「梓が了承はしたのは間違いないけど、梓が望んだわけじゃなく、無理矢理だったみたいなんだ」
「どいうことだ?」
「梓の親は会社を経営しているんだが、その頃莫大な負債を抱えていたんだ。そんな時に蛇塚から花嫁の話が来て、花嫁になれば蛇塚に援助を頼めるからと親から言われて、嫌々了承したらしいんだ」
「それは、なんていうか……」
蛇塚の気遣いがすべて意味がなくなっている。
「しかも、梓には好きな男がいるらしくて……」
「最悪だわねそりゃ」
透子はどっちが、とは言わない。あえて言うなら両方のタイミングが悪かった。
けれど、東吉は梓の方に腹立っているようだ。
「それで、お前はあの女の家に援助しているのか?」
蛇塚はこくりと頷く。
「なんだ、それ。嫌なら断ればいい話だろ。まあ、そうなったら蛇塚家が援助する理由もなくなるが、援助してもらっておいてあの態度はないんじゃないのか? 嫌々だとしても、花嫁になると決めたのは本人なんだからよ。歩み寄る努力はするべきだろ。甘ったれんなよ」
まあ、確かに東吉の言い分はもっともだ。
けれど、そのあたりを梓がどう考えているのか、蛇塚の話だけでは気持ちは分からない。
柚子の妹の花梨も相手の狐月家から援助を受けていた。だが、花梨と瑶太は仲がよかったので、梓とは少し状況が違う。
柚子が見たところ、蛇塚は顔は怖いが心根は優しく好感が持てる人のように思えるのだが、やはり好きな相手がいるというのが問題なのだろうか。
好きな相手がいながら別の男の花嫁にならなければならないというのは、つらいことは分かる。
けれど、喜んで花嫁を迎えたのに、あれほどあからさまに嫌われている蛇塚もかわいそうに思う。大事な花嫁のためにと援助までしているのに。
「援助切ってやったらどうだ?」
「……そんなことをしたら、梓が俺のそばにいる意味がなくなってしまう。嫌われていても俺は梓のそばにいたい」
東吉はガシガシと乱暴に自分の頭を掻く。
「あー、だよな。花嫁を持ったあやかしならそうせざるを得ないよな。俺がお前だってそうしてるよ」
同じ花嫁を持つあやかしだからこそ、いじらしい蛇塚の気持ちがよく分かるのだろう。東吉はそれ以上何かを言うことはなかった。
「人間は花嫁なんて言われても分からないからねぇ」
しみじみと透子が呟く。
「そうだよね。花嫁の方も自分が花嫁だって分かったら楽なのにね」
玲夜の花嫁となってから、柚子が幾度も思ったことだ。
今でこそ玲夜と両思いだが、自分の気持ちが分からなかった時、はっきりとしない自分自身に苛立ちを覚えたものだ。
「よし!」
突然立ち上がった透子に全員の視線が集まる。
「ちょっと本人に話聞きに行ってみよう」
「えっ、ちょっと待って透子」
「そうだ、ちょっと待て。お前が出るとややこしいことになる」
「もうすでにややこしいことになってるでしょ。これ以上ないくらいに最悪じゃない」
キッと睨むような視線を透子から向けられ、蛇塚はビクッとする。
「大きなお世話かもしれないけど、あそこまで嫌うことないと私は思うのよ。顔は怖いけどあなたが優しいのはちょっと話せば分かる。あなたたちちゃんと話せてないんじゃないの?」
「話そうと思っても逃げられるから……」
「だから代わりに私が聞いてみるのよ。同じ花嫁の方が彼女の気持ちが分かることもあるでしょ?」
暴走した透子は誰にも止められない。
「そうと決まれば行くわよ!」
東吉がついて行こうとしたが、女同士の話し合いだからついてくるなと怒られていた。
「柚子、頼む。あの暴走娘が暴走しそうだったら止めてくれ」
「にゃん吉君に無理なのに私にできると思えないんだけど」
「それでも頼む。これ以上こいつらの仲が悪化したら、蛇塚が再起不能になる」
「わ、分かった。頑張る」
とは言ったものの自信はない。
勢いで歩き出したものの、この広い大学の敷地内で梓の場所が分かるはずもなく、無駄に歩き回ることになった。
そもそも、午後からも学部ごとの説明会があるのだから、その時間を待てばよかったのだが、それに気付いたのはかなり時間が経ってからだった。
「無駄足だった……」
「透子、お願いだから考えて行動して……」
「ごめん……」
歩き回ったことで透子も頭が冷えたらしく、落ち着きを取り戻していた。
けれど、話を聞く気持ちはなくなっていないよう。
午後の説明会が始まり、柚子と透子と梓の三人だけの教室で、早く講師の話が終わらないかとそわそわと待っている。
そうして説明会が終わると、一目散に梓のもとへ歩いて行く。
「梓、ちょっといい?」
「どうかしました?」
「えーとね、うーん……」
透子はどう切り出したものか悩んでいるようだ。
