六十三話 見覚え
煎十郎は、いつもの大きな箱を背負い、時雨と共に小田原城へと向かっていた。むろん小太郎の指示である。小太郎は小田原城上空に八犬士が現れたとの報せが届くとすぐに城に向かったが、暫くしてしてその小太郎からの使いが風魔屋敷に来て、煎十郎に本丸で負傷者の治療にあたるようにとの指示が連絡組よりもたらされた。どうやら八犬士との戦には勝利したものの、北条方の守備兵にかなりの負傷者がでたらしい。北条に医者がいない訳ではないが、小太郎としては少しでも氏康の印象を良くしておきたいという考えなのであろう。
時雨と言葉を交わして心が落ち着いたのか、夕刻より眠りについていた煎十郎だったが、この報せに飛び起き、仕度を整えてくれていた時雨をともない、本丸への道を急いでいる訳である。
ただ、箱が少々重い。煎十郎が書き上げた書までもが詰め込まれているせいである。時雨曰く、静馬から火急の報せが届きし時は、この書も持たせて出立させよと言われていたものらしい。静馬の考えは煎十郎には想像もつかないが、彼がそういう指示を時雨にだしていたのなら、なんらかの意図があるのだろう。
もうすぐ二の丸に続く銅門にたどり着こうという所で、大きくて白い毛並みの犬が二の丸方面から現れ、驚くべき速さで、二人の横を駆け抜けて行った。
「煎十郎殿! あの犬、怪我人を背負っていたようでございます!」
犬が消えた闇を指さしながら時雨が叫ぶが、煎十郎からの返事が返ってこない。
「煎十郎殿?」
時雨の声が届いていないのか、煎十郎は犬が飛び込んでいった闇を呆然と見つめていた。
再び時雨が声をかけようとしたのを遮ったは、背後から聞こえた数人の足音である。
「お前たち! 犬を、犬を見なかったか!」
先頭を走っていたのは小太郎だった。二人の風魔衆を引き連れ鬼のような形相でこちらに駆けてくる。
「白い犬だ! 人を背負っていたであろう! どちらへ行った!」
「お、大手門の方に……。父上、いったい何が……」
「説明している時はない! お前たちは早く本丸へ行け!」
怒鳴りつけるようにそう言うと、小太郎達も闇の中へと消えて行く。
「いったい何ごとでございましょうか?」
「……八海……」
そう呟いた煎十郎が、突如走り出した。本丸にではない。犬の消えた先に向かってだ。
「煎十郎殿!」
時雨も慌てて後を追う。
二人が大手門へとたどり着いた時には、大手門の見張りの者達がざわついていた。
聞き耳をたてれば、あんな大きな犬は初めて見ただの、最近風魔がでかい面をしているだのそんな言葉が聞こえてくる。どうやら人を担いだ犬も、小太郎達もすでに大手門を抜けた後のようである。
大きく肩で息をしながら、悲壮な顔つきで大手門を見つめる煎十郎に、時雨は堪らず声をかける。
「煎十郎殿、いったいどうなされたのですか? 先ほどの犬に心当りでもおありになるのですか
煎十郎は答えずに歩きだす。そのまま、番兵に頭を下げ大手門を抜ける。
「……似ていたのです」
城下町に向かって歩く二人の身体を、降り出した雨がうっすらと濡らし始めた頃、煎十郎は思い出したかのように時雨の問いに答える。
「あの犬が……私のよく知る犬に……」
あの犬は、日本でよく見かけられる犬とは明らかに違う。体躯は日本の犬よりはるかに大きく、耳がどこにあるのかわからぬくらい豊かできれいな白い毛におおわれていた。
煎十郎はその犬によく似た犬を見たことがある。それどころか、共に生活をしたことさえ……。
そして顔こそ見えなかったが、先程の犬が背負っていた者の体格は、煎十郎がよく知る人物に似てはいなかったか?
煎十郎は言葉にだせぬ不安に襲われた。怪我人のことも、これからのことさえも頭からすっぽりと抜け落ち、あの白い犬を追いかけたい衝動に駆られる。だが、それはできる筈もない。煎十郎は本丸に仕事がある。なかったとしても犬はもちろん小太郎達にも追いつけない。
「おう。二人ともこんな所にいたか。これは丁度良かった。屋敷に迎えに行く手間が省けたな」
当てもなく雨に打たれながら歩いていた二人に陽気な声がかかる。
「静馬さん?」
「兄様?」
二人が揃って顔を向けた先には、馬を二頭ひいて歩く静馬の姿があった。
「迎えにとは? いったいどうなされたのですか?」
時雨の問いに、静馬は一頭の首筋を叩きながら答える。
「うむ。実は最後の八犬士にまんまと逃げられてのう。相手は犬に乗っておってな。頭領たちが馬鹿正直に追っておるが、じきに見失うであろうから、探すのをお前たちにも手伝ってもらおうと思ったのだ。人手は大いに越したことはない。蟒蛇にも頼んだのだが、あやつ首を強く捻られたとかで、しばらく大人しくしているそうだ」
唐突な静馬の依頼に時雨は困惑する。
「い、いえ。兄様。私達はこれから本丸に戻り―――――」
「行きます! 手伝わせてください! 拙者もあの犬を見つけたいのです!」
もしかしたら、そこに親友がいるかもしれないのだ。煎十郎が初めて小太郎の指示以外のことを優先させようとしている。珍しい煎十郎の剣幕に、静馬は目を大きくし、時雨はすぐさま手のひらを返す。
「行きます。兄様、一頭は私達が使わせて頂いて宜しいのですよね?」
「お、おう。時雨はともかく、煎十郎が乗り気になってくれるとは思わなかったな。助かる。頼むぞ」
若干引き攣った笑みを浮かべ、一頭の手綱を時雨に渡そうとする。
「お待ちください。八犬士の追跡、是非私もお連れくださいませ」
乙霧である。少しばかり変わった形状の傘を差し、悠然と建物の陰から進み出て来る。
「乙霧殿。貴殿はもう充分に役目を果たされたと思うが……。もしかして、貴殿も最後の八犬士に興味があるか?」
静馬の問いに、静馬にはさして効果がないのだろうと思いつつ、乙霧は妖艶に微笑む。
「ええ、静馬殿と同じでございます。『呪言』を生みだし、ここまでの計画を立てた相手……。是非ともきちんとご挨拶したく……」
「そうか。まぁ、拙者としては助かるな。これでかの犬を見失うことはなかろう」
静馬の言葉に乙霧は不思議そうな顔をする。
「あら? 私はあの犬の行方など存じませんよ?」
静馬が声をあげて笑った。
「なにを言われる。貴殿には、一夜の眼があるではないか」
そう言ってあらためて時雨に手綱を渡し、乙霧を後ろに乗せるよう指示すると、自身は煎十郎を後ろに乗せ、ゆっくりと馬を走らせた。
六十四話 愛する父
彼女はこれまでにない程、身体を軽く感じていた。まるで自身の名前のように、風にでもなったかのようだった。道を阻もうとする者は躱し、追いかけようとする者は置き去りにし、彼女は小田原を脱出した。
人ひとりを背負って走る彼女の姿を見たものは、とても彼女が瀕死の重傷を負っているとは信じることはできなかったろう。
彼女は高所から落下した彼女の大事な主人を、身を挺して庇《かば》った。
落下した主人の体を受けた彼女の骨は折れ、彼女の内臓をいま生きているのが不思議な程に傷つけている。
小雨が降り出す中、一度海岸方面へと出た彼女は、途中で進路を変え、小田原の北を大きく迂回し、山林へと入った。
一目散に安房を目指したかったが、安房まで自身の体が持つとは思えない。そこで、目立つ海岸沿いを避け、山に一度身を隠し、背中で眠る大切な主人に、体力を回復する時を与えることを選んだ。本来ならありがたくない雨も、今は熱くなりすぎた主人の体にはありがたい。しばらく時を稼ぐことができれば、自力で安房に戻る体力を取り戻してくれる可能性はある。
何とか安房へ帰してあげたい。愛しき主人であり、父でもあるこの人を。己を彼女の母の仇だと、胸の内で責め続けている悲しいこの人を。
