「二十一時三十分、ご臨終です」
医師の告げた言葉はひどく事務的だった。
今後の流れについて説明する声が、耳の上を滑り落ちていく。
隣を見ると、お母さんがくしゃくしゃになったハンカチを顔に押し当て首を横に振っている。何度も、そう何度も。
お母さんの漏らす嗚咽が小さな部屋でぐるぐる回っているみたい。
私は……、私は。
握りしめていたこぶしを開き、こめかみに手をやった。
ひどく、頭が痛い。
締めつけてくる痛みは、秒ごとに強くなっていく気がする。長袖の制服なのにすごく寒くて、部屋のなかにいるのに呼吸が白く漏れている。
「ごめん。ちょっと外に行ってもいい?」
泣いているお母さんは余裕がないらしく、なにも答えてくれなかった。
「すぐ戻るから」
そう言い残し病室を出ると、目の前に知らない男性が立っていた。
最初は影が立っているのかと思った。それは彼の服装のせい。
黒いスーツ姿に黒シャツとネクタイ、靴も同じ色だったから。
もうお葬式業者が来たのかな、とぼんやりした頭で思った。
体を横へずらすけれど、男性はそのままじっと私を見つめてくる。
「誰か亡くなったのか?」
低い声が薄暗い廊下に響いた。
「え?」
「亡くなったのは、誰だ?」
高校二年生になったばかりの私にだって、彼がエラそうな態度であることはわかる。
「……祖母が亡くなったんです」
なんとか言葉を出すと、男性は肩をすくめた。
「そっか」
「あの……祖母のこと、よろしくお願いいたします」
頭を下げる私に答えず、男性は病室へ入っていく。
部屋から逃げ出してきたような罪悪感に、思わずため息が出た。
細い廊下を歩けば、夜の病棟は静かで足音さえも静寂を破らない。
ロビーへ着くと、すでに照明は落とされていた。受付の奥にある事務室でパソコンを打つ看護師さんのうしろ姿が見えた。私がいることには気づいていないみたい。
誰とも話す気になれないからちょうどよかった。
長椅子に座って薄いピンクの壁をぼんやり眺めていると、誰かが隣に座った。
さっきの葬式業者だ。
頭の先からつま先まで黒で統一されているせいで、影のように思える。
「誰か亡くなったのか?」
また同じ質問をしてくる男性を不思議な気持ちで眺めた。
この人は、誰?
「だから祖母が――」
「本当に?」
長い足を組む男性に、ようやく感情が動きはじめる。
失礼な人、失礼な言いかた、失礼な態度。
悲しみよりも怒りが一気に大きくなる。
「どういう意味ですか? あなたは誰なんですか?」
「強気なんだな」
ニコリともしない男性の顔を改めて見る。
二十代半ばくらいか、切れ長の目に、意志を感じられる鋭角の眉、薄い唇は長めの前髪によく似合っている。
サイドは耳が隠れるくらいで無造作に散らしてある。
イケメンというか、かなりかっこいいのはたしかなこと。
でも、決して友好的ではない態度は大きなマイナスポイントだ。
「なにを言っているのかわかりません。もう放っておいてください」
ありったけの拒絶をこめて言うけれど、気にする様子もなく男性は長椅子に体ごともたれて天井を仰いだ。
「放っておきたいのはやまやまだけど、これも仕事だし仕方がない」
「すみません、看護師さん」
事務室にいる看護師さんに助けを求めるけれど、聞こえなかったのか振り向いてくれない。
「看護師さん!」
大きな声を出しても、彼女はまるで気づいていない様子だった。
「なあ、七海」
男性の声に、信じられない思いで隣を見た。
「え……? なんで私の名前を知ってる、の?」
感情の主な成分は、怒りよりも恐怖へと変わっている。
逃げようとしても、男性の瞳に縛りつけられたみたいに動けない。
真っ暗な瞳は、黒よりも果てしなく濃い色でブラックホールのよう。
「思い出せ」
低い声がそう命令した。
「思い出す……ってなにを?」
「ぜんぶだ」
「ぜんぶ……」
くり返すことしかできない私に、男性はすっと息を吸う。
そうして、はっきりとした口調で告げた。
「亡くなったのは祖母じゃない。雨宮七海、お前なんだよ」
と。
病院の外は、夜の景色に落ちていた。
さっき夕暮れを見た気がしていたのに、いつの間に時間が経っていたのだろう。
私は……なにをしていたんだっけ?
思い出そうとするそばから頭が痛みを生んだ。
振り返らず早足で急げば、春の風はまだ寒くて季節が戻ったみたい。
口からこぼれる白息をうしろへ流しながら病院を振り返っても、もう看板のほのかなライトが見えるだけだった。
それにしてもさっきの人は、いったい誰だったんだろう……。
不審者、というキーワードがすぐに頭に浮かんだ。
そうだよ、そうに決まっている。
初対面の葬儀屋が私の名前を知っているなんて怖すぎる。それに、家族が亡くなったときにあんな冗談を言うなんて信じられない。
私が死んだ?
まさか、と少し笑ってから不謹慎だと口を閉じた。
手足はちゃんと動いているし、アスファルトを踏む感覚もあった。
ああ、お母さんに声をかけずに病院を出てきてしまった。
一瞬足を止めかけて、さらに速度をあげた歩きだす。
もう一度あの男性に会うのは怖すぎる。とにかく家に戻り、お母さんにはそれから連絡をしよう。夜に制服で歩いているのはまずいだろうし。
角を曲がると、見慣れた街並みが広がっていた。
悲しみの実感はまだ、ない。
それよりも、お父さんとお母さんにどんな声をかけてあげればいいのかわからない。
おばあちゃんはお父さんにとっては実の母親だし、お母さんとの仲もすごくよかった。どんな言葉を伝えても、慰めにはならない気がする。
家が近づくにつれ、だんだん気持ちが落ちこんでくる。
――大好きなおばあちゃんが亡くなったというのに、どうして泣けないんだろう?
昔からそうだった。
家でも高校でも、私はいつだって明るい雨宮七海だったから。
演じているわけじゃないけれど、そうすることが普通になっていた。
よく少女漫画とかでは、〝あれは本当の私じゃない〟なんて設定になりがちだけど、私の場合は本当の自分すら見つけられていない。
いつも笑っていて、お笑いでいうとツッコミ担当。
人と話をするのが大好きだけど、ひとりでいる自分も好き。
カラオケだと盛りあがる歌を選ぶけど、ひとりのときは失恋ソングばかり聴いている。
相談に乗ればポジティブな意見を言うのに、自分のことになるとうしろ向きな考えばかり浮かんでくる。
どれが本当の自分なのか、切り取った断面ごとに違うからわからない。
今だって、大好きなおばあちゃんが亡くなったのに涙のひとつも出ない。ううん、もうずっと泣くことができないでいる。
最後に泣いたのがいつかも思い出せないなんて、自分がひどく冷たい人のように思えてしまう。