しかし、透子に回りくどい言い回しができるはずもなく……。
「率直に聞いちゃうんだけど、蛇塚のこと嫌いなの?」
蛇塚の名を聞いた瞬間、梓の表情が険しくなった。
「あいつからなにか聞いたんですか?」
「梓に嫌われているっていうようなことかな」
「あなたたちも私を責めるの!? 花嫁なのに冷たいって!」
突然激昂する梓にさすがの透子もたじろぐ。
梓の言葉を聞くに、責められたことがあるような言い草だ。最初は友好的だったのに、今や梓が柚子たちを見る目は険しい。
それだけ、梓にとって蛇塚という男の名は禁句だったのだろう。
「ち、違うわよ。私も花嫁だから、梓の相談に乗れるかなって思ったの」
「相談? 乗ってどうするんですか? あなたがあいつから私を助けてくれるんですか!?」
「助けてって……」
さすがにその言い方は蛇塚に対してかわいそうだ。
悲しそうな蛇塚の顔がよぎったが、興奮している梓にはなにを言っても無理そう。
ここは退散すべきだと思ったが、透子の口が開く方が速かった。
「助けるもなにも、あなたを助けてくれているのは蛇塚の方でしょう? 家に援助してくれているんだから。話してみたけど優しい人だったわよ。梓も話してみたらきっと……」
「透子さんは相手のあやかしと仲良さそうでしたね。恋人同士なんですか?」
突然の方向転換に戸惑いながらも透子は頷いた。
「ええ、まあ、一応恋人だけど」
「いいですよね。相思相愛になれて。けど私はもう一生、あの人と一緒になれない。好きな人がいるのに、あいつの花嫁になって私の人生は最悪なものになっちゃった」
「ちょっと、さすがにそれは言いすぎじゃないの? 蛇塚のおかげであなたの家は助かっているんだし」
それは正論だったが、梓を怒らせる言葉でもあった。
「恵まれた人に私の気持ちなんて分からないわ! 関係ない人が知ったように口を挟んでこないで下さい!」
「なっ……」
さらに応戦しようとした透子を止めに入る。
「透子、落ち着いて」
「だって、柚子……」
子鬼を渡して強制的に落ち着かせる。
子鬼たちに口を押さえられて透子が黙ったのを見計らい、柚子は梓に向き直った。
「ごめんね、梓ちゃん。透子もちょっとヒートアップしちゃったみたい。透子も花嫁ってことを最初は受け入れられなかったらしいから、梓ちゃんに共感しちゃっただけだと思うの。決して梓ちゃんを責めたかったわけじゃないってことは言わせて」
「……私の気持ちなんて分からないくせに」
梓は顔をうつむけて唇を噛み締める。
「立ち入りすぎてごめんね。ただ、蛇塚君は優しい人だと思ったから、なにか助けになりたくて」
「同情ですか? 私があいつを嫌おうとあなたたちには関係のないことです。あいつの話をするなら今後話しかけてこないで……」
「うん。ごめんね」
不満そうな透子を連れて教室を出ると、東吉と蛇塚がこちらに向かってくるところだった。
「やらかしたのかっ!?」
「めんぼくない……」
さすがの透子も応戦したのは悪かったと思ったのか、今はしおらしくしている。
「ごめん、にゃん吉君、蛇塚君。止めきれなかった」
「いや、全面的にこいつが悪い」
「ううっ……」
「あの、梓は?」
落ち着かない様子で問いかけてくる蛇塚に、梓はまだ教室にいることを伝えると、彼は走っていく。
直後、言い争うような女性の声がした後、梓が教室から飛び出してどこかへ行ってしまったのを見た。
少ししてとぼとぼ肩を落として出てくる蛇塚の姿があった。
さすがに声をかけられる雰囲気ではなかった。
花の大学生活。どの講義を受けようかワクワクドキドキしていたのに、もう講義の話などどこかに吹っ飛んでしまった。
「はぁ……」
屋敷に帰ってきた柚子は深い溜息をついた。
今日はやけに長い一日だった気がする。
「どうしたんだ?」
「玲夜? 今日は早いね」
いつもはこんな時間に帰っているはずのない玲夜の姿に柚子は驚く。
「今日は早めに仕事が終わったからな。それでどうしたんだ?」
柚子はじっと玲夜の顔を見つめる。
柚子の周りにいた花嫁は花梨と透子だが、ふたり共相手のあやかしとは仲がよかったので、あやかしと花嫁はそういうものだと思っていた。だが、梓というあやかしを嫌う初めての存在を目の当たりにして、それが絶対ではないのだと知った。
ああいう関係の悪い花嫁とあやかしもいることは、柚子にとってかなり衝撃的だった。
好きな人がいると言った梓。
花嫁には、自分が花嫁だという自覚がないのだから、他に好きな人がいても仕方がない。だから柚子も玲夜ではない人を好きになることもあり得た。
あやかしと花嫁が必ずしも両思いになるとは限らないのだ。
