出番を終えると、みんなが私たちの所に来てくれた。
奏と千沙は、一番先に駆けつけて、よく調べたね、堂々としていたよ、と讃えてくれた。二人とも、私よりずっとたくさんの観客の前で舞台に立ち、見事な演技を披露していたのに、まるで共演者みたいに肩を抱いてくれたのが嬉しかった。
家族が思いのほか感激していたのには驚いた。
たかが学園祭の研究発表でどうして涙を浮かべているのだろう、と思ったが…大病を乗り越えた娘が一年遅れで高校生になり、当たり前に学校生活を送っているのを目にしたのだから無理もない。観客の前で一人前の顔して喋ったのだから、胸にためていたものが溢れたのだろう。感極まって目がしらを抑えた父も、私の手を取って何度も頷いた祖母も、意味深な仕草でぐりぐりと肘を突き立ててきた琴も、特別な思いで足を運んでくれたに違いない。
そこに思い至ったら、私も涙を抑えられなくなった。まるで、長い間縛られていたものから解放されたみたいに体が軽くなった。本当に、ただの研究発表の場なのに、四人の間に温かく湿った空気を作っていた。
凪さんは、テンドウに一声かけ、私に向けて目礼すると、そのまま図書室から出ていってしまった。
どうして、一緒に行かなくていいの?
テンドウの袖を引っ張って合図したが、彼は、いいんだ、と言う顔でうなずいた。そして、私の家族の所に来て、一緒に研究してたくさん助けてもらったこと、川越の家を訪れた際にお世話になったことなどなど、ちゃらんぽらんな天道くんとは思えない慎ましい態度で、父や祖母に挨拶してくれた。
ちなみに、この時の行動一つで、我が家でのテンドウ株は最高ランクに格付けされ、不動の地位を獲得した。何事にも厳しい祖母まで、彼が持ち合わせているものと将来の伸びしろを高く買っていたから、つくづく好かれる人柄なんだと思う。
それから最終組のプレゼンがあって、先生方の審査が行われた後に結果発表があった。
テンドウと私は、八組参加した中で準優勝した。果たしてどんな結末になるか、およそ見えなかった所から始めたにしては、とても満足できる結果だ。いや、テンドウも私もこの三か月の間に変わったから、ここに辿りつくことができたのだと思う。二人で組んでなかったら、準優勝どころか発表することすらできなかったに違いない。
二人揃って登壇し、たくさんの拍手を浴びた私は、ふわふわと空を飛んでいる気分で掌サイズのトロフィーを受け取った。
壇上から降りると不意に、もう終わりだ、明日から天道くんとリンちゃんに戻ってしまう…そう思いながら大きな体を振り返っていた。
いろいろとあったけど、テンドウと組んでよかった。ありがとう…。
そこにいてくれるのがとても心地いい、とびきり素敵な顎の輪郭を見上げているうち、彼が手を差し出し、私の手を取って言った。
「リンのおかげで準優勝できた」
「うん…」
「一緒にやってくれてありがとう。どんなに感謝してもしきれない…」
何かを手に入れた、自信に満ち溢れた表情で私を見つめてくる。と思ったら、じゃあな、と繋いだ手をあっさり放して行ってしまう。
まるで春のそよ風みたいな彼の体温をもっと感じていたかったのに。長い間求めていたものを見つけた気がしたのに、それが瞬く間に掌から零れ落ちた気がして、私はいつまでも、その場から動くことができなかった。
祖母が一人で暮らす旧家から私たちのマンションにやってくるのは、父が仕事で遅くなる日と決まっている。嫁入り前の娘たちだけで夜を過ごさせるわけにはいかない、などと昭和時代のセレブめいた気概で乗り込んで、部屋の掃除や夕飯の支度といった普段、私たちがやっていることにまで首を突っ込み、夕飯を共にして、父が帰ってくるとお暇する。つまり、とてもめんどくさい一日になる。
だから、祖母の厳しい教えに早々に根を上げた琴は、その日が来ると決まって不意の用事ができた。部活の先輩から買い物を頼まれた、友達の勉強を見てあげていた、帰り道で苦しそうにしていたお婆さんをずっと介抱していた…次々とありえそうな理由を作って、祖母の対応を私一人に任せ、夕飯ぎりぎりの時間まで帰ってこない。一分一秒でもつらい時間を削る努力を惜しまなかった。
そんな妹がその日、部活を終えて真っすぐ帰ってくる時間にマンションに現れたから、祖母と一緒に夕飯の支度をしていた私は驚いてキッチンからリビングを覗いた。すると、
「ふん…」
何やら喧嘩をふっかけてくるような風情で、こっちこい、と顎で指し示す。廊下に顔を出すと、そのまま有無を言わさず私の部屋に引っ張っていき、その話を口にした。
