未桜は改めて、辺りを見回した。
アサくんの説明によると、ここは“あの世”のはずだ。だけど、驚くほど現実に似ている。
店内は、コーヒー豆を挽(ひ)くときの香ばしい香りで満たされている。他のお客さんは、おじいさんとおばあさんが一人ずつ。別々のテーブルについて、くつろいだ様子でカップを口に運んでいる。
先ほど入ってきた入り口の隣には、木製の棚があった。色とりどりのリボンで丁寧に袋詰めされたクッキーやパウンドケーキが、種類ごとに小さなバスケットに入れられ、並べられている。
見たところ、レジはない。お客さんにお金を払ってもらうわけではないから、必要がないのだろうか。
「ところで、彼女をどうやって連れてきたの?」と、マスターが手元のカップを拭きながら、アサくんに尋ねた。
「ええっと……どうやって、というと?」
「“生ける人”がここにいる間は、現世にある身体から魂が抜けて、意識不明の状態になるよね? とすると、八重樫さんの“器”は今どこにあるのかな、と」
「あっ、わっ、それは……普通に……生身のまま……その場に置いてきちゃいました……」
おっと、とマスターが苦笑する。
未桜も目を丸くして、アサくんに詰め寄った。
「もしかして私、今、あの歩道で気を失って倒れてるの? と、と、東京のど真ん中で?」
「きっと今頃、大騒ぎになってるね」マスターが神妙(しんみょう)に言う。「まあ、人通りが多い都会だからこそ、安全に病院まで運んでもらえるだろうとは思うけど」
「嘘っ……聞いてないよ! 確かに、魂だけを連れていくとは言ってたけど、まさか身体だけがあそこに置き去りだなんて……」
「ごめんなさい! 本当に! ああ、僕はなんでこんなに間抜けなんだろう。本部に何枚始末書を提出しても足りないっ!」
アサくんは頭を抱え、いよいよ落ち込んでしまった。
さすがにかわいそうになる。未桜は紛(まぎ)れもなく被害者で、過失割合はどう考えても〇対十だけれど、真っ赤なほっぺをした少年を徹底的に痛めつける趣味はなかった。
「まあ、もう後の祭りだし、それはいいんだけど……さっきから言ってる『本部』って、何のこと?」
「僕から説明しようか。ちょうど手が空いたところだし」
マスターが緩く微笑み、「よかったらどうぞ」と、誰もお客さんのいないカウンター席を指した。恐る恐る近づくと、度重なる失敗の埋め合わせをするかのように、アサくんが光の速さで椅子(いす)を後ろに引いてくれた。
未桜が腰かけるのを待って、マスターがカウンターの上に両手を置き、静かな口調で尋ねてきた。
「生まれ変わりの仕組みについては、すでにアサくんから聞いた?」
美しい瞳でじっと見つめられていることに、どうしようもなくドキドキする。未桜はやっとの思いで、こくりと頷いた。
「人間は、この世とあの世を往復するんですよね。あの世というのは、ここ来世喫茶店のことで……死ぬ直前にはお店の人が訪ねてきて、寿命を告げられ、行き先が書かれた黄色いチケットを渡される」
「そうそう。砂時計の効果でいったん忘れてしまうけど、死ぬ間際の人間というのはみんな、来世喫茶店の従業員に一度は会ってるんだ。招待券――黄色いチケットのことを再び思い出すのは、いざ死を迎えてから。事前案内をきちんとしておくことで、こちらの世界に来てから、お客様方が混乱をきたさないようにしてるんだよ」
あの黄色いチケットには、未桜が死ぬ日付が書いてあった。
死ぬのは寂しい。
享年二十一歳なんて、早すぎると思う。
だけど、不思議と怖くはなかった。
嫌だ、死にたくない、というマイナスの感情もない。
昔から、不思議に思っていた。小説やドラマでは、長いあいだ病魔(びょうま)と戦っていた人が穏やかに死を迎えるシーンが多いけれど、あれはフィクションだからだろうか、と。ただ、現実でも、亡くなる間際の老人が暴れて抵抗したり、恐怖に震えて泣き喚いたりしたという話は、ほとんど聞いたことがない。
あれはもしかしたら、黄色いチケットの効果だったのかもしれない。死後の行き先について案内を受けた記憶が無意識下に眠っているからこそ、なんとなく安心し、落ち着いた気持ちで最期の時に臨むことができたのだろう。
アサくんは今日、未桜にそういう心の準備をさせるために、黄色いチケットを持って声をかけてきたのだ。――まあ、タイミングが二年ばかり早かったみたいだけれど。
「ごめん、前置きが長くなったね。本部の正式名称は、『来世喫茶店日本統括本部』っていうんだ」
「と、とう――とうかつ?」
「さて、八重樫さんは、日本では一日何名が亡くなっていると思う?」
突然、クイズ番組の出題者のように、マスターが質問を投げかけてきた。
――えっ、何名だろう。
全然、答えが浮かばない。じっと考え込んでいると、マスターはそれ以上畳みかけることなく、長くて形の綺麗な指を三本立てた。
「三千名だよ。一日に、日本だけで」
「そんなに!」
「だから『来世喫茶店』は、一店舗では足りないんだ。日本には、ここと似たような規模の店が、全部で六十ある」
「全国チェーン、ってこと?」
口に出してから、その言葉の軽さに赤面した。マスターはくすりと笑い、「そう捉えてもらって構わないよ」と頷いた。
「全国、というと語弊(ごへい)があるけどね。この地域の人はこの店に行く、という明確な決まりがあるわけではないから」
「でも、この『日本三十号店』に来るのは、だいたいが千葉の人ですよねぇ?」
アサくんが口を挟んだ。うずうずしている様子を見るに、話に加わりたくて仕方がなかったようだ。
「確かに、そういう傾向はある」と、マスターが微笑む。「八重樫さんも、千葉の人なのかな?」
「あ、はい! そうです」
「あれぇ、でも今日は東京にいましたよね?」
首を傾げたアサくんに向かって、「地元にあんなお洒落なカフェはないから、大学の近くでバイトを探したの!」と口を尖らせる。自分のミスのせいで未桜が面接を受け損ねたことを思い出したのか、アサくんはまたしゅんとした顔になった。
「まあ、千葉だろうと東京だろうと、亡くなったときにどの店舗に割り振られるかは運次第なんだ。『日本何号店』なんて画一的な名前がついてるけど、一つ一つの喫茶店は、建物の作りもドリンクメニューも、コーヒーの淹(い)れ方も違う。さしずめフランチャイズだね」
未桜の「全国チェーン」発言に合わせたのか、マスターがややおどけた口調で言った。ふふ、という小さな笑い声が、妙に耳に心地いい。
「僕たちは言ってみれば加盟店のオーナーで、本部が僕たちを統括しているというわけ。といっても、本部はあくまで事務作業や店舗間の調整業務がメインで、ほとんどの仕事の裁量(さいりょう)はこちらにあるんだけど」
「このお店に来るお客様は、すっごくラッキーなんですよ! マスターは間違いなく、日本にある六十の来世喫茶店の中で、コーヒーを淹れるのが一番上手なんですから!」
またアサくんが、自分のことのように胸を張る。「美味しい賄い」の一件といい、アサくんはマスターのことを心から尊敬しているようだ。
目を見合わせて笑う二人を眺めながら、未桜は腕組みをした。
この喫茶店があの世の一部で、日本で亡くなった人の六十分の一がこのお店にやってくるということは分かった。
でも――。
「……で、ここっていったい何なの? 現世と来世の間にあるのが……なんで喫茶店?」
別に三途の川でもいいのにな、と思う。だだっ広い原っぱでも、よく西洋絵画で天使とともに描かれるような、綿あめのような雲の上でもいい。『あの世=喫茶店』説なんて、普通に生きていて、一度も聞いたことがなかった。
しかも、死んだらこんなにカッコいい男性と可愛い少年の二人組が待っているなんて、まったくの想定外だ。
未桜がよほどしかめ面をしていたのか、「大事な説明がまだだったか」とマスターは可笑(おか)しそうに口角を上げた。
「僕たちの役割は、特別なドリンクを提供することでお客様の希望を伺い、来世の大まかな形をデザインすることなんだ」
「来世の……形を……デザイン?」
「方法はとっても簡単。三つあるドリンクメニューの中から、気になる一杯を選んでもらうんだ。ブレンドコーヒーか、カフェラテか、紅茶か――どれを選ぶかによって、『こんな来世にしたい』という条件の決め方が変わる。それぞれのドリンクに、特有の効能(こうのう)があるからね」
タイミングを見計らったかのように、アサくんが「どうぞ!」と黒い表紙のメニュー表を持ってきた。見開き一ページしかなく、左にはドリンクメニュー、右にはスイーツメニューが載っている。
『メモリーブレンド』
