう。さながら野良猫のようで愛らしくも思えてくる。
「不良じゃないんだけどなあ……」
「毎日先生に叱られてんだろ?」
「叱られ……。あれはそういうんじゃなくて、意見の相違というか……。そ、そもそも、叱られてるだけだったら不良って呼ばなくない?」
二階堂先生との意見の対立がうわさの原因なら、わたしは全力で異論を唱える。
先生とは考え方がちがうだけ。ちょこっと相性がわるいだけなんだ。おかげで毎日ああだこうだ注意されているけれど、それが不良かどうかにつながるかは別の問題である。
わたしは不良じゃない。真面目な高校生だ。
「先生に歯向かってるように見えんじゃねぇの?」
知らんけど。そう最後に付け足された。テキトーすぎる。
早くも緊張感のなくなってきた会話のテンポと空気感に、先客の男の子は警戒心を解いていく。興味がうすれてきているのが一目瞭然だ。引き締められていた表情筋が、だんだんゆるみ出している。
下まつ毛の長い、黒い瞳。高い鼻。きりっとした眉。形のいいうすい唇。それらがきれいに配置された、小さな顔。いわゆる美形というやつ。
その顔が多少ゆるもうが、しかめられようが、どっちみちきれいなのは変わらない。ゆるんでもなお、険しさが残っているとしても。やっぱり、きれいだ。はじめて間近で観察するが、「男前」と言うよりも「きれい」が一番しっくりくる。
「その不良さんがどうしてこんなとこにいんだよ。せっかくひとりになれる場所を見つけたっつうのに……」
どちらかといえば、猫顔、かなあ。なんてことを考えていたら、軽い八つ当たりを受けた。
なるほど、なるほど。表情にわずかに残された険しさは、それが理由だったのね。先客の男の子にとっても、ここは、朝から来るほどお気に入りらしい。居心地いいもんね、ここ。気持ちはよーくわかる。
「先生から逃げてきた」
「……やっぱ不良じゃねぇか」
「だからちがうって!」
田中まひる、イコール、不良。この方程式は成り立たないということを学んでほしい。不正解である。断じてちがう。
「不良ってうわさされんのがいやなら、先生の言うことに従っとけば」
「いや」
食い気味に拒否すると、目の前の黒い瞳が意外そうに瞠られた。太陽光をぞんぶんに吸収し、彩度をぐっと高める。
瞳まできれいなんだね、と伝えたら、その瞳はもっと小さくなるんだろう。
「不良って言われるのも、先生の意見を聞いて自分を変えるのも、どっちもいやだね」
はいそうですね、と従うのは簡単だ。人に合わせて、自分を殺して、それが常識のように振る舞って。そうやってみんなとおそろいを増やしていっても、何も満たされやしない。
だから、わたしは。
「わたし、自分に正直に生きるって決めてるの」
不敵に笑ってみせた。
自分にうそはつかない。ルールに反さない程度に、自分らしく。
そのせいで傷ついてもいい。自分の気持ちを押し通してできた傷より、押し殺してできた傷のほうがよっぽど痛い。
「難儀な生き方してんのな」
眉間をきゅっとさせて、吐き捨てられた。投げやりな言い方にしては、なぜか感傷めいて聞こえる。同情とは似て非なるものをなんとなく感じ取れた。
難儀。
高校生の口から出る言葉にしてはやけに古臭く感じるけれど……うん、そうだ、そういうことなのかも。
生きることすら簡単ではないのに、正直に生きるのは、ひどく、難しい。
なっとくして苦笑したわたしに、先客の男の子は何も言わずに、日差しを拒むようにまつ毛を伏せた。上と下で重なり合った影に厚みが生まれる。
完全に目が合わなくなった。
でも。
でもね。
難儀な生き方をしてるのはわたしだけじゃない。
そうでしょう?
「先生の言うことに従ってないのは、きみも同じでしょ?木本 朱里くん」
「……なんで、知って……」
また、きれいな瞳と、出会えた。
先客の男の子。
――2-1の木本くん。
名前を知ったのは、よくあるうわさ。
実は、何度か廊下ですれちがったことがある。入学したてのころ、近くにいた女子たちがきゃっきゃと騒いでいたのを聞いた。こんな美形が学校にいたら、うわさにならないはずがない。
ゆるやかに唇で弧を描けば、木本くんは情報源を察して「はああーーー」と大きく息を吐いた。
「入学当初から野球部に入るよう勧められてるのに、いっこうに入ろうとしないんだってね」
「……うわさってすげぇな」
ね。うわさって怖いよね。あることないこと、あっという間に広められる。わたしも身をもって知ったよ。わたし、不良じゃないよ。
だけど、うわさのおかげで木本くんのことを少しは知れたから、田中まひるが不良だっていう誤報への不満は帳消しにしてあげる。むしろこの偶然の出会いで、プラマイゼロじゃなくプラスになる。
屋上に来てみてよかった。階段をのぼったのは間違いじゃなかった。
「わたし、きみに会いたかったの」
「は?」
突然の告白に、木本くんはぽかんと呆けた。
廊下ですれ違う程度じゃなくて、こうやって、話したかった。会いたかった。
こんな偶然、すごい。
――キーンコーンカーンコーン。
古めかしいチャイムが響いた。校舎内からこだまし、青空を揺さぶろうとする。校門を閉めている二階堂先生が見えた。
ショートホームルームが始まる。
「じゃっ、また!」
「……は?」
とりあえず言いたいことは言ったし、これからは「また」がある。次からは、偶然を待たなくても、会える。会いに行けるんだ。
わたしは大満足して、はしごを降りていった。ショートホームルームに遅れると、またああだこうだ注意されかねない。なにせ担任はあの二階堂先生だ。校門にいる先生よりも先に教室に移動しないと。
バタン、と屋上の重厚な扉を閉めた音が、無機質なメロディーを遮断する。
「はあああ?」
ひとり残った屋上では、30秒ほど遅れて、意味不明だと言わんばかりの独白が腹の底からこぼされた。もうそこに眠気はない。
◇◇
真っ黄色のお弁当箱。
その中には少し焦げた黄色。
しょっぱく味付けしたたまご焼きを、お弁当箱とセットの同色の箸でつまみ上げた。
「なんでいるんだよ」
大きく開けた口にたまご焼きがゴールインする直前、うしろからやつれた声に制された。
はしごをよじ登ってきた木本くんが、げんなりとした顔でこちらをにらんでいた。給水塔エリアに立つと、お弁当を広げて座っているわたしを見下ろす形になる。この美の圧はむさ苦しくない。影ができてちょうどいい。
「さっひふりぃ」
さっきぶり。たまご焼きを放り込んだ口をもぐもぐ動かしながら手を振った。のほほんとしたあいさつは圧を無効化するのだ。木本くんは出鼻をくじかれたように拍子抜けする。
ショートホームルーム前は朝の涼しさを感じた屋上は、正午になると日が照ってあたたかい。透明だった光は、どこか黄色みを帯びているよう。ひなたぼっこするには持ってこいだ。
たまご焼きも光の効果で黄色がよりきれいに見える。気がする。うん、気がするだけ。焦げた部分はなかったことにならない。
「木本くんはたまご焼きはしょっぱい派? 甘い派?」
「なに世間話始めようとしてんだよ」
「え、だめ?」
首をかしげる。木本くんの顔のパーツが中心に寄った。反論しようとし、ペースに呑まれるのを恐れ、口を引き結ぶ。隣に腰を下ろした。隣といっても、距離はだいぶ開いているのだけれど。
木本くんの右手首にぶら下げられていたビニール袋から、本日のお昼ごはんが出てくる。カレーパンとチョコデニッシュとアメリカンドッグ。そして、紙パックのオレンジジュース。
おっ! つい歓喜が顔を出す。『オレンジ100%』と刷られた長方形を、木本くんに見せつけた。
実はわたしもここに来る前に買ってきたんだよね。一緒だ。おそろいだ。わーいわーい!