「…へ?」
「へ、じゃない。マジで、でしょう?」
「マジで?凪さんじゃないの?」
「北川凪じゃない。うちのクラスの里中ゆずだった」
「どうして…ゆずって誰?」
琴が知らせたのは、天道翔が手を繋いでいた女の子のことだった。それが、付き合っている彼女でなく、ありえない子と肩を寄せて歩いていたから、一大スクープとして祖母の待つ家に飛んで帰ってきた、という訳だ。
もちろん私には寝耳に水、晴天のへきれき級の話だった。だって、テンドウの彼女は凪さん、彼女しかありえない。絶対的で不動の地位だと思っていたから…。
でも、ふと頭を巡らせると、それがもろくも揺らいでいった。図書委員のイベントで何も言わずに帰ってしまったこと。あれ以来、二人が一緒に帰るのを見たことがないこと。今日も、先に行って、とテンドウが私をさっさと帰したこと。気がつくと、北川凪の気配が天道翔の隣から消えている。
そうと知ると、琴の話が、すっと胸に入ってきた。
「だから言ったのに…」
驚愕の事実、というのと対峙している私を、琴は目を吊り上げて非難した。
「ぼやぼやしているから他の子に取られるんだ。せっかく、何か月も一緒にいたのに…」
「何言っているの?私は一度だって、テンドウのことを好きだなんて思ったことないよ」
「そう言って観客席に居座っているから、いつまでたっても変わらないの。こんなことをしていたら、一度も試合に出ないまま終わっちゃうよ。それでいいの?」
十六歳の小娘が人生訓みたいなことを語っている。実はうちの姉、一年遅れで高校生になったんだ…煮え切らない私を揺さぶろうとして、無断で秘密を打ち明けたのと同じスタンスだ。
確かに、その密告のおかげで私は、テンドウと距離を縮めることかできた。そこで手に入れたものを今も、大切に胸にしまっている。
けれど、それとテンドウの彼女の話は別だ。女子と男子の関係イコール恋人か否か、ではない。私と彼は…もっと別の部分で繋がっているのでは、と思っている。だから、
「後で泣いても知らないから…」
そう言い捨てて部屋を出ていく背中を、私は、まるでおとぎ話でを聞いているみたいにキョトンとした目で見送った。胸の中で何かが騒ぐことなんて一つもない、と思っていた。
でも、自分のことに無頓着でも、テンドウのことは引っかかった。
別の子と手を繋いでいたってことは、やはり凪さんと別れた、ということ?
あのテンドウが、二人の子と同時に付き合う筈がない。どんな女の子にもいい顔をするが、二股を掛けるような真似は絶対にしない筈だ。
だとしたら…あんなに仲が良かったのに、どうして?
そこの所を確かめようとしたけれど、クラスでは大勢の友達が周りにいるからできない。それなら、図書委員の仕事をしている時に聞けばよかったが、二人きりになると逆に意識してしまい、やはり切り出すことができなかった。意味深な目を向けたかと思うと、もぞもぞと下を向いてしまう私を、テンドウは、怪しい奴を見つけたみたいに覗いていた。
「なぁ…リン」
「な、何?」
「返却されたのって、どうするんだったけ?昨日までの分は、ジャンルごとに分けていいんだよね」
「今日返された本は、キャスターに入れておけばいいんだよ。すぐに借りたい人がいるかもしれないから、カウンターの隣に置いておくの」
「いや。だから、昨日までの分だって」
「…ごめん。そう言ってた?」
「言ってた。ふむ…」
そう言うと、返却された本が山と積まれたキャスター越しに、ひょいと長い手を伸ばす。私の額に手を充てて、熱がないか検温してくれる。
何も特別な意味はない。彼はいつも、調子の悪そうな友達を見つけると男女を問わず額に手を当て、具合が悪くないか、と心配する。
それが分かっているのに…今まで何度かテンドウに検温されたことがあるのに、何を思ったか私は、彼の手を振り払った。頭の中を覗かれるのを拒むように、椅子を引いて距離を取ってしまった。自分のしたことに驚いて、また下を向いた。
「ごめん…」
学園祭のイベントが終わって、彼と毎日のように話さなくなった。携帯電話やメールのやりとりはぷつりと途切れ、窓側と廊下側のそれぞれの席を行き交うこともなくなった。
頭で分かっているのに、今までそこにあったものがなくなると、やはり、何かを失った気分になった。テンドウ、リン、と呼び合う関係は変わらなかったし、機会があれば前みたいに言いたいことをぶつけたけれど。向こうには付き合っている彼女がいるし、こっちはただのクラスメートで図書委員の同僚でしかない。
