昨日、町井加奈子の来店直前にバースデーサプライズをしてくれた頃から、マスターの態度はなんだかおかしかった。ふとしたときに未桜をじっと見つめていたり、「まだ十九歳か……」と複雑そうに呟いたり。二人きりになると未桜を抱きしめたり、握った手を離そうとしなかったり。
その真意の読めない一挙一動が、未桜の心を搔き乱していた。
「それで……どうしようか? 気が進まないようなら、無理にとは言わないよ。お客様にドリンクの選択肢があるのと同じように、未桜さんにも、僕たちに相談をするかどうかの自由があるわけだし」
マスターが、こちらの心境を推し量るように、遠慮がちに尋ねてきた。
その隣ではアサくんが、「未桜さんはもっと、人に心を開いたほうがいいですっ!」と胸の前で拳を握っている。
──どうしよう。
未桜はその場に立ち尽くしたまま、十秒ほど、目をつむって考えた。
せっかく親しくなった二人に、今さら深刻な話をして、その場の空気を塗り替えてしまうのは嫌だった。──けれど。
マスターの、こちらの心を解きほぐすような笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
迷った末、ようやく答えを出し、ゆっくりと頭を下げた。
「……お願いします。マスターのカウンセリング、受けさせてください」
「そっか。せっかくだから、そこに座ってもらおうかな。そのほうが、僕も話が聞きやすいんだ」
マスターがにこりと微笑み、カウンター席を指差した。その指示に素直に従い、カウンターを回り込んで、マスターの真向かいに腰を下ろす。“お客さん”としてここに座るのは、新鮮な気分だった。
アサくんが気を利かせて、「お水、要りますか?」と訊いてくる。喉はあまり渇いていなかった。未桜は「大丈夫」と首を左右に振り、さっそく本題を切り出した。
「私が今、悩んでいるのは……お父さんとの関係について、です。私には隠してるつもりなんでしょうけど──なんだか、新しい女の人がいるみたいで」
自分の家族について、他人に相談するのは初めてだった。
どこから話していいのか分からず、順番がめちゃくちゃになってしまう。
カウンターの向こうからギリギリ顔を覗かせているアサくんが、はっと口元を押さえ、大きく目を見開いた。「上手く話そうとしなくていいからね」というマスターの優しい声に助けられ、未桜はやっとの思いで言葉を繋いだ。
「でも、あの、不倫とかじゃないんですよ! うちはお父さんと私の二人暮らしで……というのも、お母さんは二年前に病気で死んじゃったんです。だから、別に、お父さんが新しいパートナーを見つけて幸せになるのは、全然悪いことじゃなくて……むしろ幸せなことなのかも、というか……」
目を合わせているわけではないけれど、マスターの包み込むような眼差しを感じる。頭の中がしっちゃかめっちゃかになりながらも、未桜は懸命に、自分の本音を素直に表す言葉を探した。
「家事はなるべく手伝ってるつもりだけど、お母さんみたいにテキパキできないし、ご飯はどうしてもレトルトが多くなっちゃうし……結局、仕事が忙しいお父さんにいろいろやってもらっちゃってて、そんな生活に疲れちゃったのかもしれないけど……だけど、私のお母さんは世界に一人だけだからっ」
話しているうちに涙が出そうになるのを、未桜は必死にこらえた。
「まだお母さんがいなくなってから二年しか経ってないのに、お父さんがもう、他の女の人のことを好きなのかもしれないと思ったら、どうしても複雑で。死んじゃったお母さんに申し訳なくて。私がもっとしっかりしてたら、お父さんが新しい恋をすることもなかったのかな、って……」
「自分を責めることはないよ。未桜さんは未桜さん、お父さんはお父さん。家族とはいえ、別の人間なんだから」
マスターが、一つ一つの単語を強調するように言った。ほんの一瞬、心の中に春のそよ風が吹く。けれど、胸のつかえはまだまだ取れない。
「私、嫌なんです。大学一年生にもなって、お父さんの新しい恋を応援できない自分が。『よかったね!』って、明るく声をかけてあげられない、嫉妬深い自分が」
