未桜は改めて、辺りを見回した。
 アサくんの説明によると、ここは“あの世”のはずだ。だけど、驚くほど現実に似ている。
店内は、コーヒー豆を挽(ひ)くときの香ばしい香りで満たされている。他のお客さんは、おじいさんとおばあさんが一人ずつ。別々のテーブルについて、くつろいだ様子でカップを口に運んでいる。
先ほど入ってきた入り口の隣には、木製の棚があった。色とりどりのリボンで丁寧に袋詰めされたクッキーやパウンドケーキが、種類ごとに小さなバスケットに入れられ、並べられている。
見たところ、レジはない。お客さんにお金を払ってもらうわけではないから、必要がないのだろうか。
「ところで、彼女をどうやって連れてきたの?」と、マスターが手元のカップを拭きながら、アサくんに尋ねた。
「ええっと……どうやって、というと?」
「“生ける人”がここにいる間は、現世にある身体から魂が抜けて、意識不明の状態になるよね? とすると、八重樫さんの“器”は今どこにあるのかな、と」
「あっ、わっ、それは……普通に……生身のまま……その場に置いてきちゃいました……」
 おっと、とマスターが苦笑する。
 未桜も目を丸くして、アサくんに詰め寄った。
「もしかして私、今、あの歩道で気を失って倒れてるの? と、と、東京のど真ん中で?」
「きっと今頃、大騒ぎになってるね」マスターが神妙(しんみょう)に言う。「まあ、人通りが多い都会だからこそ、安全に病院まで運んでもらえるだろうとは思うけど」
「嘘っ……聞いてないよ! 確かに、魂だけを連れていくとは言ってたけど、まさか身体だけがあそこに置き去りだなんて……」
「ごめんなさい! 本当に! ああ、僕はなんでこんなに間抜けなんだろう。本部に何枚始末書を提出しても足りないっ!」
 アサくんは頭を抱え、いよいよ落ち込んでしまった。
 さすがにかわいそうになる。未桜は紛(まぎ)れもなく被害者で、過失割合はどう考えても〇対十だけれど、真っ赤なほっぺをした少年を徹底的に痛めつける趣味はなかった。
「まあ、もう後の祭りだし、それはいいんだけど……さっきから言ってる『本部』って、何のこと?」
「僕から説明しようか。ちょうど手が空いたところだし」
 マスターが緩く微笑み、「よかったらどうぞ」と、誰もお客さんのいないカウンター席を指した。恐る恐る近づくと、度重なる失敗の埋め合わせをするかのように、アサくんが光の速さで椅子(いす)を後ろに引いてくれた。
 未桜が腰かけるのを待って、マスターがカウンターの上に両手を置き、静かな口調で尋ねてきた。
「生まれ変わりの仕組みについては、すでにアサくんから聞いた?」
美しい瞳でじっと見つめられていることに、どうしようもなくドキドキする。未桜はやっとの思いで、こくりと頷いた。
「人間は、この世とあの世を往復するんですよね。あの世というのは、ここ来世喫茶店のことで……死ぬ直前にはお店の人が訪ねてきて、寿命を告げられ、行き先が書かれた黄色いチケットを渡される」
「そうそう。砂時計の効果でいったん忘れてしまうけど、死ぬ間際の人間というのはみんな、来世喫茶店の従業員に一度は会ってるんだ。招待券――黄色いチケットのことを再び思い出すのは、いざ死を迎えてから。事前案内をきちんとしておくことで、こちらの世界に来てから、お客様方が混乱をきたさないようにしてるんだよ」
 あの黄色いチケットには、未桜が死ぬ日付が書いてあった。
 死ぬのは寂しい。
享年二十一歳なんて、早すぎると思う。
だけど、不思議と怖くはなかった。
嫌だ、死にたくない、というマイナスの感情もない。
昔から、不思議に思っていた。小説やドラマでは、長いあいだ病魔(びょうま)と戦っていた人が穏やかに死を迎えるシーンが多いけれど、あれはフィクションだからだろうか、と。ただ、現実でも、亡くなる間際の老人が暴れて抵抗したり、恐怖に震えて泣き喚いたりしたという話は、ほとんど聞いたことがない。
あれはもしかしたら、黄色いチケットの効果だったのかもしれない。死後の行き先について案内を受けた記憶が無意識下に眠っているからこそ、なんとなく安心し、落ち着いた気持ちで最期の時に臨むことができたのだろう。
アサくんは今日、未桜にそういう心の準備をさせるために、黄色いチケットを持って声をかけてきたのだ。――まあ、タイミングが二年ばかり早かったみたいだけれど。
「ごめん、前置きが長くなったね。本部の正式名称は、『来世喫茶店日本統括本部』っていうんだ」
「と、とう――とうかつ?」
「さて、八重樫さんは、日本では一日何名が亡くなっていると思う?」
 突然、クイズ番組の出題者のように、マスターが質問を投げかけてきた。
 ――えっ、何名だろう。
 全然、答えが浮かばない。じっと考え込んでいると、マスターはそれ以上畳みかけることなく、長くて形の綺麗な指を三本立てた。
「三千名だよ。一日に、日本だけで」
「そんなに!」
「だから『来世喫茶店』は、一店舗では足りないんだ。日本には、ここと似たような規模の店が、全部で六十ある」
「全国チェーン、ってこと?」
 口に出してから、その言葉の軽さに赤面した。マスターはくすりと笑い、「そう捉えてもらって構わないよ」と頷いた。
「全国、というと語弊(ごへい)があるけどね。この地域の人はこの店に行く、という明確な決まりがあるわけではないから」
「でも、この『日本三十号店』に来るのは、だいたいが千葉の人ですよねぇ?」
 アサくんが口を挟んだ。うずうずしている様子を見るに、話に加わりたくて仕方がなかったようだ。
「確かに、そういう傾向はある」と、マスターが微笑む。「八重樫さんも、千葉の人なのかな?」
「あ、はい! そうです」
「あれぇ、でも今日は東京にいましたよね?」
 首を傾げたアサくんに向かって、「地元にあんなお洒落なカフェはないから、大学の近くでバイトを探したの!」と口を尖らせる。自分のミスのせいで未桜が面接を受け損ねたことを思い出したのか、アサくんはまたしゅんとした顔になった。
「まあ、千葉だろうと東京だろうと、亡くなったときにどの店舗に割り振られるかは運次第なんだ。『日本何号店』なんて画一的な名前がついてるけど、一つ一つの喫茶店は、建物の作りもドリンクメニューも、コーヒーの淹(い)れ方も違う。さしずめフランチャイズだね」
 未桜の「全国チェーン」発言に合わせたのか、マスターがややおどけた口調で言った。ふふ、という小さな笑い声が、妙に耳に心地いい。
「僕たちは言ってみれば加盟店のオーナーで、本部が僕たちを統括しているというわけ。といっても、本部はあくまで事務作業や店舗間の調整業務がメインで、ほとんどの仕事の裁量(さいりょう)はこちらにあるんだけど」
「このお店に来るお客様は、すっごくラッキーなんですよ! マスターは間違いなく、日本にある六十の来世喫茶店の中で、コーヒーを淹れるのが一番上手なんですから!」
 またアサくんが、自分のことのように胸を張る。「美味しい賄い」の一件といい、アサくんはマスターのことを心から尊敬しているようだ。
 目を見合わせて笑う二人を眺めながら、未桜は腕組みをした。
 この喫茶店があの世の一部で、日本で亡くなった人の六十分の一がこのお店にやってくるということは分かった。
 でも――。
「……で、ここっていったい何なの? 現世と来世の間にあるのが……なんで喫茶店?」
 別に三途の川でもいいのにな、と思う。だだっ広い原っぱでも、よく西洋絵画で天使とともに描かれるような、綿あめのような雲の上でもいい。『あの世=喫茶店』説なんて、普通に生きていて、一度も聞いたことがなかった。
しかも、死んだらこんなにカッコいい男性と可愛い少年の二人組が待っているなんて、まったくの想定外だ。
 未桜がよほどしかめ面をしていたのか、「大事な説明がまだだったか」とマスターは可笑(おか)しそうに口角を上げた。
「僕たちの役割は、特別なドリンクを提供することでお客様の希望を伺い、来世の大まかな形をデザインすることなんだ」
「来世の……形を……デザイン?」
「方法はとっても簡単。三つあるドリンクメニューの中から、気になる一杯を選んでもらうんだ。ブレンドコーヒーか、カフェラテか、紅茶か――どれを選ぶかによって、『こんな来世にしたい』という条件の決め方が変わる。それぞれのドリンクに、特有の効能(こうのう)があるからね」
 タイミングを見計らったかのように、アサくんが「どうぞ!」と黒い表紙のメニュー表を持ってきた。見開き一ページしかなく、左にはドリンクメニュー、右にはスイーツメニューが載っている。