あからさまにテンションを上げてみたらうっとうしがられた。
「ここの購買って、アメリカンドッグまで売ってるんだ?」
ピーマンの肉ずめをよく噛んで飲み込んだあと、木本くんが手にしたアメリカンドッグを横目に世間話をかたくなに繰り広げていく。
一度や二度うっとうしく思われたって、そうそうへこたれませんよ。
「……売ってる、けど」
わたしはお弁当派だから、あんまり購買を利用したことがない。市販のお弁当やパンは見かけるけれど、アメリカンドッグまで売られていたとは。わりとメジャーなのか?
ふっくらとしたきつね色は、ほんのりとした甘みと香ばしさをまとっている。ケチャップのついたところを、がぶりと豪快に頬張った彼に釘付けになってしまった。
誰かが食べているとどうしてあんなにもおいしそうに見えてくるのだろう。最近アメリカンドッグを食べていなかったせいもあるかもしれない。
よし、今度買おう。今度と言わず、明日食べよう。決まり。
「けど、だから、あー……あのさあ」
「ん?」
「なんでおれはあんたとメシ食ってんだよ」
木本くんはあぐらをかいてる足に左ひじを置き、左手で頭を抱えた。一度飲み込んだ疑念を消し去るのは、存外難しかったらしい。
右手のアメリカンドッグが、頭の欠けた状態で垂れ下がっている。
「木本くんはここでひとりで食べてるのかなって思って」
そしたら、ビンゴ。
案の定、きみは来た。
だから、わたしも、ここに来たの。
「ひとりよりふたりで食べたほうがおいしいよ」
わたしはひと口でミニトマトを食べた。みずみずしい甘さが口の中に満ちていく。状況に思考が追いついていない木本くんの隣で、それはそれはおいしそうにほっぺを落とした。
青い空の下。解放的なひなた。見渡せる町並み。お弁当箱とパンとジュース。これだけ条件がそろうと、ピクニックをしている気分になる。こうやって隣合って駄弁ってるだけで、食感や味覚がやさしくなっていく。
木本くんくんはどう? そのアメリカンドッグ、いつもよりおいしく感じない?
「あんたこそ食べるヤツがいねぇんじゃねぇの」
刺々しく言ってすぐ、木本くんははっと口をつぐんだ。罪悪感のにじむ視線をさまよわせる。ゆらゆら揺れに揺れて、最終的にはポツンとたたずむ紙パックに着地した。
きれいな横顔が曇っていく様を見届け、ふ、と笑みを浮かべる。それに気づいて木本くんがこちらを一瞥した。
「いるよ? でも木本くんと食べたかったの」
至って平然としているわたしに、曇りが晴れていく。木本くんに向かってほほえめば、そっぽ向かれてしまった。
クラスメイトはわたしのことをわかってくれている。クラスは持ち上がりで、1,2年は名簿の入れ替えがない。必然的にわたしのクラス、2-6とは、かれこれ1年とちょっとの付き合いになる。
田中まひるが不良だといううわさを今朝まで知らなかったのは、クラスメイトがそういうレッテルを貼ってないからだ。
入学当初は、多少なりとも様子をうかがわれていた。
新しい環境に身を置いたら、そうなるのはおかしいことじゃない。わたしもそうだった。距離感を探り合ったり、一から関係を作り上げていったりする過程で、人を、環境を、知っていく。そうしていくうちに自然と自分のことも伝わっていた。
クラスが打ち解けていくのに、そう時間はかからなかった。
だから、ほんと、びっくりだよ。わたしが不良だなんてさ。他クラスではそんなふうにうわさされてたんだね。
自分のクラスから一歩出たら、こんなにも世界が変わってくる。
この屋上だってそう。
未知の世界のひとつだった。
「……なんで、おれなんだ」
怪訝そうな目だけが、わたしのほうに向き直す。いまだにうなだれたままのアメリカンドッグから真っ赤な汗がしたたり落ちてしまいそう。
きっと木本くんにとって、わたしの存在が未知だった。
「おれに、会いたかった、って……な、なんだよ」
「何って、そのまんまの意味だけど」
迷惑そうな、気恥ずかしそうな、何とも言えない顔つきに「は?」とでかでかと本音が貼り付いた。あ、その本音、朝にも聞いたやつ。
ポタリ。とうとう真っ赤な汗が地面を染めた。光の差す灰色に溶けていく。酸味のある匂いがたゆたう。それに気づく余裕がないほど木本くんは混乱していた。
「だから、なんで」
ようやっと出てきたのは、たどたどしい一言で。
なんで、とわたしは思わずオウム返ししてしまった。なんで。改めて聞かれると明確な答えをすぐに言語化できない。
こうやって話すのはもっと先のことだと思っていた。いや、今か今かと待ち焦がれてはいたのだけれど、期待半分、今日じゃないんだろうなとあきらめ半分くらいのモチベーションで、1年以上やってきていた。
うまく言葉が出てこないのはそのせい。……なのだろうか。
今日だけで進展がありすぎて、たぶん、わたしもそうとうぐちゃぐちゃになってる。
「えっと……あっ! そう、そのオレンジジュース!」
「は? これ?」
「そう! それ、わたしも好きだよって、伝えたかった」
「はあ?」
「あと……恩返し? みたいな?」
「疑問形かよ」
「いや本当に、会いたかった、ってことがすべてすぎて……うーん……」
あぁ、どうしよう。なんて言えばいいんだろう。
目についた長方形を示してみたけれど、結局はふりだしに戻ってきてしまう。わたしの中にある語彙が底をついた。
真っ直ぐに伝えるだけ伝えてみても、相手の反応がわるいのは明々白々だった。
今言ったこと、うそじゃない。ぜんぶ、ぜんぶ本当なのに、どうしてこうもうすっぺらく感じるんだろう。真っ直ぐなだけじゃだめみたい。
ただ、いちばんは、会いたかった。
その一言に尽きるのだ。
「とりあえず、木本くんと仲良くなりたい! です!」
距離を埋めるように顔を、ずいっと近づけ、全力で気持ちをぶつけた。
真っ直ぐなだけでは無力と等しいとしても、今のわたしにはこれくらいしかないから。当たってみないと砕けるかどうかなんてわかりっこない。
心臓がこれでもかってくらい熱くなる。その熱が彼にも伝わったのか、やや圧倒されていた。
会いたかった。
きみのことを、知りたかった。
ずっと、気になってた。
わたしが近づいた分、身を反らされた。徐々に木本くんは表情筋を歪ませていく。苦味をぐっと押しつぶし、わたしから顔ごと背けた。
今、彼の心臓は、ひどく冷え込んでいる気がした。
「仲良くとか、無理だから」
食べかけのアメリカンドッグを持ったまま、木本くんは立ち上がった。すらりと長い足が、まるで壁のように感じる。
また距離が開いてしまった。
鮮やかな日差しが真上から明暗を分けていく。木本くんの影に覆われたわたしは、真っ黒だ。
「言ってること意味不明だし、恩返しとか、おれ何もしてねぇし。だから、もう、来んな」
あからさまな、拒絶。
昼食を入れ直した袋を手首に下げ、わたしの横を通り過ぎていく。カサカサと袋の擦れる音が、いやに響く。
ギイギイと軋むはしごが静まると、木本くんの気配が消えた。
地面に並んだふたつの『オレンジ100%』の表面に水滴が浮かぶ。泣いているふうにさえ見えた。
来んなって言っておいて、木本くんが出て行っちゃうんだね。
黄色の箸でもうひとつのたまご焼きをつかんだ。ゆっくり口に運んでいく。舌の上に乗っけると、ほどよい塩味が染みていった。
だけど。
やっぱり。
さっきより、おいしくない。
はじめは
やさしさのつもりの
うそだった
.