「未桜さんは優しいな」
マスターが、一転して静かに呟いた。
全然、そんなことない──と思う。
優しくないから、第二の人生を始めようとしているお父さんに対して、濃い灰色の気持ちを抱いているのだ。相手の女の人の顔を頭の中に思い描いて、油性ペンで真っ黒に塗りつぶしたくなってしまうのだ。
そう。優しいのは、そんな未桜に温かい言葉をかけてくれるマスターのほうだ。
「はい! 質問ですっ!」
僕のことを忘れないでと言わんばかりに、アサくんがピンと右手を真上に伸ばした。
「未桜さんは、お父さんが新しい女の人と付き合ってるみたいだってことは、どうやって知ったんですか? どうも、ご本人から聞いたわけではなさそうですが」
「あ、それは、ええっと……いろいろあって……」
未桜は口ごもった。どこから、どういう順序で話せばいいのか、また分からなくなる。
そんな未桜の心を読んだかのように、マスターがさらりと提案した。
「説明しづらいようだったら、メモリーブレンドを淹れようか? 未桜さんの記憶を直接見せてもらったほうが、僕たちも状況が呑み込みやすいかもしれない」
「ええっ、メモリーブレンド⁉ 私、“生ける人”なのに、大丈夫なんですか? それに、見せたいのは、私の“最も大切な記憶”じゃないし……」
「全然問題ないよ。デカフェにすれば、来世に対する効果はなくなるんだ。メニューにはああ書いているけれど、再体験する記憶の対象だって、実は豆の配合や蒸らし方次第で自由に変えられるしね」
昨日、マスターが一人でメモリーブレンドを飲んでいた光景を思い出す。
──確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ。
そういうことだったんだ、と合点する。
来世喫茶店で提供している特殊なドリンクには、すべてカフェインが入っている。“来世の条件”を左右するのは、その成分の量だったのだ。お客さんに水やミルクをいくらでもお出しすることができるのも、休憩中に店員の未桜がオレンジジュースやパイナップルジュースを飲ませてもらえたのも、そのため。
つまり、カフェインがごくわずかしか含まれていないデカフェにしてしまえば、来世への影響度は無視できる程度になり、記憶の再体験という効果だけを享受することができる──。
「分かりました。メモリーブレンドをいただいてもいいですか? 二人にお見せしたいのは……先週の日曜日に、デパートの化粧品売り場に行った日の記憶です」
「先週の日曜、デパートの化粧品売り場、だね。ちょっとお待ちを」
無数のコーヒー豆が並ぶ棚に、マスターがすっと手を伸ばした。デカフェの豆は、棚の上のほうに並べてあるらしい。迷いなくそのうちのいくつかを選び取り、ガラス瓶の蓋を開けて、手元の小さな器の中で数種類の豆をブレンドしていく。
この四日間で何度も見たはずなのに、気がつくと見とれていた。
ミルのハンドルをゆっくりと回す手。
粉を入れたペーパーフィルターに、お湯を回し入れていく動作。
一滴ずつサーバーに落ちていく焦げ茶色の液体を見つめる、慈愛(じあい)に満ちた目。
「──さて、できあがり。お待たせしました、デカフェのメモリーブレンドです」
マスターが自ら、カウンターの上から、ソーサーに載ったコーヒーカップを差し出してくれた。いそいそとお盆を引き寄せて待機していたアサくんが「あれぇ」と残念そうな声を上げ、振り返ったマスターが「ごめんごめん」と苦笑する。
未桜は右手の人差し指をコーヒーカップの持ち手に絡ませた。そして恐る恐る、左手をマスターに向かって差し出す。
「記憶を一緒に再体験してもらうには……私の身体に触れてもらわないといけないんですよね?」
「そうだね」マスターが、心なしか恥ずかしそうに言った。「じゃ、失礼するよ」
温かくて分厚い、大人の男性の手が、未桜の左の掌を包む。
未桜の心臓が破裂するのをすんでのところで食い止めたのは、「あ、僕も僕も!」とアサくんが隙間にねじ込んできた、細くて可愛い指だった。
「じゃ、飲みますね」
目をつむり、右手で持ち上げたカップに口をつけた。