彼女はこの世に生を受けて、まだ一年に満たない。体はわずか半年で大人と同等の大きさに育つ。たくさんの人の愛に包まれ、健やかに育った彼女だったが、育ててくれた人たちは、決して恵まれた環境にはいなかった。
父がその環境を変えるために旅立つ日、彼女は父の命に逆らい、父たちを追いかけ、船に飛び乗り、無理矢理に同行した。
あそこで別れていたら、二度と会えないというのがわかったからだ。二度と帰らない父を待ち続けるくらいならば、最後の日を共にしたい。きっと亡き母も生きていたとしたら同じ道を選んだろう。
母もまた彼女と同じく、命を捧げるほどに、主人のことを愛していたのだから。母が主人と府内という地から、主人の故郷である安房に来たのは二年ほど前。
到着してまもなく母は彼女を身籠った。父親はどこの馬の骨とも知れぬような者ではない。母を身籠らせたのは主人であったのだ。
主人は八犬家に戻る前に、安房の四方に安置されていた仏像の目に使われていた八つの珠を回収した。はるか昔に力を失ったというその珠は、主人が回収した時には、少しばかり力を取り戻していた。ただ、光を取り戻してはいたが、珠に浮かび上がっていた文字は、初代達が神通力が如き力を振るった際に浮かび上がっていた『仁義礼智忠信孝悌』の八字ではなく、その前に浮かび上がっていたという『如是畜生発菩提心』の八字であった。
主人はこれを、義堯の八犬家に対する怨みが晴れていないことの証しであり、八犬家に向けられた呪いであると判断する。
死んでいる者の怨みであれば供養もできようが、生きている人間。しかも主人の主人になる相手からの怨みでは、こちらが死ぬ以外に晴らす術が思いつかない。
そこで主人は、この珠にかかった呪いを疑似的な方法で解こうと考えた。八つの珠が産まれた時の状況を、自ら作りあげようとしたのである。
主人は母を連れ、かつて初代八犬士が隠棲した地であり、八犬士の魂の両親ともいえる八房と伏姫がこもった地でもある、富山の地に入山した。
主人は母の食事に八つの珠を混ぜ込み、母に飲み込ませ、かつて伏姫がしたように、毎日母と一緒に暮らしながら法華経を読経し続けた。
富山という地が霊的な力に恵まれた地であったのか、呪いの力がそうさせたのか、二人の生活が一ヶ月を過ぎたある日。母の腹が膨らむ。母は愛する主人の気を受けて懐妊したのだ。
主人は狼狽する。自分でこの行為を始めたものの、本当に母が懐妊するとは思っていなかったのであろう。八犬家を救わねばならぬという重責を背負いながら、その方法が見いだせず、藁にもすがる思いで、この行為におよんだのだ。まさにこれは、奇跡とも呪いとも呼べる出来事。
己の懐妊を悟った母は、両膝をついて母を見つめたまま固まってしまった主人の腰から、主人の刀を引き抜き主人の前に置いた。
母は聞いていたのだ。主人とその友人との長崎での生活の中で。初代八犬士の活躍の物語を。
主人は震える手で刀を手に取った。
母は大地を背にして寝転がり、服従の姿勢を父にとる。
主人は血の涙を流し、嗚咽を漏らしながら母の腹を裂いた。この時の主人の姿を、母は、彼女は一生忘れない。
主人は母の腹に手を入れ、珠を取り出した。取り出した八つの珠は真ん中からきれいに割れ、十六の半珠となって主人の手におさまった。
そのうちの半分は、父の一縷の望みに応え、『仁義礼智忠信孝悌』の文字を宿していたが、もう半分はこれまで通り、『如是畜生発菩提心』の文字を宿したままであった。
唖然として半珠を見ていた主人がはじかれたように顔をあげ、すでに息を引き取っていた母の腹に耳をあてた。
主人は聞いたのだ。死の国へと旅立った母の腹から、生命の息吹が吹きすさぶのを。
主人が半珠を置き、もう一度母の腹に手を入れる。次に引き抜いた時には主人の手の中で産声をあげる彼女がいた。
この時、彼女は喜びのあまり鳴いていたのだ。これでまた、愛する主人のために命をかけて働くことができると。彼女は彼女でありながら、母でもあった。母の記憶と想いを引き継ぎ、新たな命としてこの世に誕生したのである。
すでに東の空から陽が顔を出しはじめ、長き夜は終わりを告げた。
主人を背負い、走り続けていた彼女が血を吐きだす。いよいよ最後の時が近づいている。
だが、もう少し。彼女の鼻と耳は、いま目の前に広がる森の向こうに川の存在を感じ取っている。
彼女が森に足を踏み入れてから程なくして、彼女は崖に行き当たった。彼女の鼻が嗅ぎ取ったのは、この崖の下を流れる川のものであった。彼女は崖へと向かって、地面を踏む足に力を入れゆっくりと歩く。
川を見下ろせる崖の端まで進み出て、彼女は歩みをとめた。そこから、前を向いたまま、慎重に後ろにさがり始める。その足を、前に進むときにできた、彼女の足跡にしっかりと踏み合わせて退く。
その状態で彼女は森の中まで戻り、そこから彼女は残された力を振り絞り、驚異的な脚力で、主人を乗せたまま遠く離れた藪の中へと跳びこむ。そこからさらに、藪の奥へと這うように入り、藪の背丈が彼女をすっかりと覆い隠せるところまで来ると、主人を丁寧におろした。雨のおかげで少しだけ息が整った主人の体に、その雨と追手から守るために覆いかぶさる。ここまでしてもあの人ならきっと見つけてくれる。主人と主人の妹と同じ匂いのした彼女なら、主人を必ず助けてくれる。
安心し目を閉じた彼女の顔は、まるで天女の微笑のようであった。
六十五話 潰えぬ野望
「そうか。では八犬士を背負った犬は、小田原を逃げだし、玉縄城へと向かったのだな」
「はい。ただでさえ目立つ犬なので、それは間違いございませぬが、捕えようにもすばしっこい奴で……」
小田原から滝山城方面へと続く街道で、四人の風魔衆ともしもの時の為の網を張っていた逆鉾は、小田原から八犬士の生存と逃亡の報せを持ってきた風魔衆の報告に、もったいぶって頷いて見せる。
「よいよい。聞けばその犬も手負い。捕まえることができずとも、疲れさせればそれでよい。
よし、誰かひとり頭領のもとへ走り、このことを伝えよ。犬はそのまま海にでるか、小机方面へ走り抜ける可能性が高いとな」
言われた風魔衆は首をかしげる。
「よろしいのですか。頭領が八犬士を捕えるような事があれば……」
すでに逆鉾が、今回の戦いの責を小太郎に問うことは、乱波衆のほぼ全員に伝わっている。少なくともいまのところそのことに反対する者は出ていない。逆鉾が想像していたより、いまの小太郎の方針は、若い風魔衆、特に命懸けで務めを果たしている乱波衆の間では、かなりの不満となって蓄積していたのである。
「問題はない。主人を背負って逃げるほどの知恵と忠義を持つ犬ぞ。奴を犬と思うな。お主らが思っておるよりもはるかに賢い。いかに走りやすくとも見通しの良い土地を走り続けたりはせん。さすがに人ひとり背負って、手負いの犬が海は渡れまい。仮に安房へと続く街道を走り続けたならば、引きあげてくる氏政様の軍勢と鉢合わせ。あそこには般若がおる。奴も八犬士との争いは知っておるからな。そんな珍妙な犬を見逃す男でもない。ようは頭領が八犬士に到達せねば良いのだ」
「なるほど。それでは拙者が頭領のもとに走りその旨お伝えします」
「我々はこのまま滝山城を目指すということでよろしいのですか?」
逆鉾の後ろに控えていた者が問う。
「うむ。ただ目的はその前に広がる深き森よ。犬の怪我の具合にもよろうが、八犬士の身体は『呪言』とやらのせいで、すでにぼろぼろ。犬の背で揺られながらでは、安房まではちと厳しいようじゃ。どこかで体力を回復させる必要がある。それに都合が良いのが玉川にほど近い森じゃ。
