「ふたりそろって見送りなんて、いいのに。今生の別れじゃあるまいし」
店の外までおやっさんを見送りに出ると、からかうようにそう言って苦笑される。
「縁起でもないことを言うなよ」
冗談だったのだろうけれど、一心さんが本気でむっとしているのでおやっさんは戸惑ったようだ。
そして、たしなめるように一心さんの肩をぽんぽんと叩く。
「一心。あのリストは、これからひとりで少しずつ埋めていくよ。お前のおかげで、まだまだ生きることになりそうだから」
「おやっさん、じゃあ……」
一心さんの目が見開かれる。隠せない喜びが声にもにじんでいた。
「ああ。受けるよ、手術。明日、病院の先生に返事をしてくる。ずっと返事を保留にしていたから、先生も気が気じゃなかったろうなあ」
「よ……よかったぁ」
私が涙声でつぶやき、空気の抜けた風船みたいにしゃがみ込むと、一心さんが「大丈夫か、おむすび」と腕をつかんで起こしてくれる。
「す、すみません。ホッとしたら気が抜けちゃって……」
〝前に進むための〟肉じゃが定食を完食してくれたときから、おやっさんが生きるつもりなのはわかっていたが、こうしてはっきり聞かされるまでは不安だったのだ。
「俺もそうだが、おむすびのおかげで反応するのを忘れた」
一心さんも、胸のつかえがとれたような、晴れ晴れとした顔をしていた。
「それと、一心」
おやっさんが、自分よりも背の高い一心さんの肩をがしっとつかんで、真剣な目で見つめた。
「大事な人がいつまでも自分のそばにいてくれるとは限らない。一心、お前も、後悔しないように生きろ」
一心さんは、目を見開いておやっさんの視線を受け止めている。
私にも、おやっさんの言葉が鋭い矢のようにささっていた。大事な人が――一心さんが、いつまでも自分のそばにいてくれるとは限らない。
もし、明日世界が終わるとしたら。明日一心さんがだれかのものになってしまうとしたら。この気持ちを伝えられるのは、後悔しないでいられるのは、今日だけ。
「――わかった」
眉間に力を入れて、一心さんはうなずく。私にはそれが、覚悟を決めたような表情に見えて、心臓が大きく動く。
一心さんは、大事な人と言われて、だれを想像したのだろうか。
「じゃあな。手術が終わって退院したら、また来るよ」
おやっさんは手を振って帰っていく。どっしりとしたその姿が見えなくなるまで、私たちはその背中を眺めていた。
「おやっさんの手術、うまくいくといいですね」
「ああ、きっと大丈夫だ」
私と一心さんは、顔を見合わせる。もう、店の中に入ってもいいのに、膠着状態のようにどちらも動かない。
私――いま、一心さんに伝えなきゃいけないことが、あったはず。
「「……あの」」
意を決して口を開くと、一心さんとセリフがかぶった。
「おむすび、先に言わせてくれ」
「は、はい」
一心さんに真剣な顔で見つめられ、思わずうなずいてしまう。ここは、『大事な話なので』と断って、先に言わせてもらうべきだったのかな。
このあとでもちゃんと告白しなきゃ、と意を決しながら、私は一心さんに向き合う。
一心さんは長々と深呼吸して、しばらくうつむいて目を閉じたあと、私を見た。
こんな、なにかを訴えるような眼差しを向けられるのは初めてで、ドキッとする。
「いきなりこんなことを言われて、戸惑うと思うが……。俺がずっと、考えていたことだ」
深刻な声のトーンに、心臓がうるさく音とたてる。まさか、従業員をクビとか、そういうことではないよね?
「もしそうなったらいいと……。さっきのおやっさんの言葉を聞くまでは、伝える覚悟がなかったんだが」
一心さんはそこでいったん、言葉を切る。
先走って悪い話だと思ってしまったが、一心さんの表情に違和感がある。
少しためらうような……。いや、これは、照れている?
「おむすび」
「は、はい」
思わず、返事をしてしまった。視線が、ぶつかる。一心さんのキレイな瞳から、目が離せない。
「これからも、俺のそばにいてくれないか。その……生きている間、ずっと」
「――えっ?」
私は一瞬、言われたことが飲み込めなかった。
一心さんは、耳を赤くして私の様子をうかがっている。
これは……、もしかして、告白?
「ちょっと一心ちゃん! それって告白飛び越えてプロポーズじゃないのっ!」
私の顔がぶわっと熱くなった瞬間、響さんとミャオちゃんが店の陰から飛び出してきた。
「ひ、響さん、ミャオちゃん! な、なんでここに……」
「響のせいで、見つかった。特殊ミッション、だったのに」
ミャオちゃんがむっとした顔で響さんを見上げる。
「あまりの展開に、つい……」
もしかして、見られていた? いつから?
