やがて梨沙が、信田の背中に回していた手を解き、未桜のほうへと身体を向けた。
「ありがと、店員さん。いろいろ口を出してもらえなかったら、最後まですれ違ったままだったかも。あたしはブチ切れて収拾がつかなくなって、道彦はどんどん縮こまってさ」
「い、いえいえ……私は何も」
 面と向かって感謝されると、ちょっぴり照れてしまう。
 未桜がもじもじと身体をよじっていると、梨沙が「あ、そうだ!」と信田を見上げた。
「ねえ、道彦。あたしたち、今から話し合わなきゃいけないんだよ。あたしの“来世の条件”を何にするかについて」
「梨沙の来世、か。大役すぎて、緊張するな」
「まだそんなこと言ってんの? 彼氏なんだから、ばしっと決めてよ、ばしっと」
 梨沙が自分の言葉に合わせて、信田の背中を思い切り叩く。「いてっ、いててっ」と信田が二度も顔をしかめ、未桜たちは一斉に笑った。
「とか言って、あたしの希望は決まってるんだけどね。道彦が賛成してくれるといいんだけど」
「わっ、どんな来世がいいんですか?」
 恋人の信田を差し置いて、思わず訊いてしまう。梨沙はこちらに顔を向け、片目をつむってみせた。
「あたし──来世では、警察官になりたい」
「け、警察官⁉」
 予想もしていなかった答えに、目を見開く。「ちょっと、そんな顔しないでよ。キャラじゃないって、自分でも分かってんだからさ」と梨沙に苦笑いされ、未桜は「すみません!」と両手で顔をごしごしとこすった。
「カッコいい女刑事になりたいんだ。それで、日本のどこかに埋められてる道彦の遺体を見つけ出す。道彦を殺した奴らを、この手で逮捕してやるの」
「り、梨沙……」
 息を呑んでいる信田のそばで、「ええっ、でも!」とアサくんが跳びはねた。
「今から生まれ変わるわけですから、長篠さまが警察官になるまでは、少なくとも十八年かかるんですよ? 刑事ともなれば、もっとです!」
「別にいいじゃん。殺人事件に時効はないでしょ? もしそのときまでに道彦の事件が解決しちゃってたら、それはそれでいいし」
 梨沙はあっけらかんと言い、ひらひらと片手を振った。
「実はさ、子どもの頃、警察官になりたいと思ってたんだよね。『あんたは無能なんだから』って親に否定されて、諦めちゃったけど。来世ではせめて、そういうカッコいい夢を追っかけてみたいかなぁ、って」
「──いいと思う。すごく、いいと思う」
 信田が力強く頷いた。
「俺は賛成する。梨沙なら、優秀な刑事になれるよ。絶対になれる」
「ほんと? 道彦にそう言ってもらえると嬉しいな」
 梨沙は一瞬はにかんだ表情を見せ、「じゃ、そういうことで!」と未桜に視線を送ってきた。
「ええっと、ではお二人が合意した長篠さまの“来世の条件”は、『カッコいい女刑事になること』でよろしいですか?」
「恥ずかしいなぁ。『刑事になること』だけでいいよ。カッコよくなれるかどうかは、来世のあたしの努力次第ってことで」
「あっ、はい、すみません! かしこまりました!」
 顔から火が出そうになりながら、未桜はカップに残っているカフェラテに指先を向けた。
「お二人とも、お疲れさまでした。こちらを飲み干していただければ、長篠さまの来世に、今決めた条件が反映されます。……ですよね、マスター?」
「そうだよ」
 マスターが首を縦に振り、「どうぞ、ごゆっくり」と梨沙に微笑みかけた。
「せっかくですから、ぜひ、パウンドケーキも最後まで召し上がっていってくださいね」
「もちろんですよ! ほら、道彦も一緒に食べよう?」
「えっ、俺も? いいの?」
「であれば、もう一切れお持ちしますか? さっき追加で焼いたので、まだまだありますよ」
「いいんですか? じゃあ……俺の分も、お願いします」
「僕、切り分けてきますねっ!」
「え、いいよアサくん、私がやるから!」
「僕だって、お二人の役に立ちたいんですぅ!」
 梨沙と信田の大切な話し合いが、無事に終わった。
そのことが、無性に嬉しい。
未桜は半分スキップしながら、アサくんと競走するようにカウンターへと向かった。
 それから小一時間、キャンドルの光でぼうっと照らされた店内には、梨沙の溌剌(はつらつ)とした話し声と、信田の幸せそうな相槌(あいづち)が響いていた。


 やがて、相席カフェラテを飲み干した梨沙が、席を立った。
 一人になった彼女は、未桜に向かって、笑顔で手を振った。
「ごちそうさま」
くるりと背中を向け、店の外へと去っていく。
 その後ろ姿は、とても頼もしく、力強く、そして未来への希望に満ちあふれていた。
「いいカップルだったなぁ……美しい愛の形っていうのは、ああいうのを指すんだね、アサくんっ」
「僕に同意を求められても困りますって。十一歳ですよ? 恋だとか愛だとか、ちょっとよく分からないです」
 隣のカウンター席にちょこんと腰かけたアサくんが、肩をすくめる。「でも、感動したでしょ?」と未桜が顔を近づけると、「ええ、それはもう!」と少年らしい素直な反応が返ってきた。
 梨沙たち三組のお客さんが次々と退店し、喫茶店には再び、束の間の静寂(せいじゃく)が訪れていた。
 マスターは、バックヤードにいる。コーヒー豆を焙煎機にかける作業をしているらしい。本当はそばで見学したかったのだけれど、「次のお客様が来るまでにお店を掃除しちゃいましょう!」とアサくんに袖を引っ張られ、タイミングを逃してしまった。
まったく、空気を読んでくれたらいいのに。──って、そんなことを十一歳に求めるのも酷な話だ。
「まあ、アサくんはともかく……マスターは、どうなんだろう」
「マスター?」
「覚えてないくらいずっと前から、来世喫茶店で働いてるみたいだけど……この、現世と来世の間にある世界で、恋愛をすることってあるのかな? 例えば、系列店の店員さんと付き合ってる、とか」
「あれあれぇ? もしかして未桜さん、マスターのことが気になってるんですかぁ?」
 アサくんが意地悪く目を輝かせ、顔を覗き込んでくる。「ちっ、違うよ! そんなわけないでしょ!」と慌てて否定したけれど、全身の火照りは抑えられなかった。
 あはは、とアサくんが笑う。
「安心してください。僕が知る限り、マスターに恋人はいませんよ。ただ──」
「……ただ?」
「マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです」
