母から急な電話があったのは、それから数日後、仕事を終えて帰宅したときのことだった。
「えっ、入院!?」
開口一番、『実は……』と告白され、なにか大きな病気でも見つかったのかと、私の心臓はドキドキと嫌な音をたてた。
「そうなのよ。ほら、この前雨が降ったでしょ。お庭が濡れてて、うっかりすべって転んじゃって。それで、手をついた拍子に手首を骨折しちゃって。入院して手術することになったのよ」
手首、骨折、という言葉に少しホッとする。命に関わる自体ではなさそうだ。
「骨折……。病気じゃなくてよかったけど、手術しなきゃいけないほどひどいの?」
「そんなことないわよ。自分でタクシーを呼んで自分で帰ってきたんだから。お医者さまがね、プレートを入れたほうがいいって。そうしたほうが、骨がちゃんとくっつくんですって。手術自体は部分麻酔の簡単なものらしいんだけどね、付き添いが必要なのよ。決まりなんですって」
「いつ手術なの?」
「明日から入院してあさってに手術。入院自体は四、五日くらいみたい」
四、五日か……。入院中、ずっと実家にいるのは無理だろうか。せめて、明日とあさってだけでも休みがとれたらいいんだけど。
「わかった。店長に事情を話せばお休みもらえると思うから、明日すぐにそっち帰るね。入院の準備は手伝えないと思うけど、ごめん」
「お母さんのほうこそ、たいしたことないのに結に迷惑かけちゃって」
「そんなこと気にしなくていいから」
そのあと、病院や担当医師の話を聞いたり、必要なものの確認をしたりして電話を切った。
「はあ……」
携帯電話をローテーブルに置いて、クッションの上に倒れ込む。なんだか、どっと疲れが出た。
茨城にある実家で、ひとりの夜を過ごしている母を思う。骨折したのも病院に行ったのも昼間のはずなのに、私が仕事を終える時間まで待って連絡をしてきたんだ。そう思うと、せつない。たいしたことない、なんて明るい声を出していたけれど、本当は痛かったはずだ。
母ひとり子ひとりの期間が長かったため、なるべくお互いに面倒をかけないよう、気を遣ったり遠慮するくせができている。きっと母は、少しくらい体調が悪くても私に連絡はしてこない。私だって、去年熱中症と風邪で倒れたときも、母に報告したのは治ってからだった。
「こういうの、ほんとはよくないんだろうな……」
母が体調不良を無視して仕事を続け、病院に行ったときには手遅れ、なんて想像をするとぞっとする。これから先、母も歳をとっていくし、そんなことがないとも限らない。
離れていると、気づかなきゃいけないことにも、気づいてあげられない。せめて母が安心してなんでも相談できるくらい、私がしっかりできればいいんだけど。
「お母さんに会ったら、そういうこともちゃんと、話してみよう」
こんなとき、ひとりっ子じゃなくてきょうだいがいたらな、と思う。ミャオちゃんみたいな家族思いの妹とか、響さんみたいなしっかり者のお姉さんとか。
でもそれより、自分に家族がいたら、こういうときに心強いんだろうな、と四葉さんと柚人さんの結婚式を思い出す。
――おむすびも、したいの? 結婚。
あの日のミャオちゃんの言葉が、唐突に頭に響く。
「そりゃ、できるものなら、したいけど……」
カーッと赤くなった顔を、クッションにうずめる。
一心さんと、ずっと一緒にいられたら、幸せだと思う。でも、告白もしていないのにその先のことまで想像するのって、いけないことのような気がして……。
芸能人と結婚する妄想なら許されるのに、身近な、本当に好きな人だとできないのはどうしてだろう。よこしまな思いが自分からもれそうで、怖いのかな。それとも、自分には恐れ多いっていう気持ちになるからなのかな。
「それより、早く一心さんに連絡しないと」
休みのお願いをするために、私はまだ食堂で仕込みをしているであろう一心さんに電話をかけた。