そう思うと急に、テンドウとの距離が遠く離れた気がした。手を伸ばしても何も触れてくれなかった。
私は、何かを失くしたんだろうか。夏休みから学園祭までの間に掴んだものがあったのだろうか…。
そんなふうに途方に暮れていると、返却本のキャスターを脇に押しやって、彼が隣にやってきた。隣の椅子に腰を下ろすなり、
「俺、新しい彼女ができたんだ…」
と自分から切り出したから、吐き出そうとした息が止まってしまった。
「D組の里中ゆずって子。知らないと思うけど…」
「……」
「そうだ。琴ちゃんと同じクラスじゃないか?じゃあ、聞いたら分かるよ。ゆずがどんな子か」
「…知ってる。もう聞いたから」
「え?」
まさか、私の口からその手の話が出てくると思ってなかったのか。
まるで不意打ちを食らったみたいな顔が気に食わなくて、テンドウに詰め寄った。
「じゃあ、凪さんと別れたの?」
「まぁ、同時にはつき合えないし…」
「テンドウから別れたいって言ったの?その…ゆずさんと付き合うから?そもそも、どういうきっかけで付き合うことになったの?」
なるべく息を整え、低い声で言ったけれど、一つ聞いたらあれもこれも、と頭に浮かんだことをみんな口にしていた。
テンドウは、迷惑そうな顔をすることなく、部外者の私に話してくれた。
「ゆずから言われて、とてもいい子みたいだったから、じゃあ、付き合ってみようかって。それなら、凪と続けるわけにはいかないだろう?」
「ゆずさんの方を断って、凪さんと続けようとは思わなかったんだ」
「…好きな人につき合ってほしいって言うのは、すごく勇気がいることだと思うんだ。もし断られたらって考えると、とても怖いんじゃないか?それを乗り越えて来てくれた子に、ごめん、何て言えない」
「だから、凪さんと終わりにしたの?」
「彼女には申し訳ないけど…でも、最後には納得して、今までありがとうって言ってくれた。だから俺も、こっちこそ楽しい時間をありがとう。絶対に忘れないって…」
まるで聖なる場所に辿り着いた旅人みたいな顔をして、窓の向こうに揺らいでいる桜の葉を望んでいる。外から飛び込んできたテニスボールの打球音が、図書室の壁に跳ね返っている。
他の人が言っていたら、頭に血が上って、蹴飛ばしていただろう。誠実な男子を気取って、きれいごとを並べるんじゃない。女の子をなめるな、と。
でもテンドウが言うと、どういう訳か納得して、許してしまう。彼がどんな男の子か、中身を知っているから。他の子と同じように、私も天道翔の魔法に掛かってしまったから。
そうと分かっているから、のど元に込みあげたものを何処に吐き出したからいいか分からない。
仕方なく、手元にあったパソコンのマウスを掴んで、ガシガシとダブルクリックを繰り返していると、どうかした?とテンドウに怪訝な顔で覗かれた。
「…何でもない」
と答えたけれど、気持ちが右往左往しているのがバレバレだったに違いない。
テンドウは、北川凪でなく他の女の子を選んだ。
凪さんみたいな素敵な子が彼女だから受け入れたのに、そうでないなら話は別だ…。
自分が上がっていない舞台の出来事に、まるで当人のようにショックを受けている。琴に指摘されたように、観客席で眺めていただけなのに、舞台俳優のつもりで打ちのめされているのだから手に負えない。
私は、何に傷ついているのだろう。心の何処が腫れているのか。
「…ちょっと、偵察してくる」
その日、私は、お弁当を広げていた席を早々に立った。三人で寄せ合った机の一角で、天道翔の新しい彼女情報を入手した奏が、まるで歴史ロマン大作を評論するように、
「この展開は予想してなかった。まさか、第三のヒロインの登場があるとは…いや、勉強になります」
と私に頭を下げてくるからだ。それに応じた千沙が、
「そうだよね。主人公の魅力に王子様が気づいて、少しずつ距離を縮めていくのが定番だもんね。そうなってほしかったんだけど…」
と身勝手極まりない眼差しを私に向けてくるからだ。
貴方たちは大きな勘違いをしている。物語の出だしでとても大事なことを見逃している、と言いたかったが、奏の言った「第三のヒロイン」という言葉が気になって、そのままワンフロア上の琴がいるクラスに足を向けた。間違っても自分が「第一のヒロイン」とは思ってなかったが、頭の中に描いてしまった天道翔を中心とする相関図を整理したくて、教壇側の扉から首を伸ばして妹の姿を捜した。
友達のザキちゃんから姉の訪問を知らされた琴は、瞬時に意図を察したらしく、私の元に駆けつけると、教室に背を向けたままコソコソと囁いた。