 えっ、と声が漏れる。
 頭を殴られたような衝撃だった。両手を口に当てた未桜の前で、アサくんが申し訳なさそうに身を縮(ちぢ)める。
「僕がここで働き出す前なので、もうずいぶん昔になるみたいですけど……この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意(こんい)になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして……でも、“向かう人”をいつまでもここに引き留めるなんてこと、できるはずがありません」
 アサくんがちょっぴり悲しそうな顔をして、カウンターに目を落とした。
「マスターは諦めきれず、女性に水だけで何日も粘ってもらったり、ここの従業員に迎えられないかと本部に打診したりと、いろいろ手を打ったみたいなんですが……」
「水だけで何日も? その女の人、相当頑張ったんだね」
「でも結局、彼女には予定どおり、生まれ変わってもらうしかなくて」
「別れなきゃならなかった、ってこと? 両想いだったのに?」
「ええ。引き裂かれるときには悲しくて、メモリーブレンドを特別に、いつもより濃い目に淹れてあげたそうです。きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ」
 素敵で、切ない恋の話だった。
 マスターに思いを寄せ始めていた未桜にとっては、つらい話でもある。
「悲恋(ひれん)、だね。それに……すごく一途」
 ぽつりと呟く。かつてマスターに愛され、おそらく今も思われ続けているその女性が、とても羨(うらや)ましかった。
 現世と来世の狭間にあるこの世界は、一見穏やかで、常に平和な時間が流れているように思える。
 でも──それはそれで、やりきれないことも多いのかもしれない。
「さっ、そろそろ次のお客様がいらっしゃいますよ」
 アサくんが椅子からぴょんと飛び降り、カウンターに置いていた来店予定者リストを手に取った。
「どうですか、未桜さん。来世喫茶店でのアルバイトには、慣れてきましたか?」
「まあまあかな。アサくんに教えてもらったことは、全部覚えたはず」
「それなら、しばらく接客をお任せしてもいいでしょうか? 僕、そろそろ現世に行って、三日後の来店予定者にチケットを配り歩かないといけないんです。未桜さんに誤ってチケットを渡してしまった一件で、業務が途中になってしまっているので」
「あ、そっか」
 まだあれから半日も経っていないと思うと、不思議な心地がする。マスターも、アサくんも、ずっと前から一緒にいる仲間のような気がしていた。
 マニュアルをひととおり頭に叩き込んだとはいえ、お客様対応を一人で行うのは、少し緊張する。「不安だなぁ」と顔をしかめると、アサくんがバックヤードの方向を指差した。
「大丈夫ですよ。分からないことがあったら、マスターに訊けばいいんですから」
「そう言われてもなぁ。こんな話を聞いちゃった後で、普通に喋れるかなぁ。ただでさえ、超絶イケメンのマスターと話すのは緊張するのに……」
「やっ、やめてくださいよっ! 未桜さんの態度が急に変わったら、僕が変な話を吹き込んだことがバレバレじゃないですか!」
 目を白黒させるアサくんを可愛く思いつつ、「冗談、冗談」と立ち上がる。
「安心して行ってきて! 私はその間に、アサくんよりも優秀な店員になれるよう、めちゃくちゃ頑張っちゃうから」
「それは無理だと思いますけどね」
「否定が早い!」
「だって僕、勤務歴十年の大ベテランですよ? 未桜さんなんて屁でもないです」
「屁? 今、屁って言った?」
 じゃれ合いながら、出入り口へと向かい、アサくんを送り出す。
 外はすっかり夜だった。
暗闇の中に出ていったアサくんの姿が、途中でぽっと消える。
 満天の星が、ちかちかと瞬きながら、エプロン姿の未桜を見下ろしていた。
 《四月八日 来店予定者リスト》
・名前:町(まち)井(い)加(か)奈(な)子(こ)
・性別:女
・生年月日:一九七一年十月二十九日(享年四十七歳)
・職業:社長夫人
・経緯:二年前より卵巣(らんそう)癌(がん)を患う。入院中の病院にて、夫に見守られながら亡くなる。
・来店予定時刻:十時五十八分


「お誕生日おめでとう、未桜さん」
「おめでとうございますっ!」
 朝から何組か入っていたお客さんを全員送り出し、ほっと一息ついた瞬間だった。
 後ろを振り返り、目を丸くする。お店の中央には、美味しそうなイチゴのショートケーキの載った大皿を持っているマスターと、パチパチと拍手をしているアサくんが、並んで立っていた。
「えっ、これ、私に?」
「このとおり」
 マスターがケーキの上部を指し示す。イチゴとホイップクリームの間に、『HAPPY 19th BIRTHDAY 未桜さん』と流麗な文字で書かれたチョコレートプレートが置かれていた。
 ──そうか、私。
 今日から十九歳なんだ、と気づく。
 昨夜からお客さんがなかなか途切れず、日付が変わった後もずっと忙しくしていたから、すっかり忘れていた。来世喫茶店にいると、ついつい時間の流れに疎くなる。
「ま、マスター……ホールケーキなんて、いつの間に焼いたんですか⁉」
「あれぇ、未桜さん、気づいてなかったんですか? 朝からいい匂いがプンプンしてたのに!」
「だって、あれは『本日のスイーツ』の追加分なのかと!」
「スイートポテトとスポンジケーキの焼ける匂いって、そんなに似てますぅ?」
 アサくんが唇を突き出し、わざとらしく首を傾げる。「もう!」と拳を振り上げると、「わ、暴力反対!」と彼がぴょこりと首をすくめた。
「この三日間で、すっかり仲良くなったみたいだね。傍(はた)から見ると、まるで歳の離れた姉弟(きょうだい)だ」
 マスターがテーブルに大皿を置き、「──って、さっきお客様に言われてたよ」とケーキを切り分け始める。「ええっ、私、お姉さんなんて柄じゃないですよ!」「僕だって生前は一人っ子です!」と二人して反論すると、マスターはいよいよ苦笑した。
 次のお客様が来る前に急いで食べてしまおう、というマスターの提案に従い、取り分けてもらったお皿を引き寄せる。小ぶりのホールケーキは、三人で無理なく食べきれるくらいの、ちょうどいいサイズだった。
