「会社、死ぬほど居づらい」
佐川さんに、私と敦が付き合っていたことがバレたら? 待ってるのは修羅場、私はみんなの人気者、佐川さんの幸せを脅かす女として冷ややかな目で見られる。社会人としてどうかと思うけど、いろいろ明るみになる前に退職したほうがいいかも……。
「会社辞めたら、どうしようかな」
私の実家は地方にある。部屋の更新も迫ってるし、実家に帰還コースだろう。
でも、帰りづらいな。私は三姉妹の長女なのだが、妹ふたりはすでに結婚している。ただでさえ先を越されてるのに、いちばん年上の私が職も彼氏も失うとか……。
「知られたくない……。絶対、憐(あわれ)みの目で見られる……」
はあっと、今日で何回ついたかわからないため息をこぼす。途方に暮れながら駅までの道をとぼとぼ歩いていると、目の前を一枚の紅葉が横切った。
「え……」
私は足を止める。季節は秋。紅葉が降ってきたって、なんらおかしくはない。
けれど、その紅葉が淡く金色に光っているのだ。私は驚くより先に、ゆっくりと回転しながら、まるで舞うように落ちていく紅葉にしばらく見入っていた。
どこから、飛んできたんだろう。
私は紅葉を追って、曲がり角を曲がる。すると、そばに長い石段があり、仰ぎ見る。
「龍宮神社?」
そう階段横の石の看板に書かれていた。私はふらりと導かれるように、石段を上がっていく。
二股されたことよりも、自分が選ばれなかったことのほうがつらかった。
私と佐川さんのなにを天秤(てんびん)にかけて、敦は彼女を選んだんだろう。顔? 性格? 財力? あとは……素直に甘えられないところかもしれない。
長女気質が抜けなくて、親や妹たちから当てにされることが多かった私は、人から頼られることはあっても、頼るのに慣れてなかった。たぶん敦は、そんな私よりも佐川さんみたいに守ってあげたくなるような女の子のほうが可愛く見えたんだろう。
「私、結婚できるのかなあ……」
踏んだり蹴ったりの毎日で、未来には不安しかない。神様に祈ったら、少しは私も幸せを掴(つか)めるだろうか。その一心で最後の段差を上がりきると──。
月明かりを浴びて、ひっそりと輝き佇(たたず)む白木造(しらきづく)りの神社が私を出迎えてくれた。
青白い月光が照らす広い境内や舞殿、そのどれもが美しかった。この光景を目にした瞬間から、疲れきった心が癒えていくのを感じる。
吸い寄せられるように、朱色(しゅいろ)の大鳥居を潜ったときだった。どこからか、ジャン、ジャン、ジャラランと雅な琴の音が聞こえてくる。顔を上げれば、境内の一角にある舞殿にひとりの女の人がいた。三十代くらいだろうか。金の扇を手に、右へ左へと回り、ストレートの髪を羽衣のごとくなびかせている。
苧環色の髪……。彼女の髪色を自然とそう表現していた。苧環なんて耳慣れない言葉を使った自分に驚き、思わず唇を指先で押さえる。
なに、今の? その舞を見ていると、どこからか込み上げてくる寂しさと愛しさに胸が詰まりそうになった。
『──しづやしづ~、しづのをだまき~、くりかへし~』
頭の中に桜吹雪がちらつき、あの夢で聞いた歌が響いている。
そうだ、〝私は〟『静よ』『静よ』と繰り返し名前を呼んでくれたあの方と、共に過ごした輝かしい日々にもう一度戻りたいという想いを込めて歌い、舞を踊った……。
「私、は……?」
なんで、自分のことだと思ったんだろう、この感情は誰のもの? 自分の中に溢れてくる、私じゃない私の想いと記憶に心臓が早鐘を打っている。
なんでか、女の人の舞から目を離せない。あれって巫女舞かな?
私は食い入るように女の人を見る。あの人が動くたび、空気が澄んでいくみたい。
神秘的で、時間も忘れて心を奪われていると、やがてなにかをその身に降ろすかのように両手を天へ上げた。真ん中で分けられた前髪、その下から覗(のぞ)く金色の瞳が流れるようにゆっくりと、私に向く。視線が交われば、女の人はふっと笑みをこぼした。
「やっと来たか、待ちくたびれたぞ、静紀」
「…………え、なんで私の名前を知ってるの?」
巫女って、透視もできるとか?
