はっとして、横を向く。
隣の席に、長い黒髪を低い位置で一つにまとめた、柔らかな雰囲気を持つ中年女性が座っていた。
数秒間、声が出なくなる。
彼女も驚いているようだった。店内をきょろきょろと見回して、ようやく自分が来世喫茶店にいることを把握したらしく、未桜に向かって嬉しそうに笑いかけてくる。
その人懐っこい笑顔を見た瞬間、言葉が堰を切って飛び出した。
「おっ、お母さん! 嘘、嘘だよね、本当に──本当に、お母さん?」
「なあに、その慌てぶりは。未桜が私を呼び出したんでしょう?」
声も喋り方も、笑うときにきゅっと口角が上がるのも、記憶のままだった。
「久しぶりね、未桜。会えて嬉しい」
「お母さぁん!」
あまりに感極まって、椅子から崩れ落ちるようにして、相手の胸に飛び込んだ。よしよし、とお母さんに頭を撫でられ、涙がこぼれそうになる。
未桜がやっとのことで身体を起こし、自分の席に戻ると、お母さんが眉根を寄せて問いかけてきた。
「ちょっと待って──未桜、あなた今何歳? 大人っぽくはなったけど、最後に会ったときとそれほど変わらなく見える」
「十九歳だよ」
即答してから、母が心配している理由に気づき、慌てて補足した。
「──といっても、死んだわけじゃないよ! 来世喫茶店側のミスで、寿命が書かれた黄色いチケットを間違って早めに渡されちゃって、その記憶を消すためにここに来たんだ。で、ついでに、ずっと昔から夢だったカフェでのアルバイトをね──」
ミスを犯したアサくんを半ば脅すようにして来世喫茶店に押しかけ、バイトの面接をふいにした慰謝料代わりにしばらく働かせてもらうことになった経緯を話すと、お母さんはころころと笑った。「さすが未桜。押しが強い」と、どこかで聞いたような台詞を言う。
今はまだ生きているけれど、実は二年後に、二十一歳で──という話は、いったん伏せておくことにした。アサくんに目で合図を送ると、(ありがとうございます!)と口パクで感謝の意を表された。
「最近は、どうしてるの?」
お母さんに尋ねられ、未桜はマスターとアサくんに見守られているのも忘れて、次々と近況を話した。
憧れていた都内の大学に合格したこと。
受験勉強中、苦手だった英語の成績がどんどん上がったこと。
親友の明歩も同じ大学に進学したこと。
お母さんの形見のリボンを、お守り代わりに毎日髪につけていること。
この二年で、慣れない家事に四苦八苦しながらも、いくつかは得意料理ができたこと。
お母さんは穏やかに笑いながら、なかなか止まらない未桜の話を聞いていた。
「どう? お父さんは相変わらず?」
未桜の饒舌な語りが止まったのは、そう何気なく問いかけられた瞬間だった。
相変わらず──では、ない。
お父さんには、大きすぎる変化がある。
でも、そんなことを、もうこの世にいないお母さんに話したくなかった。
悲しませたくない。
だから、何でもない顔をして、嘘をつくしかない。
「うん、全然変わってな──」
「すみません、ちょっとよろしいですか」
突然、マスターが口を挟んできた。
驚いて、彼の端整な顔を見上げる。けれど、マスターの視線は未桜ではなく、未桜の母に向けられていた。
「一つ、お願いがありまして」
「私に? なあに?」
「スマホの通知を確認していただきたいんです。おそらく、そちらのバッグに入っていると思いますので」
「えーと……あら、これね」
お母さんが膝の上に目を落とす。そこには、生前に愛用していたベージュ色のハンドバッグがあった。
マスターの指示の意味が分からず、首を傾げる。そんな未桜の前で、お母さんはバッグの留め金を外し、見覚えのあるスマートフォンを取り出した。
透明の背景にピンク色の花びらが舞っているデザインのケースは、お母さんがベッドの上で迎えた最後の誕生日に、未桜があげたものだ。
