今日も、ラムネ色の風が吹く

カラン コロン

瓶の中に

ビー玉が一つ

ラムネの海に

洗われて

君が傾けた

瓶の中で

カラン コロン


「はぁ……」

 少年の薄い唇から溜息が洩れ出た。陰気な顔付きをした少年になんてお構いなしに、夏の空には何処までも高い入道雲がそびえている。もっとも、俯いたままの少年には関係ないが。
 少年のその小さな頭の中を占めているのは、とある一人の少女だった。雲よりも白いワンピースを着た、ひまわりみたいな少女。
 少年の中で少女は、何時でも笑顔で、優しくて、憧れの人だった。
 しかし、時間が過ぎるに連れて、少年の中で少女はどんどん美化されていった。遂には、元の形を忘れてしまう程に都合よく、美しくなった。
 そうやって創り上げた理想の少女が、少年を裏切る筈がなかった。甘い夢に溺れていた少年は、現実に牙を向かれて深手を負った。この日、少年の神様は死んでしまったのだ。
 少年の頭上を油蝉が喚きながら飛んで行く。少年は思わず顔を上げてしまった。眩し過ぎる程の夏陽が刺さる。
 少年の視界で、入道雲がワンピースの様に翻った。脳裏にあの顔が浮んで、弾けた。
 綺麗なだけの空に、傷口を抉られた少年は後悔しながら、もう何も目に映らないように俯き直した。

――どうして……。

 少年は昨日から幾度となく自分に問い掛けている。色々な答えが浮かぶが、どれも的を射ていない。答えが浮かぶ事なんてない。もっと、根本的な所に思考が行き着かないように、無意識の内に幾度となく思考を停止しているのだ。
 人は心に傷を負った時にどうしても、自分がこれ以上傷つかないように守る生き物だ。痛いのが分かっていて、わざと転ぶ人なんていない。少年もその例に洩れなかったに過ぎないのだ。
「あれ、お前こんな所でどうした?」

 少し低い優しい声が―――今少年が一番聞きたくなかった声が、その鼓膜を震わせた。

「……ああ、君か」

 そこに立つ日に焼けた少年は無邪気に、楽しそうに少年を見ている。彼は、少年の友達だ。少なくとも、一昨日までは確実に。
 その日、少年と少女、彼を含む五人は遊びに出掛けた。だが、その帰り道で、少年の憧れと夢は、彼によって砕け散った。ほんのりと頬を染めて手を繋いだ二人の顔が、少年の脳裏に浮かんで、消えた。
 少年の想いなど知るよしもない彼からすれば、他意はないだろう。少年にだってそんな事は分かっている。見苦しい八つ当たりなんてしたくなかった。

「いやぁ、一昨日も会ったのに、何か嬉しいな」

「そうだね」

 少年は絆創膏みたいな笑みを取り繕う。

「……何かあった?暗いけど」

 彼は少しトーンを下げて問う。見透かされた素顔が引きつる。

「別に何もない、と思うけど……。そう見えた?」

「うん。熱中症じゃないか?」

 彼は心底心配そうな顔で少年を覗き込む。人の好意と言うのは時として残酷なものだ。少年の顔は益々引きつり、本当に体調が悪い様な塩梅になった。
 全部お前のせいだ。
 なんて、馬鹿みたいな事が言えたら、少年はどんなに楽になっただろう。残念ながら、生来の真面目さと、優しさという弱さを纏った少年にそんな事が出来る筈もなかった。

「言われてみると、」

 少年はこの日初めて彼を真っ直ぐ見た。

「少し頭が痛いかも」

「やっぱそうか。早めに休んだ方が良いよ」

「そうだね……、そうするよ」

 うんうん。と彼は満足そうに頷いた。

「それじゃ、お大事に」

 そう言って手を振った彼の私服が、いつもより若干洒落ている事に気が付いた。

――負けた……。

 誰に、なんて少年にも分からない。ただ、胸の奥で唯一活発に動き続ける黒いドロドロした感情がそう告げている。少年は去っていく彼の後ろ姿が見えなくなるまで、意味もなく先程の会話を反芻していた。

