ワイルドカードは、届かない。

 林田鈴は天道翔とそうした関係になりたい訳ではない。確かに、高校生らしからぬ佇まいで乙女心を虜にする人かもしれないけれど、私のようなタイプには似合わない相手だ…。

 こちらの内なる声に気づくことなく、天道くんは、その後も図書委員の相棒であるリンちゃんを頼りにした。

『誰かに付きっきりで教わらないと何もできない。その時は林田さんを頼りにしていい?』

 あの言葉は、ただの社交辞令かと思ったけれど、彼は本当に図書室で本を借りたことがないらしく、何から何まで私に聞いた。一緒に説明を受けたのに、まるで聞いてなかった素振りで本の貸出から返却の手順、予約の受付に至るまで、「これ、どうするんだっけ?」と顔に似合わぬ甘えた声を掛けてきた。

「天道くん。もし違っていたら申し訳ないんだけど…」

あまりに頻繁に同じ質問をされるから、ある時、思い切って聞いてみた。

「私が一緒にいるから安心してない?一人でできるようにならないといけないって、思ってないんじゃない?」

 放課後、図書室の受付カウンターに座っている時だった。ちょっとあからさまな言い方だったかな、と思いながら彼の顔色を窺った。

 すると天道くんは、私の不安など一ミリも感じていない様子で答えた。

「思ってないよ。だって、こんな複雑な仕事なんだもん。本を借りにきた人を待たせて、すごいスピードで機械を使うなんて」

「…え?」

「俺には絶対無理だ。書架の整理みたいに、自分のペースでのんびりやるのならいいけど」

 まるで人生最大の壁に直面しているとでも言うように、大きな体をベターっとなめくじみたいにカウンターに張り付かせて、けだるい声を上げる。

 これの何処が複雑な仕事なの?生徒が持ってきた本を受け取って、バーコードリーダーをピッと当てて、プリンターから出てきた貸出レシートを本に挟んで、はいどうぞ、と差し出すだけだよ…。

 そう言ってやりたかったけれど、友達でもない男子にそんな言い方はできない。かと言って、望みどおり書架の整理に回って「ご隠居生活」を堪能してもらうのもごめんだ。悩んだ末、自分が席を立って、このよちよち歩きの赤ちゃんを一人前に育てることにした。

「じゃあ、私、奥で仕事しているから。何かあったら呼んで」

 そうして、しばらくの間、放置することにした。一人きりにされたら嫌でも覚えるだろうと思って、用もないのにバックヤードに引っ込んだ。

 こうしていれば、彼との関係で変な噂も立たない。一石二鳥、という訳だ。そう思って、窓際からグラウンドを眺めながら深呼吸していたら、

「リンちゃん。カウンター応援お願い」

 息つく間もなく、ドラッグストアの業務放送みたいな声が降ってきたから飛び上がった。聞こえない振りして頑張らせよう、とも思ったが、生来正直者の体が勝手に反応して、彼の元に駆けつけてしまった。

 きっと本を借りに来たポニーテールの女の子は、天道くんにやってもらえると思って心浮き立っていただろう。バックヤードから私が現れ、あたふたしている手からバーコードリーダーを奪って瞬く間に本を差し出したものだから、あからさまにがっかりしていた。

 それから、あれこれ試したみた。彼の横に張り付いて、カウンター業務を手取り足取り指導するとか。返却された本をどうしたら効率よく書架に戻せるか、クイズ形式でヒントを出しながらやってもらうとか。何とか彼に覚えもらおうと馬鹿正直に、根気よく、自分でも感心するくらい面倒を見た。変な噂をたてられたどうしよう、なんて心配も途中から忘れてしまった。

なのに、そこまでやったのに天道くんは、殆ど仕事を覚えなかった。まるで、一人前になってしまったら私と関わる機会を失くしてしまう、とでも思っているみたいに、些細な確認やどうでもいいことまで声を掛けてきて、ちょっとイラっときている私の説明を楽しそうに聞いていた。リンちゃんって本当にすごいね、心から尊敬するよ、なんて心にもないことをしみじみと語り、そこで一瞬ぐらっときている私の反応を見て、やはり楽しそうに微笑んでいた。

