「これで満足だろ、うじ虫。これは俺が処分する」
お饅頭の箱を奪い、翠は縁側に胡坐をかく。
「あっ、ちょっと! また、うじ虫呼びに戻ってるし……」
吉綱さんと静御前にもあげるはずだったんだけどな。
諦めて段ボールを手に縁側を離れる。ふと振り返ると、翠はお饅頭の箱をしっかり膝に載せ、お酒とお饅頭を交互に口にしていた。
「……あの組み合わせってどうなの? というか翠って、実は甘党?」
今度は違うお菓子を差し入れてみよう。そんな考えを巡らせながら、台所を目指して廊下を歩いているときだった。背後からカチカチカチカチ、と音がして立ち止まる。
……なんの音?
首を捻りつつ足を進めると、やっぱりカチカチカチカチと聞こえてくる。意を決して、バッと振り向くと、そこには──。
「ニャッ」
びくっと飛び跳ねる黒猫がいた。さっきの音は、爪の音だったみたいだ。
黒猫は宝石のような金と青のオッドアイだった。ただ、尻尾が四本に分かれており、その先には青い炎がメラメラと燃えている。
「ば、ば……化け猫……」
ガクガクと足が震え、その場にへたり込む。
この間は神様と幽霊、今日は化け猫……。私の心臓、いつ止まってもおかしくない。
無言で化け猫と見つめ合っていると、その視線が私の持つ段ボールにチラチラ向けられているのに気づき、中身を確認する。
なんだろう、なにか気になるものでも……あ。箱のいちばん上に【にぼしチップス】の袋が。もしや、これにつられて? 普通の猫じゃなくても、やっぱり魚が好きなのかな?
私はスナック菓子の袋を開けて、にぼしチップスをひとつ手に取ると、恐る恐る化け猫に近づけてみる。
「……た、食べる? あ、でも猫ってスナック菓子ダメだよね? いや、普通の猫じゃなさそうだし、大丈夫なのかな?」
あれこれ悩んでいたら、化け猫が「シャーッ」と毛を逆立ててきた。
「ひあああっ、威嚇しないで!」
私が大きな声を出したからか、化け猫は「うにゃっ」とすっ転んだ。怖がっていたこともすっかり忘れて、慌ててその身体を助け起こそうとすると──。
ぼわっと青白い炎がその身体を包み込み、慌てた私は足を滑らせる。
「きゃっ」
燃える!と目を瞑(つぶ)るも、熱くない。それどころかひんやりとしていた。やがて炎が薄れていき、妙に地面が柔らかいことに気づく。
「え……」
完全に炎が消えると、私は学ランを着た中学生くらいの男の子を下敷きにしていた。目にかかるほど長い前髪の下には、あのオッドアイの瞳。その頭には、ぴょこんと猫耳があり、お尻にも四本の尻尾がある。
「ね、猫耳……少年?」
「……重い」
抑揚のない声で、少年はじとりと見上げてくる。猫っ毛なのか、柔らかそうなその黒髪はあちこち跳ねていた。
「……退いてって、言ってる」
「す、すみません」
慌てて退こうとしたのだけれど、どうも視界を掠(かす)める猫耳が気になる。ゆらゆら揺れている尻尾も気になる。
不愉快そうに睨(にら)んでくるこの少年は、目の色からするにあの化け猫で間違いなさそう。怖かったはずなのに、こう人間っぽい姿になると、むしろ……可愛い。
「ほんと、すみません」
たまらず、その猫耳を両手でふにふにした。
「……な、なにするんだっ」
「ほんとすみませんっ、どうしてもさわらずにはいられなくて。あ、これあげるので、許してください!」
いたいけな少年を撫で繰り回した私は、癒やしてもらった報酬ににぼしチップスが入った袋を献上した。彼はそれをぶん取り、大きく後ろに飛び退くと、ピンッと尻尾を立てながら体勢を低くする。
──警戒されてる……ものすごく。にぼしチップスでは埋められない壁を感じる。
先日は神様、今日は猫耳少年に変身する化け猫。驚きも通り越して、今ならどんなことにでも順応できそうだ。
猫耳少年を前に、さてどうするかとため息をつきそうになったとき、背後から足音が近づいてくる。
「静紀さん、引っ越しで疲れたじゃろう。昼食を作ったんじゃが……ん?」
