「うーん、確かに、これはつらいですねぇ」
マスターと未桜の手の間から細い指をすっと抜き、アサくんが一人前に腕組みをした。
我に返ったように、マスターも未桜の手を放す。触れ合っていられるこの時間が終わるのが、ちょっとだけ寂しかった。
それでも、アサくんが同意してくれたのが嬉しくて、思わず椅子から腰を浮かす。
「でしょ? でも……どうにもならないんだよね。だって、悪いことじゃないんだもん。お母さんが亡くなって、もう二年も経ってるわけだし」
「それはそうですけど、未桜さんに関する愚痴をわざわざ相手の女性に言ったのは、お父さんが悪いですよね? 未桜さんが気分を害するのは当然です!」
「まあね。でも、それだって、私の過剰反応なのかも。学費のことだって、娘がグラスを割っちゃったことだって、考えてみれば他愛もないというか……人の親だったら誰にでもする話だよね。電話の相手がお父さんの新しい恋人だったから、無性にイライラしちゃっただけで」
そうなのだ。──全部、こちらの過剰反応。
あのあと、ドアをノックする音が聞こえても無視したり、話しかけてこようとするお父さんを何度も追い払ったり、ご飯の時間をわざとずらしたりした。お父さんが悲しむだろうことは分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
どちらが悪いかと言われれば、未桜だ。
いつまでも自分だけのお父さんでいてほしいと、自分勝手に願っている、未桜が悪い。
「だけど、未桜さんのお父さんって、ちょっと……かわいそうですね」
先ほど責める発言をしたことを反省するように、アサくんがカウンターの向こうでため息をついた。
「二年前に奥さんを病気で亡くして、今度は二年後に、一人娘の未桜さんまで……。長い目で見ると、やっぱり、心の支えになる新しいパートナーは必要なのかもしれない……なんて思ったり……」
「それだっ!」
思わず椅子から立ち上がり、アサくんの顔を指差す。「なっ、何ですか⁉」と後ずさったアサくんに、未桜は半分やけになりながら言い放った。
「そうだよ! お父さんに、二年待ってもらえばいいんだ! それだけのことだったんだよ!」
「えっ……どういうことですか?」
「だって、二年後には私はいなくなるでしょ? そしたらお父さんも、何も気にすることなく、あの女の人と再婚できるよね。学費も浮くし、恋愛の邪魔をしようとする娘がいなくなってせいせいするはず。相手の女の人も、十九歳の連れ子なんて面倒だろうし、きっと喜ぶよね!」
「……未桜さん!」
「私がどんなわがままを言ったって、あとたった二年の辛抱で、お父さんはあの人と幸せになれるんだよ。二人の恋を応援しようとか、新しい母親を受け入れようとか、私が一生懸命心の整理をつけなくたって、どうせ時が解決してくれるんだよね。私がこんなふうに悩んでること自体、全っ然、意味のないことだったんだよね!」
「もう、未桜さんってば! 自暴自棄にならないでください!」
アサくんが急に叫んだ。
珍しく、本気で怒っているようだった。色白の顔が真っ赤になっている。
「未桜さんはもっと、自分の気持ちに素直になってください。つらいならつらい、悲しいなら悲しい、嫌なら嫌って、はっきり言ってください。未桜さんは強がりすぎなんですよ。複雑とか、過剰反応とか、そんな遠回しの言葉は要らないです。何のために僕らが話を聞いてると思ってるんですかっ!」
両腕をぶんぶん振り回し、焦れたように未桜を叱る。それからはっとした顔で隣のマスターを見上げ、「……って、カウンセリングは、僕の仕事じゃないんですけど」と身を縮める。
マスターは、じっと未桜の顔を見つめていた。
何か声をかけてくれるかと思ったけれど、うん、と曖昧に頷いたきり、また黙ってしまう。
──どうしようもない相談だって、呆れてるのかな。
そう考えると、後悔が募った。
カウンセリングなんて、やめておけばよかった。アサくんと楽しくお喋りをしながら接客をして、マスターが淹れたコーヒーや紅茶をお客さんの元へ運んでいられれば、それでよかったのに。
「そういえば、最近、お父さんが休日に外出することがやけに多かったんだよね。散歩だとか買い物だとか、そのたびに違う用事を口にしてたけど、今考えるとあれ、全部デートの約束だったんだね」