結局、二週間経ったところで、彼を一人前の図書委員に育てることは無理だと思った。初めから仕事を覚える気がなく、何もかも私におんぶに抱っこ、頼る気満々の心に何を教えても無駄だと知ってあきらめた。

 心の中で思い描いたイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。中世ヨーロッパで優雅な暮らしを謳歌していた王朝貴族は、タイムスリップした現代の日本では何の役にも立たず、金魚のふんみたいに高一女子にくっついているだけ。つまり、自分が楽をするために私みたいな子に声を掛け、リンちゃんと呼ぶのだ。そうすれば、面倒な仕事を覚えなくてすむ。のどかな図書委員ライフをエンジョイできるって寸法だ。

 この発見で、頭の中で渦巻いていた変なモヤモヤがきれいに吹き飛んだ。

「天道くん。付き合っている子がいるんだってね」

「うん。A組のミナミ」

「一緒に帰らなくていいの?デートの約束があるなら、無理しなくていいよ」

 昼休みの当番で、またも図書室のカウンターに座っている時、ふと琴から仕入れた情報を思い出して聞いてみた。万が一にも私に向ける気持ちがないと分かれば、もう何のためらいもなかった。

 すると天道くんは、宇宙から飛来したヘビみたいなバーコードリーダーをおもちゃみたいにくるくると回しながら、さばさばしたと口調で言った。

「あいつ、部活が忙しくて。俺とあんまり遊んでくれないんだ」

「何部なの?」

「テニス部。高校に上がってからすごく熱心にやるようになって、少しでも長く練習したいからって、毎日遅くまでやっている」

「すごいね、うまくなりたいんだ…」

「プロになれる訳でもないのに。何であんなに打ち込むんだろう…」

 気が付くと、二人カウンターに並んで頬杖を付き、別々の方向を眺めていた。私は学習コーナーの窓の外、眩しい光の中で葉桜が揺れているテニスコートの方向を。天道くんは、ドミノのように書架が並んだ図書室の薄暗い天井を。

 せっかく彼女の話を持ち出したのに…まるで大好きな子が遠い世界に行ってしまったような寂しさ、空しさが、隣でバーコードリーダーをかざして遊んでいる彼の周りに漂っている。初めて一緒に帰った日に見上げていた空と同じ色が。

 そんなの放っておけばよかったのだ。天道くんとミナミさんの距離が空いてしまっても、こちらには何の関係もない。でも、どうしてだか、私は声を掛けていた。

「天道くん。本当に、サッカー部入らないでよかったの?中学の時、すごく上手かったんでしょ?ちゃんとやれば、もっともっと伸びたのに…」

「……」

「プロを目指すんじゃなくても、もっと上のレベルに行きたいとか、先に進みたいって思わないの?」

 好きなことに打ち込める環境があるなら挑戦したいのではないか。いつ、何が原因でできなくなるか分からないんだから…自分の想いが入ったこともあったが、何よりも彼の周りに漂っている重たい空気を払いたかった。冗談で返してくれてもいい。名前に相応しい空の景色を私の前に広げてみせてほしかった。でも…。

 彼は、容易に人を寄せつけない神秘的な瞳で、手にしたバーコードリーダーを見つめていた。自分の情けない姿を睨むような凍りついた眼差しで、じっとしたまま動かない。

 どうしたの?何故、努力とか挑戦で語られるものに背を向けるの?

 その姿を目にして、こちらまで悲しい気持ちになった。どうしたら笑ってくれるだろう、まるで大切な人と接しているような胸騒ぎを覚えていると、バーコードリーダーがくるりと回って微笑んだ。

「リンちゃん…高校受験して入学したんだよね?」

「…え?」

「この前の確認テストで、学年一位だったよね?」

「十五人の中の一人だけど…」

「俺は二五六位だった。この調子で中間テストを受けたら大変なことになる…」

 目の前で、バーコードリーダーを握りしめた天道くんが、鬼気迫る顔で何かを語ろうとしている。何を持ち掛けられるのか、冷静になれば分かっただろうが、この時の私は、幾つもの衝撃を食らっていて、自分がどんなことに巻き込まれようとしているのか、全く分かってなかった。