私がぎょっとしている間にも、女の人は近づいてくる。
白く透き通った肌に長いまつ毛、ふっくらとした唇。舞殿の縁に手を置き、こちらを見下ろしてきた彼女の面立ちは、この世の者とは思えないほど美しい。
「あっ……と、神社の巫女さんですか? すみません、こんな夜に参拝になんか来てしまって……」
何事もなく会話をしながら、女の人を観察する。
着ている服がなんだか巫女さんっぽくない。着物の合わせ目がなく、首元まで襟があり、平安時代の人が着ていそうな……狩衣衣装(かりぎぬいしょう)にそっくりだ。……って、なんで私、狩衣衣装なんて言葉、知ってるんだろう。
「私が巫女? 私をあのような典型的な型でしか舞えぬ輩(やから)と同じにするな」
美女に凄(すご)まれると、迫力が二割増しだ。
「すみません」
あれ、なんで私、見知らぬ美女に謝ってるんだろう。
「私は白拍子だ。神や人間、そしてあやかし……求められれば誰のためでも舞い、その心を楽しませ、癒やす舞妓。まあ、その仕事のほとんどは、人の願いに応じて神に助力を乞い、雨を降らせたり災厄を収めたりすることだが」
「神やあやかし? 私、そういうオカルトチックな話は、ちょっと……」
なんだろう、この流れ。まさか怪しい宗教に勧誘してくるつもりなんじゃ……。
警戒しつつ後ずされば、女の人は「こちらへ来い」と言い、持っていた扇を手招きするようにひらひらと動かす。行きたくないけど、『あなたが胡散臭(うさんくさ)いんで嫌です』と断るわけにもいかず、私は気が進まないまま彼女に近づいた。
「おかると……なんとやらは、よくわからんが。なにはともあれ、お前は神やあやかしを信じておらんようだな」
さっきからなんで、ちょっと古めかしい口調? ますます怪しい。
「生まれてこの方、そういうのは見たことがないので」
別に欲しいとも思ったことはないけれど、私に霊感はない。幽霊を見たこともないし、子供の頃はいたずら半分にコックリさんをしたり、花子さん目当てに三番目のトイレをノックしたりもしたが、怪奇現象に遭遇した経験は皆無だ。それなのに、どうやって目視できないものを信じろと?
「それならよかったな。今日、初めて霊を見られたではないか」
「……は?」
今の私は、相当な間抜け面をしていることだろう。その間にも、女は扇で自分の口元を覆い、妖艶(ようえん)な流し目を私に向けてくる。
「私は静御前。かつて日本一の白拍子として私を邸(やしき)に招き、舞を所望(しょもう)する貴族(きぞく)は星の数ほどおった。初めて見る霊が私であったこと、光栄に思うがいい」
「しずか、ごぜん……」
ドクンッと鼓動が跳ねる。全身の細胞がざわざわっと動き出すような、そんな経験したことのない感覚が私を襲った。
私、その名前を知ってる。でも、なんで? さっきの苧環のこと、狩衣衣装のこともそう、どうしてか耳馴染みがある。
「静紀、お前はなぜここに来た?」
「え……それは、幸せに……なりたくて」
「お前の考える幸せとはなんだ?」
「……ありのまま……ありのままの私を好きになってくれる人と出会いたい、とかですかね。幸せな結婚ができたらいいな、と……」
失恋したばかりだからこそ、そんな願いを抱いてしまうのかもしれない。ありきたりだと笑われるだろうか。そう思って静御前さんの様子を窺(うかが)うと、遠い目で夜空を見上げている。
「そうだな、愛する人と結ばれるのはどんな世でも女の幸せ。私も、お前にそんな未来を手に入れてほしいと思っている」
「え……どうして、そこまで私のことを……?」
「静紀、幸せになりたいのなら、ここでひとつ舞ってみよ」
私の疑問には答えずに、静御前さんが扇を差し出してくる。金箔(きんぱく)が張られ、桜の花びらが散っているそれは、底光りする絢爛(けんらん)さがあった。
「はよ、受け取れ」
「静御前さん、無茶言わないでくださいよ。私、舞どころかダンスもやったことないんですよ?」
「〝さん〟はいらん、静御前でいい。嗜(たしな)んだことがないのなら、まずは私の動きを真似るだけで構わん。ほれ、扇を持たんか」
静御前さ──静御前に促されるまま、私は舞殿に上がって扇を受け取る。その瞬間、扇は金の光を帯びた気がした。
「え……」
気のせいだろうか、心なしか扇が温かい。触れた指先からぬくもりが入り込んでくるみたいに、身体がポカポカする。それになぜか──懐かしい。
