「さて……せっかく隠してたのに、全部暴かれちゃったね。本部に知れたら、どうなることやら」
「いいんじゃないですか? こっちから前世のことを話すのは禁忌でも、本人に当てられちゃうぶんには構わないんでしょう?」
 アサくんが屁理屈をこねる。未桜も「そうですよっ!」とピンと手を挙げた。
「全然大丈夫です! だってこの記憶も、現世に戻れば、砂時計で全部……」
 自分で言っていて悲しくなり、声がしゅんと小さくなる。
 そうだ。すっかり忘れていたけれど、もう、お別れの時間が近い。
 未桜が目を覚ますのを待っているお父さんの元へ、帰らなければならない。
 後ろ髪を引かれる思いで、目の前の水のグラスに手を伸ばした。
 一口、また一口。
 時たまマスターの顔を見上げながら、少しずつ飲んでいく。
「申し訳ないね。メモリーブレンドも相席カフェラテも無理やり押しつけた上に、水まで飲ませてしまって」
「これくらい、全然平気ですよっ! マスターが出してくれたものなら、何杯でも飲めます! だって……すごく、幸せな気持ちになれるし」
「うわぁ、やめてくださいよ未桜さん、聞いてるこっちが恥ずかしくなりますからぁ」
 他愛もない会話をしながら、ごくりごくりと喉を鳴らし、前世の自分が設定した“来世の条件”をクリアしていく。
 こうしてマスターやアサくんと言葉を交わす時間は、とても楽しかった。
 グラスに入った水の残りが、徐々に少なくなる。
胸の苦しさが、どんどん増していく。
「はあ……」
飲み終えた瞬間、ため息が出た。カウンターで水を飲んだだけなのに、一仕事終えたような、しがらみから解き放たれたような、そんな不思議な感覚に陥る。
これで、現世に帰れるのだ。
アサくんに寿命を告げられてしまったことも、ここで楽しく働かせてもらったことも、マスターに恋をしたことも、すべてを忘れて。
「あの、マスター、アサくん……本当にありがとうございました。念願だった喫茶店バイトができて、美味しい賄いも食べさせてもらって、いろいろなお客様とお話しして、お父さんに対する誤解も解けて、前世で素敵な恋をしていたことも分かって……私にとって、かけがえのない四日間でした。この記憶は現世に帰ったら消えてしまうんでしょうけど……絶対、忘れません。マスターとアサくんのこと、潜在意識の奥底で、意地でも覚えておきます!」
「何ですかそれぇ」
 アサくんがケラケラと笑う。マスターも口元を緩ませていた。そんな二人の目に、一抹の寂しさが宿っているのを見て、心にぽっと灯がともる。
 未桜は両手を膝に置き、カウンターに前髪が触れるくらい、深々と頭を下げた。
「このたびは本当に、お世話になり──」
「その前に」
 別れの挨拶をマスターに遮られ、「ひょ?」と間の抜けた声を出してしまう。笑いを噛み殺そうとして声が漏れているアサくんの横で、マスターが真剣な口調で尋ねてきた。
「先ほど謝っておいてあれだけど……もう一杯、飲んでほしいドリンクがあるんだ」
「ええっ⁉」
 予想外の言葉に驚き、思わずお腹に手を当てる。メモリーブレンド、相席カフェラテ、水を短時間で吸い込んだ胃袋は、水分の摂りすぎですっかりたぷんたぷんになっていた。
「ちょっと未桜さぁん、マスターが出してくれたものなら何杯でも飲めるって言ってたじゃないですかぁ! 女に二言はないんでしょう?」
「それを言うなら男でしょっ!」
 からかってきたアサくんに反射的に言葉を投げ返しつつも、未桜はさっそく胸を膨らませ始めていた。
 マスターが、最後に飲んでもらいたいドリンクって──いったい、何だろう?
