袴田くんの姿が見えるようになって一週間が過ぎた。
彼の机にはもう、百合の花もお菓子も置かれていない。
クラスメイトも友人たちも、彼の死をようやく受け止め始めた。相変わらず彼は机の上で突っ伏して悪戯を仕掛けようとしているけど、誰も彼に気付かない。
そしてようやく、屋上であったことを説明してもらうことができた。
彼は人の体に取り憑くことができるらしい。
それは幽霊特有なのかと問うも、わからないと濁されてしまった。
岸谷くんの拳が届く前に私に取り憑いた袴田くんは、もともとの身体能力が高かったおかげで、右手で拳を払うことができたという。
だから右の掌だけ痺れていたのだ。
骨が折れていないだけマシだったと、彼に言われたときは、持っていたシャーペンを投げつけそうになった。
そして岸谷くんとその他三人は、廊下で私を見かけると睨みつけてくるようになり、彼らから学校中に「袴田の再来だ!」と噂を流し始めた。
結局、クラスメイトも先生も、私から避けるようになっていった。
当然かもしれない。学校一の不良から喧嘩の仕方を受け継いだのなら、危険人物で間違いないのだから。
……私、何もしてないけどね!?
そんな日々が続いていたある日の放課後、私のクラスに吉川さんが訪ねてきたのだ。
あの時は余裕が無かったが、彼女――吉川明穂が今年の文化祭で行われた学校一の美女を決めるミスコンの優勝者だったことを思い出した。
噂では、彼女にはほぼ毎日ラブレターや告白が送られるらしい。
同い年とはいえ落ち着きのある大人っぽい彼女だが、私を廊下に呼び出すと、急に手を包んで恥ずかしそうに頬を赤らめながら、遠慮がちに口を開いた。
「こ……この間は助けてくれて、ありがとう。クラスがわからなくて遅くなってしまって……」
「そんな……たいしたことしてないし……!」
しかも助けたの私じゃないしね。
「でも、本当に助かったわ。実は岸谷くんにはずっと付きまとわれていて困っていたの」
「そう……だったんだ……」
そういえば岸谷くんは自暴自棄になってるって、袴田くんが言っていたっけ。
彼が吉川さんに何をしたかったのかはわからないけど、あの一件で落ち着いてくれたらいいな。
すると、彼女は更に握った手に力を込めて続けた。
「岸谷くんね、前はサッカー部のエースだったの。優しくて格好良いからファンクラブもできちゃうくらい。実は私、何度か彼女たちに狙われてしまって」
「ねら……え?」
「ほら、女子って影からバレないようにいじめを広めるでしょ? 今までも教科書を隠されたり、体操着をシンクに入れてびしょびしょにされたことがあったから、井浦さんも気を付けてほしくって」
「……それを言うために、教室まで来てくれたの?」
「ええ。無関係な人が巻き込まれるの、もう見たくないもの」
吉川さんは優しさの塊だ。
自分の辛い経験を思い出すのは恐ろしい。その恐怖を押し殺して、私に打ち解けてくれた。今も握った手が震えているのに、被害者をこれ以上出さない為に頑張っている。
私は彼女の手を握り返した。
「ありがとう。吉川さんも気を付けてね」
私がそういうと、彼女は涙を一つこぼして微笑んだ。
「――ってことがあったんだよ!」
翌日、朝のホームルームを終えて屋上に向かい、給水タンクの近くに座ると、一緒についてきた袴田くんに吉川さんのことを話した。
お礼を言われたのは私だが、彼が私の体を取り憑いて対処しなければ回避できなかったことだ。
私が話し終えると、袴田くんは眉をひそめた。
『岸谷が吉川につきまとってた、ねぇ……』
「でもちょっとわかるかも」
『は? なんで?』
「だってあんな優しくて強くて美人さん、早々いないよ? 私が男だったら速攻で惚れてたね」
『男の一人も作れねぇ奴が何言ったんだか』
つまんねぇ、と一言呟くと、給水タンクの上で器用に昼寝を始めた。
幽体とはいえ、不安定なタンクの上だ。地面に落ちないのが不思議で仕方がない。
あれから袴田くんとはよく話すようになった。
幽霊(仮)相手に柔軟な対応ができていることに、我ながら驚いている。
結局彼がどうしてここに戻ってきたのかは、未だわからないままだ。
聞こうとしても誤魔化されて別の話に切り替えてしまう、この繰り返しがずっと続いていた。