この扇の骨の硬さ、扇面(せんめん)の張り、持ち手の要(かなめ)がしっくりと手のひらに収まる感触。そのすべてに、記憶の奥底にあるなにかが揺さぶられている。
ふと、風が葉を揺らす音や虫の鳴き声が大きくなった気がした。
そして、自然の音がジャン、ジャン、ジャララランと雅な琴の音に変わる。
すると静御前が懐から扇をもうひとつ取り出し、舞い始めた。回っては回り返す動作を繰り返しながら、閉じられている扇で空をなぞったあと、今度は扇を開いて、天の恵みを乞うように両手を上げる。
さっきまで、舞う気なんてなかったはずだった。けれど……。
──懐かしい、踊りたい。
そんな感情が込み上げてきて、自然と私も静御前の動きをなぞるように身体を動かしていた。
金の扇を夜空に翳(かざ)すように泳がせれば、宵闇の中で光る月のようにこの目に映る。
いつの間にか、私は静御前の動きとシンクロするように舞っていた。生まれてこの方、舞なんて踊ったこともないのに、身体が次の動きを覚えているなんておかしい。
やがて神社の木々から剥がれ落ちるようにして紅葉が宙を旋回し、金色の光となって天へと昇っていく。
「うわあ……綺麗……」
金色の紅葉が一気に空へと舞い上がる様に、目を奪われていると──。
生暖かい風が肌を撫(な)でた。たちまち空が曇り、ポタッと頬に雫(しずく)が落ちてくる。それは次から次へと地上を濡(ぬ)らし、すぐに勢いのある雨になった。
「う、嘘! あんなに晴れてたのに……」
「今のは雨乞いの舞だ。舞ったことがないと言ってはいたが、お前の魂が神に届く舞をいかにして踊るのか、覚えていたようだな」
「魂が……」
そんな非現実的なことがあるわけない。そう思うけれど、妙に納得している自分もいた。踊れるはずがない舞を踊れたことがなによりの証拠だ。
「これで、眠っていたお前の力も目覚めた」
「それって、どういう……」
どういうことですか?と静御前に尋ねようとしたときだった。
──ゴロゴロッ、ガッシャーン!
突然、闇をふたつに裂くような雷が境内に落ちた。
「きゃああっ」
耳を押さえてその場にしゃがみ込み、私は灰色の空を見上げる。細い雲が生き物のように空をうねうねと動いていた。しかも、雲間から信じられないものが顔を出す。
「なに、なんなの……あれ……」
天から下りてくるのは、深紅のぎらついた瞳と赤い鱗(うろこ)で覆われた身体から成る巨大な龍。私は完全に腰が抜けて、舞殿に尻餅をついた。
「てめえが俺の嫁か」
目の前に現れた龍が、鋭くて太い牙のある口を開けて話しかけてくる。
「なにあれ……」
これは夢……? わ、私、失恋のショックで頭がおかしくなってるんだ。だっておかしい。聞き間違いじゃなければ、あの龍、私に向かって俺の嫁か?って……。
「来たか……。お待ちしておりました、龍神様」
こうなることを知っていたのか、静御前は少しも驚いていない。私の隣に立つと、淡い光を放ってみるみる縮んでいく。そして信じられないことに、二歳児くらいの幼女に変貌(へんぼう)した。
「静御前!? その身体はどうしたんですかっ」
「霊体(れいたい)で元の姿を維持するのは、体力を使うのだ。だから普段はこうして童(わらべ)の姿をしている。そのほうが、力の消耗を抑えられるからな」
霊体って、文字通り肉体のない生き物って解釈であっているのだろうか。ダメだ、ついていけなさすぎて、こめかみのあたりが痛くなってきた。
「これしきのことで、いちいち動揺していたら立派な白拍子になれぬぞ」
幼女版の静御前は声が高く、話し方まで舌っ足らず。可愛いけど、口調が偉そうだからかな、なぜかマセガキっぽい。
「私、白拍子になる気ないですからね?」
「てめえら、俺を無視するたあ、いい度胸じゃねえか」
静御前に念を押していると、龍神様が話に割り込んでくる。
「決して無視していたわけでは!」
──ミニチュア静御前に気を取られて、存在を忘れてはいたけれど。
「この俺を雑に扱うとはな。人間は随分と偉くなりやがったみてえだ」
天に浮く龍神様の身体がぶくぶくと水泡に包まれていき、やがて小さくなっていく。水泡の集まりは滝のごとくザバーンッと地面に降り立つや否や、パチンッと弾けた。そこから燃えるような赤髪と頭に二本の角を持つ男が現れる。
う、わ……。一瞬にして、視線を奪われた。目も覚めるような美しい男だった。
