これくらいの言われようがなんだ。
男たるもの、一歩外へ出れば周りは敵だらけ。
最初から歓迎されるなんて思うな。
俺は気持ちを鎮め、わざと大きな声で迫田を呼んだ。
「迫田さん!戻りました!」
奥の方からガタガタと何かを引きずるような音がする。
俺はまだ奥には入ったことがないから何があるのかよくわからない。
ドアが開き、迫田がひきつった表情で出てきた。
「あ、加賀見…。早いの」
「五分前なんで…そろそろかな、と」
「目一杯休憩してええんだぞ」
「そうなんですか。じゃあ明日からはそうさせてもらいますね」
中での会話がすべて聞こえていたことなど尾首にも出さず、俺はシレッと迫田に言った。
「加賀見、アンタ…」
「なんでしょう?」
「い、いや、なんでもない。午後からは親方が座学する、言うとったが?」
「あ、聞いていらしたんですね。もしかしたらご存知ないかと思って」
「親方から聞いちょるけん。ええよ」
「明日からは休憩のあとそのまま本宅で座学になると思います」
「おう、わかった」
「今日はありがとうございました。明日も宜しくお願いします」
「くたびれただろ?慣れんことしよったけん」
「明日は筋肉痛かもしれませんね」
「まぁそのうち慣れえわな。ほんなら午後からもがっしょでの」
「がっしょ?」
またもや方言の壁だった。
「あぁ…一生懸命、いう意味だわ」
「すみません…。わからなくて…」
「仕方ねわの。こっちの言葉は特殊だけん。こんなんはまだまだ序ノ口だけんな。年寄りの言っちょることはワシでもわからんのがあぁけん」
「そうなんですか」
「ここにはそげん年寄りはおらんが、近所の衆は年寄りが多いけん。なんぞ言われぇかもしれんが大方わからん思うわ」
「それは困りますね…」
「それも慣れえしかねわ。親方に方言も習うだわ。ほら、そろそろ行かんと」
「はい…」
迫田に会釈して、俺は蔵を出た。
迫田は悪い人ではないと思う。
でもなんとなく、無難にやり過ごそうとしているように見受けられる。
初対面で決めつけちゃダメだとは思うが…
このときの俺はまだ、田舎特有の人間関係に後々悩まされることになろうとは夢にも思っていなかった。
暖々の店主が言っていた言葉の意味を理解するのはまだもっと先の話で。
俺は修行以上に難しい田舎の人間関係を軽く見ていたのかもしれない…。
そして午後からの座学を受けるため、俺は母屋に戻る。
親方と初めて対面した部屋へ、ノートと、持ってきた専門書を携えて入った。
「失礼します」
親方は俺の顔を見て頷く。
座布団が置かれた席に座り、専門書とノート、筆記用具を机に出す。
「早速始めぇか。アンタ、基本は勉強したと言っておったが日本酒がどんな酒かは大体わかっとんのか?」
「はい。ワインやビールと同じ醸造酒で、世界でも珍しい並行複発酵で造る酒です」
「並行複発酵とは?」
「酒が発酵するには糖分が必要です。ワインはブドウから造られるので糖分がありますが、日本酒の原料である米には糖分が足りないのでデンプン質を糖分に変える糖化が必要です。ビールは糖化と発酵が別々に行われますが、日本酒は同時に行う。ひとつのタンクの中で糖化と発酵を同時に行うことを並行複発酵といいます」
「そのとおりだ。どの酒も製造工程は複雑だが日本酒はその中でも一番複雑といっていい。原料の米を磨く作業。まずはこれが最初だが、普段ワシらが食っているものと酒の原料となる米は違う。それについては?」
「はい。日本酒の原料になる米は酒造好適米と呼ばれる米です」
「食用米との違いは?」
「まずはその大きさです。一般米よりも大きいのが酒造好適米です」
「なんで大きいがええ?」
「米にはデンプン質の他にたんぱく質、脂質が含まれています。食用米はそれが旨味になりますが日本酒においては雑味の原因になります。なのでそれらをなるべく取り除き、旨味を残すために精米するのですが、粒が大きいと高度な精米でも割れにくいからです」
「うん。他には?」
「旨味の元である心白が大きいこと。たんぱく質が少ないこと。吸水性、糖化性がいいことです」
「そげだな。たんぱく質が雑味の原因になるけん、たんぱく質は少ないほうがええ。吸水性は?」
「理想的な蒸し米は外硬内軟です。中まで吸水されることで内側が柔らかくなります」
「柔らかいとどうええんだ?」
「麹菌が繁殖しやすくなります」
「糖化性は?」
「酒母を管理しやすくするためです。大量の米を発酵させるには酵母を培養しなければなりません。糖化がスムーズに進めばそれだけ管理が楽になるともいえます」
「よう勉強しちょるの。実際には教科書どおりにいかんこともあるがな…」
「あくまでも無知なままでいるよりは知っているほうがいいと思って勉強しただけです。現場の仕事に慣れるのが一番大切だと思ってます」
親方は俺の意見を聞いても黙ったままだ。
何か、まずいことを言ってしまったのだろうか?
