カウンター席に座る加奈子は、すっかり待ちくたびれた顔をしていた。
「お紅茶はまだいただけないのかしら? 喉が渇いてしまいそうよ」
「失礼いたしました。どのような茶葉の配合にすべきか、少々迷っておりまして」
 マスターが丁重に頭を下げた。
 アサくんが薄い茶色の瞳をくるくると回し、未桜のことを見た。その意外そうな表情を見る限り、マスターがカウンセリングティーの淹れ方で迷うのは、普段めったにないことのようだ。
 未桜がようやく夢から醒め、なんとか平常心を取り戻した頃、マスターがゆっくりと加奈子に問いかけた。
「さて──突然ですが、町井さま。一つ、お尋ねしてもいいでしょうか」
「ええ。何?」
「以前、こんな話を聞いたことがあります。あるオフィスビルのフロアで、火災が起きました。そのフロアには、目が見えない人と、耳が聞こえない人がいました。一人は避難に成功し、もう一人は逃げ遅れてしまいました。助かったのはどちらだと思いますか?」
 アサくんが仰け反り、「ええっ、マスター、いきなりクイズですかぁ?」と目を白黒させる。マスターの意図が分からず、未桜も「それって……」と首をひねった。
「そりゃあ、耳が聞こえない人でしょう」と加奈子が眉を寄せながら答える。「どこから火の手が上がったか、見えるわけだし」
「僕もそう思います!」
「私もっ!」
 アサくんと未桜も、同感の意を示す。
 しかしマスターは目を伏せ、「いいえ」と首を左右に振った。
「助かったのは、目が見えない人だったのです」
「えっ⁉」「なんで⁉」
「健(けん)常者(じょうしゃ)にとってはなかなか想像しにくいことですが、実は火事現場において、『見える』というのはそれほど意味がないんです。どちらにしろ、フロア中に煙が充満して、視界が閉ざされますから。この場合、『こっちへ逃げろ!』という同僚の声を聞いて避難できたのは、目が見えない人のほう。耳が聞こえない人は逃げ遅れ、不幸にも亡くなってしまいました」
「へえ……そうなの」加奈子が首を傾げて呟く。「でも、それとこれと、何の関係が──」
「メニエール病(、、、、、、)、と(、)いう(、、)病気(、、)を(、)ご存知(、、、)です(、、)か(、)?」
 マスターが静かに言った。
「似た病気に、突発性(とっぱつせい)難聴(なんちょう)があります。片耳の難聴の発作が一回きり起き、その状態が継続する突発性難聴に対し、何度も発作を繰り返すのがメニエール病です。症状は、激しいめまい、片耳の難聴、耳鳴り、吐き気や腹痛など。一回の発作は十分から数時間程度続きます。そして、発作を繰り返すごとに、難聴や耳鳴りが徐々に改善しにくくなり、状態が持続するようになります」
「だから、それが──」と言いかけ、加奈子が目を見開く。
 呆然とする加奈子に、マスターが一言一言を噛み締めるように語りかけた。
「小山内さんは、こう言っていたんですよね。『三日くらい徹夜しても、アドレナリンが出るから意外と働ける。めまい(、、、)や(、)耳(、)鳴り(、、)が(、)する(、、)くらい(、、、)で(、)』と」
「でも……待ってよ……あれは、砂羽が働きすぎだったから……」
「メニエール病の発症のきっかけは、精神的ストレスや肉体の疲労、睡眠不足と言われています」
 マスターの言葉を聞き、加奈子が口元を押さえた。「じゃあ、砂羽は、あのとき……」と声を震わせる。