歳は二十代後半くらいで、私とそう変わらなそうだ。前髪は左右に分かれており、深紅の双眼は切れ長で鋭い。腰に携えている刀と相まって、威圧感が凄(すさ)まじかった。
はだけた黒い着物の胸元に腕を突っ込み、髪色と同じ羽織をはためかせながらこちらにやってきた龍神様。人の背よりも高い位置にある舞殿に、軽く地面を蹴っただけで飛び乗った彼は、私を高圧的に見下ろしてくる。
「俺はすこぶる機嫌が悪い。だから返事は『はい』以外、受けつけねえ」
「……は?」
「てめえは龍宮神社の巫女になれ」
「……え、無理です」
巫女ってなにをすればいいかわからないし、神社のことも詳しくないし、私には務まらない……というか、そもそもまだ仕事辞めてないし。
「あ?」
私の回答がお気に召さなかったのか、龍神様の額にぴきりと青筋が入る。ひいっと小さく悲鳴をあげると、龍神様は私の顎を乱暴に掴んで詰め寄ってきた。
「俺はすぐにでも天界に帰りてえんだよ、断るんじゃねえ」
「す、すみません! けど、帰りたいなら、好きなときに帰ったらいいんじゃ……」
「それができねえから、こうして頼んでんだろうが」
いや、頼んでないですよね? 脅してますよね? もう、この方神様なんだよね? それなのにメンチ切ってくるし、ドS鬼畜不良神様って呼んでやる。
「おおっ、おおっ、ようやく来てくださいましたか!」
突然、砂利を踏む音と共に、境内にひとりの老人が現れた。長い白髪を後ろでひとつに束ね、光沢のある白い龍の文様(もんよう)入り白袴(しろばかま)を身につけている。
「ああっ、ついに龍神様がこの神社に……っ。そして神様に願いを届けることができる、真の舞い手も! 龍神の長様のお話は誠だった! うれしくて、もう今死んでも悔いはないわいっ」
瞳をうるうるさせながら、私と龍神様を見つめているおじいさん。なんだか感動されているみたいだ。
「お、おじいさんはこの神社の方ですか? いえ、まず生きてますか!?」
光の加減のせいか、おじいさんの目の下には影ができ、肌も青白い。幽霊に神様、とにかく人間じゃない存在が連続で登場してきたせいか、おじいさんまで幽霊に見えてきてしまう。
静御前みたいに、死人だったらどうしよう。人間が私しかいないとか……夢ならもう覚めて。
「わしは宮光(みやみつ)吉綱(よしつな)、この神社の神主じゃよ。わしはずっと待ってたんじゃ、神をも癒やしたとされる特別神気の強い舞い手の生まれ変わりを」
「生まれ変わり……?」
眉間にしわを寄せると、静御前はくるりと背を向けた。
「先ほどの舞は、舞と呼べるほどの出来ではなかったが、初めて舞ったにしては上出来。お前は私の生まれ変わりなのだから、舞もすぐに習得できよう」
「えっ……私が、静御前の……?」
でも、だからなの? 知らないはずの言葉を知っていたのも、知らないはずの舞を踊れたのも、今朝あんな夢を見たのも──。
「私は転生するはずだったんだが、魂の一部……欠片が地上に残ってしまってな」
静御前はとんっと指先で私の胸を叩(たた)いた。
「理由はなんとなく察してはいるが……いや、この話はいい。言っていて情けなくなるからな。とにもかくにも、私はずっと、自分の未来を……お前を待っていた」
向けられたのは、愛しいものを眺める眼差しだった。見守られてる、そんなふうに感じて、私は返す言葉が見つからない。
「私のお膳立てはここまでだ、あとはうまくやるのだぞ、静紀」
それだけ言い残して歩き出した静御前は、すうっと空気に解けるように姿を消してしまった。
「静御前!?」
どこに行ったのかと私がキョロキョロしていると、ガシッと龍神様に腕を掴まれた。いや、捕獲された?
「じじい、準備はできてんだろうな?」
「ええ、それはもう」
なんの準備? 私をそっちのけで話しているふたりを見て、これからなにが起こるのだろうと恐怖していると、吉綱さんが私に向き直り、その場に土下座する。
「どうかこの通りじゃ!」
「吉綱さん!?」
「古代から巫女は舞──神楽によって神様に人々の願いを届け、その恩恵を地上にもたらしてきたんじゃが……。時が経つと共に、神様の存在を信じる者も減り、霊力のある巫女がいなくなっていってしまったんじゃ。今では神様のご利益がある神社はないに等しい。参拝客も来なくなって、もう、もうっ……、死活問題なんじゃ!」
およよ、と泣き出した吉綱さんは、縋(すが)るような目で私を見上げてくる。