 彼が身にまとっていた重苦しい空気が、こちらに振り向いた途端、忽然と消えていた。

 私の確認テストの成績と順位を彼は知っていた。

天道くんと私の学力は、同じ学校に通っていながら天と地ほど離れている。

 そんな事実が頭の中で渦巻いているうち、お願いポーズとともにその言葉が飛んできた。

「だから…俺に勉強教えてくれる?」

 次の日から、窓側の席から天道くんの声が上がらなくなった。リンちゃ~ん、という呼び名が教室の上空にふわふわと浮かび、クラス中の目線が向けられることもなかった。何故かというと、天道くんそのものが廊下側の私の席にやってきたからである。

 この一大事を歓迎したのは、通路を挟んだ隣の席に座っている千沙だった。

「歴史はね、人物も出来事も相関図にした方が頭に入るよ。あと年号は、語呂で憶えた方が楽しくて続くんだ。例えば、藤原京の成立なら…」

 社会・日本史といえば村井千沙、ということで、このはた迷惑な来訪者を私は、彼女に強引に振った。これ以上、クラスメートの注目を浴びるのはごめんだ、あっちに行け、という具合にあからさまに厄介払いしたのだが、意外なことに、学年一のイケメン王子様を押し付けられた千沙は、下を向いて口ごもるどころか頼もしい顔を上げて、自ら編み出した勉強法を彼に伝授した。

「ありがとう。村井さんって、本当に天才だね。この資料、大切にするよ」

 例によって、天道くんから包み隠さず感謝の意を伝えられると、生まれて初めて存在を認められたみたいに誇らしげな息を吐いた。

 何ということだ。何をするにも自信の欠片もなかった子が、こんなやりがいに満ちた顔をしているのだから、天道翔、恐るべし。かの大谷吉継さまも驚嘆しているに違いない。

「中学の時からあの調子…」

私が彼の影響力にうなっていると、前の席で生温かいため息をついていた奏が教えてくれた。

「テスト前になるといつも友達の間を走り回って助けを求める。まずい、どうしようって女の子に泣きついて、とっておきの資料や鉄板の出題ポイントを教えてもらって、何とかギリギリですり抜けるんだ」

「毎回?早めに準備しておこうとは思わないの?」

「そんなことをしたら、彼が彼でなくなる」

「でも…みんな、よく怒らないね。初めてならともかく、いつものことなら、いい加減にしろって言って突き放さない?」

「それが違うんだ。よく見て…」

 そう言ってもう一度、千沙の方を向く。窓側の席に戻っていく天道くんに達成感いっぱいの顔で手を振っているのを目にして、なるほど、と納得してしまった。

 つまり、みんな、窮地に陥った王子様を救って、喜びを噛みしめているのだ。私がいなければこの人は駄目、何とかしてあげなきゃ、とつい手を差し伸べてしまう。駄目男子としっかりものの女子、ウィンウィンの関係の出来上がり、という訳だ。

 いやいや、そんなのおかしい。一見すると、男の子に必要とされて自分の存在価値を実感しているいたいけな乙女心だが、どう考えても実利を得ているのは天道くんだ。女の子のやさしさに付け込んでピンチを切り抜ける。自分は一つも努力しないで大きなリターンを得ている、悪徳商人もびっくりのやり口だ。

 ヒモ、という大人の世界で使われている言葉を思い出した。女性の元に転がり込んだぐうたら男が、彼女に働かせるだけ働かせて、自分は悠々自適の日々を送るという…。

 まさか、二十歳になる何年も前に、この種の生き物と遭遇するとは思わなかった。みんな、学生の時からこの手の罠に引っかかって大丈夫だろうか。

せめて、私だけはちゃんとしていよう。天道くんに、現実の厳しさ、というのを教えてやらなくちゃ、と奏の隣で拳を固く握りしめたのだが…。

その日、私はまたしても落ちぶれた王朝貴族の声にからめとられ、図書室のカウンターで個別指導の学習塾講師になっていた。決して根負けした訳ではない。努力の大切さと勉強の厳しさを彼に教えようと思ったら親身になるのが一番、と思ったのだ。もう甘い言葉に騙されない、見つめられてもくらっとしない、と自分の心に言い聞かせて、数学のノートと友達からかき集めたレジュメに埋もれながら英単語を呟いている彼の横で、ピピピッとバーコードリーダーを鳴らして図書委員の仕事をこなしていた。