人生で一番大事な思い出を、もう一度――そして来世でも
『相席カフェラテ』
今一番会いたいあの人と、話し合い――理想の来世について
『マスターのカウンセリングティー』
来世の条件は、マスターにお任せ――あなたのお話、じっくり聞きます
『本日のスイーツ』
りんごとヨーグルトのパウンドケーキ
それぞれのドリンク名の隣に書かれているのが、特有の効能、だろうか。
けれど、メニューの説明書きはシンプルすぎて、読んだだけではよく分からない。首を傾げていると、「接客の様子を見ていれば、じきに分かりますよ」とアサくんがメニューを未桜の手から取り上げながら言った。
「ドリンクの成分の調整次第で、来世が大きく変わるんです。その点、うちのマスターは本当に腕がいいので、皆さん安心されるんですよ」
すっごくラッキー、というのはそういうことか――と、アサくんの言葉を聞いてようやく理解する。
ここは、終わったばかりの人生を振り返り、それを踏まえて来世のあり方を決めていく場所。
その「大まかな形をデザインする」のが、来世喫茶店の従業員の仕事。
なるべく希望を反映させた形で生まれ変われるかどうかは、特別なコーヒーや紅茶を淹れる、店のマスターの腕に大きくかかっている――。
「さてと、説明はこんなところかな。何か質問はある?」
マスターの漆黒(しっこく)の瞳が、未桜を捉えた。
心の奥底まで見透かすような視線に、心臓がぴくんと跳ねる。
なぜかは分からないけれど、マスターの静かで優しい話し声を聞いていると、胸の奥がざわざわと揺れるのだった。そして、灯がともったように温かくなる。
目の前にいるのが、今まで会ったことがないほど顔立ちが整った男性だから、なのか。
もしくは、来世喫茶店という不思議な場所の力なのか。
「あの……さっきから、日本の話しか出てこないのが気になったんですけど……来世では、日本人にしかなれないんですか? 外国人とか、人間以外の生き物になることもあるんですか?」
「おっ、いい質問だね」
マスターがゆっくりと頷き、「基本的に、日本人は日本人に生まれ変わることになってるよ」と柔和(にゅうわ)な口調で答えた。
「とはいえ、“器”の数は決まってるから」
「……うつわ?」
「生物学的な個体のこと。近年、日本は少子高齢化が進んでるよね。亡くなる人数に対して、母親の胎内に宿る“器”――これから生まれてくる胎児の数が、ずっと少ないんだ。だから、一人一人の希望を聞いた上で、外国人や人間以外の生き物に生まれ変わらせる場合は、本部を通じて系列(、、)の(、)来世喫茶店に交渉することになる」
例えば、とマスターはいくつか例を挙げた。
アフリカ諸国では、亡くなる人数より“器”のほうがずっと多いため、“向かう人”をいつでも募集している。
日本と同じような先進国は、どこも出生率が2を下回っているため、他国から“向かう人”を受け入れることはほとんどない。
ペットに生まれ変わりたいという“向かう人”もそこそこ多いが、特に日本の犬の飼育数は年々減っているため、他の生き物や国を提案する場合も多い。
ちなみに、“向かう人”とは、来世喫茶店にやってきた死者を指す言葉なのだという。「現実世界に(再び)向かう人」という意味だそうだ。その反対語が、今生きている未桜のことを話すときに使っていた、“生ける人”。
来世喫茶店の組織図を思い浮かべようとして、めまいに襲われた。「日本」の「人間」だけで六十店舗あるという話なのに、系列のお店まで入れたら、いったいどれだけ膨大な組織になってしまうのだろう。
「それって……つまり、犬の喫茶店とか、猫の喫茶店も、どこかにあるってこと?」
犬カフェ、猫カフェのような雰囲気のお店をイメージしながら尋ねると、アサくんが噴き出した。
「いえいえいえ、喫茶店の形態をとっているのは人間だけですよ。犬は犬、猫は猫、鳥は鳥、虫は虫で、まったく別の死後の世界があります。犬の喫茶店だなんて……ふふっ」
「ちょっと、バカにしないでよっ!」
未桜が頬を膨らませると、アサくんは「すみません、すみません」と頭を下げた。必死に笑わないようにしているみたいだけれど、唇の端がぴくぴく震えているのが丸見えだ。
そのアサくんが手にしている、黒い革の表紙のメニュー表を見つめる。
「でも……みんなが好き勝手な来世を希望したら、大変なことになるんじゃないですか? “器”が足りないのに全員日本人に生まれ変わりたいって言い張ったり、百二十歳まで生きたいって無茶な要求をしたり」
「それもいい質問だね」と、マスターが頷いた。「さっきも言ったけど、ここで決めることができるのは、『来世の大まかな形』なんだ。お客様のすべての希望に応えたいのは山々だけど、オーダーメイド品の注文を受けるようにはいかない」
マスターがカウンター越しに手を差し出してきた。アサくんが背伸びをして、メニュー表を手渡す。
その革の表紙を、マスターは綺麗な指の先で軽くつついた。
「来世とは未知で、どうなるかも分からないもの。当然、全部の要望を叶えることはできない。だったら、絶対に外すことのできない、最も大事な“来世の条件”は何なのか。その答えを探す手助けをするのが、僕が日々心を込めて淹れている、これらのドリンクなんだよ」
再び、メニュー表がカウンターを越えて、未桜のもとへと返ってきた。
メモリーブレンド。
相席カフェラテ。
マスターのカウンセリングティー。
それらの「特別なドリンク」がどういうものなのか、未桜はまだ知らない。
けれど、興味がむくむくとわいていた。
ここにやってくるお客さんたちが、どのドリンクを注文して、どんな来世を選び取っていくのか。
来世に“向かう人”たちに、マスターやアサくんはどのように接し、どんな手助けをしていくのか。
「ええと、喫茶店の仕事を見学したいんだよね? カウンターの中でも、バックヤードでも、どうぞご自由に。その間、僕は八重樫さんの記憶を消す方法を、急いで調べることにするよ」
「あ、いいです、急がなくて。ゆっくりで」
未桜が両手を左右に振ると、マスターは怪訝そうな顔をした。
「いや、そういうわけにはいかないよ。八重樫さんは“生ける人”なんだから。アサくんに黄色いチケットを見せられたことは早く忘れて、さっさと現世に戻りたいだろうし――」
「いいえ。すぐに帰りたいだなんて、ちっとも思ってません!」
思わず大声を出してしまった。
お客さんをびっくりさせてしまったのではないかと、慌てて振り返る。けれど、意外なことに、別々のテーブル席に座っているおじいさんとおばあさんは、ゆったりと目をつむっていた。
「ああ、大丈夫ですよ、お二人はメモリーブレンドを飲んでいるところですから」
アサくんが明るい声で言う。どうして大丈夫なのかは分からないけれど、迷惑がかからなかったならよかった。
未桜は俯き、頭の中を整理した。
それから顔を上げ、マスターに向かって、まっすぐに告げた。
「しばらく、ここで働かせてください!」
マスターが無言で目を見開いた。「はっ、働くって、何を言い出すんですか! 僕が許可したのは、ちょっとした見学と体験だけですよっ!」とアサくんが未桜のブラウスの袖を引っ張る。
未桜はいったんアサくんへと向き直り、ぐっと顔を近づけた。
「だって、私は被害者だよ? 二年後に死ぬことを突然知らされて、絶対に受かりたかったバイトの面接までふいにしたんだよ? これくらいの要望は聞き入れてもらわないと困るよ!」
「そ、そ、そ、そんなこと言われても!」
アサくんが、助けを求めるような目でマスターを見る。
未桜はカウンターに両手をつき、マスターの大きな目を見てさらに力説した。
「私、ずっと、喫茶店で働くのに憧れてたんです。ここはすごく小ぢんまりとしてて、レトロで、コーヒーの香りがよくて……私の理想の喫茶店なんです! だから、私の気が済むまで、店員としてここでアルバイトをさせてください。記憶を消す方法を見つけるのは、全然急がなくていいですから!」
一生懸命、訴えかけた。
アサくんが、未桜の隣で慌てに慌てている。
マスターが、こちらの真意を推し量るような目で、未桜を見ている。
「現世のことなら、心配要りません。もともと……その、ちょっと……家には、あんまり帰りたくなかったりする……し」
これは、ダメ押し。別に家のことがなくたって、もう少し長く、このお店に滞在していたい。
それくらい、ここが気に入ってしまったのだ。
お店のレトロな雰囲気も、若いマスターが醸(かも)し出す不思議な魅力も、おっちょこちょいなアサくんの人となりも。
幼い頃からずっと夢見ていたカフェのバイトをするなら――絶対、ここがいい!
