「ハチ!」
「もう肉体はお骨になっている。この一カ月半の間、七海が見てきたハチは幻なんだよ」
「そんな……」
死んだのが私じゃなく、ハチだったなんて……。
そこでふと気づく。
「じゃあ、どうして私は未練解消をしなくちゃいけなかったの?」
そうだよ、新聞記事では私は意識不明の重体と書かれていた。
まさか、という考えが頭をよぎる。
「本当は、ほかの人も亡くなっている……の?」
「それは前にも否定したはずだ。みんな生きているよ」
「じゃあおかしいじゃん。誰も死んでいないのに未練解消するなんておかしいよ」
わけがわからない。なにもかもが夢だったらいいのに。
まだあふれる涙を拭う私に、クロは迷ったように視線を落とした。
「未練解消をしていたのはお前じゃない。ハチのほうだったんだ」
「え……ハチが?」
ああ、とうなずいてからクロがハチの小屋を見おろした。
「前にも言ったが、俺は動物の未練解消も担当している。ハチはお前のことが本当に大好きだった」
言葉が出てこなかった。
しゃくりをあげて泣く私の頭にクロはぽんと手を置いた。
「動物の勘ってのは鋭くて、人間が思う以上に飼い主を大切に思っている。ハチの未練は、七海が後悔なく毎日を過ごしていくことだった」
「後悔……? それってどういうこと? わからない。わからないよ……」
ふ、と笑ったクロが、私の頭に置いた手を離すと、門のあたりへ視線をやった。つられるように私も見る。
そこに立っていたのはシロだった。
「シロ……」
その名を口にした瞬間、ふわりとなにかが視界に入った。
私の体から金色の光が揺らめいている。
手のひらも、胸も、つま先も、体全体が炎のように燃えていた。光はキラキラと輝いていて、これまで見た光の何倍も大きい。
「え……」
同じようにシロの体も燃えている。クロを見ると、やさしい笑みでうなずいている。
「シロってやつは俺の部下でもなんでもない。あいつが、ハチなんだよ」
シロがゆっくりと近づいてくるのを呆然として見る。
「七海ちゃん、ごめんね」
そう言うシロの瞳にはもう涙がいっぱい浮かんでいた。
「シロが……ハチだったの?」
「うん。クロさんにお願いして、姿を変えてもらったんだ」
「どうして……? ハチは自分の命を捨ててまで私の命を助けてくれたの?」
震える声で尋ねる私に、シロは静かにうなずいた。
「そんな……。私はハチと一緒に生きたかったよお……」
信じられないよ。あんなに元気だったハチがもうこの世にいないなんて。
私のせいで死んでしまったなんて!
「七海ちゃんが元気でいることが僕の願いなんだよ」
「どうして姿を変えてまで……? だって命を助けてくれただけでも十分だったのに……」
それ以上は声にならずにうつむく私の手をシロはギュッと握った。
「僕の未練が七海ちゃんにある、ってクロさんに言われたんだよ」
「しょうがないだろ。それが決まりなんだから」
非難されたと思ったのかギロッとにらんだクロが、
「それにしても難易度の高い未練だった」
そう言った。
「ハチはな、お前が最近元気がないことを知っていた。だから、死ぬ瞬間にも七海のことを心配していたんだよ」
「そうだったの?」
シロは白い袖で涙を拭きながら、何度もうなずいている。
「七海ちゃんには僕がいない毎日になっても、元気で過ごしてほしかった。だって、僕たちは姉弟だから。七海ちゃんはよく『泣けない』って悩んでいたでしょう? 僕が未練解消をするなかで、七海ちゃんが泣けるといいなって思ってた」
そうだったんだ……。
ずっとハチは私のことを心配してくれていたんだ。
死んでしまってもなお、私のことを……。
「でも、僕も弱虫だね。未練解消をしていくなかで、少しでも長く七海ちゃんのそばにいたくなって、邪魔するようなことを言ったりしちゃった」
ああ、おばあちゃんの病院に行きたがらなかったのもそういう理由だったんだ……。
「そんなことないよ。ハチはいつも応援してくれて――」
言葉にならず涙が一気に頬を伝った。拭うこともせず、シロの体を抱きしめる。
おひさまのにおいがする。私が大好きだったハチのにおい。
「クロさんありがとう。僕の未練は解消できました」
「大変だったぜ。未練解消をしてほしい相手が意識不明だもんな」
私は名残惜しくシロから体を離し、クロへ体を向けた。
「毎日のなかにある後悔を消すために、私は未練解消をしていたの?」
「そんなところだ。意識不明の魂を無理やり走りまわせて悪かったな。でも、おかげで本当の涙を流すこともできたからよしとしよう」
頬に手をやると、まだ涙で濡れている。
これが、本当の涙なんだ……。
「そろそろ時間だ」
クロの声に気づく。
私とシロの体から出ている光は徐々に弱くなっている。
「嫌! お願い、行かないで!」
なのに、目の前のシロはうれしそうに笑っていた。
「僕は満足だよ。だって、七海ちゃんが今ある未練を解消してくれたんだもの」
「でも……」
「最後は笑顔でさよならしたいな」
嘘だ。
だって、シロだって笑いながら涙をぽろぽろこぼしているもの。
子供のころからいつもそばにいたからわかるよ。だって、私もこんなに悲しくて愛おしい。
だけど、だけど……!