いまは幸いにも道が柔らかくなっておる。足跡じゃ。奴の足跡は並の犬よりはるかに大きい。街道からそれて森へと入る犬の足跡を見逃すな!」
さも自身が考えついたかのように逆鉾は語ったが、全ては静馬が逆鉾に語って聞かせたことである。もちろん時間がそれほどあった訳ではないので、静馬はかなりかいつまんで自身の考えを聞かせたわけだが、かつてはいまの小太郎と頭領の座を争った男。それなりの察しの良さは持っている。
小太郎への伝令が走ると、逆鉾達も街道の周辺での探索を強化すべく行動を開始した。
―――――――――――
あと一刻もすれば、夜が明けるだろう時刻になって、伝令の風魔衆により、犬が走る方向を玉縄城のある東から、滝山城のある北西へと変えたことを知る。
足跡を注視させる探索が功を奏し、逆鉾達は玉川の上流域にほど近い森に面した街道で、森へと続く白犬のものと思われる大きな足跡を見つけていた。
「目撃証言とも一致します。白犬はここから森に入ったと思われます」
途中合流した女の乱波衆三人のうちの一人が、雨に負けじと燃え盛る松明の炎を、地面についた犬の足跡から、足跡の続く木々が鬱蒼と生い茂る森へと向ける。
ここに女の乱波衆をわざわざ里から呼び寄せて合流させたのは、もちろん静馬からの進言である。
小太郎に手柄を立てさせようとする一夜の女への対策ということであったが、逆鉾にはいまいち意味がわからない。ただ、ここまで静馬の予測通りに事が運んでいる。知恵の働く男だとはわかってはいるから、あえて逆らう必要もないと逆鉾は割り切っている。
「よし! わしらもこれより森に入る。各々火を持て。草の根を掻き分け、奴の痕跡を見逃すな」
「火をつけたままでは、我らの動きに気づかれるのでは?」
「構わん。相手は犬。我らより鼻も耳も利くのだ。隠すだけ無駄だ。それよりも奴は手負いだ。追われていることを常に意識させ追いつめよ。その方が早く限界をむかえよう。
それから、お前はそこの木に登り街道を見張れ。あと半刻もすれば、静馬達が馬に乗ってここに来る筈。奴らの姿が見えたら、目印を置いておくゆえ、それを回収しながらすぐに報せに来い」
逆鉾がそう言いきると、見張りの一人を除いて全員が手に松明を持ち、藪を切り払いながら、犬の足跡を追う。
空が明るみを帯び、松明の効果が意味を失くし始めるころまで続いた犬の捜索は、深い森を抜けた場所で終わりを迎えることとなった。
そこは崖。崖下に玉川の流れが見える。犬の足跡は、その崖の端まで続いていたのである。
「どうやら、逃げることに必死になるあまり、川に落ちたようですな」
崖の下を見下ろす風魔衆の言葉に逆鉾は答えず、しゃがみこんで犬の足跡に松明を近づる。はっきり言ってなにもわからない。とりあえず三人を川下に走らせ、残りの者達には周辺の探索を命じる。
逆鉾は自身も探索をしながら、静馬到着の報が届くのをいまかいまかと待っていた。逆鉾個人としては川に転落したというのを信じても良かったが、静馬は自信ありげに、犬と八犬士は森に潜むと言っていたのだ、そしてそれを見つけてのけるのは、あの乙霧と言う一夜の女だと。
四半時も捜索を続けた頃、遂に見張りとして残してきた風魔衆が、待ち人来るの報せをもたらした。
「いかがいたしますか。こちらに案内いたしましょうか」
「いや、その必要はない。案内しなくともこちらの後を追ってのけるそうだからな。皆、捜索を打ち切れ。川下に行った者達にもも伝えよ。こちらに戻り息を潜めよとな」
そう言って、逆鉾はほくそ笑んだ。彼の眼にはすでに、風魔の新しき頭領となって号令をかける自分の姿が見えていた。
六十六話 追跡
「ところで、どこへ向かうのですか? あの犬がどこへ向かったのかまったく見当もつきませんが」
後ろに乙霧を乗せ馬の手綱を取る時雨が、横で同じように後ろに煎十郎を乗せ馬を走らせる静馬に尋ねる。
「ああ。町の出入りを見張っていた者の話では、海岸沿いへ向かって走ったようだ。玉縄城への街道に入ったとみて間違いないだろう」
「玉縄城? あれでも、静馬さん。いま走ってるのって……方角が違いませんか?」
「ウフフ。静馬様は、あのお犬様が途中で目立たぬよう、こっそりと進路を変えるとお考えなのですよ。私も同意見でございます。あのお犬様はたいそう頭が良いように見受けしました。たんに忠犬というだけでは、高所から落ちた主人の下敷きとなって衝撃を和らげ、さらには背負ったまま人の囲みを突破するなどという芸当はできますまい。おそらく己の身体、主人の身体、様々なことに思いを巡らせ、そのまま海岸沿いを走るということはないと考えます」
煎十郎の問いに笑顔で答えた乙霧に、前で手綱をとる時雨が顔をしかめながら話しかける。
「なるほど。そういうことでございますか。……ところで乙霧殿、あの……少しその……臭うのですが……」
「ああ。申し訳ぼざいません。燃え尽きる前にと、本丸から落ちた八犬士の死体を検分しておりましたもので。おかげで良いものが手に入りました。……一夜の調べでは、かの者達は里見の姫君達の血を引き、いま追っている者程ではないにしろ、整った顔立ちをしていたそうにございます。それがわずか一年にも満たぬ間に化け物へと変じた。『呪言』……実に興味深い。ウフフ」
「ふむ。いったんお喋りはここまでとしようか。乙霧殿、雨が降っているゆえ、少しばかり見にくいが、なにやら前方で光が明滅しておる。一夜からの報せではないのか?」
静馬に言われ、乙霧が時雨の肩越しに前方を確認する。確かに静馬の言う通り、前方の闇の向こうで光が明滅を繰り返していた。
「本当に目ざとい方でございますね。音と光はどんな生き物より早く走る。そのことを頭に叩き込まれている一夜の者でなければ、見落とすような光なのでございますが……」
半ば呆れるように言いながら、乙霧は光から眼を離さない。
「……犬が進路を変えたようにございます。やはり滝山、もしくは八王子……細かなことはまだわかりませんが、小机や海に向かってはいないことは確かなようでございます」
「そうか。そちらの方面は、すでに逆鉾様が網を張り巡らしてくださっているはずだ。犬が潜伏する大まかな場所は、彼らが掴んでくれよう」
「……準備のよろしいことで」
「ハハハ。一夜の貴女にそのように言っていただけるとは光栄だな」
煎十郎と時雨が、静馬と乙霧の狭間の空間に眼をやる。二人の間に、眼に見えぬ火花が散っていたように感じたのだ。ただ、幸いにもと言うべきか、それからは特に会話がなされることもなく、時折見える、一夜からの報せの光に導かれるようにして、遂に四人は逆鉾が率いる風魔衆が、犬を追って森に入ったと思われる場所に到達した。
「……煎十郎、お前は乙霧殿と風魔衆と合流してここで犬を探せ。俺は時雨とここからもう少し川を下った所を探ってみる。足跡が残っていることは犬も承知していよう。わざとここまで残し、川をくだることも考えられるからな」
「え? しかし、乙霧殿は……」
「そうです! 私もここで!」
「逆鉾様には里からも増援を呼ぶよう進言してある。その中には女も含まれていようからな。時雨が残らずともその者たちに任せれば、男どもも不用意に乙霧殿には近づくまい」
異論を唱える煎十郎と時雨に、静馬がぴしゃりと言い放つ。乙霧は口を挟まず、静馬を訝しげに見つめているだけだった。
煎十郎と乙霧が馬から降りると、静馬は名残惜しそうに何度も振り返る時雨をせかし、玉川の下流へと馬を走らせる。
