《二〇二一年四月九日 来店予定者リスト》
・名前:八重樫未桜
・性別:女
・生年月日:二〇〇〇年四月八日(享年二十一歳)
・職業:大学生
・経緯:通学中に急病で倒れて救急搬送される。翌朝、父親に見守られながら、病院で息を引き取る。
・来店予定時刻:八時十一分


未桜が来世喫茶店で働き始めてから、三度目の夜明けがやってきた。
窓の外、遥(はる)か向こうに見える山々の稜線が、金色に輝き始めている。この雄大な景色は、先ほどまでカウンター席でメモリーブレンドを飲んでいた、登山が趣味だったというおじいさんの記憶だろうか。
不思議なことに、来世喫茶店に滞在するお客さんの数には、時間帯ごとに波があった。
どういう理由があるのかは分からないけれど、大抵の場合、真夜中は忙しい。朝が近づくにつれて、だんだんと店内が閑散(かんさん)としてきて、ほっと一息つけるようになる。
今日は、その時間帯が比較的早く訪れたようだった。二時間ほど前にはほとんどの席が埋まっていたのが嘘のように、今は一人もお客さんがいない。
「ねえねえ、未桜さん、未桜さんっ」
 流しに溜まっていたお皿を洗っていると、バックヤードで豆の発注業務を手伝っていたはずのアサくんが、軽やかな足音を立てて戻ってきた。
「朗報ですっ! 僕が一生懸命頼み込んだところ、マスターが、未桜さんのカウンセリングをやってくれることになりました! ねえねえ聞いてます?」
「……えっ?」
 顔を横に向けて初めて、得意げな顔をしているアサくんが、背の高いマスターの手を引いていることに気づく。バックヤードから無理やり連れてこられたらしく、マスターは気まずそうに苦笑していた。
 お皿洗いを中断し、タオルで手を拭きながら二人に向き直る。動揺を隠せないまま「か、カウンセリングって?」と尋ねると、アサくんが堂々と胸を張って答えた。
「ほら、未桜さん、『あんまり家には帰りたくない』って言ってたじゃないですか! 来世喫茶店でのアルバイトが楽しいからっていうのは建前で、本当は何か事情があるんでしょう? マスターはものすごく聞き上手ですから、悩み事を洗いざらい打ち明けたら、きっとすっきりしますよ。ほら、早くカウンター席に座ってくださぁい」
「ちょ……ちょっと待ってよ!」
 事情があるというのは図星だった。だからこそ、アサくんに何度か探りを入れられても、はぐらかし続けていたのだ。
 マスターの視線を意識しながら、未桜はしどろもどろに抵抗した。
「私のことは、気にしなくていいってば! 私はまだ、ここのお客さんじゃないし……ほら、カウンセリングティーを注文したわけでもないし……」
「それでもいいって、マスターが言ってくれてます」
「えっと……あ、そうだ、お皿洗いもまだ残ってるし……」
「それは僕がやっておきますっ!」
「で、でも……カウンセリングで私の悩みが解決したところで、めでたしめでたしって現世に帰れるわけじゃないんでしょ? せめて、アサくんに黄色いチケットを見せられた記憶を消す方法が、ちゃんと見つかってからじゃないと……だから今はまだ……ですよねっ?」
 思いつくままに言い訳しながら、恐る恐る、マスターの顔を見上げる。
 すると彼は、「うーん」と唸り、ためらうように睫毛の長い目を伏せた。
「実は、そっちの問題は、解決しようと思えばどうにかなるんだけどね」
「えっ⁉ 私の記憶を消す方法、見つかったんですか⁉」
「まあね」
 マスターは意外なほどあっさりと言い、隣のアサくんへと目を向けた。
「ただ、それを試すのは、カウンセリングを終えてからにしようかと。未桜さんの抱えている悩み事について、アサくんがどうしても気になるみたいだから」
「僕だけのせいにしないでくださいよ。マスターだって、すごく心配してたじゃないですか!」
「それはもちろん。未桜さんは、僕にとって……とても大切な存在だし」
 予想もしていなかった言葉に、不意を突かれる。
驚いて目を瞬くと、マスターがこちらを見つめ返してきた。冗談か、もしくは社交辞令かと思ったけれど、彼の漆黒の瞳には真剣な光が宿っていた。
「あれぇマスター、それって、『店員として』ですか? それとも──」
「どっちでもいいじゃないか」
 アサくんのからかうような台詞を、マスターが照れ隠しをするような口調で遮る。
 どっちでもよくないよ──と、未桜は密かに、心の中で叫んだ。
 昨日、町井加奈子の来店直前にバースデーサプライズをしてくれた頃から、マスターの態度はなんだかおかしかった。ふとしたときに未桜をじっと見つめていたり、「まだ十九歳か……」と複雑そうに呟いたり。二人きりになると未桜を抱きしめたり、握った手を離そうとしなかったり。
その真意の読めない一挙一動が、未桜の心を搔き乱していた。
「それで……どうしようか? 気が進まないようなら、無理にとは言わないよ。お客様にドリンクの選択肢があるのと同じように、未桜さんにも、僕たちに相談をするかどうかの自由があるわけだし」
 マスターが、こちらの心境を推し量るように、遠慮がちに尋ねてきた。
その隣ではアサくんが、「未桜さんはもっと、人に心を開いたほうがいいですっ!」と胸の前で拳を握っている。
──どうしよう。
未桜はその場に立ち尽くしたまま、十秒ほど、目をつむって考えた。
せっかく親しくなった二人に、今さら深刻な話をして、その場の空気を塗り替えてしまうのは嫌だった。──けれど。
マスターの、こちらの心を解きほぐすような笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
迷った末、ようやく答えを出し、ゆっくりと頭を下げた。
「……お願いします。マスターのカウンセリング、受けさせてください」
「そっか。せっかくだから、そこに座ってもらおうかな。そのほうが、僕も話が聞きやすいんだ」
 マスターがにこりと微笑み、カウンター席を指差した。その指示に素直に従い、カウンターを回り込んで、マスターの真向かいに腰を下ろす。“お客さん”としてここに座るのは、新鮮な気分だった。
 アサくんが気を利かせて、「お水、要りますか?」と訊いてくる。喉はあまり渇いていなかった。未桜は「大丈夫」と首を左右に振り、さっそく本題を切り出した。
「私が今、悩んでいるのは……お父さんとの関係について、です。私には隠してるつもりなんでしょうけど──なんだか、新しい女の人がいるみたいで」
 自分の家族について、他人に相談するのは初めてだった。
どこから話していいのか分からず、順番がめちゃくちゃになってしまう。
 カウンターの向こうからギリギリ顔を覗かせているアサくんが、はっと口元を押さえ、大きく目を見開いた。「上手く話そうとしなくていいからね」というマスターの優しい声に助けられ、未桜はやっとの思いで言葉を繋いだ。
「でも、あの、不倫とかじゃないんですよ! うちはお父さんと私の二人暮らしで……というのも、お母さんは二年前に病気で死んじゃったんです。だから、別に、お父さんが新しいパートナーを見つけて幸せになるのは、全然悪いことじゃなくて……むしろ幸せなことなのかも、というか……」
 目を合わせているわけではないけれど、マスターの包み込むような眼差しを感じる。頭の中がしっちゃかめっちゃかになりながらも、未桜は懸命に、自分の本音を素直に表す言葉を探した。
「家事はなるべく手伝ってるつもりだけど、お母さんみたいにテキパキできないし、ご飯はどうしてもレトルトが多くなっちゃうし……結局、仕事が忙しいお父さんにいろいろやってもらっちゃってて、そんな生活に疲れちゃったのかもしれないけど……だけど、私のお母さんは世界に一人だけだからっ」
 話しているうちに涙が出そうになるのを、未桜は必死にこらえた。