「窓側の列の前から三つ目。一人ぽっちで本読んでるグレーのベスト…」
ずいぶんと冷めた口調で紹介する。まるで思いどおりに進まない物語に不満を募らせているみたいに。
そうして琴の肩越しにその席を覗き、窓から差し込む温かな陽に包まれて文庫本を開いているその姿を目にした。
「…え?」
彼女がどんな子か、琴から聞いて想像していたけれど、それを超えた実像に、中途半端に開けた口が塞がらなくなった。
里中ゆずという子は、噂以上に目立たない、悪く言えばとても地味な女の子だった。いや、私も相当に地味な部類だが、彼女はそれをこれっぽっちも気にしていない風情で、クラス中がお喋りしていても知らん顔で読書しているし、気の毒なほど映えない顔立ちを眩い光にさらして澄ましている。誰に指を差されてもお構いなし、という感じで悠然と教室の中を見渡しているのだ。
どうしてこの子なのか。てっきり、凪さんみたいな子がタイプだと思ってたのに…テンドウの好みが分からない。
そして何故、彼女はこんな自虐的でいられるのだろう。地味は地味なりに教室の隅で小さくなっていればいいのに、と思ったが、すぐに勘違いだと気づいた。
「何か、自信にあふれている感じ…」
「何処が?」
「うぅん…体全体?」
琴は首を傾げていたけれど、私は、自分が彼女と似たタイプだからか、ゆずの心持が想像できた。
つまり、どんなに女子的ランクが下だろうと、クラスの勢力図の隅っこに甘んじていようと、天道翔の彼女という絶対的な切り札を手に入れたから平気でいられるのだ。周りに何と言われようと、学年随一の男子と付き合っている女子、という立場が覆ることはない。そうした事実が自信となって滲み出ている。無意識のうちに態度に表れているのだ。
恋愛というものは、女の子を根本的に変えてしまう…噂には聞いていたが、私のような初心者には衝撃的だった。
そうして胸を騒がせていると、また琴の声が割り込んできた。
「そうかなぁ…何か、危なくない?」
「何が?」
「うぅん…そっち方面の免疫がないっていうか。山奥の村で育った子が都会に出て、幸運にもすてきな男子と出会って夢のような時間を過ごしたけど、村に帰った途端、気持ちが上がった分だけ谷底に突き落とされるみたいな…」
まるで負け惜しみみたいに冷たい笑みを浮かべて言う。学校内の至る所で友達を作り、多彩なネットワークを構築している琴にとって、ゆずみたいに色々な意味で貧弱な子が最高の結果を手に入れたのが悔しくて仕方ないらしい。
あくまでも自分の気を鎮めるためだろう。ゆずという子をちゃんと見て言ったのではない、と思う。でも…。
「ここは、スズ姉の出番だよ」
「何のこと?」
「彼女から天道くんを奪って、谷底に突き落としちゃいな」
フフフ、と乾いた笑みを浮かべて行ってしまう。
その一言で、頭の中にその映像を思い浮かべてしまった。谷底に突き落とされたゆずが暗闇の中でもがいている姿を。
「誰がそんなことをするんだ?」
そう言って妹の背中を小突いたが、一度浮かんだ光景がいつまでも頭から離れない。光と影、栄光と挫折、正反対のものが隣り合わせになったように、陽だまりの中で本を読んでいる姿と重なってしまう。
そして、そんな彼女と付き合っているテンドウは大丈夫だろうか。もしかしたら、とてもつらい目に遭うのではないか。
そんな不安が渦巻いて、いつまでもその場から立ち去れなかった。
「ごめん。鍵返すの、頼んでいいか?」
「いいよ。早く行ってあげて」
「わるい…」
その日もテンドウは、図書委員の仕事を終えるや、里中ゆずが待つ三階の教室に駆けていった。彼女が代わっても甲斐甲斐しく迎えに行く、彼らしいやさしさだ。
図書室の鍵を学生課に返した私は、高校の玄関から校門に向かわず、かつてテンドウとプレゼンの練習をした外階段の下で友達を待つ振りをして時間を潰した。やがて中庭の散策路に二人が現れると、何食わぬ顔をして後に続き、校門を出て、最寄り駅に向かって商店街を歩いていった。
林田鈴という子は、川越の家から都内の学校に通って、友達に囲まれながら高校生活を送っている、と思っていたが、果たしてそうだろうか。そう思っているのは本人だけで、本当は何の実態もない、幽霊みたいにふわふわと浮かんでいる存在なのかもしれない。
最寄り駅に向かって手を繋いで歩いていく、テンドウとゆずの後ろ姿を見守る自分を振り返ってそう思った。
「……」
