「さて……せっかく隠してたのに、全部暴かれちゃったね。本部に知れたら、どうなることやら」
「いいんじゃないですか? こっちから前世のことを話すのは禁忌でも、本人に当てられちゃうぶんには構わないんでしょう?」
 アサくんが屁理屈をこねる。未桜も「そうですよっ!」とピンと手を挙げた。
「全然大丈夫です! だってこの記憶も、現世に戻れば、砂時計で全部……」
 自分で言っていて悲しくなり、声がしゅんと小さくなる。
 そうだ。すっかり忘れていたけれど、もう、お別れの時間が近い。
 未桜が目を覚ますのを待っているお父さんの元へ、帰らなければならない。
 後ろ髪を引かれる思いで、目の前の水のグラスに手を伸ばした。
 一口、また一口。
 時たまマスターの顔を見上げながら、少しずつ飲んでいく。
「申し訳ないね。メモリーブレンドも相席カフェラテも無理やり押しつけた上に、水まで飲ませてしまって」
「これくらい、全然平気ですよっ! マスターが出してくれたものなら、何杯でも飲めます! だって……すごく、幸せな気持ちになれるし」
「うわぁ、やめてくださいよ未桜さん、聞いてるこっちが恥ずかしくなりますからぁ」
 他愛もない会話をしながら、ごくりごくりと喉を鳴らし、前世の自分が設定した“来世の条件”をクリアしていく。
 こうしてマスターやアサくんと言葉を交わす時間は、とても楽しかった。
 グラスに入った水の残りが、徐々に少なくなる。
胸の苦しさが、どんどん増していく。
「はあ……」
飲み終えた瞬間、ため息が出た。カウンターで水を飲んだだけなのに、一仕事終えたような、しがらみから解き放たれたような、そんな不思議な感覚に陥る。
これで、現世に帰れるのだ。
アサくんに寿命を告げられてしまったことも、ここで楽しく働かせてもらったことも、マスターに恋をしたことも、すべてを忘れて。
「あの、マスター、アサくん……本当にありがとうございました。念願だった喫茶店バイトができて、美味しい賄いも食べさせてもらって、いろいろなお客様とお話しして、お父さんに対する誤解も解けて、前世で素敵な恋をしていたことも分かって……私にとって、かけがえのない四日間でした。この記憶は現世に帰ったら消えてしまうんでしょうけど……絶対、忘れません。マスターとアサくんのこと、潜在意識の奥底で、意地でも覚えておきます!」
「何ですかそれぇ」
 アサくんがケラケラと笑う。マスターも口元を緩ませていた。そんな二人の目に、一抹の寂しさが宿っているのを見て、心にぽっと灯がともる。
 未桜は両手を膝に置き、カウンターに前髪が触れるくらい、深々と頭を下げた。
「このたびは本当に、お世話になり──」
「その前に」
 別れの挨拶をマスターに遮られ、「ひょ?」と間の抜けた声を出してしまう。笑いを噛み殺そうとして声が漏れているアサくんの横で、マスターが真剣な口調で尋ねてきた。
「先ほど謝っておいてあれだけど……もう一杯、飲んでほしいドリンクがあるんだ」
「ええっ⁉」
 予想外の言葉に驚き、思わずお腹に手を当てる。メモリーブレンド、相席カフェラテ、水を短時間で吸い込んだ胃袋は、水分の摂りすぎですっかりたぷんたぷんになっていた。
「ちょっと未桜さぁん、マスターが出してくれたものなら何杯でも飲めるって言ってたじゃないですかぁ! 女に二言はないんでしょう?」
「それを言うなら男でしょっ!」
 からかってきたアサくんに反射的に言葉を投げ返しつつも、未桜はさっそく胸を膨らませ始めていた。
 マスターが、最後に飲んでもらいたいドリンクって──いったい、何だろう?