その思いが伝わったのかもしれない。マスターがふうと息を吐き、「いいよ」と悪戯(いたずら)っぽく笑った。
「店員になりたいなんて、珍しいね。まあ、そういうお客様は初めてじゃないけど……とにかく、気に入ったよ。その押しの強さといい、喫茶店への愛といい、ここで働いてもらうにはぴったりの人材だ。きっと、僕たちとは別のタイプの接客をして、大いに活躍してくれるんじゃないかな」
「え? え? マスター、本気で言ってます?」
アサくんが目を白黒させる。そんな彼に構わず、マスターはカウンターの中を指差しながら、未桜に向かって言った。
「じゃ、八重樫さん、どうぞこちらへ。ブラウスが汚れたら困るだろうから、エプロンを渡すね。仕事の説明は、アサくん、お願いしていい?」
「ええええっ、本当に雇っちゃうんですか? 現世から連れてきた“生ける人”を?」
前代未聞ですよぅ、本部に知られたら大変ですぅ――と、アサくんが手足をバタバタとさせている。そんなアサくんとは対照的に、マスターは涼しい顔でくるりと身を翻した。バックヤードに、予備のエプロンを取りにいくようだ。
「ありがとうございます!」
未桜は意気揚々と、マスターを追いかけた。
やっと、念願の喫茶店で働ける。
待っていたのだ――この日を!
《四月六日 来店予定者リスト》
・名前:緒(お)林(はやし)拓(たく)男(お)
・性別:男
・生年月日:一九三六年一月十七日(享年八十三歳)
・職業:鍛冶(かじ)職人
・経緯(けいい):半年前に起きた交通事故の後遺症(こういしょう)により寝たきりに。入院先の病院にて、誤嚥(ごえん)性(せい)肺炎(はいえん)で亡くなる。
・来店予定時刻:十四時四十七分
喫茶店の窓に映る景色が、数秒ごとに移り変わっている。
都会の雑踏(ざっとう)、青い山々の稜線(りょうせん)、外国のカラフルな家――まるでスライドショーのようだ。
未桜はカウンターのそばに立ったまま、飽きずにその光景を眺めていた。
「気になります?」
アサくんが話しかけてきた。こくりと小さく頷く。
窓の外には、雪がちらちらと舞い始めていた。
「どういう仕組みになってるの? お店の中に、プロジェクターは見当たらないけど」
「あれは、物理的に映像を投影しているわけじゃないんです。ここを訪れるお客様の、記憶なんですよ」
「……記憶?」
「はい。人生の中で見た、印象的なシーンです。あ、今は雪が降っていますね。さっきまでは見なかった景色なので、そろそろ、新しいお客様がご来店されるんだと思います」
まさに、アサくんの言うとおりだった。
突如、爽(さわ)やかな風が、入り口から吹き込む。
チリンチリン、と扉についた鈴が音を立てた。
「いらっしゃいませ」
「い、いらっしゃいませ!」
アサくんに倣(なら)い、未桜もぺこりとお辞儀(じぎ)をする。
下を向いた拍子に、さっき身に着けたばかりの茶色いエプロンが目に入った。
途端(とたん)に、気が引き締まる。まだ仕事の説明をひととおり受けたばかりの新人だけれど、お客さんから見れば、未桜だって一人の店員だ。
むしろ、十一歳にして勤務歴十年だというアサくんより、十八歳の未桜のほうが、お客さんに頼られてしまうかもしれない。
その予想は当たっていた。入店したおじいさんは、隣に立っているアサくんではなく、未桜をまっすぐに見て言った。
「ここは何なんだ? なぜ死んでまで、喫茶店なんかに来なきゃならねえんだ。俺はこういう、見てくればかり整えた店は嫌いなんだ。性(しょう)に合わん」
いきなり怒られるなんて、想像もしていなかった。
口をパクパクと動かしてみるけれど、言葉が出てこない。その間も、おじいさんは、眉間(みけん)に深いしわを寄せてこちらを睨んでいる。
「緒林拓男さまですね。お待ちしておりました! カウンターでもテーブルでも、お好きな席へどうぞ」
アサくんがするりと一歩前に進み出て、未桜の代わりにおじいさんを案内した。
さっき教えられたとおり――つまり、マニュアルどおりの台詞だ。
来店予定者リストに載っている名前を呼び、丁寧にお迎えする。席は自由に選んでもらう。「一人一人のお名前を口に出すのが、うちのモットーなんです。誰だって、そうやって迎えられたら嬉しいものでしょう?」とせっかくアサくんが説明してくれたのに、まったく実践に移せなかったことが、無性に悔しい。
緒林は、名前を呼ばれて面食らった顔をした。じろりとアサくんの顔を見て、「まだ子どもじゃねえか。変な店だな」などとぶつくさ言いながら、ゆっくりと移動を始める。
その間にアサくんは、いったんカウンターの内側に引っ込んだ。お盆に載せたおしぼりと水のグラスを、緒林が腰かけたカウンター席へと運ぶ。そしてもう一度丁重に頭を下げ、手元のリストに目を落とした。
「ご来店ありがとうございます! まず、こちらで把握している情報に間違いがないか、念のため確認させてください。緒林拓男さま、享年八十三歳。誕生日は、昭和十一年一月十七日」
生まれ年を和暦(われき)で言うあたりに、きめ細かい配慮(はいりょ)が見て取れる。昭和十一年という言葉が幼い少年の口からさらりと出てくるのは、見ていて不思議だった。
アサくんとは対照的に、緒林は頑固そうで、態度が大きい。鼻をふんと鳴らし、椅子の背に寄りかかった。
「ここは喫茶店だろう? 病院の診察室じゃあるまいし、なんでわざわざ個人情報を訊くんだ。気持ち悪(わり)ぃな」
「申し訳ございません。万が一取り違えが発生しないよう、確認するのがルールになっておりまして」
「さっき、享年、っつったな。俺の死因も把握してんのか? 最後のほうは意識が朦朧(もうろう)としてて、記憶にねえんだよ」
「ええっと……誤嚥性肺炎、と聞いておりますが」
「はっ、いかにも年寄りの病気だな。肺炎でくたばるなんて、若い頃の俺が聞いたらひっくり返るぜ」
緒林のぶっきらぼうな受け答えに、ドキリとする。
ここのお客さんは、本当に、たった今人生を終えたばかりの人たちなのだ。
つらい病気で苦しみ、目を閉じ、ふと気づいた瞬間に、この喫茶店が建つ不思議な世界に飛ばされている――。
「こんなことなら、半年前に死んどきゃよかったんだ。おい、そのへんの事情は聞いてんのか?」
「交通事故に遭(あ)われたんですよね? その後遺症のため寝たきりになり、亡くなるまでの半年間、入院されていた」
「ああ、そうだ、そうだ。夜中に、家の向かいで男の悲鳴が聞こえてよ、何事かと外に飛び出したんだ。叫び声を聞く限り、若者同士の喧嘩(けんか)のようだった。止めにいこうと、道を渡ろうとして――ドカン、よ」
ドカン、の部分で緒林の声が突然大きくなり、未桜は肩をびくりと震わせた。
「猛スピードで走ってきた無灯自転車と衝突して、脚を複雑骨折。でっかいギプスをつけられて、ずーっとベッドの上で寝たきり生活だ。筋力も体力も見る間になくなり、歩けなくなってよ。しまいにゃ肺炎でお陀仏(だぶつ)だ。あーあ、八十三年も生きてきて、悲しいもんだな。ま、息子たちからはすっかりお荷物扱いだったし、いい頃合いだったか」
そう言いつつも、緒林は自分の死因に納得がいっていないようだった。「若者の喧嘩くらい、ほっときゃよかったのによ」と自嘲(じちょう)気味に言い、カウンターに拳を叩きつける。
