十八話 安兵衛対風魔


 降りしきる雨の中、前を走る男たちの背中がぐんぐんとせまる。最後尾を走る風魔衆が安兵衛に気づいた。だが、安兵衛はそれにはかまわず、彼の横を駆け抜ける。


「ぎゃ!」


 風魔衆が短い悲鳴をあげて倒れる。さらに二人目、三人目。次々と倒れていく。だが、四人目の横を通り抜けようとした時であった。


「跳べ!」


 前の方から静かでありながら、鋭い声があがったかと思うと、四人目が指示通り真上に跳ぶ。次の男も、その次も、遂には先頭を走る男まで、真上に跳んだ。
 安兵衛の奇襲の成果は三人に留まった。安兵衛は、風魔衆を抜き去ると、大きく弧を描いて彼らの正面に立ち塞がった。風魔衆の足がとまる。


「なに奴だ!」
「なんのまねだ!」
「殺されたいか!」


 風魔衆から即座にあがる声は、先頭にいた大きな金棒を背負った筋骨逞しい巨漢が片手をあげることでおさまった。男は獰猛な笑みを浮かべ、大地を揺るがさんとするような大声で吠える。


「いちいち狼狽えるでないわ、未熟者めらが! 相手が誰であろうと、思惑がなんであろうと、立ち塞がれば例外なく血祭りあげるだけのことよ!」


男の恫喝(どうかつ)は、安兵衛を警戒させ、他の風魔衆を振るい立たせるだけの力を持っていた。それでも、安兵衛は思う。


(……この男じゃない)


 安兵衛の鉄脚の足首にあたる箇所から、雨と血に濡れた刃が、地面に対して水平にのびている。これが、一昨日の夜、そしていま三人の男を地べたに這いつくばらせたものの正体。
 人が殺し合いの場において、注意を特に向けるのは、相手の手である。それは、こちらの命を刈り取ることを可能とする武具を扱うことができるのが、基本的に手だけであるからだ。しかも、自分の視点と同じ高さの者が正面から高速で接近してくれば、自分の足元にまで注意を払うのは至難の技である。
 安兵衛の鉄脚の刃は、まさに人間の意識の外をついたもので、安兵衛はただ走り抜けるだけで多大な戦果をあげることが可能であった。
 ……だというのに。
 後方からの安兵衛の奇襲に対し、『跳べ』と指示したものがいる。それも集団の前の方から。人が邪魔で安兵衛が何をしているかなど見えなかったであろうに、冷静に的確に指示をだした者がいる。それは集団の大将格のように見える、力強く吠えた目の前のこの男ではない。
 安兵衛は大きく息を吐くと、再び石臼を回して走りだす。今度は先ほど通り抜けたのとは逆側に。
 正面から安兵衛と相対した風魔衆は、今度は誰一人として鉄脚の刃に引っかからなかった。刃の届く距離にいた者はことごとく見事に跳んでみせた。
 狙われる箇所がわかっていたとはいえ、見事な対応力、見事な反射神経である。


空座(からざ)!」 


 風魔衆の最後尾を抜けた安兵衛の耳がピクリと反応した。
 この声だ。先程の静かでありながら鋭き声。


「おう!」


 その声に応えた別の男が、安兵衛に向かって走り出す。なんとその男は生身の足でありながら、安兵衛に並んでみせると、飛んで鉄脚の刃を躱し、安兵衛を忍刀で斬りつける。
安兵衛の右手の手首から先が飛んだ。斬られたひょうしに体勢が崩れ、右脚の刃が地面に当たり折れる。折れた刃は大地に跳ね返され、安兵衛を跳んで斬りつけた男の脇腹に深々と突き刺さった。
 安兵衛はなんとか片手で石臼を回し、体勢を立て直し、風魔衆から少し距離を置いた位置で再び旋回し風魔衆と向き合う。
 見れば刃が刺さり倒れた男に、先程の大将格の男が、金棒片手に走り寄っているところであった。


「がはは! でかしたぞ、空座!」

「お、おう。はがん―――」

「あとは儂らに任せて逝け」


言うが早いか、大将格の男は倒れていた男の頭を金棒で叩き砕いた。


「……命があれば指導役くらいはさせれたものを……」


 集団の中から零れた小さな呟きは誰の耳に届くことなく宙に消える。


 大将格の男は安兵衛を見て笑った。


「どうだ、小僧。まだやるか? もう我らにとって、きさまは脅威にはならんぞ」

破顔丸(はがんまる)、油断するな。こやつ、おそらくお頭の書状にあった八犬士の一人であろう。まだ奥の手を隠しているやもしれん」


(ああ、この声だ。あいつか……)


集団の中から一人、破顔丸と呼ばれた男に歩み寄る青年の姿を安兵衛は捉えた。色白ではあるが、知性も精悍さも持ち合わせているように見える美男である。


「よく見ろ、静馬(しずま)。あやつがあの速さで駆け抜けたのは、あの石臼を回していたがゆえであろう。片手ではろくに回せまい。空座は詰めが甘かったが、最低限の仕事はしおったわ」


 安兵衛は自身の右手を見る。斬られた手首から血がとめどなく流れている。だがそれは命をすでに捨てている安兵衛にとってたいした問題ではない。その気になれば片手でも命尽きるまで全力で石臼を回すことはできる。
 問題は強さを増した雨である。
 鉄脚はすでに全体が濡れている。実はいまの安兵衛の速度は、昨日や一昨日と比べると、明らかに遅かった。鉄脚の動力部に流れなければいけない呪いの力が、鉄脚の外面にまで逃げてしまうのである。しかも、逃げた力の一部は水を伝って、安兵衛の生身の部分にまで流れてきていた。一昨日の夜と比べると三割は遅く感じるのに、心臓にかかる負担は倍に感じる。雨の影響がこんなにも大きいとは安兵衛の想像を超えていた。
 

(ここまでか)


 安兵衛は覚悟を決める。胸の内で生野たちに謝り、そして願う。どうか自分の分まで、安房に残る家族の将来を救ってくれと。ここにいる風魔は全て倒すからと。


「我、仁を貫くは、我が命を全うするが如く!」


 安兵衛が呪文を唱え直すと、二つの半珠の輝きがより一層増した。
 安兵衛が片手で石臼を回す。今度は左右どちらにもいかぬ。風魔衆へと正面からまっすぐに。
 風魔衆から棒手裏剣が複数飛び、そのうちの二本が安兵衛の胸に刺さる。だが、そんなものでは止まらない。風魔に肉薄したところで、安兵衛は石臼から手を離し、安兵衛の鉄脚のつけ根に取り付けられた『仁』の半珠を右手首で、『如』の半珠を左手で強く押し込んだ。
 正面から安兵衛を打ち据えようと、金棒を振り上げていた破顔丸が、金棒を渾身の力で振り下ろしたが、金棒は地面に大きな穴を開けただけ。破顔丸の両脛に持ち主をなくした鉄脚が勢いよくぶつかり、破顔丸はうめき声をあげながら倒れた。
 残りの風魔衆が空を見あげる。
 そこには……安兵衛がいた。半珠から上の、生身だけと身軽になった安兵衛が、空高く打ち上がっていたのである。
 安兵衛の足のつけ根から、何かが風魔衆の頭上に拡がりながら降った。風魔衆に降りそそいだのは網。ただの網ではない。糸のように細く加工した銅の網。倒れた破顔丸はもちろん他の風魔衆も人間が空に打ちあがるという予想外の出来事に、それをとっさにかわすことができなかった。ただ一人を除いて。
 

「うおおおおおおおお!」


 安兵衛が吠えた。渾身の力で石臼を回す。片手になりながらもこれまでで一番の回転の速さ。半珠がこれまでにないほど強く輝きだす。足のつけ根から火花が飛び散り、白い光がつけ根から伸びた銅線を伝い、風魔衆に降りそそいだ銅の網に到達する。
 絶叫が二十名以上の男たちの口から一斉におこった。男たちに降りそそぐ雨は、一瞬にして蒸発し、焦げ臭い煙と一つとなって、周囲を白く染めていく。
 石臼を回し続ける安兵衛が、背中から地面に落ちた。
 安兵衛の息が詰まる。それでも石臼を回す左手は止まらない。『呪言』の力はびしょ濡れになった安兵衛にも容赦なく襲いかかる。毛穴、口、鼻、耳、肛門。安兵衛の体の穴という穴から煙が空にむかって立ちのぼる。
 突然、石臼の回転が止まった。安兵衛が不思議そうに自分の左手を見る。左手はしっかりと石臼を回転させるための棒を握っていた。ただし自分の身体からは離れて……。