「まだお母さんがいなくなってから二年しか経ってないのに、お父さんがもう、他の女の人のことを好きなのかもしれないと思ったら、どうしても複雑で。死んじゃったお母さんに申し訳なくて。私がもっとしっかりしてたら、お父さんが新しい恋をすることもなかったのかな、って……」
「自分を責めることはないよ。未桜さんは未桜さん、お父さんはお父さん。家族とはいえ、別の人間なんだから」
 マスターが、一つ一つの単語を強調するように言った。ほんの一瞬、心の中に春のそよ風が吹く。けれど、胸のつかえはまだまだ取れない。
「私、嫌なんです。大学一年生にもなって、お父さんの新しい恋を応援できない自分が。『よかったね!』って、明るく声をかけてあげられない、嫉妬深い自分が」
「未桜さんは優しいな」
 マスターが、一転して静かに呟いた。
 全然、そんなことない──と思う。
 優しくないから、第二の人生を始めようとしているお父さんに対して、濃い灰色の気持ちを抱いているのだ。相手の女の人の顔を頭の中に思い描いて、油性ペンで真っ黒に塗りつぶしたくなってしまうのだ。
そう。優しいのは、そんな未桜に温かい言葉をかけてくれるマスターのほうだ。
「はい! 質問ですっ!」
 僕のことを忘れないでと言わんばかりに、アサくんがピンと右手を真上に伸ばした。
「未桜さんは、お父さんが新しい女の人と付き合ってるみたいだってことは、どうやって知ったんですか? どうも、ご本人から聞いたわけではなさそうですが」
「あ、それは、ええっと……いろいろあって……」
 未桜は口ごもった。どこから、どういう順序で話せばいいのか、また分からなくなる。
 そんな未桜の心を読んだかのように、マスターがさらりと提案した。
「説明しづらいようだったら、メモリーブレンドを淹れようか? 未桜さんの記憶を直接見せてもらったほうが、僕たちも状況が呑み込みやすいかもしれない」
「ええっ、メモリーブレンド⁉ 私、“生ける人”なのに、大丈夫なんですか? それに、見せたいのは、私の“最も大切な記憶”じゃないし……」
「全然問題ないよ。デカフェにすれば、来世に対する効果はなくなるんだ。メニューにはああ書いているけれど、再体験する記憶の対象だって、実は豆の配合や蒸らし方次第で自由に変えられるしね」
 昨日、マスターが一人でメモリーブレンドを飲んでいた光景を思い出す。
 ──確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ。
 そういうことだったんだ、と合点する。
 来世喫茶店で提供している特殊なドリンクには、すべてカフェインが入っている。“来世の条件”を左右するのは、その成分の量だったのだ。お客さんに水やミルクをいくらでもお出しすることができるのも、休憩中に店員の未桜がオレンジジュースやパイナップルジュースを飲ませてもらえたのも、そのため。
つまり、カフェインがごくわずかしか含まれていないデカフェにしてしまえば、来世への影響度は無視できる程度になり、記憶の再体験という効果だけを享受することができる──。
「分かりました。メモリーブレンドをいただいてもいいですか? 二人にお見せしたいのは……先週の日曜日に、デパートの化粧品売り場に行った日の記憶です」
「先週の日曜、デパートの化粧品売り場、だね。ちょっとお待ちを」
 無数のコーヒー豆が並ぶ棚に、マスターがすっと手を伸ばした。デカフェの豆は、棚の上のほうに並べてあるらしい。迷いなくそのうちのいくつかを選び取り、ガラス瓶の蓋を開けて、手元の小さな器の中で数種類の豆をブレンドしていく。
 この四日間で何度も見たはずなのに、気がつくと見とれていた。
 ミルのハンドルをゆっくりと回す手。
粉を入れたペーパーフィルターに、お湯を回し入れていく動作。
一滴ずつサーバーに落ちていく焦げ茶色の液体を見つめる、慈愛(じあい)に満ちた目。
「──さて、できあがり。お待たせしました、デカフェのメモリーブレンドです」
 マスターが自ら、カウンターの上から、ソーサーに載ったコーヒーカップを差し出してくれた。いそいそとお盆を引き寄せて待機していたアサくんが「あれぇ」と残念そうな声を上げ、振り返ったマスターが「ごめんごめん」と苦笑する。
 未桜は右手の人差し指をコーヒーカップの持ち手に絡ませた。そして恐る恐る、左手をマスターに向かって差し出す。
「記憶を一緒に再体験してもらうには……私の身体に触れてもらわないといけないんですよね?」
「そうだね」マスターが、心なしか恥ずかしそうに言った。「じゃ、失礼するよ」
 温かくて分厚い、大人の男性の手が、未桜の左の掌を包む。
未桜の心臓が破裂するのをすんでのところで食い止めたのは、「あ、僕も僕も!」とアサくんが隙間にねじ込んできた、細くて可愛い指だった。
「じゃ、飲みますね」
 目をつむり、右手で持ち上げたカップに口をつけた。
 喫茶店で四日も働いているというのに、ここでコーヒーを飲むのは初めてだった。


 濃くてほろ苦い豆の味が、一瞬のうちに、口の中に広がる。
 記憶の中で、未桜はデパートの化粧品売り場を歩いていた。
 天井の白い光が、ピカピカとした白い床に跳ね返り、未桜の背筋をしゃんと伸ばさせる。
 長年、憧れていた場所だった。ずらりと美しく陳列(ちんれつ)された口紅。色とりどりのアイシャドウ。鏡を挟んで笑い合っている女性販売員とお客さん。フロアに充満する香水の匂い。
子どもが立ち入るのは気が引けて、いつも小走りで通り過ぎていたけれど、今日は違う。明日、四月一日からはもう大学生だ。しかも都内の、二十三区内の。だから、テレビCMで一目惚れしたリップグロスを、ちょっと背伸びして買いにきた。
もしお母さんが生きていたら、「入学祝いね。高いから、お父さんには内緒よ」なんてウインクをして、未桜を連れてきてくれたのかもしれない。
だけど、それはもう叶わない。もうあれから二年も経っているから、涙が止まらなくなるほど悲しくなることもないし、未桜だってある程度は割り切っている。お父さんにリップグロスのことを話しても、「唇に赤い色がつけばいいんだろ? ドラッグストアで売ってる安いのじゃダメなのか?」なんて無神経なことを言われそうだから、今日はお年玉貯金を崩すことに決めていた。
丸(まる)の内(うち)や汐留(しおどめ)のお洒落な高層ビルとか、アパレル系の企業に勤めているような父親だったら、こういうときも頼りになったのかもしれない。
でも、未桜のお父さんの仕事は、住宅の建築工事の現場監督。年がら年中真っ黒に日焼けしていて、毛玉だらけのセーターや着古したTシャツばかり身に着けている父親に、化粧品の相談なんてできるはずがなかった。
好きな女優さんが出ている、光まばゆいCMの映像を思い浮かべる。斜体の文字で書かれたブランドのロゴはどこにあるだろうかと、未桜はきょろきょろと辺りを見回しながら化粧品売り場の通路を歩いた。
フロアはだだっ広くて、なかなか目的の場所が見つからない。
未桜がはっとして足を止めたのは、仲良さそうに会話をしている男女が横の通路から出てきた瞬間だった。
「あのグロス、実は気になってたんですよぉ。明日からさっそく使おうっと」
「それはよかった。そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ」
 その声に、背筋がすっと冷えた。
 とっさに柱の陰に飛び込む。聞き間違いであることを願いながら、少しだけ首を伸ばして、角を曲がって去っていこうとしている男の姿を確認した。