「……井浦、だっけ」
「へ?」
突然後ろから声をかけられた。
今はまだ授業中で、来た時は誰もいなかった屋上だ。声をかけられるなんてことは、見回りの先生以外在り得ない。
しかし、意外にも私に声をかけてきたのは、あの岸谷くんだった。
「きっ……!?」
「あんまりデカい声出すなよ。今授業中なんだから」
「そうだけど……え、なんでここに?」
「教室に行ったら席にいなかったから。サボる奴の溜まり場といえば屋上だろ」
どこかで聞いた覚えのある話をして、岸谷くんは私の隣に座った。
この間の時に比べて、どこかげっそりした顔つきをしている。
「……えっと、大丈夫?」
「え?」
「いやっ! その……元気ないなって思って」
「あー……すっげー馬鹿なことしたなって後悔してんだよ」
「もしかして、吉川さんのこと?」
岸谷くんは小さく頷いた。
「苛立ちで我を忘れた挙げ句、女子に殴り掛かったんだ。いくらムカついていても、こんな格好悪いことするなんてさ。お前が飛び出してこなかったら、もっと危なかったと思う」
お前にも悪いことしたな、と。岸谷くんは下を向いたまま言う。
落ち込み具合とこちらを一向に見ようとしないことから考えても、彼自身、かなり反省しているようだった。
無理もない。あんな可愛らしい子に好意を向けていて、他の男子に盗られるところなんて見たくもないだろう。
「大丈夫だよ。気付いてくれてよかった」
私がそう言うと、岸谷くんは顔を上げて一瞬驚いた顔をしたものの、すぐ微笑んだ。
「……ところでお前、袴田玲仁と知り合いだったのか?」
「へ? 袴田くん?」
「だってあの時のお前、アイツ特有の笑い方してた。近くにいれば喋り方も似るっていうし。……もしかして彼女だった、とか?」
「ゴメン、それは絶対ない」
袴田くんの彼女? いやいや。絶対無理。
私が即答で拒否したから、岸谷くんは苦笑いをした。
「……でも、憧れたことはあるよ」
「憧れた?」
「うん。……私、袴田くんは楽しんで喧嘩している人には思えなかったから」
隣の席になるずっと前、全く面識のなかった頃、私は一度だけ袴田くんが他校の生徒と喧嘩しているのを見かけたことがあった。
当時から喧嘩になると必ず現れる問題児で、先生から何度も怒られていた。
ある日の帰り道、私は同じ学校の男子生徒が五人の大男にボコボコにされているところに遭遇した。
一向に収まる様子はなく、物陰に隠れた私は警察に電話をかけた。
到着まで五分かかると言われて、ハラハラしながら喧嘩の様子を伺っていると、袋叩きに遭っている男子がボロボロのアニメの画集を抱えていることに気付いた。
彼は当時、同じ学年で一番罵倒を浴びていたであろうアニメ好きの生徒だった。クラスメイトに罵られている場面を何度か見たことがあったが、彼は一向にアニメ好きを公言し続けてきた。
おそらく他校の生徒が画集を見てからかってきたのだろう。
彼自身も戦ったが、五人の大男には到底敵う相手ではなかった。
好きなものを好きでいることのどこが悪いのか。――そんな時、特徴的な笑い声が辺りに響いた。
「――くはは。なんだ、随分楽しんでるじゃん」
まるでヒーローのような登場だった。
少し段差のある塀の上に、仁王立ちで佇む袴田くんがいた。
耳に残る笑い方を気味悪がったのか、他校の生徒の一人が、袴田くんに向かって拳を振り上げたその瞬間、彼が塀から飛び降りると同時に、近くの電柱まで吹き飛んでいった。
それを皮切りに、他の生徒も彼に向かっていく。全員が彼に向けて拳を振り上げたが、一つも掠ることすらしなかった。
そして警察が到着するまでの五分間、たった一人で他校の大男たちを気絶させてしまったのだ。
通報した私と警察官が彼らの元へ行くと、袴田くんは画集をかばった男子の肩を支えて警察官に渡す。
「コイツ、よく耐えたよ。ちゃんと好きなモン守れるヤツってかっこいいよな」
当時から袴田くんは不良少年として有名だった。殴り合いには誰にも負けなかった。
そんな彼が、いろんな人に虐げられても挫けずに好きなものを貫く彼を讃えた。
――その時初めて、彼がどんな人にでも関係なく手を差し伸べることができる人なのだと知った。
「……だから、岸谷くんのことも止めたかったんだと思う」