二人はそこからそう遠くない所で川辺へと下りられそうな所を見つけ、馬を降りて街道脇の木に馬を繋いだ。
雨はすでにやんではいたが、辺りは朝もやに包まれ、見通しが悪い。だが、静馬は臆することもなく川辺へと歩く。時雨も黙ってそれに従う。
川は昨夜からの雨で、多少水嵩を増しているようだった。
静馬は川の流れを遡るように、視線をゆっくりと正面の川の流れから上流へと向ける。
「もう少し上流に向かっておくか……時雨、ここより先はお前が先を行け」
「は?」
「俺の前を歩けと言ったのだ」
いつになく強い静馬の口調に、時雨は疑問を抱きながらも不承不承頷いた。
二人は時雨を先頭に、川沿いを上流へと向かって歩きはじめる。
百歩ほど歩いた頃だろうか、静馬が時雨の背中に語りかける。
「時雨、そのまま振り向かずに聞け」
「は、はい」
静馬の様子がおかしいと感じつつも、時雨は静馬の言葉に従う。幼き頃から築かれた信頼関係は、一時の違和感如きでは覆らない。煎十郎も同様だが、それだけ静馬に対する信頼は深い。
「事がここまで及んでは、お前が煎十郎と結ばれる可能性は万が一でしかない」
冷たく言い放たれた言葉に、時雨は思わず振り返りそうになる。
「振り向くな! そのまま進め」
時雨の肩がびくっと震えた。震えがやむと、時雨は恐る恐るといった感じではあったが、また歩み始める。同時に静馬がまた語り始める。
「仮にお前が煎十郎を連れ、風魔の里から逃げたとて、お前たち二人ではすぐに見つかる。お前では煎十郎を頭領から守りきることはできん。頭領は風魔衆の命を全て風魔衆の為に使いきる。そういう方だ」
時雨の首が力なく垂れる。それでも歩みだけは止めなかった。
「お前、煎十郎が一夜に婿に行った後はどうする? 恐らく頭領はお前を嫁にだそうとするだろう。風魔の為にな。大人しく嫁にいくか?」
「行きませぬ!」
即答であった。
「相手が煎十郎殿でないのなら、誰にも嫁ぎませぬ! ……例え相手が兄様でも、私は嫁にはいきませぬ!」
依然下を向いたままの時雨ではあったが、言葉はこれまでよりも強い意志が込められているように、静馬には聞こえた。
「そうか。俺でも駄目か」
静馬の声はどことなく嬉しそうである。
「……自害いたします。例え誰になんと言われることになろうとも、私が夫と認めるのは、後にも先にも煎十郎殿ただ一人。煎十郎殿の元に嫁げないのなら、私は……この先を生きるつもりはありませぬ。もとより、煎十郎様がいなければ、尽きていた命です!」
雨がやんだというのに、いつの間にか時雨の足先がまた濡れていく。
「……懐かしいな。お前が幼き頃に、原因不明の高熱を出した時だったか。小太郎様も俺も、誰もが諦めた中で、煎十郎だけが諦めず山へと分け入り、寝物語に聞いたような、あやふやな話を頼りに薬草を探し出し、お前に煎じて飲ませた。あの時はまだ、医学を学ぶ前であったのになあ」
静馬のしみじみとした言葉に時雨は頷く。
「はい。忘れはいたしませぬ。あの時より私の命も心も煎十郎様だけのもの。他の誰にも渡しはいたしませぬ」
「……そうか」
静馬が腰に差した刀の柄に手をかける。
「時雨。そこまで覚悟を決めておると言うのなら、もう何も言わぬ。ここで……死ね」
チンという短く冷たい音が響いたかと思うと、水面で魚が跳ねた。
六十七話 最後の八犬士の正体
「煎十郎様は、あの犬……というよりあの犬が逃がした八犬士にお会いしたいのでございますね?」
静馬達の乗る馬が走り去ると、相変わらずの距離を保ったまま、乙霧が煎十郎に問う。
「……もしかしたら、友かもしれぬのです。拙者が南蛮の医術を学んだ府内で、共に過ごした……」
神妙な顔つきで煎十郎が言葉を漏らす。
「確かに八犬士に興味を示してはいましたが、本人がその血を引いているなんて一度も……。だって彼らは決められた土地から一歩も出られないって……確かめたいんです。彼なのかどうか」
「……左様でございましたか。できれば風魔の方々より先に、煎十郎様を八犬士の元にお連れできればよいのですが……」
叶わぬかもしれませんという言葉を言外に滲ませ、乙霧は足跡が続く木々の向こうへと眼をやる。
「行きましょう」
強く言い放ったのは煎十郎だった。
迷いが晴れた訳ではない。八海に瓜二つだった犬が背負った八犬士が、友である生野であるという保証もなければ、会ってどうしたいのかという答えも出ていない。一夜の婿になることが決まってはいても、煎十郎はまだ風魔の男である。頭領の命も受けずにこんな所まで来ることは、本来許されることではない。いくら静馬の口添えがあったとはいえ、静馬自身が小太郎に許可を得た訳ではないのだ。咎められても煎十郎に返す言葉はない。
それでも煎十郎は、逃げた八犬士に会いたかった。保障がなくとも、煎十郎の中では、すでに最後の八犬士は生野と重なっていた。
生野と京で出会ってから府内でともに過ごした六年間、ずっと疑問に思っていたことはある。
なぜ自分は、生野と自分が似ていると感じたのだろうか?
外見も内面も似ているとは言い難い。生野は誰が見ても美男子で、それを除いたとしても人を惹きつける魅力にあふれた男だ。日々逞しく成長し、知恵にも優れている。性格は明るく強気でありながら、他者に気配りもできる優しさを持ち合わせ、人の上に立つのが自然な男。それが煎十郎から見た生野という男。
片や煎十郎の自己評価は、姿は過大評価で並。風魔衆としての試験を落ちただけあって、運動能力は体力を除いて人より劣り、集中して学んだ医術や植物学に関しては、ある程度の自信はあるものの、柔軟性がなく、学んだことを他に活かすなどということはできない。気弱で人見知りも激しい。生野と仲よくやっていけたのは、むしろ正反対のような存在だからだろうと思っている。
それなのに、二人は似ていると感じていた。不思議だった。個体として違うのならば世の中での在り方、境遇のようなものが似ているのかと思ったが、それも違った。生野自身から聞いた彼の生い立ちでは……。
生野は天涯孤独と聞いている。だが、その分彼は自由であった。生きる糧を得るために、その美貌を使う必要があったとはいえ、彼自身が選んだ道。己の外見を活かして生きると決めたのは彼。世話になる相手を選んだのも彼。煎十郎と府内に来ることを決めたのも、学ぶものを何にするかを決めたのも、八海を飼うと決めたのも、諸国を旅すると決めたのも彼自身。彼は自由に愛されているように煎十郎には見えていた。
風魔衆にもらわれ、風魔の掟に従い、乱波の道を断念し、小太郎の命で医術を学び、小太郎の指示で里へと戻り、里のために学んだ医術の腕を振るい、そのうちに小太郎の決めた相手と結婚し子供をもうけ、その子供を風魔衆として里に差し出す。
何度考えても、生野と似ている生き方ではない。
だが、もしも生野が八犬士であったのならば、話に聞いた八犬家の未来のために命を捧げている八犬士の一人であったのならばどうだろうか。素性を隠してはいても、本人が隠しているつもりでも、言動からその立場が、生き方が滲み出てしまっていたのならば……。
煎十郎が、二人が似ているように感じたとしてもおかしくはない。生野が八犬士であると仮定すると、すべてが腑に落ちすっきりとしてくる。
「行きましょう」
煎十郎はもう一度言った。
「最後の八犬士に会いたいのです。彼は生野とは違うかもしれない。すでに風魔が討ち取っているかもしれない。それでも私は彼に会ってみたいのです。……乙霧殿、お力をお貸しくださいませんか?」
乙霧は煎十郎を正面から見つめ、真摯に頷く。
「はい。行きましょう、煎十郎様。わたしは煎十郎様のためにも、私自身のためにも、最後まで全力を尽くす所存にございます」