「ぜひ、お願いします。いくらでも飲ませてください!」
「いや……ええと、飲むかどうかは、効能の説明を聞いてから判断してもらえればいいんだけどね」
 マスターは遠慮がちな口調で言い、こちらにくるりと背を向ける。「しばしお待ちを」と言い置き、バックヤードに姿を消した。
「あれ? バックヤード……? ドリンクを作る材料、こっちに置いてないんだね。ってことは、もしかして、めちゃくちゃレアなスペシャルドリンク⁉」
「えへへ、それは見てのお楽しみです」
 アサくんが鼻の下をこする。その得意げな様子からして、マスターが未桜に何を出すつもりなのか、アサくんは知っているようだった。
 しばらくして、マスターが扉から姿を現わした。彼が両手に持っているのは、焦げ茶色の粉が入った蓋つきの瓶と、銀紙に包まれた平べったい長方形の板だった。
「それ……板チョコ、ですか?」
「そうだよ。こちらはココアパウダー」
 粉の入った瓶を軽く振ってみせ、マスターはドリンク作りに取りかかった。
 小ぶりの鍋を出してきて、コンロに置く。
 ココアパウダーと砂糖を入れ、軽く混ぜる。
水、牛乳を加えて、火をつける。
 コーヒーでも紅茶でもないドリンクを、マスターが作っているのを見るのは新鮮だった。
 そういえば、チョコレートやココアパウダーの原料であるカカオにも、カフェインが含まれていることを思い出す。
やがて、ふつふつと表面が泡立ち、甘い香りが漂ってきた。
マスターが、細かく刻んだチョコレートを小鍋に投入する。
中身を泡立て器でよくかき混ぜ、いったん消していたコンロの火をまたつける。
慎重な手つきで火加減を調整するマスターの横顔を、未桜は熱に浮かされたように見つめた。
温まった小鍋の中身を、マスターがカップに流し込む。
 未桜の目の前に運ばれてきたのは、カフェラテよりもずっと濃厚でとろりとした、心が満たされるような甘い匂いのする、深い茶色のドリンクだった。
 できあがり──といういつもの軽やかな台詞を、マスターは言わなかった。
 代わりに、緊張した面持ちで、唇を真一文字に結んでいる。
「マスター、あの、これは……」
「ホットチョコレートだよ。正式名は、『ホットスカウトチョコレート』」
「……ホット、スカウト、チョコレート?」
 聞き慣れないドリンク名を、単語ごとに切りながらオウム返しにする。するとアサくんが、「えっへん」と胸を張った。
「ホップステップジャンプ、みたいで可愛いネーミングでしょう? これ、十年前に同じものを飲ませてもらったとき、僕が命名したんです。ただのホットチョコレートじゃ、せっかくの特製ドリンクがかわいそうなので」
 悪戯っぽく笑うアサくんに、「へえ……そうなんだ」と返す。相槌が上の空になってしまったのは、ネーミングの由来よりも、このドリンクの効能が気になっていたからだ。
 ──スカウト、というと……もしかして。
「未桜さん」
「……は、はいっ!」
「よかったら──今度来世喫茶店に来たときには、うちの正式な従業員になってもらえないかな」
 マスターが、一言一句を噛み締めるように言った。
「今これを飲んでおけば、二年後に未桜さんが寿命を迎えたときに、生まれ変わりの環から抜け出して、日本三十号店の従業員になることができるんだ。そうすれば、僕たちは、ここでまた会える。ここでアルバイトをした記憶も、そのときになれば蘇る」
「いやぁ、もう、やっと分かりましたよ!」
 未桜の返事を待たず、アサくんがニヤニヤしながらマスターの肘をつついた。
「マスターってば、十九年もの間、ずっと未桜さんのことを待ってたんですね。店員が二名じゃ人手が足りないのに、全然新しい人を雇おうとせず、『心からいいと思える人を採用したいから』って枠を空け続けて。未桜さんが濃い目のメモリーブレンドの力でここにやってきたときに、今度こそ正式にスカウトしようとしてたんだ! まったく、抜け目なぁい」
「抜け目ないとはひどいなぁ」