「火事が起きたとき、小山内さんは『やめて! 来ないで!』『嫌だ! あっちに行って!』と叫んでいたそうですね。おそらくですが、あのとき彼女は、まさにメニエール病の発作に襲われていたのです。緊急事態にもかかわらず難聴と耳鳴りに苛まれ、激しいめまいのせいで平衡(へいこう)感覚も失い、パニックに陥(おちい)っていたのでしょう。小山内さんは必死に、発作(、、)と(、)いう(、、)現象(、、)そのもの(、、、、)に(、)対し(、、)、『来ないで!』『あっちへ行って!』と叫び続けた。つまり、周り(、、)の(、)音(、)は(、)、ほとんど(、、、、)聞こえて(、、、、)いなかった(、、、、、)の(、)です(、、)。町井さまの呼びかけを拒絶したわけではなかったのですよ」
「……なんてこと」
 加奈子が両手で顔を覆った。
 同時に、ふとあることに気づき、未桜は「あっ」と声を上げた。
「そっか、難聴の発作がいつ起きるかも分からないから……だから砂羽さんは、ストリートライブをやろうって持ちかけられたとき、突然怒ったんですね!」
「そういうことだったんだろうと思う」と、マスターが顎を撫でる。「さらに言えば、小山内さんの難聴の症状は、すでにだいぶ進行していたんじゃないかな。テーブル越しに会話をするくらいなら異変を気取られずにできるけれど、音楽の演奏は難しいくらいに。バイオリニストは、耳が命だからね」
「ということは、町井さまとの音楽活動を何年か前から断っていたのは、仕事が忙しかったからじゃなくて、病気の──」
 未桜が言いかけた台詞は、加奈子の激しい嗚咽(おえつ)に遮られた。
「もう、ひどいわ。ひどすぎる! そのことを、私に教えてくれないなんて。もし病気のことを知っていれば、音楽をやろうなんて言わなかったのに。ドアを蹴破ってでも助けに入ったのに。ううん、その前に、あの子を追い詰めた会社を、無理にでも休ませたのに!」
 ただね──、と加奈子が泣きながら続ける。
「今、久しぶりに思い出したわ。砂羽はそういう子なのよ。いつも明るくて、強くて、前向きで、人に弱みを見せるのが苦手なの。……ああ、でも、だからこそ、私が気づいてあげなきゃいけなかったのかしら。耳が聞こえづらくなっている砂羽を音楽活動に誘うなんて……私ったら……なんて無神経なことを!」
「いえいえ町井さまっ、そんな──」
「そんなことは決してありませんよ、町井さま。ご自分を責めないでください」
 マスターが未桜の言葉を遮り、力強く言い切った。
そうだ、自分の出る幕ではなかったと、未桜は慌てて口をつぐむ。
「世の中には、いろいろな人がいます。親しい相手にはいくらでも心の内をさらけ出したくなる人もいれば、相手のことが好きであればあるほど、絶対に自分の弱いところを見せたくないと考える人もいる。小山内さんは、後者だったのでしょう。古くからの友人である町井さまの前では、病気にかかる前の、“いつもの自分”でいたかったのだと思います。ですから、気に病む必要はないのですよ。町井さまが病気のことを知らなかったというのは、言ってみれば、彼女の思惑どおりに事が進んだ証拠なのですから」
 マスターがにこりと微笑み、「──と、僕は信じています」と付け加えた。
「大事なのは、町井さまは決して、小山内さんに嫌われていたわけではなかったということです。彼女の死は、火事や発作といった不運が重なった結果でした。……きっと、無事に翌朝を迎えられていたら、彼女のほうから仲直りを言い出すつもりだったと思いますよ。そうでなければ、町井さまが小山内さんの疲れを癒そうと用意したアロマキャンドルを、わざわざ寝る前に自分の手でつけるはずがありませんから」
「……砂羽ぁ!」
 加奈子が叫び、カウンターに突っ伏す。アサくんがそそくさと追加のおしぼりを持って駆け寄ると、加奈子はなりふり構わずそれを奪い取り、赤くなった目頭に当てた。
 しばらくの間、店内には、加奈子のすすり泣きだけが響いていた。