重苦しい空気に拍車をかけるように、自分を傷つける言葉が口を衝いて出た。
「私がリビングに入ると、バツが悪そうな顔をして、こそこそと何かのパンフレットを隠したこともあったなぁ。あの女の人と旅行に行く計画でも立ててたのか……あ、ひょっとして、結婚式場選びかもね」
「未桜さんったら……」
アサくんが眉をひそめた。打つ手なしです、どうしましょう、とでも言いたげに、またマスターの顔を見る。
すると不意に、マスターが無言で未桜に背を向けた。
愛想を尽かされた──のでは、なかった。
マスターが向かったのは、コーヒー豆が並ぶ棚だった。
彼が無数の瓶を吟味し、手元の器に再び豆を集め始めたのを見て、未桜は慌てて声をかけた。
「あ、あの、マスター……どうしたんですか? メモリーブレンドなら、まだ余ってますけど」
「未桜さんに、もう一杯、飲んでほしいドリンクがあってさ」
事もなげに言い、マスターは作業を続けた。
ブレンドした豆を、電動ミルで細かく挽く。
粉を小さな銀色のバスケットに入れ、表面をタンパーで軽く押し込む。
そして、大きなエスプレッソマシンに取りつけ、抽出ボタンに触れる。
アサくんも、目を白黒させて、その指先を追っていた。未桜と同様に、マスターが二杯目を用意し始めた意味がよく分かっていないようだ。
しかも、この手順は、メモリーブレンドではなく──。
ショットグラスに溜まったエスプレッソを、マスターがカップにあけた。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、ステンレス製のミルクジャグに注ぎ、スチームを始める。
できあがった滑らかなミルクフォームを、マスターが慎重な手つきでカップに流し込むと、大きなハート型のラテアートが浮かび上がった。
「できあがり。はい、どうぞ」
「あの……これ……」
目の前に置かれたカップと、薄い微笑みをたたえているマスターを、交互に見る。
「相席カフェラテ、ですよね?」
「そうだよ」
あまりに簡潔な答えに困惑していると、マスターが右手の指先をカップへと向け、未桜を促した。
「大丈夫。これもデカフェだから安心して。未桜さんのために作ったんだ」
「これを飲んだら……誰に会えるんですか?」
「いいから、飲んでみて」
お父さんだろうか──と、疑う。
今は朝方だから、お父さんは寝ているはずだ。だから、ここに魂を呼び出しても、日常生活に支障はないのかもしれない。
けれど、直接顔を合わせるのは、さすがに気が進まなかった。
かといって、せっかくマスターが淹れてくれた相席カフェラテを拒否するなんて、そんなひどい真似はできない。
「あ……えっと……私のお父さん、平日はけっこう早起きなんです! だから、魂が呼び出しに応じてくれないかも……」
「心配ご無用。相席カフェラテの力は、なかなか強いんだ。“生ける人”を呼び出す場合、現世では辻褄(つじつま)合わせが行われる。急に眠くなって二度寝をするとか、出勤中に電車内で居眠りを始めるとか」
「でも……ほら、昨日の小山内さんみたいに、本部から謎の禁止令が出ちゃったりするかもしれないし……」
「そんなことはめったに起こらないよ。まさに生まれ変わりの最中や、亡くなる間際じゃない限りは。あとは、相席カフェラテのダブルブッキングというのもなくはないね。二人の“向かう人”が、同じ相手を同時に指名してしまうんだ」
マスターが苦笑する。小山内砂羽のケースはそのどれかだったのか、と未桜はようやく理解した。だとすると、未桜の父にはまったく当てはまらない。
ささやかな抵抗が失敗に終わり、未桜は肩を落とした。苦しすぎる言い訳が可笑しかったのか、ふふ、とマスターが声を漏らす。
「いいから、飲んでごらんよ。怖がらずに」
「どういうつもり……ですか?」
「未桜さんが見ている世界は、あまりに一面的──ということかな」
マスターが含みを持たせた言い方をして、カウンターに視線を落とした。
彼の考えていることは、ちっとも分からない。
十年も一緒に働いているアサくんさえ分からないのだとしたら、まだアルバイトを初めて四日目の未桜に、分かるわけがない。
自信ありげな様子のマスターと、ぽかんと口を半開きにしているアサくんに見守られながら、未桜は相席カフェラテのカップを持ち上げた。
大きなハート型のラテアートが、未桜の口元に吸い込まれる。
ふわりと、懐かしい香りが、未桜の鼻腔に届いた。