一面青く渇いていた空が、熱をすべて吸収したようにたそがれた。
ずいぶんとうすまった群青が、だんだんと夕日に侵食されていく。奥にいけばいくほど、オレンジジュースよりもよっぽど濃い橙色が焦がれている。あれはもう、赤だ。日に焼けた、きれいな赤。白かった雲でさえ赤らんでいる。
どんな色も似合っちゃうなんて、空は本物の美人さんだなあ。
そんなばかげたことを思いながら、石畳の階段をゆっくりのぼった。
階段のてっぺんには東屋がある。屋上から展望できた小山の中にひっそりと建つあの場所は、わたしの秘密基地。わたし以外はめったに人が来ない。放課後になるとここに立ち寄るのが、わたしの日課になっている。
生い茂った木々の葉に囲まれた、木製の東屋。何十年、へたしたら何百年も前に造られたんじゃないかと疑うくらい、すごくぼろい。建付けのわるい柱に、座るたびに歪むベンチ。真ん中に設けてある小さな丸テーブルは、ところどころ材木が腐っている。
屋根も例にもれず古びている。
「……ほんと、きれい」
見上げれば空の色が覗く。ただでさえ木と木の隙間から日が差し込み、雨の日は特に屋根の意味を果たさないにもかかわらず、大小さまざまな穴まで開いてしまっている。
おかげで電灯には困らないが、雨が降ったときは散々な目に遭う。ここでは屋根はただの飾りでしかないのだ。
梅雨に入ったら長くいられないな。ずっと晴れならいいのにな。
わたしの気持ちまでたそがれてきた。
雨より晴れの日のほうが好き。
晴れの日の東屋が、好き。
赤い光がぽつぽつ浮かぶ東屋を、今日も今日とてひとりじめするのはうれしいような、さびしいような。
ベンチに腰かけた。スカートの触れた部分がやや沈む。右隣にカバンを置くと、痛い、とベンチが泣いた。
わたしは気にせずにカバンのチャックを開け、中身を探る。手のひらにしっくりくる物を見つけて取り出した。
『オレンジ100%』
木本くんの分。まだストローも刺されていない。新品も同然のオレンジジュース。木本くんの忘れ物。わざと置き忘れていった物。
これを屋上に放置することも、捨てることもできず、持ってきてしまった。
紙パックはぱんぱんに太っていて、ずっしりとしている。なのにいつもの低温ではなく、とうにぬるくなった。
それでも飲まれるのを待っている。
今日も、待ってる。
だけど、今日も、待つだけ。
左隣にオレンジジュースを置いた。ベンチに耐久性がないのを承知のうえで、ベンチに両足を乗せる。板の歪みが大きくなる。
ひざを抱える。ひざ小僧にあごをつけ、視点を固定させる。見つめる先は、東屋の入り口。石畳の階段のほう。
夕日のまばゆさから逃げるように木々の影がゆらゆら泳いでいた。それだけ。石畳にそれ以上の影は落とされない。
ちらりと視線をななめ下に転がした。左隣にちょこんと立つオレンジジュースが、微動だにせずに石畳の階段をじっと眺めている。きみもあきらめがわるいのね、と語りかけてみた。味気ない笑みがこぼれる。
あきらめがわるいオレンジジュースなんておかしな話。でも、わたしがそう感じたんだから、それでいいんだ。
それで、よかったんだよね。
ずっと思っていた。
傷つけたくない。
やさしくしたい。
そう在りたい。
それを丸ごと伝えればよかった。言葉そのものよりも、まずは伝えることが必要だった。上手に言葉をたぐり寄せるのは、そのあとからでも遅くない。
手探りだっていい。砕けたっていい。わたしもあきらめがわるいから。届くまで何度も何度も伝えたい。
きみからも、伝えてほしいよ。
「……ねぇ、そっちこそ、なんで」
ひざ小僧に右頬をすり寄せ、紙パックの表面をひと撫でする。オレンジジュースは何も答えてはくれない。閑散とした東屋にわたしの声だけが響いて、消える。静けさをまぎらわすように昼休みのことを想起した。
――『仲良くとか、無理だから』
木本くんはあきらめが早すぎる。
わたしたちはまだ、言わなくてもわかるような深い関係じゃない。だから、これから、何にだってなれる。
空だっていろんな色に染まる。わたしたちもおんなじだよ。
紙パックに触れた指の腹が、わずかに湿った気がした。
◇◇
木本 朱里。
彼は、俗に言う、一匹狼だ。
見かける姿は、たいてい独り。話しかけても、ひとことふたこと返答して終わり。必要以上に関ろうとしない。だから友だちもいないし、作る気配すらない。単独行動を好んでいて、どこか冷めた面持ちをしている。
はじめこそ先輩後輩問わず多くの女子がアプローチをかけていたが、最近ではすっかり“みんなの目の保養”という認識が浸透してしまった。
2年生に進級しても誰ともつるまずに孤高に過ごす彼を、ひそかに鑑賞して、
「クールだね」
「かっこいいね」
と、はしゃぐ女子の姿は、さながらアイドルを応援するファンのよう。
無愛想な態度を、クールでかっこいい、と。
たしかに聞こえはいいけれど。
だけど。
ちがって見えるのは、わたしだけなのだろうか。
「まひるーんー」
慣れ親しんだチャイムとともに背中をどーんっと押された。上半身が前方にかたむく。みぞおちあたりに机が食い込み、痛みはないが若干苦しい。
みぞおちの感覚をさして気にもとめずに、上半身を立て直しながらこしを回す。右ひじをうしろの机につく。右うでをうしろの席の住人にわしづかみにされた。
「まひるん! テストどうだった!?」
うしろの席の住人は、見るからに焦っていた。
右うでを包む両手は小さく、真っ白で、か弱そう。なのに、握力は人一倍強い。きれいに磨かれた丸っこい爪には、わずかに赤みが帯びている。
みぞおちより、右うでのほうが苦しい。そのうえ、ぶんぶん振り回すものだから、神経への刺激が大きい。
荒ぶるな。落ち着きたまえ。
「ひよりん、まずはわたしの右うでを解放してあげて」
「あっ、ごめんごめん」
はっとして、小さな手が離される。空っぽになった手のひらの中に、指先がゆるやかにしまいこまれていく。右も左もぎゅうっと握りしめられると、「うぅ~~」とうなり声を上げた。
落ち着こうにも落ち着けないみたいだね。
先ほどのチャイムで午前の授業は終了。教室は一気ににぎやかになった。待ちに待った昼休みだというのに、空気がどんよりしているのはうしろの席だけ。
「テスト、むずかしくなかった!?」
「うーん、まあまあかな。ひっかけは多かったよね」
「え。まあまあ!? あれで!?」
どんどん落ち着きがなくなっている。ガーンという効果音がぴったりのリアクションをとったかと思ったら、今度はわかりやすくふてくされた。
握りこぶしを交互に振り、机の表面を殴る。ドンッドンッと太鼓を打ってるような勢いがある。しかし昼休みモードの教室では、虫の音も同然だ。