二人は犬と人の足跡を確認しながら、慎重に森へと分け入る。あの犬が足跡の続く先で倒れているのなら、二人と同じように犬の足跡を追ったと思われる風魔衆によって、八犬士はすでに討ち取られているか、捕縛されているかしていよう。普通に考えれば足跡を追うだけでは風魔衆よりも先に犬の元へたどり着くことはできないのであるが、いまは他に頼るものもない。はやる気持ちを抑え、足跡を追跡するより他ない。幸いだったのは、先に進んだ風魔衆が、犬の足跡が続く箇所の藪を切り払ったり、踏み折ったりしてくれたお蔭で、足跡を追うのが比較的容易であったことだ。
森の中は静かだった。雨がやんだいまは、風が枝を揺する音がするくらいで、生き物が住んでいるとは思われないほど森は息を潜めていた。
犬は相当奥まで入って行ったのだろう。足跡は続き、いまのところ争うような音も聞こえてこなければ、人が戻って来るような気配もない。黙して歩みを進める二人の耳に、やがて川の流れる音が聞こえてきた。ただ、近くでという感じではない。
「この辺りは、一夜の里の近くに雰囲気が似ております。もしかしたら崖が近くにあり、その下を川が流れているやもしれません」
あたりの草木の様子から判断したのか、乙霧がそのようなことを言う。それから半時もかからずに、二人は乙霧の言ったような崖に出た。犬の足跡は崖の先端まで続いていたが、人の足跡はそこからばらばらに別れている。
「ここまで走り、崖の直前で力尽き、がけ下の川に転落した……風魔衆はそれぞれ別れて探索を続けている……ということでしょうか……」
乙霧は納得のいかない様子を隠すこともなく、その場で考え込んだ。
六十八話 八犬士捕縛
乙霧が崖下を覗き込む様子を、煎十郎は黙って見ていた。いや、眼は乙霧に向けられてはいたが、乙霧を見てはいない。煎十郎が見ていたのは過去。府内にいた頃に見た懐かしき光景。
生野と煎十郎が住まわせてもらっていた府内の商家の別宅に、八海がやってきたばかりの頃。 連日で降っていた雨があがったある日、煎十郎は庭の見える一室で、生野が翻訳してくれた南蛮の医学書を読んでいた。生野は雨のせいでしばらく外出しなかった憂さを晴らすように、自己研鑚のためと称して府内の町に飛び出す。遊んでもらいたい盛りの八海は、それでもついて回っては主人の迷惑になると理解しているらしく、特に紐で繋がれている訳でもないのに、庭で大人しく生野の帰りを待つ。ただ、退屈ではあったのだろう。縁側をしきりに歩き回っていた。
その八海が不意に縁側から垣根までゆったりと進んだかと思うと、垣根の根元を掘り始める。
その様子に気がついて本から顔をあげた煎十郎は、慌てて立ちあがった。八海が掘った穴から外に出ていってしまうのではと思い至ったのだ。
その心配は杞憂に終わる。穴を掘り終えた八海は、首だけを曲げて後ろを確認し、器用にも自分がつけた足跡にぴったりと足を合わせて後ろにさがってみせた。そのやり方で縁側の前まで戻った八海は、そこから後ろ向きのまま縁側に跳び乗る。そして呆然と立ち尽くしていた煎十郎の前に右の前足をあげ一声鳴いた。どうやら、足を拭けということらしい。
人はおろか犬にさえ逆らえない気弱な煎十郎は、八海の催促通りに、布を持ってきて四本の足すべてを丁寧に拭いてやり、さらには八海が最初に跳び乗り汚れた場所も拭いてやる。
それを見届けると、八海はもう煎十郎には用がないと言わんばかりに背を向け、そのまま縁側を歩いてどこかに行ってしまった。
残された煎十郎が読書を再開し、いつの間にか日が暮れた頃、出歩いていた生野が屋敷へと帰ってきた。
生野は煎十郎の部屋を訪れ、八海を見ていないかと尋ねる。
読書を再開してから、一度も八海を見かけていない煎十郎はその通りに答えた。
どこに行ったのだろうと、頭を掻いていた生野が、庭に目を向ける。庭の様子に気がつき、裸足のまま庭に飛び下り、すごい勢いで垣根へと走り寄った。
その時、煎十郎は足に何か当たるのを感じた。下を見てみると、いつの間に来たのか八海が尻尾を嬉しそうに振り、煎十郎の足に当てていた。
八海は足音を立てずに庭に下り立ち、汚れるのも構わずに這いつくばり、八海が掘った穴から外を覗き見ていた生野の上に、のっそりとのしかかる。
生野が驚いてくるりと身体の向きをかえて、八海を抱きしめた。
「この野郎!」
そのまま泥だらけになってじゃれ合い始めた主従を、煎十郎は半ば呆れて、半ば羨ましく思って眺めていた。
煎十郎が過去の幻影を振り払うように首を大きく横に振る。すぐに後ろを振り返り、犬の足跡を辿って抜けてきた森へと急ぎ戻った。周囲の藪が深くなっているところで立ち止まり、辺りを見回す。生い茂る笹の中に、不自然に泥がついているものを見つけると、そちらの藪を掻き分け、奥へと入っていく。
「煎十郎様。いかがなされましたか?」
遠くからの乙霧の声は聞こえてはいても、頭にまでは入らず、煎十郎は藪の中を進み続ける。
しばらく進んだところで、煎十郎はとうとう見つけた。白く大きな犬が、倒れている人間に覆いかぶさっているのを。
犬の頭の横から見えた人の顔を見て、煎十郎は息を呑む。その顔は間違いなく府内で共に暮らした友人生野のものであった。
声をかけようとした煎十郎の頭に衝撃が走る。その力に抗えず煎十郎は前のめりに倒れ、地面に突っ伏した。
「でかしたぞ、煎十郎。まさかお前が見つけてくれるとはな。おかげで面倒なことにならずに済む」
喜びを抑えきれない逆鉾の声が、倒れた煎十郎の頭に響いた。
―――――――――
乙霧は森の中から悲鳴が聞こえてくるのを、崖の前で両腕を二人の乱波の女にしっかりと押さえらた状態で聞いていた。
乙霧の背後にいた女も含め、三人の女の風魔衆が不安げに顔を見合わせる。
「ご安心ください。犬に襲われただけでしょうから」
乙霧は安心できない言葉をさらりと言った。
「死んでいてもおかしくない怪我をしている筈。おそらく最後の抵抗でございましょう」
乙霧のその言葉を合図に、森から逆鉾が姿を見せる。後ろに続く風魔衆の一人が、八犬士と思わしき男を引きずり、二人が煎十郎と足を怪我したらしい仲間にそれぞれ肩を貸していた。
「最後で油断されたようでございますね」
「ふん。未熟者がおってな」
乙霧の皮肉に、逆鉾は鼻をならす。
「それで、私達まで捕えた理由をお聞かせいただけますか、逆鉾様」
気を失ったままの生野以外が、逆鉾に目を向ける。風魔衆の眼は、乙霧を早く殺した方がよいのではと訴えている。この女は小太郎の協力者。八犬士との争いに勝利したいま、生かしておいても利益はない。
しかし、すでに勝利を確信している逆鉾は、目の前の美女も戦利品として加えられないかと欲をかきはじめていた。なにせ若い頃は、力任せに北条に敵対する土地を急襲しては、殺したいだけ殺し、奪いたいだけ奪った男なのだ。欲しいものを手に入れるのは、勝者として当然の権利と考えている。生野をその場で殺さず連れてきたのも、『呪言』の力を欲したからだ。
「捕えた? それは誤解だ、乙霧殿。貴殿ならここまで来られるとは思ってはいたが、それは頭領を連れて来てのことだと思っておったのだ。ところが、一緒にいたのは煎十郎。もしも、八犬士がそなたに近づき、破顔丸のように正気を失い襲いかかったら、煎十郎では貴殿を守りきれまい。そうなる前に保護したのだ。……煎十郎は頭領のお許しなくここまで来たようだから、軽い灸をすえただけのこと」
事前に、乙霧が煎十郎を連れここまで来るだろうと、静馬の予測を聞いていた逆鉾は、余裕をもってそう答える。