 *

 少年は家路を逸れた。そのまま惰性で、幼い頃によく行っていた駄菓子屋へ足を伸ばす。少年が駄菓子屋に足繁く通っていた頃はまだ、少女の存在も彼の存在も、ややこしい事も知らなかった。
 昭和の佇まいとでも言えば良いのか、レトロな雰囲気を醸し出す建物の前で少年は立ち止まった。そのままガラリと黄ばんだガラス戸を開ける。
「涼しい」
 少年の呟きは奥にいるお婆さんには届かなかった。
 所狭しと並べられた駄菓子。整理すらもまともになされていない、乱雑な埃っぽい店内。何となく、安っぽい冷蔵庫が少年の目に入った。

『熱中症じゃないか?』

 彼の声が蘇る。無意味についた嘘を思い出す。
 暫しの逡巡の後、少年は冷蔵庫を開けた。少し白み掛かった冷気が溢れ出していくのを目の端で追いながら、中から瓶のラムネを取り出す。ひんやりとした無機質な瓶が今の少年の心に似ていた。
 少年はお婆さんに百円玉を渡して、店の前のベンチに腰掛けた。夏の熱気の下、手の中の透明な瓶は氷みたいな顔をしていた。少年は慎重にビー玉を押して、栓を抜く。
 ポン、と言う小気味良い音が真っ白な世界に転がった。
 黒いドロドロしたものは炭酸と一緒に溶けてしまえば良い。
 そんな気持ちで、少年はラムネを一気に飲み干した。清涼な味わいが少年を潤す。炭酸が喉を刺して、少し痛い。
 最後の一雫を飲もうとして、瓶を傾けた時、瓶の向こう側に夏空が見えた。先程まで出ていた入道雲は何処にも無く、ただ蒼いばかりのラムネ色の空が広がっている。少年は一雫の事なんて忘れたまま、空に魅入っていた。

カランコロン

 傾いた瓶の中でビー玉が涼やかな音色を奏でる。その音がどうにも心地良くて、もう一度傾ける。

カランコロン

 ビー玉の音は、涼風に紛れて、広い広い夏空に混ざった。少年も青い蒼い大空に吸い込まれた。
――何を、悩んでたんだろ。

 夏風に攫われて煌めきながら飛んでいった雫は果たして、ラムネの一雫だったのだろうか。
リーン

風鈴の()

ただ木霊する

響いたそばから

空に溶けてく

届かない音

ただ吹き抜ける

風に紛れて


 蒼い高い八月の空。見る者を圧倒する、荘大な夏景色だ。
 でも、と私は思う。

――それだけ。

 空が青いだけ、高いだけ、道端の花壇に植わったひまわりは派手なだけ。
 もう素直に綺麗なものを綺麗って言う事すらも出来なくなってしまった。きっと、心からの笑顔すらも引きつってしまうのだろう。
 熱い暑い空気が私を今この瞬間も取り巻いている。
 夏は嫌いだ。皆も熱苦しくて、一人でいたって暑い。いつからこんな捻くれた人間になったんだろう。
 思い返してみても、確かな原因がある訳じゃないと思う。問題は外じゃなくて中に、私にあるんだ。

――そう。そんな事分かってる。

 言いたくなかったけれど、言ってしまった事や、言いたくても言えなかった事達が今の私を形作っている。それを思い返す度に、もっと自分が嫌になって、また増えていく。もし、それらが全部なくなったらなくなったで、私はきっと空っぽになってしまうのだろう。
 そんな事を思いながら、私は電柱にしがみついたまま動かない蝉の抜け殻を手に取る。私の手の中に小さく収まったそれは、ついこの前まで生きていた事が疑われる程、軽くて脆かった。その感触に何処かデジャヴを感じた。
 ふっと、幼い頃の記憶が蘇る。

 *

 私が小学校二年生くらいの夏休みの事だった。確か、その日は雨で一日中外に出れなかったのだ。
 他にやる事もなかった私は、当時出されていた〝夏休みの自由工作〟に取り掛かっていた。その年の私の工作は、ガラスの風鈴の絵付け。と言っても、そんな本格的な事をした訳じゃなくて、無地のガラスの風鈴を買ってきて、それに絵の具で絵付けしただけだ。あと、短冊の部分も自分で作った気がする。
 透き通った丸いガラスに、柔らかく絵筆を当てる感覚が心地良かった。絵はあまり得意ではなかったけれど、綺麗な朱い金魚を描いた。
 そうして出来上がった風鈴は、私だけの一点物だった。ガラスの、今にも割れそうな柔い丸みをそっと小さな手で包んだ。
 外に吊るすと汚れてしまいそうで、私は風鈴を宝物の様に部屋の窓際に飾った。朱い金魚が、窓の外側を濡らす雨の中を優雅に泳ごうとしていた。
 でも私は、その日の夜、止んだ雨に安心して窓を開け放して寝てしまった。翌朝目が覚めると、窓際に風鈴は無かった。窓の下を覗き込むと、粉々に割れた、所々が朱いガラスの破片が飛び散っていた。私は―――当時の幼い私は、自分を責めて、それだけでは足りなくて泣き喚いた。
 不思議な事もあるもので、ひとしきり泣いた後、気分が漸く落ち着いた私は、風鈴の残骸を片付けようと下に降りたが、欠片一つ落ちていなかった。まるで、最初から風鈴なんて無かったかの様に。
 私は結局、風鈴の音を聞かないままだった。