でも俺が嘘を吐いたとしても。
この人には見抜かれてしまう、と思う。
それなら本音を語るべきだとも、思う。
本音が親方の意向と合わないと思われるなら。
仕方ない。
飾った自分なんて無意味だ。
素の俺自身を見てもらわなくては。
「親方…」
「ええ心懸けだな。現場で実践できんと意味はねぇが」
「頑張ります」
「修行はもちろんだが…。チームワークも大切だ。アンタだけが浮き足立っていればチームワークが乱れる。同僚と上手くやっていくのも大切なんだ」
「それは…、そのつもりです」
「アンタは…まだよくわかっとらんと思うが…田舎の人間てのは僻み根性のモンが多い。僻み、妬み…特に地元の人間以外にはなかなか腹を割ったりせん。そういう意味でアンタは…普通よりやりにくいかもしれん」
今日の一幕でなんとなくそれは感じた。
真瀬が俺をあまりよく思っていないと。
今日はたまたま真瀬が思っていることを偶然耳にできただけで。
他のヤツらも同じように思っているかもしれない。
「加賀見…。だからといって疑心暗鬼になる必要ないけん。アンタが一生懸命やれば必ず…わかってくれるモンが出てくる。それまでは…くたびれることもあぁかもしれん」
「俺自身が想定していなかったことも…実際はあると思います。でもそれすらも…俺には必要なんだと、思います…。修行は何も酒造りだけではなくて…俺の人生そのものの修行でもあるんです…」
「そこまで…自分を追い込む必要があんのか?」
だってそれは…
そうしなければ…彼女の…
雪穂の居場所を守ってやれないと思うから…
「自分を…変えたいんです…」
「ん?」
「流されて生きるのではなく…。自分で選んだ道を…しっかりと歩んでいきたいんです…」
「……」
この沈黙は何を意味するのだろう。
俺には所詮無理だと思っているのかもしれない…。
でも俺は…
尻尾を巻いて逃げたくはない。
足掻いて足掻き続けたい。
「わかった…。アンタの気が済むまで…やってみたらええ…」
「親方…」
「はっきり言うとく。ほんにえらいぞ。仕事は当然だが生活習慣も…。アンタの思いもせんようなことが次々起こる。それでも…やんのだな?」
「…やらせてください…お願いします…」
「わかった…」
そこからはまた座学に戻った。
十八時を過ぎたころ、親方が今日はここまでと言い、終了した。
「ありがとうございました」
「一旦離れに戻るか?もうちょっとで晩飯だが」
彼女を手伝いたい気持ちがないわけではないが…
彼女の仕事は彼女にやらせるという方針のようだから。
手伝わないほうがいいのだろう。
「離れに戻ります」
「うん。ほんなら半ごろまたおいで」
「はい。ありがとうございます」
離れに戻り、炬燵のスイッチを入れる。
誰もいない部屋は寒々としていて冷えきっていた。
本当に信じられないくらい寒い。
カイロがいるかもしれない。
まだ暖まりきっていない炬燵に入りながらそんなことを思っていた。
「加賀見さん!」
大きな声で呼ばれ背中を叩かれて我に返る。
いつの間にかうたた寝してしまっていた。
「ダメですよ!風邪引きます!」
必死の形相で俺に訴えかけるのは雪穂だった。
「あ…寝ちゃったんだ…」
「お疲れなのは無理もありませんけど…うたた寝したら間違いなく風邪を引きます。そんなことになったら蔵で働けない…」
そうだった…。