緒林老人が妻からもらった交通安全のお守りを身に着けていたように、普段からよく使っていたものは、来世喫茶店にも持ってこられる仕組みになっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、スマートフォンの画面を操作し始めたお母さんが、「まあ」と驚いた声を上げた。
「こんなにたくさん……」
画面を人差し指でスクロールするお母さんの口元は、みるみるうちにほころんでいった。
「ふふふ、何なの、これ。どうしてこんなに漢字の間違いが多いんでしょう」
「漢字の、間違い……って?」
状況がつかめず、お母さんの嬉しそうな顔をぽかんとして見つめる。するとマスターが、「ああ、確かに。それはそうでしょうね」と微笑みをたたえながら頷いた。
「ええっ、全然意味が分かりません。いったいどういうことですか? 僕も知りたいですっ!」
アサくんがうずうずとした様子で、カウンターを回り込み、未桜のそばに駆けてくる。十一歳とは思えないくらい利発なアサくんも、マスターのようにすべての真実を見通すというわけにはいかないらしい。
未桜とアサくんが二人してスマートフォンを凝視していると、お母さんが気恥ずかしそうに笑みを漏らした。
「本来は、あまり人に見せるものじゃないと思うけど……まあ、いいでしょう。お父さんったら、もう二年も経つのに、まだこんなことしてるのね」
そう感慨深げに言い、「はい、どうぞ」とスマートフォンを差し出してくる。
未桜が恐る恐る受け取ると、アサくんが横から覗き込んできた。
表示されていたのは、メッセージアプリのトーク画面だった。
隣で、アサくんがひゅっと息を呑む。
『愛してるようんやっぱり大好きだ会いたいなぁ辺』
『いや本多もっといろいろ買ったたかったけどさぁ最近ボーナスが少なくて』
『ほら四月からみおが大学に入るだろうこれから前時刻表払ってたら家計が火の車なりそうだ風辛い辛い』
『そういえばこないだ俺が大事にしてたガラス笑えちゃってさ美穂が食器なのに島本しておくことしまったらしいんだ』
『ホント駒と門だよ今日何時のが売ってないかデパートで認めればよかったなぁ』
一見、解読が困難な言葉の羅列(られつ)。
けれど、どの文章も、未桜はすらすらと読むことができた。
既視感がある──どころの騒ぎじゃない。
「お父さん、どうしちゃったのかしら。誤字脱字だらけだし、句読点もまったくないし。どうせ私が読むことはないからって、適当に打ったのかな? 嬉しいけど、ちょっと複雑」
お母さんが冗談交じりに言い、軽く頬を膨らませた。スマートフォンを未桜の手から取り、「ねえ未桜、これ読める?」と尋ねてくる。
「『会いたいなぁ』の後になんで『辺』がついてるのかしら」
「それは……うへへ、っていう笑い声かと……」
「『本多』は?」
「本当は、ってことだと思う」
「あとはここ、『前時刻表』の意味がさっぱり」
「毎月学費を……じゃないかな」
「すごい! 暗号みたいな文なのに、よく分かるね。えーっと、ここの『ガラス』は『グラス』、『笑えちゃってさ』は『割れちゃってさ』かしら。『美穂』は『未桜』。もう、一人娘の名前を打ち間違えるなんて、許しがたいわねぇ。『駒と門』は──」
「『本当、困ったもんだよ。今日、同じのが売ってないか、デパートで見てみればよかったな』」
未桜が淀みなく音読してみせると、お母さんはアーモンド形の目を丸くした。
「どうして、そんなに簡単に読めるの?」
「それは──」
もう未桜にも、真相の一部が見えていた。
カウンターの向こうのマスターを見上げ、答え合わせをするように、言葉を押し出す。
「──お父さんが……スマホの音声入力機能でこの文章を打つのを……私、隣の部屋で聞いてたから……」
「ああ、音声入力! そういうことね。だから変換ミスがこんなに多いのかぁ」
お母さんが目を輝かせ、ぽんと手を打った。