 *

 こんな事は今の今まで、忘却の彼方に忘れ去っていた。
 あの風鈴は何処に行ったのだろう。部屋に戻ってもやっぱり風鈴は無くて、次の日に探してもやっぱりガラスの欠片一つ見当たらなかった。
 たった今思い出した癖に、風鈴が消えてしまった事実が、私を数年越しに責めている気がした。
 胸の奥がキューっとなってどうにも苦しかった。私は、逃げられない痛みに藻掻いて、近くの本屋に転がり込んだ。

 ここなら、気を紛らわせられると思った。買うつもりも読むつもりもない本の表紙だけが、タイトルも知らないまま流れて行く。

「あれ?久し振り」

 背後からの声に、表紙ばかり追っていた目がグルッと後ろを向いた。

「え?……あ、その、久し振り」

 咄嗟の事に、笑顔を作るのも忘れていた。

――どうせ、そんな笑顔に意味なんか無いけど。

「ゴメン。驚かせて。久し振りだったもんだから、つい」

「ううん。大丈夫」

 目の前で屈託なく笑う彼は、去年はよく私達と一緒に居た。最近の彼は忙しくなったらしく、あまり顔を合わせる機会は無くなっていた。
 会話が早くも途絶えてしまった。
 久し振りに会うと、何を話したものか、分からない。例え、少しの間でも、私が知らない彼が居て、彼が知らない私が居て。その溝は、私が思うよりもずっと、深くて大きいのだ。

「……何か、こんな事言うのも変だけど、変わったね」

 彼の、その遠慮がちな言葉が、重苦しい沈黙を切り裂いた。

――変わった?私が?

「どういう意味?」

「うーん。ゴメン、気にしないで」

 そう言われると気になるのが人の常だ。

「どんな事でも別に怒らないから、教えて」

 つい、口調が強くなる。

――何、ムキになってんだろ……。

 彼は尚も渋る様だったが、徐ろに口を開いた。

「少し、疲れてるみたいな、哀しい感じって言えば良いのかな。なんと言うか、ゲンナリして見える」

――ゲンナリ?そんな言い方ある?

 言い返そうとしたが、心はそれを肯定してしまっている。

「うーん……そうだね。確かに、あんまり元気じゃないかも」

 彼は少しばかり、意外そうな顔をした。私の嫌いな、そういう顔。人を自分のイメージで決めつけている人の顔。
 そうだよ。私もあなたも結局は、ボロボロの舞台で踊るしかないんだよ。それなのに、あなたは、皆は、観客のつもりで私を見るんだ。

――ああ、何で私はこんな風に思っちゃうんだろう……。 自分から聞きたいって言った癖に。今更、何を知りたかったんだろう。

「そっか……」

 彼は、それだけ言った。私はその顔を見つめて居られなくて、本棚に視線を戻した。今更、それが洋書のコーナーだった事を知って、本棚からも慌てて目を逸らす。行き場を失った目線は、何処ともつかない様な、虚空を見つめるより他なかった。

「……今、暇?」

「え?うん。暇、だけど……」

「ならさ、ちょっと歩かない?気晴らしにでもさ」

――あの炎天下を?