 マスターが苦笑する。でも、アサくんの言葉を否定はしなかった。
 今まで十九年間生きてきて、全然、知らなかった。
 現世と来世の狭間──“この世”とはまったく違う世界で、自分のことを待っていてくれた人がいたなんて。
 自分が生まれたときから、無条件に自分のことを愛してくれていた人が、お父さんとお母さんのほかに、もう一人いたなんて。
「……どうかな? さっきも言ったけど、無理にとは言わないよ。もし来世でやりたいことがあるなら、そっちを優先してくれて構わな──」
 マスターが言葉を止め、切れ長の目を大きく見開く。
 驚きの色が浮かぶ漆黒の瞳に見つめられながら、未桜はカップいっぱいのホットスカウトチョコレートを、勢いよく飲み干した。
 ちょうどいい温かさで、ほんのり甘くて、口の中に幸せな余韻を残す、特別なホットチョコレート。
 もったいないくらい急いで飲んでしまったけれど、未桜のためにこのドリンクを作ってくれたマスターの思いは、十分に伝わってきた。
 ごちそうさまでした、とカップを置く。
「やったぁ! スカウト成功です! 僕たち、未桜さんとまた、一緒に働けるんですねっ!」
 アサくんが歓声を上げる。「ほら、どうしちゃったんですかマスター!」と黒いベストの裾を引っ張られて、マスターがようやく笑顔を見せた。
「ありがとう。オファーを受け入れてもらえて、すごく嬉しいよ」
「こちらこそ!」
 堂々と答えてから、急に気恥ずかしくなり、目を逸らす。アサくんがわざとらしく、ヒューヒューと口笛を吹いた。
 そのとき、ふと、あることに気がついた。
「どうした、未桜さん?」
 いつの間にか、微笑んでしまっていたらしい。マスターに怪訝そうに尋ねられ、未桜は慌てて答えた。
「あ、いえ、ちょっとしたことなんです。この日本三十号店って、まさに私のお店だなぁ、と思って」
「というと?」
「30(みお)、だから。そして、30(さわ)、でもある」
 指で数字を示しながら言うと、マスターとアサくんが同時に「おお」と声を上げた。
「全然気づかなかったよ。面白いね、“器”と“魂”の関係は。来世喫茶店の店主としてはベテランの域に達しつつある僕でも、まだまだ分からないことがたくさんある」
「運命、感じません?」
「うん。十九年と少し前、君に初めて会ったときから他人という感じがしなかったんだけど、これがヒントだったのかもしれないな」
 未桜とマスターは、顔を見合わせて笑った。
 ホットスカウトチョコレート。
 それは、別れの寂しさが吹き飛ぶような、この上なく素晴らしいプレゼントだった。
「本当に、お世話になりました」
 外では、すっかり夜が明けたらしい。窓から差し込む金色の朝日を受け、マスターの端整な顔は、いつもよりもずっと輝いてみえた。
「二年後に、待ってるよ」
 マスターの口が動く。送り出された言葉を、未桜はしっかりと受け取った。
「はい!」
 じゃあそろそろ行きましょうか──と、アサくんが手招きをする。
 天使のような薄茶色の髪の少年に続いて、未桜は来世喫茶店を後にした。
 全身に朝日を浴びながら、芝生に挟まれた白い小道を歩く。
 その中ほどで、少年がこちらを振り向いた。
「準備は、いいですか?」
「うん……お願いします」
「……では」
 小さな手が、別れを惜しむように、未桜の手首に触れる。
 芝生の黄緑色と、空の青が、混じり合って揺らめいた。


 白く染まった視界の端で、少年が首から下げた砂時計をひっくり返す。
 またね、という鈴の鳴るような声が、未桜の耳をくすぐった。


「……未桜!」
 誰かに声を呼ばれ、ゆっくりと、重いまぶたを持ち上げる。
 ──あっ。
 久しぶりに聞く、父の声だ。
 キラキラとしたラメの入ったリップグロスを、唇に塗っていく。口元が明るいチェリーピンクに彩られ、顔全体の印象がぱっと華やいだ。
洗面台の鏡に向かって、にっこりと笑顔を作ってみる。
──よぉし、完璧!