隣の席に、長い黒髪を低い位置で一つにまとめた、柔らかな雰囲気を持つ中年女性が座っていた。
数秒間、声が出なくなる。
彼女も驚いているようだった。店内をきょろきょろと見回して、ようやく自分が来世喫茶店にいることを把握したらしく、未桜に向かって嬉しそうに笑いかけてくる。
その人懐っこい笑顔を見た瞬間、言葉が堰を切って飛び出した。
「おっ、お母さん! 嘘、嘘だよね、本当に──本当に、お母さん?」
「なあに、その慌てぶりは。未桜が私を呼び出したんでしょう?」
声も喋り方も、笑うときにきゅっと口角が上がるのも、記憶のままだった。
「久しぶりね、未桜。会えて嬉しい」
「お母さぁん!」
あまりに感極まって、椅子から崩れ落ちるようにして、相手の胸に飛び込んだ。よしよし、とお母さんに頭を撫でられ、涙がこぼれそうになる。
未桜がやっとのことで身体を起こし、自分の席に戻ると、お母さんが眉根を寄せて問いかけてきた。
「ちょっと待って──未桜、あなた今何歳? 大人っぽくはなったけど、最後に会ったときとそれほど変わらなく見える」
「十九歳だよ」
即答してから、母が心配している理由に気づき、慌てて補足した。
「──といっても、死んだわけじゃないよ! 来世喫茶店側のミスで、寿命が書かれた黄色いチケットを間違って早めに渡されちゃって、その記憶を消すためにここに来たんだ。で、ついでに、ずっと昔から夢だったカフェでのアルバイトをね──」
ミスを犯したアサくんを半ば脅すようにして来世喫茶店に押しかけ、バイトの面接をふいにした慰謝料代わりにしばらく働かせてもらうことになった経緯を話すと、お母さんはころころと笑った。「さすが未桜。押しが強い」と、どこかで聞いたような台詞を言う。
今はまだ生きているけれど、実は二年後に、二十一歳で──という話は、いったん伏せておくことにした。アサくんに目で合図を送ると、(ありがとうございます!)と口パクで感謝の意を表された。
「最近は、どうしてるの?」
お母さんに尋ねられ、未桜はマスターとアサくんに見守られているのも忘れて、次々と近況を話した。
憧れていた都内の大学に合格したこと。
受験勉強中、苦手だった英語の成績がどんどん上がったこと。
親友の明歩も同じ大学に進学したこと。
お母さんの形見のリボンを、お守り代わりに毎日髪につけていること。
この二年で、慣れない家事に四苦八苦しながらも、いくつかは得意料理ができたこと。
お母さんは穏やかに笑いながら、なかなか止まらない未桜の話を聞いていた。
「どう? お父さんは相変わらず?」
未桜の饒舌な語りが止まったのは、そう何気なく問いかけられた瞬間だった。
相変わらず──では、ない。
お父さんには、大きすぎる変化がある。
でも、そんなことを、もうこの世にいないお母さんに話したくなかった。
悲しませたくない。
だから、何でもない顔をして、嘘をつくしかない。
「うん、全然変わってな──」
「すみません、ちょっとよろしいですか」
突然、マスターが口を挟んできた。
驚いて、彼の端整な顔を見上げる。けれど、マスターの視線は未桜ではなく、未桜の母に向けられていた。
「一つ、お願いがありまして」
「私に? なあに?」
「スマホの通知を確認していただきたいんです。おそらく、そちらのバッグに入っていると思いますので」
「えーと……あら、これね」
お母さんが膝の上に目を落とす。そこには、生前に愛用していたベージュ色のハンドバッグがあった。
マスターの指示の意味が分からず、首を傾げる。そんな未桜の前で、お母さんはバッグの留め金を外し、見覚えのあるスマートフォンを取り出した。
透明の背景にピンク色の花びらが舞っているデザインのケースは、お母さんがベッドの上で迎えた最後の誕生日に、未桜があげたものだ。