「ケーキ用のろうそくを切らしててごめんね。 “生ける人”の誕生日をお祝いするなんていうイベントは、来世喫茶店では滅多に起こらなくてさ」
 フォークを口に運びながら、マスターが申し訳なさそうに言う。けれど、そんなことはまったく気にならないくらい、未桜の口の中はすでに幸せで満たされていた。
 牛乳の香りがするクリームが、舌の上でとろける。スポンジはふわふわで、口当たりがとても優しい。そしてイチゴの甘酸っぱさは、今の未桜の心の中を表しているようだった。
 マスターが、自分のためだけに、焼いてくれたケーキ──。
 思わず顔がにやけそうになる。それを隠そうと、慌ててフォークをケーキに突き刺し、口に放り込んだ。
すくった欠片が予想外に大きくて、目を白黒させながら、懸命に口を動かす。すると、向かいに座っているマスターが不意に破顔した。
 その理由が分からずきょとんとしていると、マスターがテーブルに置いてあった紙ナプキンを手に取り、未桜の顔に手を伸ばしてきた。
 あっという間に唇の端を拭(ぬぐ)われる。未桜が赤くなってぱっと口元に手をやると、マスターはナプキンを丁寧に畳みながら微笑んだ。
「クリームがついてた。気づいてなさそうだったから」
「わ、恥ずかしい……」
「そんなにいっぺんに食べて、何を急いでいるのやら?」
「えっ、いやあの、何でもないです!」
未桜はぶんぶんと首を横に振った。そんな甘いやりとりにまったく気づいていない様子のアサくんが、「でも未桜さん」と思案顔で話しかけてくる。
「貴重な十九歳の誕生日を、こっちの世界で迎えてしまって大丈夫ですか? こうやって一緒にお祝いできるのは嬉しいですけど……本当にいいんでしょうか」
「だっ、大丈夫! べ、別に、今、彼氏がいるわけでもないし……というかいたことないし……」
「そうじゃなくて! そろそろ現世に戻らないと、ご家族がかわいそうじゃないですか、ってことです。『八重樫未桜』として迎える誕生日は、今日を含めてあと三回しか残っていないんですよ? それなのに、未桜さんの身体はもう丸二日間も、意識不明のまま病院のベッドに横たわっているわけで……」
こちらを見つめるアサくんは、至って真剣な顔をしていた。
憧れのマスターに誕生日ケーキを作ってもらえてラッキー、などと軽く考えていた自分が恥ずかしくなる。
 どう答えるか迷いつつ、隣のテーブルに座るマスターの横顔に、何気なく目をやった。
その途端、未桜の心臓は、二十センチほど跳ねた。
 テーブルに目を落とすマスターが、ひどく悲しそうに見えたのだ。
 気のせいかと思い、もう一度チラ見したけれど、やはり見間違いではなかった。先ほどまで、手作りのケーキを前に朗らかな笑みを浮かべていたはずのマスターは今、どこか気落ちした表情をしている。
 ──もしかして……私に現世に戻ってほしくないって、思ってくれてるのかな?
 未桜がマスターに恋をしているように、マスターも自分のことを──という虹色の想像がむくむくとわき上がってきた直後、その考えを振り払った。
──都合がよすぎる、よね。
大人の男性であるマスターが、十歳近く年下の未桜を、自分と同じように意識してくれているかもしれないなんて……あまりにも。
そもそも、二日前の夜に、アサくんから聞いたばかりではないか。マスターはもう二度と恋をするつもりがない、と。
彼は単に、同情してくれているのだろう。丸二年後に二十一歳で急死するという、未桜の避けようのない運命に。
もしくは、彼が実際に未桜との別れを惜しんでくれているという可能性も、あるにはある。けれどそれは、せっかく仕事を教えた店員が一人減るという意味で、だ。
 理由はどうであれ、マスターに悲しんでもらえているなら、それだけでも光栄に思わなきゃ──と自分に無理やり言い聞かせながら、未桜はアサくんへと向き直った。
「うーん、私、あんまり家には帰りたくないんだよね。ここでのバイト、楽しいし」
「でも、未桜さんを毎日見舞っているご両親が、どんなに心配しているか……」
「両親は、いないの」
 一瞬の間の後、アサくんが「え?」と目を見開いた。語弊のある言い方をしてしまったことに気づき、未桜は急いで訂正した。
「ごめんごめん。両方とも健在(けんざい)なわけじゃない、ってことね。お母さんはもういなくて、お父さんだけ。そのお父さんだって──」
 言いかけて、口をつぐむ。デパートの化粧品売り場と、真っ赤なリップグロスをつけた唇が、脳裏をよぎった。
「ま、とにかく! 私ね、もう少しここにいたいんだ。それにどうせ、記憶を消す方法が見つかるまでは、現世に帰っちゃいけないんでしょ? 誕生日を来世喫茶店で過ごすなんて、普通はできないことだし、こんなに素敵なマスターの特製ケーキまでいただいちゃったし、いいことずくめだよっ!」
 できる限り明るく聞こえるよう声のトーンを上げ、ピースサインを出した。
 未桜の家庭の事情が気になるのか、アサくんは眉をハの字にしている。そんな彼を、マスターが「まあまあ、アサくん」となだめた。
「ひとまず、僕たちのバースデーサプライズを喜んでもらえたようなら、それでよかったじゃないか」
「はい……でも……」
「どうだった? 未桜さん。僕が心を込めて作った、イチゴのショートケーキは。気に入ってくれたかな?」
「もちろんです! 一口ごとにほっぺたが落ちます! 顔がいくつあっても足りません!」
 ここぞとばかりに感想を伝えると、マスターが珍しく声を上げて笑った。
「まさかそれほどとは。シェフ冥利(みょうり)に尽きるよ」
「本当に美味しくて。それに……嬉しくて」
「よかった」
 弾けるような笑顔だった。いつも落ち着いていて、どちらかというと感情の起伏が少ないマスターも、こういうキラキラとした表情をするのだと、意外に思う。
 こんな顔を、至近距離で見せられたら──やっぱり、期待してしまう。
 仕事上必要がない限りはお客さんの前にもさほど出ていかず、あくまでカウンター内で裏方に徹しているマスターが、まだ出会って三日目のアルバイト店員に、自ら誕生日ケーキを用意するというサプライズをしてくれるなんて。唇の端についたクリームも、さりげなく拭ってくれるなんて。
 そんなの、やっぱり、脈があるとしか──。
 ──ダメダメ、要らぬ期待はっ!