 さすがは、テレビCMでやっていたリップグロス。高校生のときから持っていたプチプラコスメの口紅に比べ、色も質感もパッケージデザインも、一回りも二回りも大人っぽかった。
これならきっと、明歩もすぐに気づくだろう。早く見せたくてたまらない。
 鼻歌を歌いながら、洗面所を出ようと振り向いた瞬間、入ってきたお父さんとぶつかりそうになり、未桜は「わあっ!」と素っ頓狂な声を上げた。
「び、びっくりしたぁ」
「ああ、ごめん、ここにいたのか。てっきり、もう外出したのかと」
「出かけるなら、いってきますくらい言うよ!」
「言わなかった時期もあったじゃないか。それもつい最近」
 お父さんが拗ねたように言う。「あっ、確かに。その節はすみませんでした」とぺこりと頭を下げた未桜の口元を見て、お父さんが「おっ」と眉を上げた。
「さっそくつけたのか」
「あ、うん! すごく気に入った。どうもありがとう」
「それはよかった。テレビを見ながら、『いいなぁ、ほしいなぁ』って何度も言ってたもんな」
「えっ、私、そんなに独り言多かった?」
「いつものことじゃないか。自覚してなかったのか?」
 お父さんが呆れた顔をした。「まあ、おかげで未桜のほしいものが分かって、こっちとしては助かったんだけどな」と付け加える。
「でもさ。本当は、もっと驚いてもらえると思ってたんだよ。自分で言うのもあれだけど、俺、娘のために化粧品を買うなんて柄じゃないだろ? それなのに、未桜が『あ、それほしかったんだ、ありがと!』って拍子抜けするほどあっさり受け取るもんだから……ちょっと残念だったな」
「ええっ、そんなこと言われても! うーん、なんでかなぁ……お父さんがこのリップグロスを入学祝いにくれそうだってこと、なんとなく分かってたというか、予想がついてたんだよね」
 くそぉ、とお父さんが悔しそうに顔をしかめる。
「それは……やっぱり……香(かおり)さんとデパートにいる現場を目撃されたから?」
「ううん、それは全然! お父さんが恋人にねだられて、高価なプレゼントを買ってあげてるんだと思い込んでたもん。私、すごくショックだったんだよ?」
「だからあれは違うんだって!」
「だからそれは分かってるって!」
 お父さんから、しつこいほど何度も説明を受けた。あの女の人は、佐藤香さんという職場の事務員さん。今の会社に来る前にフェイシャルエステサロンで働いていたから、化粧品にとても詳しい。娘に喜ばれる入学祝いをあげたいと悩んでいたものの、テレビCMのだいたいのイメージしか覚えていなかったお父さんから情報を引き出し、「あの人気女優が出てる……口紅の色は五つくらいで……ブランドのロゴは金色だったか……」という曖昧すぎるヒントから、リップグロスのブランド名と商品名を瞬く間に特定してくれたのだという。
 倒れる前は絶賛喧嘩中だったけれど、未桜とお父さんの関係は、すっかり元通りになっていた。
 病院のベッドで目を覚まし、いろいろな検査を終えた後のことだった。突然お父さんにスマートフォンの画面を見せられて、とても驚いた。
 なぜかって、お父さんが電話で恋人に向けて語ったのだとばかり思っていた台詞が、メッセージアプリのトーク画面に、そっくりそのまま並んでいたから。
しかも、送信相手は、二年前に亡くなったお母さん。
右手の指を怪我しているから、スマートフォンの音声入力機能を使って愛のメッセージを一方的に送っていたというのが、事の真相だった。(こんな誤字脱字だらけの文章を送りつけられて、お母さんは今頃とても困っていると思う。もし天国でもメッセージが受け取れるのだとしたら、だけれど。)