――何か、声をかけなければいけない。
そう思うのに、言葉が浮かばなかった。「それはつらかったですね」? 「きっと息子さんたちも悲しんでいますよ」? お前みたいな若者に何が分かる、と額に筋を立てられるのが関の山ではないか。
「本当にお疲れ様でした! 八十三年の人生、大変なことも、思い出に残ることも、いろいろありましたよね。どうか、ここでゆっくりくつろいで、身体と心を癒してください。緒林さまが来世に“向かう”お手伝いを、誠心誠意、させていただきます」
アサくんはまったく動じずに、慣れた仕草でメニュー表を開いて差し出した。緒林はドリンクメニューにちらと目をやり、失望した顔をした。
「なんだ、これだけかよ。俺は酒を飲みたかったんだがな」
「すみません、ここは喫茶店ですので……」
「最近は、アルコールを出す喫茶店もあるんじゃなかったか? かふぇばー、とかいう」
老人に似合わない横文字をたどたどしく口に出した直後、「お、奇妙だな。老眼鏡がないのに読めるぞ。これは死んだ甲斐があった」と嬉しそうに言う。
第一印象ほど、とっつきにくい人物ではないようだ。半年もの間、病院で孤独な時間を過ごしていたために、心がささくれ立ってしまったのかもしれない。
「では、お飲み物の説明をさせていただきますね」
緒林の機嫌がよくなったところで、アサくんがすかさず、小さな手でドリンクメニューを指し示した。可愛らしい見た目とは裏腹に、接客の仕方は熟練(じゅくれん)のホテルマンのようだ。
「ここでは、コーヒーや紅茶などを一杯だけ、召し上がることができます。お飲み物には、それぞれ異なる効能があります。こちらの喫茶店を出るとすぐ、緒林さまの新しい人生が始まるわけですが、どのお飲み物を選ぶかによって、“来世の条件”の決め方が変わります。ですので、じっくり選んでくださいね」
「ふうん、“来世の条件”ねえ。そんなものが決められるのか?」
緒林は懐疑的(かいぎてき)な目でメニューを見ている。
未桜は先ほどマスターからもらったメモ帳とペンを構え、アサくんの流れるような説明に耳を傾けた。お客さんをお迎えし、席に案内し、注文を取り、マスターに伝票を渡す――という仕事の内容は教えてもらったけれど、肝心のドリンクの効能については、まだ何も聞いていない。
「まず、『メモリーブレンド』。こちらは、人生で一番大切な思い出を再体験できるブレンドコーヒーです。どの記憶を選ぶかは、緒林さまの自由です。このコーヒーを飲むと、来世でもまったく同じ――とは言い切れないのですが、ほとんど(、、、、)同じ体験ができることが約束されます」
「うーん、どういうことだ?」
「例えば、人生で最も心に残っている記憶が、『水泳大会で優勝して、校長先生に表彰されたこと』だとしましょう。すると来世でも、何らかの大会で好成績を修め、全校生徒の前で表彰される、という出来事が起こります。ただし、種目は水泳ではないかもしれない。もしかするとスポーツでもなく、読書感想文かもしれない。もちろん、時代も場所も、ひょっとしたら国も違うわけですから、校長先生だって別人です」
「思い出の重要な部分を押さえつつ、同じような出来事を起こせるってこったな。にしても、例に挙げるのが水泳大会や読書感想文とは……いかにも小学生だ」
緒林にツッコミを入れられ、アサくんが途端に赤面する。
こういう具体例を出すくらいだから、やっぱりアサくんも、現世で小学校に通ったことがあるのかな?
そんな疑問が首をもたげる。
けれど、その瞬間に次のドリンクの説明が始まったため、未桜はメモを取るのに集中せざるをえなくなった。
「次に、『相席カフェラテ』です。このカフェラテを飲むと、現世で会話したことのある人の中で、もう一度会いたい人を一人選び、この喫茶店に呼び出すことができます。その相手は、今生きている方でも、自分より前に亡くなった方でも構いません」
「えっ、そんなことができるの⁉」
店員という立場を忘れ、思わず素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を上げてしまった。緒林がじろりとこちらに目を向け、アサくんが「八重樫さぁん」と責めるような声を出す。
「ご……ごめんなさい」
未桜が背中を丸め、再びメモに視線を落とすと、アサくんが説明の続きを喋り始めた。
「それで、『相席カフェラテ』を頼んだ場合の“来世の条件”の決め方なんですが――」
「ああ、もういいよ。長ったらしい説明は」
緒林が片手を左右に振り、アサくんの言葉を遮った。
「三つ目の紅茶は、『カウンセリング』って名前がついてるあたり、俺がいろいろ喋らなきゃならねえんだろ? それは御免(ごめん)だ、口下手だからな。で、『本日のスイーツ』ってのは、どんな効能があるんだ?」
「あ、それは特に何も。お菓子作りはマスターの趣味なので……当店限定の、独自サービスです」
――えっ、そうだったの⁉
今度は口に出すのはこらえたけれど、心の中でズッコケた。
振り返ると、カウンターの向こうでカップを磨いているマスターが、口元に薄い笑みをたたえている。
――りんごとヨーグルトのパウンドケーキ、私もほしい……。
明歩とランチを食べにいったお店で、生クリームが山盛りにのったパンケーキをあれだけ食べたはずなのに、急にお腹が空いてくる。
特に効能も何もない、ただのお菓子なら、あとで未桜にも分けてくれたりしないだろうか。それとも、“生ける人”にはあげられないと、断られてしまうだろうか。この優しそうなマスターなら、快(こころよ)く食べさせてくれそうな気がするけれど。
ふと気がついて、未桜は入り口の脇の棚に目をやった。
スイーツ作りがマスターの趣味ということは、あそこに置いてある袋詰めされたクッキーも、マスターが空き時間に焼いたものなのだろう。
改めてよく観察すると、『ご自由にお持ちください(来世に辿りつく前に食べ終えてください)』という注意書きが、棚の上部に貼られていた。
「何だ、ただの趣味かよ。じゃあ、メモリーブレンドで。スイーツは要らないから、さっさと持ってきてくれ」
緒林がアサくんにメニューを突き返し、投げやりに言い捨てた。
そんなにあっさり決めちゃっていいのかな、と心配になる。
来世を左右するかもしれない、大事な一杯なのに――。
「メモリーブレンドですね。かしこまりました」
未桜と違って、アサくんは緒林の言葉を素直に受け入れ、伝票に注文を書き込み始めた。こういうお客さんは、特に珍しくないのかもしれない。
「緒林さまが再体験されたいのは、何の記憶ですか?」
「……言わなきゃならねえのかよ」
「コーヒーを淹れる際に、マスターが香味の調整をするんです。豆の配合比率やドリップ方法を、対象となる記憶に応じて変えるんですよ。よろしければ、だいたいの時期と内容を教えてもらえますか?」
緒林は顔を歪め、カウンターの向こうに立つマスターを見上げた。
「おい、なんとなく察(さっ)して当てるこたぁできないのかよ。お前さんの腕でよ」
「どうしてもというご要望であれば、できないことはありません。ただ、メモリーブレンドを飲めるのは一回だけ。万が一緒林さまの意図しない記憶が呼び起こされてしまっても、やり直しは利きませんので……」