私は、今ゆずがいるポジションに立ったことがない。飛び込もうとしたこともない。それなのに、まるで一番近い場所にいるみたいに彼のことを見つめている。教室で窓側と廊下側の席に離れていても、図書室のカウンターに並んで座っていても、こうして恋人と歩いている姿を離れた場所から眺めていても…。
多分この先も、このままの距離で年月が過ぎ、卒業してしまうだろう。それでも、どういう訳か天道翔の姿を追ってしまう。彼がどんな気持ちでいるか、どんな未来に向かっているか、思い浮かべてしまう。やせっぽちのゆずと帰っていく大きな背中に不安ばかり感じている。
その日も学校の最寄り駅は、異なる方向からやってきた四本の線路を二つのホームの左右に並べ、コンコースから降りてきた学生たちをそれぞれの家に向かう電車に乗せていた。
どんな仲のいいカップルも、帰る方向が違えば、コンコースの上かどちらかのホームでさよならしなければならない。胸の中にすきま風が吹いているような日に訪れると、思いがけず人生の寂しさを感じてしまう場所だ。
テンドウとゆずは、国分寺方面と拝島方面に行く電車が発着するホームに降りて、待合室のベンチでいつまでもお喋りしている。大げさにのけぞって驚いたり、肩を縮ませて畏まっている彼の姿に、彼女が控えめに笑っている。二人だけの温かな時間が、陽が暮れていくホームに流れていた。
そんな光景を私は、所沢方面行きの電車が来るもう一方のホームから線路越しに眺めている。先ほどから何本もの電車が二つのホームに到着し、学生たちを乗せていったけれど。こんなことをしても何もならない、胸が騒ぐだけだと分かっていたが、体が見えないロープで繋がれたみたいに、なかなか電車に乗ることができなかった。
「林田さん…」
その声は、まるで瞬間移動してきたみたいに、とても近い距離から飛んできた。
「リンちゃん」
うっかり聞き流しているともう一度、クラスメート御用達のニックネームで呼ばれる。
でも、その声の主はクラスメートじゃない。もうすっかり遠い世界に行ってしまったけれど、忘れようのない柔らかな響き。振り返ると、やっぱり、白いマフラーを首に巻いた北川凪が微笑んでいた。
「…え?」
人間という生き物は、危機的な状況に陥ると、驚くほどの速さで頭が回転するらしい。
この時、私が思い浮かべたのは、どうして今になって凪さんが声を掛けてくるのだろう、というありがちな疑問ではなかった。
丁度向こう側のホームに停まっている電車が発車すると目の前に現れる光景。そこでイチャイチャしているカップルの姿をこの子に見せる訳にはいかない。何としても防がないと…。
一瞬で自分の取るべき行動を理解すると、返事をしないまま凪さんの元に駆け寄り、氷みたいに冷たい手を取って、目の前で扉を開けている西武新宿ゆきの電車の飛び乗った。
「どうしたの?おうち、川越じゃなかったっけ?」
きっとテンドウに、私が住んでいる街を聞いたのだろう。ちなみに私も、凪さんが中野区の鷺ノ宮という所に住んでいるのをテンドウ情報で知っている。
自分が乗る電車に川越に帰る私が一緒に乗ったものだから、凪さんが驚くのも無理はない。何かある、と思われただろうか。それをごまかすため、夢中で話しかけた。
「えぇっと…せっかく声掛けてくれたから、ホームでさよならじゃ寂しいかなって」
「それで、わざわざこっちに乗ってくれたの?」
「小平とか田無で降りれば本川越ゆきに乗れるから大丈夫…」
ちなみに西武線は、この界隈で何本もの路線をとても複雑に走らせているから、違う方向に行く電車に乗っても何とでもなった。
「それより、どうしたの?進学塾があるから、すぐに帰らないといけないんじゃ…」
「それ、天道くん情報でしょう?しょうがないなぁ、何でもペラペラ話すんだから」
「あ…ごめんなさい」
自分から切り出しておいて、凪さんとの会話がとても面倒なことに気づいた。そう、二人の共通の知り合いであるアイツがいちいち噛んでいるのだ。
でも、元彼がひょっこり顔を出しても、凪さんは湿った感じになることも機嫌を損ねることもなく、とても柔らかな口調で答えてくれた。
「いいの、今日は行くのをやめたから。校門の所にリンちゃんがいたから、お話してみようと思ったんだ」
「…もしかして、ずっと見ていた?」
「うん。何だか思い詰めているみたいだったから、何処で声を掛けようか迷っちゃって」
相変わらず温かな笑みを浮かべながら、恐ろしいことを口にする。
ということは学校から最寄り駅まで、天道・里中ペアの後を付けていた私をずっと観察していたのか。
何故、川越市民が、中野区民の手を取って西武新宿行きに飛び乗ったか、その理由を知っている?