喫茶店で四日も働いているというのに、ここでコーヒーを飲むのは初めてだった。
濃くてほろ苦い豆の味が、一瞬のうちに、口の中に広がる。
その真意の読めない一挙一動が、未桜の心を搔き乱していた。
「それで……どうしようか? 気が進まないようなら、無理にとは言わないよ。お客様にドリンクの選択肢があるのと同じように、未桜さんにも、僕たちに相談をするかどうかの自由があるわけだし」
マスターが、こちらの心境を推し量るように、遠慮がちに尋ねてきた。
その隣ではアサくんが、「未桜さんはもっと、人に心を開いたほうがいいですっ!」と胸の前で拳を握っている。
──どうしよう。
未桜はその場に立ち尽くしたまま、十秒ほど、目をつむって考えた。
せっかく親しくなった二人に、今さら深刻な話をして、その場の空気を塗り替えてしまうのは嫌だった。──けれど。
マスターの、こちらの心を解きほぐすような笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
迷った末、ようやく答えを出し、ゆっくりと頭を下げた。
「……お願いします。マスターのカウンセリング、受けさせてください」
「そっか。せっかくだから、そこに座ってもらおうかな。そのほうが、僕も話が聞きやすいんだ」
マスターがにこりと微笑み、カウンター席を指差した。その指示に素直に従い、カウンターを回り込んで、マスターの真向かいに腰を下ろす。“お客さん”としてここに座るのは、新鮮な気分だった。
アサくんが気を利かせて、「お水、要りますか?」と訊いてくる。喉はあまり渇いていなかった。未桜は「大丈夫」と首を左右に振り、さっそく本題を切り出した。
「私が今、悩んでいるのは……お父さんとの関係について、です。私には隠してるつもりなんでしょうけど──なんだか、新しい女の人がいるみたいで」
自分の家族について、他人に相談するのは初めてだった。
どこから話していいのか分からず、順番がめちゃくちゃになってしまう。
カウンターの向こうからギリギリ顔を覗かせているアサくんが、はっと口元を押さえ、大きく目を見開いた。「上手く話そうとしなくていいからね」というマスターの優しい声に助けられ、未桜はやっとの思いで言葉を繋いだ。
「でも、あの、不倫とかじゃないんですよ! うちはお父さんと私の二人暮らしで……というのも、お母さんは二年前に病気で死んじゃったんです。だから、別に、お父さんが新しいパートナーを見つけて幸せになるのは、全然悪いことじゃなくて……むしろ幸せなことなのかも、というか……」
目を合わせているわけではないけれど、マスターの包み込むような眼差しを感じる。頭の中がしっちゃかめっちゃかになりながらも、未桜は懸命に、自分の本音を素直に表す言葉を探した。
「家事はなるべく手伝ってるつもりだけど、お母さんみたいにテキパキできないし、ご飯はどうしてもレトルトが多くなっちゃうし……結局、仕事が忙しいお父さんにいろいろやってもらっちゃってて、そんな生活に疲れちゃったのかもしれないけど……だけど、私のお母さんは世界に一人だけだからっ」
話しているうちに涙が出そうになるのを、未桜は必死にこらえた。
「まだお母さんがいなくなってから二年しか経ってないのに、お父さんがもう、他の女の人のことを好きなのかもしれないと思ったら、どうしても複雑で。死んじゃったお母さんに申し訳なくて。私がもっとしっかりしてたら、お父さんが新しい恋をすることもなかったのかな、って……」
「自分を責めることはないよ。未桜さんは未桜さん、お父さんはお父さん。家族とはいえ、別の人間なんだから」
マスターが、一つ一つの単語を強調するように言った。ほんの一瞬、心の中に春のそよ風が吹く。けれど、胸のつかえはまだまだ取れない。
「私、嫌なんです。大学一年生にもなって、お父さんの新しい恋を応援できない自分が。『よかったね!』って、明るく声をかけてあげられない、嫉妬深い自分が」
「未桜さんは優しいな」
マスターが、一転して静かに呟いた。
全然、そんなことない──と思う。