一心さんは、母へのお見舞いの言葉と私への気遣いの言葉を口にしたあと、すぐにもと従業員の大場さんに連絡してくれた。大場さんはこころよく私の代理でシフトに入ってくれることになり、私は一週間、茨城に帰ることになった。
退院するまででいいと断ったのだけど、『お母さまは手が不自由だろうし、退院してからも慣れるまで手伝ってあげたほうがいい』と大場さんが提案してくれたらしい。 母が骨折したのは利き手とは逆の左手なので、二日あれば、左手を固定したままでも生活はできるようになると思う。
「ただいま」
朝イチの電車に乗ったのだが、実家に帰ると、すでに母は入院準備を終えて病院に向かったあとだった。母がいないだけでがらんとして見える家に荷物を置いて、タクシーではなくバスで病院に向かう。
「お母さん」
病棟の個室に顔を出したとき、母はすでに入院着を着てテレビを見ていた。
「あら、結」
振り返った母はいつも通りの明るい笑顔だったのでホッとする。直接顔を見られたことで、昨日からこわばっていた心に、やっと血が通い始めたみたいだ。手のひらのにぶい痛みを感じてやっと、病院に入ってからずっと手をきつく握りしめていたことに気づく。
「よかった、元気そうで……。痛みはないの?」
ベッドの脇にある椅子に腰かけながら、たずねる。
「痛み止め打ってもらってるから大丈夫。骨が折れてるから、違和感はあるけどね」 左手はギプスで固められていて、動かせないみたいだ。
「お昼前に、主治医の先生から手術の説明があるみたい」
「あ、じゃあ私も一緒に聞くよ」
お昼まであと一時間以上ある。私は院内にあるコンビニで飲み物とサンドイッチ、母にリクエストされた夫人雑誌を買って戻った。母は「ありがと。テレビだけだと飽きちゃって」と器用に片手だけで雑誌を読み始めた。ここが病室なのを除けば、実家にいる母の姿と変わらない。
「お母さん、手術を控えてて怖くないの?」
意外にもリラックスした母の様子に、そんな言葉が口をついて出た。
「うーん、全身麻酔だったら怖かったかもしれないけど、局所麻酔だから意識もあるし……。特に緊張もしていないかな」
「そっか」
意識があるままというのも怖いんじゃないかと思ったけれど、お母さんが平気と言っているんだから余計なことを言うのはやめよう。
「プレートを入れるだけだしね。病気で内臓を切る、とかだったら局所麻酔でもさすがに怖いと思うわ」
「お母さんがそうなったら、私もきっと怖いだろうな……」
昨夜想像してしまった最悪の事態が頭をよぎる。不安に思っていることを、今、話してみようか。でも、明日手術を控えたこんなときに話さなくてもいいんじゃ。
尻込みしてしまいそうだったけど、ミャオちゃんと響さんの顔を思い出した。そうだ。ふたりは、悩んでいたことをもっと早く話してほしかったと言ってくれたんだ。
私は姿勢を正して、母に向き合った。
「ねえ、お母さん。昨日の電話って、もっと早くかけられたよね。骨折したときでも、病院の診察が終わったあとでも……。あの時間にかけたのって、私が仕事中だから気遣ってくれたんだよね」
「気を遣ったわけじゃないわよ。仕事中に電話しても出られないでしょ」
「休憩中だったら出られるし、メールを送ってもらえれば、携帯を見るタイミングですぐに気づけるよ」
珍しく食い下がる私に、母はちょっと驚いた顔をした。
「そこまで考えるんだったらあの時間にかけたほうが楽だったんだもの」
「うん、そうだよね……。でもさ……。なんかこういう遠慮がひとつひとつ積み重なると、本当に大事なときも連絡するのをためらうんじゃないかって思ったら、怖くなっちゃったんだ」
頭が重くて、だんだん目線が落ちていく。視界の端にうつった母が、眉をくしゃっと下げたのがわかった。
「……結」
「私もお母さんも、すぐには無理かもしれないけど……。なにかあったときはすぐ連絡するようにしていきたいなって、思って……」