「やれやれ、皆から離れて正解だったな」


 声の主、破顔丸から静馬と呼ばれた青年が、刀を振るい安兵衛の首を斬り飛ばす。


「……たった一人に、三分の一はやられたか」


 銅の網を払いのけ立ちあがる者と、いまだにピクリとも動かず網の下にいる者を見比べながら、静馬は憂鬱(ゆううつ)そうに呟いた。
十九話 狂節出陣


「雨がやんだのう」


 雨の音に耳をかたむけていた犬山狂節(きょうせつ)が、誰に話しかけるでもなく、言葉を口にした。
 昨夜の風魔の里の襲撃後、八犬士は先に目をつけておいた、小田原城下からは少し離れた所にある朽ち果てた堂に身を潜めていた。朝から雨が降りだしてしまったので、すぐには動けず、いまも外に出ずに体を休めている。
 昨夜の風魔の里の襲撃は、残念ながら成功とは言えなかった。一番の標的だった風魔小太郎が不在であり、里の主力であろう者たちも揃って不在。こちらの手の内を知られる前に、小田原攻略の障害になりそうな者たちを排除しておきたかったのだが、そう事は上手く運ばないらしい。
 やはり、行動を起こすには少しばかり情報と時間が足りなかった。
 これまでひと所に押し込められていた犬八家に情報収集をすることなど不可能であったし、生野は犬八家を苦境から救う力を身につける為の十五年の旅路から戻ってからの一年半、『呪言』を八犬家に身につけさせるのにかかりきりで、北条の様子を探る暇などあろう筈もない。彼らが所持していたのは、協力者からもたらされたわずかな情報のみ。
 今回、ようやく八犬家代表の八人が屋敷を抜け出し、海を渡って相模に入った訳だが、すでに彼らには諜報活動に力をさく時間は残されていない。とてもではないが、乱波の集団風魔衆の動向を監視したり、小太郎や里の主力が戻るのを待つことなどできなかった。姿を消す『呪言』を持つお礼が、申し訳程度に敵方に探りをいれる程度のことが精一杯。



「それでは、行くとするかの」


 狂節が杖をささえに立ち上がった。


「夜が明けてからでもいいんじゃないかい。まだ安兵衛も戻ってきてないしさ」


 お(あや)の言葉に狂節は寂しそうに首を振る。


「わしも死ぬ前に、犬江の坊主の声を聞きたかったがのう。どうやら、今夜が限界のようじゃ。お前たちのそばで死ぬわけにはいかぬからな」
 

 狂節が戸の前に立つと、六人が立ち上がった。狂節は彼らに背を向けたまま言葉をかける。


「お前たちには本当に辛い思いをさせてしまった。すべてはわしら三代目の責任。それをお前たちにまで背負わせてしまった……。悔やんでも悔やみきれん。謝っても謝りきれん」


 小三治が噛みつくように言葉を返す。


「爺さん達のせいじゃねぇ。爺さん達も爺さんの爺さん達も、俺達も、ただ家族が大事で、家族を守ろうとしただけだろう」
 

 狂節はうむと短く答え、戸を開けた。雨の音で埋め尽くされていた世界は、今は虫の音でいっぱいだった。
 狂節は虫の音に誘われるように、一歩また一歩と歩みを進める。


「じ、爺ぢゃん」


 吉乃がたまりかねたように大きな声をあげる。


「ぎ、ぎをづけて」


 吉乃にかけられた言葉に、狂節の表情が和らいだ。死ぬために小田原へ行こうとする自分にふさわしい言葉ではない。だが、それだけに裏表のない吉乃の気持ちが真っ直ぐに伝わってくる。


「ありがとうよ。お前達も達者でな」


 これもまた、この戦の為にすでに命を捨てている六人にはふさわしくない言葉ではある。ただそうだとしても、これが狂節の偽らざる本音であった。
 六人に見送られ、狂節は杖を頼りに小田原城下をゆっくりと目指す。
 他の八犬士と別れ、一人歩く狂節の胸に様々な思いが去来する。
 この時より(さかのぼ)ること四十年ほど前。里見家は義成(よしなり)の嫡子義道からその子義豊の時代となり、八犬家は義道の弟実堯(さねたか)の配下としてそれぞれ城を預かる立場にあった。
 そのころ初代八犬士たちは、すでに家督を子供たちに譲り、富山と呼ばれる地に庵を築き隠棲し、実堯に仕えていたのは、彼らの子供である二代目八犬士であった。
 その子供たちが、直属の主である実堯と里見家の当主たる義豊の不仲を不安に感じ、初代たちの庵を訪ねたことが、現在の八犬家の受難の発端となったといえる。
 訪れた子息に、初代八犬士の中でも随一の策士であった犬坂毛野胤智(けのたねとも)は言った。


「先君の威光はすでに衰え、いままさに内乱が起きようとしている。実堯様と義豊様を諫《いさ》めようと思うたが、すでに隠居して久しい身。実堯様のもとに行くのも時が経ち過ぎやぶさかであるし、義豊様も賢明とは言い難いお方。諫めてもお聞きになるとも思えん。むしろ諫めた我らの命が危うい。危うき所には近づかず、乱れる国にはいない方がよい。故に我らは他の山に移る。お前達も我らと共に、他の地へと移ろうぞ」
 

 他の八犬士も各々の我が子に口々に言う。


「お前たちが迷い、今の職と禄を惜しんで、里見家を去らずに揃って居続ければ、必ずや我らの名を貶める事態になる。速やかに去るべきである」


 そう説き伏せたのである。
 二代目八犬士は、この時の初代の助言に従い、全員病を偽り、実堯からそれぞれ五千貫文ずつ与えられたうえで暇を許された。
 そうして彼らは家族を連れて、里見家を去ったのである。
二十話 三代目八犬士