柚子が曖昧な態度を取っていたあの頃、玲夜も不安だったのだろうか。いつまでもはっきりとしなかった柚子になにを思ってそばにいてくれていたのだろうか。
柚子はそっと玲夜体に腕を回し抱きつくと、心からの言葉を伝えた。
「玲夜、私玲夜のこと大好きだよ。玲夜の花嫁でよかった」
いつもはそういったことを恥ずかしがる柚子の率直な言葉に、玲夜は虚を突かれた顔をした後、柚子を抱き上げた。
「わっ」
突然の浮遊感に声を上げると、玲夜の紅い目と目が合う。
「俺は愛してる」
真剣なその紅い目が柚子を囚えて離さない。
「どうしたんだ、急に。大学でなにかあったか?」
「うん……」
柚子は、蛇塚のこと。そして、花嫁であることを受け入れられない梓のことを話た。
「……そうだな。花嫁を見つけたあやかしの中には、花嫁と上手くいかずに最悪な結果に至る者もいる」
「最悪な結果って、例えば?」
「花嫁が逃げだそうとして、逃がすぐらいならばと花嫁を殺してしまったあやかしとかな」
「えっ……」
柚子が思った以上に最悪な結果である。
「だが、珍しいことではない。あやかしは花嫁に執着と独占欲を持つが、花嫁にはあやかしの本能など分からない。すでに恋人がいる場合だってある」
実際、玲夜と会った時には別れていたが、柚子にだって過去に恋人がいたことがある。
玲夜と出会った時にまだ付き合っていて、その恋人のことを愛していたなら、花嫁などと言われたところで受け入れられなかっただろう。
梓の場合は恋人ではなく好きな人ということだが、好きな人がいながら別の男の花嫁にならなければならないというのは、想像しただけでも辛いことだと分かる。
とは言え、蛇塚は強制していない上、梓は蛇塚に援助をしてもらっているのだから、もう少し感謝の気持ちがあってもいいような気がする。
しかし、柚子は梓ではないので、梓の複雑な感情は分からない。
そこでふと柚子は思った。
玲夜だったらどうするだろうかと。
「ねえ、玲夜」
「なんだ?」
後ろから柚子を抱き締めながら座る玲夜を振り返る。
「玲夜と出会った時に、私に恋人がいたらどうしていた? 玲夜の花嫁になんかならないって玲夜を拒否したら?」
玲夜は口角を上げ、不敵に笑った。
「そんなことは関係ない。奪うだけだ」
実に玲夜らしい自信に満ちた答えだった。
「玲夜のこと嫌っていたら?」
「好きにならせる。俺には柚子が必要だし、俺以上に柚子を愛して大事にできるやつはいないからな」
玲夜に聞いたのが馬鹿みたいだ。だが、実に玲夜らしい。
きっと、恋人がいたとしても自分は玲夜を好きになっただろう。
けれど、蛇塚と梓のような関係であった可能性もあるのだと思うと、改めて玲夜と両思いでいることが、なんと幸運なことだったのだろうかと再確認する。
想い想われるこの関係は、絶対ではなかった。
だが、思う。
柚子が助けを必要としたあの夜。
もし、助けてくれたのが玲夜でなかったのなら……。
自分は玲夜ではなくその誰かを好きになったのだろうかと。
しかし、この目を前にして思うのは、玲夜でよかったということ。
他の誰でもない、玲夜だから好きになった。
あやかしだからとか花嫁だからとかではなく、苦しい時、助けを欲していた時、柚子を助け、そばに寄り添った玲夜だから好きになったのだと。
四章
本格的な講義が始まり、柚子は毎日忙しくしていた。
あれから梓とは話していない。
正直何を話したらいいか分からないというのもあった。
時々蛇塚に対して梓が声を荒らげている姿を目にしたが、間に入ると余計にこじれると思ったので、梓に置いていかれてしょんぼりしている蛇塚を慰めるに留めている。
蛇塚はなんとか梓に作られた壁を壊そうと鋭意努力しているようだが、壁は思ったよりも高く強固で、まともに話すらできていないようだ。
そんな態度に、蛇塚家の者たちは梓へあまりいい感情を抱いておらず、時に責められることもあったらしい。そんな空気がさらに梓の心を殻の中に閉じ込めてしまっているようだ。
相談に乗っているうちに蛇塚とは自然と話をするようになり、彼が見た目とは違ってとても心優しい人だと知ったのでなんとかしてあげたい気持ちはあるのだが、柚子もあまり人の心配ばかりしていられる余裕もなかった。
それというのも、花嫁は一族に大事に囲われると聞いていたので、恥をかかない程度のマナーができればいいのだろうと思っていたのだ。授業内容もそれほど難しくはないと。
だが、柚子は花嫁というものを舐めていた。
歴史から始まり、数カ国のテーブルマナー、ダンス、華道に茶道、着物の着付け、さらには政治経済、語学、護身術までと、花嫁が学ぶことは多岐にわたる。