マスターと未桜の手の間から細い指をすっと抜き、アサくんが一人前に腕組みをした。
我に返ったように、マスターも未桜の手を放す。触れ合っていられるこの時間が終わるのが、ちょっとだけ寂しかった。
それでも、アサくんが同意してくれたのが嬉しくて、思わず椅子から腰を浮かす。
「でしょ? でも……どうにもならないんだよね。だって、悪いことじゃないんだもん。お母さんが亡くなって、もう二年も経ってるわけだし」
「それはそうですけど、未桜さんに関する愚痴をわざわざ相手の女性に言ったのは、お父さんが悪いですよね? 未桜さんが気分を害するのは当然です!」
「まあね。でも、それだって、私の過剰反応なのかも。学費のことだって、娘がグラスを割っちゃったことだって、考えてみれば他愛もないというか……人の親だったら誰にでもする話だよね。電話の相手がお父さんの新しい恋人だったから、無性にイライラしちゃっただけで」
そうなのだ。──全部、こちらの過剰反応。
あのあと、ドアをノックする音が聞こえても無視したり、話しかけてこようとするお父さんを何度も追い払ったり、ご飯の時間をわざとずらしたりした。お父さんが悲しむだろうことは分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
どちらが悪いかと言われれば、未桜だ。
いつまでも自分だけのお父さんでいてほしいと、自分勝手に願っている、未桜が悪い。
「だけど、未桜さんのお父さんって、ちょっと……かわいそうですね」
先ほど責める発言をしたことを反省するように、アサくんがカウンターの向こうでため息をついた。
「二年前に奥さんを病気で亡くして、今度は二年後に、一人娘の未桜さんまで……。長い目で見ると、やっぱり、心の支えになる新しいパートナーは必要なのかもしれない……なんて思ったり……」
「それだっ!」
思わず椅子から立ち上がり、アサくんの顔を指差す。「なっ、何ですか⁉」と後ずさったアサくんに、未桜は半分やけになりながら言い放った。
「そうだよ! お父さんに、二年待ってもらえばいいんだ! それだけのことだったんだよ!」
「えっ……どういうことですか?」
「だって、二年後には私はいなくなるでしょ? そしたらお父さんも、何も気にすることなく、あの女の人と再婚できるよね。学費も浮くし、恋愛の邪魔をしようとする娘がいなくなってせいせいするはず。相手の女の人も、十九歳の連れ子なんて面倒だろうし、きっと喜ぶよね!」
「……未桜さん!」
「私がどんなわがままを言ったって、あとたった二年の辛抱で、お父さんはあの人と幸せになれるんだよ。二人の恋を応援しようとか、新しい母親を受け入れようとか、私が一生懸命心の整理をつけなくたって、どうせ時が解決してくれるんだよね。私がこんなふうに悩んでること自体、全っ然、意味のないことだったんだよね!」
「もう、未桜さんってば! 自暴自棄にならないでください!」
アサくんが急に叫んだ。
珍しく、本気で怒っているようだった。色白の顔が真っ赤になっている。
「未桜さんはもっと、自分の気持ちに素直になってください。つらいならつらい、悲しいなら悲しい、嫌なら嫌って、はっきり言ってください。未桜さんは強がりすぎなんですよ。複雑とか、過剰反応とか、そんな遠回しの言葉は要らないです。何のために僕らが話を聞いてると思ってるんですかっ!」
両腕をぶんぶん振り回し、焦れたように未桜を叱る。それからはっとした顔で隣のマスターを見上げ、「……って、カウンセリングは、僕の仕事じゃないんですけど」と身を縮める。
マスターは、じっと未桜の顔を見つめていた。
何か声をかけてくれるかと思ったけれど、うん、と曖昧に頷いたきり、また黙ってしまう。
──どうしようもない相談だって、呆れてるのかな。
そう考えると、後悔が募った。
カウンセリングなんて、やめておけばよかった。アサくんと楽しくお喋りをしながら接客をして、マスターが淹れたコーヒーや紅茶をお客さんの元へ運んでいられれば、それでよかったのに。
「そういえば、最近、お父さんが休日に外出することがやけに多かったんだよね。散歩だとか買い物だとか、そのたびに違う用事を口にしてたけど、今考えるとあれ、全部デートの約束だったんだね」
重苦しい空気に拍車をかけるように、自分を傷つける言葉が口を衝いて出た。