 無言で首を左右に振り、未桜はショートケーキをどんどん口に放り込んだ。
最後のひとかけらを咀嚼(そしゃく)して、ごっくんと飲み込んでしまってから、もっと味わって食べればよかったと後悔する。片想いの相手に誕生日ケーキを作ってもらえる機会など、二十一年の人生の中で、たった一度の出来事だったかもしれないのに。
「あっ、あのっ、ごちそうさまでした! 私、さっきの作業の続きをしますね。お二人はゆっくり食べててくださいっ!」
 怪しまれないことを祈りつつ、逃げるように席を立ち、入り口横の棚へと向かった。
 小さなバスケットに入っているクッキーの袋を、綺麗に並べ直していく。袋の口をくくっているリボンの形が崩れていれば、いったん解いてもう一度結ぶ。種類が違うクッキーが混じっていれば、正しいバスケットに戻す。
『ご自由にお持ちください(来世に辿りつく前に食べ終えてください)』という貼り紙のとおり、この棚に置いてあるマスターお手製のクッキーは、お客さんが自由にお土産に持って帰っていいことになっていた。いくつか手に取って中身を確認するお客さんも多いため、たまにこうして整理をしないと、見た目がぐちゃぐちゃになってしまう。
 クッキーの種類ごとに色とりどりのリボンが結わえられているのは、作業をしながら思わず微笑んでしまうくらい、可愛らしい光景だった。
 サブレは黄色。メレンゲクッキーはピンク。ラングドシャは白。ジャムサンドクッキーはオレンジ。フロランタンは緑。シガレットクッキーは紫。
 未桜が一番好きなクッキーは、スノーボールだった。
バスケットの一番手前にある袋を手に取り、窓から差し込む光に照らしてみる。光沢のある水色のリボンが、つるりと輝いた。
「あれあれ未桜さん、すごい勢いでケーキをたいらげたばかりなのに、まさかクッキーまで狙ってるんですか?」
 ケーキを食べ終えた様子のアサくんが、後ろから覗き込んでくる。まったく、マスターも見ている前で、聞こえの悪いことを言わないでほしい。
未桜は「違うってば!」と慌てて否定し、袋をバスケットに戻した。
「真ん丸の形も、上にかかった粉砂糖の白い色も、すっごく綺麗だったから。もし私がお客さんなら、これを持って帰るかなって」
「ああ、そういうことでしたか。スノーボールクッキー、いいですよね! リボンの色も、未桜さん好みですし」
 アサくんが、ハーフアップにした未桜の髪を指差した。「そういえばそうだね」と髪に手をやりながら、クッキーの袋に使われている水色のリボンも、よく見るとだいぶ緑がかっていることに気づく。髪留めに使っているお母さんの形見のリボンと、ほとんど同じ色と言ってもいいかもしれない。
 スノーボール、雪、冬、十二月、ターコイズ。
そんな連想ゲームの結果、マスターはこの色のリボンを選んだのかもしれない。そう思うと、急に親近感がわいて、心の底がぽかぽかと温まった。
そのとき、不意に、後頭部に手の温もりを感じた。
振り向こうとすると、「ああ、ごめん」とすぐ後ろでマスターの声が聞こえた。彼の息が首にかかったのを感じ、未桜は緊張のあまり、途端に全身を硬直(こうちょく)させる。
マスターは、背後で身を屈め、未桜が髪につけている水色のリボンを触っているようだった。何か気になることがあるのかと思いきや、「……いい色だね」とだけ、小さな声で呟く。
なぜだろう。その声は、なんだかとても感傷的(かんしょうてき)だった。
数秒後に、背後にあった人の気配が離れていった。恐る恐る振り向くと、マスターは何でもない顔で、テーブルの上のケーキ皿を重ねていた。
「そろそろ、次のお客様がいらっしゃる時間だよ。ケーキのお皿は僕が片付けておくから、未桜さんとアサくんは、入り口でそのまま待機して」
「えっ、そんな、お皿洗いは私が!」「僕が!」
「いいよ、これくらい。それよりお客様のおもてなしをよろしく」
 お皿を両手に載せたマスターがウインクをして、カウンター内に入っていった。蛇口から水を出す音が聞こえてくる。
 来店予定者リストを取ってきて、次のお客さんの情報を確認した。来店予定時刻が三分後に迫っていることに、アサくんと二人して驚く。
手作りケーキの味に魅了されているうちに、時間の感覚をすっかり失っていたようだ。反省しながら、お出迎えのポジションに陣取る。
遠慮がちに、入り口の扉が開いた。
チリンチリン、という爽やかな鈴の音色に乗せて、「いらっしゃいませ!」と頭を下げる。
扉の隙間から現れたのは、ふくよかな中年女性だった。
──あれ? 意外。
彼女は、なんというか、すっきりしない顔をしていた。
家族に見守られて最後の時を迎えた社長夫人、というリストの事前情報からして、てっきり幸せに人生を終えたのだと思い込んでいたのだけれど。
もちろん、四十七歳という年齢は若すぎる。ただ、死因となった卵巣癌は二年前に判明していたようだし、すべての心残りを解消する時間は十分にあったのではないかと、そう考えたのだ。
その予想は、どうやら外れたらしい。
不安そうに眉根を寄せ、唇を引き結んでいる。その迷いだらけの表情は、ゆったりとした高級そうな黒いワンピースや、両手にいくつも輝いているダイヤモンドの指輪と、どこかちぐはぐに見えた。
こちらから声をかけるより先に、彼女がアサくんに気づき、口を開いた。
「あなた……このあいだ私に、黄色いチケットをくれた……」