 あ、やっぱり違った──と、未桜は一瞬安堵(あんど)した。中年の男性が、紺色のジャケットにベージュのパンツという、スタイリッシュな服装をしていたからだ。けれど、女の次の台詞を聞いて、未桜はその場で硬直した。
「ヤエさん、大丈夫ですか? 右手、怪我してるのに。それ、やっぱり私が持ちますよぉ」
「いいよいいよ。もうだいぶよくなってきてるから。まだ包帯は取れないけど」
「早く治るといいですね。というわけで荷物はこちらへ」
「ああ、いいって! ……ったく、カオリさんは強引だなぁ」
 三十代前半くらいの綺麗な女性が、よく日焼けした中年男の腕に絡みつくようにして、小さな水色の紙袋を奪い取っている。
 男が笑いながら伸ばした右手の指先には、白い包帯が幾重(いくえ)にも巻かれていた。
 二週間前に、現場の職人さんたちを手伝ってトラックの荷台から木材を運ぼうとした際、崩れてきた他の木材との間に挟んで骨折してしまったという、右手の人差し指──。
 唇の間に覗く白い歯。フロアに響く、豪快な笑い声。
柄にもなくめかし込んだあの人は、間違いなく、未桜の父だった。
 ヤエさん。
カオリさん。
 苗字を縮めた愛称と下の名前で呼び合い、仲睦まじく紙袋を取り合っている二人の関係は、容易に想像がついた。
 未桜はとっさに身を翻した。
 気が動転して、泣きそうになりながら、足音を忍ばせて走り去る。
 買い物の用事のことは、もはやすっかり忘れていた。そのままデパートの正面玄関を飛び出し、駅への道をひたすら駆けた。


女性がつけていたリップグロスの真っ赤な色が、何度も何度も、目の前でちかちかと光る。
 未桜はメモリーブレンドをもう一口、ごくりと飲んだ。
 気がつくと、自分の部屋のベッドに横向きに寝転がっていた。
デパートから逃げ帰ってきてから、未桜は布団を頭からかぶり、スマートフォンの画面ばかり眺めていた。
表示しているのは、高校の入学式の日に、校門の前で撮った家族三人の写真だ。
似合わない紺色のジャケットを羽織っているお父さんと、えんじ色のワンピースを着たお母さん。その二人の間に挟まれている、真新しい制服に身を包んだ自分。
写真の中では、お父さんもお母さんも、そして未桜自身も、晴れやかな笑みを浮かべていた。
元気だった頃のお母さんと一緒に撮った、最後の家族写真。
「これをスマホに送りつけたら……お父さん、目を覚ますかな」
枕に独り言をこぼす。
数秒間写真を見つめてから、力なく首を横に振る。
「……そんなことしちゃ、ダメか」
未桜にだって分かっていた。
お母さんは、もう二年も前に亡くなっている。
だからこれは不倫じゃない。自分には、お父さんの恋を邪魔する権限なんてない。一回りも若い女の人とイチャイチャしていたことを、決して咎めてはいけない──。
玄関のドアが開く音がしたのは、未桜が幾度となく同じ台詞を自分の胸に言い聞かせた、赤い西日の射しこむ夕暮れ時だった。
「ただいまぁ」
 間延びした声が聞こえてくる。いつもと同じようでいて、声のトーンが少しだけ、楽しそうに上ずっていた。
デパートで鉢合わせさえしなければ、まったく気がつかなかっただろう。出がけに言っていた「今日はお父さん、ジムに行ってくるわ。最近サボりがちだったからな」という台詞を、頭から信じていたはずだ。
 返事する気も起きず、未桜はベッドに横たわったまま、じっと黙っていた。
 未桜の部屋は、ダイニングと繋がっている。玄関の鍵はかけていたし、部屋から電気の光も漏れていなかったから、娘がすでに帰宅していることに気づいていないようだった。
 帰りに晩御飯の買い物にでも行っていたのか、ガサゴソとビニール袋から食材を出す音がする。
 何もかもが忌々(いまいま)しかった。父ののそのそとした足音も、冷蔵庫の開閉音も、ビニール袋を畳む音も、「ああ、今日は疲れたな」なんていう能天気な独り言も。
 未桜はベッドに寝転がったまま、ごろりと向きを変え、布団から手を伸ばして床に置いたバッグを漁った。中からイヤホンをつかみ取り、スマートフォンに接続する。
 しばらくの間、未桜は音楽で耳を塞いだ。
好きなアーティストのベストアルバムのはずなのに、蜂がブンブン飛び回るような音が頭の中で鳴り続けていて、メロディはこれっぽっちも頭に入ってこなかった。
 そのことにいっそう腹を立て、ため息とともにイヤホンを両耳から引き抜いた直後──信じられない声が、未桜の耳に届いた。
「……愛してるよ」
 ダイニングのテレビで、恋愛ドラマの録画を再生しているのかと思った。
 でも、違った。
「……うん、やっぱり大好きだ」
「また会いたいなぁ……うへへ」
 他でもない、お父さんの声だった。隣の部屋から、はっきりと聞こえてくる。
スマートフォンで電話でもしているのか、声は途切れがちだ。
 先ほどデパートでお父さんの横を歩いていた、カオリという名の女性の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
 きっと、デートのお礼の電話でもかかってきたのだろう。デパートで見かけたとき、お父さんがあの女性に、化粧品を買ってあげていたみたいだったから。
お父さんのほうから積極的に電話をかけた可能性は、考えたくなかった。
 やめてよ──、と呟く。
ダイニングにいるお父さんには届くはずもない、蚊の鳴くような声で。
 未桜の願いに反し、非情にも、長電話は続いた。
「……いやあ、本当はもっといろいろ買ってあげたかったけどさぁ。……最近、ボーナスが少なくて。……ほら、四月から未桜が大学に入るだろ? これから毎年学費を払ってたら、家計が火の車になりそうだ。……うう、つらいつらい」
「……そういえば、この間、俺が大事にしてたグラスが割れちゃってさ。……未桜が食器棚にしまおうとして、落っことしちまったらしいんだ。……本当、困ったもんだよ。今日、同じのが売ってないか、デパートで見てみればよかったな」
 ところどころで自分の名前が聞こえてきて、ベッドの上で凍りつく。
 お父さんが新しい女の人と付き合っているというだけなら、まだよかった。いや、よくはないのだけれど、少なくとも受け入れる努力をしようと思えた。
けれど、娘の愚痴をあけすけに話し、知らない女の人との会話のネタにしているなんて──ショックだった。
許せなかった。
「ふざけないでよ!」
バン、と大きな音がした。自分が部屋のドアを乱暴に開け放ち、反対側のドアノブが壁に激突した音だった。
椅子から立ち上がったお父さんは、目を真ん丸に見開いていた。未桜がテーブルの上のスマートフォンを睨むと、「あ、いや」と弁解するように両手を左右に振る。
「未桜、聞いてくれ、違うんだ。これは──」
 椅子の背にかかっているのは、入学式の写真でお父さんが羽織っていた紺色のジャケットだった。
こういうきちんとした上着は一着しか持っていないから、仕方ないのかもしれない。
だけど、せめて、別の女の人とのデートには、別の服で行ってほしかった。
「やめて。お父さんとはもう話したくない!」
 未桜は目を泳がせているお父さんを一睨みし、開けたときと同じくらい激しく、ドアを閉めた。
 衝撃で、家中の空気が震える。
 未桜はドアにもたれかかり、その場にずるずると座り込んだ。
 ハーフアップにした髪に手をやり、リボンをほどく。
 かつてお母さんが使っていた、青みがかった緑色のリボンを手に、未桜は泣き崩れた。


 すすり泣きの声は、きっと、ダイニングにも届いていただろう。
 あれ以来、たった一人の同居人とは、一言も口を利いていない──。
「うーん、確かに、これはつらいですねぇ」
 マスターと未桜の手の間から細い指をすっと抜き、アサくんが一人前に腕組みをした。
 我に返ったように、マスターも未桜の手を放す。触れ合っていられるこの時間が終わるのが、ちょっとだけ寂しかった。