 天文(てんもん)二年、里見義道の後を継いだ義豊は、水軍を率いる正木通綱《まさきみちつな》を配下とし、北条氏綱とも(よしみ)を通じて力をつけていた、里見実堯(さねたか)を稲村城に呼び寄せ、通綱共々殺害する。
 義豊はそのまま金谷(かなや)城にいた実堯の子である義堯を攻撃したが、義堯は氏綱の支援を受け反撃を開始。翌天文三年には遂に義豊を打ち破り、里見家の家督をその手中に収めた。
 その年のうちに、関東での覇権争いのため、一時は力を借りた氏綱と敵対することとなった義堯は、この争いに勝利するため、新たに強き力を求める。
 義堯は思い出した。かつて、父に仕えた尋常ならざる実力を持った者たちの存在を。
 その者たちの名は八犬士。
 彼らの力があれば、関東に覇をとなえるのも可能なのではないか。義堯はそう考えた。義堯は彼らを探させ、遂に二代目の八犬士を探しだすことに成功する。
 二代目は老いを理由に出仕を断ったが、彼らの息子三代目八犬士を代わりに仕えさせることを約束。義堯は各々知行五千貫文を与え、大兵頭(たいへいがしら)として三代目八犬士を召し抱えた。
 狂節を含む三代目八犬士は、すぐに上総(かずさ)真里谷(まりや)武田氏との戦に参加することとなる。
 狂節たちは、これまでその力の発揮しどころがなかった鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように暴れまわり、その戦いぶりは、誰にも初陣であることを感じさせなかった。
 策をたてれば変幻自在に敵を翻弄し、刃を振るえば一刀で敵を屠り、軍を率いればやすやすと敵を蹴散らし、兵と交われば巧みに心を掴む。慈悲深きその心根は、他の武士たちからも愛され、召し抱えられてふた月もしない間に、里見家に大きな影響を及ぼすこととなる。
 義堯は恐怖した。八犬士の有能さは義堯の想像を遥かに超えていたのだ。義堯が恐れたのは彼らの能力ばかりではない。義堯は彼らの血をも恐れたのである。彼らがひいていたのは八犬士の血だけではなかったのだ。恐るべきことに、彼らには里見家の血までもが流れていたのである。
 義堯にとって祖父にあたる安房里見家二代目義成(よしなり)は、初代八犬士の多大な功績を認め、八人いた姫をそれぞれに嫁がせた。そして、八犬士と彼女たちの間に生まれたのが、狂節らの父、二代目八犬士である。
 義堯は自身の歩んできた道のりを思い出す。義堯は本来里見家の当主にはなりえなかった。安房里見家初代義実から当主は、義成、義道、義豊と続く。父の実堯は義成の次男である。里見家の城をひとつ与えられ、一地方を任せられる存在でしかなかった。だが、実堯も息子である義堯もそれを不満に思っていたのである。
 その事実を、風魔衆に里見家を探らせていた氏綱が掴んだ。不満を持つ親子に氏綱は巧みに接近し、実堯・義堯親子は氏綱の誘いに乗る。
 その情報を掴んだ義豊が、内乱を事前に防ぐ為に実堯を殺害し、義堯のいる金谷城に攻め入る準備をしていると聞いた時、義堯の心に最初に沸いた感情は、父を失った悲しみや義豊に対する怒りではなかった。
 歓喜。
 父と自分が先に兵をあげれば、家督欲しさの反乱という汚名は避けられない。それでは戦に勝利したとしても、己の名に傷がつく。だが、義豊が実堯を殺害してくれたことで、義豊と戦う大義名分を義堯は手にいれることができた。仇討という名の口実を。
 ただ、戦に勝てねば義豊に謀叛人に仕立て上げられるのは明白。戦には勝たねばならない。勝算は充分にある。そのための氏綱との盟約である。たとえ里見家と古くから争ってきた北条家の力を借りたとしても、戦に勝ちさえすれば取り繕うことはできる。正当な理由を得たのなら、多少事実を捻じ曲げさえすれば、家名に傷をつけることはない。なぜなら自分は間違いなく里見家の血を受け継いでいるのだから。
 だが、そうやって手にした当主の座から、三代目八犬士を見ると、彼らにも同じことが言えるのではないかと不安を憶えずにはいられない。
 母方とはいえ、義成の血をひき、伝説ともなっている祖父たちに劣らぬ実力を持つ。さらには臣民からの人気もうなぎのぼりの八犬士。 
 そして義堯は、義豊から家督を奪うのに利用した北条を、将軍家の血をひく名門小弓公方(おゆみくぼう)の味方をすることを口実にあっさりと裏切った。義堯という里見家の中の味方を失った北条が、今度は義堯と同じ里見家の血をひく八犬士と手を組まないと誰に言えよう。
 八犬士は危険だ。だからといって、人気の高まっている彼らを理由もなしに排除はできない。罪を無から作るのは難しい、なにかひとつ、ほんの些細なことでよいから理由が欲しい。なにか口実は、よい口実はないか。
 義堯は初代八犬士達がいた頃からの里見家の目録を片っ端から調べさせると同時に、情報を商品とする者から初代八犬士達の隠棲(いんせい)してからの知りえる限りのことを買い取った。そして……遂に見つけた。
 義堯は八犬士が何度目かの戦に勝利したあと、八犬士全員を金谷城へと呼び出す。褒美として宴会を催し、食事に眠り薬をいれ、寝ている間に武器を奪って縛りあげた。
 目を覚ました狂節ら三代目八犬士は、事の成り行きに頭がまったくついていかない。戸惑いを隠せない八犬士に義堯は言う。反乱を企てた罪でお前たちを罰すると。
 驚いた八犬士は口々に、反逆の意志などない、反乱を企てたりなどしていないと申し開きをした。
 ところが義堯ははっきりと言う。いいやしたと。お前たち個人ではない。八犬家そのものが、里見家に対し弓を引いていたではないかと。
 首を捻る三代目八犬士に、義堯は八犬家が里見家に反乱を企てたという論拠をとうとうと語る。
 初代八犬士の代より、我が父実堯から恩を賜っておきながら、初代八犬士は実堯の救援に来るどころか、二代目八犬士と謀り、人の良い父相手に病と偽らせ、八犬家合わせて四万貫を騙し取ったうえで、他国へと逃亡させた。二代目八犬士は、その身に貴き里見の血を宿しておりながら、里見家分裂の危機に傍観するという悪手をとった。これは我ら親子と義豊の共倒れを狙い、あわよくば八犬家が里見家を乗っ取らんと企てていたこと明白である。
 その思惑は儂の力で脆くも潰えたが、今度はお前たちが儂に召し抱えられたのをいいことに、将兵に媚を売り、八犬家の陣営に組み入れんとの策謀お見通しである……と。
 自身の言いたいことだけを言いきり、暗い笑みを見せる義堯を見て、狂節を含む三代目八犬士は、これが逃れようのない罪であることを悟った。
二十一話 狂節対風魔


 あれから三十年。義堯が課した八犬家への罰は一族全員の監禁生活。死罪にしなかったのは、八犬士についてまわる、『呪い』を恐れてのものであろう。三代目たちは、この理不尽とも言える刑罰に対し、耐えるという選択肢を選ぶ。義堯の言ったことはあながち間違ってもいないと感じてしまったが故に……。 ただ、そのせいで罪のない家族には苦労を強いてしまった。
 本来なら、今の立場から脱却するのは、三代目の力で成し遂げたかったが、義堯の八犬家への怒り……いや恐怖は彼らの想像以上に根深く、家督を義弘に譲った今も監視の目が緩まない。
 もしかしたら、義堯が死ねば八犬家が解放される時がくるのかもしれない。だが、義堯の恐怖は死してなお呪いとして残る。かつて死してなお里見家に呪いを残した玉梓のように。
 呪いの力が恐るべきものであることを、八犬家は初代より語り継ぎ、嫌という程知っている。呪いは黙って待っていても消えてはくれない。己の力で打ち破るほかないのだ。
 一族の期待を背負い、一年半ほど前に八犬家へと帰還した生野が持ち帰りし力『呪言』。この力に、今日まで耐えきれた三代目は狂節一人のみ。他の八犬家は四代目すらも耐えきれず、一族の未来はまだ若き五代目に託された。犬山家の狂節だけが息子と孫のどちらも死なせぬ可能性を残せたことを考えると、狂節は他の三代目たちに申し訳なさを禁じ得ない。なによりも共に海を渡った、本来であれば未来があったはずの五代目達のことを思うと、胸が締め付けられる。
 小田原へと続く街道を、杖をつきつつ進んでいた狂節は物思いを中断した。彼の鋭敏な耳が、不自然な音を捉える。
 息を殺した呼吸音、風が揺らすのとは違うわずかに木立の揺れる音。
 上だ。街道の脇の木の上に誰かいる。必死に気配を隠そうとしているが、胸の底にたまった怒りの感情が、殺気となってにじみでている。


「風魔か」


 狂節が呟くと、はっきりと木立が揺れる。


「見つけたぞ。その風体。昨日、里を襲いやがった八犬士の一人だな」


 少年の声だ。まだ声変りも済ませていない甲高い声。


「いかにも、わしは八犬士が一人、犬山狂節。お主のような子供がでてくるとは、風魔も人手不足か……」


 狂節の言葉に、風魔の少年は木立を激しく揺らす。


「うるさい。餓鬼扱いするな。俺は昨日お前らを探し回っていて里にいなかったんだ。俺がいればお前らなんかに好きにさせたものか」


 風魔の少年が刀を抜く。


「わしは小田原の城下に用がある。邪魔するというならば、子供でも容赦はできぬ」


 風魔の襲撃は小太郎不在の為、全員が同行はしていたが、生野が小太郎屋敷を焼き払うに留めた。別に戦闘員よりも非戦闘員の多かった風魔に情けをかけた訳ではない。八犬士の命には限りがある。『呪言』の力は彼らに人知を超える力をもたらしたが、その力が身体に与える負担は大きい。小田原攻めの前に無駄遣いはできなかったのである。