マスターが表情を動かさず、物腰柔らかに答える。すると緒林は気恥ずかしそうに目を逸らし、髪の少ない頭をガシガシと掻いた。
「ったく、仕方ねえな。……三十年前に死んだ女房との思い出だよ。俺があいつに結婚を申し込んだときのだ。俺が二十六、あいつが二十三の冬」
「うわあ、プロポーズですか? 素敵!」
未桜が思わず両手の指を組み合わせると、緒林が「うるせえな」と吐き捨てた。ただ、文句をつけているというよりは、照れ隠しに見える。
ペンを構えていたアサくんが、緒林の話した内容を伝票に記入しようとして、ふと手を止めた。
「あの、本当に大丈夫ですか? 相席カフェラテを頼めば、奥さまと直接会うこともできますけど……」
「いいんだよ、ブレンドで。カフェラテなんざ、俺みたいなジジイが飲むもんじゃねえ」
「で、でも、自分より先に亡くなって、すでに生まれ変わっている相手でも、元の姿に戻った状態でここに呼び寄せられるんですよ? これが最後のチャンスです。そんなに大切な奥さまなら、三十年ぶりにここで会ってみては――」
「別に会いたかねえんだよ! 余計な口挟むな」
突然、緒林が凄んだ。アサくんが縮み上がり、「ご、ごめんなさい!」と頭を垂れる。
そつなく接客していたように見えたけれど、アサくんはどうも、想定外の展開に弱いようだ。未桜に黄色いチケットを渡しにきたときだって、間違いが判明した途端、精神年齢が見た目相応に逆戻りしていた。
「それでは、メモリーブレンドをご用意しますね。ミルクとお砂糖はおつけしますか?」
「ああ。一応もらおうか」
「承知いたしました。それでは、少々お待ちください!」
スーツの上からつけたエプロンのポケットにペンをしまうと、アサくんはちょこちょことカウンターの中へと走っていった。
未桜も後を追う。緒林拓男は、未桜が来世喫茶店にやってきてから初めてのお客さんだ。マスターが特別なブレンドコーヒーを淹れるところを、ぜひこの目で見てみたかった。
「今から五十七年前……冬の日のプロポーズの記憶か。モカの爽やかさと、マンデリンの苦味……浅煎(い)りと、深煎り……隠し味は……」
アサくんから伝票を受け取ったマスターが、柔らかそうな黒髪を片手で掻(か)き上げる。そして小さな声で呟きながら、異なるコーヒー豆の入った瓶を次々と手に取っていく。
アフターブレンド、と仕事の説明をしてくれたアサくんは言っていた。お客さんの注文を受けてから、個別に焙煎(ばいせん)しておいた豆をその場で調合し、二つとない味のコーヒーを淹れるのだという。
マスターの手つきは鮮やかだった。
様々な種類のコーヒー豆が、あっという間に手元の白い器の中に集まっていく。
ミルのハンドルを、幼子の頭を優しく撫でるように、一定速度で回す。
ふわりと、香ばしい匂いが漂う。
「わあ……」
気がつくと、感嘆(かんたん)の声が漏れていた。マスターの手から、一瞬たりとも目が離せない。
挽き上がった豆をペーパーフィルターに空け、少量のお湯を注ぐ。
それからゆっくりと、細く長く、お湯を回し入れていく。
こだわっているのに、動きに無駄がない。美しい切れ長の目が、サーバーに一滴ずつ落ちていく深い色のコーヒーを、まっすぐに見つめている。
抽出したコーヒーをカップに注ぐ間も、未桜の目はマスターの手に吸い寄せられていた。
――そうだ。
と、急に腑(ふ)に落ちる。
――私はこれを見たくて、喫茶店で働こうと思ったんだ。
「よし、できあがり」
マスターが歌うように言い、コーヒーサーバーを元の位置に戻した。「では、よろしく」と男の人らしい大きな手が肩にそっと置かれ、危うく心臓が飛び跳ねそうになる。
ねえねえ、とエプロンの裾(すそ)を引っ張られ、未桜は我に返った。
振り向くと、アサくんがこちらを見上げていた。
「運ぶのは、八重樫さんにお任せしていいですか? 僕も一応、後ろで見守っていますから」
「あっ、うん!」
慌ててお盆を手に取り、中身をこぼさないように気をつけながら、コーヒーカップを載せる。そのまま持っていこうとすると、「ちょっと、忘れてますよ!」と鋭い囁(ささや)き声で呼び止められた。
「え、何を?」
「ミルクとお砂糖です!」
さっき教えたじゃないですかぁ、というアサくんの心の声が聞こえてきそうだ。
顔が火照(ほて)るのを感じながら、アサくんがさりげなく用意してくれていたミルクピッチャーとシュガーポットをお盆の隅に置いた。
気を取り直して、カウンター席に陣取った緒林のもとへと、慎重(しんちょう)に歩いていく。
「お待たせいたしました。メモリーブレンドです」
ソーサーの縁を持ち、カウンターにそっと置いた。十分に注意を払ったつもりだったけれど、手が震えてカチャリと食器を鳴らしてしまい、首をすくめて緒林の表情を窺う。
怒られる、という未桜の予想は外れた。
緒林は、どこか寂しそうな表情で、窓の外にちらつく雪をじっと眺めていた。
――ここを訪れるお客様の、記憶なんですよ。
――人生の中で見た、印象的なシーンです。
さっきのアサくんの言葉を思い出す。
雪が降り始めた直後に、緒林が来店した、ということは――。
「おい、新人の姉ちゃん」
声をかけられ、「は、はいっ!」と緒林に向き直った。新人とすっかりバレているのが恥ずかしい。
「ミルクと砂糖を入れても、特別な効能とやらが薄まったりはしないんだよな?」
「ええ、そのはず――」と言いつつ、後ろに控えているアサくんの顔をチラ見する。彼がこくこくと頷くのを確認してから、「――です。そうです!」と断言した。
「コーヒーなんざ、しばらく飲んでねえからな。そもそも死ぬまでの半年は病院暮らしだったんだ。いきなりブラックじゃ、舌がびっくりしちまう」
弁解するように言いつつ、緒林はミルクと砂糖をたっぷりコーヒーに入れ始めた。
強面(こわもて)で短気なこの老人が、ちょっぴり可愛らしく見えてくる。ふふ、と思わず笑みを漏らすと、「何だよ、おかしいか?」と緒林が片方の眉を吊り上げた。
「いえ! ……やっぱり、素敵だなぁ、って。奥さまにプロポーズをしたのは、もう五十年以上前のことなんですよね。それが人生で一番大切な記憶だなんて……奥さまも嬉しいだろうなぁ。どんなプロポーズだったのか、気になります!」
笑った理由をはぐらかすつもりが、ついつい本心を語ってしまった。
だって、すごい。
八十年以上の人生の中で、燦然(さんぜん)と一位に輝く、宝物のような思い出。
しかも、緒林はプロポーズをされた側ではなく、した側だ。
そのときのことを再体験したいという希望を聞いただけで、彼がどれだけ奥さんのことを愛していたのかが、よく伝わってくる。
「まあ、一世一代の大勝負だったからな。あいつは、俺のようなしがない鍛冶職人の女房になるにはもったいないくらい、いい女だったんだ」
意外にも、緒林は未桜の発言に気分をよくしたようだった。再び窓の外にちらりと目をやり、「一緒に見てみるか?」と尋ねてくる。
「……えっ?」
「俺が今から再体験する記憶を、さ」
「そんなことができるんですか?」
「俺は知らねえよ。店員ならそういう権限(けんげん)があるんじゃねえのかって、こっちが訊いてんだ」
――もう、穴があったら入りたい!