 それでも、アサくんが同意してくれたのが嬉しくて、思わず椅子から腰を浮かす。
「でしょ? でも……どうにもならないんだよね。だって、悪いことじゃないんだもん。お母さんが亡くなって、もう二年も経ってるわけだし」
「それはそうですけど、未桜さんに関する愚痴をわざわざ相手の女性に言ったのは、お父さんが悪いですよね? 未桜さんが気分を害するのは当然です!」
「まあね。でも、それだって、私の過剰反応なのかも。学費のことだって、娘がグラスを割っちゃったことだって、考えてみれば他愛もないというか……人の親だったら誰にでもする話だよね。電話の相手がお父さんの新しい恋人だったから、無性にイライラしちゃっただけで」
 そうなのだ。──全部、こちらの過剰反応。
 あのあと、ドアをノックする音が聞こえても無視したり、話しかけてこようとするお父さんを何度も追い払ったり、ご飯の時間をわざとずらしたりした。お父さんが悲しむだろうことは分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
 どちらが悪いかと言われれば、未桜だ。
 いつまでも自分だけのお父さんでいてほしいと、自分勝手に願っている、未桜が悪い。
「だけど、未桜さんのお父さんって、ちょっと……かわいそうですね」
 先ほど責める発言をしたことを反省するように、アサくんがカウンターの向こうでため息をついた。
「二年前に奥さんを病気で亡くして、今度は二年後に、一人娘の未桜さんまで……。長い目で見ると、やっぱり、心の支えになる新しいパートナーは必要なのかもしれない……なんて思ったり……」
「それだっ!」
 思わず椅子から立ち上がり、アサくんの顔を指差す。「なっ、何ですか⁉」と後ずさったアサくんに、未桜は半分やけになりながら言い放った。
「そうだよ! お父さんに、二年待ってもらえばいいんだ! それだけのことだったんだよ!」
「えっ……どういうことですか?」
「だって、二年後には私はいなくなるでしょ? そしたらお父さんも、何も気にすることなく、あの女の人と再婚できるよね。学費も浮くし、恋愛の邪魔をしようとする娘がいなくなってせいせいするはず。相手の女の人も、十九歳の連れ子なんて面倒だろうし、きっと喜ぶよね!」
「……未桜さん!」
「私がどんなわがままを言ったって、あとたった二年の辛抱で、お父さんはあの人と幸せになれるんだよ。二人の恋を応援しようとか、新しい母親を受け入れようとか、私が一生懸命心の整理をつけなくたって、どうせ時が解決してくれるんだよね。私がこんなふうに悩んでること自体、全っ然、意味のないことだったんだよね!」
「もう、未桜さんってば! 自暴自棄にならないでください!」
 アサくんが急に叫んだ。
珍しく、本気で怒っているようだった。色白の顔が真っ赤になっている。
「未桜さんはもっと、自分の気持ちに素直になってください。つらいならつらい、悲しいなら悲しい、嫌なら嫌って、はっきり言ってください。未桜さんは強がりすぎなんですよ。複雑とか、過剰反応とか、そんな遠回しの言葉は要らないです。何のために僕らが話を聞いてると思ってるんですかっ!」
 両腕をぶんぶん振り回し、焦れたように未桜を叱る。それからはっとした顔で隣のマスターを見上げ、「……って、カウンセリングは、僕の仕事じゃないんですけど」と身を縮める。
 マスターは、じっと未桜の顔を見つめていた。
何か声をかけてくれるかと思ったけれど、うん、と曖昧に頷いたきり、また黙ってしまう。
 ──どうしようもない相談だって、呆れてるのかな。
 そう考えると、後悔が募った。
カウンセリングなんて、やめておけばよかった。アサくんと楽しくお喋りをしながら接客をして、マスターが淹れたコーヒーや紅茶をお客さんの元へ運んでいられれば、それでよかったのに。
「そういえば、最近、お父さんが休日に外出することがやけに多かったんだよね。散歩だとか買い物だとか、そのたびに違う用事を口にしてたけど、今考えるとあれ、全部デートの約束だったんだね」
 重苦しい空気に拍車をかけるように、自分を傷つける言葉が口を衝いて出た。
「私がリビングに入ると、バツが悪そうな顔をして、こそこそと何かのパンフレットを隠したこともあったなぁ。あの女の人と旅行に行く計画でも立ててたのか……あ、ひょっとして、結婚式場選びかもね」
「未桜さんったら……」
 アサくんが眉をひそめた。打つ手なしです、どうしましょう、とでも言いたげに、またマスターの顔を見る。
 すると不意に、マスターが無言で未桜に背を向けた。
 愛想を尽かされた──のでは、なかった。
 マスターが向かったのは、コーヒー豆が並ぶ棚だった。
 彼が無数の瓶を吟味し、手元の器に再び豆を集め始めたのを見て、未桜は慌てて声をかけた。
「あ、あの、マスター……どうしたんですか? メモリーブレンドなら、まだ余ってますけど」
「未桜さんに、もう一杯、飲んでほしいドリンクがあってさ」
 事もなげに言い、マスターは作業を続けた。
 ブレンドした豆を、電動ミルで細かく挽く。
 粉を小さな銀色のバスケットに入れ、表面をタンパーで軽く押し込む。
 そして、大きなエスプレッソマシンに取りつけ、抽出ボタンに触れる。
 アサくんも、目を白黒させて、その指先を追っていた。未桜と同様に、マスターが二杯目を用意し始めた意味がよく分かっていないようだ。
 しかも、この手順は、メモリーブレンドではなく──。
 ショットグラスに溜まったエスプレッソを、マスターがカップにあけた。
 冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、ステンレス製のミルクジャグに注ぎ、スチームを始める。
できあがった滑らかなミルクフォームを、マスターが慎重な手つきでカップに流し込むと、大きなハート型のラテアートが浮かび上がった。
「できあがり。はい、どうぞ」
「あの……これ……」
 目の前に置かれたカップと、薄い微笑みをたたえているマスターを、交互に見る。
「相席カフェラテ、ですよね?」
「そうだよ」
 あまりに簡潔な答えに困惑していると、マスターが右手の指先をカップへと向け、未桜を促した。
「大丈夫。これもデカフェだから安心して。未桜さんのために作ったんだ」
「これを飲んだら……誰に会えるんですか?」
「いいから、飲んでみて」
 お父さんだろうか──と、疑う。
 今は朝方だから、お父さんは寝ているはずだ。だから、ここに魂を呼び出しても、日常生活に支障はないのかもしれない。
 けれど、直接顔を合わせるのは、さすがに気が進まなかった。
 かといって、せっかくマスターが淹れてくれた相席カフェラテを拒否するなんて、そんなひどい真似はできない。
「あ……えっと……私のお父さん、平日はけっこう早起きなんです! だから、魂が呼び出しに応じてくれないかも……」
「心配ご無用。相席カフェラテの力は、なかなか強いんだ。“生ける人”を呼び出す場合、現世では辻褄(つじつま)合わせが行われる。急に眠くなって二度寝をするとか、出勤中に電車内で居眠りを始めるとか」
「でも……ほら、昨日の小山内さんみたいに、本部から謎の禁止令が出ちゃったりするかもしれないし……」
「そんなことはめったに起こらないよ。まさに生まれ変わりの最中や、亡くなる間際じゃない限りは。あとは、相席カフェラテのダブルブッキングというのもなくはないね。二人の“向かう人”が、同じ相手を同時に指名してしまうんだ」
マスターが苦笑する。小山内砂羽のケースはそのどれかだったのか、と未桜はようやく理解した。だとすると、未桜の父にはまったく当てはまらない。