ただ、未桜はそれでも完全には納得できなかった。「デパートで一緒にいた女の人と付き合ってるんじゃないの?」と尋ねると、お父さんは最初、わけが分からない様子で目を白黒させていた。そしてすぐに未桜のもう一つの勘違いに気づき、「これを買いにいってたんだ。入学おめでとう」と、小さな水色の紙袋を差し出してきた。
その中に入っていたのが、このリップグロスだった。
お父さんは、入学祝いが渡せずじまいになっていたことをすごく後悔していたのだという。だからリップグロスの紙袋を千羽鶴代わりに病室に持ってきて、未桜が意識を取り戻すことをずっと祈っていたのだと言っていた。
未桜が四日間の昏睡(こんすい)から無事に目覚めることができたのは、会社を休んだり早退したりして、毎日長時間見舞ってくれていた父のおかげなのかもしれない。
「変だなぁ。じゃあどうして、俺がリップグロスを贈るつもりだと分かったんだろう。そんなこと、おくびにも出さなかったのに。未桜は恐ろしいほど勘が鋭いなぁ」
「いや、そうじゃなくて……お父さんが化粧品を買ってくれるなんてものすごく意外だし、普通に考えたら予想がつくわけがないんだけど……なんというか……」
 上手く説明できない、おかしな感覚だった。
 お父さんが自分のためにリップグロスを買ってくれたということを、誰かにあらかじめ知らされていたような、でもそのことを忘れかけているような。──お父さんとは何日もずっと喧嘩中で、その間に倒れて意識不明になってしまったのだから、そんなことは絶対にありえないのだけれど。
昏睡している間に、変な夢でも見たのかもしれない。
「それにしてもさぁ、お父さんが未だにお母さんにメッセージを送り続けてるなんてね。しかも、付き合い立てのカップルみたいにアッツアツの」
 話題を変えると、お父さんはあからさまに動揺し、目を泳がせた。
「からかうのはやめてくれよ! あれを未桜に聞かれたと思うと、今も恥ずかしくてたまらないんだ。……実は、部屋から出てきた未桜に怒鳴られたとき、恋人の存在を疑われたとはすぐに分からなくてさ。お母さんへの愛の言葉が気持ち悪すぎて、ドン引きされたのかと思った」
「そんなわけないじゃん! 相手がお母さんだと知ってたら、あんなふうに怒らなかったよ!」
 思わず苦笑する。「いやあ、その点だけは本当によかった」と胸を撫で下ろすお父さんが、やけに可愛らしく見えた。
「あのね、お父さん」
「ん? どうした」
「ちょっと、考え直してみたんだけど。私……お父さんが再婚するなら、ちゃんと応援するよ。もう、今回みたいに嫌がったりしないから」
 未桜が真剣に告げると、お父さんはきょとんとした顔をした。
「さっきも言っただろ? 香さんとは何もないんだ。彼女に限らず、別の女の人との再婚なんて、考えたこともない。お父さんの恋人は、お母さんだよ。これからもずっと」
「でもさ、人生は長いんだよ? 私がいなくなったら、お父さん、一人になっちゃうでしょ。一緒に暮らしたいなって思える女性が現れたら、捕まえておいたほうがいいよ」
「おいおい、なんで未桜がいなくなる前提なんだよ。もしや、近々同棲を考えてる男がいるとか⁉」
「そんな予定はないけどね。でもまあ──」
 どうして急に「私がいなくなったら」などということを言い出したのか、自分でもよく分からなかった。同棲や結婚どころか、彼氏さえもいないのに。
 でもたぶん、これから先は、そういうことも考えていかなくてはならない。お父さんと私、どちらかがいなくなったとしても、残された一人には長い人生が残されているのだから。
「──『いつまでもあると思うな娘と金』ってことで」
「それじゃ字余りだぞ、字余り」
 お父さんが呆れたように目を細める。男との同棲を否定したからか、その声にはほっとした響きが混じっていた。
