このオバケには名前がまだ無い。

――悪霊である。
キツネのように獲物を執拗(しつよう)に狙い、
時には野犬のように同類に紛れ、群れをなす。
個であり群であるが、特定の形を持たない。

――神出鬼没である。
縁もゆかりも無いヒトのうわさ話に駆けつけて、
根も葉もない嘘偽りを並び立てて混乱を招く。
根拠を示せば姿をくらますこともあるが、
形振り構わず暴れまわることもある。

――悪鬼である。
ヒトに紛れ他者とは異なる意見を述べ、
またすぐ意見を一変させて場を荒らすのを好む。
舌が2枚あるとされるが、無視を嫌う。

――乱暴である。
火事と喧嘩を好み、声高らかにして拳を振るうが、
オバケでありその声や拳は相手には届かない。
自己への理解が極めて乏しい。

――無能である。
道化を演じることを良しとして、
自らの過ちを決して認めず
相手を責め立て迎合を拒む性質が強い。

――妖怪である。
ヒトの言葉は通じない。

男は好んでこのオバケになった。

なぜなら職場や家庭での鬱憤(うっぷん)を晴らすのに
オバケになるのが適していたからだ。

休日を費やし、睡眠時間を削ってまで
相手をからかい、反応を楽しんだ。

オバケとの二重生活を始めたところで、
職場や家庭での問題は解決しなかった。

寝不足から相手への対応は雑になり、
状況は悪くなる一方であった。

やがて男は職場でもオバケとなった。

オバケには本来名前がない。
幽霊と見間違えた枯尾花は
ススキの穂であり、名前があった。

オバケを演じていた男の名前が、
世間に露見したのは時間の問題であった。

毎日1000件以上もの誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を重ねていたことで、
職場の回線から探知されることとなり
個人が割り出され、男自身が標的となった。

仕事を辞めたものの与えた被害は甚大で、
職場の責任問題へと発展した。

当然ながら家庭にも(るい)が及ぶこととなった。

男はオバケとなり、オバケに紛れて
標的になった自らを弁護した。
無駄なことである。

根も葉もないうわさ話はたちまちあふれ、
示した根拠は悪鬼たちのより良いエサとなった。

どんなに正当な意見を述べて、
相手を戒めようともナシのつぶて。

相手が実態のないオバケであることは、
男自身がその身をもって知っていたことだ。

ヒトの言葉は通じない。

実名での弁明も空しく、
火に油を注ぐばかりで終わった。

かつていた会社は傾き、
同僚たちは仕事を失い、
家庭はたやすく崩壊した。

その責任は全て男にあった。

男は絶望した。

最後に本物のオバケになることを望んだが、
名のある男にそれは叶わぬことであった。