まさか護身術の講義まであるとは思わなかったが、花嫁は時に狙われることもあるようで、いざという時に自分で自分の身を守れるようにと必須科目となっている。
実戦で逃げ方や身の守り方を教えてくれるのだが、本当に役に立つのかと疑っている。実践訓練が本当の実践にならないことを祈るばかりだ。
歴史にしても、あやかしから見た歴史と人間から見た歴史の両方を学ぶ必要がある。
礼儀作法など欠片も関わりなかった柚子には、立ち姿一つだけでも覚えるのに苦労していた。
特にあやかし学という授業は、あやかしの種類やその家の本家や分家、あやかしとしての立ち位置などを教えられるのだが、そこにはたくさんの家の名前が出てきてちんぷんかんぷんだ。
柚子よりは花嫁歴の長い透子ですら家名の多さに頭を抱えていた。
しかし、あやかしと関わる中では、この力関係というのは特に重要らしい。
鬼龍院のように頂点にいる分には分かりやすいが、例えば猫又のような場合、自分より力のある家と下にある家とでは付き合い方も接し方も変わってくるらしい。
自分より力のある家に下の家と同じような接し方をすれば、侮られたと相手を怒らせることもあるという。
なので、家名と力関係を覚えるのは最重要案件らしい。
その点で言えば、柚子はあやかしのトップに立つ鬼龍院の花嫁なので、特に区別する必要はないので助かる。
礼を重んじなければならないのは玲夜の両親ぐらいなもの。例外とするなら、玲夜の父親に継ぐ発言力を持つ妖狐の当主ぐらいだ。
そんな頭の痛い力関係はこのかくりよ学園内でも大いに関わりがある。
カフェで席を取るにしても、力がものを言う。
それを目の当たりにしたのは、桜子と大学のカフェで会った時だ。
桜子は数人の容姿端麗な男女を数人連れて歩いていたのだが、桜子の前にいた人々が桜子に気付くと左右に避けて道ができる。
昼時でカフェは混んでいたのに、カフェの中で最も日当たりのいい席は自然と人が立ち上がって桜子に差し出す。
桜子はにっこりと笑っただけで席を確保してしまった。
そして、桜子の注文を聞いたひとりが受付に走ると、そこに並んでいた者達は文句を言うでもなくどうぞどうぞと先を譲り、桜子の使いを一番に通したのだ。
最短で食事を手にしたお使いに、桜子は「ご苦労様」とこれまたにこりと微笑むだけ。
玲夜の言っていた女王様という言葉を身をもって知った瞬間だった。
確かにその姿は女王様だった。
桜子の振る舞いがというより周囲が桜子を女王様にしていた。
これはちょっと関わり合いになりたくないと思った柚子の願いは呆気なく打ち砕かれ、桜子と目が合ってしまった。
すると、桜子が食事を中断して柚子に向かってくる。
ただでさえその容姿で人目を引く桜子が、食事を中断して立ち上がったことに何事かと周囲の視線を集めていた。
そんな桜子が向かったのは、平々凡々な人間のところ。
聞き耳を立てていたのはひとりふたりではなかった。
「まあ、柚子様もお食事ですか?」
「は、はい」
「でしたら、ご一緒いたしましょう? ここより私の席の方がずっと日当たりもいいですから」
「いえ、あの私はここで十分なので」
そう言った瞬間、ざわりとざわめきが起こった。
「あの人、鬼山様のお誘いを断ったわ」
「なんて恐れ多い」
そんな声が微かに聞こえてきて断るという選択肢をなくした。
一緒にいた透子と東吉に救いの眼差しを向けたが、視線をそらされ他人のふりをされてしまった。
後ほど文句を言うと、「鬼と食事なんて気が休まらん!」とか「だってなんか面倒臭そうだし」などと言われ、今後同じことがあっても他人のふりをすると断言されてしまった。
そしてドナドナされた柚子は、桜子の向かいの席へ。
同じ席には桜子ほどではないが眉目秀麗な男女が並んでいて、あまりの眩しさに目が潰れそうだった。
美人集団の中に迷い込んだちんちくりんがひとり。
当然人目を引いた。
あれは誰だとひそひそ噂されているのを分かっていたが、桜子は気にならないのかニコニコとしている。
誰だと思っているのは周囲だけではないようで、同じテーブルについていたうちのひとりが桜子に問いかける。
「失礼ですが、桜子様、こちらのお方は? 拝見したところ人間のようですが……しかし、強い鬼の気配もいたします。もしや」
「ええ、このお方が我らの次期当主、玲夜様の花嫁の柚子様でいらっしゃいますわ」
「なんと!」
「まあ、このお方が!?」
「これは失礼を致しました」
途端に立ち上がって柚子に礼をする美人さんたちに柚子は居たたまれなくなる。
「あ、止めてください! 座って座って」
そう言うと命令を受けた兵士のように即座に座ったが、周囲の騒ぎまでは抑えられなかった。