「私がリビングに入ると、バツが悪そうな顔をして、こそこそと何かのパンフレットを隠したこともあったなぁ。あの女の人と旅行に行く計画でも立ててたのか……あ、ひょっとして、結婚式場選びかもね」
「未桜さんったら……」
アサくんが眉をひそめた。打つ手なしです、どうしましょう、とでも言いたげに、またマスターの顔を見る。
すると不意に、マスターが無言で未桜に背を向けた。
愛想を尽かされた──のでは、なかった。
マスターが向かったのは、コーヒー豆が並ぶ棚だった。
彼が無数の瓶を吟味し、手元の器に再び豆を集め始めたのを見て、未桜は慌てて声をかけた。
「あ、あの、マスター……どうしたんですか? メモリーブレンドなら、まだ余ってますけど」
「未桜さんに、もう一杯、飲んでほしいドリンクがあってさ」
事もなげに言い、マスターは作業を続けた。
ブレンドした豆を、電動ミルで細かく挽く。
粉を小さな銀色のバスケットに入れ、表面をタンパーで軽く押し込む。
そして、大きなエスプレッソマシンに取りつけ、抽出ボタンに触れる。
アサくんも、目を白黒させて、その指先を追っていた。未桜と同様に、マスターが二杯目を用意し始めた意味がよく分かっていないようだ。
しかも、この手順は、メモリーブレンドではなく──。
ショットグラスに溜まったエスプレッソを、マスターがカップにあけた。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、ステンレス製のミルクジャグに注ぎ、スチームを始める。
できあがった滑らかなミルクフォームを、マスターが慎重な手つきでカップに流し込むと、大きなハート型のラテアートが浮かび上がった。
「できあがり。はい、どうぞ」
「あの……これ……」
目の前に置かれたカップと、薄い微笑みをたたえているマスターを、交互に見る。
「相席カフェラテ、ですよね?」
「そうだよ」
あまりに簡潔な答えに困惑していると、マスターが右手の指先をカップへと向け、未桜を促した。
「大丈夫。これもデカフェだから安心して。未桜さんのために作ったんだ」
「これを飲んだら……誰に会えるんですか?」
「いいから、飲んでみて」
お父さんだろうか──と、疑う。
今は朝方だから、お父さんは寝ているはずだ。だから、ここに魂を呼び出しても、日常生活に支障はないのかもしれない。
けれど、直接顔を合わせるのは、さすがに気が進まなかった。
かといって、せっかくマスターが淹れてくれた相席カフェラテを拒否するなんて、そんなひどい真似はできない。
「あ……えっと……私のお父さん、平日はけっこう早起きなんです! だから、魂が呼び出しに応じてくれないかも……」
「心配ご無用。相席カフェラテの力は、なかなか強いんだ。“生ける人”を呼び出す場合、現世では辻褄(つじつま)合わせが行われる。急に眠くなって二度寝をするとか、出勤中に電車内で居眠りを始めるとか」
「でも……ほら、昨日の小山内さんみたいに、本部から謎の禁止令が出ちゃったりするかもしれないし……」
「そんなことはめったに起こらないよ。まさに生まれ変わりの最中や、亡くなる間際じゃない限りは。あとは、相席カフェラテのダブルブッキングというのもなくはないね。二人の“向かう人”が、同じ相手を同時に指名してしまうんだ」
マスターが苦笑する。小山内砂羽のケースはそのどれかだったのか、と未桜はようやく理解した。だとすると、未桜の父にはまったく当てはまらない。
ささやかな抵抗が失敗に終わり、未桜は肩を落とした。苦しすぎる言い訳が可笑しかったのか、ふふ、とマスターが声を漏らす。
「いいから、飲んでごらんよ。怖がらずに」
「どういうつもり……ですか?」
「未桜さんが見ている世界は、あまりに一面的──ということかな」
マスターが含みを持たせた言い方をして、カウンターに視線を落とした。
彼の考えていることは、ちっとも分からない。
十年も一緒に働いているアサくんさえ分からないのだとしたら、まだアルバイトを初めて四日目の未桜に、分かるわけがない。
自信ありげな様子のマスターと、ぽかんと口を半開きにしているアサくんに見守られながら、未桜は相席カフェラテのカップを持ち上げた。
大きなハート型のラテアートが、未桜の口元に吸い込まれる。
ふわりと、懐かしい香りが、未桜の鼻腔に届いた。