頭を真っ白にさせている最中に急ブレーキが掛かり、車内が大きく揺れた。まるで初めて電車に乗った幼児みたいに転倒しかけた私の体に誰かの手が伸びて、支えてくれる。振り返ると、何もかも承知している風の凪さんが、ありがとう、と微笑んでいた。
「でも私、そこまで泣き虫じゃないよ。同じ学校に通っているんだから、別れた相手が違う女の子と歩いている姿を見ることもあるじゃない?もちろん平気じゃないし、いまだにチクッとくることもあるけど、仕方ないことは仕方ないし…」
凪さんは、驚くほどさばさばとした口調で、別れた後の心境というのを語った。ほんのりと桃色に染まった頬を私に向けて。
でも…ギュッと吊革を掴んで、夕陽に染まった街並を眺めている姿は、やっぱり傷ついている、と思った。恋愛というものは、こんなにも様々な顔を十六歳の子に与えるのか。容赦ない現実に、言いようのないため息がもれた。
凪さんは、さらに私に向けて言った。
「ただね。同じ取られるのでも、あの子じゃなくて、リンちゃんだったらよかったのにって、ちょっと思う」
「…え?」
「天道くんはやさしい。やさしすぎる性格だから、あぁいう子を放っておけなくて、付き合おうっと思ったんだろうけど。そういう所、好きだったから、とてもよく分かるけど…」
「……」
「私、ずっと怖かったんだよ。リンちゃんと彼が一緒に図書委員をしていて、何年も付き合っている恋人同士みたいに言い合っているのを見て…絶対に勝てない。もし本気になったら、あっという間に取られちゃうんだろうなってビクビクとしていた」
そう言って、中学生みたいな無垢な顔を私に向ける。学年有数の美人で、天道翔という有名人と付き合った子にしては、とてもあどけなく不安でいっぱいという表情で。
「……」
ずっとコンプレックスを抱いていた。自分にないものを何もかも持ち合わせているこの子に。そんな彼女の口から思いもかけない話を聞かされて、頭がクラクラする。何を言っているんだろう。見当違いが過ぎるんじゃないか、色々な疑問が渦巻く中でやっと口を開いた。
「…私は、ただの友達だよ。たまたま図書委員になって、文句を言ったり、喧嘩したり、好き勝手なことを言っているだけ。テンドウだってそう思っている。それ以上の仲になる筈ないんだから、ビクビクすることなかったのに」
弱々しい笑みを浮かべて凪さんを見る。今となっては、どうにもならない話だけれど。
ところが凪さんは、私に強く訴えるように、ゆっくりと首を振って言った。
「貴方の方がお似合いだと思う。私よりも、あの子よりも」
「え…?」
「リンちゃんなら、彼とうまくいく。そうなりたいって思わない?」
「……」
「どうせ私は、とか考えないで。欲しいものは欲しいって言っていいんだよ」
まるで私の一番深い所に眠っている、自分ですら気づいていない気持ちに語り掛けるように微笑んだ。
そこで耳をすまし、初めて自分の声を聞こうとしたのかもしれない。
林田鈴は、天道翔とどうなりたいのだろう。
それを促すように電車が前後左右にグラグラと揺れ、私の心を振り回した。
「じゃあ、お先」
その日もテンドウは、図書委員の仕事が終わるなり、跳ねるような足取りで図書室を飛び出した。
私も、彼に負けない張りのある声で、
「お疲れ。また明日」
と言って、里中ゆずが待つD組に向かう大きな背中を送り出す。その後ろ姿が廊下に消えた途端、へなへなと受付カウンターに崩れ落ちてしまった。
「……」
最近、体が重たい。教室や図書室でちょっと頑張っただけで息が切れてしまう。
ただでさえそんな有様なのに、クリスマスイベント用の飾りつけをした今日は、面倒くさがりのテンドウの尻を叩きながらずっと立ち仕事をやったから、学校を出て、電車に乗って、川越の家まで辿り着けるか、とても不安だった。
多分、色々なことが立て込んだからだろう。学園祭から始まって、体育祭、中間テスト、芸術鑑賞会、高校生の二学期はイベントだらけだ。久しぶりに学校生活に戻って疲れが溜まっていた、というのもある。きっとそうだ。一人前に高校生をやったからに違いない。
そう思ってみたけれど…心の中では、そんな軽い話じゃない。体の中で眠っていた悪い虫が目を覚まし、それを知らせようとあちこちから信号が上がったんだ、冷や汗を掻きながらそう思っていた。
何者かが私に迫ってくる。目に見えないけれど、よく知っている奴が…。
ともかく家に帰らなければ、そう考えた私は、部活に出ている妹にメールし、学校から一緒に帰ってもらうことにした。
姉の事情を知っている琴は、このSOSサインに早速応答し、部活を途中で切り上げて玄関で待っていた私の元に駆けつけてくれた。そして、最寄り駅までの道すがら、神妙な面持ちで付き添ってくれたが、黄色い電車に乗った途端、思いがけないことを口にした。
「天道くんは…スズ姉を置いて帰ったの?」