「黙れ。偉そうなことを言うな」


 風魔の少年が、身軽にも木から飛び降り、姿勢を崩すこともなく着地すると、一気に距離を詰め、狂節に斬りかかる。
 狂節は少年のそんな見事な動きに慌てることなく、無造作に杖を横に振るった。


「いたっ」


 狂節の杖が少年の手をしたたかに打つ。少年は刀を取り落し、足も止まる。
 対して狂節の杖は止まることなく少年の喉をついた。たまらず、少年がのどを抑えて倒れると、狂節はすかさず少年の後頭部に杖を振るおうとしたが、その動きを途中でとめ、杖を顔の前にかざした。
 カッカッカッ。乾いた音がして狂節の杖に八方手裏剣が三つ刺さった。
 狂節が大きく飛び退くと、先程まで狂節が立っていた場所を八方手裏剣が通過していく。


「馬鹿が。我らを待てと言っておいたではないか。……よいか二人とも、そやつを目の見えぬじじいと侮るな。八犬士といえば、かつて里見の安房の統一に貢献した剛の者達。現にそ奴らは一昨日に北条の軍勢を退け、昨日は我らの里で好き放題に暴れたのだ」

「承知いたしました。目の見えぬじじいということは、こやつですね。虫を使って病を振りまいているかもしれぬというのは」

「そうか、こいつか……。準備します」
 

 三人の新手の声を聞き狂節は思案する。一人は壮年の声。残りの二人は若い。歳は倒れている少年の少し上ぐらいか……。若者の一人はこう言った。『虫を使って病を振りまいている』と。狂節が『呪言』の力を用いたのは一昨日の一度きり。昨日は寄って来た風魔衆を今さっきのように杖で打ち据えただけである。一昨日の生き残りの武者があの夜のことを伝えたとしても、あの一度きりで自分の『呪言』の仕組みを理解できたと言うのか。


(……敵に生野に匹敵する知恵者がいるか。ありえん話ではないが……)


 まぁいいと狂節は開き直る。仕組みがわかったところでそうそう対応などできるものではない。狂節が右眼の眼窩に住まわせている病を媒介させる蚊の数は三匹。いっぺんに殺すのは難しかろうし、仮に手でつぶせばそれが病の伝達となる。自分が死んでも病は残る。狂節自身の役目は小田原を攻めることではなく、小田原に混乱をひき起こすことであるからなんの問題もない。それに……。
 狂節がにんまりと笑う。


(わしが死ねば、わしは確実に小田原にたどり着く)

「我、貫く忠は、我が命より発す」

 
 瞼の下の半珠が輝きだすと同時に狂節は右目を開ける。『発』の文字を浮かびあがらせた半珠が静かに地面に落ち、夜道を照らす。

 ぷ~ん、ぷ~ん、ぷ~ん。

 狂節にとっては聞きなれた羽虫の羽音が、新手の風魔衆へと向かっていく。
 ふと、狂節の鼻が嗅ぎなれない匂いを嗅ぎつけた。何かが燃える臭いに混じって、気持ちを和らげる香のような匂いがする。
 狂節が匂いに気をとられたのもつかの間、耳が異変を感じ取った。蚊の羽音が聞こえなくなったのだ。嫌な予感が脳裏をかすめ、狂節は落ちた『発』の半珠をすぐさま拾い上げ、右の眼窩の前で振るう。
 おかしいと狂節が唸る。本来ならこれで戻ってくるはずの蚊が戻ってこない。何度も試すが羽音すら聞こえない。
 狂節の様子を見ていた壮年の風魔衆が高笑いする。


「ふはははは、驚いたか。きさまの術など我ら風魔にかかれば他愛もない。お主が一昨日小田原にまいた病も、すでに治まっておるぞ」


 狂節の半珠を振る手がとまった。いま聞かされたことは、狂節にとっては予想外である。お礼の姿を消す『呪言』も乱発はできないので、小田原城下の様子は確認ができていないが、病が広がっていることを狂節は確信していた。それほど狂節の生野に対する信頼は強い。
 風魔衆の言葉の意味を考えるに、一度は拡まったことは間違いない。狂節の『呪言』によって強化された病は、時間とともに消えるものではない。生物がいる限り、拡がっていくものだと生野から説明を受けている。
 つまり、誰かが対処したのだ。対処したとなれば医者ではあろうが、並の医者では自身も感染し、自らが感染経路の一つになるのが関の山であるはずなのに……。さらには夜の帳の中で小さな羽虫を殺すことにも、彼らは成功したらしい。
 三人の風魔衆が狂節を囲み、三方向から間合いをつめてくる。狂節は彼らの足音が近づいてくるのを、立ち尽くしたまま黙って聞いていた。
 抵抗をまったくみせない狂節の体に、三本の刃が深々と刺さる。狂節の手から『発』の半珠がポロリと零れる。


「見事なり、風魔。……だが、まだ終わらぬぞ」


 狂節が左目の瞼をあげる。三人の風魔の目が、現れた『忠』の半珠に釘づけになった。


「我、貫く忠は、我が命より発す」


『呪言』の重ねがけ。『忠』の半珠の輝きがさらに増す。
 狂節の右眼に(はま)っていた『発』の半珠は、人を死においやる病を持つ蚊を操るだけではなく、体内での活動を抑える力も有していた。この『忠』の半珠もまた、狂節の体に住むある虫の力を強め、逆に体の中では抑える働きをしているのである。


「死してなお恐ろしい、八犬士の牙を受けるがよい」


 左眼から『忠』の半珠が抜け落ち、両眼を失った狂節の首が、がくりと傾いた。
二十二話 小太郎三人を連れ走る


 小太郎は、煎十郎(せんじゅうろう)、時雨、乙霧の三人を連れ、八犬士の一人である老人を見つけたと報告のあった街道へと向かっていた。
 隣を走る線の細い青年を横目に捉えながらゆっくりと駆ける小太郎は、少なからず後悔している。煎十郎は引き続き、謎の病に対する備えとして、小田原城下の風魔屋敷に置いておくべきだった。


「……あの丸薬のようなものは、本当に効くのであろうな」


 背中に大きな箱を背負う煎十郎に問う。


「た、たぶんですけど。乙霧さんからお聞きした配合は、稲につく虫に効く薬によく似ていますから」


 煎十郎は息も絶え絶えに答える。日が落ちてぐっと気温が下がったが、煎十郎の額には玉のような汗が浮いている。どうやら、かなり抑えて走っている小太郎に対しても、ついて行くのがやっとのようだ。背中に重そうな箱を背負ってはいるが、仮に背負っていなくともさして変わりはなさそうである。
 煎十郎は乱波ではない。風魔の里に住む者すべて風魔衆ではあるが、乱波としての仕事を全員がこなしている訳ではないのだ。農作業に従事する者、仕事道具などを作るものなど、風魔衆の乱波としての活動を陰ながら支える者たちがいる。
 煎十郎もその一人だ。風魔の里では幼いうちに乱波としての適性をみられるが、煎十郎は同年代の子供たちの中で、身体能力においては一番の出来の悪さだった。
 だが、頭の出来はその逆。早々と植物に興味を持ちはじめ、薬草と毒草の見分け方、取扱いに関しては大人顔負けの才をみせた。それに目をつけた小太郎は、煎十郎を甲斐の国の医者のもとに修行にいかせる。煎十郎はそこでも才を見こまれ、その医者の紹介で京へ、そこからまた府内(ふない)へと移り、南蛮の医術の知識をも身につけ、一年ほど前に里に戻ってきたのだ。
 煎十郎が身につけた知識と技能は、充分すぎるほどの恩恵を風魔の里にもたらした。医術による死亡率の低下や、怪我や病からの早期回復にとどまらず、植物に関しての知識をもって、農作物の生育にも貢献してみせたのである。


(煎十郎にも存分に力を発揮してもらわねばならぬというのに……)