ささやかな抵抗が失敗に終わり、未桜は肩を落とした。苦しすぎる言い訳が可笑しかったのか、ふふ、とマスターが声を漏らす。
「いいから、飲んでごらんよ。怖がらずに」
「どういうつもり……ですか?」
「未桜さんが見ている世界は、あまりに一面的──ということかな」
 マスターが含みを持たせた言い方をして、カウンターに視線を落とした。
 彼の考えていることは、ちっとも分からない。
 十年も一緒に働いているアサくんさえ分からないのだとしたら、まだアルバイトを初めて四日目の未桜に、分かるわけがない。
 自信ありげな様子のマスターと、ぽかんと口を半開きにしているアサくんに見守られながら、未桜は相席カフェラテのカップを持ち上げた。


 大きなハート型のラテアートが、未桜の口元に吸い込まれる。
 ふわりと、懐かしい香りが、未桜の鼻腔に届いた。
 はっとして、横を向く。
 隣の席に、長い黒髪を低い位置で一つにまとめた、柔らかな雰囲気を持つ中年女性が座っていた。
 数秒間、声が出なくなる。
 彼女も驚いているようだった。店内をきょろきょろと見回して、ようやく自分が来世喫茶店にいることを把握したらしく、未桜に向かって嬉しそうに笑いかけてくる。
その人懐っこい笑顔を見た瞬間、言葉が堰を切って飛び出した。
「おっ、お母さん! 嘘、嘘だよね、本当に──本当に、お母さん?」
「なあに、その慌てぶりは。未桜が私を呼び出したんでしょう?」
 声も喋り方も、笑うときにきゅっと口角が上がるのも、記憶のままだった。
「久しぶりね、未桜。会えて嬉しい」
「お母さぁん!」
 あまりに感極まって、椅子から崩れ落ちるようにして、相手の胸に飛び込んだ。よしよし、とお母さんに頭を撫でられ、涙がこぼれそうになる。
 未桜がやっとのことで身体を起こし、自分の席に戻ると、お母さんが眉根を寄せて問いかけてきた。
「ちょっと待って──未桜、あなた今何歳? 大人っぽくはなったけど、最後に会ったときとそれほど変わらなく見える」
「十九歳だよ」
 即答してから、母が心配している理由に気づき、慌てて補足した。
「──といっても、死んだわけじゃないよ! 来世喫茶店側のミスで、寿命が書かれた黄色いチケットを間違って早めに渡されちゃって、その記憶を消すためにここに来たんだ。で、ついでに、ずっと昔から夢だったカフェでのアルバイトをね──」
 ミスを犯したアサくんを半ば脅すようにして来世喫茶店に押しかけ、バイトの面接をふいにした慰謝料代わりにしばらく働かせてもらうことになった経緯を話すと、お母さんはころころと笑った。「さすが未桜。押しが強い」と、どこかで聞いたような台詞を言う。
 今はまだ生きているけれど、実は二年後に、二十一歳で──という話は、いったん伏せておくことにした。アサくんに目で合図を送ると、(ありがとうございます!)と口パクで感謝の意を表された。
「最近は、どうしてるの?」
 お母さんに尋ねられ、未桜はマスターとアサくんに見守られているのも忘れて、次々と近況を話した。
 憧れていた都内の大学に合格したこと。
受験勉強中、苦手だった英語の成績がどんどん上がったこと。
親友の明歩も同じ大学に進学したこと。
お母さんの形見のリボンを、お守り代わりに毎日髪につけていること。
この二年で、慣れない家事に四苦八苦しながらも、いくつかは得意料理ができたこと。
 お母さんは穏やかに笑いながら、なかなか止まらない未桜の話を聞いていた。
「どう? お父さんは相変わらず?」
 未桜の饒舌な語りが止まったのは、そう何気なく問いかけられた瞬間だった。
 相変わらず──では、ない。
お父さんには、大きすぎる変化がある。
 でも、そんなことを、もうこの世にいないお母さんに話したくなかった。
 悲しませたくない。
 だから、何でもない顔をして、嘘をつくしかない。
「うん、全然変わってな──」
「すみません、ちょっとよろしいですか」
 突然、マスターが口を挟んできた。
 驚いて、彼の端整な顔を見上げる。けれど、マスターの視線は未桜ではなく、未桜の母に向けられていた。
「一つ、お願いがありまして」
「私に? なあに?」
「スマホの通知を確認していただきたいんです。おそらく、そちらのバッグに入っていると思いますので」
「えーと……あら、これね」
 お母さんが膝の上に目を落とす。そこには、生前に愛用していたベージュ色のハンドバッグがあった。
 マスターの指示の意味が分からず、首を傾げる。そんな未桜の前で、お母さんはバッグの留め金を外し、見覚えのあるスマートフォンを取り出した。
 透明の背景にピンク色の花びらが舞っているデザインのケースは、お母さんがベッドの上で迎えた最後の誕生日に、未桜があげたものだ。
緒林老人が妻からもらった交通安全のお守りを身に着けていたように、普段からよく使っていたものは、来世喫茶店にも持ってこられる仕組みになっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、スマートフォンの画面を操作し始めたお母さんが、「まあ」と驚いた声を上げた。
「こんなにたくさん……」
 画面を人差し指でスクロールするお母さんの口元は、みるみるうちにほころんでいった。
「ふふふ、何なの、これ。どうしてこんなに漢字の間違いが多いんでしょう」
「漢字の、間違い……って?」
 状況がつかめず、お母さんの嬉しそうな顔をぽかんとして見つめる。するとマスターが、「ああ、確かに。それはそうでしょうね」と微笑みをたたえながら頷いた。
「ええっ、全然意味が分かりません。いったいどういうことですか? 僕も知りたいですっ!」
アサくんがうずうずとした様子で、カウンターを回り込み、未桜のそばに駆けてくる。十一歳とは思えないくらい利発なアサくんも、マスターのようにすべての真実を見通すというわけにはいかないらしい。
 未桜とアサくんが二人してスマートフォンを凝視していると、お母さんが気恥ずかしそうに笑みを漏らした。
「本来は、あまり人に見せるものじゃないと思うけど……まあ、いいでしょう。お父さんったら、もう二年も経つのに、まだこんなことしてるのね」
 そう感慨深げに言い、「はい、どうぞ」とスマートフォンを差し出してくる。
 未桜が恐る恐る受け取ると、アサくんが横から覗き込んできた。
 表示されていたのは、メッセージアプリのトーク画面だった。
 隣で、アサくんがひゅっと息を呑む。
『愛してるようんやっぱり大好きだ会いたいなぁ辺』
『いや本多もっといろいろ買ったたかったけどさぁ最近ボーナスが少なくて』
『ほら四月からみおが大学に入るだろうこれから前時刻表払ってたら家計が火の車なりそうだ風辛い辛い』
『そういえばこないだ俺が大事にしてたガラス笑えちゃってさ美穂が食器なのに島本しておくことしまったらしいんだ』
『ホント駒と門だよ今日何時のが売ってないかデパートで認めればよかったなぁ』
 一見、解読が困難な言葉の羅列(られつ)。
 けれど、どの文章も、未桜はすらすらと読むことができた。
 既視感がある──どころの騒ぎじゃない。
「お父さん、どうしちゃったのかしら。誤字脱字だらけだし、句読点もまったくないし。どうせ私が読むことはないからって、適当に打ったのかな? 嬉しいけど、ちょっと複雑」
お母さんが冗談交じりに言い、軽く頬を膨らませた。スマートフォンを未桜の手から取り、「ねえ未桜、これ読める?」と尋ねてくる。
「『会いたいなぁ』の後になんで『辺』がついてるのかしら」
「それは……うへへ、っていう笑い声かと……」
「『本多』は?」
「本当は、ってことだと思う」
「あとはここ、『前時刻表』の意味がさっぱり」