つい先ほど実施された、英語の小テスト。今回はリスニングではなくライティングだった。これまでの授業の復習のため、基礎的な文法問題、長文読解、英訳和訳が1枚のプリントにびっしり出題されていた。
簡単ではなかった、と思う。
長文読解と和訳の問題には数か所ひっかけがあった。この落とし穴にはまってほしいんだろうなあ、と教卓のほうを見やると、案の定先生がニヤニヤしていたっけ。
教室内にはわたしたち以外にも、小テストの話をしているクラスメイトが複数人いた。そのほとんどがひっかけ問題の答え合わせをしている。先生のしたり顔が目に浮かぶ。
「さすが優等生はちがうね……」
「優等生て」
たしかに真面目ですけど。
テストの結果だけで言えば、成績もいいほうですけど。
二階堂先生が聞いたら鼻で笑われそう。本物の優等生だったら、ことあるたびに先生に捕まったり叱られたりしないんじゃなかろうか。
学力に秀でてるいだけなら優等生じゃない。言うことも聞いてくれる、素直ないい子ちゃんじゃないと務まらない。今のわたしには不適合な配役だ。
「ひよりんはだめだったの?」
うしろの席の住人も、落とし穴にはまった一人らしい。
名前は、天童 晴依。
あだ名は、ひよりん。
中学生に間違われることのある童顔は、動物でたとえると、犬。犬種でいえば、ビジョン・フリーゼ。胸元まで伸びた明るい栗色の髪の毛が、ふわふわでくるくるなところも面影がある。
ちなみにヘアアレンジは毎日変えていて、今日は高めのツインテールだ。
本人いわく、ベビーフェイスと天然パーマがコンプレックスらしい。わたしにはかわいらしい特徴であり圧倒的長所としか思えない。
席が前後というありきたりな出会いだった。
入学式の日から、わたしは髪型と制服の着方を自己流にして登校していた。異彩を放っていた存在を、二階堂先生でなくとも前任の先生も留意していた。クラスメイトのほとんどが探り探りだった。
『そのヘアアレンジかわいいね!』
ひよりんだけだった。出会いがしらにわけへだてなく声をかけてくれたのは。
飼い犬みたいに人懐っこい笑顔を向けてくれた。
うれしかった。ちょっと泣きそうになったくらい。
それをきっかけにまたたく間に仲良くなった。わたしはまひるん、晴依はひよりん。あだ名をそろえてニコイチ感。わたしがクラスで浮かなかったのは、ひよりんのおかげもあるかもしれない。
「だめだった、かも……」
ドンドン叩いていた握りこぶしは、いつの間にか机にぴったりくっついていた。ひよりんのおでこも机に吸い寄せられ、一瞬にして突っ伏してしまう。
そうとうボロボロだったんだろう。そういえば小テスト中、うしろの席からはシャーペンの走る音はあまり聞こえてこなかった。
ひよりんは特に英語が苦手だ。
今回の小テストの結果が40点以下だった場合、先生から補習用の課題を言い渡される。そのことを前回の授業で忠告されていたため、ひよりんは今日の小テストを恐れていた。今朝なんて単語帳を読みながら登校してきたくらいだ。
「今日気合い入れてきたんでしょ?」
単語帳だけでもびっくりしたのに、勝負服を着てきたのだとも豪語された。いつもと心がまえがちがうのは明らかだった。
白いワイシャツではなく、小さなアルファベットがたくさん刺繍されたシャツ。遊び心のあるカジュアルめなその服は、ひよりんのお気に入りの一着だという。かわいいでしょう、と自慢げに見せびらかしていた。
あの満ちあふれていた自信は、今では影も形もない。心なしかシャツにしわが増えたような気さえしてくる。せっかくの気合いが見るも無惨に散っていった様を、こうもありありと目の当たりすることになるとは、今朝の時点ではまったく思いもしていなかった。
「……山を張ったところがほどんど出なかったの」
「あー……なるほどね。賭けに出ちゃったのね」
「だって、そうするしかなくて……」
「次は一緒に勉強しよ。わからないところは教えるから」
苦手ながらがんばったんだね。だからそんなにしょぼくれてるんだね。次回こそ報われるようにわたしもサポートするし、応援もするよ。
机に張り付いたツインテールの頭をよしよしとやさしく撫でてあげると、栗色の頭がようやく起き上がる。ひよりんの眉尻と目尻が、大きく垂れ下がる。今にも泣き出しそうだ。
「まひるんんん〜〜! らぶ〜〜!!」
「あはは。わたしもらぶだよひよりん」
机を越えて抱き着かれた。熱烈なラブコールがくすぐったくて、もう一度頭を撫でながら破顔する。ひよりんの暗かった表情も明るくほころぶ。
ちょっとは元気が出たようで安心した。さらにぎゅうっと抱きしめる力が増し、わたしの笑い声が教室に響く。
ついでに、わたしのおなかの虫が鳴く声も。
ごまかしきれない音だった。化け物の慟哭のような鳴きぐあいに、わたしとひよりんは顔を見合わせてぽかんとする。一拍置いて、同時にくすっと噴き出した。
「おなか空いたね、まひるん」
大きくうなずいておなかをさすれば、ひよりんはまた笑った。ひよりんの腕がほどかれ、わたしは立ち上がる。
「購買行こうよ」
「あれ? まひるん、今日はお弁当じゃないの?」
「うん。今日は購買の気分なの」
「へぇー、めずらしいね」
これまでずっとお弁当生活だった。購買を利用したことはあれど、文房具や飲み物がほとんどで、ちゃんとした昼食を買うのは初めてだ。
ずっと興味はあったものの、購買意欲とは比例しなかった。昨日の木本くんの影響で、わたしもアメリカンドッグを食べなければならない使命感に襲われなければ、今日もお弁当だっただろう。おそるべし、木本くん効果。
ひよりんはお弁当と購買の二刀流派。主食は持参して、おかずは購買で選んでいる。先週は、用意してきた太めのパスタを、購入したトマトスープに入れて食べていた。アレンジの仕方が食欲をそそるうえにおもしろい。
購買はすでににぎわっていた。教室ひとつぶんよりせまいスペースは、人でごった返している。制服に埋もれながらもスーツ姿もうごめいている。完全に出遅れた。
焼き立てのパンのにおい。揚げ物のレパートリーの豊富さ。カロリー控えめに作られた甘味の見栄えの良さ。ここまで混むのもうなずける。まだ食べてもいないのに早くもわたしの胃袋はつかまれかけている。
じゅるり。
空腹時にこれは……殺傷力が高すぎる!
「まひるん何食べる?」
「アメリカンドッグ!」
これだけは外せない。このために来たんだ。
この戦場のなか、アメリカンドッグを狩りに行ってやる! わたしのアメリカンドッグにかける思いは、そんじょそこらとはちがうんだ!