「余計なことかもしれないけど…みんなからもらった資料を整理して、まとめておいた方がいいよ。一目で分かるようにしておかないと、捜すだけで時間を取られるから」

「…何?」

「それから英単語は、電車に乗っている時とか夜寝る前とか、何かの合間に繰り返し見た方が頭に入ってくる」

「そうなの?」

「一気にやっても憶えられない…」

 そう言いながら、カウンターテーブルに散乱したレジュメに手を伸ばした。多分、言ってもやらないだろうから、科目ごとに分けて勉強しやすくしてあげよう、と何枚ものプリントをかき集めていく。すると、

「ありがとう」

「へ…?」

「リンちゃんに付いていけば何とかなるかもしれない。言われたとおりにやってみるよ」

「…本当に?」

「うん。だから、これからもよろしく」

 そう言うと何を思ったか、天道くんは私の腕に手を添え、もののあはれ的な風情に満ちた目で見つめてきた。大勢の視線が集まる図書室のカウンターで自分が何をしているか、全く分かってない様子でいつまでも微笑んでいる。

 分かっていないのは、私も同じだった。天道翔に腕を取られ、一心に見つめられている。裏表のない感謝の気持ちが胸の中に入ってくる。その状況に吸い込まれて、周りを気にしている余裕なんてなかった。

「…もう分かったから」

 惜しい気持ちを引きずりながら天道くんの手を引き離す。それでも私の頭は、質の悪い熱に罹ったみたいにぼぅっとしていた。同じことを他の男子にやられたら絶対に突き飛ばしているのに、どういう訳か、天道くんなら仕方ないか、と思ってしまう。すごく悔しくて頭にくるけど、どうしようもなかった。

 結局私は、中間テストの前日まで天道くんの勉強をみてあげた。決して、変な妄想を膨らませてやった訳ではない。あくまでもクラスメートとして彼と適度な距離を保ち、ちょっと冷たく、他人行儀にテスト勉強を指導した。怠けていたら、ピシャリと叱った。

 きっと周りから、間抜けなやり取りをしているように見えただろう。図書室には、中学生一年生から高校三年生まで、男女を問わず大勢の生徒が出入りする。中間テストが近づいているこの時期、本館二階に位置するこの部屋には、普段よりたくさんの人が訪れていた。

もちろん、その中には天道くんのことを知っている子もいて、貸出カウンターに一緒に座って甲斐甲斐しく面倒を見ている子は誰なんだ、新しい彼女がだろうか、などと様々な憶測が流れたらしい。

 その日も私は、バーコードリーダーを握りしめつつ、隣に座って唸り続けている彼のことをため息をつきながら見守っていた。

「ちょっと待って。どうして平安時代に鎌倉幕府が倒されるの?…ちゃんと資料を整理してないからだよ。ごちゃごちゃに憶えたら、日本史、全滅しちゃうよ」

 そう言いながら放っておくことができず、あたふたしている彼の前に乗り出して、机の上に散乱している歴史資料を年代順に並べていく。自分が何のためにここに座っているのか忘れ、カウンターの前で立ち尽くしている女子生徒をぽかんと口を開けて見上げていた。

「あの、お取込み中、申し訳ないけど…本の貸出できます?」

「…あぁ、はい。ごめんなさい」

「よかった。じゃあ、これ、お願いします」

 そう言って差し出された文庫本を、私は全く見てなかった。代わりに、カウンターの向こうで佇んでいるその人に吸い込まれるように見入っていた。

 二年生か三年生、いや女子大生が制服を着て忍び込んだ…そう思ってしまうくらい優雅で大人びて、小春日和みたいな奥深い笑みを小さな口に湛えている。窓から忍び込んだ風に、首筋に掛かった髪が揺らいでいる。制服越しでも豊かな体型の子だと一目で分かる。自分が持ち合わせてないなものをすべて備えていると知って、負けた、と思ってしまった。