 小太郎は後方を時雨の隣で自力で走っている乙霧を、苦々しげにしり目にいれる。
 小太郎は夜が明けるとすぐに、動ける者すべてを集め、乙霧のことも含め、これまでの詳しい経緯を語って聞かせた。それが終わると、襲撃の内容や八犬士などの捜索に出ていた者たちの報告を受ける。
 乙霧は、風魔衆の報告だけでは満足できなかったのか、小太郎の愛娘時雨を中継役とし、情報収集を行った風魔衆に根掘り葉掘りと質問を繰り返していた。
 乙霧は決して自ら男には近づかなかったが、女は問題ないようなので、小太郎は時雨に乙霧の世話役を申しつける。時雨は近づかないながらも煎十郎に色目を向ける乙霧を、鬼のような形相で睨んではいたが、小太郎に命じられると、不承不承風魔衆と乙霧の間を取り持つ。ただ、乙霧が煎十郎の作業をうっとりとした表情で見つめていたり、いつ作り直したのか、あの糸のついた紙の筒で煎十郎にさかんに話しかけたりすると、父である小太郎さえも一歩引かせるような怒気を身に(まと)う。
 小太郎が八犬士発見の報に、四人で向かうことになったのも、一緒に連れて行こうとした乙霧が、煎十郎のそばを離れたくないと駄々をこね、それならば私もと時雨が言い出したからである。
 いっそのこと乙霧を風魔の里に置いてこようかとも考えたのだが、藁をも掴む思いで連れて来て里の者に紹介した手前、遊ばせておく訳にもいかなかった。
 小太郎は視線を乙霧から、煎十郎に渡された大きめの丸薬に移す。
 里を出る前に渡されたものだ。煎十郎が乙霧に頼まれ、手の空いている者たちに素材を急いで集めてもらったうえで作った物らしい。すでに再度八犬士捜索に向かわせた乱波の何人かには、同じ物を持たせている。
 もしも八犬士の一人である盲目の老人に遭遇した時には、これに火をつけて燻すと老人の使う『呪言』という力を封じることができると乙霧は笑って言った。他にもいくつか乙霧は、時雨の口を通じてそれぞれの八犬士に出会った時のできうる限りの対応を風魔衆に指示していた。


蚊遣火(かやりび)と似たようなものでございます」


 小太郎が丸薬を見ていることに気がついたのだろう乙霧が、小道具など用いなくともはっきりと聞こえる声で小太郎に話しかけてきた。


「ただ、蚊遣火とは違って追い払うためのものではありませぬ。殺すための煙をだします」

「八犬士の年寄りは、蚊を使うか」

「確かではありませんが、煎十郎様からお聞きした、病に罹られた方の症状から察しますと、その可能性が高いのではないかと」


 小太郎はわかったと頷いた。


「お主の予測が当たっておれば、これでそやつを無力にできるということだな」


 乙霧は形の良い眉をひそめた。


「それはどうでございましょう」

「どういうことだ」

「風魔の方からその老人に関して、ひとつ気になることをお聞きしました。一昨日の戦から戻り亡くなられた武士の方が伝えられたところによりますと、その老人の瞼で塞がれた両目から光が漏れだしたかと思うと、右眼を開き、そこから光る珠が落ちて、その後になにか羽音のような音を聞いたと。
 ……なぜ片眼しか開けなかったのでしょう? 光は両眼から漏れたのに」

 
 小太郎はそれが大事なことかと首を捻る。


「ここまで皆様が必死に集めてくださいました情報を整理いたしますと、姿を確認されている七人の八犬士のうち六人は身体の二ヶ所に光る珠があることを(さら)しております。なのにその老人だけは、残る左目にもう一つの光る珠が隠されているであろうことがわかるのに、晒してはこない。……さして意味はないのかもしれませぬが、……気にかかるのでございます」


 これ以上は直接相対してみなければわからないのであろう。乙霧がそれきり口を閉ざす。
 それから少しばかり進むと小太郎の目に風魔衆の姿が映る。近づきながら目を凝らすと、風魔衆三人の向こうに、三本の忍刀で体を刺し貫かれた老人が確認できた。


「おお、頭領。今しがた八犬士の一人、討ち取りましたぞ」


 小太郎に気がついた壮年の風魔衆が、狂節から刀を抜いて小太郎に向きなおり、片膝をついて笑顔をみせた。両隣の若い二人もそれにならう。
 小太郎は、身体を支えていた三本の忍刀を抜かれ、地面にうつ伏せに倒れようとしていく狂節の姿を一瞥し、三人に視線を戻す。


「でかした。お前たちは大事ないか」

「はい。我らはなんともございません。が、一人先走りまして……」


 狂節の死体のむこうで倒れていた風魔衆の少年が、ふらつきつつもなんとか立ちあがる。


「面目ございません」


 喉を押さえ、苦しそうに声をしぼり出す。
 目を険しくした小太郎だったが、すぐに思い直したように目元を和らげた。


「よい。病にやられたわけではないのだな」


 少年が、駆け寄った若者の一人に肩を貸してもらい答える。


「……はい。杖で喉と手を打たれただけでございます」

「この先、同じような不覚をとらぬよう精進せよ」


 少年が頷いたのを見て言葉を続ける。


「連絡は来てはおらぬが、他の道に残りの八犬士が来ておらぬとも限らん。皆、疲れているとは思うが、二人はこのままここを見張り、他の者は小田原に―――――」


 戻れと言おうとした小太郎は、驚愕で言葉を失った。
 立ちあがっていたのだ。死んだと思っていた狂節が。
二十三話 狂節の『呪言』


「後ろじゃ! そやつまだ生きておるぞ!」


 小太郎の声に、壮年の風魔衆がすぐさま反応し、ふりむきざまに狂節の胸に忍刀を突きさす。
 だが今度は狂節の動きはとまらなかった。刀がより深く刺さるのにも構わず、前に進み出て壮年の風魔衆の肩を掴み、のしかかるように喉元に噛みついた。
 壮年の風魔衆の口から悲鳴があがる。


「おのれ、死にぞこないめ」


 若い風魔衆の一人が、狂節の首めがけて忍刀を真一文字にふるい、狂節の頭と胴を斬り離す。
 恐るべきことに、それでも狂節の体は倒れない。倒れたのは喉元に狂節の首を残した壮年の風魔衆の方だ。どうっと音をたてて仰向けに倒れる。
 残された胴体は、まるでそれが意志を持っているかのように、首を斬り離した若者に向きなおり、眼もありはしないのに正確に若者に向かって歩きだした。
 小太郎が狂節の背中に棒手裏剣を命中させるが、首を斬られても動く体がそれでとまるはずもない。
 胴体だけの狂節が、金縛りにあったように動けなくなった若者に掴みかかり押し倒す。若者が悲鳴をあげ暴れだしたが、跳ね飛ばすこともできずに、狂節に肌を掻きむしられる。
 若者を助けに行こうとした小太郎の足を、別方向からあがった悲鳴がとめた。
 狂節に喉を噛みつかれた壮年の風魔衆が、いつの間にか立ちあがり、喉に狂節の首をつけたまま、狂節に怪我を負わされた風魔衆に肩を貸していた若者に噛みついていたのだ。若者が叫びながら、壮年の風魔衆の腹に刀を突き刺す。刃が背中から突き出たが、壮年の風魔衆はまったく意に介さない。
 肩を借りていた少年は投げ出され、泣きながら這ってその場を離れる。
 なにが起きているのか把握できない小太郎が、視線を狂節の体に戻すと、こちらも理解できない状況になっていた。
 先ほどまで襲われていた若者が、狂節の首なし胴体と並び立っていたのである。若者の目から光は失われ、体のいたる所から血を流したまま、小太郎に歩み寄ろうとする。隣の首なし狂節も同時に小太郎に歩み寄ろうとしたものだから、二人はぶつかり合い、もつれ合って地面に転がりあう。


