駅裏にある公園に入ると、ようやく足を止められた。
ベンチに手をついて息を整える。こんなに苦しいのに、それでも私は死んでいるの?
はあはあ、とあえぎながらしびれた頭で空を見た。あっちの世界ってどこにあるんだろう。
未練解消をしてもしなくても、死んだことには変わりがない。
こんなこと、朝起きたときには予想もしていなかったのに、今ではもう自分が死んだことを受け入れているなんて……。
胸を押さえていると、なにか音が聞こえる。
――キイ……キイ……。
一定間隔で奏でられる金属音に目をやると、ブランコに誰かが座っているのが見えた。
小学生くらいの女の子だ。
ランドセルを背負ったままブランコで揺れている。こんな遅い時間にどうしたのだろう。
心配になるけれど足は動かない。それは、女の子の体から出ている〝なにか〟のせい。黒い炎のようなものがじりじりと体から湧き出ている。
普通じゃない、という判断は正しいだろう。改めて観察すると、遠くから見てもわかるくらい肌が青白い。
決して見つかってはいけない、と本能が教えている。
気づかれないようにそっとあとずさりをする。
「あれが地縛霊だ」
耳元でクロが言ったので、
「ひゃあ」
間の抜けた悲鳴をあげてしまった。
「静かにしろ」
視線を女の子に向けたままクロは低い声で言った。
「あいつは未練解消を拒否した。あの場所に永遠に縛りつけられてしまった魂だ」
「ずっとあの場所で……?」
逃げてきた相手のはずなのに、スーツの腕をつかんでしまう。うしろにシロもいるけれど、走ってきたせいで息も絶え絶えになっている。
「今はまだ大人しいが、そのうち近づく人間にとり憑こうとするだろう。そうなる前に消えてもらうがな」
「そうなんだ……。かわいそうに」
「かわいそう?」
とがめる言いかたに、ようやく彼の体から離れた。
「あんなに小さな子なんだよ。かわいそうじゃない」
「未練解消を拒否したから仕方ない。何度説明しても泣いてばっかりでどうしようもなかった。俺は悪くない」
ふん、と胸を張るクロ。ということは、彼が担当だったのだろう。
こういう人っているな、と思った。なにか問題が起きたときに自分の正当性をまず主張してくる人。
そして、私はそういう人にはなにか言ってしまう性格だ。
「それはクロの努力が足りなかったんだよ」
「――クロ?」
きょとんとするクロに人差し指を向ける。
「その見た目としゃべりかたで怖がらない人なんていない。いい? 人は見た目で判断する生き物なの。クロはもう少し接遇マナーを学ぶべきだよ」
「待て。クロってのは俺のことか?」
うしろでシロが「プッ」と噴き出している。
ギロッとひとにらみしてから、クロはふんと鼻を鳴らした。
「呼び名はなんでもいい。とにかく未練解消をしないと、お前もあの姿になるんだ。わかったな?」
「わからない」
「いい加減、自分が死んだことくらい認めろ」
「認めたくなんかないよ。だって、さっきまで生きてたんだよ。それなのにこんな状況、普通に受け入れられないよ。お父さんとお母さんと話ができないなんて、そんなの嫌」
気持ちは振り子のように揺れ動く。さっきは受け入れていたはずなのに、人から言われると認めたくない気持ちが大きくなる。
キュッと口を結ぶと、クロが私に近づくのが視界の端に見えた。
「それなら、なんでこれまでの間にちゃんと話をしなかった?」
「え?」
なんのこと?
固まる私に、これみよがしなため息が聞こえた。
「人間なんていつ死ぬかわからない。たとえば心臓発作が起きれば一瞬でこの世と別れなくちゃならん。毎日、一分一秒を大切にしてきたのか? 親にちゃんと気持ちを伝えてきたのか? 普段できていないくせに、最後だけやろうとするのが間違いなんだよ」
これまでと違い、クロはやけに静かな口調で尋ねてきた。
「毎日の生活のなかで、いちいち気持ちなんて伝えるほうがおかしいよ」
「結局、人間はタイムリミットが設定されないと素直に気持ちを言葉にできない生き物なんだ。だから、未練が残る。俺に言わせると怠慢、怠惰、エゴ、おろか者ってとこだ」
言葉に詰まるのは思い当たることがあるから。
でも、毎日感謝の言葉を言い続ける人なんているわけがない。
そんなの、私だけじゃなくみんなそういうものでしょう?