吉綱さんの視線が猫耳少年に注がれる。
「よ、吉綱さんにも見えてます? さっき廊下で会って……というか彼は人間? 化け猫? 一体なんなんでしょうか!」
「落ち着くんじゃ、この子はミャオじゃよ。静紀さんはあやかしを見るのは初めてかのう?」
「あ、あやかし?」
そういえば前にも、そのワードを聞いたような……。
「そうか、そうか。突然〝見る力〟が覚醒したんじゃな? だとしたら静御前様と静紀さん、分かれていたふたつの魂がまた出会ったのが原因じゃろう。それで、もともとあった力を取り戻せたのやも。ミャオが見えるのが、その証じゃ」
「えっと……私、霊感を手に入れちゃったってことですか? というか、あやかしって霊とは違うんですか? もう、なにがなんだか……」
私の反応でいろいろ悟ったのか、吉綱さんは「わかったわかった」と二度頷(うなず)いた。
「いちから説明するでのう。あやかしというのは、もとは神様や人間、動物の霊なんじゃ。それらが憎しみを持つと、霊はあやかし堕ち、神様は神堕ちといって魂が穢れ、あやかしになる。生前の姿を保っていないものはあやかし、と見分けるといい」
「じゃあ、あの子はあやかしなんだ」
ミャオを見れば、キッと睨まれてしまった。
「あ……さっきは怖がったりして、ごめんなさい」
肩を竦(すく)ませながら謝るも、ミャオはふいっと顔を背けて去っていってしまう。
気まずい空気が漂い、見かねた吉綱さんが「ミャオは人見知りなんじゃよ」と間を取り持ってくれた。
「あやかしは気性が荒く冷酷じゃが、彼らにも意思があるからのう。基本は常世(とこよ)であやかし同士社会を築き、生活しておる。まれに現世(げんせ)への未練ゆえ、この世に留まる者や常世から現世に来て悪さを働く者もおるがのう」
「とこよ……げんせって、なんですか?」
「ああ、常世は行き場のないあやかしのために神様が用意した世界のことで、現世はわしらがいるこの人間の世界のことをいうんじゃよ」
私のいる世界の他に、別の世界が……。
吉綱さんの話からすれば、静御前やミャオもなにか未練があって現世に留まってるってことだよね。ふたりはどんな未練があって、ここにいるんだろう。
「私のことが気になるか、静紀」
「うわっ」
急に耳元で囁(ささや)かれ、肩をびくつかせる。勢いよく振り向けば、幼児姿の静御前が腰に手を当てて立っており、ふんっと笑った。
「今までどこに行ってたんですか!」
「ずっとお前の中にいたぞ。これまでは地上を放浪しておったが、こうして自分の魂に出会えたのだ。用がないときはお前の中におることにした」
どうりで、婚姻の儀をした日から姿を見ないと思った。
「……それはそうと、静御前。婚姻の儀のこと知ってましたよね?」
ぴたりと静御前の動きが止まり、懐から取り出した扇で口元を隠す。
「お前が言ったのだろう、幸せな結婚がしたいと」
「言いましたけど、かりそめの婚姻で幸せになれるはずがないじゃないですか……」
「幸せは己で手に入れるもの。この婚姻が幸と不幸、どちらに転ぶかはお前次第。龍神の長と名乗る神が私の前に現れたときは何事かと思ったが、お前にとって転機になればいいと思ったまで。だから私は、その力を目覚めさせ、龍神様と引き合わせた」
静御前はあくまで私のために龍神の長様に加担したと? でも、なんで……。
「八百年近く、この世に留まった甲斐があったな」
「は、八百!? どうして、そんなに現世に……」
「霊が成仏せずにこの世に留まる理由など、後悔や恨み、悲しみ……大なり小なりいいものではない。知らぬほうがよいこともあるということだ。余計な詮索はせず、お前はさっさと翠様と愛し合い、子宝に恵まれた姿を私に見せろ」
早々に話を切り上げる静御前。深く聞かれたくなさそうだったので、それ以上は触れられなかった。にしても子宝って……人間の私が神様の子供なんて産めるの?