 じゃ、そろそろ行くんだろ──と話に区切りをつけようとするお父さんの前に一歩進み出て、ダメ押しする。
「その、香さんとか、どうかな?」
「は?」
「デパートで見かけたときの印象だと……たぶんだけど、香さんは、お父さんのことが好きなんじゃないかな。お父さんの荷物を持とうとしたり、じゃれ合おうとしたり、すごく積極的に見えたし。それに普通、職場の同僚が娘へのプレゼントを選ぶのに、わざわざ休日に付き合ったりしないよね」
 お父さんは、目を真ん丸にしていた。
鈍感な人だ。これじゃ、結婚する前はお母さんも苦労しただろうな──と考える。二人の馴れ初めは、きちんと聞いたことがないけれど。
 しばらく逡巡した後、お父さんは洗面所の壁に視線をやり、言いにくそうに口を開いた。
「考えたこともなかったけど……うん。未桜がそう言うなら、頭の片隅にでも置いておくことにするよ。いつか──まだ全然考えられないけど、いつかそういう日が来たら、必ず報告する」
「ありがとう。待ってるね」
 もじもじとしているお父さんの脇をすり抜け、未桜は洗面所から出た。ダイニングの椅子にかけておいたショルダーバッグを取りにいき、大事なリップグロスを中にしまって、玄関へと向かう。
 お父さんの声が、背中に飛んできた。
「いってらっしゃい。まだ病み上がりなんだから、あまり遅くならないようにな」
「はーい! 今日はこのへんで遊ぶから大丈夫!」
 いってきます──と叫ぶと同時にドアを開け、未桜は明るい太陽光の下に飛び出した。
 明歩とは、地元のファミレスで待ち合わせた。高校生の頃から、よく使っているお店だ。
 彼女と直接会うのは、未桜がバイトの面接に向かう途中で倒れた日以来だった。心配して毎日スマートフォンでメッセージをくれていた明歩は、店内で未桜の姿を見つけた途端、「生きててよかった!」と泣きそうな顔をして抱きついてきた。
新しいリップグロスをつけたことにも、やっぱりすぐに気づいてもらえた。「お父さんからもらった入学祝いなんだ」と話すと、「私、まだ親に何ももらってない!」と明歩は地団太(じだんだ)を踏んでいた。
 久しぶりな分、話が弾む。
「ねえねえ、そういえば、バイトの再面接はいつになったの?」
 ホットサンドを食べながら問いかけてきた明歩に、未桜は「え?」と訊き返した。
「こないだ言ってたじゃん。あのカフェの店長さんに電話を入れて、面接に行けなかったことを謝罪したら、特別に面接のやり直しを提案してくれたって。いくら無断遅刻に厳しいカフェチェーンといっても、今回は事情が事情だもんね。お店のすぐ近くの歩道で倒れて救急車で運ばれた人がいたこと、店長さんもきっと小耳に挟んで、心配してたんだよ」
「あ、その話なんだけど……実は、断っちゃったんだよね」
「えええええ⁉ 嘘でしょ⁉」
 次の一口を頬張ろうとしていた明歩が、手を止めて大声を出した。トーストの隙間から、トマトとレタスがぽろぽろとお皿に落ちる。
「未桜のほうから断ったの? せっかく向こうが親切に、もう一回チャンスを作ってくれたのに?」
「うん。あ、もちろん、きちんとお礼を言って、丁重に辞退したよ!」
「そういうことじゃなくて。いったい、どういう風の吹き回し?」
 明歩の大きな目は、眼球がこぼれそうなほど見開かれていた。
 こんなに驚かれるとは思わなかった。だけど、明歩がこういう反応をするのも、当然のことだ。高校で三年間クラスが一緒だった明歩には、一年生のときからずっと、お洒落な喫茶店で働く夢について、事あるたびに語り続けてきたのだから。
「うーん……原因はよく分からないんだけど、カフェでアルバイトをするのはもういいかなって、急に思えてきちゃったんだよね」
「それは、熱が冷めたってこと?」
「というよりは……もう満足した、のかな」