「あ、はい! そうです。あんな一瞬だったのに、覚えていてくださって光栄です!」
「不思議ね。死んだ瞬間に、ふと思い出したのよ。病室にあなたが来たことや、寿命が尽きる日付を教えられたこと。それで、チケットの記載のとおりに、ここにやってきたんだけど」
「来世喫茶店、日本三十号店へようこそ。お待ちしておりましたよ、町井さま」
 アサくんが天使のような笑顔を作る。未桜も負けじととびきりの笑みを浮かべ、「カウンターでもテーブルでも、お好きな席にどうぞ」と案内の言葉を続けた。
 彼女は迷った挙句、カウンターに近づき、一番近くにあった椅子を後ろに引いた。座ろうとして、しばし動きを止め、ゆっくりとアサくんを振り返る。
「あなたがチケットを渡しにきてくれたとき、私、『来世喫茶店ってどういう場所?』って聞いたわよね。そしたら、あなた、こう言ったでしょう。『人生を振り返り、次に繋げる場所です』って」
「はい。確か、そう答えましたね」
「私、あまり気が進まないのよ。人生というか、過去を振り返るのは……」
彼女が緊張したように口元をこわばらせているのが気になり、未桜は思わず「それって」と口を挟んだ。
「町井さまが、過去を振り返らない性格だからですか? それとも、人生に心残りがあるからですか?」
「……後者よ」
 短い答えが返ってくる。
その言い方からは、彼女が自分の過去と向き合うため、相当な覚悟を決めてここに来たことが読み取れた。
「あのっ、差し支えなければ、私が──」
「未桜さん、未桜さん! まずはご本人確認からですよっ!」
 カウンターに手をついて身を乗り出した途端、アサくんが慌てた様子で制止してきた。例のごとく先走ってしまったことを反省し、「失礼いたしました」とマニュアルどおりの接客に戻る。
「改めまして、町井さま──来世喫茶店にはるばるお越しいただき、誠にありがとうございます。お手数ですが、まずはプロフィールの確認をさせてください。町井加奈子さま、一九七一年十月二十九日生まれ、享年四十七歳。お間違いないでしょうか?」
「ええ」
 アルバイトを始めてから丸二日が経ち、さすがに案内の台詞はすらすら言えるようになっていた。ベテラン店員のアサくんに再三指導されたこともあり、「恐れ入りますが」「よろしければ」「お手数ですが」「差し支えなければ」といったクッション言葉までも、しっかり身につき始めている。
「短い間ではありますが、町井さまが安心して来世に“向かう”ことができるよう、一生懸命お手伝いさせていただきますね! まずはそのための、ドリンクメニューのご説明から」
 メニュー表を開き、カウンターの上に置く。
 一つ一つのドリンク名を指し示しながら、それを飲むことで得られる体験と、“来世の条件”を決める方法について、丁寧に説明していった。
 人生で最も大切な思い出を再体験できる、『メモリーブレンド』。
 もう一度会いたい人を呼び出すことができる、『相席カフェラテ』。
 そして、来世に反映される“要素”の配分をマスターにお任せで決めてもらえる、『マスターのカウンセリングティー』。
「こちらをご注文される場合、まずはマスターによる町井さまのカウンセリングを行わせていただきます。今までの人生についてお聞かせいただき、それに関する町井さまのご感想や来世に関するご意向などを伺った上で、オリジナルのブレンドティーをご提供します」
コーヒー豆と同様、マスターが揃えている茶葉には、無数の種類がある。その組み合わせ方や蒸らし時間の長さで、『健康』『恋愛』『お金』『仕事』『家族』『平穏』『人間関係』といった人生における重要な要素が、どのくらい来世に“強く”反映されるかが決まるのだという。
どれか一つの要素を濃く出す場合もあるし、いくつかをブレンドする場合もある。
その配分をどうするかは、マスターに一任することとなる。
「何もかもが完璧な人生というものは、存在しません。お茶は一杯しか飲めませんから、必然的に、その中でのバランスを考えていくことになります。例えば、『健康』だけを望めば、特に大きな病気もなく長寿を全うすることができますが、人間関係でものすごく苦労する人生になるかもしれません。かといって、『健康』『家族』『恋愛』『お金』とたくさんの要素を詰め込もうとすれば、一つ一つの充実度は薄まっていきます。なかなか難しいですが、細かい調整はマスターがしてくれますから、どうぞご安心を」
 そして最後に──と、未桜はメニュー表の隣のページを指した。
「『本日のスイーツ』は、抹茶のスイートポテトです。こちらはサービスですので、よろしければぜひ、お飲み物とご一緒にどうぞ」
 町井加奈子は、小さく頷きながら、未桜の説明に耳を傾けていた。
来世喫茶店を訪れるお客さんたちにとって、どのドリンクを頼むかというのは、とても大事な選択だ。
説明を終えた時点でお客さんが迷っている場合は、「お決まりの頃にお伺いします」と声をかけ、いったんカウンター内に下がることになっている。今回もそうしようと未桜が口を開きかけたとき、加奈子が考え考えといった様子で尋ねてきた。
「相席カフェラテっていうのは……故人にも会えるのよね?」
「はい、大丈夫ですよ!」
「それなら、これにするわ。二十年近く前に亡くなった親友に会いたいの。オサナイサワ、っていう名前なんだけど」