聞き耳を立てていた学生から波紋が広がるようにざわめきが起きる。
「えっ、あの人花嫁なの?」
「鬼龍院様の花嫁だって」
「あの鬼龍院様の!?」
「あっ、そういえば俺、前に一緒にいたの見たことあるかも」
「私も。前に鬼龍院様と一緒に大学に来ていた子だわ」
すさまじい早さで噂が広がっている気がする。柚子は頭を抱えた。
「柚子様、大丈夫ですか? どこか具合でもお悪いのでは?」
「いえ、大丈夫です。精神的ダメージを受けただけなので……」
「はあ……」
桜子はよく分かっていないようだ。周囲がこんなにも騒がしいというのに。
いや、普段から注目の的になっているから、いちいち気にしていられないのかもしれない。
桜子が悪いわけではないが、できれば人のいないところで会いたかったと柚子は心の底から思った。
「柚子様、ここにいる者は皆、鬼の一族なのですよ」
同じテーブルにいる顔ぶれを見て、柚子は納得した。
桜子ほどではないが、皆、他より突出して容姿が整っている。鬼があやかしの中で最も美しいというのは間違いないようだ。
「まだ学生ですが、鬼龍院に忠誠を誓った者たちです。何かありましたらなんなりとお命じくださいね」
「あ、はは……。その時はお願いします」
もう笑ってやり過ごすしかない。
それからというもの、廊下を歩けば道が開かれ、列に並べば順番を譲られ、講義を受ければ一番前の席を勧められる。
一気に大学の有名人だ。
大学部の女王様である桜子が、会うたびに柚子に深々と礼をして柚子を立てるので、柚子はスクールカーストを駆け上がることになってしまった。
そうすると、桜子が以前忠告していたように、鬼龍院と縁を繋ぎたい有象無象が話しかけてくるようになった。それまでに仲良くなったと思っていた子からも、家に遊びに行きたいとそれはもう熱心にお願いをされる。
理由は玲夜に会うためだ。
やけに、家に玲夜はいるのかと聞かれるので間違いない。
どうやらかくりよ学園にいてもあやかしのことをよく知らない者は思いの外いるようで、特に外部から入ってきた者はほとんど分かっていない者が多い。
そんな者は花嫁がどういうものかも理解しておらず、平々凡々な柚子を見て、これなら自分が成り代わるチャンスがあるのではと思うらしい。仲良くなったと思った子にまでそういうことをされると、軽く人間不信になりそうだった。
透子と東吉という友人と子鬼たちの癒やしがなければ病んでいたかもしれない。
だが、よくよく思い返してみると、柚子にすり寄ってくるのはなぜか人間ばかり。
あやかしは過剰なほど丁寧に接してはくるが、鬼龍院と繋がろうとぐいぐい来ることはない。というか遠巻きにされている。いや、怖がられていると言ってもいいかもしれない。
なぜだろうと東吉に話すと、それは当然だという答えが返ってきた。
そもそもあやかしは、花嫁というものがどれだけ大事かを知っている。そんな花嫁にへたに近付いて不興を買えば、その後ろにいる鬼龍院を敵に回してしまう。鬼龍院の怖さをよく分かっているからこそ、必要以上の接触をはかろうとはしない。
柚子にすり寄ってくるのは、それを分かっていない無知で命知らずな人間ということだ。
「……私このまま友達できないかもしれない」
大学のカフェで、柚子はテーブルに突っ伏した。
「柚子には私がいるんだからいいじゃない」
「透子ぉぉぉ」
もう自分には透子だけだと嘆いていると、突然声をかけられた。
「なぁなぁ、お前もしかして柚子か?」
「えっ?」
急にやって来た見知らぬ男性。柚子と同じ学生のようだが、見覚えはない。
向こうは名前を知っているが、知り合いを装う新手の手法かもしれないと警戒を強くする。
「やっぱ柚子だよな! うわっ、お前この大学なの!? なんでもっと早く気が付かなかったんだろ」
「あの……どちら様ですか?」
「えっ、俺のこと分かんない!?」
横に首を振ると、相手はショックだとでも言いたげにオーバーにリアクションする。
「えー。俺はすぐに分かったのに薄情な奴」
馴れ馴れしいその男性に、透子が突っかかる。
「ちょっと、あんたさっきからなんなの? 鬱陶しいんだけど!」
と、そこで透子に視線を向けた男性は、目を輝かせた。
「えっ、お前は透子か? なんだよ、相変わらずお前らつるんでるのかよ、笑える!」
ひとり盛り上がる男性を見て、柚子と透子は目を合わせる。
「透子知り合い?」
「知らないわよ、こんな奴」
「ひっでぇ。俺だよ俺、浩介だよ! 小学校の時一緒に遊んだだろ?」
思わず柚子と透子は揃って椅子から立ち上がった。
「浩介君!?」
「うそ! やんちゃ坊主が過ぎて先生達の頭を悩ませて、心労のあまり担任に泣きながら説教されていたあの浩介!?」