購買に来て、やる気スイッチがオンに切り替わった。メラメラと燃え上がる。ひよりんがやや引いている気がしないでもないが、気にしないでおく。 戦闘時には集中力を欠くのは禁物だ。
「アメリカンドッグ好きなんだ?」
「ううん、特別好きではないよ」
「え? そんなぎらついてて?」
ほら、たまにあるでしょ? 好物じゃないけど定期的に食べたくなるもの。それがまさにアメリカンドッグなのです。
今わたしがとてつもなくぎらついて見えるなら、それは木本くん効果に加えて腹ペコだからだろう。このおなかの虫が早く早くと高カロリーを求めてる。
「昨日木本くんが食べてたから、わたしも食べたくなって」
「へぇ〜??」
ひよりんの頬肉がふやけていく。はーん、ふーん、ほーん、と、は行を駆使したあいづちをしながら、じりじり近づいてくる。細い両うでがわたしのうでに巻きついた。横目にうかがうと、シャツの「H」の文字にピントが合って、反射的に目をそらした。
これから何を言おうとしているのか、エスパーじゃなくたってわかるよ。
「まひるんって〜、木本朱里のこと好きなの?」
「好きと言えば好き」
「ははっ! 素直ー!」
楽しそうな笑い声は、購買の活気のいい騒がしさに吸収されていく。わたしのおなかの虫もここでならたいして目立たない。
わたしが質問を察したように、ひよりんも返答を察していたんだろう。だってひよりん、今世紀最大にニマニマしてる。
校内で木本くんを見かけるたびに気にしていたことを、ひよりんが気づいたときも、今みたいに直球で尋ねられた。
昨日突然『屋上で食べない?』と誘ったときもそうだ。ついおとといまでは、ひよりんと教室で昼食をとっていたが、理由を話せば、十八番のは行のあいづち付きで遠慮されてしまった。
3人でごはんも楽しいのに。そうつぶやいたら、『2人だからい〜んじゃ〜ん』と意味深にほほえまれたっけ。
「まひるんのそういうとこ好きだなあ」
聞きたいことを聞いて、感情をそのまま表すひよりんもたいがい素直だと思う。わたしとはちがう素直さを持ってる。かわいいな、と思う。
取り繕わず、いつだって自然体なひよりんが、わたしも好き。
たぶん、わたしたちって素直同士だから、一緒にいて楽だし、楽しいんだろうね。
「アメリカンドッグはあそこだよ」
行列のできたレジの横にあるケースを指さした。その中にきつね色の表面が見える。あとふたつ残っていた。
あ、たった今、ひとつ売れてしまった。残るは、あとひとつ。
ラスイチをゲットするのはこのわたしだ!
気合いを入れてから人の波に突っ込んでいった。足を踏み入れると人口密度による熱気を浴びた。この戦がどれだけ大変なものなのかを痛感する。明日はいつもどおりお弁当にしようと、たった今決めた。
アメリカンドッグ以外はまたあとで選ぶとして、とりあえずは目先のものをゲットすることに専念しよう。二兎追うものは一兎も得ずっていうし。
レジの横のケースはセルフで機能しているらしい。ケースの中身はすべて揚げ物。アメリカンドッグのほかには、から揚げとメンチカツが残っていた。どれもおいしそうで、おなかがぎゅるると鳴る。しかもすべて90円という破格の値段。安い。買った。
最後のひとつを厚紙に包むと、油がじわりとにじんだ。ずっしりとした重みからほんのり甘い香りがただよう。瀕死なりかけの胃袋になぐりかかりにきてる。受けて立つまでもなく白旗を上げましょう。
今日はとことんカロリー高めのオンパレードでいく。そう決めたが早いか、目についたものを手に取っていた。
主食は、鶏の竜田揚げをはさんだライスバーガー。デザートは、ホイップクリームとカスタードクリームをふんだんに詰めこんだシュークリーム。
不健康なラインナップに満足感を得てしまう。
太ると思わなければ太らない。
今日の合言葉はこれで決まり。
ほくほく顔でレジの列の最後尾についた、そのときだった。
「朱里、てめぇ!」
怒号が廊下中を駆けめぐった。にぎわう空気感を一掃させ、あの購買がしんと静まる。
精神をまるごと持っていかれた。聞き覚えのある声だった。
だけど。
それよりも。
あの声は、たしかに。
――シュリ、って。
購買のすぐ横からだ。密度の濃かった人の波が引き寄せられていく。早くも人だかりができ始めていた。わたしの5人前に並んでいたひよりんも、とんかつのパック片手に列を抜け出す。
気づいたらわたしの足も向かっていた。
「いつまでそうやって無視するつもりだよ!」
野次馬をかき分け先頭に躍り出ると、中心には木本くんがいた。黒色のカーディガンがベストに様変わりしてる。
ひじあたりまで折られたワイシャツからのぞく、太いうで。それを力強くつかんで離さない、坊主頭の男の子。
あれほど叫び散らされても、木本くんは口を開こうとしない。青緑色の血管が浮き出た手をにらみつけ、離せ、と訴えている。つかむ手は弱まるどころか力んでいった。
坊主頭の男の子は、震えていた。
木本くんと対峙してる彼はきっと、野次馬がいることも、語気をどれだけ荒げているのかも気づいていない。
必死だった。木本くんに真っ向から、言葉を、思いを、届けようとしてるんだ。
「勝手に、やめんなよ。ぜんぶ捨ててんじゃねぇよ」
「…………」
「あれはおまえのせいじゃねぇって、何度言やわかんだ」
あぁ、そっか。木本くんにも友だちがいたんだ。
こんな状況だというのに安心してしまった。
ずっとひとりぼっちじゃなかった。一緒にごはんを食べる人がいた。そのすべてが過去形なことに、また、かなしくなる。
そっか……。木本くん、ぜんぶ捨てちゃったんだ。
「怖がってないで戻ってこいよ」
うでをつかんでいた手を下ろした代わりに、反対の手が木本くんの左胸に伸びた。その手には真っ白な入部届が握られている。ぺち、と二つ折りの紙がベストの上に当てられる。
『野球部』
いちばん上の欄だけ、ご丁寧に記入されていた。わたしのところからもはっきりと見えるくらい大きく、明瞭で、しかしお世辞にも上手とは言えない。
油性のマジックペンで書かれたようだった。一心不乱に強気な文字とは裏腹に、骨ばった手はやっぱり震えている。力をこめすぎて、紙の表面にくしゃりとしわが寄る。
「なあ、朱里」
「…………」
木本くんは入部届から視線を上げていく。ふと目が合った。
ぜったい、わたしと、目が合った。
アメリカンドッグの油が、手のひらの汗に混ざっていく。
黒い瞳はわたしを見つけたとたん、わかりやすく揺れ惑った。1秒も経たずに背を向けられる。坊主頭の男の子からも、一歩距離をとった。
届けても届けても、ひとことのお返しもない。
きみはまだ、一度だって届けようとしていない。
「朱里!」
大声で呼ばれても振り返るどころか遠のいていく。
距離が開くにつれ、野次馬はざわつき、気だるげな上履きの音をかき消した。
行き場を失った入部届は、くしゃくしゃに丸められ、うでごとだらんと垂れ下がる。坊主頭の男の子の背中も丸まっていった。
しだいに人だかりが散っていく。ぽつんと取り残された坊主頭の男の子が自分と重なる。わたしも動けずにいた。お昼ごはんは冷めてしまったかもしれない。
「追いかけなくていーの?」
この場にそぐわない、ふわふわなわたがしみたいな声音に、感傷まがいな情を吹き飛ばされた。
隣ではひよりんが首をかしげていた。ちゃっかりレジを済ましたあとだった。いつの間に、とつっこみたくなる。
その問いかけは、わたしになのか、それとも。
反射的に坊主頭の男の子が背中をぴんと張り、振り向いた。びっくり仰天!なんてテロップが見えるくらい、いい反応をしてくれるものだから、ひよりんがこらえきれずに噴き出してしまう。