アサくん並みに頬が赤くなっていることを自覚しながら、未桜はまたも振り返り、小さな先輩店員に目で合図して助けを求めた。
未桜の空回りぶりに呆れている様子のアサくんは、「八重樫さんって、なかなか天然というか、度胸(どきょう)がありますよねえ」と小声で呟いてから、改めて姿勢を正した。
「緒林さまさえよければ、可能ですよ。次のお客様のご来店予定時刻までは、まだ余裕がありますし……」
リストに目を落としてから、アサくんは「僕たち、ちょっと抜けてもいいですか?」とマスターに許可を求めた。
さりげなく、自分も未桜と一緒に記憶を覗き見することにしたようだ。緒林の話が気になっていたのは、アサくんも同じだったらしい。
マスターは無言で頷き、どうぞ、というようにメモリーブレンドのカップを手で指し示した。
「じゃあ、飲むぞ。準備はいいか?」
「えっ、私はどうすればいいの?」
「緒林さまの身体に触れるんです。そうすれば、同じ体験をすることができます」
アサくんに促され、未桜は緒林の骨ばった肩に、そっと手をのせた。
緒林が、コーヒーカップに手を伸ばした。
メモリーブレンドの表面が、七色に光ったように見えた。
見間違いかと、何度か瞬きをする。
老人のひび割れた唇が、美しい茶褐色の液体に触れる。
雪が、舞っていた。
トタンの壁に囲まれた薄暗い鍛冶場から、灰色の空が見える。
入り口の戸を開け放したのは、靖(やす)子(こ)だった。
「見て、雪よ」
厚手の白いコートに身を包んだ彼女が、子どものようにはしゃぎ、空を指差している。
まるで対照的だった。
仕事道具が雑然と置かれた狭い作業場と、ひらひらと落ちる、白い花びらのような雪が。
いつも煤(すす)で汚れた作業着を着ている拓男と、こんな自分のために、よそいきのコートを羽織ってきてくれる靖子が。
コークス炉(ろ)の火は、何時間も前に消えていた。祖父の代から受け継いできたこの鍛冶場は、いくら屋根や壁の修繕(しゅうぜん)を繰り返しても、どこからともなく隙間風が吹き込んでくる。いっそのこと思い切って戸を開け放ち、外の世界と繋がってしまったほうが、不思議と空気が暖かく感じられるのだった。
いや――この温もりは、彼女のおかげ、なのかもしれない。
「喜ばないの? たぶん、今年の初雪よ」
「そうだったっけか。いつもここに閉じこもってばかりで、空模様なんかろくに気にしてねえからな」
これから自分が起こす予定の行動に気を取られすぎて、返答がぶっきらぼうになってしまった。「何よう、もう」と靖子が頬を膨らませ、雪が降りしきる夕方の街に出ていこうとする。
「あ、まだ行かないでくれ!」
「ええ? 一緒に散歩でもしようかと思っただけなのに」
靖子が可笑しそうに口元を緩めた。大げさで間抜けな引き止め方をしてしまった――と、途端に耳が熱くなる。
そこら中に置いてある工具につまずかないよう、慎重すぎるほどに足元に目をこらしながら、靖子がゆっくりと戻ってきた。
おそらく、もともと注意深い性格をしていたわけではない。彼女はただ、知っているのだ。置き方こそ雑然としているが、今は亡き祖父や父がかつて振るっていた金槌(かなづち)や矢(やっ)床(とこ)を、拓男がどれほど大事に手入れして使っているかということを。
両親が高校の教員という、育ちがよく、真面目で、頭もいい娘。
幼い頃から近くに住んでいて、頻繁に遊んでいたというだけの縁だった。
そんな彼女が、いつの間にか、父の急死により若くして家業を一手に担うことになった拓男の、一番の理解者になっていた。
本当にこの場所でいいのだろうか、と自問する。
いやいいんだ。ここが俺のすべてなのだから――と、自答する。
「拓男さんは偉いわね。もう年末だというのに、せっせと鉄を打ち続けて」
「いろいろと注文を受けちまったからな。今年のうちに、なるたけ片付けておかねえと」
「おじいさんの代からのお客さんが今でも離れていかないのは、拓男さんの頑張りのおかげね。きっと素晴らしい三代目になるわ」
「さあ、どうだか。小さな店だから、いつ商売が傾くかも分からねえよ。これからの時代、機械の性能がどんどん上がって、こういう刃物はでっかい工場で作るようになるんだろうし」
そんな暗い話をしたいわけではない。よりによって、靖子相手に。
いい加減しっかりしろ――と、拓男は心の中で自分を一喝した。
作業着のポケットを、靖子に気づかれないように、上からぎゅっと握りしめる。
その硬い感触が、分厚くなった掌の皮膚に伝わり、拓男を奮い立たせる。
「靖子。ちょっといいか。受け取ってほしいものがあるんだ」
後ろを向いてもらい、その間にポケットから出そうか。
目をつむってもらい、手にのせて驚かせようか。
事前にあれこれ考えていた計画は、彼女を前に、すべて吹き飛んだ。
「……なあに?」
「ほらよ」
ポケットから取り出したそれ(、、)を、丸めたちり紙でも渡すかのように、靖子の掌にぽんと置いた。
「これ……」
彼女の桜色の唇が、かすかに震えた。
続く言葉は、しばらくの間、出てこなかった。
見慣れた鍛冶場に、沈黙が降りる。
丸く見開かれた靖子の目が、まっすぐに見つめている。
――大きな青緑色の石がついた、無骨な指輪を。
「……もしかして、拓男さんが?」
「おう。ここで作った」
何日もかけて、理想の形を探した。
地金を叩いて、焼いて、また叩いて。
遠くのデパートで貯金をはたいて買ってきた、青緑色の美しい石を嵌め込んで。
普段は刃物や工具ばかり作っているから、指輪は専門外だった。だが、貧乏職人の拓男には、これしか方法がなかった。
ダイヤモンドを買う金はない。宝飾品売り場に燦然と並んでいた既製品の指輪も、到底手が届かない。なんとか購入できたのは、何の装飾(そうしょく)も施されていない、素のままの石だけ。
「俺が手作りした指輪なんざ……靖子は気に入らねえかもしれねえが……」
「――綺麗。すごく、綺麗」
靖子が、にっこりと微笑んだ。
その表情に、胸を撃ち抜かれる。次の瞬間、拓男は彼女の手を取っていた。
「俺と、結婚してくれ」
そう早口で言いながら、ほっそりとした左手の薬指に指輪を通す。
指輪のサイズは、ぴったりだった。
靖子が目を細め、大きな青緑色の石で彩られた指を、入り口から差し込む淡い光に照らす。
彼女の頬は上気していた。心なしか、両目が潤んでいるように見えた。
「これから、よろしくお願いします」
靖子が手を下ろし、丁寧に頭を下げた。と思いきや、全身の体重を預けるようにして、拓男の胸に飛びついてくる。
「お、おい! 通りから見えるぞ」
「いいじゃないの、今日くらい」
だって、ものすごく嬉しいんだもの――と、拓男の胸に顔を押しつけたまま、彼女が恥ずかしそうに囁いた。
靖子の頭越しに、雪のちらつく空が見えた。
寒さは感じない。
代わりに、確かな温もりが、胸に灯っている。