「えっ、なにそれハズい。俺の黒歴史を大声で暴露しないで!」
「本当に浩介君?」
柚子は改めて男性をじっくりと見る。
浩介とは、柚子と透子と同じ小学校に通っていて一番仲のよかった男友達で、いつも三人で遊んでいたものだ。家庭の事情で、中学校へ上がる前に突然なにも言わず転校してしまってからは音信不通となっていた。
「本当に浩介なの?」
「本当だって、そんなに疑うんなら今度昔の写真でも持ってきてやるよ」
「だって、全然雰囲気違うじゃない。今どき男子になっちゃってあんたどうしたの?」
透子の疑いはもっともだった。柚子の記憶の中にいる浩介は、坊主頭のやんちゃな男の子だった。しかし、今の目の前の浩介は髪を明るい茶色に染め、ピアスをし、今どきのお洒落な男性になっていたので、言われた今もまだ半信半疑だった。
「ふふん、いわゆる大学デビューってやつだな。毎朝一時間かけてヘアセットしてるんだぜ、どうだ格好よくなっただろう」
髪をかき上げるようなポーズをつけてドヤ顔をする浩介に、透子はきつい一言を浴びせる。
「えっ、なんかキモイ」
「どういう意味じゃコラーッ」
柚子はだんだんと昔を思い出してきた。
いつもこうやって透子と浩介が言い合いをしていて、それを眺めているのが柚子は好きだった。
正直浩介は透子のことを女友達というより、男友達のように接していた。当時は透子の方が身長も高かったので、力でも透子に勝てなかったし。
「おい、柚子。こいつ全然変わってなくないか? もっと女らしくなっているかと思ったのに、柚子を見習えよ男女」
「なんですって!?」
「大丈夫、透子はにゃん吉君の前では普通に女の子になってるから」
「にゃん吉君?」
浩介は、誰それという顔をする。
「透子の彼氏」
「えっ嘘マジで!? こいつに彼氏できたの? そいつどんだけ趣味悪いんだ! 笑える、あははは……ぐふっ……」
ゲラゲラ笑う浩介のボディに透子のエルボーが入った。
「くっ、やっぱり男女じゃねぇか……」
「ふんっ」
息絶え絶えの浩介を無視して、透子は椅子に腰を下ろす。
柚子も座り直すと、その隣に浩介も座った。
「にしても変わってないなぁ、柚子も透子も。すぐ分かったよ」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「いや、相変わらずかわいいって」
浩介が柚子に手を伸ばし、頭に触ろうとしたその時……。
「あーい!」
「あいあい!」
触るなとでも言うように、子鬼が飛び出してきて浩介の手を叩き落とした。
「うわっ! ……えっ、なにこれ?」
突然現れた子鬼に驚く浩介は、目を丸くして子鬼を指差した。
「子鬼ちゃん。私のボディーガード」
「ボディーガード? いやっ、これなに!?」
「だからボディーガードだってば。玲夜が作ってくれた使役獣なの」
「使役獣ってあれだろ? あやかしが作れるってやつ」
「そうそれ。よく知ってるね」
「なんでそんなのが柚子のボディーガードなんてしてるんだよ? ってか玲夜って誰?」
訳が分からない様子の浩介に、透子が説明する。
「あんたこの大学通っているんでしょ? 噂ぐらい聞いたことあるんじゃないの? 鬼龍院の若様の花嫁がこの大学に通っているって」
「おお、知ってる知ってる。あやかしの知り合いはいないけど、人間にも噂に詳しい奴はいるからさ。すごいよな、あの鬼龍院の次期当主の花嫁だぜぇ。玉の輿だよな……ってそう言えば鬼龍院の次期当主の名前は玲夜だったような……まさか」
話しているうちにだんだん表情を変えていった浩介は、信じられないという顔で柚子を見た。
「そのまさかよ、馬鹿」
透子が呆れたようにしていると、浩介は人目も気にせず驚いた。
「ええー、マジ!? 柚子花嫁になったのか!? しかも鬼龍院って」
「ちなみに透子は猫又のあやかしの花嫁だよ」
柚子が透子の情報も付け加えたが……。
「……そっちの方には憐憫を感じるわ。かわいそうに、こんなのが花嫁で……」
「殴るわよ」
「そういうところだよ、俺がお前を男女って言うのは!」
話をしながら、柚子はすごく不思議な気分になっていた。小学生の時に別れて以来会っていなかったというのに、そんなことを感じさせないほど自然に浩介が加わっている。
「はー、時の流れは偉大だなぁ」
しみじみとする浩介はなんだか年寄り臭い。
「そんなあんたこそ、どうして急にいなくなったのよ。私たちにひと言ぐらいあってもよかったんじゃないの?」
透子がジトっとした眼差しで文句を口にする。
仲のよかった友人がなにも言わずいなくなったことに、柚子も透子も当時はかなりショックだったのだ。