私はよっぽど、泣きそうな顔をしていたのだろうか。ベッドから身を乗り出した母が、私の肩を右手でぽんぽん叩いた。
「わかった。これからはすぐ連絡するから。そのかわり結もそうするのよ?」
「……うん」
そのあと、私と母は決まりを作ることにした。事故にあったとき、病気になったときはすぐに連絡すること。具合が悪いときは、無理せず病院に行くこと。毎年の健康診断をかかさないこと。
約束をしたら、離れて暮らす不安がちょっとだけ軽くなった気がした。
お医者さんに手術の説明を聞いて、母の昼食と一緒にさっき買ったサンドイッチを食べたあと、実家に戻る。
一心さんにメールで店の様子をたずねると、休憩時間に返事が返ってきた。
『大場さんがはりきってくれているから営業に問題はない。ただ、おむすびがいないこころ食堂は一年ぶりだが、去年より穴が大きく感じるな』
そんな言葉をかけられて、私がどれだけうれしく思うか、一心さんはきっと知らないだろうな。
手術も無事終わり、その後の経過も順調で、母は予定通り五日間の入院で退院することになった。
「お母さん、お昼ごはんどうする? せっかくだし、このへんでおいしいもの食べて帰る? 片手でも食べやすいもので」
入院するときに持ってきた荷物をバッグに詰めながら、たずねる。母は入院着から普段の服に着替えずみだ。片手でも着替えやすいように、前開きのブラウスを持ってきた。
「そうねえ。作るのもまだ大変だし、病院食にも飽きたから食べて帰ろうか」
「なにか、食べたいものある?」
いつもだったら『ファミレスでいい』という返事が返ってくるところだが、母の答えは意外なものだった。
「カレーかな。病院食で甘口カレーが出てね、子どものころお母さんが作ってくれたカレーを思い出しちゃったの」
「おばあちゃんが?」
「そうなの。お母さん、大人用の甘口カレーでも辛くて食べられない子どもでね。子ども用のレトルトカレーとも違う、すごく甘いカレーを作ってくれていたのよ。色も茶色っていうか、オレンジ色に近い感じで」
そうだったのか。私がおばあちゃんに作ってもらったカレーは普通だったから知らなかった。お母さんの子ども時代の思い出の味なんだから、知らなくて当然だけど。
甘くて、オレンジ色。もしかしてそれって、バターチキンカレーみたいなものなのだろうか。初めて食べたときは、その甘みにびっくりしたっけ。
「お母さん。それだったらインドカレー屋さんにしない? ナンなら片手でも食べやすいし」
確か、病院の近くにもあったはず。お母さんにそう提案すると、ふたつ返事でうなずいた。
お皿からはみ出す、焼きたての大きなナン。チキンのかたまりがごろごろ入ったバターチキンカレーに、マンゴーラッシー。セットのサラダ。メニューに載った写真を見て、私は「わあ」と小さく声をあげる。
インド人らしき店主が営むカレー屋さんは、驚くほど安かった。ランチセットにラッシーをつけても千円しないし、ナンはおかわりし放題だ。
「なんか、お母さんとこういう店でごはん食べるのって初めてかも」
とてもフレンドリーな店員さんに注文を終えて、おしぼりで手を拭きながら店内を見回す。もともと和食レストランだったところを改装したのか畳の座敷に通されたが、インドっぽい内装と妙にマッチしている。足を伸ばせるのもうれしい。
「そういえば、そうね。外食のときはいつもファミレスだったし」
地元は田舎なのであまり選択肢がないというのもあるけれど、男の子がいる家庭のようにラーメン屋や焼き肉屋に行くということもなかった。
「お母さんは、外食とかお茶とか、行ってるの?」
「行ってる、行ってる。婦人会の人たちとも行くし、職場の主婦メンバーでも行くし。地元にできたカフェやレストランの情報がいちばん早いのって主婦だと思うわ」
それを聞いてホッとした。私は大学に入ってから、はやりのカフェやイタリアンレストランにも友達と行くようになったし、働き始めてからはひとりでも行くようになったけど、母にそういった楽しみはあるのか不安になったのだ。