「言いたいことはわかるよ。でも、やっぱり未練解消なんてできない」
「お前はここまで俺が親切に説明してるのに……」
「そもそもなんで私は死んだの? なにがあったの?」
思い出そうとしても記憶がごちゃごちゃになっている。覚えているのは夕焼けの景色だけ。そのあとは病院にいたわけだし……。
自分が死んだ原因もわからないのに、未練解消なんてしたくない。
「じゃあ勝手にしろ」
「勝手にする」
プイと歩きだす私に、
「七海ちゃん待って!」
シロの声が追いかけてくる。
「お願いだからクロさんの言うことを聞いてください」
「お前までクロって呼ぶな!」
クロが恫喝しても私は足を止めない。嫌だ。絶対に未練解消なんてしない。
シロが私の前に立ちふさがり両手を広げた。彼の白い服の裾がスカートみたいに風にひらめている。
「どいてよ」
「どかない。だって、ちゃんと未練を解消してほしいから」
まっすぐに私を見るシロの目からまた涙があふれている。夜の暗闇でもわかるくらいに大粒の涙がぼとぼと落ちている。
「どうして……泣くの?」
「僕は、未練解消のことはまだわかりません」
「新人だからな」
茶化すようにクロが言うと、シロはまた涙に顔をゆがめた。
「でも、ちゃんと七海ちゃんには未練解消をして旅立ってほしい。そうじゃないと、地縛霊になっちゃう」
「別にいいよ。死んでしまったなら関係ないでしょ」
「違うよ。全然違う。地縛霊になって、お父さんやお母さんに悪い影響を与えてもいいの?」
「悪い影響?」
「そうだよ。ふたりに憑りついたり、悪い出来事をもたらしたりするかもしれないんです」
そっか……、私が地縛霊になったらふたりに迷惑がかかってしまうんだ。
「それは……嫌かも」
張り詰めた空気が緩む。
「クロさんも、ちゃんと未練解消をさせるって約束したじゃないですか」
「だからクロって呼ぶな! いいか、見習い、よく聞け。これは慈善事業じゃない。俺は仕事としてやっているし、情なんて感情は、何百年も前に捨てたんだ」
「でも……」
「うるさい。消すぞ」
「僕はどうなってもいいんです。でもこれ以上、七海ちゃんを苦じませないでぐだばい」
涙でなにを言っているのかわからない。けれど、シロがやさしいことはわかった。それなのに……。
クロをじとーっとにらむと、バツが悪そうな顔に変わった。
「……んだよ。俺が悪者かよ」
「そうじゃない」
気づけばそう言っていた。
「クロが悪いわけじゃない。だけど、非日常すぎて頭がついていかないの」
涙が出れば少しはラクになるのかな。こんなときなのに泣けないなんて、きっと生きているときから感情のバランスがおかしかったんだ。
未練解消なんてしたくないのは変わらない。
でも、お父さんとお母さんが苦しむのは嫌だ。
どっちにしても私が死んじゃったことに変わりがないなら、できることをしなくちゃ……。
しばらく小さく呼吸をくり返したあと、ありったけの勇気を出して口を開いた。
「未練解消……やってみる」
「ほんと!?」
ぱあっと顔を輝かせるシロ。
「できるかどうかわからないけど、やってみる」
「やった! 僕もできる限り協力するから、一緒にがんばろうね」
まるで自分のことのようによろこんでいる。
あまりにもうれしそうな笑顔に、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
「……まあ」とクロが鼻の頭をかいた。
「七海に両親への未練がないわけではない。ただ、最後に願ったのがそれじゃないだけだ」
彼なりにフォローしてくれているのだろうか?
そこでふと気づく。
「そういえば、ハチには私の姿が見えていたよ」
家に帰ってからのことを思い出して言う。
「ハチ? ああ、あのかわいくない犬か」
吐き捨てるように言うクロに、シロが「クロさん」と顔をあげた。
「七海ちゃんのことが見えていたってことは、ハチが未練解消の相手ということですよね?」
「まあ、未練のうちのひとつだろうな。でも、あいつの体からの光はそれほど大きくなかったし、七海の体も光ってはいなかった。本命が別にいるのは間違いない」
ふたりの会話についていけず「光?」と尋ねた。さっきもそんなことを言っていたような気がする。
「未練解消の相手の前に行くと相手の体が光る。体を包みこむような光だ。相手からお前の姿は見えるようになるが、未練を解消したらそいつの記憶からお前のことは消えてしまう。本当の未練解消ならば、そのときにはお前の体も光るだろう」
さっきハチは光っていたっけ? 私の体はどうだったのだろう?