加奈子に一つ一つの漢字を訊きながら、未桜は伝票に注文内容を書いていった。
小(お)山(さ)内(ない)砂(さ)羽(わ)、というフルネームを再確認してから、加奈子に向かって一礼し、カウンター内にいるマスターのところへと向かう。
「相席カフェラテ一つ、お願いします!」
 元気よく声を張り、ガラス製のティーポットを磨いていたマスターに伝票を差し出した。
 マスターがティーポットを置き、こちらを向く。伝票を受け取ろうと手を伸ばした彼の視線が、未桜が書いた文字の上をなぞった。
その瞬間、マスターの動きが止まった。「ああ、これは……」という独り言が、ぽつりとこぼれる。
「うーん、ちょっと待ってね」
 マスターは困った顔をして、急ぎ足でバックヤードへと消えていった。背の高い後ろ姿をぽかんとして見送る未桜のところに、「あれれ、どうしたんでしょう?」とアサくんが駆け寄ってくる。未桜の持つ伝票を横から覗き込んで、しきりに首をひねっているところを見るに、アサくんの目から見ても、おかしな点はなかったようだった。
 数分して、マスターが戻ってきた。未桜とアサくんのそばを素通りして、カウンターの上から、加奈子に直接声をかける。
「町井さま、申し訳ございません。小山内砂羽さんですが、現在、相席カフェラテで呼び出せない状況にあるようです」
「……どういうこと?」
「理由は分かりませんが、本部に確認したところ、ストップがかかってしまいまして。別の方をご指名いただくか、もしくは別のドリンクを選んでいただくことは可能ですか?」
 隣に立つアサくんの二の腕をつつき、「そんなことがあるの?」と小声で尋ねる。アサくんはふるふると首を左右に振り、「とても珍しいです。僕が覚えている限りでは初めてですね」と、同じく小声で答えた。
 納得がいかなそうな顔でテーブルに目を落としていた加奈子が、ようやく顔を上げる。
「仕方ないわね。そういうことなら、さっきの注文は取り消しにしてちょうだい。代わりに……そうね、私の人生の心残りを、あなたに聞いてもらうことにしようかしら」
「『マスターのカウンセリングティー』をご注文ということでよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
 加奈子がこくりと頷いた。クレームになるのではないかとヒヤヒヤしたけれど、彼女は本来、温厚な性格の持ち主のようだ。同じ接客担当のアサくんと同時に、ほっと息をつく。
「未桜さん」
 マスターに目で合図され、未桜は慌てて棚からグラスを取り、氷を入れた。『マスターのカウンセリングティー』は、茶葉をブレンドする前にお客さんの話を聞く必要があるため、通常より大きいグラスで水を出すことになっている。
 店内にお客さんが一人というタイミングでカウンセリングティーの注文が入るのは、未桜がここで働き始めて以来、初めてのことだった。
「あの……マスター」
「ん?」
「カウンセリングの様子、そばで見学してもいいですか?」
「いいけど、どうして?」
 ただ、そばにいたい。──そんなこと、言えるはずない。
「勉強させてもらいたいんです。お客様のお話を聞く際の態度や、お客様が最も幸せになれる“来世の条件”の導き出し方を」
「そっか。アサくんさえよければ、僕のほうは問題ないよ。むしろ格好のチャンスかもしれない。ここのところ、どちらかといえば未桜さんの独壇場(どくだんじょう)だったから……そろそろ僕も店長として、いいところを見せないと」
 マスターがくすりと笑い、後ろを振り返る。すると流し台の前に立っていたアサくんが、胸を張って親指を立てた。
「あ、僕は大丈夫ですよ! 他のお客様のご対応は任せてください。未桜さん、マスターのお株を奪わないように、気をつけてくださいねっ!」
 緒林老人や長篠梨沙の一件を思い出し、顔から火が出そうになる。今回ばかりは絶対に出しゃばらないようにしよう──と胸に誓いながら、未桜は「よろしくお願いします!」と頭を下げた。
 おしぼりと水のグラスを運んでいくと、加奈子が「どうも」と上品に会釈(えしゃく)をした。控えめに一口飲み、カウンター越しにマスターを見上げる。
「あなたみたいなマスターが相手だと、ちょっと緊張するわね。人生の最後の最後にこんな容姿(ようし)端麗(たんれい)な若者と話せるなんて、想像もしていなかったわ」
「光栄です。でも、どうかリラックスしてくださいね」
「さっそく、お話ししてもいいのかしら?」
「どうぞ。人生の心残り、とおっしゃっていましたよね」
「さっき呼び出そうとした、小山内砂羽っていう親友のことなんだけどね。もう二十年近く経つのに、いつまでも後悔が尽きないのよ」
 話し始めて早々、加奈子の声が震え始めた。
「私さえいなければ、彼女は今も元気に生きていたはずなのに、って。時代を切り開き、世界を股にかける、立派なキャリアウーマンになっていただろうに、って……」
過去を振り返るのは気が進まない、という先ほどの彼女の言葉を思い出す。
ゆっくりでいいですよ、とマスターが優しく声をかけると、加奈子はまた水で喉を潤し、一呼吸おいて話を再開した。
「砂羽はね、高校時代からの大親友だったの。彼女は、幼い頃からバイオリンを習っていて。クラシック曲を楽譜に忠実に弾くのも、流行りの曲を大胆にアレンジして演奏するのも、とても上手で。『よかったら、私のピアノとセッションしてくれない?』って、私のほうから勇気を出して誘ったのをきっかけに、唯一(ゆいいつ)無二(むに)の音楽仲間になった」