「仕方ないだろ。ちょっと家庭の事情で夜逃げ同然に引っ越して、お前たちに言う暇なんてなかったんだから」
「でもその後電話ぐらいできたでしょう?」
「薄情者め。あんたはそういう奴よね」
柚子と透子で責めると、浩介はたじろいだ。
「いや、その後は電波も繋がらないような山奥に行かされていたから連絡手段がなかったんだよ」
「海外でも行っていたの?」
「いんや、日本だけど、すっごい僻地」
「どうしてそんなところに?」
「ふっふっふっ、それは機密情報だ」
「あっそ」
透子は一瞬で興味をなくしたようだ。
「なんだよ、透子は冷たいよなぁ。……それにしても残念だ。すんげぇ残念だわ」
「なにが?」
「だって柚子が花嫁になってるなんてよ。知ってるか? 俺柚子のこと好きだったんだぜ」
「へぇ、浩介の分際で厚かましい」
透子から冷たい眼差しが浩介に向けられる。
「なんだよ、好きになるのは自由だろ。……今からでも遅くないから鬼なんて止めて俺にしとかないか? やっぱり人間は人間同士の方がいいって」
本気なのか、冗談なのか、浩介の顔からは判別がつかない。柚子がなにかを答えようとする前に透子が切り捨てる。
「あー、無理無理。若様とあんたじゃスペックが違いすぎるもの」
「そんなの分からないじゃんか」
「分かる分かる。比べるまでもないわ。来来来世に期待しなさい」
「来来来世って……。そこまで言うか? 柚子はどうなんだ。そいつのこと好きなの?」
「うん。玲夜のことは好きよ」
即答する柚子に、浩介は大袈裟に嘆いた。
「がーん。ショックだ。再会直後にフラれたぁぁ」
「身の程をわきまえないからよ」
「透子、お前はほんとに昔っからひと言多いんだよ。そうだよ、覚えてるか? 遠足のあの時だってお前がさ……」
それから、柚子たちは久しぶりの再会を懐かしみながら昔話に花を咲かせた。
話題は尽きなかったが、次の講義の時間が迫ってきたため、浩介とは連絡先を交換して別れた。
その日の講義を終えた柚子は、上機嫌で屋敷に帰った。
それは傍目にも明らかで雪乃にも分かったようだ。
「なんだか今日の柚子様はご機嫌ですね。いいことでもあったのですか?」
「今日、昔の友人と久しぶりに会えたんです。同じ大学に通っていたみたいで。もう会うことはないと思っていた子だったので嬉しくて」
「まあ、それは奇遇ですね。きっと離れていても縁は繋がっておられたのでしょう」
「そうかもしれないですね。ずっと会ってなかったのに、全然そんな気がしなくって」
その時、柚子のスマホが鳴った。表示されたのは『浩介』の文字。柚子は迷わず電話を取った。
「もしもし?」
雪乃が気を利かせて部屋から出て行く。
『おー、柚子か?』
「うん。どうしたの?」
『いや、なんだか今日のことが信じられなくてさ。この番号ほんとに合ってるかの確認』
「なにそれ」
柚子はくすりと笑う。
『だって何年ぶりだと思ってるんだよ。久しぶりに会ったと思ったらふたりともあやかしの花嫁なんかになってるしよ。驚くだろ普通』
「まあ、確かに」
柚子が逆の立場でも驚くだろう。
「でも、花嫁じゃなかったら浩介君とは会えなかったと思うよ。あんな入学金も授業料も高い大学、私じゃ払えないもの。もともとは遠くの大学受ける予定だったし」
『ふーん、そうなのか……』
少しの沈黙の後、浩介が切り出した。
『親と妹とは相変わらずなのか?』
仲のよかった浩介は、柚子の歪んだ家庭のことを知っていた。
まだその頃は、柚子も両親への期待を捨てきれず、それ故に悲しんでいた。
時にそれを透子や浩介に相談しては、慰められていたものだ。
「もうあの人たちとは縁を切ったの。だから今は玲夜の家で暮らしてる。だからあの人たちが今どうしてるかは知らない」
どこか遠い地へ送られたことは玲夜から聞いたが、それがどことは玲夜は言わなかったし、柚子もまた聞かなかった。聞く必要はないと思ったのだ。もうあの人たちとは袂を分かったから。
『お前はそれでよかったのか?』
「うん。浩介君がいた頃はまだ淡い希望を持っていたけど、両親も花梨も変わらないってことが分かったからもういいの。それに、私には玲夜がいるから」
『……そうか。柚子が決めたなら俺が口出す話じゃないよな。悪い。嫌なこと思い出させたかも』
「ううん。心配してくれてありがとう。あの頃透子と浩介君がいてくれたから頑張れたもの」
『あーあ、どうせなら俺がヒーローみたいに格好よく柚子を助けられたら、柚子は俺に惚れたかもしれないのに。残念』
暗い雰囲気を吹き飛ばすような冗談交じりの言葉に、柚子はクスクスと笑う。
「気持ちだけで十分。それに、あの頃は私も浩介君のこと好きだったのよ?」
『うっそ、マジで!?』