当の本人は給水タンクの上で寝ているからわからないけど、少なくとも私はそう感じた。
助けたいって思ったときに拳を振るう人。それが私が感じた彼の第一印象だった。
袴田くんは岸谷くんがサッカー部でエースだったことも知っていた。彼が努力している姿をどこかで見ていたのかもしれない。
「袴田がそんなに良いヤツとは思わねぇけど……まあ、お前らに救われたのは事実だ」
岸谷くんはそう言って立ち上がると、見下ろすようにして私に言った。
「俺が一方的に悪かった。吉川は……今度会えたら謝っとく。それじゃあな」
「なるべく早くだよ! またね」
校舎に戻っていく岸谷くん。
その後ろ姿を見ながら、吉川さんから聞いていた話を思い出していた。
確かに殴り掛かったのはどう考えても悪いけど、岸谷くんがストーカーみたいなことするような人ではないように見える。
「うーん……何か引っかかる……」
『そんなに唸ってると牛になるぞ』
「うわっ!?」
耳元でガサガサの低い声が聞こえてきて驚いた私は、体勢を崩してコンクリートの床に倒れ込む。見れば寝起きの袴田くんが大きく伸びをしていた。
幽霊でも声って枯れるのね……。
「ビックリした……急に出てこないでよ」
『うっせ。驚きすぎなんだよ。それより……』
言葉を切って、袴田くんはじっと校舎の方を見つめる。先には岸谷くんが出て行った扉があった。
「どうしたの……?」
『……いや、なんでもねぇ』
袴田くんは呟くと、しばらくその扉を見つめていた。
彼が何を考えていたのかはわからない。ただ、普段の気怠い雰囲気や喧嘩の時の鋭い目つきではなかった。
例えるならば、何かよからぬことを企んでいる、楽しそうな笑みだった。
袴田くんが幽霊として私の前に現れてから、既に一ヵ月が経過していた。
あれから吉川さんから声をかけられることが増えたものの、クラスの雰囲気や先生の目つきは変わらず白けたままだ。
私は元々友達付き合いも悪いこともあって、ひとりになることは苦ではなかったが、やはり声をかけてもらえるのは嬉しい。
それは袴田くんも同じだった。
教室に行くと、私の席は窓際の彼の隣だ。誰よりも早く『おはよう』と声をかけてくれたのは、他でもない彼だ。
……ただ、困ったことが増えてきたのも事実。
「オイ! 井浦ってのはお前か!」
放課後、必ずと言っていいほど校門前で他校の男子がぞろぞろと現れるようになった。
聞くところによれば、岸谷くんの一件で他の男子三人が広めた噂が他校にも流れてしまい、袴田くんに喧嘩を挑んで負けた不良たちが私に再戦を挑んできたのだ。
「だから、私関係ないんで……」
「ああ? あんな変な笑い方をする奴、袴田しかいねぇだろうが!」
それは本人は乗っ取ってるから。……とは、ここでは言えない。
苦笑いで誤魔化して逃げることもあるが、今回のように人数が多く、囲まれている場合はそういうわけにもいかない。
そして、当の本人は……。
『くははっ! ちょー人気者じゃん井浦ぁ!』
相変わらず、腹を抱えて笑い転げている。
ああ、アイツの姿を皆に見てもらいたい……!
『まぁ、そんな睨むなって。どうにかしてやろうか?』
「……最低」
自分で蒔いた種でしょうが。
呟いた後、この状況をすっかり忘れていたことにハッとした。
目の前には満面の笑みを浮かべた不良たちが全員、こちらを向いていた。
「……てへっ?」
「上等じゃあああ!」
こんな時代遅れの誤魔化し方じゃダメに決まってるっての!
一斉に突っ込んでくる彼らは、突進してくる凶暴なイノシシだ。何を言っても聞き入れてもらえないだろう。
思わず目を閉じると、耳元で袴田くんの溜息が聞こえた。
『ったく、しょーがねぇな』
そう聞こえてすぐ、私の体を乗っ取った袴田くんは一瞬にしてイノシシ……もとい、不良たちを一網打尽にしてしまった。
気絶させたわけではなく、人のツボのようなものを押したようで、ほとんどの不良たちが痺れてその場に蹲っていた。
「お前らがここに何度来ても、袴田は出てこねぇよ。自分の学校の草むしりでもしてな」
口が悪い。私、そこまで口は悪くないよ。
「チッ……うるせぇな。お前に合わせられるかっての」
人の体乗っ取っておいてそれはないでしょ!