と心でしか言えない私は、やっぱり弱い。それを飲み込んでしまったら、断れる筈も無かった。

「……良いよ」

「オーケー。じゃあ、行こうか」

 そう言ってスタスタと歩き出した彼の後ろを、私は近付き過ぎないように、遠くなり過ぎないようにして、歩いた。
 自動ドアがスルリと開いて、やっぱり暑い空気が私に纏わり付く。蝉の大合唱が煩わしい。彼はこちらを見る訳でも無く、ただゆっくりと確かに進んで行く。

「どこかに行くの?」

 私が思わず聞いても、彼はこちらを見ない。

「さぁ、どこへ行くと思う?」

 心なしか楽しそうな声が聞こえて、見えない筈の微笑が見えて、私は後悔した。

――やっぱり、断れば良かった。

 彼と私は暫く、黙って歩き続けた。蒼い高い八月の空なんかには目もくれずに。

「ちょっと待っててくれる?」

 彼は、突然そう言い置いて、古びたガラス戸をガラリと開けて行ってしまった。彼の家はこんなとこだっただろうか。見覚えがある気がするけど。そんな事をぼんやりと考えていた。
 待つ程もなく、彼は戻ってきた。その手に握られた、海の色をした二本の瓶が私の目に映った。

「あげる」

 そう言って、細長い海が目の前に突き出される。私は反射的に受け取って、ラベルを見た。

『ラムネ』

――ああ、ここは駄菓子屋だったんだ。

 ずっと昔の記憶と、この景色が一致した。
 彼はさっさと店の前のベンチに座って、ビー玉を押している。私も、その隣にちょこんと腰掛けた。

――ラムネなんて、いつ以来だろう。

 一口。爽やかな香りが、懐かしい匂いが、鼻の奥を撫でた。

「あのさ、別に、嫌だったら良いんだけど……良ければ、話してくれないかな」

 何を、なんておとぼけはもう意味を成さない。辺りに人通りは無い。私が黙り続ける限り、その沈黙は続くだろう。

「……聞いてくれる?」

 私の中の何かが、そっと首をもたげた。

「勿論。僕は何も言わないから、存分にどうぞ」

 私はゆっくりと口を開く。勢いよく開けると、溢れてしまいそうだった。

「あのね、私、自分が嫌で……。ただ皆みたいに普通にしてるだけなのに、空回りしてるみたいな……。そんな変な気持ちになるの。それが……すごく、嫌」

 黒い本音がポロポロと落ちる。声の震えを抑えるのが大変だった。彼は宣言通り、石の様にじっとしていた。もう他に言う事なんて無いと思ったが、口が勝手に言葉を紡ぐ。

「私ね、思うんだ。何で今日が続くんだろって。嫌なことの方が多いのに、何で毎日いつも通りに生きなきゃいけないんだろって。……ねぇ、あなたは、こんな気持ちになる事ない?」

 視界が滲む。擦っても擦っても、視界が滲む。遂には、彼の顔も見えなくなった。

「僕?」

 私は頷いた。意味のない同情でも良いから、何かが欲しかった。

「……僕は、どうだろ。だけどさ、そういうドロドロした黒い気持ちは、一気に溶けてくれるものじゃないから」

「……」

「……やっぱり美味いなぁ。そういや、去年の夏以来だな」

 彼はラムネをじっと眺めて、しみじみと、私にではなくて、本当に自分に言い聞かせるみたいに言った。
 私は、少し温くなったラムネを飲み干した。

「ご馳走さま。……キモい事言ってごめん。私、帰るね」

「気にすんな。また、話聞かせて」

 彼は柔らかい目をしていた。去年から、こんな目だったのだろうか。私は全然気付かなかった。

「……ありがと」

 私は駄菓子屋と彼に背を向けた。

――やっぱり、そんなの綺麗事だよ︙︙。

 自分で望んで本音を打ち明けたのに、私は後悔していた。

――あんな事言われたって、彼だって困るに決まってるじゃない……。

 そんなくだらない自分は、やっぱり好きになれなかった。
 私はまだ、何一つ変われていないのだ。この殻を脱ぎ捨てて、空高く飛んでいく事はできないのだ。

 リーンリーン

――風鈴?

 耳に、直接聞こえたみたいだった。音に味があるなら、爽やかな甘味。そんな味があるのか分からないけど、そう思わせる様な優しい音。

 リーンリーン

 道の向こうから聞こえる。私はその、か細い音を頼りに、走り出した。そうしなきゃいけなかった。敏感になり過ぎた耳元で、風が鳴っている。

 パリンッ

 思わず後ろを振り返ると、道路の真ん中で、ダイヤモンドの様な光が、狂おしい程に煌めいていた。
 粉々に砕けたそれに、何処か見覚えがあった。
 その真ん中を指でなぞったとき、残骸の下に見えた。

 朱い金魚

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