「そうだよ。彼女が待っているのに、悪いじゃない」
「ふうん。C組の竹下まゆとねぇ…」
「…え?」
「まぁ、付き合い始めたばかりだから仕方ないか」
またもや、姉が初耳の話を事もなげに口にする。
一体、何処から仕入れた情報だろう。何故いつも、私より先に知っているのか。そんなことを考える間もなく、隣に座ったブレザーの袖を引っ張った。
「いつから?何が起こってそうなったの?」
「先週からかな?もちろん、まゆの方から付き合ってほしいって言って、天道くんがOKしたからじゃない?」
「本当に?」
「毎日、手を繋いで帰ってる。駅のホームでくっついているのを見たっていう子もいるし…前から思っていたけど。何で、いつも一緒にいるのに知らないの?」
「…うん」
逆に聞かれて、首にぐるぐる巻きにしたマフラーに顔を埋めた。
どうせ私は、その手の情報に疎い。そもそも、そうした対象として見られてないから、テンドウから何の報告もない。
でも、そうだとしても一つだけ、胸に引っかかることがあって、話を飲み込むことができなかった。
「じゃあ、前の彼女は?里中ゆずは、どうなった?」
「もちろん、さよならしたでしょう?二股掛ける訳にいかないし」
「そうだよね…そうだよね」
何の疑問を挟む余地もない。だが…まぁ、いつものことでしょ、と後頭部を窓ガラスにくっつけてケラケラと笑う琴のように聞き流せない。形のない何かが、そこに落ちている気がして。
それまで噂でも聞いたことがなかったのに、一度耳に入ると、旬のそばや新作のワインが解禁されたみたいに次から次へと同じ情報が入ってくるものだ。
「ねぇ、聞いた?またまた新しい彼女ができたんだって」
次の日、病院で診療を受け、お昼から登校した私は、お弁当を広げた千沙からひそひそ声でその話を持ち出されてため息をついた。
すると、お手製のサンドイッチを口に運ぼうとしていた奏が大げさに頭を抱えて、
「おいおい。何人ヒロインが出てくるんだ。キャスティングが大変じゃないか…」
そう言って、収集のつかなくなった舞台の行方を案じる。
そんなものがどうなろうと知ったことではない。自称第一のヒロインは、王子様に一度も声を掛けられることなく、開幕からずっと舞台の袖で悶々としているのだ。
そう思いながら購買部で入手したチキンカツバーガーを開けようとしたら、もう一度、ひそひそ声が耳に入ってきて、私の手を硬直させた。
「相手はC組の竹下さんらしいんだけど…彼女が告白してOKしたって言うより、里中さんが四六時中付きまとって束縛しようとしたから、天道くんが嫌になったって話だよ」
「テンドウが、ゆずさんを振ったの?」
「そうみたい。朝起きてから夜寝るまで、何十通もメールを送って、返信がないとすぐに電話してくるから、怖くなったんだって」
「本人がそう言ってたの?」
「これは、マキちゃん情報だけど…」
私が、チキンカツバーガーと一緒にすごい迫力で身を乗り出したものだから、千沙は取り調べを受ける容疑者みたいに青い顔で呟いた。
「結局、いつものパターンじゃん。新しい女の子に告られたからそっちにお乗換えして、前の彼女には楽しい思い出をありがとう、でめでたしめでたしって」
まぁ、結果的にはそうだけど…救いの手にしがみつくような口ぶりで、奏の見解に千沙が同意する。二人ともまた一つ、天道翔の輝かしい女性遍歴を拝見した顔になっている。
でも、それだけだろうか。本当にいつものパターンで、みんな笑顔で終わるのだろうか。
ふと、テンドウの隣で彼を見上げていたゆずの姿を思い浮かべる。控えめで、傍目には嬉しいのかつまらないのか分からない。でもよく見ると結んだ口元が緩んでいて、心から満たされていた横顔を。
彼女は、天道翔を手放せるだろうか。すっかりひしゃげてしまったチキンカツバーガーを見つめながら胸を騒がせていた。
そうなってほしくないと思っていたが、やはり恐れていたことが起きた。
里中ゆずが、学校に来なくなった。
それが二三日だったらまだ格好がついた。誰だって恋人と別れるのはつらい。学校に行きたくない気持ちも分かる。
でも、ゆずは、一週間経っても十日経っても学校に来なかった、初めは、具合が悪い、と言って休み、やがて病院に入院した、今年いっぱいは復学できない、と担任の先生から話があったそうだ。
「どうも気持ちの問題らしいよ」
同じクラスにいる琴からその話を聞いて、私は、自分の部屋で棒立ちになった。
「それって…うつ病とか?」
「よく分からないけど、そういう感じの病気だって衣笠先生が言ってた。ねぇ、大丈夫?」
「何が?」
振り返ると、私のベッドに胡坐をかいた琴が、神妙な面持ちでこちらを見上げて言った。
「天道くん。あぁ見えて、けっこうナイーブじゃない?」
「…分かってる」
「スズ姉が声を掛けてあげれば、気持ちが楽になるかもしれない」