ふたりはそそくさと、また店の陰に身体を隠して頭だけ出した。
「あたしたちのことはいいから、おむすび、あんたも伝えなさい!」
響さんの言葉にハッとして一心さんを見ると、放心したようにふたりを見ていた。
「おむすび、がんばれ」
ミャオちゃんも、エールを送ってくれる。よく見れば、ミャオちゃんの足下に豆大福もいた。
そうだ。私がずっと、思っていたこと。一心さんも同じ気持ちだってわかった今、ちゃんと言葉で伝えなきゃ。
「私も、同じことを言おうと思っていたんです。ずっと前から、一心さんのことが好きです。一生、そばにいてください」
足下がふわふわしたような、心臓がドキドキして身体が熱いのに、夢を見ている気持ちのまま、一気に伝える。
「……本当、か?」
一心さんは、目をみはっていた。私の気持ちに、本当に気づいていなかったんだなと思いながら、ぶんぶんと首を振る。
「一心、もっとやれ」
「両思いだったんだから、男を見せなさいよっ!」
ミャオちゃんと響さんは、応援をしてるのかジャマをしているのか、やいやいとヤジを飛ばしてくる。
一心さんは、ふう、と息をついて、三角巾を外した。
「あいつらが見ている前なのが癪だが……。おむすび」
「は、はい」
一心さんが大きく前に一歩踏み出して、板前服の胸元が近づいたと思うと、視界がそれしか見えなくなった。
背中に感じる、一心さんの腕の感触。聞こえてくる、一心さんの胸の鼓動。
私、今、一心さんに抱きしめられてる。
やっとこの、あったかい場所にたどり着いた。もうずっとこの腕を離さない。
まぶたが熱くなるのを感じながら、私も一心さんの背中に腕をまわした。
「おむすび、すまない。さっき、ちゃんと伝え忘れていた」
一心さんの胸に顔をうずめたまま、耳元でささやかれる。
「えっ?」
「好きだ」
ぎゅうっと、抱きしめられている腕に力がこもる。こぼれて止まらない涙で、一心さんの板前服を濡らしてしまう。
初めてこころ食堂に来たあの日から、一年半。あのときはこんな幸せな未来なんて、予想できなかった。まるでおとぎ話みたいなハッピーエンド。
「――はい」
私がやっとのことで返事をすると、ミャオちゃんと響さんの歓声が、遠くから聞こえた。
* * *
それから、数日後。関係の変わった私と一心さんだけど、お店ではいつも通り。ちょっと変化があったといえば、仕事が終わったあとにメールや電話をするようになったことと、一心さんが前のように頭をなでてくれるようになったこと。
時間が経つうちに、こんな私たちも変化していくのだろうか。今はそれが楽しみだ。
おやっさんからは、手術の日程が決まったと一心さんに連絡があったらしい。
たくさんあった不安は、今は全部喜びの種に。きっと明日世界が終わっても私は後悔しないけれど、どうかこの幸せな日々が、末永く続きますように。
「一心さん、ちょっといいですか」
閉店時間少し前に、厨房にいる一心さんに声をかける。
「ああ。どうした?」
手を止めて答えてくれる一心さんの表情と声は、心なしか前より柔らかい。
「あの、閉店したあと、作りたいものがあって……。厨房を使わせてもらってもいいでしょうか」
「珍しいな。もちろん、大丈夫だ」
一心さんは、驚きながらもうなずいてくれる。
一心さんに食べてほしくて、告白したあの日から練習していた料理があるのだ。やっと昨夜、思う通りの味が出せるようになった。
閉店作業が終わったあと、私は一心さんが後片付けしている厨房に入って、料理を開始する。炊飯器の中にはまだ、少しご飯があった。
「一心さん、残ってるご飯、使ってもいいですか?」
「かまわない。ほかに必要なものがあれば、冷蔵庫から取っていい」
「ありがとうございます」
ほかに必要なものは、お味噌とみりんだけだ。
私はほかほかのご飯を三角に握り、フライパンで焼く。表面に味噌を塗ると、香ばしい匂いが漂った。
「おむすび、これは……。あのときの」
匂いにつられて近寄ってきた一心さんが、ハッとする。
「はい。最初に出会った日に一心さんが作ってくれた、おばあちゃんの思い出料理です」
味噌とみりんを混ぜた、焼きおにぎり。あの日一心さんがこの味を再現してくれて、ご飯が食べられなくなった私を救ってくれた。
「よし、もういいかな」
おいしそうなきつね色になった、ふたつの焼きおにぎりをお皿に移す。
「一心さん、これを食べてくれませんか」
私の後ろで腕を組みながら、じっと完成するのを見ていた一心さんに、お皿を差し出す。
「俺が食べてもいいのか?」
「はい。これは、私が初めて食べた一心さんの料理で……。おばあちゃんとの思い出の味でもあるんですけど、私にとって、一心さんとの思い出の料理なんです」
一心さんは神妙に私の話を聞いたあと、「いただきます」とつぶやいて、焼きおにぎりを手に取った。
大きくひとくち頬張って、もぐもぐごくんと飲み込んでから、一言。
「もう、俺にとっても思い出の料理になっている」
照れたように微笑む一心さんに、私はめいっぱいの笑顔を返した。
やっと始まった、一心さんとの新しい関係。焦らず大事に育てていこう。そう、ご飯が炊けるのを見守るように。
料理も恋も、ゆっくり丁寧に。一年前に気づけた〝大好き〟の想いは、形を変えて今も私の胸の中にあるから。そして、これからもずっと。
お腹も心もいっぱいになる、この『こころ食堂』で一心さんとふたり、これからもたくさんの思い出を、ふっくら炊き上げていきたい。