『メモリーブレンド』
 人生で一番大事な思い出を、もう一度――そして来世でも
『相席カフェラテ』
 今一番会いたいあの人と、話し合い――理想の来世について
『マスターのカウンセリングティー』
 来世の条件は、マスターにお任せ――あなたのお話、じっくり聞きます

『本日のスイーツ』
 りんごとヨーグルトのパウンドケーキ

 それぞれのドリンク名の隣に書かれているのが、特有の効能、だろうか。
 けれど、メニューの説明書きはシンプルすぎて、読んだだけではよく分からない。首を傾げていると、「接客の様子を見ていれば、じきに分かりますよ」とアサくんがメニューを未桜の手から取り上げながら言った。
「ドリンクの成分の調整次第で、来世が大きく変わるんです。その点、うちのマスターは本当に腕がいいので、皆さん安心されるんですよ」
 すっごくラッキー、というのはそういうことか――と、アサくんの言葉を聞いてようやく理解する。
 ここは、終わったばかりの人生を振り返り、それを踏まえて来世のあり方を決めていく場所。
 その「大まかな形をデザインする」のが、来世喫茶店の従業員の仕事。
 なるべく希望を反映させた形で生まれ変われるかどうかは、特別なコーヒーや紅茶を淹れる、店のマスターの腕に大きくかかっている――。