その逆鉾の返答に乙霧が鼻白む。
「危険を伴う八犬士の討伐に、わざわざ女性の方を連れて来るなど、私への対策としか思えませんが」
「その三人は女と言えども、時雨と同様に乱波だ。手負いの八犬士を追うのに不足はない。山の奥に引きこもっている一夜と一緒にされては困る」
そうか。この男も一夜のことを知っているのかと、乙霧は納得した。考えてみれば、逆鉾は今の小太郎と同年代。三十年前の風魔による一夜の里襲撃に加わっていたとしても不思議はない。
乙霧はとにかくこの戒めを解かせようと、もう一度口を動かそうとした。その乙霧の眼の端に、地面に転がされていた生野の指が動いているのが引っかかる
まずい。そう思った時には遅かった。乙霧の見ていた世界が突然白一色に染まる。眼が熱い。周囲からも苦しむ声が聞こえ、乙霧を押さえ付けていた女達の力が緩む。乙霧は熱さに耐えながら、女たちの手を振り払い、頭だけを両腕で庇い、その場にうつ伏せる。
「くそっ! 何事だ!」
逆鉾の怒声が聞こえる。続く複数の悲鳴。乙霧は最悪の事態にならないことだけを祈りながら、うつ伏せたままじっとする。誰かに体を何度か踏まれたが、声をあげずに堪える。ただひたすらにじっとして視力の回復を待つ。
金属同士が激しくぶつかり合う音がした頃になって、ようやく乙霧の視界が戻った。
乙霧はなるべく体を動かさないように注意して周囲の状況を確認する。
まず、目に入ったのは乙霧を押さえていた女衆の一人が血を流してぴくりとも動かぬ姿だ。そこから、そろりと首を動かすと、順に動かぬ肉となった風魔衆の姿が映る。
荒い息遣いが聞こえ、乙霧は視線を上にあげる。逆鉾と生野だ。
生野は片膝をつき、刀を地面に突き立て、空いている手で喉を押さえ荒い息をついている。対する逆鉾は、右手で顔の半分を押さえ、左手で忍刀をふり上げていた。
「やってくれたな、死にぞこないめ! だが、これで終いだ!」
逆鉾が吠える。だが、生野の頭に落とされたのは、白刃ではなかった。生野の頭を打ったのは、逆鉾の頭。胴体から離れた、逆鉾の頭。
乙霧には、このことが自身にとって希望なのか絶望なのか、判断がつかなかった。
なぜなら、倒れた逆鉾の身体の向こうで刀を鞘におさめていたのは、薄笑いを浮かべた静馬であったから……。
六十九話 静馬対乙霧
「いやいや、まさか煎十郎と乙霧殿を残して全滅とは……。八犬士、敵ながら見事」
突如として現れた静馬に、生野は苦痛に顔を歪めつつも、大きく跳び退き、崖を背にして刀を構える。生野は気づいている。いま眼の前に現れたこの男は、いまは納刀している状態にも関わらず、先程の壮年の男よりはるかに手強い相手であると。
「……逆鉾殿は静馬殿がお斬りになったのではありませぬか」
立ちあがりながら、乙霧が言う。静馬に話しかけながらも、乙霧の眼は自分と同じく立ちあがった煎十郎の姿を捉えていた。最悪の事態は免れたことを確認し、乙霧は胸を撫で下ろす。
「老害を残していても、風魔の為にはならんからな」
逆鉾の死体を一瞥することもなく冷たく言うと、静馬は生野を中心に円を描くように右回りで崖に向かって歩きだす。乙霧がいるのとは逆方向だ。生野は刀を構えたまま、静馬の動きに合わせて身体の向きを変える。
静馬が崖を右手に生野と向いあったところで立ち止まった
「大陸には背水の陣と呼ばれる策があるそうな。己の退路を自ら断ち、実力以上のものを発揮する……残念な精神論じゃとは思うが、もしもを考えねばな」
静馬の言葉に、生野は胸の内で無駄だと叫んでいた。わざわざそんなことをせずとも、八犬士は最初から追い込まれた状態でこの戦に臨んでいる。いまさら小細工などない。
そんな生野の胸中など知らず、静馬は立ち上がったばかりの煎十郎に声を飛ばす。
「煎十郎、動けるな。箱を置いてこちらに来い、そこらに落ちてる刀を拾ってな」
「え?」
戸惑う煎十郎の身体を、静馬の叱責が打つ。
「ぐずぐずするな! こやつは八犬士の筆頭。お前がこやつの首を取り、一番手柄をあげれば、お前達の意見も多少なりとも聞き入れられるやもしれん!」
静馬の言葉が、自分と時雨を思いやってのものであることはわかったが、静馬が自分に討ち取らせようとしているのは……。
「早く!」
再度の叱責で、煎十郎は弾かれたように動きだす。背負っていた箱を置き、近くに落ちていた忍刀を拾い上げ、静馬に駆け寄る。
静馬は生野から眼を逸らさず、気配で煎十郎が隣に来たことを悟ると、煎十郎に問う。
「それで、結局どうであったのだ? この者はお前の知る者か?」
静馬には詳しい事情を説明していなかったが、どうやら察してはいたらしい。
「……はい。拙者の……友……です」
煎十郎が生野を見つめながら、苦しげに言葉を吐き出す。
「……そうか。また、ややこしい関係じゃが、万に一つが、千に一つくらいにはなるかのう」
そう呟いたかと思うと、静馬は煎十郎の服の袖を引き、自身の前に立たせる。煎十郎はその拍子にせっかく拾った忍刀を取り落す。何をするのかと問い質す前に、静馬が耳元で囁く。
「時雨はお前と地獄で夫婦になることを望むそうじゃ。すぐに追ってやれ」
煎十郎が言葉の意味を理解するより早く、静馬は煎十郎を右斜め前方へと強く突き押した。
「うわっ!」
細見ながらも鍛え上げられた静馬と、見た目通り華奢な煎十郎。
煎十郎は抵抗することもできず、よろめきながら前に進み、そして……崖へと足を踏み外した。
「煎十郎様!」
声を上げたのは乙霧。動いたのは生野。
煎十郎の手が崖から消えて行きそうなる直前、刀を投げ捨てた生野の手は、辛うじて友の手を掴み取る。
満身創痍で、すでに体力の限界も越えていた。落下する煎十郎に引きずられ、地べたに這いずった生野の身体も、崖下へと持っていかれそうになる。それでも生野は、煎十郎の手を掴んだ手の力を弱めたりはしなかった。足を拡げ指を地面に突き立て、必死に耐える。
「生野、手を放せ! お前まで落ちる!」
すでに生野は返すための声を失っている。その生野が微かに笑う。俺に任せろ。その顔は二人が出会った時、煎十郎が生野に初めて助けられた時に見たその時の顔だった。
「なにをなされるおつもりですか! いまその八犬士に手をだせば、煎十郎様が崖下に落ちてしまいます!」
ゆったりとした足取りで、這いつくばった生野に近付いていた静馬を、乙霧が咎める。
静馬は足をとめ、乙霧に向き直った。
「うむ。戦に犠牲はつきものでござるな」
「な、なにを言われるのですか! 煎十郎様は私の婿として一夜に行くのです! 小太郎様との約定、風魔衆の貴方様が反故にされる気か!」
「反故?」
静馬は心底不思議そうな顔をする。
「おかしなことを言われる。貴殿が風魔衆から婿を連れて行くのは、この戦に勝利したあかつきでござろう? この男を殺さねば決着が尽きませぬ。そして、煎十郎は風魔。戦にて命を落すこともありましょう。貴殿はこの戦が終わった後、ゆるりと婿を選ばれるがよい。生者から選ぶも死者から選ぶも貴殿の自由だ。もっとも、貴殿の身体が死者に対して疼くとは思えんが……」
またもや薄く笑う静馬に、乙霧は絶句する。乙霧の静馬への評価は、頭も切れるし、腕も立つが、身内に甘い。だが、いまの静馬は違う。平然と味方の首を斬り飛ばし、弟のように可愛がってきた男を犠牲に勝利を得ようとしている。なんなのだ。この変わりようは……。