今度は私が彼の不安を取り除いてあげたい。
ハチが安心してあっちの世界へ行けるように笑顔で……。
鼻で何度も息を吐いてから、私はほほ笑んだ。
うまく笑顔を作れているかはわからないけれど、シロは白い歯を見せてひまわりみたいな笑みを返してくれた。
「七海、よく聞け」
クロがそばに立って言った。
「明日の朝、お前は目を覚ます。体は外傷があるが、それもじきに治る」
「うん」
「これからの人生、しっかり生きろよ」
「わかった」
うなずく私にクロは口をへの字に曲げた。
「やけに素直だな」
「だって、たくさん助けてくれた。ハチを人間の姿にしてくれたのも、クロなんでしょう?」
「なにかと面倒くさい犬だったからな」
ふん、とそっけなく言うクロはやさしい人だ。感情がないなんてのも、きっと嘘だったんだろう。
「そうですよ、クロさんはやさしい人なんです」
私の考えを読むようにシロが言った。
「だよね」
クスクス笑う私たちにクロは、
「うるさい。もう行くぞ」
と右手を挙げた。
白い煙が生まれる。
最後まで笑顔のまま、涙は見せずにいよう。無理をしているんじゃなく、それが私たちのためだと思えた。
「ハチ、元気でね」
「うれしい。最後にハチって呼んでくれた」
「クロも、本当にありがとう」
「もう俺と会うことがないよう、未練が残らない生き方をしろよ」
煙はふたりを包んでいく。
「ありがとうハチ! ありがとうクロ!」
私、がんばるから。これからの人生、きっとがんばって生きていくから!
ふたりの姿が見えなくなる。
やがて煙すら消えると、すべてが嘘だったみたいに静かな夜があった。
どこからともなく眠気がおりてくるようだった。
ハチの小屋を抱きしめて目を閉じる。
遠くなる意識のなかで、ハチの鳴き声が聞こえた気がした。
どこかで鳥が鳴いている。
まるで私に早く起きろと言っているみたい。
ゆっくり目を開けると、見たことのない天井があった。
ここは……病院だ。
やわらかい光が病室に降り注いでいる。
長い夢を、見た。ううん、夢なんかじゃないよね。きっと本当にあった出来事なんだ。
自分でも驚くほど素直に受け入れていることに驚きながら、上半身を起こした。
筋肉痛に似ている痛みにうめきながら、なんとか窓に目をやると、朝日が窓の向こうに顔を出していた。
今ならわかる。
最初にクロと会った日にいた病院は、ハチが診てもらっていた動物病院だ。
おばあちゃんが死んだと思いこんだ私。死んだのは私だと言ったクロ。
でも、本当に死んでしまったのは、ハチだったんだね。
もしも本当のことを知っていたなら、あんなふうに自分の未練解消はできなかったと思う。クロの選択は正しかったんだ……。
――ガシャン。
なにかが割れる音がして目をやると、
「七海……?」
目を大きく見開いた愛梨が立っていた。
「愛梨」
「嘘……。七海、七海!」
突き飛ばすように抱きしめられた。
「目が覚めたんだ。よかった……。ね、あたしのことわかる?」
興奮している愛梨に、「うん」と答えた。
けれど愛梨はもう泣きじゃくっていた。
「あたし、七海が死んじゃうんじゃないかって! なんかそんな予感がしていたの。七海にお別れを言われたような気がして……」
ああ、私が愛梨に会って未練解消をしたせいだとすぐにわかった。記憶は消されても感情は残るのかもしれない。
愛梨が短い叫び声をあげて、体を離した。
「大変! おばさんとおじさんも呼ばなきゃ。さっき売店で会ったんだよ!」
慌てて出ていこうとする愛梨の腕をつかんだ。
「え? どこか痛い?」
「ううん、違うの。あのね、愛梨、本当にありがとう」
「……七海?」
「私、愛梨がいてくれてよかった。こんな素直じゃない私と友達でいてくれて、本当にありがとう」
ぽかんとした愛梨が、ゆっくりと人差し指を私に向けた。
「ね……七海、泣いてるの?」
「愛梨だって泣いてるじゃん」
冗談ぽく言いながら頬に手を当てると、指先に涙が触れた。
ねえクロ。
本当の涙ってすごいね。
悲しみとか苦しみ、うれしさやよろこび、いろんな感情が涙になるんだね。
泣くことで、後悔や未練は体から出ていくのかもしれない。
「と、とにかく呼んでくるから!」
飛び出していく愛梨を見送ってからサイドテーブルを見た。クラスメイトの寄せ書きや写真が飾られている横にスマホがあった。
電源を入れると、侑弥からのメッセージが何十件と届いている。どれも連絡が取れなくなった私を心配する内容で、彼の気持ちが詰まっていると思った。
メールで入院していることを告げると、【すぐに行く】と数秒で返事がきた。
侑弥に会ったら、告白の返事をきちんとしよう。
点滴の管に気をつけながらベッドから出て、窓辺へ行くと、町は太陽のもと輝いて見えた。
瞳にまぶしく、幸福に満ちあふれて映っている。
「ぜんぶ、ハチが教えてくれたことだね」
もう一度、ハチに会える日が来たなら、私はこの世で起きたことをたくさん話そう。
ハチはきっと少年のような瞳を輝かせて聞いてくれるはず。
それまでは私らしく、元気で毎日を過ごそうと思う。
待っていてね、ハチ。
いつか、私が眠りにつく日まで。
【完】