緒林老人が妻からもらった交通安全のお守りを身に着けていたように、普段からよく使っていたものは、来世喫茶店にも持ってこられる仕組みになっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、スマートフォンの画面を操作し始めたお母さんが、「まあ」と驚いた声を上げた。
「こんなにたくさん……」
画面を人差し指でスクロールするお母さんの口元は、みるみるうちにほころんでいった。
「ふふふ、何なの、これ。どうしてこんなに漢字の間違いが多いんでしょう」
「漢字の、間違い……って?」
状況がつかめず、お母さんの嬉しそうな顔をぽかんとして見つめる。するとマスターが、「ああ、確かに。それはそうでしょうね」と微笑みをたたえながら頷いた。
「ええっ、全然意味が分かりません。いったいどういうことですか? 僕も知りたいですっ!」
アサくんがうずうずとした様子で、カウンターを回り込み、未桜のそばに駆けてくる。十一歳とは思えないくらい利発なアサくんも、マスターのようにすべての真実を見通すというわけにはいかないらしい。
未桜とアサくんが二人してスマートフォンを凝視していると、お母さんが気恥ずかしそうに笑みを漏らした。
「本来は、あまり人に見せるものじゃないと思うけど……まあ、いいでしょう。お父さんったら、もう二年も経つのに、まだこんなことしてるのね」
そう感慨深げに言い、「はい、どうぞ」とスマートフォンを差し出してくる。
未桜が恐る恐る受け取ると、アサくんが横から覗き込んできた。
表示されていたのは、メッセージアプリのトーク画面だった。
隣で、アサくんがひゅっと息を呑む。
『愛してるようんやっぱり大好きだ会いたいなぁ辺』
『いや本多もっといろいろ買ったたかったけどさぁ最近ボーナスが少なくて』
『ほら四月からみおが大学に入るだろうこれから前時刻表払ってたら家計が火の車なりそうだ風辛い辛い』
『そういえばこないだ俺が大事にしてたガラス笑えちゃってさ美穂が食器なのに島本しておくことしまったらしいんだ』
『ホント駒と門だよ今日何時のが売ってないかデパートで認めればよかったなぁ』
一見、解読が困難な言葉の羅列(られつ)。
けれど、どの文章も、未桜はすらすらと読むことができた。
既視感がある──どころの騒ぎじゃない。
「お父さん、どうしちゃったのかしら。誤字脱字だらけだし、句読点もまったくないし。どうせ私が読むことはないからって、適当に打ったのかな? 嬉しいけど、ちょっと複雑」
お母さんが冗談交じりに言い、軽く頬を膨らませた。スマートフォンを未桜の手から取り、「ねえ未桜、これ読める?」と尋ねてくる。
「『会いたいなぁ』の後になんで『辺』がついてるのかしら」
「それは……うへへ、っていう笑い声かと……」
「『本多』は?」
「本当は、ってことだと思う」
「あとはここ、『前時刻表』の意味がさっぱり」
「毎月学費を……じゃないかな」
「すごい! 暗号みたいな文なのに、よく分かるね。えーっと、ここの『ガラス』は『グラス』、『笑えちゃってさ』は『割れちゃってさ』かしら。『美穂』は『未桜』。もう、一人娘の名前を打ち間違えるなんて、許しがたいわねぇ。『駒と門』は──」
「『本当、困ったもんだよ。今日、同じのが売ってないか、デパートで見てみればよかったな』」
未桜が淀みなく音読してみせると、お母さんはアーモンド形の目を丸くした。
「どうして、そんなに簡単に読めるの?」
「それは──」
もう未桜にも、真相の一部が見えていた。
カウンターの向こうのマスターを見上げ、答え合わせをするように、言葉を押し出す。
「──お父さんが……スマホの音声入力機能でこの文章を打つのを……私、隣の部屋で聞いてたから……」
「ああ、音声入力! そういうことね。だから変換ミスがこんなに多いのかぁ」
お母さんが目を輝かせ、ぽんと手を打った。