乙霧は焦る。免れたと思っていた最悪の事態が、また目前に現れた。このままでは生野が殺され、煎十郎が崖下に落ちる。時間もない。本来であれば時間稼ぎと情報収集を兼ねて、静馬にいろいろと聞きたいところだが、生野の体力がもたないだろう。今回の機会を逃せば、乙霧は二度と運命を感じさせる相手には出会えない。乙霧は自由に里を出ることができない身なのだから。
乙霧はすでに事切れている女の風魔衆から忍刀を奪い取り、静馬に切っ先を向けた。
静馬の笑いが深くなる。
「面白い。まさか一夜の方から風魔に敵対する道を選ばれるとはな」
乙霧は答えない。これは賢い選択ではないのかもしれないが、彼女には彼女が産むであろう美しい子供の姿しか見えていない。
「貴殿の体質ならば拙者から正気を奪い、その隙に命を絶つことができるやもしれん。ただ……」
静馬が腰を落し、刀の柄に手をかける。
「拙者の技よりも早く、正気を奪えるかな?」
そう言って、柄に手をかけたまま、乙霧ににじり寄る。
このまま近づかれるのを待っていては駄目だ。乙霧は一か八か静馬目がけて駆ける。
静馬の技の間合いに入る直前、乙霧は忍刀を構えていた両腕を背中にまわし、まるで切ってくれんと言わんばかりに無防備な胸を突きだす。
静馬は遠慮することなく刀を鞘から抜き放つと、乙霧の腰から右肩に駆けて刃を走らせる。
乙霧の着物が斜めに裂けた。そこから噴き出たのは、赤き血……ではない。茶色味がかった脂。乙霧が燃え尽きる前にお信磨の身体より採取した『呪言』の脂。着物の内側にしこんであったそれが、着物の厚みと共に、静馬の必殺の斬撃を鈍らせ、乙霧の身体に衝撃を与えるだけに留めさせた。乙霧の顔が歪むが足は鈍らず、構え直した忍刀が静馬に刺さる。
静馬は自分の懐に飛び込んだ乙霧を見下ろす。振り上げた刀を乙霧には振り下ろさず、地面に突き立てると柄から手を放し、まるで刀がより深く刺さるようにするかの如く、乙霧を抱き寄せた。
「なるほど。これは甘美な香りだ。一夜の男共が理性を手放したのも無理からぬことよな」
静馬は鼻から胸いっぱいに乙霧の匂いを吸い込むと、乙霧を突き離した。倒れこんだ乙霧が驚きのあまり静馬を見やる。傷の痛みもあるのかもしれないが、一夜幻之丞さえ理性を手放した乙霧の匂いに耐えてみせたのか? なんと恐るべき胆力か……。
自分を凝視する乙霧に、静馬は懐から取り出した物を投げる。
「時雨の遺髪だ。貴殿が煎十郎を連れて行くのはもはや拙者には阻めぬ。せめて煎十郎が死を迎えた時は、時雨に返してやってもらいたい」
「……お約束いたしましょう。ですがなぜ……」
こんな真似をしたのかを聞こうとして、乙霧はやめた。静馬の腕であれば、胸ではなく乙霧の首を跳ね飛ばすこともできたであろうに、なぜそうしなかったかの疑問は残る。だが風魔を知らぬ自分では、静馬を知らぬ自分では、例え理由を聞いても理解できそうにない。
「やっと……俺も自由になれるか」
静馬はその場に力なく座り込み、そのまま眠るように眼を閉じた。
「もういい! もういいってば、生野!」
煎十郎の泣き叫ぶような訴えに我を取り戻した乙霧は、立ち上がると袖から笛を取り出し、口に当てる。笛は鶯の鳴き声のような音を辺りに響かせた。
乙霧は笛を袖にしまい、静馬が地面に突き立てた刀を抜き取ると、懸命に耐え続ける生野の背に向けて妖しく微笑んだ。
七十話 共闘の終わり
「小太郎様、お疲れ様でございます。お待ちしておりました」
「うむ。お主もよくやってくれた。特に一夜の連絡網を使い、知らせてくれたことに感謝する。よもや逆鉾が叛意を示してくるとは思わなかったのでな」
二人の風魔衆を引き連れ、八犬士が潜伏していたという森の脇の街道に到着した小太郎は、強く降りだした雨の中で慇懃に頭を下げる乙霧に、労いの言葉をかける。
「すでにお聞き及びとは存じますが、最後の八犬士は、逆鉾様以下八名を斃した後、静馬様と相討ちとなり崖下へと落ち、玉川の流れに飲み込まれていきました。……誠、手強き敵でございました」
「うむ、聞いた。川沿いを調べさせようかと思うたが、川の水が増えておるいまでは迂闊に近づけさせる訳にもいかん。我らもだいぶ人手を削られたゆえな……」
苦々しげに小太郎が言う。逆鉾が自分への叛意を見せたとはいえ、配下共々手負いの八犬士にやられるとは思ってもいなかった。おまけに静馬までもが命を落したとなると、小太郎の立場と言うよりも風魔の存続自体が厳しいものとなってくる。
「そもそも、その八犬士が生きているかどうかは対した問題ではない。問題なのは里見家に八犬家が残っておるということだ。再び力を蓄え、別の者が『呪言』の力をもって襲撃してこないとも限らん」
小太郎の不安を乙霧は笑って否定した。
「それはもうありえませぬ。里見家から八犬家がなくなりましたゆえ」
「なんと! それは真か⁉」
「はい。先ほど一夜から連絡がありました。いかに化け狐の残した呪いの力といえども、呪う相手が消えては力の発揮しようもありますまい」
乙霧の浮かべる皮肉な笑みに、小太郎は寒気を感じる。
「わかった。それならばよい。大殿には儂からきちんと説明申し上げる。それより、煎十郎はどうした? あやつは無事なのであろう。なぜ顔を見せぬ?」
「……煎十郎様なら、あちらでございます」
乙霧が道の先を指さす。遠目に一挺の駕籠が二人の男に担がれ遠ざかっていくところであった。
「煎十郎様はこのまま一夜の里に連れて行きます。わたしもお役目を果たしましたので、ここで失礼させていただきます」
「な! どういうことだ。確かに婿にやることは認めたが、挨拶もなしに連れていくとは、あまりにも無礼であろう」
小太郎は駕籠を追いかけんとする勢いで言ったが、乙霧が道を塞ぐように立っているので進むに進めない。小太郎といえど、乙霧には迂闊に近づけないのだ。
「どうかお許し下さい。本来、一夜はどちらか一方の勢力の味方をすることはありませぬ。他の勢力に情報を売る妨げになりますから。それをしてしまったからには、速やかに去ることが、これ以上事態を悪化させない唯一の手段でございます。……お詫びと言ってはなんでございますが、どうぞこちらをお受け取りください」
乙霧はそう言って地面に置いてある大きな箱を指し示す。それは、煎十郎がいつも背負っていた薬箱であった。
「煎十郎様は、すでに小太郎様に命じられた書を書き終えてございます。どうぞ我が夫の、風魔衆としての最後の成果。お納めください」
乙霧がもう話は終わりとばかりに、小太郎達に背をむけ歩き始める。
しかしすぐにその歩みを止めた。そのまま振り返らずに語りだす。
「ああ。そうそう。忘れるところでございました。その箱の中にひと房の髪が入っております。静馬様が私に託されたものでございますが、時雨殿の物だそうでございます。なんでも、煎十郎様と夫婦になれないことを悲観して自害なされたとか。……他に良い子を産める相手を探せば良いだけのことでございましょうに、他の里の方のお考えになることはよくわかりませんね」
突然の愛娘の死の報せに、さすがの小太郎も言葉を失う。静馬の死は事前に知らせてきていたのに、時雨の死はここまで黙っていた。小太郎の足を止める機を計っていたとしか思われない。
「小太郎様、失礼ながら私達にかまけている場合ではないかと。遅くとも明朝には氏政様が小田原に帰城されることでございましょう。氏政様は此度の敗戦の責を、どなたかになすりつけたくてうずうずなされております。従軍させた者たちを半分以上呼び戻し、風魔の得意とする乱波仕事を満足に行うことができなかった。……いかに氏康様の命を果たすためとはいえ、氏政様にとっては糾弾する良い口実でしょう。早めにお帰りになられて、対策を練られるべきでは?