「本当。なのに急にいなくなっちゃってすごくショックだったんだから。初恋だったのに」
当時、最も仲がよかった異性。やんちゃな男の子だったが、柚子にはとても優しかったのを覚えている。そんな浩介に柚子は淡い恋心を抱いていた。
今となっては子供の頃のいい思い出だ。
『えー、マジかよ。それならさっさと告っとけばよかったー』
「ふふふっ。そしたら今頃玲夜じゃなくて浩介君と恋人だったかもね」
だとしても、以前に玲夜が言っていたように、柚子に恋人がいても玲夜は浩介から奪い去っただろう。
そう思うと、修羅場にならなくてよかった。ボコボコにされる浩介の姿しか想像できない。
「……あっ」
ふと視線を扉に向けると、玲夜が立っていた。
いつからいたのだろうか。柚子が電話をしていたので、声をかけられなかったのかもしれない。
だが、どうにも様子がおかしい。
『柚子?』
電話の先から浩介の声が聞こえてきて、意識が戻される。
「ごめん、浩介君。もう切るね」
『おー。また時間があったら話しようぜ』
「うん。じゃあね」
急いで電話を切り、スマホをテーブルの上に置くと玲夜のところへ向かった。
「おかえりなさい」
「ああ」
やはりおかしいと柚子は思う。いつもなら笑顔で柚子に返事をするというのに、今の玲夜はなんだか怒っているようなピリピリとした空気が出ている。
「……玲夜?」
なにかあったのかと首を傾げると、玲夜の手が柚子の顎を捕らえた。
まるで目をそらすことを許さないかのように。
「今の電話は誰だ?」
「電話? 友達だけど?」
「男か?」
「う、うん。小学生の頃の友達でね、何年も会ってなかったんだけど今日大学で会ったの。すごい偶然でしょう! 昔は透子と三人でよく遊んでてね。懐かしくって話が弾んじゃって、あやうく講義に遅れるところだったの」
嬉しそうに顔を綻ばせて話をする柚子に、玲夜はなにを思ったのか、突然のキス。
柚子はびっくりするが、抵抗はしなかった。
すぐに唇は離れたが、やはり今日は機嫌が悪そうで、柚子も対応に困る。
「その男のことが好きだったのか?」
「えっ、聞いてたの? 恥ずかしいなぁ。小学生の時の話だよ」
そういうと、さらに玲夜の眉間に皺が寄る。
「玲夜?」
「その男のこと、まだ好きなのか?」
「えっ、まさか。子供の頃の話だもん。今は玲夜がいるじゃない」
なにを当たり前のことを聞いてくるのかと不思議に思っていると、急に玲夜の表情が穏やかになった。
「そうか」
「……もしかして、玲夜焼きもち焼いた?」
そんなまさかねと思っていると、今度は深く唇を合わせられる。
「……っ」
「……お前は俺のものだ、柚子。誰にも渡さない」
「うん……」
「柚子の初恋だなんて、聞いただけで相手の男を殺したくなる」
不穏な言葉に柚子はぎょっとする。
その声があまりにも真剣だったので、余計に怖い。
「む、昔の話だから! 今は玲夜だけだもの」
「今は、という言い方が気に食わないな。昔は違うということだろう」
「だって、その頃は玲夜と知り合ってもいないし……」
「過去も未来も柚子の男は俺だけでいい」
「そんな無茶な」
今日の玲夜はなんだか子供っぽい。小さな子供が駄々をこねているようだ。
「その男とは今後一切話すな」
「えー、それは……」
「嫌なのか?」
「だって数年ぶりに会えた友達だもの」
「だが、そいつも柚子に好意があるんじゃないのか?」
「うーん、そういえば好きだったって言われたかも」
さらに、玲夜を止めて俺にしとかないか、的なことも言われた。
「そいつの名前は?」
「な、なんで?」
玲夜の紅い瞳に危険なものを感じ取った柚子が問い返す。
「二度と柚子の前に現れないように潰しておく」
「駄目駄目、それ駄目!」
それは絶対に阻止しなければならない。
「……冗談だ」
いや、目はマジだった。とても冗談という雰囲気ではなかった。
今度浩介に会ったら、夜道は気を付けろと忠告しておいた方がいいかもしれないと柚子は思った。
「柚子は俺の花嫁だろう?」
「うん」
「他の男に目移りするなよ?」
「するわけないじゃない。私が好きなのは玲夜だけだもの」
玲夜の心配はまったくもって無駄なことだ。
確かに過去淡い恋心を浩介に抱いていた柚子だが、今や柚子の心の中は玲夜がすべてを占めている。目移りなどするわけがない。
辛い時に側にいてくれた玲夜。
苦しい生活から救い出してくれた玲夜。
誰よりも己を大事にしてくれる玲夜。
玲夜以上の男など現れるはずがないのだ。
今度は柚子の方からキスを贈る。
そうすると、ようやく玲夜の機嫌も直った様子。
お返しとばかりに、キスの雨を降らせる玲夜に、柚子は身を任せた。