「小太郎様、離れてくださいまし!」


呆然としていた小太郎を現実に引き戻したのは、乙霧の鋭い一喝だった。


「これが『呪言』とやらの力に相違ありません。彼らに触れられてはいけません。呪いに巻き込まれます。煎十郎様、時雨様も、そちらの坊やを連れて先にお逃げください」


言いながら小太郎達とすれ違わぬよう、街道の脇にずれる。


「どうすればよい。策はあるか」


 一足飛びに狂節達から離れた小太郎は、這っていた少年を助け起こすのは煎十郎に任せ、乙霧に問いかける。


「小太郎様は一足先に小田原へ戻り、この街道の城下手前に彼らを落せるような穴を掘らせてください。それから、彼らを燃やせるように、油と火矢の用意をお願いいたします。できれば彼らを突き離せるような長い棒も皆に持たせてください」

「そなたはどうする?」


 煎十郎達を押すように乙霧の前を通り抜けながら、小太郎は言葉を投げる。


「私は、あの方達が他の場所に行かぬよう引き寄せながら戻ります」

「そ、それは危険です! あれはどんな病かわかりません。治せるかどうかも……」


 煎十郎がそう声をあげると、乙霧の声が明るいものになった。


「まあ、心配してくださるのですね。嬉しいです。ですが御心配には及びません。ほら、すでに彼らはついてこれなくなっております」


 小太郎が振り返ってみると、確かに壮年の忍びに襲われた若者も含めて四人、こちらに向かっては来ているが走ってはいない。その動きは酷く緩慢である。こちらは小太郎以外、一流の乱波とは言えない走りだが、それでも追いつかれはしまい。


「それに……先ほどの倒れる様をご覧になったでございましょう。知恵あるものの動きではございません。逃げに徹すればつかまることはございますまい」


 乙霧はですがと顔を曇らせる。


「放っておけばどこに行くかわかりませんし、病……いえ、呪いが移るのがあまりに早い。なにも知らぬものが襲われれば、呪いが拡がりかねません。見失う前に始末をつけねば」

「わかった。囮は一人でよいな。わしは先に行くが、お前たちもできる限り急げ」
 

 他の三人にそう声をかけ、小太郎は迷わず足を速めようとした。
二十四話 冷ややかなる炎


「私も残ります! 私はこの方の世話役です!」


 走りかけた小太郎の足が思わず止まる。これまでこの世のものとは思えぬ光景に呑まれていたのか、一言も話さなかった時雨が叫んだのだ。
 そんな時雨に乙霧は冷たく言い放つ。


「不用です。小太郎様が仰った通り、囮は一人で充分」

「ならば私が囮になります!」

「私は皆様と逃げると、もしものことがございます」

「ならば共に残ります! 客人一人を残し、先に逃げるなど風魔の名折れ! 風魔の名は私が守ります!」


 時雨の高らかな宣言を聞いて目を丸くした乙霧だったが、すぐにころころと笑いだす。


「なにをされようと、私は恋心に手心は加えませんよ?」

「それこそ不要です!」


 乙霧は楽しそうに眼を細めて小太郎に向き直る。


「さぁ、小太郎様。お急ぎください。最低でも四人まとめて、腰のあたりまではしっかりと落せる穴が必要ですよ。囮は私と時雨様が努めますので」

「……わかった。二人とも決して無理はするでないぞ」


 ため息をひとつついてそう言うと、小太郎は全力で走り出す。本気の小太郎は速かった。すぐさま煎十郎達を抜き去り、あっという間に四人の視界から消えて行く。
 小田原に用意されている風魔屋敷に駆け込んだ小太郎は、息つく間もなく、乙霧に言われた通りの準備を風魔衆に急がせた。
 乙霧達が進んでくるであろう街道の、小田原城下町少し手前に、急ごしらえの落とし穴をなんとか掘り終えた頃、煎十郎と少年が姿を見せる。


「頭領。間もなくです。間もなくお二人が、彼らを誘い寄せてここに参ります」


 足をもつれさせながら、なんとか前に進み続ける煎十郎に代わり、足を挫いている少年が小太郎に報告する。小太郎は二人を下がらせ、乙霧と時雨を待つ。するとすぐに暗がりから狂節達を引き連れた、乙霧と時雨の姿が現れる。


「父上!」

「小太郎さまー。私は皆様の所に近寄れないので、囮を変わってくださーい」
 

 迫る恐怖に切羽詰まった時雨の声とは対照的に、乙霧の声は得体の知れない呪いに捕らわれた者たちの囮役をやっているとは思えない、のんきな声であった。
 しかも、往復でそれなりの距離を動きやすいとは思われぬ着物で走ったにも関わらず、乙霧は息も切らしていなければ、汗ひとつかいている様子が見えない。一夜の里から風魔の里まで小太郎に台車を牽かせたのはいったいなんだったのか。
 小太郎は文句を言いたいのを抑え、二人に向かって大声で叫ぶ。


「時雨も乙霧と共にどけておれ。あとはわしが引き受ける!」


 道から大きくはずれた二人に代わり、不気味な足取りで追ってきた狂節たちの前にでる。
 乙霧が小太郎に囮を代わるように言ったのは、狂節たちの呪いを間近で見ていない者では、彼らの緩慢な動きを見て油断をしかねないからだろう。武器が刺さろうが、首を落されようが動き続け、さらには呪いで仲間まで増やす。彼らの真の恐怖は、実際に目の当たりにしなければわからない。


「油と火の用意をせよ!」


 小太郎が怒鳴る。首なし狂節を先頭にした四人にも声が届いているだろうが、彼らはただまっすぐに、一番そばにいる小太郎に向かってくるのみ。
 小太郎は、彼らに体を向け警戒しつつ、後ろ向きにさがる。穴の手前まで来たことを悟ると、まるで背中に目がついているのではと思えるくらい見事に後ろ向きのまま穴を跳び越えた。
 それとは対照的に呪いに支配された四人は、芸もなく直進し、無様に穴へと落ちていく。


「今じゃ、油を撒けい! 火をかけよ!」


 風魔衆は、首のないまま動く体にも驚いたし、穴に落ちた敵の中に、仲間の顔も見つけたが、頭領の命令は絶対である。彼らはためらうことなく小太郎の指示に従った。
 穴の中から火の手があがる。穴の中で倒れていた四人が、体に火を纏いながらも立ちあがる。それほど深く掘れた訳ではない。腰の高さほどしかない。それでも彼らは穴からでられなかった。体に火がついても暴れることもなく、ただ人に向かって歩こうとするだけ。地表に手をついて身体を持ち上げようとする、人間ならば誰でも考えて実行に移すことを彼らはできなかった。どんな状態になっても動けるが、体の使い方をわかっていない。


「足を掴まれるでないぞ。触れられただけでも呪いがうつると思え。あやつらと同じ穴に落とされたくなくば、棒でついて距離を取れ。こやつらには棒を掴むという知恵すらない」


 小太郎の言う通りであった。穴の端に近づいては棒で押し返される。ひたすらにこれの繰り返し。
 火が強まり、体の表面が炭のように黒くなっても、嫌な臭いを放ちながら、穴の中の四人は愚直に人を目指す。


「動かなくなっても火を絶やすことのないようにお願いいたします。灰になるまで燃やし尽くし、そのまま埋めてしまってください」


 乙霧の声が後方より聞こえ、小太郎は振り返り乙霧を見る。乙霧は涼やかな顔で、風魔の作業を遠目に見ていた。
 その顔は、小太郎の心胆を寒からしめた。
 あの娘もたいがい化け物である。確かに知恵は働くようだが、恐ろしいのはそこではない。この世ならざる光景を目にしながら、まったく動揺を見せることなく、普段通りに頭を働かす。その美しすぎる外見もあいまって、彼女自身がこの世の者ではないような気がしてくる。
 小太郎は恐れるように乙霧から目をそらし、作業を配下に任せ、その場を離れた。
二十五話 戻りし精鋭達


 小太郎が小田原城内の風魔屋敷へ向かっていると、屋敷のある方向へと高速で駆けて行く集団がいた。
 風魔衆だ。皆、氏政の軍に従軍させた風魔衆きっての強者達。
ようやく戻った。
これで八犬士との戦をさらに有利に運ぶことができる。