「毎月学費を……じゃないかな」
「すごい! 暗号みたいな文なのに、よく分かるね。えーっと、ここの『ガラス』は『グラス』、『笑えちゃってさ』は『割れちゃってさ』かしら。『美穂』は『未桜』。もう、一人娘の名前を打ち間違えるなんて、許しがたいわねぇ。『駒と門』は──」
「『本当、困ったもんだよ。今日、同じのが売ってないか、デパートで見てみればよかったな』」
 未桜が淀みなく音読してみせると、お母さんはアーモンド形の目を丸くした。
「どうして、そんなに簡単に読めるの?」
「それは──」
 もう未桜にも、真相の一部が見えていた。
 カウンターの向こうのマスターを見上げ、答え合わせをするように、言葉を押し出す。
「──お父さんが……スマホの音声入力機能でこの文章を打つのを……私、隣の部屋で聞いてたから……」
「ああ、音声入力! そういうことね。だから変換ミスがこんなに多いのかぁ」
 お母さんが目を輝かせ、ぽんと手を打った。
 でも、未桜は納得していなかった。納得するには、まだまだ説明のつかないことがありすぎる。
 お父さんは、恋人と電話していたのではなく、スマートフォンの音声入力機能を使って、亡くなったお母さんのアカウントにメッセージを送っていた。
 マスターはいち早くこの事実に気づき、相席カフェラテで送信先のお母さんを呼び出すことで、未桜の誤解を解こうとした。
 それは分かったけれど──。
「──どうやって、見抜いたんですか?」
「ヒントは三つあったよ」
 マスターが静かに微笑み、右手の指を三本立てた。
「一つ目は、未桜さんのお父さんをデパートで見かけたときの格好。怪我をしている右手の人差し指に、包帯を分厚く巻いてたよね。あれでは日常の動作に支障が出るはずだ。例えば、スマホの入力なんかは苦労するだろうね。左利きや、両利きでもない限りは」
「お、お父さんは……右利き、です……」
「二つ目は、未桜さんが部屋のドアを開けてお父さんを怒鳴りつけたときの光景。もしお父さんが誰かと電話中だったとしたら、スマートフォンは耳のそばに構えたままになるのが自然だけど、あのときスマートフォンはテーブルの上にあった」
「あっ……確かに!」
「聞こえてきたのはお父さんの声だけだったから、スピーカー機能を利用中だったわけではない。また、イヤホンを接続している様子もなかった。ということは、やっぱり電話はしていない。こちらが見逃しやすいワイヤレスイヤホンを使ってたなら、話は別だけど」
「お父さんは、そんな先進的なものは持ってない……です」
「そして三つ目は、ここ来世喫茶店で未桜さん自身が披露(ひろう)した推理の内容。長篠さまと信田さまが来店したとき、未桜さんは二人にこう言ってたよね。『亡くなった人にいくらメッセージを送っても、既読になることはありません』と」
 ──そうだった。
 どうして気づかなかったのだろう、と額に手を当てる。
 長篠梨沙は、相手がすでに死んでいることを知らずに、半年もの間、信田道彦にメッセージを送り続けていた。
それならば逆に、 “未読スルー”になると分かっていながら、もうこの世にいない相手に一方的な思いを語り続けることもできる。
未桜が盗み聞きしてしまった父の言葉は、すべて、亡くなった母に向けたものだったのだ。──愛の囁きも、近況報告も、娘に関する他愛のない愚痴も。
「不思議だね。さすがの未桜さんも、自分のことになると、観察眼が曇ってしまうのか」
マスターが可笑しそうに口元を緩める。
そんな彼に向かって、未桜は慌てて声を上げた。
「ちょっ……ちょっと待ってください! 音声入力の件は分かりましたけど……デパートで女の人と二人で歩いていた件はどうなるんですか? お化粧品を買ってあげたり、カオリさんって下の名前で呼んだりしてたのは? 家に帰ってきたときに、声の調子がウキウキしてたのは?」
「もう一度、思い返してみてごらん。前提をひっくり返すと、世界は全然違って見えてくるんだよ」
 未桜の詰問にも動じず、マスターがカウンターに目をやった。視線の先には、まだ中身の残っているメモリーブレンドのカップがあった。
 ──前提をひっくり返すというのは……お父さんは、あの女性と恋愛をしているわけじゃない、ってこと?
 先ほど再体験した記憶が、未桜の頭の中を再び駆け抜ける。
 ──あのグロス、実は気になってたんですよぉ。
 ──そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ。
 ──ヤエさん、大丈夫ですか?
 ──ったく、カオリさんは強引だなぁ。
「帰宅したとき、未桜さんのお父さんはウキウキしている様子だったんだよね。そして、亡くなったお母さんのアカウントに、音声入力でメッセージを送信した。その中には、『本当はもっといろいろ買ってあげたかった』という言葉があったね。さて、お父さんは、誰(、)に(、)何(、)を(、)買って(、、、)あげたかったん(、、、、、、、)だろう(、、、)?」
 はっと息を呑む。マスターの言うとおりだった。
 もし「買ってあげる」対象が新しい恋人なのだとしたら、亡くなったお母さんにわざわざそのことを報告するはずがない。
と、いうことは──。
「そもそも、未桜さんが初めてデパートの化粧品売り場に足を運んだ日に、広いフロア内でお父さんとばったり会ってしまったこと自体、もし百パーセント偶然だとしたら、なかなか奇跡的な出来事だよね。そこで、こう考えることはできないかな。あの日、未桜さんはお父さんの姿を、見かける(、、、、)べく(、、)して(、、)見かけた(、、、、)。なぜなら、二人は同じ目的を持っていたから──と」
「えっ……お父さんも、あのリップグロスを……?」
 未桜が目を瞬(またた)き、口元を押さえた瞬間だった。
 スマートフォンの画面に目を落としていたお母さんが、未桜が発した単語に反応し、ぱっと顔を上げた。
「例のリップグロス、もうお父さんからもらったの? よかったねぇ」
「な、何の話⁉」
「あら、ごめんなさい。ネタバレになっちゃったかしら」
 お母さんが、しまった、というように舌を出す。トーク画面を遡(さかのぼ)るのに夢中で、未桜とマスターの会話は全然耳に入っていなかったらしい。
「今、お父さんが送ってくれたメッセージに目を通してたんだけどね。未桜にどういうことをしてあげればいいかって、いちいち相談が送られてきてるのよ」
「相……談?」
「最近だと、『未桜がCMでやってたリップグロスとかいうのを欲しそうにしているみたいだ。入学祝いに買ってやりたいけどどこに行けば売ってるんだろう』とか。あとは、『そろそろ未桜が十九歳になるから、成人式に備えて振袖(ふりそで)のパンフレットを取り寄せたほうがいいかな』とか。……もう、おかしな人。二年前に死んだ私が返事できるわけないのにね」
 幸せそうに笑うお母さんの前で、未桜は呼吸を止めていた。
 お父さんは、大学に入学した未桜に、あのリップグロスを贈ろうとしていた。
 家でこそこそと見ていたのは、旅行でも結婚式場でもなく、まだ娘が高校生であるにもかかわらず勇み足で取り寄せてしまった、成人式の振袖のパンフレットだった──。
「親切な職場の事務員さんなんかに、ちゃんと相談してくれてるといいんだけど。確か、佐(さ)藤(とう)さんって言ったかな。三十代くらいの、元エステサロン勤務の方がいたと思うの。佐藤って苗字の方は職場に何人かいるみたいだから、カオリさんだったかミドリさんだったか、下の名前は忘れちゃったけど」
 でもねえ、とお母さんが苦笑する。