 それから、彼女から受け取った文庫本をバーコードリーダーに読ませて、プリンターが印刷した貸出レシートを本に挟んで…一連の流れを一つも憶えてない。ただ、私から文庫本を受け取った彼女が、ありがとう、と言った後、隣で、鎌倉幕府が滅亡した平安時代で右往左往している天道くんに一言、

「がんばって…」

 と掛けた声だけ耳にした。そして、それに答えることなく歴史の資料と格闘している彼を愛おしそうに見つめている姿に、何処からともなく降ってきた勘を働かせていた。

 この人は天道くんに飛び込んでくる。きっと…。


 どうしてそんな考えに思い至ったのか分からないまま中間テストを受けた。

 二日間に渡って行われた試験で私は、学年二位の成績を修めた。

 ちなみに天道くんは、二三一位だった。私の個別指導が良かったのか悪かったのか、微妙な結果だ。

 そんなテスト結果の他にもう一つ、私は、奏からもたらされた驚くべき…いや、どうでもいいニュースを、千沙と一緒に口をあんぐりと開けて聞いていた。それは、

「あいつに新しい彼女ができたらしいよ。相手は、C組の北川(キタガワ)(ナギ)さん」

「私てっきり、リンちゃんだと思っていたのに。他の子と付き合うなんて納得できないよ」

 いかにも承服しかねるという顔をして、千沙が口を突き出した。

「私もさぁ…今度ばかりは、あいつも見る目があるって感心していた。ほら、とびきり従順な犬みたいになついてたじゃない。なのに…」

 奏が落胆のため息をつきながら、窓側の席で笑い転げている天道くんを眺めて言った。

 なんて友達思いの子たちだろう。私を案じて、傷ついた心に寄り添ってくれるのだ…でも、二人とも入口で大きな勘違いをして話している。富士山頂を目指しながら、高尾山に足を踏み入れているのだからどうしようもない。

 こんな状況下で私はどうしていたかと言うと、

「気にしないで。本当に、天道くんとは何でもなかったんだから…」

 頭の中でありえない展開を浮かべている二人に一応、ささやかな抵抗を試みた。せっかく厄介事が一つ片付いたのに、蒸し返されたらたまらないと思って奏と千沙の肩を必死に叩いた。

ところが、というか案の定、私の訴えは届かなかった。

「大丈夫、これで終わりじゃない。またきっとチャンスがやってくるから、それまで気持ちを切らさずにがんばろう」

 私の手を取った千沙が、驚くほど前向きな物言いで励ますと、

「でもでも…演劇部的に言うなら、これは次の展開の伏線かもしれないよ。ここで距離を取っておいて、ある日、二人が急接近するんだ」

 舞台監督の顔をした奏が、手にしたシャープペンをオーケストラの指揮棒のように振ってニンマリとする。

 天道翔に新しい彼女ができた、という話は、高校生の毎日をそこまで揺さぶった。

私としては全然驚くことじゃない。毎度のことなんでしょう、と言いたかったが、彼女、彼らにとっては、アイドルグループのセンターが交代した、カンヌ映画祭で日本映画がパルムドールを受賞した、くらいの大事件らしい。

 本当にそんな騒ぐことなのだろうか…。

周りの反応に逆に興味が湧いて、ある日、図書室当番が終わってから天道くんの後を付けてみた。校門の前で待ち合わせた二人が、最寄り駅に向かって仲良く手を繋いで歩いていく。誰がどう見ても幸せで、恥ずかしくなってしまう後ろ姿を、惨めな脇役になったつもりで観察した。

 そこで思ったのは、やはり北川凪さんは素敵な女の子だ、ということだった。

あんなに綺麗で、男子はもちろん女子の心も魅了してしまう優雅な雰囲気を持っているのに、天道くんを見つめて、本当に嬉しそうに微笑むのだ。手を繋いでいるのを意識して、頬を赤らめているのだ。そうした反応を素直に表している自分が好き、と一瞬だけ覗いた表情が言っていた。