「破顔丸、静馬。戻ったか」


 集団に駆け寄りながら、先頭を走る二人の名を呼ぶ。
 集団が小太郎を見とめ立ち止まり、全員が片膝をつく。


「おお、お頭。こちらにいらしたか。破顔丸、ただいま戻りました!」


 力強く返事をする破顔丸に対し、静馬はただ頭を下げるのみ。
 二人の後ろに続いていた者達は口々に小太郎に挨拶をしていく。


「うむ。皆、ご苦労であった。しかし、指示した数より少ないのではないか。それに般若はどうした? 里におるのか?」


 破顔丸は気まずそうに下をむく。小太郎の問いに答えたのは静馬だ。


「小太郎様。申し訳ございません。ご指示通り、二十五名をこちらで選び、馳せ参じようとしたのでござりまするが、実はこちらに戻る途中、八犬士の一人と思われる若者と遭遇いたしまして」


 小太郎は目を見張った。
 その様子に破顔丸が強気を取り戻したのか、静馬から話の続きを奪い取る。


「どうやら我らが戻るのを事前に知っておったようですな。待ち伏せをうけ、情けなくも未熟な者たちが次々と……しかし、間違いなくそやつは討ち取りました。証しはここに」


 破顔丸が手にしていた布包みをほどき、地面に犬江安兵衛の生首を転がした。


「こやつが八犬士の一人か」

「いかにも」


 小太郎は足元に転がって来た生首をいやそうに見やる。


「……首から下はどうした?」

「は?」

「……いや、なんでもない。気にするな」

「は、はぁ」


 なにせ先程まで首がなくとも動く八犬士と相対したばかりである、ひとりひとり『呪言』の力は違うようではあるから、心配はないのだろうが、こうして話している間にも、どこからか小田原に迫っている首なし八犬士がいる気がしてならない。
 小太郎は嫌な想像を振り払うように首を強く振り、破顔丸たちに視線を戻す。


「ここでは目立つ。続きは屋敷で聞こう」

「はっ」


 破顔丸も他の者と揃って返事をしたが、首を見た小太郎の反応が望むものとは違い、面白くなさそうに転がした首に手を伸ばした。
 ところが、破顔丸が生首を掴むより早く、横から飛び出してきた白い大きな犬が首をかっさらっていく。


「あっ!」


 破顔丸が慌てて背中の金棒に手を伸ばすが、犬は脇道にさっと逃げ込み破顔丸の視界から消えた。


「放っておけ」


 追いかけようとした破顔丸を、小太郎の冷たい声が静止する。


「我らの役目は首を集めることではない。やつらの数が減ったのならばそれでよい。行くぞ」


 小太郎たちが歩き出してもなお、破顔丸は犬の消えた脇道を睨んでいたが、やがて忌々しげに唾を吐き捨てると、小太郎たちのあとを追った。
 小太郎は風魔屋敷に戻ると、奥座敷へと直行し、皆を座らせ早速報告を聞く。
 全員を代表して報告するのは、やはり破顔丸である。


「敵は先ほどの首の者だけでございましたな。しかしながら、報せの通り面妖な術を使う者でございまして……。一人襲っては逃げ、また一人襲っては逃げを繰り返し……しかも未熟者を見抜く目に長けた輩で、ようやく拙者が討ち取った時には、六人がやられ申した」

 
 小太郎は胡散臭げに破顔丸を見る。
 なにせ、全員子供の頃より知っているのだ。性格ぐらいは把握している。破顔丸は腕はたつが、いささか自身の力を誇張したがるところがある。本来であれば報告役に向いている男ではないのだが、力を尊ぶ意識が根強い風魔衆では破顔丸の若者達から向けられる信頼は、小太郎の意志に反して強い。本人がやりたがれば、ここに集まった者たちの中に口出しをする者はいない。


「般若はどうした。そやつが、まことに相手の腕を測ることができ、弱い者から襲ったというならば、お前たちを襲う前に奴を襲うことはあるまい」


 小太郎の言葉に破顔丸は苦々しげに答える。


「……兄者は氏政様のもとに残った」

「なぜだ」

「兄者自身が残ると言い出したのだ! おそらく戦で手柄でもたてて氏政様に直接取り入ろうとでも考えたのだろうよ!」


 破顔丸はまくしたてるように早口で非難ともとれることを口にする。
 般若は彼の実兄であり、頭領である小太郎を除けば風魔衆一の実力者。五代目小太郎にもっとも近いと言われる男であり、破顔丸の行動にでさえ好き勝手に口出しできる唯一の存在。ようするに破顔丸にとって、目の上のたんこぶである。
 小太郎が氏政の軍に従軍した風魔衆に送った指示は、小田原に害をなす八犬士を始末するために、人を屠る技に長けた者二十五名を里に戻すようにといったものである。
 名指しで指示しなかったのは、こちらで選別している時間的な余裕がなかったからだが、最低限必要な者は戻るであろうといういささか甘い考えもあった。
 小太郎が戻ることを確実視していたのは十人。破顔丸と静馬も含まれている。戻った十九人の中に足りないのは二人。風魔最強の般若、そして風魔最速を誇る空座《からざ》。
 吠えたきり押し黙ってしまった破顔丸に代わり、静馬が口を開いた。


「小太郎様、その件に関しては私も同意いたしました」


 小太郎は目線で静馬に続きを促す。


「得体の知れぬ八犬士に対し、風魔の精鋭をあてるという小太郎様のご意向、もっともとは思います。おそらく氏康様直々のご命令でもあるのでございましょう。しかしながら申し上げます。これからの北条をしょって立つのは現当主氏政様にございます。それゆえ小太郎様も氏政様に我らをおつけになった。
 ……だというのに、氏康様の命であるからと、すでに北条家にも名が売れている般若を引きあげさせたとなれば、氏政様の風魔への心証悪くなること間違いございませぬ。それはこれからの風魔に、暗雲を立ち込めさせる要因となりましょう」


 むぅと小太郎は唸る。静馬の言うことはもっともである。氏康の圧倒的な威圧感の前に冷静さを欠いていたと思い知らされる。


「わかった、もうそのことは問わぬ。話を八犬士に戻すが、今しがたこちらでも八犬士のひとりを討ち取った」


 おおと破顔丸達から声があがる。


「残る八犬士は六人。なんとしてでも始末せねばならん。お主たちの働きによっては、特別に褒美を与えることも考えておる。お主たちがこれまで鍛えてきた技。存分に発揮せよ」


 十九人が揃って平伏した。


 小太郎は、皆に今日はもう休むようにと申しつける。
 全員が立ちあがり広間を出て行く。


「静馬、お前は残れ。少々聞きたいことがある」


 小太郎がそう静馬に声をかけると、破顔丸が不服そうに顔をしかめたが、声にだしてはなにも言わず、広間をでていった。
二十六話 乙霧の婿


 静馬以外が広間から出ていくと、小太郎は静馬に座るよう促す。
 静馬が小太郎と正対して座ると、小太郎は待ちきれんとばかりに話しを切りだす。


「詳細をきこう」


 静馬は苦笑するも、言葉には逆らわず、破顔丸が動けなくなっただけで息のあった者たちの止めを刺したことだけを伏せ、犬江安兵衛との遭遇戦の内容の全てを小太郎に報告する。


「……あの空座が相討ちか」


 空座の修練により身につけた脚力を知っているが故に、その空座と同等の速さで走ってみせたという八犬士の『呪言』は、小太郎にとっては信じがたいものであった。たとえ信を置いている静馬の報告であっても、あの首なしで動く八犬士を見ていなければ、信じ切れなかったやもしれぬ。
 しかし、続く静馬の言葉はさらに信じがたいものであった。


「拙者の見立てでは、かの鉄脚の八犬士。全力をだせていなかったように思えます。全力を出されていれば、空座でも追いつけず、被害はもっと大きくなっていたかもしれませぬ。鉄脚の表面に小さな稲光がいくつも放たれておりましたが、本来それは鉄脚の中に送られる稲光であったように思うのです。
 半分は勘でございますが、鉄脚の表面が雨で濡れていたことが原因ではないかと。おそらくあの男の『呪言』とやらは雨に流れやすい代物であったのでしょうな」