「晴依、田中も……。い、いたのか」
「いたよーう。さっきまであたしたち以外にもたくさんいたよー」
「まじかよ……」
本当に、野次馬の存在には1ミリも気づいていなかったらしい。にぶいというか、集中しすぎていたというか。長所であり短所でもあるよね。
小野寺 朝也。
同じクラスで、ついでに言うとひよりんの隣の席の住人だ。英語の授業中、たびたびひよりんを助けてあげている。
本人はこっそりのつもりだけれど、実は周知の事実というやつで。苦労性でおせっかいなイイヤツだって、クラスのみんな思ってる。
思っているからこそ、おどろいたんだ。あの小野寺くんが、周りが見えなくなるほど感情的になっているだなんて何ごとだ、って。
駆けつけて、すぐ、なっとくした。小野寺くんはやっぱり、苦労性でおせっかいなイイヤツだった。木本くん用の入部届をわざわざ用意していたところなんか特にそう。
「朝也なら追いかけると思ってた」
「うん、わたしも」
「まひるんは追いかけないだろうなって思ってたよ」
「うん、コレ買ってないしね」
「あー、それもそうだねー」
アメリカンドッグとライスバーガーとシュークリームを抱えたまま追いかけたら、いくら安いといえど万引きになってしまう。犯罪、だめ、ぜったい。これから購買出禁とか笑えないし。
でも、たぶん、買ってたとしても、追いかけなかった。
追いかけなくても、どうせ会える。
会いに行く。
「朝也って、木本朱里と知り合いだったんだね。木本朱里が野球やってたってうわさ、本当だったんだ」
「あ、ああ。中学んとき、チームメイトだった、けど……」
小野寺くんはクラスで唯一の野球部員。朝練後はいつもショートホームルームが始まるぎりぎりに教室にやってくる。早朝から汗まみれになって忙しそうでも、表情はいつだって輝いていた。
木本くんもそんなころがあったのかな。あったんだろうな。
木本くんの坊主姿か。想像つかないなあ。というか、野球部だからって坊主なわけじゃないよね。うちの野球部は伝統というか、ジンクスのようなものに願かけして坊主を推奨してるんだとかどうとか。
「木本朱里って昔からあんなスカしてたの?」
「全っ然。あいつは……」
「ああっ、待って!」
あわてて耳をふさごうとするも、うでの中には高カロリーな昼食たちがいて、覆えてもせいぜい左耳のみ。これじゃあ右耳が無防備なままだ。不可抗力で聞こえてしまう。
はたから見たら奇行とも取れる行動に、ひよりんと小野寺くんはそろってふしぎそうにする。結果的に話をさえぎれたから、おーるおっけーだ。
「……? まひるん何してるの?」
「わたし、木本くんの話は、本人から直接聴きたいの」
話してくれるか、わからないけれど。
いつ聴けるのか、わからないけれど。
伝えたいし、聴かせてほしいの。
ふふふ、とひよりんはのどを転がしたような笑みをこぼした。栗色のツインテールをおどらせながら、下からわたしの目をのぞきこむ。必然的に仕組まれた上目遣いは史上最高にかわいい。
「まひるんてば、ほーんと、真っ直ぐすぎるくらい真っ直ぐだねえ」
きっと、わたしのこれも、長所でもあり、短所でもあるんだろう。
だけどひよりんにほめられたからいいの。どっちもならいいほうだと思っとく。わたしは今のわたしが史上最高に大好きで、友だちもそれを認めてくれているから、それでいいの。
それでも木本くんは、難儀だな、と吐き捨てるんだろう。そしたらわたしもまた、きみもでしょう、と苦笑してあげる。
ふふふ、えへへ、とピースフルな世界にひたっているなか、小野寺くんだけはいまだに知恵の輪をうまく解けないような小難しい顔をしている。何も事情を知らないのだから当然だ。
「田中、あいつと仲いいんだ?」
「ううん、今歩み寄ってるところ」
「歩み寄る?」
「そ。仲良くなりたいんだ」
もしかしたら、今もわたしは、ぎらついているのかもしれない。そう思うほどには好戦的に一笑した自覚がある。
仲良くなりたい人が、かたくなに壁を作るからいけないんだ。あきらめのわるいわたしには、逆効果であることを思い知らさなければいけない。突き進んで壁をぶち壊せるなら、ケンカのひとつやふたつくらいしてもいいとさえ思っている。ケンカするほど仲がいいってやつになれるかもしれないでしょ。
小野寺くんは意外だと言わんばかりに目を瞠った。思い出したように入部届を見つめる。
真新しかった用紙には、何重にも折り曲げられた線がくっきりとついていた。いちばん上に記入した自分の字を見返すと、口角を軽く持ち上げた。
「じゃあ、おれと一緒だ」
「そうだね、一緒だ。同志だね」
「あっちから来てくれたら、いちばんなんだけどな」
「歩み寄っても逃げてっちゃうしね」
「なんだか猫みたい」
ひよりんの発想はあながちまちがってない。たしかに、と、わたしと小野寺くんはうなずき合った。
木本くんの話題でこんなに盛り上がっていることを、当の本人は知るよしもない。それが少し、さびしい。
◇◇
「あ、いたいた」
快晴の空に自力で近づくと、黒色のベストがすでにそこにあった。
ほっとした。ちがう場所にいたらどうしようかと思った。……どうもしないんだけど。探し回るの一択なんだけど。
でもでも、だって、昨日はそっちから出て行っちゃったから。もしかして、と思って。杞憂だったみたいでよかった、よかった。
逆にあっちは表情を歪ませている。
お気に入りの屋上の、さらに上。給水タンクのある場所で、空っぽになったプラスチックのお弁当箱をほったらかしにし、気持ちよくひなたぼっこしていたわりには、すこぶる機嫌がわるい。
ええ、ええ、わかってますとも。わたしが来たからそうなったんだよね。それ以外ないよね。知ってる。
「なんで……」
「コレ買ってたら遅くなっちゃった」
「は?」
「ほら見て、アメリカンドッグ。買っちゃった。安くてびっくり」
「いや、だから、」
わざわざ温め直してもらったアメリカンドッグを見せつけた。
ケチャップをたっぷりかけたら、厚紙の中がべちょべちょになってしまった。お腹ペコペコな状態には、この絵面がものすごく暴力的。早く胃袋を満たさなければ。
困惑してる木本くんをよそに、ライスバーガーとシュークリームも袋の上に並べた。もちろん紙パックのオレンジジュースも欠かせない。
ストローを刺し、ひと口飲み、アメリカンドッグを厚紙から外した。いただきまーす。
「来んなって言ったよな」
大きく「あ」の口を開けて、ピタリ。
ようやくアメリカンドッグにかぶりつける寸前、いら立ちを孕んだ低音に制された。デジャブか。
するどい眼光で串刺しにされる。でも、ちっとも痛くない。
壁を作ってもいいよ。どうせその壁は、目には見えない。いずれ壁をぶち壊したいけれど、壊さなくたって、物理的に手を伸ばせば届く距離にいる。届くなら、壁があろうとなかろうと問題ないよ。
「来ないとは言ってないよ」
いじわるく笑ってみせた。
これみよがしにアメリカンドッグを頬張る。サクッ、フワッ、ジュワッの三拍子。これはうまい。甘みのあるふっくらとした生地のやさしい食感のあとに、噛めば噛むほどジューシーさのあふれるソーセージをダイレクトに感じる。買って正解だった。
おいしい。おいしすぎる。
ふたりでいるから、おいしさを倍感じるの。
「迷惑だっつってんだよ」
「うん」
「うん、って……だからおれは、」
「振り回しちゃってる気はしてた。ごめんね」
「な……」
「でもやっぱり、木本くんのことが知りたい。仲良くなりたいって思っちゃうんだよ」
知らないでしょう?