「結に心配されなくても、お母さんはお母さんでちゃんと楽しくやってるんだから、心配しなくて大丈夫よ」
バレてる。私の考えることなんて、付き合いの長い母にはお見通しだったようだ。
しばらくすると、注文した料理が来た。テーブルの上に置かれたナンは、写真で見るよりもずっと大きい。大人の顔ふたつぶん、いや、三つぶんくらいはあるんじゃないだろうか。これをおかわりできるのはカレー好きな猛者か、すごくお腹がすいている人くらいだろう。
「すごく盛りがいいわね、このカレー屋さん」
母も驚いている。さっき「サービスネ」と言ってトマトスープをくれたし、利益は出ているのか同業者として心配になってしまう。くったくのない明るさとフレンドリーさ、サービスのよさは見習いたいくらいだけども。
「お母さん、どう? バターチキンカレー、見た目はおばあちゃんのカレーと似てる?」
「そうねえ。お母さんも記憶が鮮明なわけじゃないんだけど、色はこんな感じだった気がする」
「じゃあ、食べてみよっか」
ナンをちぎって、鮮やかなオレンジ色をしたカレーにひたひたに浸す。たれないように気をつけて口に運ぶと、バターの甘みとコク、少し遅れてスパイスの香りが舌と鼻先に広がる。カレーの中の大きなチキンをスプーンですくって食べると、ほろほろ柔らかい。
これは、ルーがさらっとしていて具がチキンだけなぶん、普通のカレーよりも大量に食べられそう。ナンを手で食べるという行為も、食欲に拍車をかけている気がする。
母も、片手なのをものともせず黙々と食べている。
「このカレー、おいしいね。味はおばあちゃんのと同じだった?」
「これはこれですごくおいしいけれど、おばあちゃんのカレーとは違うわね。ここまで甘くはなかったし、これを食べて思い出したんだけど、チキンじゃなくて牛肉が入っていた気がする」
「牛肉? 豚肉じゃなくて?」
家庭のカレーといえば豚肉というイメージだったが、確かにビーフカレーというのもある。うちみたいな田舎の農家ではなくて、都会のお金持ちの家で作っていそうだけど。
「そう。普段牛肉ってあまり買わないから、豪華な気がしてうれしかったのよね」
「おばあちゃんがビーフカレー派だったのかな」
「そうだったのかしら。でも、ビーフカレーがはやったのって、もっとあとだった気がするのよね。今はレトルトでもあるけど……」
母の言葉で、ハッとした。それを言ったら、その時代はまだバターチキンカレーなんて日本に入ってきていなかったはず。インドに行ったことのないおばあちゃんが、バターで甘みを出すなんて考えつくだろうか。
結局、おばあちゃんの甘いカレーの正体は判明せず、謎が深まっただけだった。
夜ごはんには、私が肉野菜炒めとお味噌汁を作った。母の入院中に、ひじき煮や豆の煮物など日持ちするものを作ってタッパーに詰め、ミートソースも多めに作って冷凍してあったのだが、予想以上に褒めてもらえた。
「すごい。結がこんなに料理上手になるなんて。こんなに作るの、大変だったでしょう」
「一度に作ったわけじゃなくて、毎日ちょっとずつ作ったの。私もまだまだ上手じゃないよ。メインのおかずとお味噌汁を一緒に作るのでせいいっぱいで、副菜は同時に作れないし」
「でも、こうして作り置きの副菜があるんだから問題ないじゃない。それに、ここまでできるようになったんだから、一度に何品も作れるようになるのも時間の問題だと思うわよ」
母にそう言われると、自分が一年でだいぶ上達した気がして、顔がにやけてしまう。いつも一心さんを見ているから『自分はまだまだ』という気持ちが強いけれど、最初はお味噌汁を作るのにも苦労していたんだから、それを考えたらがんばったよね。
上を見たらきりがないけれど、自分の努力は別に考えて褒めてあげよう。
私の作った料理をおいしそうに食べてくれる母を見ながら、そう思った。