普段お気楽で、茶化すようなことばかり言っている妹が、別人のような顔色で私に訴える。彼を助けてあげられるのはカノジョじゃない、お姉ちゃんだよ、と。
言われなくたって、テンドウに声を掛けてみようと思っていた。面と向かって聞くのでなくても、それとなく話して彼の様子を知ることはできる。これまで何度も、そうやってきた。
でも、今度の話は、生徒の間で治まる話ではないのかもしれない。もっと根が深くて、いつも目にしている景色を消し去ってしまうくらい大変な…。
琴の顔を見て、黒い雲が太陽の光を遮り、世界全体が薄暗くなったような気がした。
翌日、登校して、それがただの気のせいでないことを、玄関や廊下で行き会う生徒、教室で顔を合わせたクラスメートの様子で知った。
『ねぇ、聞いた?』
『里中ゆずだろ?大人しい顔して、やってくれるな』
『俺だったら耐えられないかも』
『天道くんは平気なのかな?』
『大丈夫じゃない?彼にとってはいつものことだもん』
肩を寄せて、小声で話し、それから首を伸ばして当人の様子を窺う。そんな光景が何度も、あちこちで見られた。まるで学校中が同じ病気に罹ったみたいに、同じ話を持ち出し、不穏な空気を作っていた。
やはり、里中ゆずに覚えた嫌な感じが、現実のものになってしまった。
彼女は、天道翔がこれまで付き合ってきた女の子たちと違う。北川凪や他の子たちは、つらい気持ちを受け止めて再び歩き出したが、ゆずはその場で倒れ、蹲ったままだ。もう二度と立ち上がれないかもしれない。
もちろん、それでゆず一人が駄目な人間だ、とは言えない。同じ「恋人と別れる」でも、人によって受取り方が違うのだから。
ただ、ゆず自身は、どんなにつらくても学校にいないから、余計な声を聞くことも興味本位の視線に晒されることもない。これ以上、追い詰められることはないだろう。
だが、同じ当事者でも天道翔は違う。彼は毎日学校に行って、たくさんのクラスメート、同級生、教師たちと顔を合わせる。直接言われなくても、自分に向けられた様々な関心を肌で感じる筈だ。心を閉ざして背を向けることができればいいが、誰にでも心を開く性格が、嫌でもいつもどおり友達と接した。ふざけ合って、言葉を交わして、受けなくていい傷を負っていくのが、窓側と廊下側の席に分かれていても手に取るように分かった。
テンドウの笑顔を目にするほど胸が騒ぐ…。
そんな状況に耐えられなくなった私は、図書室で返却された本の整理をしている時に思い切って声を掛けた。体が重くて、うっかり気を抜いたら倒れてしまいそうだったけれど、書架に掴まって、告白するような意気込みで、テンドウ、と言った。
「ん、上の棚?」
そう言うと彼は、私が手にしていた歴史小説を取り上げ、長身を活かして、天井までそびえる書架の上段に収納個所を捜していくが、そこに一つの隙間も見つけられず、手にしていた本の背表紙に目をやるとあからさまに顔をしかめた。
「これ、コードが違ってない?」
「…え?」
「いつもでたらめに並べているって、俺に文句言っているのに…」
「いや。そういう意味で声を掛けたんじゃなくて」
「じゃあ、何の用かな?」
まるで鬼の首を取ったみたいな顔で、書架の上段と同じ高さから中段の私を見下ろしてくる。
何だ、そんな言い方をしなくてもいいじゃないか…と普段なら言い返している所だが、そこをぐっとこらえて言った。
「うん…そろそろ、個別指導が必要かなって」
「あぁ、期末テスト…再来週だっけ?」
「来週だよ。さては忘れてたな」
「やばい。リン、ナイスタイミングだ」
「でしょう?それなら、手続きに従って依頼しなさい」
我ながら、何をやっているんだと思う。彼の悩みを聞くつもりが結局、いつものようにコントめいた調子でテンドウのお願いを聞いているのだから。
「しょうがない。今度も面倒みてやるか」
そう言って、恭しく下げられた頭に手を伸ばして、ポンポンと叩いた。触れた途端、恥ずかしいとか嫌がられないかなとか、余計な気持ちがふっと消えて聞いていた。
「他にはない?」
「ん?」
「何でもいいから。相談に乗るよ」
私の手を頭に乗せたままこちらを見上げてくる、彼の目を真っすぐ見つめて言った。
テンドウは、何かを察したように低い声で答えた。
「じゃあ、恋愛の悩みでもいいか?」
「うん。いいよ」
「そうか…」
ふぅっと張り詰めていた息をもらすと、私の前に屈めていた背を再び書架の上段にそびえさせて言う。
「ありがとう。その時が来たらお願いする」
そうして、私の頭に手を乗せてポンポンと叩くと、脇をすり抜けて行ってしまった。
テンドウの大きな体が、天井の照明を遮って一瞬、私の視界を薄暗くする。そこにどんな気持ちが通り過ぎていったか分からない。
気が付いたら再び明るくなって、大きな背中が書架の間から閲覧室に出ていく。ほんの数秒前に彼の頭を叩いていた私の手は、何も掴めないまま、薄暗い書架の間にさまよっていた。