「素敵なご関係ですね。町井さまも、幼い頃からピアノを?」
「一応ね。砂羽のバイオリンほどじゃないけど、そこそこ弾けるほうだったとは思うわ。彼女と二人でセッションしたときに、ちゃんと形になるくらいにはね」
 どちらかというと控えめで大人しかった加奈子とは反対に、アクティブで、何事にも一生懸命で、高校のクラスでの人望も厚かった、小山内砂羽。
 加奈子は、そんな彼女と音楽を通じて友達になれたことで、十分満足していた。
 けれど、砂羽の情熱は、加奈子の予想を超えていった。
「昼休みや放課後に音楽室でセッションするだけじゃもったいないって、砂羽が突然言い出したのよ。せっかくなら駅前でストリートライブをして、オリジナル曲も作って、ポスターや衣装を用意して、ついでにCDも売っちゃおう、って」
「行動力のあるご友人ですね」
「最初は断ったのよ。美人で堂々としてる砂羽と違って、私は人前に出るのが苦手だったから。でも、何度も説得されるうちに押し切られちゃって、気がついたら駅前で、大勢の観客を集めるようになって……」
「ファンがついたということですか?」
「わっ、すごいですね!」
 マスターの隣で見ているだけのつもりだったのに、思わず感嘆の声を上げてしまう。すると、加奈子は初めて笑みを見せた。
「ただの女子高生二人組がそんなふうに注目を集めるなんて、なかなかないことでしょう? それなのに、『砂羽のおかげね』って感謝したら、『え? 音楽やってる人って、みんなこんなもんじゃないの?』なんてけろっとしていたりして。とにかくパワーにあふれている子だったわ、砂羽は」
「なんだか、未桜さんみたいですねぇ」
 コーヒーカップを棚に片づけていたアサくんが、唐突に話しかけてきた。「へ? どこが?」と返すと、彼は少年らしい快活(かいかつ)な笑みを浮かべた。
「うーん、だいたい全部です」
「私、バイオリンなんて弾けないけど?」
「性格面ですよ! 具体的に言うなら……猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)の巻き込み型で、押しが強くて、天然なところでしょうか」
「何それぇ」
 両手を腰に当て、アサくんを軽く睨(にら)む。アサくんは「怖いんだからぁ」とケラケラと笑い、作業に戻っていった。可愛いから憎めない。
 軽口を叩き合う未桜とアサくんとは対照的に、マスターは真面目な顔をして加奈子と向き合っていた。
「小山内さんとの音楽活動は、卒業後も続けられたんですか?」
「ええ。大学時代もストリートライブは積極的にやっていたし……さすがに頻度(ひんど)は落ちたけど、お互い社会人になってからもね。二十代前半くらいまではやっていたかしら。あのときは楽しかったわ。お客さんの拍手や歓声、それに応える砂羽、交ざり合って天高く昇っていく音の粒……」
 まるでバイオリンとピアノの音に耳を澄ませるかのように、加奈子は言葉を止め、目を閉じた。しばらくして、「でもね」と彼女は暗い声で続けた。
「二十代半ばで、砂羽がアパレル系の大企業に転職してからは、二人で音楽をやることはほとんどなくなってしまったの」
「それは……なぜでしょう」
「誘いにくくなったのよ。砂羽の新しい職場では、ブラック労働がまかり通っていてね。彼女がとても仕事熱心で、上昇志向が強かったこともあって、朝から晩まで、下手すると会社に泊まり込みで仕事をするようになって……」
 一方の加奈子は、その頃ちょうど、親戚の紹介で縁談(えんだん)がまとまっていた。
お相手は、地元の千葉を中心に、全国でホテル事業を展開する、やり手の経営者。料理が得意な女性が好きだという彼は、幸い加奈子を気に入ってくれ、あれよあれよという間に結婚することになった。もちろん、結婚式には小山内砂羽も列席(れっせき)した。
自分が裕福な家の専業主婦になって、お互いの生き方がずいぶんと違ってしまったことも、軋轢(あつれき)を生む原因となったかもしれない──と、加奈子は寂しそうに語った。
「ストリートライブは無理でも、せめて個人的にセッションだけはしようって、私のほうから砂羽を定期的に誘ってたんだけど……とうとうそれも、忙しさを理由に断られるようになってね。たまに食事に行ったときにも、『この間、職場の同僚が自殺したんだよね。残業が多かったから労災になるかも』『三日くらい徹夜しても、アドレナリンが出るから意外と働ける。めまいや耳鳴りがするくらいで』なんて笑いながら話す砂羽を、そのたびに心配したものよ」
「小山内さんは、何と?」
「『大丈夫だってば』って、きまって笑うの。……目の下に、真っ黒な隈(くま)が浮き出た顔で」
 いつの間にか、加奈子と砂羽の関係性は逆転していたのだという。
 砂羽の勢いに押され、その情熱に巻き込まれるようにして音楽活動を続けていたはずなのに、性格までどこか消極的になってしまった彼女を、加奈子がことあるごとに遊びに連れ出すようになった。
 そう話す加奈子の表情は冴えなかった。
しかし、語り口は軽い。来店した当初に見え隠れしていたためらいや緊張は、すでに雲散霧消(うんさんむしょう)しているようだった。