「お父さん、家ではあんな感じだけど、意外と引っ込み思案だから。ヤエさん、ヤエさんって後輩たちから慕われてるのに、自分からは上手く話しかけられないみたいなのよね。結婚するときだって、ほとんど私からプロポーズしたようなものだったし。化粧品について女性に相談するのは、至難(しなん)の業(わざ)かしら」
 するり、するりと、絡まっていた糸がほどけていく。
 カオリさんは、化粧品に精通(せいつう)している、職場の事務員さん。
 ヤエさんというのは、職場の後輩みんなに呼ばれている、父の共通のあだ名。
 呆然としている未桜に、マスターが話しかけてきた。
「もう分かったかな? お父さんは、頼りになる職場の同僚に頼んで、デパートで未桜さんの入学祝いを選んでもらってたんだ。下の名前で呼んでいたのは、同じ名字の人が職場に何人もいるから。『あのグロス、気になってたんです』と同僚の女性が発言し、お父さんが『それはよかった』と返していたのは、彼女がついでに自分の分も購入して喜んでいたから」
「じゃあ……帰宅したときにお父さんがウキウキしていたのは……」
「サプライズプレゼントを早く未桜さんに渡したかったから、だろうね」
「『本当はもっといろいろ買ってあげたかった』っていうのは……」
「リップグロス以外の化粧品も一揃い、ということかな。ボーナスが少なくて、それは叶わなかったみたいだけど」
「嘘だよ……お父さん……私、なんてひどいことを!」
 前提をひっくり返すと、世界は全然違って見えてくる。
 マスターの言葉は本当だった。視界が百八十度反転し、疑惑の霧はあっという間に晴れていった。
「ひどいこと? どうしたの未桜、お父さんと喧嘩でもしたの?」
 お母さんが、きょとんとした顔で尋ねてくる。未桜は我に返り、はっと両手で口を押さえた。
「わっ、わわっ、私、お母さんの前でとんでもない話をっ!」
「え? 何のこと? お父さんからのメッセージがなかなか読み終わらなくて、ちっとも聞いてなかったんだけど」
 その返答に、胸を撫で下ろす。「じゃあ大丈夫、大した話じゃないから!」と慌てて誤魔化し、カフェラテをぐいと一口飲んだ。視界の端で、アサくんがクスクスと笑っている。
 お母さんが、細かいことを気にしない性格で助かった。再びトーク画面に視線を戻し、微笑みを浮かべてメッセージに読み耽り始めた母を、未桜は懐かしさに浸りながらじっと見守った。
 お父さんに教えてあげたかった。一方的に送り続けたたくさんのメッセージを読んで、お母さんはすごく嬉しそうにしていたよ、と。
 けれど、たぶん──現世に帰ったら、この記憶は消えてしまう。
 そのことが、とても寂しかった。
「……あれ? ちょっと未桜、あなた大丈夫なの⁉」
 突然、お母さんが仰天した声を上げた。スマートフォンの画面をこちらに向け、怒ったように眉を寄せる。
「お父さんからの一番新しいメッセージを見たら、四日前に未桜が倒れて、まだ意識が戻らないって書いてあるけど。いったいどういうことなの? こんなところでアルバイトなんかしてないで、早くお父さんのところに帰ってあげなさい!」
 トーク画面には、切羽詰まったメッセージが並んでいた。
『みおが倒れどうしようみおまでいなくなったらどうしよう』
『まあ目を覚まさないお願いだからお願いだから戻ってきてくれ』
『お医者さんもゲインがわからないと言われた俺にもわからないどうすれば』
 その文面を見た途端、涙がぶわっとあふれる。
 次々と目からこぼれる水滴を拭いながら、未桜は何度も頷き、しゃくりあげた。
 ごめんなさい、家に帰りたくないなんて言ってごめんなさい──。
涙ながらに謝っていると、身体がふわりと温かいものに包まれた。
 二年も前に永遠の別れを告げたと思っていたお母さんに、力いっぱい抱きしめられる。
「大好きよ、未桜。ずっとずっと、いつまでも」
「私も……だよ……お母さん!」
 嗚咽の合間に、一生懸命思いを伝えた。久しぶりに会えたのは嬉しかったけれど、二度目のお別れの時が近づいていると思うと、ひどくつらかった。
 やがて、お母さんがゆっくりと、身体を離した。
「今日は未桜に会えて、すごく嬉しかった。お父さんにもよろしくね」
「……うん!」
「入学祝いのリップグロス、素知らぬふりして受け取るのよ。ちゃんと驚いて、喜んであげてね」
「そうする」──大丈夫。そのときにはきっと、ここでの出来事は全部忘れているから。
「またね、未桜」
「またね、お母さん!」
 まっすぐに目を見て言い、未桜はカップを手に取った。


 ほのかに温かいカフェラテの残りを、一息に飲み干す。
 未桜が生まれたときから好きだった、よく晴れた春の日の洗濯物のような匂いが、すっとどこかに消えていった。


 ソーサーにカップを置く。カウンターに座っているのは、未桜一人になっていた。
「さて! 未桜さん。現世に帰る気になりました?」
 アサくんがぴょこりとそばに跳んできて、未桜の顔を覗き込んだ。
 泣き腫らした目を見られたくなくて、「もう!」とそっぽを向く。
「メモリーブレンドと相席カフェラテの力で、お父さんへの誤解も解けて、お母さんにも会わせてもらって……こんなの、帰らないわけにはいかないよっ!」
「ね? すごいでしょう? これが、来世喫茶店、日本三十号店が誇るマスターの腕なんです。お客様方の信頼を集める、我らがマスターの底力なんです。今日は特に、出血大サービスでしたねっ!」
 アサくんは興奮を隠せない様子だった。まるで自分のことのように、誇らしげに胸を反らしている。
 美味しい賄いを作ってくれて、趣味で焼いたお菓子を惜しげもなくサービスで出して、調整が難しい特別なドリンクを難なく淹れることができて、穏やかで優しくて、控えめでありつつも包容力にあふれている、この来世喫茶店のマスター。
 そんな彼の元を離れる瞬間は、もうすぐそこだ。
 来世喫茶店にやってきた日から今までのことを、一つ一つゆっくりと、懐かしく振り返っていく。
 だって、ひとたび現世に帰ってしまったら、二度と思い出せなくなってしまうから。
ここでの記憶は、不思議な砂時計の力で、すべて消えてしまうから。
 たった四日間の、儚い恋だった──。
「──私の記憶を消す方法、見つかったんですよね?」
 意を決して、未桜はマスターに問いかけた。
 気のせいかもしれないけれど、カウンターの向こうに立っているマスターが、ふっと寂しそうに顔を翳らせる。
「そうだね。どうすればあの砂時計が未桜さんに効くようになるのか、ようやく分かったよ」
「別に、砂時計本体が故障してたわけじゃなかったですものね! 僕、あれから同じのをずっと使ってますけど、不具合は出てないですし。未桜さんのときは何がいけなかったんだろうって、ずっと考えてたんです」
 アサくんが、ズボンのポケットから例の砂時計を出した。チケット配布業務で使うため、肌身離さず持ち歩いているようだ。
 砂時計が故障していなかったということは、記憶が消去できなかったのは、未桜側の問題なのだろうか。
 深く考える間もなく、「それでは」とマスターがおごそかな声で言った。
「今から、未桜さんの記憶を消すための“手続き”をするよ。これはあくまで前準備だから、“手続き”を終えたからといって、その場でただちに記憶が消えるわけじゃない。だけど、事が済んだら速やかに未桜さんを現世に送り届け、アサくんに砂時計の力を行使してもらおうと思ってる。というわけで、用意はいいかな?」
「……はい。お願いします」
 未桜の覚悟のこもった言葉を聞き届けると、マスターは身を翻し、食器棚からグラスを一つ出した。
 そのグラスに、氷を入れ、ピッチャーから水を注ぐ。
 そして、カウンターから身を乗り出し、未桜の前に置いた。
「どうぞ。飲んでみて」
「……え?」
 わけが分からず、何の変哲もない水のグラスを見つめる。