優しくないから、第二の人生を始めようとしているお父さんに対して、濃い灰色の気持ちを抱いているのだ。相手の女の人の顔を頭の中に思い描いて、油性ペンで真っ黒に塗りつぶしたくなってしまうのだ。
そう。優しいのは、そんな未桜に温かい言葉をかけてくれるマスターのほうだ。
「はい! 質問ですっ!」
僕のことを忘れないでと言わんばかりに、アサくんがピンと右手を真上に伸ばした。
「未桜さんは、お父さんが新しい女の人と付き合ってるみたいだってことは、どうやって知ったんですか? どうも、ご本人から聞いたわけではなさそうですが」
「あ、それは、ええっと……いろいろあって……」
未桜は口ごもった。どこから、どういう順序で話せばいいのか、また分からなくなる。
そんな未桜の心を読んだかのように、マスターがさらりと提案した。
「説明しづらいようだったら、メモリーブレンドを淹れようか? 未桜さんの記憶を直接見せてもらったほうが、僕たちも状況が呑み込みやすいかもしれない」
「ええっ、メモリーブレンド⁉ 私、“生ける人”なのに、大丈夫なんですか? それに、見せたいのは、私の“最も大切な記憶”じゃないし……」
「全然問題ないよ。デカフェにすれば、来世に対する効果はなくなるんだ。メニューにはああ書いているけれど、再体験する記憶の対象だって、実は豆の配合や蒸らし方次第で自由に変えられるしね」
昨日、マスターが一人でメモリーブレンドを飲んでいた光景を思い出す。
──確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ。
そういうことだったんだ、と合点する。
来世喫茶店で提供している特殊なドリンクには、すべてカフェインが入っている。“来世の条件”を左右するのは、その成分の量だったのだ。お客さんに水やミルクをいくらでもお出しすることができるのも、休憩中に店員の未桜がオレンジジュースやパイナップルジュースを飲ませてもらえたのも、そのため。
つまり、カフェインがごくわずかしか含まれていないデカフェにしてしまえば、来世への影響度は無視できる程度になり、記憶の再体験という効果だけを享受することができる──。
「分かりました。メモリーブレンドをいただいてもいいですか? 二人にお見せしたいのは……先週の日曜日に、デパートの化粧品売り場に行った日の記憶です」
「先週の日曜、デパートの化粧品売り場、だね。ちょっとお待ちを」
無数のコーヒー豆が並ぶ棚に、マスターがすっと手を伸ばした。デカフェの豆は、棚の上のほうに並べてあるらしい。迷いなくそのうちのいくつかを選び取り、ガラス瓶の蓋を開けて、手元の小さな器の中で数種類の豆をブレンドしていく。
この四日間で何度も見たはずなのに、気がつくと見とれていた。
ミルのハンドルをゆっくりと回す手。
粉を入れたペーパーフィルターに、お湯を回し入れていく動作。
一滴ずつサーバーに落ちていく焦げ茶色の液体を見つめる、慈愛(じあい)に満ちた目。
「──さて、できあがり。お待たせしました、デカフェのメモリーブレンドです」
マスターが自ら、カウンターの上から、ソーサーに載ったコーヒーカップを差し出してくれた。いそいそとお盆を引き寄せて待機していたアサくんが「あれぇ」と残念そうな声を上げ、振り返ったマスターが「ごめんごめん」と苦笑する。
未桜は右手の人差し指をコーヒーカップの持ち手に絡ませた。そして恐る恐る、左手をマスターに向かって差し出す。
「記憶を一緒に再体験してもらうには……私の身体に触れてもらわないといけないんですよね?」
「そうだね」マスターが、心なしか恥ずかしそうに言った。「じゃ、失礼するよ」
温かくて分厚い、大人の男性の手が、未桜の左の掌を包む。
未桜の心臓が破裂するのをすんでのところで食い止めたのは、「あ、僕も僕も!」とアサくんが隙間にねじ込んできた、細くて可愛い指だった。
「じゃ、飲みますね」
目をつむり、右手で持ち上げたカップに口をつけた。
喫茶店で四日も働いているというのに、ここでコーヒーを飲むのは初めてだった。
濃くてほろ苦い豆の味が、一瞬のうちに、口の中に広がる。