「これは驚いた。これは……驚いた」
カップから口を離した緒林が、放心したように呟いた。
アサくんに腕をつつかれ、慌てて老人の肩から手を離す。未桜のまぶたの裏には、靖子のこの上なく幸せそうな表情が焼きついていた。
「まるで、二十六の頃に戻ったみてえだったな。あの懐かしい鍛冶場も、靖子も、指輪も……そうだそうだ、あんな感じだったよ」
人生で一番の思い出を再体験した緒林は、幾分(いくぶん)心が穏やかになった様子だった。
未桜もまた、圧倒されていた。
メモリーブレンドの力は計り知れない。自分が体験した記憶でも何でもないのに、あまりの臨場感(りんじょうかん)に、傍観者(ぼうかんしゃ)という立場を忘れて見入ってしまった。
まるで自分が若き鍛冶職人で、たった今愛する恋人へのプロポーズを済ませたかのような錯覚に陥る。緒林のためらいも、焦燥感(しょうそうかん)も、返事をもらった後の喜びも、すべてが未桜の胸の中に残っていた。
「十二月の終わりの初雪の日に、手作りの指輪をプレゼント、ですかぁ。あっ、もしかして、ホワイトクリスマス⁉」
「バカ言え。昭和三十年代に、恋人同士がクリスマスを祝う習慣なんざねえよ。あの日はな、あいつの誕生日だったんだ」
「うわぁ、ロマンチック! あんなプロポーズ、私も受けてみたいなぁ……」
感激して呟いてから、自分が二年後に、二十一歳で死ぬことを思い出す。
たぶん未桜は、プロポーズされることも、誰かと結婚することも、それどころか男の人と付き合うこともなく、人生を終える。
そう考えるとちょっぴり残念だけれど、隣のアサくんが神妙な顔をしているのを見て、表情には出さないよう気をつけた。
「緒林さまと奥さまって、さぞ仲良く素敵なご夫婦だったんでしょうね」
プロポーズのシーンから受けた印象のままに、ウキウキと話しかける。けれど、緒林は急に顔を曇らせ、「そんなこたねえよ」とそっぽを向いてしまった。
「今見た瞬間が、山のてっぺんさ。結婚は人生の墓場ってのは本当だな。嫁姑問題だの、俺の態度が亭主関白だの、金遣いが荒いだの、些細(ささい)なことでしょっちゅう喧嘩するようになって……あの指輪だって、あいつが指にちゃんとつけてるのを、その後一度も見たことがねえ」
「えっ……そうなんですか?」
「『つけねえのか』って何度訊いても、遠回しに拒まれるんだ。『だってあれ、大きいし、派手なんだもの』とか言ってよ。せめて家のどっかにしまいこんであればよかったが、あいつが癌で死んだ後の遺品整理でも出てこなかった。勝手に処分しちまうなんて、ひでえ話だよ。女の指にはちと太くて、分厚くて、見た目が気に入らなかったのかもしれねえが……だったらそう言えばいいんだ」
緒林の口調には、一抹(いちまつ)の寂しさが混ざっていた。「そんなことも気軽に言えねえくらい、俺は女房に疎ましがられてたってこったな」という聞こえるか聞こえないくらいの呟きに、未桜とアサくんはおずおずと目を見合わせ、こらえきれずに俯(うつむ)いた。
そんなのって――と、悲しくなる。
記憶の中で幸福そうな若い二人を見たばかりだからこそ、信じたくなかった。
だけど、夫婦が死ぬまで円満に添い遂げるというのは、時に難しいものなのだろう。
人生、山もあれば、谷もある。
緒林の言うとおり、プロポーズの瞬間が山頂だったのだとしたら、あとはひたすら下るだけだったのかもしれない。
「八十三まで生きて、人生で一番大事な思い出が、あいつへのプロポーズだなんてな。ああ、みっともねえ。同じ食卓についてもろくに会話がなく、口を開けば喧嘩ばかりで、病気が重くなるまで体調の相談すらしてもらえなかったような、そんな険悪な夫婦仲だったのによ」
緒林は、白いコーヒーカップの縁を、右手の中指の爪でピンと弾いた。
「所詮、一方通行の愛だったんだ。あいつは料理も裁縫もプロ並みに得意で、何より、道行く男が次々振り返るような器量よし。対して俺は、鍛冶場にこもってばかりで、家庭を顧みもしなかった。どうせ、あいつは俺なんかに嫁いだことを後悔して、他に男を作ってたに違いねえ。男の側も、あれを放っておかねえだろうしな」
「そんなこと……ないですよ……」
「ああ、思えば仕事ばかりで、味気ねえ人生だった。妻子を養うために朝から晩まで金槌を振るい続けた挙句、結局は女房にも息子らにも愛想(あいそ)を尽かされてよ。これが、時代に逆らい続けた町の鍛冶屋の末路ってもんさ」
緒林の背中が、不意に萎縮(いしゅく)して見えた。さっきまでは、態度の大きい、頑固で面倒なお客さんだと思っていたのに。
――そうか、だから緒林さんは、相席カフェラテを頼まなかったんだ。
ようやく納得がいった。
けれど、それはあまりに悲しい理由だった。
どんな言葉をかけていいものか、また、分からなくなる。
店内が静寂(せいじゃく)に包まれた。マスターも、カウンターの中で身じろぎもせず、じっと天井を見つめている。上を向いた顔もやっぱり、精巧(せいこう)な人形のように整っていた。
「そういや」と沈黙を破ったのは、緒林だった。「ここは“あの世”なんだろ。ってこたぁ、店員のお前らも死んでるのか?」
「え、えっと……私は二年後に……急病で……」
「うん? 今はまだ生きてるってことか」
「そうなんです。ちょっと……バイトをしに来てまして」
歯切れが悪く答える。すると緒林は「もったいねえな」と唇の端を上げた。
「せっかく生きてるのに、こんなところで時間をつぶしてていいのかよ? バイトなんざ、現世でいくらでもできるだろうに」
「い……いいんです! 帰っても面倒なことばかりですし……私がここにいたいと思って、決めたことですからっ!」
マスターやアサくんが、心配そうな顔をしてこちらを眺めている。未桜はその視線に気づかないふりをして、コーヒーカップの持ち手にかけたままの、緒林の節くれだった指を見つめた。
「あと二年か。そんじゃ、大恋愛をするにも結婚するにも時間が足らねえな」
「そうですよね……せめて一生に一度でいいから、彼氏くらいはほしかったんですけど」
「お? もしや姉ちゃん、恋愛未経験か。だが残念だったな。人間の性格ってのはそう簡単に変わらねえ。奥手な奴は、どうせ最後まで奥手だよ。彼氏は来世に持ち越しだ」
「そ、そんなぁ……」
緒林が身も蓋もない決めつけをする。未桜はがっくりと肩を落としたけれど、緒林はちっとも気づかない様子で、マスターを見上げて問いかけた。
「とすると、お前さんたちもみんな、生きてんのか? 貴重な時間を費やして、わざわざ“あの世”で働くたぁ、どんな物好きよ」
「いえ、彼女が特殊な例なんです。僕たちはもう、現世を離れて久しいですね」
マスターがアサくんと目を合わせ、何ということもなさそうに言う。
未桜ははっと息を呑んだ。
――やっぱり、マスターもアサくんも、かつては……生きていた?
