気がつくと、自分の部屋のベッドに横向きに寝転がっていた。
デパートから逃げ帰ってきてから、未桜は布団を頭からかぶり、スマートフォンの画面ばかり眺めていた。
表示しているのは、高校の入学式の日に、校門の前で撮った家族三人の写真だ。
似合わない紺色のジャケットを羽織っているお父さんと、えんじ色のワンピースを着たお母さん。その二人の間に挟まれている、真新しい制服に身を包んだ自分。
写真の中では、お父さんもお母さんも、そして未桜自身も、晴れやかな笑みを浮かべていた。
元気だった頃のお母さんと一緒に撮った、最後の家族写真。
「これをスマホに送りつけたら……お父さん、目を覚ますかな」
枕に独り言をこぼす。
数秒間写真を見つめてから、力なく首を横に振る。
「……そんなことしちゃ、ダメか」
未桜にだって分かっていた。
お母さんは、もう二年も前に亡くなっている。
だからこれは不倫じゃない。自分には、お父さんの恋を邪魔する権限なんてない。一回りも若い女の人とイチャイチャしていたことを、決して咎めてはいけない──。
玄関のドアが開く音がしたのは、未桜が幾度となく同じ台詞を自分の胸に言い聞かせた、赤い西日の射しこむ夕暮れ時だった。
「ただいまぁ」
 間延びした声が聞こえてくる。いつもと同じようでいて、声のトーンが少しだけ、楽しそうに上ずっていた。
デパートで鉢合わせさえしなければ、まったく気がつかなかっただろう。出がけに言っていた「今日はお父さん、ジムに行ってくるわ。最近サボりがちだったからな」という台詞を、頭から信じていたはずだ。
 返事する気も起きず、未桜はベッドに横たわったまま、じっと黙っていた。
 未桜の部屋は、ダイニングと繋がっている。玄関の鍵はかけていたし、部屋から電気の光も漏れていなかったから、娘がすでに帰宅していることに気づいていないようだった。
 帰りに晩御飯の買い物にでも行っていたのか、ガサゴソとビニール袋から食材を出す音がする。
 何もかもが忌々(いまいま)しかった。父ののそのそとした足音も、冷蔵庫の開閉音も、ビニール袋を畳む音も、「ああ、今日は疲れたな」なんていう能天気な独り言も。
 未桜はベッドに寝転がったまま、ごろりと向きを変え、布団から手を伸ばして床に置いたバッグを漁った。中からイヤホンをつかみ取り、スマートフォンに接続する。
 しばらくの間、未桜は音楽で耳を塞いだ。
好きなアーティストのベストアルバムのはずなのに、蜂がブンブン飛び回るような音が頭の中で鳴り続けていて、メロディはこれっぽっちも頭に入ってこなかった。
 そのことにいっそう腹を立て、ため息とともにイヤホンを両耳から引き抜いた直後──信じられない声が、未桜の耳に届いた。
「……愛してるよ」
 ダイニングのテレビで、恋愛ドラマの録画を再生しているのかと思った。
 でも、違った。
「……うん、やっぱり大好きだ」
「また会いたいなぁ……うへへ」
 他でもない、お父さんの声だった。隣の部屋から、はっきりと聞こえてくる。
スマートフォンで電話でもしているのか、声は途切れがちだ。
 先ほどデパートでお父さんの横を歩いていた、カオリという名の女性の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
 きっと、デートのお礼の電話でもかかってきたのだろう。デパートで見かけたとき、お父さんがあの女性に、化粧品を買ってあげていたみたいだったから。
お父さんのほうから積極的に電話をかけた可能性は、考えたくなかった。
 やめてよ──、と呟く。
ダイニングにいるお父さんには届くはずもない、蚊の鳴くような声で。
 未桜の願いに反し、非情にも、長電話は続いた。
「……いやあ、本当はもっといろいろ買ってあげたかったけどさぁ。……最近、ボーナスが少なくて。……ほら、四月から未桜が大学に入るだろ? これから毎年学費を払ってたら、家計が火の車になりそうだ。……うう、つらいつらい」
「……そういえば、この間、俺が大事にしてたグラスが割れちゃってさ。……未桜が食器棚にしまおうとして、落っことしちまったらしいんだ。……本当、困ったもんだよ。今日、同じのが売ってないか、デパートで見てみればよかったな」
 ところどころで自分の名前が聞こえてきて、ベッドの上で凍りつく。
 お父さんが新しい女の人と付き合っているというだけなら、まだよかった。いや、よくはないのだけれど、少なくとも受け入れる努力をしようと思えた。
けれど、娘の愚痴をあけすけに話し、知らない女の人との会話のネタにしているなんて──ショックだった。
許せなかった。
「ふざけないでよ!」
バン、と大きな音がした。自分が部屋のドアを乱暴に開け放ち、反対側のドアノブが壁に激突した音だった。
椅子から立ち上がったお父さんは、目を真ん丸に見開いていた。未桜がテーブルの上のスマートフォンを睨むと、「あ、いや」と弁解するように両手を左右に振る。
「未桜、聞いてくれ、違うんだ。これは──」
 椅子の背にかかっているのは、入学式の写真でお父さんが羽織っていた紺色のジャケットだった。
こういうきちんとした上着は一着しか持っていないから、仕方ないのかもしれない。
だけど、せめて、別の女の人とのデートには、別の服で行ってほしかった。
「やめて。お父さんとはもう話したくない!」
 未桜は目を泳がせているお父さんを一睨みし、開けたときと同じくらい激しく、ドアを閉めた。
 衝撃で、家中の空気が震える。
 未桜はドアにもたれかかり、その場にずるずると座り込んだ。
 ハーフアップにした髪に手をやり、リボンをほどく。
 かつてお母さんが使っていた、青みがかった緑色のリボンを手に、未桜は泣き崩れた。


 すすり泣きの声は、きっと、ダイニングにも届いていただろう。
 あれ以来、たった一人の同居人とは、一言も口を利いていない──。