わたしの心臓がバクバク鳴ってること。
自分勝手なことをして、木本くんがどんな思いをするのか、なんとなくわかっていた。また拒絶される気はしていた。屋上に来るのは緊張したし、実はちょこっと怖かった。
今は、緊張してないし、怖くもないよ。どうしてだろうね。会って、しゃべったら、うれしい気持ちのほうが勝っちゃったのかも。心音が大きくて速いのはそのせいだ。
ぜんぶ知らないでしょう。
でもね、知らなくていいよ。
伝えたいことは、ひとつひとつ、伝えていく。
「おれは、独りがいいんだ」
ちっぽけな文句。ふた口目に噛んだ、生地の裂ける音に負けてもおかしくなかった。うつむきながらつぶやかれ、なおさら聞こえづらい。
聴覚にすぐれた耳を持っていてよかった。たやすくすくい上げられる。
「うそつき」
「っ、うそじゃ」
「ならどうして昨日、ちょっとだけだけど、一緒にご飯食べてくれたの? 拒むとき、どうして苦しそうにするの?」
あからさまな、拒絶。
それは真っ赤なうそ。
不愛想を決めこんで、独りでいいと自分に言い聞かせて。それのどこが「クールでかっこいい」のだろう。
わたしにはわからない。全然わかんないよ。
小野寺くんにつかまっていたときも、今だって、こんなにも苦しそうにしているのに。
そのうそは、誰にも、木本くん自身にもやさしくないよ。
「何に悩んでるのか知らないけど、昨日ふたりで過ごした短い時間だけでも、わたしがいやなわけじゃないんだなって気づけたよ」
「…………」
「仲良くなれる可能性が、少しはあるってことでしょ?」
昨日のアメリカンドッグ、おいしくなかった? わたしはとびきりおいしく感じるよ。
肯定も否定も返ってこなかった。さっき、廊下でも黙っていた。それが答えだった。
熱の抜けたアメリカンドッグは、三口目から耳心地のいい音を立てなくなった。もぐもぐと口内を上下させる。味は変わらない。むしろ濃厚なケチャップが染み込んでさらにおいしくなった。
続けて四口目。のんきに食を味わい続けるわたしに、木本くんの毒気が癒えていく。おそるおそる、のどの奥から弱音をしぼり出した。
「……俺のせいで、やな思いとか、するかもしれねぇじゃん」
やっと届けてくれたと思ったら、なんだ、そんなこと。
「しないよ」
「……断言はできねぇだろ」
「しないって」
笑顔で即答。わたしはちゃんと口に出して答えを言う派です。
木本くんは「信じられない」と表情で物語る。
信じられないのなら、神さまにでも誓いましょうか。仏さま、閻魔さま、それでもだめなら二階堂先生に誓ったっていいよ。
「いいことはあっても、いやなことなんてない。もし、いやな思いをするとしたら、それは木本くんのせいじゃないよ」
「そんなのうそだ」
「言ったでしょ。わたし、自分に正直に生きるって決めてるって。うそなんかじゃないよ」
「何が起こるかわかんねぇだろ」
「まあ、それはそうだけど……。信じられないなら、むりに信じなくてもいいよ。だけど、そう決めつけないでほしいな」
壁は分厚い。透明なぶん、向こう側をクリアに展望できて、物理的に触れられる。それができるならなんてことない。痛くもかゆくもないって、きっとこういうこと。
ビニール袋に隠し入れていたもうひとつの紙パックを、壁の向こう側に手渡した。『オレンジ100%』猫でいう猫じゃらし的なやつ。
ためらいがちに受け取ってくれた。一瞬わたしをチラ見し、思い切ってストローを抜き取る。ストローの先端で入口をこじ開ける。きれいなみかん色がのぼっていく。
「それにしても」
「ん?」
「あんたのメシ、やばくね」
「やばいでしょ」
「太るぞ」
「太ると思わなければ太らないが、今日の合言葉なの」
「何だそれ」
きっかけがほしかった。
ずっと待っていた。
こんなふうにふつうに話せていることが、すでにもう、わたしにとっていいことなんだよ。
きみのため
じゃなくて
たぶん自分のため
.
あーあ、また始まった。
こと細やかに記した日誌は、一度目を通して、終わり。丁寧な文字を意識して書いたこと、今日の感想の欄をびっしり埋めたこと、気にも留めていない。
証拠にほら、日誌をパタリと閉じて、パソコンの隣に乱雑に置かれた。
窓から差し込む夕日が、日誌の表紙をぼやけさせる。淡い赤色が表紙の真ん中に侵食し、なじんで、白んだ。元々どんなだったっけ、と思い返しても、思い出せない。その程度のことだ。
「いつになったら正しく制服を着てくれるんだ」
放課後の職員室。二階堂先生は椅子に座ったまま、厳しい目つきでわたしを見上げる。
苦味の強いコーヒーの香りが、鼻の奥を通り抜け、こめかみあたりを刺激した。ぐっと眉間をしかめれば、不服そうな顔のできあがり。
また反抗的だと思われていそう。
おそらく二階堂先生も、木本くんと同じタイプだ。顔は口ほどにものを言う。
「こういうのはそれなりにこなしておいて、どうして態度はそうなんだ」
はあ、とわざとらしいため息をつかれた。日誌の上で手を2回弾ませながら、やれやれと首を振る。
今回は呼び出されたのではない。日直の仕事を完遂したことを報告しに来たのだ。それがどうだ。日誌を提出して早々、恒例のお説教タイムが始まってしまった。
こういうの、って何。そうなんだ、って何。
先生。わたし、それなりにこなしてないですよ。しっかり責任を持ってやり遂げたんです。
教室の黒板もきれいに消した。がんばりすぎて、髪の毛とシャツがチョークまみれになって大変だった。
襟元だけ黒色のシャツはおろしたてだった。衣替え期間が明け、完全に夏仕様にシフトチェンジした制服を着込んできたとたんこの始末。この苦情もだいぶ寛容な表現で日誌の感想の欄に書いたはずだ。
二階堂先生のほうこそ、それなりに読んで、それなりにしか把握していない。わたしのがんばりも苦労も、おざなりな扱いを受けた気分。べつにほめてもらいたいわけではないけれど。
けど……けどさあ。なんか。ちょっとなあ。
「勉強や仕事の出来はよくても、態度がそれじゃあ内申点はやれないぞ」
「内申を稼ごうだなんて考えていません」
「そうだろうな。でなきゃそんな派手な格好はしないだろう」
チョークの粉をかぶったシャツに視線を感じた。
派手、だろうか。自分でも見直してみるけれど、そういった感想はどうしても浮かんでこない。
丸みを帯びた黒色の襟。学校指定のベストの下からはみ出た半袖は、麻素材のアイボリー。ベストで隠れている胸ポケットには、黒の糸で刺繍がほどこされてある。
これは派手というより、ナチュラルで大人っぽいカテゴリーに入る。世代とか価値観とかでずいぶん変わって見えるらしい。
「色味はひかえめにしたつもりなんですけどね……」
「色味がどうとかではない。校則に従い、一生徒として恥じない格好をしなさい」
「してますよ」
「わたしは真面目に言っているんだ」
「わたしだって真面目です」
校則では、次のように明記されている。
髪色は黒か茶。ただし地毛の場合は髪色は問わない。ピアスや指輪などの派手な装飾品は禁止。学校指定のブレザー、スカートもしくはズボン、カバンを使用すること。ただし夏服の場合は、ブレザーではなく、学校指定のカーディガンもしくはベストを着用すること。
それを把握したうえで、さて、わたしはどうだろう。
