隣の席になるずっと前、全く面識のなかった頃、私は一度だけ袴田くんが他校の生徒と喧嘩しているのを見かけたことがあった。
 
 当時から喧嘩になると必ず現れる問題児で、先生から何度も怒られていた。


 ある日の帰り道、私は同じ学校の男子生徒が五人の大男にボコボコにされているところに遭遇した。

 一向に収まる様子はなく、物陰に隠れた私は警察に電話をかけた。
 到着まで五分かかると言われて、ハラハラしながら喧嘩の様子を伺っていると、袋叩きに遭っている男子がボロボロのアニメの画集を抱えていることに気付いた。

 彼は当時、同じ学年で一番罵倒を浴びていたであろうアニメ好きの生徒だった。クラスメイトに罵られている場面を何度か見たことがあったが、彼は一向にアニメ好きを公言し続けてきた。

 おそらく他校の生徒が画集を見てからかってきたのだろう。
 彼自身も戦ったが、五人の大男には到底敵う相手ではなかった。

 好きなものを好きでいることのどこが悪いのか。――そんな時、特徴的な笑い声が辺りに響いた。

「――くはは。なんだ、随分楽しんでるじゃん」

 まるでヒーローのような登場だった。
 少し段差のある塀の上に、仁王立ちで佇む袴田くんがいた。

 耳に残る笑い方を気味悪がったのか、他校の生徒の一人が、袴田くんに向かって拳を振り上げたその瞬間、彼が塀から飛び降りると同時に、近くの電柱まで吹き飛んでいった。

 それを皮切りに、他の生徒も彼に向かっていく。全員が彼に向けて拳を振り上げたが、一つも掠ることすらしなかった。

 そして警察が到着するまでの五分間、たった一人で他校の大男たちを気絶させてしまったのだ。
 通報した私と警察官が彼らの元へ行くと、袴田くんは画集をかばった男子の肩を支えて警察官に渡す。

「コイツ、よく耐えたよ。ちゃんと好きなモン守れるヤツってかっこいいよな」

 当時から袴田くんは不良少年として有名だった。殴り合いには誰にも負けなかった。
 そんな彼が、いろんな人に虐げられても挫けずに好きなものを貫く彼を讃えた。

 ――その時初めて、彼がどんな人にでも関係なく手を差し伸べることができる人なのだと知った。



「……だから、岸谷くんのことも止めたかったんだと思う」

 当の本人は給水タンクの上で寝ているからわからないけど、少なくとも私はそう感じた。
 助けたいって思ったときに拳を振るう人。それが私が感じた彼の第一印象だった。

 袴田くんは岸谷くんがサッカー部でエースだったことも知っていた。彼が努力している姿をどこかで見ていたのかもしれない。

「袴田がそんなに良いヤツとは思わねぇけど……まあ、お前らに救われたのは事実だ」

 岸谷くんはそう言って立ち上がると、見下ろすようにして私に言った。

「俺が一方的に悪かった。吉川は……今度会えたら謝っとく。それじゃあな」
「なるべく早くだよ! またね」

 校舎に戻っていく岸谷くん。
 その後ろ姿を見ながら、吉川さんから聞いていた話を思い出していた。

 確かに殴り掛かったのはどう考えても悪いけど、岸谷くんがストーカーみたいなことするような人ではないように見える。

「うーん……何か引っかかる……」
『そんなに唸ってると牛になるぞ』
「うわっ!?」

 耳元でガサガサの低い声が聞こえてきて驚いた私は、体勢を崩してコンクリートの床に倒れ込む。見れば寝起きの袴田くんが大きく伸びをしていた。
 幽霊でも声って枯れるのね……。
 
「ビックリした……急に出てこないでよ」
『うっせ。驚きすぎなんだよ。それより……』

 言葉を切って、袴田くんはじっと校舎の方を見つめる。先には岸谷くんが出て行った扉があった。

「どうしたの……?」
『……いや、なんでもねぇ』

 袴田くんは呟くと、しばらくその扉を見つめていた。
 彼が何を考えていたのかはわからない。ただ、普段の気怠い雰囲気や喧嘩の時の鋭い目つきではなかった。
 例えるならば、何かよからぬことを企んでいる、楽しそうな笑みだった。