私もこんな風になれたらいいのに、とまたも敗北感を覚えてしまった。

 好きな男の子と一緒にいるというのは、そういうことなのか。こうまで女の子を変えてしまうのだろうか…。

届きそうで届かない世界がそこにあると知って、私は、いつまでも二人の姿を見つめていた。

最寄り駅の改札口を抜けると、帰る方向が違う天道くんと凪さんは、別々の階段を降りていかなければならない。何処かに寄り道しないとなれば、ここが さよならの場所だ。

繫いだ手をなかなか放すことができない、国分寺行きと西武新宿行きの電車を何本もやり過ごしている。そんな姿に見とれた私は、なかなか川越方面に行く電車に乗れなかった。

「何、嫉妬の炎を燃やしているの?」

「…うぐ」

「愚図愚図しているから取られちゃうんだ。この世界は速いもの勝ちなんだから」

 例によってホームで待ち伏せしていた琴に、それからこっぴどく説教された。どうやら、指をくわえて覗いていた姉の醜態を見ていたらしい。私の踏み込みの甘さ、勝負所を逃すのほほんとした性格に心底イラついて、まだまだ勝負はこれから、今に見ていろ、と悪代官みたいに息巻いていた。


 周りがどんなに騒ごうと関係ない。天道くんとは、これまで何もなかったのだから。凪さんという彼女がいる以上、もう何も言われることはないし、一瞬だけ変な気持ちが湧くこともない。やっと落ち着いて毎日を送ることができる。

そう思った私は、安堵の息をつきながら、月に一度の図書委員会の席で噂の彼氏に話しかけていた。

「今日も一緒に帰るの?凪さん、いつも天道くんのことを待っているよね?」

「部活、やってないからね」

「何処かに寄っていったりしないの?一時間以上も待たせて、駅まで歩くだけなんて可哀そう」

「彼女、毎日進学塾があるから遊べないんだ」

「じゃあ本当に、駅まで一緒に帰りたいから…それだけのために待っているんだ」

 放課後の図書室の学習エリアで、私たちは「コの字型」に席に着いて、顧問の藤沢先生が来るのを待っている。

一応、他の子に聞かれないよう小さな声で話していたが、凪さんが毎日どんな気持ちで天道くんのことを待っているかを想像して、つい興奮した声を上げてしまった。

「リンちゃん…」

天道くんは、慌てて口を押えている私に冷静に聞いた。

「いつも、俺たちのことを見ているの?」

「…違う、そんな訳ないでしょう。何言っているの、もう…」

「それならいいけど」

 そう言って、一人だけ爽やかな秋風に吹かれているみたいに笑う。妙なことを聞かれたのに、ずいぶんとご機嫌な様子だ。

 ふと、このタイミングならいいだろうと思って、藤沢先生が部屋に入ってきたのも知らず、私は隣の席ににじり寄った。

「あの…こういうことを聞くのは失礼かもしれないけど。凪さんと付き合うようになったんだから、テニス部の子とは別れたんだよね」

 ずっと胸に引っかかっていることだった。いつも付き合っている子がいて、その相手が度々変わるとなければ、新しい彼女の数だけお別れした元カノがいるということだ。

そんなことを繰り返していて、女の子の恨みを買ったりしないのだろうか、と十七年の人生で一度も彼氏がいたことがない私は考えてしまう。

 天道くんは、こんな「ど素人的」な心配をいとも簡単に受け流した。

「もちろん。ちゃんと話して、納得してもらって別れたよ」

「他の子と付き合うからって?凪さんに好きって言われたから、きみとはもう付き合えないって言ったの?」

「うん。ありがとう、いい思い出になったって」

「本当に?」

「いつもそういう感じなんだ。別れたいって言うと、初めは泣くんだけど、最後には付き合って良かったって言ってくれる。俺も、ありがとうって言って。お互いに感謝して終わるんだ」

 何の問題もない、いつも通りだ、という感じで淡々と話す。

 実際、歴代の元カノさんたちはそうしてきたのだろう。彼の横顔には、過信や傲慢でなく、付き合ってきた女の子たちを今も大切に思っている気配がにじみ出ていた。

「……」

 そういうものなんだろうか。天道翔というちょっと特異な男の子と付き合うと、どんな女の子も「いい思い出」をもらった、と思って引き下がるのか。そんなの納得できない、と食って掛かる子はいないのだろうか。