 追加の指示があるかと思いきや、マスターはじっと黙ったまま、未桜のことを見守っていた。
「ええっ? “手続き”って、水を飲むだけですかぁ?」
 考え込む未桜の代わりに、アサくんが戸惑った声で尋ねた。マスターが「うん、そうだよ」と言葉少なに答える。
その理由や、“手続き”の方法が判明した経緯については、事細かに語るつもりがないようだった。
 けれど──その瞬間、未桜はピンときた。
 ピンときてしまった。
 昔からの夢。バイトの面接。
芝生の真ん中に小ぢんまりと建つ、理想のお店。
本部への問い合わせ。“向かう人”と、“生ける人”。
 夜のテーブルに灯る、キャンドルの火。
デカフェのメモリーブレンド。頼まれなかった相席カフェラテ。
振り向いたマスターの動揺した顔。
目の前にぽつりと置かれた、水のグラス──。


ここにきてから見聞きしたありとあらゆることが、頭の中を超特急で通り過ぎていく。
「……そういうことだったんだ」
 未桜が呆然と呟くと、マスターが形の綺麗な眉をぴくりと動かした。「……どうした?」と落ち着かない様子で問いかけてきた彼に、はっきりと宣言する。
「私、分かっちゃいました。──自分が、ここに来ることになった理由が」
「えっ、ここって、来世喫茶店にですか? 言ったじゃないですか、あれは確かに僕のミスですけど、元を辿ればパソコンの不具合だって! これでも傷ついてるんですから、蒸し返さないでくださいよぉ」
 アサくんが、見当違いの横槍を入れてきた。「私も、そう思ってたんだけどね」と未桜が含みを持たせて返すと、「へ? 違うんですか⁉」と目を皿のようにする。
 水のグラスには手をつけずに、未桜はマスターの不安げな顔を見上げた。
 さっきは、マスターが、お父さんに関する謎を解き明かしてくれた。緒林老人や、長篠梨沙がお店に来たときだって、未桜の助けになるようなヒントを毎回与えてくれた。
 今度は──未桜の番だ。
「最初にここに来たときに話したと思うんですけど、私はなぜだか、小さい頃からずっと、カフェで働くことを夢見ていました。物心ついたときには『コーヒー屋さんのお姉さん』になりたいと思っていて、高校生OKの喫茶店バイトがなかなかないと知ったときにはショックを受けて。だから結局、大学の受験勉強中もそのことばかり考えていて。親友の明歩に呆れられるくらい、熱望していたんです」
「ああ、そうでしたよねっ! 未桜さんが満を持して面接を受けに向かっていたところに、僕が手違いで姿を現してしまって……。十五年来の夢を台無しにされたって、こっぴどく怒られましたもんね。それで、なし崩し的にここに連れてくることになって──」
「──と、思ってたんだけどね」
 口を挟んできたアサくんの言葉を、未桜は先ほどと同じ言葉で遮った。アサくんがぱちくりと目を瞬く。
「これは、アサくんのミスでも、パソコンの不具合でもない。私が生きている間にこうやって来世喫茶店を訪れることになったのは、運命だったんだよ」
「……運命?」
「そう。最初から決まってたの。濃い(、、)目(、)の(、)メモリーブレンド(、、、、、、、、)の(、)力(、)で(、)ね(、)」
 濃い目──と、アサくんが口の中で復唱する。その不可解そうな反応を見るに、何のことを指しているのか分かっていないようだった。
 一方、マスターは驚いた顔をしていた。
やがてそれが、観念したような表情に変わる。
「アサくんから聞きました。……マスターはずいぶん前に、お客さんとしてここにやっていた女性に恋をしたんですよね。相手の女性も、マスターに対して同じ気持ちを抱いていた。だからその女性は、メモリーブレンドや相席カフェラテといったカフェイン入りの特別ドリンクをすぐに飲まず、水だけで何日も粘って、マスターのそばに残る術を懸命に探した」
 けれど、いい方法は見つからず、彼女は結局生まれ変わらざるをえなかった。
 悲しみに打ちひしがれたマスターは、もう二度と会うことのない恋のお相手のために、とある餞別を用意した。
 ──引き裂かれるときには悲しくて、メモリーブレンドを特別に、いつもより濃い目に淹れてあげたそうです。
「ああ! あのことですか!」
 他でもない自分がそう言ったことを思い出したのか、アサくんがぽんと手を打った。「だけど……それが何か?」という少年の率直な疑問に、未桜はゆっくりと答えていった。
「理由は後で説明するけど……そのとき彼女が選んで再体験した記憶は、生きている間の思い出ではなくて、来世(、、)喫茶店(、、、)に(、)来て(、、)から(、、)の(、)ひととき(、、、、)だったんだと思うの。カウンターでお水を飲みながら、一目惚れ相手のマスターと言葉を交わした記憶、ね。──つまり彼女は、生まれ変わった先の来世で、『喫茶店で何かを飲みながら、カウンター越しに店主と話す』というような経験をすることになる」
 メモリーブレンドの効能は、ある記憶を再体験した上で、来世でもほとんど同じ体験ができることが約束されるというものだ。
 ほとんど同じ、というのはもちろん、登場人物や場所までまったく一緒というわけにはいかないから。生まれた時代が違えば、関わる人間も置かれる環境も、当たり前に変わる。
 だけど──。
「マスターはさっき、私にデカフェのコーヒーを淹れてくれましたよね。『デカフェにすれば、来世に対する効果はなくなる』と言って。だとしたら、反対はどうなんでしょう? 意図的に抽出時間を長くして、カフェイン(、、、、、)成分(、、)の(、)濃い(、、)コーヒー(、、、、)を淹れたとしたら? 来世(、、)へ(、)の(、)影響(、、)が(、)通常(、、)より(、、)強く(、、)なる(、、)、と考えてもいいのではないでしょうか」
 ふんふん、と頷いていたアサくんの動きが、はたと止まる。
 俯き加減で話を聞いているマスターに対し、未桜はさらに畳みかけた。
「だとしたら、生まれ変わった彼女は、非常に強い“来世の条件”に縛られることになりますよね。例えば、『来世(、、)喫茶店(、、、)と(、)いう(、、)特定(、、)の(、)場所(、、)で、水(、)と(、)いう(、、)特定(、、)の(、)飲み物(、、、)を飲みながら、カウンター越しにマスター(、、、、)と(、)いう(、、)特定(、、)の(、)人物(、、)と話す』という体験をするまでは、人生を終えられない、とか。──そういうことになりませんか?」
「まさか……自ら、ね」
 マスターが白旗を上げるように呟く。
それが答えだった。
まさか、自ら(、、)当てるとは──ね。
そのとき、ふと思い出す。お店に二人きりになったとき、未桜に飲み物を用意しようとしたマスターが、「ミネラルウォーターは冷えてなかったかもしれない」と妙に慌てていたことを。
結局持ってきてくれたのは、水ではなくて、未桜が好きでも嫌いでもない、パイナップルジュースだったことを。
「えっ、ちょっと待ってくださいよマスター! 今、未桜さんに水を出した理由って……そうすれば現世に戻れるって……えっ⁉ 濃い目のメモリーブレンドで約束された、思い出の再体験をさせるため……⁉」
アサくんが慌てふためいている。普段の落ち着いた接客態度は見る影もない。
「マスターの恋愛相手の女性が来たのって、ずいぶん昔って言ってませんでした? てっきり僕、五十年とか百年とか、それくらい前なのかと!」
「そんなことはないよ。アサくんがここで働き始めるよりはずいぶん前、というだけで。未桜さんが十九歳になったばかりということは……正確には、十九年と数日前か」
 ようやくマスターが、未桜の目をまっすぐ見返してきた。懐かしさを懸命に押し殺すような視線に、彼の葛藤(かっとう)が表れている。