いくら中身が袴田くんであろうと、外見や声は井浦楓だ。
袴田くんが私の体から出ていく頃には、不良たちは全員逃げて行った。
『あーあ。久々に動いたー!』
「どこが久々……?」
ここ最近、袴田くんを訪ねてくる不良が増えてきた気がする。これ以上来られても迷惑だ。
「ねぇ、どうにかならないの?」
『知るか。岸谷辺りに言ってみれば?』
「え? なんで岸た……」
「井浦さーん!」
私の声を遮ったのは、駆け寄ってくる吉川さんの声だった。
額にうっすらと汗を浮かべて黒髪を耳にかけた彼女は爽やかで、どこかきれいに見えた。
確か彼女は部活中のはずだ。その証拠に、金管楽器を首から下げるストラップをつけたままだった。
「井浦さん、さっきの人たち大丈夫だった? 声が校舎の中まで聞こえてきたから心配で……」
「もしかして、それで来てくれたの? 部活は?」
「井浦さんの方が大事だもん」
吉川さんはそう言って、優しく微笑む。あんなにイライラしていたのが一瞬で和やかになった。
「そう言えば、あれから岸谷くんとは大丈夫?」
「え? 何が?」
「何がって……付きまとわれてて困ってたって……」
何のことかわかっていないのか、キョトンととぼけた顔をするも、すぐニッコリ微笑んだ。
「ああ、うん。大丈夫。最近は何もないから安心して。私の心配をしてくれるなんて、井浦さんは優しいね」
「……そ、そっか」
なんだろう、この違和感。一瞬、彼女の顔が歪んで見えた気がした。
「それより、聞きたいことがあるんだけど……」
吉川さんは耳元に近づいて言った。
「袴田くんって、どんな人だった?」
「――へ?」
突然袴田くんの名前が出てきて、思わず変な声が出た。
私が動揺したのを察したのか、彼女は私の手をそっと包んで更に続けた。
「井浦さん、袴田くんの隣の席だったでしょう? だから彼ってどんな生活をしてたのかなって気になってたの。ほら、一匹狼みたいなところがあったから、喧嘩が強いくらいしかわからなくて。井浦さんだったら知ってるでしょう? 彼のこと、私に教えて?」
――私達、友達でしょう?
「――っ!?」
ぞっとした。
まるで脅しているような彼女の言葉に後ずさると、包まれた手は次第に強く握られた。あまりにも強くて、指の骨が折れそうだ。
「よ、しかわさん……?」
「あら、顔色が悪いけど……もしかして具合悪い?」
微笑んで心配してくれている――はずなのに、私は彼女に恐怖を覚えた。振り払おうとしても、恐怖が勝って動かない。
先程まで近くにいた袴田くんの方へ目を向けると、彼は目を見開いて呆然としている。
二人に共通点なんてあっただろうか。
いや、吉川さんが袴田くんのことを知っていても、彼は何も言ってなかった。クラス替えとか部活とか、選択科目で一緒だったらキリがない。
「――井浦!」
「え……っ!?」
彼女に引き込まれそうになる中、突然名前を呼ばれたことに驚いて緊張が解けた。
見ると、岸谷くんが呆れた顔をしてこちらにやってくる。彼の姿を見た吉川さんは手を離すと、小声で「また今度聞かせてね」と、いつもの優しい笑みを浮かべて校舎へ戻っていった。
彼女を見送ると、岸谷くんが不思議そうな顔をして言う。
「悪いな、取り込み中……井浦? 顔色悪いぞ」
「えっ……な、何でもない!」
顔を逸らして岸谷くんに言うと、彼は校舎の方に目を向けた。
彼が来なかったら、私は息が止まっていたかもしれない。
「今の……吉川か? あいつに何かされたのか?」
「え? あ……ううん。大丈夫。それよりどうしたの?」
「いや、お前がまた他校の奴に絡まれたっていうからさ。見知った顔いるし、交渉しようかと思ったんだが……お前、またやったな?」
「あー……ははは」
いつから見ていたのだろうか。
せっかく説得に来てくれたのに、私――というより袴田くん――が追い返してしまったらしい。
「袴田が死んだこと、アイツらもわかってるはずなんだ。それでもアイツに勝ちたいって思う方が強い。……お前に八つ当たりしたところで、袴田が生き返るはずがないのに」
どんなに願ったところで、死んだ人間は戻ってこない。