いかなる雑菌も入れてはいけない蔵に、風邪の菌などもってのほか。
そんな大切なことを…
何やってるんだ、俺は…
「なかなか来られないから様子を見に来たんです。そんなに時間は経ってないから大丈夫だと思いますけど…」
「すみません…」
「とにかく母屋に行きましょう。父も待ってますから…」
「親方をお待たせしちゃいけませんね」
二人で母屋に戻り食堂へ入ると、親方はまだ箸をつけずに座っていた。
「親方…申し訳ありません」
「大丈夫なんか?」
「ちょっと…うたた寝してしまって…」
「風邪は大敵だ。気をつけろ」
「はい…。申し訳ありません…」
「ええからはよ食え。食ったら雪穂、うちの風呂に入らせてやれ」
え?風呂に?
風呂はさすがに…
離れで充分だ。
「親方…風呂は離れので大丈夫です…」
「こっちの風呂のほうが芯からあったまるけん」
「食事が済んだら入るとええ」
「えっ!?」
奇声を発したのは雪穂だった。
やっぱり母屋の風呂に入るのはまずいんだ。
離れにないならいざ知らず。
ワンルームなんかよりも上等な風呂がついている。
それなのにわざわざ母屋の風呂に入らせてもらうなんて。
しかし雪穂の驚きはそのことではなかったようだ。
「お父さん、先に入るのよね?」
「いや。今日は加賀見を先に」
「そ…それは…」
「ワシは加賀見の次でええ」
「お父さん…」
二人の会話が見えてこない。
雪穂は俺が一番風呂を使うのを気にしているのか?
あ…
もしかしたら…
家長だから一番風呂は親方が入るのが習わしなのではないのか?
それなら雪穂が驚くのもわかる。
「あの…親方が先に入ってください。俺は後からで…」
「多少冷えとるかもしれん。はよ体あっためんとまずい」
「そんな…大丈夫です」
「自分の体を過信しちゃあいけん。アンタが今まで住んどったトコとは違うけん。これからもっと冷えるし明日はまた雪が降る」
さっきのうたた寝で体が冷えてしまったから。
早く暖めないといけないのか…。
夜半から早朝は特に冷える。
万が一風邪でも引いてしまったらまずいから。
ここは親方の言うとおりにしたほうが良さそうだ。
「では…お言葉に甘えて…先に入らせてもらいます」
「そげしとけ」
「はい」
食事の後、俺は着替えを持って母屋に戻った。
雪穂の案内で風呂場へ行く。
「加賀見さん…うちのお風呂は五右衛門風呂なんです」
「五右衛門風呂?」
「所謂釜のような湯槽です。ちょっと狭いかもしれません」
「はい…」
「父の言うとおり、普通のお風呂よりもずっとあったまります。湯冷めもしにくいですから…」
「そうなんですね」
「都会では考えられないと思います。田舎でも、このお風呂はもう廃れて来ていて…珍しいかもしれませんね」
「初めてなんで楽しみです」
「フフ…。絶対に湯槽の中で寝たらダメですよ?火傷しますから」
「脅さないでくださいよ!さすがに…大丈夫です」
「上がられたら父の部屋に声だけ掛けてください。そのまま離れに戻られていいですから」
「本当にありがとうございます」
「ではあたしはこれで…」
「おやすみなさい…」
「加賀見さん、あの…」
「はい?」
「い、いえ!なんでもありません…。明日も…頑張ってください…」
何を言おうとしたのだろう?
無性に気になる…。
でも今は何よりも自分の体を厭わないといけない。