ついさっきのことなのにもう覚えていない。
霊は記憶を失いやすいのだろうか……。
「ハチとの未練についても考えてみながら、ほかの人にも会ってみようよ。きっとすぐに本当の未練解消の相手が見つかるから」
明るいシロの声に励まされる。
「うん……シロ、ありがとう」
「お前の名前、シロだって」
茶化すクロ。シロはうれしそうに目を細めてくれた。
「名前をつけてくれるなんてうれしい。七海ちゃん、ありがとう」
やさしい彼に、凍えた心が温められた気分になった。
「ねえクロ」
「なんだ?」
「おばあちゃんは……元気でいるんだね?」
「今のところはな」
「よかった……」
安堵のため息がこぼれると同時に、なんだか視界がぼやけた。
目をこすりたくてもなんだか体の力が抜けたみたいに動かない。
「変なやつだな。自分が死んだのに人の心配してる場合かよ。そういうところがお前の弱さであり――」
あたたかい空気に包まれるのがわかる。どんどん眠気が体に広がっていくみたい。
その場にぺたんと座ると、ふたりが顔を覗きこんできた。
「あれ、どうしよう……。すごく眠い」
そう言いながら、気づくと地面に体を横たえていた。
土の感触が頬に冷たくて気持ちがいい。
「疲れたんだろ。あまり体力なさそうだもんな」
「僕たちが家まで運びますから安心してください」
ふたりはまるで真逆の性格だ。
どんどん世界が黒く染まっていくみたい。
ひどく眠い、眠いの。
「ねえ、クロ」
「ん?」と顔を向けたクロが闇に消えていく。
眠りにつく前にどうしても伝えたいことがあった。
「お願いがあるの。ブランコの女の子、苦しまないように……」
あの子の幸せをただ願った。
「ああ、俺に任せておけ」
クロの言葉に安心すると同時に、世界は闇に包まれた。
【第二章】
想いは雨に負けて
目が覚めると同時に、幸せな感覚に包まれることがある。
それは遠足の朝だったり、家族旅行中だったり、夏休み初日だったり。
今朝目を覚ました瞬間にも同じような気持ちがぶわっとこみあがった。
「夢……だったんだ」
悪夢が終わったんだ、と思うと同時に安堵のため息がこぼれた。
そうだよね。私が死ぬなんてありえないよ。ヘンな夢を見たわりには、心も体もすっきりしている。
昨夜は制服のまま寝てしまったみたい。薄暗い部屋で時計を確認すると、まだ四時半すぎ。窓からの景色は夜のままだ。
一階へおりると当然のことながらお父さんとお母さんは起きていなかった。
それにしても変な夢を見たな……。
クロとシロが出てきて、私が死んだと告げる夢。
やけにリアルだけど、あまりにも非現実な設定の夢だった。
リビングの電気をつけると、まぶしくて目がクラクラした。
でも、昨日あったはずの頭痛はもうなかった。
体調が悪いせいで悪夢を見てしまったのかも。なんにしても幸せな気持ちになれたからよしとしよう。
あれ……。頭痛は夢のなかの出来事だったっけ?
雨戸を開けると、庭にいるハチが私を見つけてうれしそうに尻尾を振っていた。
「おはよう、ハチ」
外用の草履を履いてハチのもとへ向かおうとして、
「え……」
足を止めた。
ハチの茶色の体から金色の光が出ている。
駆け寄って確認するけれど、窓から漏れる照明よりもキラキラした光が、ハチの体から生まれている。
色は違うけれど、まるであの公園の女の子みたい……。
じゃれてくるハチの頭を無意識になでながら、昨日の出来事が夢じゃなかったことを知る。
たしかに感じていた幸せな気持ちは、波が引くように去っていく。
「ハチ……私は、死んだの?」
「いい加減慣れろ」
「えええっ」
一瞬ハチがしゃべったのかと思ったけれど、そんなはずがない。振り向くといつの間に来たのか、クロが悠々と塀の上に腰かけていた。
夢じゃなかったんだ……。
「そんな……やっぱり私は死んだの?」
ショックのあまりへなへなと庭に座りこんでしまう。
「最初の二、三日はみんな状況を理解できずにパニックになる。なに、すぐに慣れるさ」
そんなこと言われても慣れたくなんかない。
ハチはまだ尻尾を振って遊びたそうにしている。
「やっぱりハチには私が見えるんだね」
「未練解消の相手なんだろうな」
「動物が相手ってこともあるの?」
「まあな」
ひょいと塀からおりると、クロが近づいてくる。
「珍しいことじゃない。やっかいなのは逆のパターンのときだ。動物の未練解消の相手が人間だとかなり手こずる」
「へ? 動物にも未練解消があるの?」
「当たり前だろ。そういうところが人間の傲慢なところだ。俺からすれば、お前ら人間だってこの犬となんら変わりない」
「そうなんだ……」
ハチはごろんと横になるといつものようにお腹を見せてきた。
わしわしとなでまわしていると、リビングにお母さんの姿が見えた。
「ねえクロ。お母さん、なにしてるの?」
そう聞いたのも無理はないと思う。お母さんはすでについているのに、部屋の電気のスイッチを押し、さらに窓とシャッターを開けるジェスチャーをしているから。