 間違いなく、この人のおかげだ──と、隣に立つマスターの横顔を見上げる。
 何か新しい情報を聞くたびに、驚き、動揺し、喜怒哀楽(きどあいらく)を表に出し、早とちりしてすぐに突っ走ってしまう未桜とは、まったく違う。
 きっと、聞き上手とは、こういう人のことを指すのだろう。
必要最低限の相槌や質問を、優しく包み込むような視線とともに、さりげなく投げ返す。相手が作り出した言葉の波は、決して乱さない。
我が身を振り返って、恥ずかしくなるほどだった。
このマスターが経営する来世喫茶店だからこそ、カウンセリングティーというメニューに意味があり、大勢の“向かう人”たちが日々救われているのだ。
恋心に、尊敬が加わる。未桜の胸を覆っている、もどかしくてくすぐったい気持ちが、また大きくなっていく。
「こんなに一方的に喋ってしまって、大丈夫?」
「もちろんですよ」
 マスターが力強く言うと、加奈子は安堵の表情を浮かべた。
「それじゃ、もう少しだけ、話を続けさせてね」


 あれは、空気がからりと乾燥した、ある春の夜のことだったわ──。
 加奈子がマスターの端整な顔を見上げ、覚悟を決めたように語り出した。
 結婚三年目を迎えた四月。
専業主婦としての生活にも慣れ、加奈子は平穏な日々を過ごしていた。
 新年度早々、夫は二泊三日の出張に行くという。まだ子どももいないことだし、なかなか日中は会えない友人を新築の家に呼んでいいかと尋ねると、夫は二つ返事で許可してくれた。
 砂羽は相変わらず仕事に忙殺(ぼうさつ)されているようだったが、加奈子が“お泊まり会”の提案を話すと、「夜遅い時間からでよければ、ぜひ!」と、意外にも乗り気の反応が返ってきた。
 実家の両親が門限に厳しく、大学時代に自由に遊び歩けなかった加奈子にとって、女友達と二人きりで家に泊まるのは、生まれて初めてのことだった。
 その日、加奈子は心を浮き立たせながら、今か今かと親友を待った。昼間から家中を掃除し、花瓶の花を取り替え、寝室にアロマキャンドルを置き、砂羽の仕事疲れを癒せそうな酒のつまみを作った。あまりに夜が待ち遠しくて、時間が経つのがいつもよりゆっくりに感じられ、じれったかった。
 約束は夜の十時だったが、砂羽は一時間半以上遅れてやってきた。
仕事が予定どおりにいかないものであるということは、社長夫人として、加奈子も重々承知している。「ごめん! ちゃんと手土産を買おうと思ったんだけど、どこもお店が閉まってて!」とありったけのコンビニスイーツと缶チューハイを買って転がり込んできた彼女を、加奈子は快く受け入れた。
典型的なキャリアウーマン街道を突き進んでいる砂羽はもちろん、普段は酒を飲む機会などほとんどない加奈子も、実は平均的な女性よりもアルコール耐性があった。
加奈子と砂羽は、冷蔵庫にストックしておいた酒のつまみを次々と出しながら、夜遅くまで缶チューハイを片手に語らった。
お互いの近況報告。同級生の結婚や出産に関する噂話。好きだった歌手の最新のリリース情報や、世間を騒がせている政治のニュース。
こうして長々と顔を合わせるのが久しぶりだったからか、どんな話題も盛り上がった。高校時代の昼休みに戻ったかのような、開放感のある時間だった。
だからこそ、ついつい気が大きくなってしまったのかもしれない。
しこたま飲んだ酒のせいもあるだろう。気がつくと、加奈子は何度もしつこく、砂羽に誘いをかけていた。
「ねえ、砂羽ぁ、また一緒にセッションしようよ」
「そうはいっても、仕事がね」
「砂羽は私と違って才能があるんだからさぁ、いくら忙しくたって、ちゃちゃっと練習してすぐに弾けるでしょ」
「買いかぶりすぎだってば」
「私、砂羽とまた音楽をやりたいって、ずっと思ってたんだぁ」
「……はいはい」
「周りのみんなにもよく言われるんだよ。ストリートライブはもうやらないの、って。ねえ、聞いてる? 砂羽ぁ」
 砂羽が鬼のような形相(ぎょうそう)で立ち上がったのは、その瞬間だった。
「いい加減にして! セッションもライブも、もうやらないって言ったでしょ⁉ 加奈子はさ、私が今、どんなに大変な時期か分かってる? もう学生の頃とは違うんだよ。いつまでもあんなこと、やってられないんだよ。音楽なんて、所詮金持ちの道楽なんだよ!」
 唐突に怒られた──と感じた。
しかし砂羽にとっては違ったのだろう。何度も何度も加奈子の誘いを穏便(おんびん)にかわそうとして、ついに限界に達したのがあの瞬間だったのだ。
そのことに、加奈子は気づけなかった。
「はあ? 金持ちの道楽って何よ!」
「言葉のとおりだよ。音楽なんて、加奈子みたいに、お金にも時間にも余裕がある人がやればいいの!」
「バカにしてるの? ふざけないでよ!」
「それは加奈子のほうでしょ⁉」
 売り言葉に買い言葉で、大喧嘩が始まった。アルコールも、二人の怒りに火をつけた。三十分以上に及ぶ口論の末、「もういい。明日も出勤だし、もう寝るから」と砂羽が言い捨て、先に荷物を運んでいた寝室へと上がっていった。
砂羽と同じ部屋で寝る気は起きず、加奈子は結局、夫の書斎で眠りにつくことにした。普段、夫婦の寝室は一緒にしているのだが、仕事で不規則な生活をしている夫の希望で、予備のソファベッドを置いていたのだ。
 せっかく“お泊まり会”のために布団まで用意していたのに、結局、加奈子と砂羽は別々の部屋で寝ることになった。