「ぜひ、お願いします。いくらでも飲ませてください!」
「いや……ええと、飲むかどうかは、効能の説明を聞いてから判断してもらえればいいんだけどね」
 マスターは遠慮がちな口調で言い、こちらにくるりと背を向ける。「しばしお待ちを」と言い置き、バックヤードに姿を消した。
「あれ? バックヤード……? ドリンクを作る材料、こっちに置いてないんだね。ってことは、もしかして、めちゃくちゃレアなスペシャルドリンク⁉」
「えへへ、それは見てのお楽しみです」
 アサくんが鼻の下をこする。その得意げな様子からして、マスターが未桜に何を出すつもりなのか、アサくんは知っているようだった。
 しばらくして、マスターが扉から姿を現わした。彼が両手に持っているのは、焦げ茶色の粉が入った蓋つきの瓶と、銀紙に包まれた平べったい長方形の板だった。
「それ……板チョコ、ですか?」
「そうだよ。こちらはココアパウダー」
 粉の入った瓶を軽く振ってみせ、マスターはドリンク作りに取りかかった。
 小ぶりの鍋を出してきて、コンロに置く。
 ココアパウダーと砂糖を入れ、軽く混ぜる。
水、牛乳を加えて、火をつける。
 コーヒーでも紅茶でもないドリンクを、マスターが作っているのを見るのは新鮮だった。
 そういえば、チョコレートやココアパウダーの原料であるカカオにも、カフェインが含まれていることを思い出す。
やがて、ふつふつと表面が泡立ち、甘い香りが漂ってきた。
マスターが、細かく刻んだチョコレートを小鍋に投入する。
中身を泡立て器でよくかき混ぜ、いったん消していたコンロの火をまたつける。
慎重な手つきで火加減を調整するマスターの横顔を、未桜は熱に浮かされたように見つめた。
温まった小鍋の中身を、マスターがカップに流し込む。
 未桜の目の前に運ばれてきたのは、カフェラテよりもずっと濃厚でとろりとした、心が満たされるような甘い匂いのする、深い茶色のドリンクだった。
 できあがり──といういつもの軽やかな台詞を、マスターは言わなかった。
 代わりに、緊張した面持ちで、唇を真一文字に結んでいる。
「マスター、あの、これは……」
「ホットチョコレートだよ。正式名は、『ホットスカウトチョコレート』」
「……ホット、スカウト、チョコレート?」
 聞き慣れないドリンク名を、単語ごとに切りながらオウム返しにする。するとアサくんが、「えっへん」と胸を張った。
「ホップステップジャンプ、みたいで可愛いネーミングでしょう? これ、十年前に同じものを飲ませてもらったとき、僕が命名したんです。ただのホットチョコレートじゃ、せっかくの特製ドリンクがかわいそうなので」
 悪戯っぽく笑うアサくんに、「へえ……そうなんだ」と返す。相槌が上の空になってしまったのは、ネーミングの由来よりも、このドリンクの効能が気になっていたからだ。
 ──スカウト、というと……もしかして。
「未桜さん」
「……は、はいっ!」
「よかったら──今度来世喫茶店に来たときには、うちの正式な従業員になってもらえないかな」
 マスターが、一言一句を噛み締めるように言った。
「今これを飲んでおけば、二年後に未桜さんが寿命を迎えたときに、生まれ変わりの環から抜け出して、日本三十号店の従業員になることができるんだ。そうすれば、僕たちは、ここでまた会える。ここでアルバイトをした記憶も、そのときになれば蘇る」
「いやぁ、もう、やっと分かりましたよ!」
 未桜の返事を待たず、アサくんがニヤニヤしながらマスターの肘をつついた。
「マスターってば、十九年もの間、ずっと未桜さんのことを待ってたんですね。店員が二名じゃ人手が足りないのに、全然新しい人を雇おうとせず、『心からいいと思える人を採用したいから』って枠を空け続けて。未桜さんが濃い目のメモリーブレンドの力でここにやってきたときに、今度こそ正式にスカウトしようとしてたんだ! まったく、抜け目なぁい」
「抜け目ないとはひどいなぁ」
 マスターが苦笑する。でも、アサくんの言葉を否定はしなかった。