「お前はもう半分この世界にいない。さっきつけた電気も開けた雨戸も、母親のいる現実世界ではされていないことなんだ」
「じゃあ、お母さんは今本当に電気をつけたりしたってこと?」
「そうなる」
ああ、だからか……。
昨夜、玄関のチェーンをかけたはずなのに、お父さんが家に入れたのもそのせいだったんだ。
お母さんは雨戸を開けたあと、なぜか動きを止めてじっと私を見てきた。
「お母さん……」
ひどく疲れた顔をしている。
そうだよね。娘が亡くなったんだもの、つらいよね。
「お母さん、私ここにいるんだよ」
そばに寄るけれど視線が合わない。やがて、お母さんはため息を残して部屋に戻ってしまう。
目の前で閉められるガラス戸に傷ついている私の顔が映っていた。
「もう二度と、お母さんと話をすることはできないんだね……」
「あっちの世界で待っていれば、いつかは再会できる。母親の幸せを願っていればいい。間違っても地縛霊になんてなるなよ」
初対面のときよりも若干声がやさしくなったように思えるのは、私の気のせいかな。
ううん、私のほうが慣れたってことなのかも。
「ほら、いいからその犬っころと遊べ」
「え?」
「お前の未練はどうせ、犬と遊ぶとか散歩に行くとかだろ。なんでもいいからやってみろ。ひょっとしたら、本命かもしれない。お前の体が光れば成功だ」
そっか……。まだ寝転んでいるハチに手を伸ばしてからふと疑問が生まれた。
「でも、散歩とかはどうなるの? 周りの人から、ハチがひとりで町を歩いているように見られない?」
住宅街をハチが歩く姿が目に浮かんだ。
周りから私の姿は見えないとしたら、リードが宙に浮かんでいるように見えてしまうんじゃないかな……。
「今説明したことだろうが。お前がやった行動はぜんぶこっちの世界にいる人間には見えないんだよ。犬と散歩しようが、関係ない」
あ、そっか……と納得してから気づく。
「あれ、今日はシロはいないの?」
「どうせ寝坊だろ。新人のくせに情けない」
「私のせいだよ。駄々をこねて夜中まで引っ張りまわしたんだから。怒らないであげてね」
お願いをすると、クロは意外そうに目を丸くした。
本当に驚いているような顔をしていて、なにかヘンなことを言ったのかと心配になった。
やがてクロは静かに首をかしげた。
「七海は昔からそうなのか?」
「どういうこと?」
「自分のことより人のことばっか心配しているだろ? 疲れないのか?」
ああ、そういうことか。
「昔からそうだったし、別に疲れないよ」
にっこり笑って言うと、クロはもっと不機嫌な表情になってしまう。
「明るい顔でごまかして、自分の言いたいことは言えない。そんなんだから、未練が残るんだよ」
「そんな言いかたひどい。クロみたいに『俺は間違ってない、正しい』って人ばかりだと、そっちのほうが大変そうじゃん」
「俺はそんなこと、一度たりとも言ったことがない」
「はいはい」
軽く答えてからハチの前で膝をかがめる。
「とりあえず、散歩に行こっか」
ハチは理解したのか、激しく尻尾を振ってよろこびを表現した。
――明るい声でごまかして、自分の言いたいことは言えない。
クロに言われた言葉が頭のなかで回っている。
そんなことわかってる。ずっと前からわかっているよ。
いつもの散歩コースは堤防沿いのあぜ道。
朝早いせいか、歩いている人はそんなにいなかった。
徐々に明るくなる空は、紫色から夕焼けに似た朱色へ変化していく。
生きているときはこういう美しささえ、素通りしてしまっていた。
それに気づけるなんて、私もだんだん死を理解したってことなのかも。
「ハチ」
声をかけると歩きながら振り向くハチ。ぷるぷる尻尾を振っている。
「私ね、死んじゃったんだって」
クロは仕事があると言ってついてこなかった。
この世には、あっちの世界との中間にいる人がさまよっている。
未練の内容がわからない人たちは、とりあえず日常生活の続きを送っているのかもしれない。
私だってそうだ。
生きているときとなにも変わらず、ハチと散歩しているのだから。
土手を抜けると橋がある。
その交差点の向こうにある公園に寄るのがいつもの散歩コース。なのにハチは橋の手前でくるりと向きを変えた。もう満足したらしい。
家に戻ると首のリードを外し、庭にある紐につけかえた。
ハチの体からはまだ金色の光が朝陽にキラキラ輝いている。
頭をなでると目を細めてハチはうれしそう。
「私の未練ってなんだと思う? ハチと散歩をするだけじゃないみたいだね」
はっはっと舌を出すハチに問いかけた。本当の未練解消の相手に会えば、自分の体も光ると聞いたっけ。その兆候は、今のところ見られない。
「本当の相手って、誰なんだろう……」
頭に浮かぶ顔はそんなに多くない。
お父さんでもお母さんでも、ハチでもなかった。そもそも、死ぬ最後の瞬間に願ったことなんて覚えていない。
そこでふと気づいた。
あれ……私はなんで死んでしまったのだろう?
