理由はどうであれ、マスターに悲しんでもらえているなら、それだけでも光栄に思わなきゃ──と自分に無理やり言い聞かせながら、未桜はアサくんへと向き直った。
「うーん、私、あんまり家には帰りたくないんだよね。ここでのバイト、楽しいし」
「でも、未桜さんを毎日見舞っているご両親が、どんなに心配しているか……」
「両親は、いないの」
 一瞬の間の後、アサくんが「え?」と目を見開いた。語弊のある言い方をしてしまったことに気づき、未桜は急いで訂正した。
「ごめんごめん。両方とも健在(けんざい)なわけじゃない、ってことね。お母さんはもういなくて、お父さんだけ。そのお父さんだって──」
 言いかけて、口をつぐむ。デパートの化粧品売り場と、真っ赤なリップグロスをつけた唇が、脳裏をよぎった。
「ま、とにかく! 私ね、もう少しここにいたいんだ。それにどうせ、記憶を消す方法が見つかるまでは、現世に帰っちゃいけないんでしょ? 誕生日を来世喫茶店で過ごすなんて、普通はできないことだし、こんなに素敵なマスターの特製ケーキまでいただいちゃったし、いいことずくめだよっ!」
 できる限り明るく聞こえるよう声のトーンを上げ、ピースサインを出した。
 未桜の家庭の事情が気になるのか、アサくんは眉をハの字にしている。そんな彼を、マスターが「まあまあ、アサくん」となだめた。
「ひとまず、僕たちのバースデーサプライズを喜んでもらえたようなら、それでよかったじゃないか」
「はい……でも……」
「どうだった? 未桜さん。僕が心を込めて作った、イチゴのショートケーキは。気に入ってくれたかな?」
「もちろんです! 一口ごとにほっぺたが落ちます! 顔がいくつあっても足りません!」
 ここぞとばかりに感想を伝えると、マスターが珍しく声を上げて笑った。
「まさかそれほどとは。シェフ冥利(みょうり)に尽きるよ」
「本当に美味しくて。それに……嬉しくて」
「よかった」
 弾けるような笑顔だった。いつも落ち着いていて、どちらかというと感情の起伏が少ないマスターも、こういうキラキラとした表情をするのだと、意外に思う。
 こんな顔を、至近距離で見せられたら──やっぱり、期待してしまう。
 仕事上必要がない限りはお客さんの前にもさほど出ていかず、あくまでカウンター内で裏方に徹しているマスターが、まだ出会って三日目のアルバイト店員に、自ら誕生日ケーキを用意するというサプライズをしてくれるなんて。唇の端についたクリームも、さりげなく拭ってくれるなんて。
 そんなの、やっぱり、脈があるとしか──。
 ──ダメダメ、要らぬ期待はっ!
 無言で首を左右に振り、未桜はショートケーキをどんどん口に放り込んだ。
最後のひとかけらを咀嚼(そしゃく)して、ごっくんと飲み込んでしまってから、もっと味わって食べればよかったと後悔する。片想いの相手に誕生日ケーキを作ってもらえる機会など、二十一年の人生の中で、たった一度の出来事だったかもしれないのに。
「あっ、あのっ、ごちそうさまでした! 私、さっきの作業の続きをしますね。お二人はゆっくり食べててくださいっ!」
 怪しまれないことを祈りつつ、逃げるように席を立ち、入り口横の棚へと向かった。
 小さなバスケットに入っているクッキーの袋を、綺麗に並べ直していく。袋の口をくくっているリボンの形が崩れていれば、いったん解いてもう一度結ぶ。種類が違うクッキーが混じっていれば、正しいバスケットに戻す。
『ご自由にお持ちください(来世に辿りつく前に食べ終えてください)』という貼り紙のとおり、この棚に置いてあるマスターお手製のクッキーは、お客さんが自由にお土産に持って帰っていいことになっていた。いくつか手に取って中身を確認するお客さんも多いため、たまにこうして整理をしないと、見た目がぐちゃぐちゃになってしまう。
 クッキーの種類ごとに色とりどりのリボンが結わえられているのは、作業をしながら思わず微笑んでしまうくらい、可愛らしい光景だった。
 サブレは黄色。メレンゲクッキーはピンク。ラングドシャは白。ジャムサンドクッキーはオレンジ。フロランタンは緑。シガレットクッキーは紫。
 未桜が一番好きなクッキーは、スノーボールだった。
バスケットの一番手前にある袋を手に取り、窓から差し込む光に照らしてみる。光沢のある水色のリボンが、つるりと輝いた。
「あれあれ未桜さん、すごい勢いでケーキをたいらげたばかりなのに、まさかクッキーまで狙ってるんですか?」
 ケーキを食べ終えた様子のアサくんが、後ろから覗き込んでくる。まったく、マスターも見ている前で、聞こえの悪いことを言わないでほしい。
未桜は「違うってば!」と慌てて否定し、袋をバスケットに戻した。
「真ん丸の形も、上にかかった粉砂糖の白い色も、すっごく綺麗だったから。もし私がお客さんなら、これを持って帰るかなって」
「ああ、そういうことでしたか。スノーボールクッキー、いいですよね! リボンの色も、未桜さん好みですし」
 アサくんが、ハーフアップにした未桜の髪を指差した。「そういえばそうだね」と髪に手をやりながら、クッキーの袋に使われている水色のリボンも、よく見るとだいぶ緑がかっていることに気づく。髪留めに使っているお母さんの形見のリボンと、ほとんど同じ色と言ってもいいかもしれない。
 スノーボール、雪、冬、十二月、ターコイズ。
そんな連想ゲームの結果、マスターはこの色のリボンを選んだのかもしれない。そう思うと、急に親近感がわいて、心の底がぽかぽかと温まった。
そのとき、不意に、後頭部に手の温もりを感じた。
振り向こうとすると、「ああ、ごめん」とすぐ後ろでマスターの声が聞こえた。彼の息が首にかかったのを感じ、未桜は緊張のあまり、途端に全身を硬直(こうちょく)させる。
マスターは、背後で身を屈め、未桜が髪につけている水色のリボンを触っているようだった。何か気になることがあるのかと思いきや、「……いい色だね」とだけ、小さな声で呟く。
なぜだろう。その声は、なんだかとても感傷的(かんしょうてき)だった。
数秒後に、背後にあった人の気配が離れていった。恐る恐る振り向くと、マスターは何でもない顔で、テーブルの上のケーキ皿を重ねていた。
「そろそろ、次のお客様がいらっしゃる時間だよ。ケーキのお皿は僕が片付けておくから、未桜さんとアサくんは、入り口でそのまま待機して」
「えっ、そんな、お皿洗いは私が!」「僕が!」
「いいよ、これくらい。それよりお客様のおもてなしをよろしく」
 お皿を両手に載せたマスターがウインクをして、カウンター内に入っていった。蛇口から水を出す音が聞こえてくる。