 小太郎は嫌なものを見る様な目つきで静馬を見る。頭の良さは煎十郎に勝るのだが、こちらにわからぬことを平然と口にする。あの乙霧と同類の得体のしれなさがあるのだ、この男には。とはいえ、今はこの化け物じみた男が頼りになることは間違いない。ともすれば、もうあの乙霧に頼らぬとも、この戦を勝利に導ける芽がでてくるかもしれない。


「静馬。お前には先に話しておく」


 小太郎は犬山狂節を討ち取った経緯も含め、これまでのなりゆきを静馬に話して聞かせる。
 静馬は顔色ひとつ変えることなく小太郎の話を聞く。最後にただ一言「面白い」と呟くばかりであった。


「お前であれば、あの娘に頼らずとも八犬士への対応策思いつくであろう」

「無理ですな」


 小太郎の願望のこもった一言を、静馬はにべもなく一刀両断に斬って捨てる。


「なぜじゃ?」

「知恵を支える知識量が圧倒的に違いますな。拙者も一夜の噂は少しばかり耳にしておりますが、海の向こうからも貪欲に情報をかき集めて来るような一族で育った者と、この小さな国で閉鎖的に暮らし、力づくで他者から奪うことを生業とする里で育った者とを、比較される方がどうかと」


 風魔衆自体を否定するような静馬の言葉に、小太郎もさすがに表情を険しくする。


「さようか。知恵が追いつかぬと言うならば、お主が風魔の為にすることは一つじゃ」

「八犬士を斬ることですかな?」

「それは他の者でもできる。お主、一夜の婿にいけい」

「は?」


 乙霧という娘に好きに選ばせる訳ではないのかと、不思議そうにする静馬をよそに、小太郎は怒りを滲ませた表情のまま、庭に面した障子を開け、誰の姿も見えぬ庭に向かって声をかける。


「今日はご苦労であったな。幻之丞殿の言われた通り、見事な頭の冴えであった」


 木陰からその言葉に誘われるように乙霧が姿を見せた。


「うふふ、小太郎様こそ、使命を果たすために犠牲をいとわぬそのお心。感服いたしました」


 目の前で犠牲になった三人を思い出し、小太郎は顔をしかめた。


「好きで犠牲にしたわけではないわ」


 すでに風魔は少なくない被害を出している。小太郎屋敷を全焼しただけでなく、死者の数も、先ほどの静馬達の報告を合わせれば二桁を超えた。八犬士を倒せたとしても被害が大きくなりすぎれば、乱波としてたちゆかなくなる。一人前の乱波を育てるのは難しい。時間もかかる。簡単に失ってよいものではない。煎十郎に医術を学ばせたのも、少しでも里の者の生存率を高める為だ。
 それでも必要とあれば、容赦なく切り捨てねばならない。情に流されず必要なことをする。それが風魔衆の頭領たる風魔小太郎の役目。


「予定よりも数が減ったが、先ほど戻った者達は、ここにいる静馬も含め、我が里の中でも、特に腕に覚えのある者たちだ。八犬士にもひけはとらぬ」


 聞いているのかいないのか、乙霧は夜空を眩しそうに目を細め、見上げている。


「お主の婿は、この静馬とする」

「お断りいたします」


 乙霧は間髪入れずに返答をした。遠慮のない物言いに小太郎はまたかと叫びたくなる。
 静馬といいこの乙霧といい、風魔の頭領たる自分をいったい何だと思っているのか。
振られた当人は、なにが楽しいのかニヤニヤと笑っている。小太郎からすれば静馬は男子の面子を潰されたようなものだ。乙霧を怒鳴りつけることくらいはしたらどうかと思うのだが、いかんせん子供の時分から知ってはいても、この男だけは底が知れぬ。
 とはいえ今の問題は乙霧である。



「煎十郎はいかん。あやつの代わりになる者はおらん」


 それは知と武にも優れた静馬と比較してでもである。それだけ煎十郎の修めた医術は貴重なのだ。
 小太郎の発言を聞いても、乙霧は遠慮をするどころか、口に手を当ててくすくすと笑いだす。


「ご冗談を」

「冗談などではない! なんのためにわしが煎十郎を里の外に修行に行かせたと思っておるか!」


 乙霧は小太郎の眼を真正面から捉えた。小太郎の背筋に冷たいものが走る。


「小太郎様が必要とされていらっしゃいますのは、煎十郎様の知識と技術でございましょう。私は違います。煎十郎様自身が必要なのです。私の夫として」


 小太郎はわずかに生じた怖気《おじけ》を振り払おうと声を荒げる。


「それこそ、煎十郎である必要がなかろう! お前ほどの器量ならば、相手が誰であろうが、一夜衆の望む外見の子供が生まれるであろが!」

「一夜が求める子は、ただ外見のよい子ではありませぬ。人を魅了する子。生まれながらにして華のある子。わたしと煎十郎様との間にはそういう子が産まれます」
 

 小太郎は眉間を押さえた。


「ほう。産みもしないうちから、なぜそんなことがわかるのかな」


 尋ねたのは小太郎ではなく静馬だ。彼は好奇心が抑えられないのか、目を爛々と輝かせ乙霧に尋ねる。
 乙霧は、その質問に自身の下腹部に手をあてて答えた。


「ここがそうだと申しております。煎十郎様を迎え入れよと、あの方の子種を頂戴せよと」


 小太郎は眉をしかめて訝しみ、静馬は更なる興味に眼を輝かせる。


「わたしも、同じことを母や里のねえさんたちに聞かされた時には疑いました。里の中で夫婦になっている人たちもいるのに、わたしのここは、これまで語りかけてくることはございませんでした。ですが、ここに来てその話が本当であったことを知りました」


 乙霧はうっとりとした顔で、また夜空を見上げた。


「……駄目だ。なんと言おうと煎十郎はいかん。静馬で駄目なら他の者にせよ」

「無理です」


 乙霧はまたしてもあっさりと言葉をかえす。


「煎十郎様は、風魔とわたしでしたら、最後には必ず私を選びます。いますぐ連れて行かないのは、小太郎様と幻之丞様との間にお約束があるからにすぎません」


 小太郎は忌々しげに乙霧をにらみつける。この自信はどこからくるというのか……。


「乙霧殿と言ったか……。たいした自信だが、煎十郎はああ見えて手強いぞ」


 時雨殿もいるしなとの言葉は、小太郎の手前避けたが、静馬はあの二人がお互いを憎からず想いあっていることを知っている。
 乙霧は確かに美しい。彼女に夫にと望まれれば、誰一人悪い気はしないだろう。ただ実際に夫になるかどうかは別だ。お互いの感情だけで夫婦になる者など、この世の中では稀であろう。
 煎十郎は里の外で生きた時間が長いとはいえ。幼いころに風魔の生き方、考え方を叩きこまれた男だ。頭領である小太郎の命令には逆らわない。煎十郎は気の弱いところがあるから、余計に逆らえないだろう。例え時雨と恋仲であったとしても、小太郎が首を縦に振らぬ限りは、煎十郎にはなにもできまい。
 ところがである。煎十郎は自分には逆らわない。小太郎の中にもその自信があるのに、いま乙霧に煎十郎は自分とともに来ると言われた時、なぜか、ああ、そうなるのだろうなと小太郎は納得してしまった。
 駄目だと小太郎は自身を叱責する。このような弱気ではと。
 この娘は役に立つ。小太郎が風魔の智者として最も信頼する静馬が敵わぬと言ったのだ。この娘の持つ知恵と知識は今の風魔には必要だ。だからこそ考えねばならぬ。眼の前のモノノケのような娘に、煎十郎を、風魔の宝となりえる男を、婿に持っていかれぬように。
 そのためには、静馬の力が必要だ。本人が否定しようとも。風魔衆の中でこの娘の知恵に抗いうるのは静馬のみ。
 小太郎が視線を静馬に戻すと、静馬とはっきりと眼があった。静馬の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
 まるで、小太郎の考えていることなど、全てお見通しだと言わんばかりに。