ハチから目を逸らし、ぼんやりと立ちあがった。
家のなかに入ろうとすると、ちょうどクロが戻ってきたところだった。
「ねえクロ」
「なんだ? 未練の内容を思い出したか?」
ううん、と首を横に振ってから、
「私ってどうやって死んだの?」
そう尋ねた。
「どうやって? 心臓が止まったからに決まっているだろう」
「そうじゃなくて、なにが原因だったの? 昨日いったいなにがあったの?」
するとクロは「知らん」とそっけなく言った。
「未練解消のためには自分で思い出さないといけない決まりになっている。他者からの情報は余計に混乱するだけだからな」
「自殺? 他殺? 病気? それとも事故?」
「俺の地球語が変なのか? 自分で思い出せ、と言っているんだが」
食い下がっても答える気がないらしく、さっさと門へと歩いていく。
「ほら、早くしろ」
「もう行くの? どこへ?」
追いかけながら尋ねる私に、クロは口をへの字に曲げた。
「お前は質問ばかりだな」
「だって、まだ全然受け入れられてないんだもん」
ぶうと膨れる私にクロは両腕を組んだ。
「いつもと同じように行動して、そのなかから未練解消の相手を見つけるしかない。いつものお前ならなにをしている?」
いつもの私……。
「朝ご飯を食べる」
「食わんでいい。それに家のなかに未練はないんだから意味がない」
「そんなに急がなくても、まだ残り四十八日もあるんでしょう?」
「早ければ早いほどいいんだよ。目標は今日だ」
どうやらクロはそうとうせっかちな人間みたい。
あ、人間じゃなくて案内人か。
「とりあえず、お前は高校生っていう職業なんだろ? その高校とやらに行け」
「職業じゃないし――」
と言いかけて、ふいに思い出した。
そうだ、私、高校生だっけ。いろんな記憶がマーブル模様みたいに混ざり合っている感覚だった。
今は、四月。高校二年生になったばかり。
そこまで思い出しても、どんな学校だったのか、どんな友達がいたのかすら思い出せない。
「ねえクロ。記憶が迷子になっているみたい」
「ああ」とクロは軽くうなずいた。
「そういうもんだ。でも、体が覚えているから歩いていればそのうち着くだろ」
「そのうち、って……遅刻しちゃうじゃん。そっか……みんなからは見えないんだ」
言いながらまた自分で傷ついている感覚。
こんなことを何度もくり返すのかな。
歩きだすクロに手ぶらでついていく。通学バッグもスマホも私には意味のないアイテムになってしまった。
ああ、だから昨日はスマホの電源がつかなかったのか。
家の前に出ると、勝手に足が右に進んでいた。体が覚えているってこういうこと?
「学校に着いたらなにをすればいいの?」
隣を歩くクロに尋ねた。
並んでみると、彼の身長が想像以上に高いことに気づいた。
横顔もクールでかっこいい。イケメンというだけでなく、落ち着いた雰囲気が大人っぽく見せている。
「アホ」
だけど、態度や口の悪さが長所を消している。消すどころか、思いっきりマイナス査定だ。
口のなかでブツブツ文句を言う私に構わず、クロは続ける。
「いつものようにしていればいい。ただし、誰かの体が光りはじめたら注意しろ。すぐにその場から離れるんだ」
「なんで離れるの?」
「そんなこともわからないのか。やっぱり人間は低能な生き物だな」
どんなにイケメンでも、言葉づかいが悪いからモテないと判断した。
ムッとして前を向くと、クロは「ああ、もう」とあきれた声を出した。
「光った相手からはお前の姿が見えてしまう。学校なんかで見えたら、それこそパニックになるだろ? そいつがひとりになるチャンスを待って話しかければいい」
なるほど、とうなずく。