「おう、そうか。お前さんたちも死んだのか。そんなに若くして、かわいそうに。病気か? いや、事故か?」
「もうずいぶんと長いこと、ここにいますからね。生きていた頃のことは、ほとんど覚えていないんです。すみません」
秘密主義なのか、それとも、本当に記憶にないのか。マスターの顔をじっと観察してみたけれど、表情の変化が小さく、どちらとも取れなかった。
マスターが亡くなったのは、いつのことなのだろう。
アサくんは、ここで働き始めて十年が経つと言っていた。ということは、たぶん、それよりは前。
十五年、二十年、五十年。
いや、ひょっとすると、百年や二百年前――。
マスターが醸し出す、不思議で深みのあるオーラは、そういう背景から生まれたものなのかもしれない。年齢は若いのに、喋り口調がどこか達観(たっかん)しているのは、そのせいか。時を超越した存在だからこそ、常に冷静で、落ち着いていて、未桜のことも広い心で受け入れてくれたのではないか。
こちらの視線に気づいたのか、マスターがふと、漆黒の瞳をこちらに向けた。
切れ長の、綺麗な目だ。
再び心臓が跳ね上がりそうになり、慌てて目を逸らす。
「僕は、交通事故でしたよ!」
アサくんが、小学校の授業で発言するかのように、元気よく手を挙げた。
「学校から帰ってきた後、自転車で公園に遊びにいこうとして、横断歩道を渡ったら、信号無視のトラックが突っ込んできたんです」
「車に轢(ひ)かれて死んだのか。ひでえ話だ」
「実は、その時点では、意識不明の重体でした。“器”は植物状態で何もできないのに、まだかろうじて命があるから、現世と来世の間で僕の魂は宙ぶらりん。そのときに、マスターが拾ってくれたんです。それで、ここで働くことになりました」
「えっ! ってことは、アサくんの身体は、まだどこかの病院で生きてるの⁉」
未桜はぱっと手を口に当て、驚いて叫んだ。「いえいえ。さすがにもう」とアサくんが苦笑する。
「事故に遭ったのが、十年前。で、僕の“器”の命がようやく尽きたのが、その四年後。十五歳のときです。でも、“器”から魂が離れたのが事故に遭った十一歳のときなので、そこで時が止まっちゃってますね」
そう言って、アサくんが自分の小さな身体を見下ろした。
「本当は、もう希望さえすればいつでも生まれ変われるんですけど、結局ずっと居座っちゃってます。来世喫茶店の従業員って、運よく枠が空いていない限り、なかなかなれるものでもないですし……何より、居心地がとてもいいので!」
アサくんが誇らしげに胸を張った。この穏やかな空気の流れるレトロな喫茶店に心惹かれたのは、未桜だけではなかったようだ。
「懐かしいね。アサくんの採用を決めた日のことが」
マスターがにこやかに口を挟んだ。
「僕たちがここで出会ったあの日は、長く勤めてくれていた店員がちょうど生まれ変わりの輪に戻ったばかりだったから、たまたま枠が一つ空いていたんだったね」
「そうそう。ものすごくラッキーでした!」
「ラッキーだったのは僕のほうだよ。明るさと真面目さと、お客様みんなに好かれるような可愛らしさを併せ持ったアサくんを、とてもタイミングよくスカウトすることができたんだから」
マスターはそう言ってから、来世喫茶店のことをよく知らない緒林と未桜が話に置いていかれないよう、補足説明をしてくれた。
「要するに──僕たち従業員は、現世と来世の狭間(はざま)に生きる人間なんです。従業員になるきっかけは、アサくんのように、生きながらにして“器”に長期間戻れなくなってしまった場合が多いですね。その後“器”がその生命を終えても、従業員の立場はそのままになるというわけです。まあ、いずれにしろ、採用するかどうかはマスターである僕の一存で決まるわけですが」
「それにしても、気の毒な話だ」
緒林が鼻の頭にしわを寄せ、アサくんのほうへと身を乗り出した。
「交通事故のせいで病院にぶち込まれて、そのままこの世とおさらばか。お前、俺と一緒だな」
「はい、一緒です。奇遇(きぐう)ですね!」
アサくんがにこやかに答える。死んだときの話をしているとは思えない。出身地か何かの話ではないかと錯覚してしまう。
強い仲間意識を覚えたのか、緒林がアサくんを手招きした。互いに顔を寄せ合い、半ば嬉しそうに、二人で会話し始める。
「お前、十一歳って言ったか」
「ええ」
「それにしちゃ、ずいぶんと利口そうじゃねえか」
「生きていれば二十一歳ですからね。自分ではよく分かりませんが、精神年齢は年々増えてるんじゃないかと」
「見た目は子ども、中身は大人ってわけか」
緒林がガハハと笑う。漫画で見たような話だな、と思うと同時に、はっとした。
アサくんは、もし生きていたら、未桜より三つも年上のはずだったのだ。それなのに、信号無視のトラックのせいで――。
「おい少年。お前、交通安全のお守りは、持たせてもらってなかったのか?」
「お守りですか? いえ、特には」
「持っていれば、助かったかもしれなかったのにな。あれはけっこう効くぞ」
「あれれ? 緒林さまって、案外、信心深いんですね」
「案外とは何だ、こんにゃろう」
緒林が相好を崩し、アサくんの脇腹を小突いた。ひゃあ、とアサくんの声が裏返る。
老人とは思えないほど、緒林の動作は敏捷(びんしょう)だ。ここでは、生前の体力や筋力の衰えは、なかったことになっているのかもしれない。
そんなことを考えながら緒林のことを観察していると、あることに気づいた。
「もしかして、それ、お守りですか?」
未桜は緒林に一歩近づき、首元を指差した。セーターの襟(えり)の上に、白い紐が見え隠れしている。
「お、ここにあったのか。肌身離さずつけてたから、あの世まで持ってきちまったんだな」
緒林が頬を緩ませ、よいしょ、と細い紐を引き出した。彼が首から下げていたのは、小さな巾着(きんちゃく)型のお守りだった。
緒林が、お守りを掌の上で転がす。白い布でできていて、表には『交通安全』、裏には『御守』という金色の文字が刺繍(ししゅう)してあった。巾着の口の部分には、小さな鈴がついている。
「半年前も、これを身に着けていれば、事故に遭わずに済んだかもしれなかったのによ。あのときは夜中だったから、もう寝間着に着替えてたんだ」
「ってことは、寝るとき以外は、肌身離さず持ち歩いてたんですか?」
「ああ。三十年以上も前からな」
緒林は遠い目をして、雪の降りしきる窓の外を眺めた。
「あれは、女房が死ぬ少し前のことだった。変な霊にでも憑(つ)かれたのか、俺が頻繁(ひんぱん)に交通事故に遭うようになったんだよ。乗っていたバスに後続車が突っ込んだり、横断歩道を渡っているときに右折してきたバイクと接触したりな」
「ええっ、危ない!」
「幸い、後遺症が残るような怪我はなかったんだが、何度も病院に通ったよ。若(わけ)え医者に、『お祓(はら)いでも行かれたらどうです?』なんて鼻で笑われたりしてな。あれは気分が悪かった」
緒林は一瞬眉を寄せたものの、気を取り直したように、白いお守りをそっと握った。
「だがな、お祓いなんて行かずとも、交通事故にはぴたりと遭わなくなったんだ」
「このお守りを……身に着けるようになったから?」
「ああ。ある日夜遅くに仕事を終えて家に帰ったら、夕飯の横に置いてあったんだ。『効き目があるらしいので、どうぞ身に着けてください』って書き置きとともにな」
思わず、うふふ、と声が漏れてしまった。「おい姉ちゃん、なぜ笑うんだ」と緒林が眉尻を上げる。
「だって、微笑ましいじゃないですか! 緒林さまのことを心配した奥さまが、神社に行ってお守りを買ってきてくれたってことですよね? やっぱり、一方通行の愛なんかじゃなかったんですよ。お二人の愛は、対面通行だったんです!」
「ちょっとちょっと、八重樫さん! 『対面通行』だと、なんだかすれ違ってるみたいに聞こえます」
「じゃあ何て言えばいいの? 正面衝突?」
「それだと喧嘩しちゃってます!」
「とにかく、愛想を尽かされたなんていうのは気のせいで、お二人は相思相愛だったんですよ! 夫のことが好きじゃなかったら、わざわざお守りを渡したりするはずがありません。よかったですね、緒林さま!」
アサくんにツッコミを入れられながらも、未桜は緒林の話から受けた印象を、余すところなく伝えた。
けれど、緒林は相変わらず頑固だった。「そんなわけはねえ」と仏頂面(ぶっちょうづら)で言い、首を左右に振る。
「どうせ、俺の医療費がかさんで生活を圧迫するから、仕方なく用意しただけだろ。その頃には、女房の病気もすでに分かってたしな。お守り一つで厄除(やくよ)けできて、一家の大黒柱がしょっちゅう怪我をしなくなるなら、安いもんだ」
「そんなことな――」
「俺はあいつにとって、わがままで、浪費家で、そのくせ稼ぎも悪くて……誰にも自慢できない、甲斐性なしの亭主だったのさ。俺が先に死ねば、あいつも羽を伸ばせただろうにな。俺より三十年も早く、五十で逝くなんて、さぞ心残りも多かったろう」
緒林はそう吐き捨て、天井を見上げた。
「……来世か。元気でやってるといいんだがな。今度こそ……長生きしろよ」
その言葉に、胸を締めつけられる。
――緒林靖子さん、聞こえていますか。
いや、もうその名前ではないのだろうけれど。
前世のことはすべて忘れて、どこかに生まれ変わっているのだろうけれど。
――靖子さんの気持ちがどうだったかは、正直、分かりません。でも、不器用で頑固なご主人がこれほど妻を愛していたということを、あなたは知っていましたか?
緒林がソーサーからカップを取り上げた。半分ほど残っているメモリーブレンドを、もう一口飲む。
その瞬間に、緒林の表情が柔らかくなった。今は身体に触れていないから、どんな光景を見ているのかは分からないけれど、靖子さんとの思い出の続きを再体験しているのだろう。
アサくんにブラウスの袖を引っ張られ、そっとその場から離れた。
来世に“向かう”前の、大切な儀式(ぎしき)を、邪魔(じゃま)してはいけない。