それこそ誰からも求められていた人間こそ、いなくなってしまう。神様は意地悪だ。
「アイツがいたら、なんて言うかな」
「……わからないよ、本人しか」
岸谷くんのすぐ近くで、袴田くんは俯いたまま立ち尽くしていた。
そこにいるんだよって教えたら、きっと岸谷くんは彼に縋りついてしまう気がした。
「……そういえば、一応お前にも言っておこうと思ったんだ」
何か思い出した岸谷くんは、私に口外しないことを前提に、ある噂を教えてくれた。
「仲間のヤツが言ってたんだ。袴田は自分から飛び出したんじゃないって」
一体どういうことだろう。
岸谷くんから「袴田くんは事故死ではない」説を教えてもらった翌日、家を出てから教室に着くまでずっと考えていた。
岸谷くんの話によれば、彼の仲間の一人が事故現場にいて、同じように信号待ちをしていた。
大勢の人が立ち往生になっているなか、そこには袴田くんの姿も見受けられたという。
交差点には大きなトラックが一台停車しており、信号が切り替わると同時に動き出してカーブを曲がった。
横断歩道に差し掛かり、トラックがアクセルを踏んでスピードを上げようとしたと同時に、あたかも狙ったかのように袴田くんが道路に飛び出した。
間近で見ていた彼いわく、袴田くんは背中を押されたかのように、胸から道路に出たらしい。
歩行者用の信号機の下で待つ人たちの方に勢いよく振り向いて、彼は何か呟いた。
しかし、それはトラックの運転手が急いで踏み込んだブレーキ音でかき消され、誰も聞き取れなかったという。
もし彼が本当に事故死ではないとしたら、こんな人生の終わり方を納得できないから成仏しないのかもしれない。
ただ、それ本当かどうかがわからない。彼は今まで頑なに戻ってきた理由を聞かせてくれなかった。
なんでもいい。とにかく彼に聞いてみる価値はある。
私は教室に入ろうと扉に手をかけると、「井浦」と後ろから声をかけられた。
見ると、袴田くんがどこか苛立った表情をして立っていた。こんな表情、喧嘩している時くらいしか見かけないだろう。
廊下で誰も見ていないことを確認すると、彼の隣に並んで人目を気にしながら問う。
「どうかしたの?」
『お前、もう吉川と関わるな』
「は……?」
『余計なことは聞くな。その方が身のためだ』
いつもの低い声は、どこか怒りが込められていた。目つきもどこか鋭くて、考えていることがすべて見られている気がした。
「……なんで吉川さん? あの件だったらあの子は被害者でしょ」
『なんでもいいだろ。お前まで巻き込まれたら……』
「巻き込むって何? 私が関係しているなら、理由を聞く権利あるよね?」
周りの目を気にしている余裕はなかった。
苛立っている彼に挑発的な口の利き方をして、反感を買うのもわかっている。
「あの子はいい子だよ。自分が辛かったことを、誰かに同じ思いをさせないように手を差し伸べてくれたんだよ? 何をしたっていうの?」
『井浦、落ち着け』
「何でもかんでも暴力で解決してきたアンタたちに、優しさで人を救ったことなんてないでしょ!」
『井浦!』
初めて彼の怒鳴り声を聞いた。
私には音量が上がったくらいだったけど、周りにいた生徒や先生は耳を塞いでその場に立ち崩れた。まるで超音波が出ているようで、何人かが唸って蹲っている。
「袴田くん! いくらなんでもやりすぎ……」
『うるせぇ! お前なんかもう知らねぇ!』
「っ……なにそれ」
今まで人の体借りて好き勝手喧嘩したくせに。感謝もなければ取り憑く頻度も減らない。
超音波なんて知るか。
私は彼の制服の胸倉を掴んで怒鳴った。
「別にいいよ! 袴田くんなんかに心配される筋合いないから!」
胸倉を掴んだまま向こうへ押すと、袴田くんがよろけた。
それがどうした。一生そこでへばっとけ。
私は勢いよく扉を開けて教室に入る。
誰もが私を見て怯えた顔をしていた。
「……どう、したの?」
嫌な予感がよぎる。クラスメイトの一人が震える手で私の机を指さした。
教室の一番後ろ、窓際から二番目の私の席に、「地獄に落ちろ」と大きく書かれ、一輪の菊の花が入った小さなペットボトルが置かれていた。