髪色は、赤みが強いが、茶色に属する。アクセサリーはヘアピンのみ。その色味は鮮やかだが、きんきらきんな派手さはない。学校指定のベスト、スカート、カバンもちゃんと使っている。
ほーら、ごらんなさい。どこからどう見ても、この学校の生徒として申し分ない装いをしているではないか。
校則の範囲内で、シャツやらヘアアレンジやら、わたしらしい個性を上乗せしている。それだけのことなのだ。
まちがったことはしていないし、恥ずかしいと思ったこともない。
「先生は、わたしが恥ずかしいですか」
「田中、卑屈に取るのはやめなさい。わたしは態度を改めろと……」
「自分らしく、自分に胸を張って過ごすことを恥だと、そうお思いですか」
二階堂先生は押し黙った。聞き耳を立てていた他の職員も、つられて口のチャックを閉める。
職員室は静寂に包まれた。コーヒーの湯気がうすまっていく。
教師は絶対的な存在ではないし、大人が必ずしもえらいわけでもない。それを指摘するのが、子どもであり生徒であっても、おかしなことではないだろう。
正解と不正解に分けられない問題があり、むりくり二分化してしまうのは実にもったいない。どれも正解、どれも真面目でいいじゃないか。生き方は無限大だ。
そう意見することを反抗的な態度だと捉えるのならば、わたしは、はい、そうですね、と答えるほかあるまい。
「自分にうそをついて、自分をねじ曲げてしまうことのほうが、よっぽど不真面目なことだと、わたしは思っています」
わたしは、わたしに、うそをつきたくない。
わたしを、きらいになりたくない。
「それでは、日誌は届けたので。さようなら」
応酬が激化する前に、ふんぎりをつけ挨拶をした。切り替えの早さにぽかんとする先生をよそに、すたこらさっさと職員室を出て行く。
パタリ、と閉めた戸に、後頭部をすり寄せた。
うーん……強く言いすぎた? いやいや、なあなあになるよりましだ。主張すべきことは言い切った。これでまた「田中まひるは不良だ」といううわさに尾ひれがついたら……。
「ま、そうなったらそうなったで、なんとかなる!」
今までだって、なんとかなってきた。というか、うわさ自体を知らずにのんきに過ごしてこられた。きっとこれからも、そう。意外と杞憂で終わるものだ。
予定外のお説教はあれど、何はともあれ、日直の仕事はコンプリートした。ようやっと放課後だ。
帰って小説の続きを読まなくちゃ。昨夜読みふけったのは、物語の前半部分。ヒロインの女の子が好きな人に失恋して、甘い恋がひび割れてしまったところまで。後半はどうなるんだろう。好きな人と結ばれるのか、はたまた幼なじみとくっつくのか。気になるなあ。
職員室の前に置いておいたカバンを肩にかけ、昇降口を目指す。職員室の前を通り過ぎると、扉がスライドされた。気にせずに回廊を歩く。
「田中さん。田中まひるさん」
「……?」
しわがれた声に呼び止められた。過ぎたばかりの職員室のほうへ首を回す。白髪に丸いメガネをかけた教頭が、そこにいた。
教頭は、今年で還暦を迎える。学校で一番のおじいちゃん先生だ。今では教鞭をとることはなくなったものの、長年生徒を見守り続けてきた。生徒思いなことで知られていて、ごくまれにカウンセラーの役割を担っていると聞く。
そんな教頭から直々に話しかけられた。はじめてのことだ。何ごとだろう。ついさっきまで職員室で優雅にコーヒーをたしなんでいた人が、どうしてわざわざわたしに。
「えっと……教頭先生、わたしに何か……」
「二階堂先生は、生活指導を担当しています」
「え……あ、はい……」
これこそ、はい、そうですねとしか言えない会話だ。これは前置きか、本題か、つかめない。
大いに困惑しているのを見透かし、教頭は目元を線状にして微笑した。
「それゆえ指導に熱が入り、口を酸っぱくして注意してしまうのです。受け持っている教え子なら、なおのこと」
「……ええ、はい」
「言い方は少々きついかもしれませんが、何もあなたをきらって言っているのではありません。個性を重んじることも大切ですが、どうか、二階堂先生の考えもわかってあげてください」
アルファー波を発した声音は、朗々としていて、すっと耳に入っていく。胸の裏側でモヤモヤと湿気っていたものを、さらりと取っ払ってくれる。
教頭は、生徒だけでなく、同じ先生という立場もおもんばかる人だ。
職員室で言い合いになっていたのを気にかけ、二階堂先生のフォローをしに来たといったところだろう。フォローの仕方はやさしく、わたしの考えを否定はしない。カウンセラーとして頼られるのもなっとくだ。
「二階堂先生は、田中さんを心配して……」
「はい、わかっています」
「! ……そうですか」
二階堂先生は頭でっかちで頑固だ。そのうえ時代錯誤な価値観を大事に持ったままだし、厳しくてねちっこくて、ついでに説教が長い。
こうして特徴を並べ立てると、けっこうめんどうくさいタイプだなあ。あ、でも、わたしも二階堂先生のことはきらいじゃないよ。
特別好意的には思っていないけれど、一応尊敬はしている。
注意を聞かずに、言いたいことを言って逃げるわたしを、二階堂先生はあきらめずに毎日毎日追いかけてくる。
もういいやと放棄しても、義務教育を終えた高校生が相手なのだから、とりわけ咎められることもないだろうに。
現に、昨年度はそうだった。生活指導や担任の先生は一度や二度の注意をして、おしまい。そんなもんか、とわたしもなっとくしていた。
二階堂先生は、ちがう。
生活指導担当だから。担任だから。それだけではないことは、ちゃんとわかっている。
わかっているんだ。
自分らしく在ることが、ときに強さに、ときに弱さになること。
みんなと同じ生き方が、最適なときもあること。
みんなとちがうことが、苦しさになりうること。
確固たる集団意識は、学校と生徒を守るためであることも。
そう、わかっているから、先生は何度も警告する。生徒をどうでもいいと思っていたらできないことだ。先ほどもそう、二階堂先生なりの愛情を持って、わたしと向き合っていた。
先生の考えも一理ある。わたしにもわかるよ。わかっているけど……。
でも。でもね。
それでも、わたし。
自分をいつわって、つらい思いをするのはいやなの。
――もう、できないの。
「わかっているからこそ……ゆずれないんです」
これはいわゆる意見の相違。よくバンドの解散に起因する、方向性のちがいのようなもの。理解と共感はできても、妥協はできない。
そこで線を引かず、向き合おうとする二階堂先生は、鋼のメンタルの持ち主にちがいない。そっちがその気なら、わたしも、誠意には誠意で返す。
顔を合わせて、言い合って。ただ、時間をむだに長引かせるのは、先生のわるい癖。時は金なり。わたしは折を見て、妥協しないと言い逃げするまでがワンセットだ。
「そう……、そうですか。いらぬ心配でしたかね」
「いえ、ありがとうございます、教頭先生。さようなら」
「引き止めてすみませんでしたね。さようなら。気をつけて帰るんですよ」
「はーい!」
にこやかに返事をし、軽い足取りで昇降口へ歩いていく。教頭はメガネをかけ直し、わたしの背中をしばらく眺めると、おもむろに職員室の扉を開けた。隙間からかすかにコーヒーの残り香が吹き抜けた。