僭越ながら意見を述べさせていただきますと、氏政様退却のおり、獅子奮迅の活躍で氏政様をお守りしたという般若様に小太郎の名を譲り、隠居なされるのが最善ではないかと思われます。そして、時雨殿の墓守でもされて余生を過ごされては如何かと……」
小太郎が力なくうなだれた。乙霧の言ったことは単なる個人の想像ではない。氏政は、偉大な父の名に負けまいと、歴戦の家臣団や周囲の列強に舐められまいと、面子をたいへん気にする。
人によっては野盗の群れとみなされる風魔衆に、責任をなすりつけることにためらいはしないだろう。乙霧の言う通り、自分が小太郎の名から降りることで、少しでも矛先を緩めるしか方法はないかもしれない。
こんな時に意見を求めた若き天才はもういない。苦しい時に心を癒してくれた愛娘ももういない。自身の目指した里の在り方の象徴となるべき若者もいなくなる。
再び歩き始めた乙霧の背中と煎十郎を乗せた駕籠が遠くなっていくが、小太郎には彼女達を追いかける気力は湧いてこず、ただただ雨に打たれていた。
七十一話 血脈
遠くで名を呼ばれた気がして、重い瞼を持ち上げた。それでもまだどこか夢見心地で、自分は死んだのではなかったかなどと、ぼんやりと考える。
視界に揺れる炎が映った。火のついた蝋燭が刺さった燭台が二本、正面に置かれている。無駄に広い部屋の床板に座らせられているようだ。手は後ろ手に、足は胡座をかいた状態で縛られている。
声をだそうとしたが出ない。喉に布が巻かれているようだが、猿轡をされているわけでもない。なのにどうして? ……ああ、出せる訳がなかった。声は自ら捨てたのだから。
生野は、揺れる炎を見ているうちに、次第に意識がはっきりとしてきた。体の熱はかなり引いている。限界を越えて『呪言』の力を用いたのに、熱が引いているということは、誰かが生野の体を外から冷やしたのだ。それ以外にない。
ところで、あの女はどこだ? 闇の中にじっと目を凝らし目的の相手を探す。お礼を殺した相手だ。切り札の『呪言』を使い、命の灯が消えかかっていたお礼が、いかに興奮状態に陥っていようと、貴重な時間を割いてまで、無力な女を襲っていた訳がない。
お礼はあの女が危険な存在だと判断したのだ。おそらく、あの本丸の屋根の細工を考えたり、狂節の呪いの対策を施したりして、自分たちの邪魔をし続けたのはあの女に違いない。
なによりあの女は、数年ぶりに友の手を掴んだこの右手を斬りつけたのだ。背中に回されているので眼で確認することはできないが、自分の右手の甲に軽い痛みがあるのと、両手の指を動かせないように、布により手を握った状態で固定されているのを感じる。
結果的に裏切ることになってしまった友、風魔の煎十郎。やっとの思いで掴んだ友の手を、手を傷つけられたせいで放してしまったのだ。信じられぬものを見たような顔をして落ちていく友の顔が、いまもはっきりと思い出せる。
悔やんでも悔やみきれない。小田原攻略が失敗したいま、まだ命があるうちに、あの女だけでも殺したい。
そう念じる生野の前に姿を現したのは、あの女ではなかった。壮年とは思えるのに、それでもなお美しい男。
「いや久しぶりだな、生野殿。確信はしておったが、見事に美しく成長なされた」
思いがけない言葉に、生野は相手の顔をまじまじと見つめる。そう言われると確かにどこかであった気はするが、思い出せない。
「わからぬかな。まあ、もう十年になるからな。憶えていなくともしかたないかもしれぬ」
そう言われて、生野はようやく目の前の顔の記憶に思い至った。
行商人だ。京で生野が入りこんだ家に、商品を売り込みに来ていた、生野が八犬家に愛着を持てるきっかけを作った、あの行商人だ。
生野の表情で思い出したことを悟ったのだろう、男がとても嬉しそうな顔をする。
「おお。思い出してくれたようだな。……さて、思い出してくれたところで、貴殿のいまの状況や、拙者とその一族が貴殿の戦いにどう関わったのか話したいのだが、構わないかね? おそらく貴殿がくびり殺したいと考えている娘のことにも大きくふれることなんだがね」
男を睨みつつも生野は頷いた。どちらにしろ自由を奪われているうえに、生野自身が口をきけないとあっては、相手の話を聞く以外になにもできない。
「まず、名乗っておこう。拙者のいまの名は一夜幻之丞。聞いたことはないと思うが、一夜と言う忍びの一族を束ねる者だ。乱波と呼ばれている風魔とはまったくの別物と考えて頂きたい。もっとも、拙者らのやっていることは商人と呼ぶ方が近いかもしれんがね」
幻之丞は自嘲するような笑みを見せる。
「さて、なにから話そうか。……そうだな。まずは、我ら一夜衆が八犬士と北条家との争いに関わることになった経緯から話そう。そして貴殿の眼の届かぬ所で起きた出来事もな」
幻之丞はできるだけ簡潔に、一夜が八犬士の戦いに参加した経緯や他の八犬士の身に起きたこと。派遣した乙霧が生野を一夜の里に連れてきたことなどを、自分で見てきたかのように話して聞かせた。
生野は他の八犬士の死に様を聞かされた時には、涙を流してしまいそうになるのを懸命に耐えながら、幻之丞の話を最後まで聞いた。
「貴殿にも疑問や質問があるだろうが、貴殿は話せぬし、手を自由にさせるのも不安だ。こちらで勝手に聞きたいことを推測させてもらおう」
生野は顔を背ける。疑問に思うことは確かにあるが、一番の目的である一族の立場回復を果たしたからには、他のことなど聞かなくともよい。小田原を落せず残された者たちの立場を固められなかったのは残念だが、あとは彼ら自身がなんとかするであろう。いまは、一刻も早く最後の八犬士として、あの女にけじめを取らせた上で、先に死んだ仲間の元へと旅立ちたいという想いだけ。
「そうつれなくするな。我ら一夜は八犬士の小田原攻略は邪魔したが、替わりに里見家での立場回復には力を貸したのだぞ」
生野は驚きのあまり顔を幻之丞に戻した。
「貴殿ほどの者なら、疑問に思っているだろう。義弘様が条件付きとはいえ、貴殿らが小田原攻略の下準備しかしていないうちに、八犬家の解放を決断したのはなぜかと。
里見家の三船山での勝利。義弘殿の奇襲が決め手であった。その奇襲を成功させるために必要な情報を、我ら一夜が売ったのだ。求めた対価は八犬家の解放。
ちなみに家名を変えさせることを提案したのも我らであるし、義堯様の反対を抑えるために、義堯様の側に侍る者に口添えをさせもした。一族の解放ということに関しては、恩人と感謝してもらっても良いくらいだ」
生野は眉をしかめて、幻之丞の目を直視する。嘘を言っても見抜く。目がそう言っていた。
「信じられぬか。そうであろうな。少なくとも貴殿らに我らに助けられるような理由はない。だが、我らには助ける理由がある」
幻之丞が遠くを見た。
「八犬家の初代が里見の姫を嫁として以降、二代目から四代目まで、ほとんどの場合家督を継ぐ者は八犬家の中から嫁をとった。四代目からは女子に限りがあったから、貴殿の母のように複数の家の子を産んだ者もいる。どちらにしろ八犬家の血の繋がりが強まったことには変わりはない。だが、そんな中で唯一の例外があった」
幻之丞は笑顔で生野を見る。生野の顔が青ざめていた。
「どうやら、知っておるようだな。そう貴殿の犬坂家だ。二代目の犬坂毛野胤才。彼だけは、八犬家の外から嫁をとった。その娘はたいそう美しい女子であった。
さて時は流れ、犬坂家の三代目には女子が一人しか生まれなかった。貴殿と貴殿の妹同様、子供の時分から美しく周囲を惹きつける魅力を持っていたが、悲しきことに五歳の時に神隠しにあった。その娘が驚いたことに十数年後に戻ってきた。わざわざ八犬家が監禁されたあとにだ。美しさと魅力に磨きをかけ、さらには腹に子供を身籠った状態でな」
幻之丞が大げさに両腕を広げる。
「よくぞ戻った。お智予の息子よ。本来ならば貴殿と貴殿の妹も、子供のうちに一夜の里に迎えたかったが、お主は八犬士の血が濃く現れすぎ、妹は警備が厳重すぎたのだ。情報程度は出せても、お主以外の子供を外に出すのには無理があった……許せ」
生野はあまりにも突拍子もない話に眼が回る思いであった。