「静御前様が生きた平安時代末期から鎌倉時代初期は、まだ白拍子や巫女が多く存在し、その舞に応えて神様も地上に多く降り立っていたとか」
吉綱さんは羨むような目で静御前を見上げる。
「今よりは遥かに神もあやかしも身近に存在しておったな。〝見える者〟もたくさんいたが、時が経つにつれ、減ってしまった」
その顔に憂いを滲ませたのは、静御前だけではない。
「神様と繋がることができた舞い手がいなくなり、ご利益を実感できなくなった人間は神社を訪れなくなる。信仰されることで存在できる神社の奉り神たちは弱り、消えるか天へと帰っていくかのどちらかだったそうじゃ。神様方は多くのお仲間を失い、さぞ胸を痛めたことだろうの」
嘆きを含んだ物言いでそう告げると、吉綱さんは深いため息をついた。
翠や神様たちの思いを考えると、申し訳なくなる。今日こそいいことがありますように、幸せになれますように。これまでそうやって軽い気持ちで神社にお参りに行っていた自分が恥ずかしい。
「神様たちは、助けたはずの人間に裏切られたような気持ちですよね。翠の人間嫌いも、それが原因なのかも……」
「そうか、そうして神様の立場に立って考えられる静紀さんなら……」
意味深に見つめてくる吉綱さんに、「え?」と目を瞬かせる。
「ああ、いや、こっちの話じゃ。翠様は……そうさのう、この現状のいちばんの被害者かもしれんのう」
吉綱さんは翠のなにを知っているのだろう。でも、それを吉綱さんから聞くのは違う気がした。本人が話したがらないことを、他人から聞き出すなんて、余計関係が拗(こじ)れてしまうだろうから。
「かくかくしかじか、特にこの神社は巫女と婚姻した神様が奉り神となるからのう、
巫女不足も相まって、先代の頃からすでに奉り神がおらんかったんじゃ」
「奉り神がいないと、具体的にどう困るんです?」
「この界隈の神気が薄れ、あやかしや霊が住みやすい土地になってしまうんじゃ。当然、あやかし関係の問題事もたくさん起こってくる。だが、わしも歳だからのう」
腰をさすりながら、吉綱さんがとほほと俯く。
「この龍宮神社は霊やあやかし、神様や人間。それらが共存できるよう、仲を取り持つ神社じゃ。神主にもその役目があるんじゃが、それもしんどくなってきてのう」
「吉綱さん、後継者とかいないんですか?」
まずいことを聞いてしまっただろうか。吉綱さんが「うっ」と苦い顔をする。
「息子がおるんじゃが、三年前の妻の葬式以来会っておらんな。息子も〝見える〟人間だからのう、人ならざる者が集まる神社は気味が悪いと言って、成人してすぐに家を出てしまったわい。だからのう、もう静紀さんと翠様だけが頼りなんじゃ!」
吉綱さんが私の肩を掴み、血走った目で穴が開くほど凝視してくる。ちょっと怖い、夢に出てきそうだ。
「静紀さんにはこれからバンバン神楽を舞ってもらって、ご近所さんたちに龍宮神社で参拝すれば、ご利益があると証明してもらいたいんじゃ!」
「バンバン舞ってって……」
なんか、ありがたいはずの舞が急に安っぽく聞こえてくる……。
「期待に添えるかわかりませんが、舞もこれから覚えられるように頑張ってみます。静御前もいてくれてますし……ってあれ?」
振り返ると、もう静御前の姿がない。ほんと神出鬼没だな。
まさかの形で失恋したその日の内に、騙されて龍神様と婚姻。おまけに自分が静御前の生まれ変わりだと告げられて、やったこともない舞を奉納する巫女に転職。
しかも、これから神様とあやかしの化け猫、そして幽霊と同居なんて……。
この先、不安以外のなにもないけれど、もう私には行く場所がない。
ここで、やれることをしなくちゃ──。