未桜は先ほどマスターからもらったメモ帳とペンを構え、アサくんの流れるような説明に耳を傾けた。お客さんをお迎えし、席に案内し、注文を取り、マスターに伝票を渡す――という仕事の内容は教えてもらったけれど、肝心のドリンクの効能については、まだ何も聞いていない。
「まず、『メモリーブレンド』。こちらは、人生で一番大切な思い出を再体験できるブレンドコーヒーです。どの記憶を選ぶかは、緒林さまの自由です。このコーヒーを飲むと、来世でもまったく同じ――とは言い切れないのですが、ほとんど(、、、、)同じ体験ができることが約束されます」
「うーん、どういうことだ?」
「例えば、人生で最も心に残っている記憶が、『水泳大会で優勝して、校長先生に表彰されたこと』だとしましょう。すると来世でも、何らかの大会で好成績を修め、全校生徒の前で表彰される、という出来事が起こります。ただし、種目は水泳ではないかもしれない。もしかするとスポーツでもなく、読書感想文かもしれない。もちろん、時代も場所も、ひょっとしたら国も違うわけですから、校長先生だって別人です」
「思い出の重要な部分を押さえつつ、同じような出来事を起こせるってこったな。にしても、例に挙げるのが水泳大会や読書感想文とは……いかにも小学生だ」
 緒林にツッコミを入れられ、アサくんが途端に赤面する。
 こういう具体例を出すくらいだから、やっぱりアサくんも、現世で小学校に通ったことがあるのかな?
 そんな疑問が首をもたげる。
けれど、その瞬間に次のドリンクの説明が始まったため、未桜はメモを取るのに集中せざるをえなくなった。
「次に、『相席カフェラテ』です。このカフェラテを飲むと、現世で会話したことのある人の中で、もう一度会いたい人を一人選び、この喫茶店に呼び出すことができます。その相手は、今生きている方でも、自分より前に亡くなった方でも構いません」
「えっ、そんなことができるの⁉」
 店員という立場を忘れ、思わず素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を上げてしまった。緒林がじろりとこちらに目を向け、アサくんが「八重樫さぁん」と責めるような声を出す。
「ご……ごめんなさい」
未桜が背中を丸め、再びメモに視線を落とすと、アサくんが説明の続きを喋り始めた。
「それで、『相席カフェラテ』を頼んだ場合の“来世の条件”の決め方なんですが――」
「ああ、もういいよ。長ったらしい説明は」
 緒林が片手を左右に振り、アサくんの言葉を遮った。
「三つ目の紅茶は、『カウンセリング』って名前がついてるあたり、俺がいろいろ喋らなきゃならねえんだろ? それは御免(ごめん)だ、口下手だからな。で、『本日のスイーツ』ってのは、どんな効能があるんだ?」
「あ、それは特に何も。お菓子作りはマスターの趣味なので……当店限定の、独自サービスです」
 ――えっ、そうだったの⁉
 今度は口に出すのはこらえたけれど、心の中でズッコケた。
 振り返ると、カウンターの向こうでカップを磨いているマスターが、口元に薄い笑みをたたえている。
 ――りんごとヨーグルトのパウンドケーキ、私もほしい……。
 明歩とランチを食べにいったお店で、生クリームが山盛りにのったパンケーキをあれだけ食べたはずなのに、急にお腹が空いてくる。
特に効能も何もない、ただのお菓子なら、あとで未桜にも分けてくれたりしないだろうか。それとも、“生ける人”にはあげられないと、断られてしまうだろうか。この優しそうなマスターなら、快(こころよ)く食べさせてくれそうな気がするけれど。
 ふと気がついて、未桜は入り口の脇の棚に目をやった。
スイーツ作りがマスターの趣味ということは、あそこに置いてある袋詰めされたクッキーも、マスターが空き時間に焼いたものなのだろう。
改めてよく観察すると、『ご自由にお持ちください(来世に辿りつく前に食べ終えてください)』という注意書きが、棚の上部に貼られていた。
「何だ、ただの趣味かよ。じゃあ、メモリーブレンドで。スイーツは要らないから、さっさと持ってきてくれ」
 緒林がアサくんにメニューを突き返し、投げやりに言い捨てた。
 そんなにあっさり決めちゃっていいのかな、と心配になる。
 来世を左右するかもしれない、大事な一杯なのに――。
「メモリーブレンドですね。かしこまりました」
 未桜と違って、アサくんは緒林の言葉を素直に受け入れ、伝票に注文を書き込み始めた。こういうお客さんは、特に珍しくないのかもしれない。
「緒林さまが再体験されたいのは、何の記憶ですか?」
「……言わなきゃならねえのかよ」
「コーヒーを淹れる際に、マスターが香味の調整をするんです。豆の配合比率やドリップ方法を、対象となる記憶に応じて変えるんですよ。よろしければ、だいたいの時期と内容を教えてもらえますか?」
 緒林は顔を歪め、カウンターの向こうに立つマスターを見上げた。
「おい、なんとなく察(さっ)して当てるこたぁできないのかよ。お前さんの腕でよ」
「どうしてもというご要望であれば、できないことはありません。ただ、メモリーブレンドを飲めるのは一回だけ。万が一緒林さまの意図しない記憶が呼び起こされてしまっても、やり直しは利きませんので……」
 マスターが表情を動かさず、物腰柔らかに答える。すると緒林は気恥ずかしそうに目を逸らし、髪の少ない頭をガシガシと掻いた。
「ったく、仕方ねえな。……三十年前に死んだ女房との思い出だよ。俺があいつに結婚を申し込んだときのだ。俺が二十六、あいつが二十三の冬」
「うわあ、プロポーズですか? 素敵!」
 未桜が思わず両手の指を組み合わせると、緒林が「うるせえな」と吐き捨てた。ただ、文句をつけているというよりは、照れ隠しに見える。
 ペンを構えていたアサくんが、緒林の話した内容を伝票に記入しようとして、ふと手を止めた。
「あの、本当に大丈夫ですか? 相席カフェラテを頼めば、奥さまと直接会うこともできますけど……」
「いいんだよ、ブレンドで。カフェラテなんざ、俺みたいなジジイが飲むもんじゃねえ」
「で、でも、自分より先に亡くなって、すでに生まれ変わっている相手でも、元の姿に戻った状態でここに呼び寄せられるんですよ? これが最後のチャンスです。そんなに大切な奥さまなら、三十年ぶりにここで会ってみては――」
「別に会いたかねえんだよ! 余計な口挟むな」
 突然、緒林が凄んだ。アサくんが縮み上がり、「ご、ごめんなさい!」と頭を垂れる。
そつなく接客していたように見えたけれど、アサくんはどうも、想定外の展開に弱いようだ。未桜に黄色いチケットを渡しにきたときだって、間違いが判明した途端、精神年齢が見た目相応に逆戻りしていた。
「それでは、メモリーブレンドをご用意しますね。ミルクとお砂糖はおつけしますか?」
「ああ。一応もらおうか」
「承知いたしました。それでは、少々お待ちください!」
 スーツの上からつけたエプロンのポケットにペンをしまうと、アサくんはちょこちょことカウンターの中へと走っていった。
 未桜も後を追う。緒林拓男は、未桜が来世喫茶店にやってきてから初めてのお客さんだ。マスターが特別なブレンドコーヒーを淹れるところを、ぜひこの目で見てみたかった。