「え、満足?」明歩がぱちくりと目を瞬いた。「働くどころか、面接すら受けてないのに?」
「そうなんだよね。自分でも不思議なんだけど……どこかでもう、カフェのアルバイトを済ませてきたような気分、というか。実際には働いてないのに、小さい頃からの夢が叶ったような気分、というか」
「何それ。意識不明だった間に、変な夢でも見たんじゃない?」
「……そうかも」
 そんな気がしなくもない。お父さんへの嫌悪感も、カフェで働くことへの熱意も、昏睡状態から覚めると、なぜだかすっかり薄らいでいたから。
意識がなかった四日の間に、どうしてこんなにも心境が変化したのだろう。
その理由は、いくら考えても分からなかった。
「もう、未桜ったらさぁ……意識不明になって入院してたことといい、カフェでのアルバイトをやめたことといい、なんで事後報告なの? 大事なことはすぐに言ってよ、親友なんだから。未桜って、どうでもいい話はいっぱいするのに、肝心なことを黙ってる節があるよね」
「わあ、ごめんごめんっ! これから気をつけるね」
 両手をパチンと顔の前で合わせ、目をつむる。数秒経ってからふと気づき、「どうでもいい話って何よ!」と食いかかると、「反応が遅いねぇ。まだ本調子じゃないのかな?」と茶化されてしまった。
 シーフードドリアを口に運びながら、店内を見回す。
 ドリンクバーの機械の前で、小学校高学年くらいの子どもたちがわいわいお喋りしているのを見つけ、微笑ましい気分になった。
十歳か十一歳くらいだろうか。どの子も溌剌としていて、とても可愛らしい。
 ──あれ、私、そんなに子ども好きだったっけ?
 親戚に小さい子がいるわけでもないし、関わりがないはずなのにな──と首を捻る。
病院で目を覚ましてからというもの、自分が生きる世界のいろいろなことが以前と違って見えるのは、気のせいなのだろうか。
「そういえば、街路樹の桜、すっかり散っちゃったね。未桜の誕生日くらいまでは、ギリギリ綺麗だったのに」
 ホットサンドを食べ終えた明歩が、窓の外を指差した。「あ、本当だねえ」と未桜もガラスに顔を近づけ、歩道に植わっている木々を見上げる。
 このファミレスは、桜の時期になると、窓際の特等席がほとんど埋まったままになる。今年は都内のお洒落な有名店に浮気してしまったけれど、高校生のときは、明歩と一緒によく並んだものだった。
「今年はもう終わっちゃったけど、来年は時期を逃さないようにしなきゃ。そうだ、未桜の二十歳の誕生祝いに、お花見しながらデラックスパフェ食べよ!」
「それって、八百円のパフェを食べる口実がほしいだけじゃないの?」
「あはは、バレた?」
 明歩の楽しそうな笑い声を聞きながら、未桜は街路樹を見上げ、美しい桜並木の光景を頭に思い描いた。
 ──再来年まで、あと二回の春を大切にしよう。
 そう自分に言い聞かせてから、ふと疑問を抱く。
──あれ、どうして再来年なんだっけ?
あれこれ思考を巡らせてみたものの、よく分からなかった。成人する年でもないし、大学を卒業する年でもない。
 けれど──と、考える。
 二年後というのは、自分にとって、何か大きな区切りの年なのかもしれない。
 桜の咲く春は、出会いと別れの季節だ。来年も、そして再来年も、未桜と周りの人たちとの関係性は、思いもよらない変化を遂げていく。
 もしかすると、大好きな人との悲しい別れがあるのかもしれない。胸がつぶれるような惜別の時を迎えることになるのかもしれない。
 でも、大丈夫だ。
それと同じくらい素敵な出会いが、きっと二年後に待っているから。


(了)

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