 未だ足を踏み入れたことのない世界の更に先で起こる出来事なんて、さすがに想像できない。

もし私だったらどうだろう…なんて考えようとしたら、天道くんと付き合っている自分の姿が思い浮かんだから、慌てて首を振った。その顔が、凪さんに負けないくらい幸せそうだったから、ぞっとした。

 そうして私が一人であれこれと妄想している間も、世の中は刻々と姿形を変えていく。 気が付いたら大変なことに巻き込まれていた、なんて展開が待っていたりするものだ。

「リンちゃん…」

「…え?」

「何か、すごいことが始まるらしいよ」

 とこれっぽっちもすごいと思っていない口調で天道くんが言ったものだから、私はすっかり油断した状態で、手元に配られた「学園祭で催す図書委員会のイベント」なるプリントを目にしていた。昭和時代の古本屋さんから抜け出してきたような藤沢先生が、黒縁眼鏡の奥から力強い眼差しで訴えているのを聞いて、少しずつ、何が始まったのか理解していった。

「毎年ビブリオバトルじゃマンネリだし、あっという間に終わってしまうからね。今年はもう少し突っ込んで、ベストセラーの書評をプレゼン形式でやってみようと思う。本の担当編集者になって、書店に売り込むつもりで観客の前で発表するんだ。聞いた人が思わず手に取ってしまうような作品の魅力を伝えるために…」

 ということは、課題図書を読んで、そのおもしろさを来場者の前で説明するのか。内容を読み取って整理するのも大変だけれど、それを知らない人に向けて発表するのはもっと難しそうだ。

そんなこと、できるだろうか。

 目の前に掲げられたハードルを見上げた私は自然と、やってみたい、と思っていた。

「もちろんバトル形式で投票してもらって、優勝チームを決めたいと思う」

 先生の補足説明を聞いたら俄然、闘志が湧いてきた。精一杯やってみよう、せっかくの機会だ…そう決意した直後、

「チームって誰と組むんですか?」

二年生から上がった質問に藤沢先生が答えるのを頭を真っ白にして聞いていた。

「あぁ。せっかく二人ずついるんだから、クラスごとにしようか」

 ……何ですって?


「すごい。本当に、天道くんと縁があるんだね。赤い糸で繋がっいてるのかも」

 次の日、思い悩んだ末にその話を打ち明けたら、興奮した千沙に腕を掴まれた。

「これは第二章の幕開け…やっぱり、新しい彼女の登場は伏線だったんだ」

 奏には、リアル舞台監督みたいな顔で、ガッツポーズをされてしまった。

 やっぱり…二人とも、ヒマラヤ山脈を目指す登山家みたいに、出発前から山頂から望む絶景を思い描いている。登頂する私のことを放って…。

「……」

 もう何もないだろうと思っていたのに、また天道くんと関わることになってしまった。それも、図書室の貸出当番や中間テストの勉強の比ではない。一つの物語を題材にして、その魅力を研究し、大勢の観客の前でプレゼンするのだ。夏休みの自由研究をクラスメートの前で発表するより遥かに重い課題だ。

それを梅雨入り前から九月下旬の学園祭までの約三か月間、力を合わせて取り組もうというのだから正気の沙汰ではない。

もしかして、夏休みが過ぎたら二人の関係が変わっていたりして…。

 千沙や奏の話を何故、私が冷めた顔で聞いているかというと、パートナーである彼の活躍が全く期待できない、と分かっているからだった。

「やぁ、よろしく」

「…うん」

「こんな大変なことを一人でやれって言われたらどうようって思ったけど。リンちゃんと一緒なら安心だ。世界一心強い味方が付いてくれるんだから」

 図書委員会の帰り、例によって乙女心をくすぐる笑みを向けてきた天道くん。君は、最初から私に寄生するつもりだろう。図書室当番やテスト勉強みたいに、難しい研究をすべて私に任せて、自分はのんびりとご隠居ライフを楽しむ魂胆だろう。

 この学校に通う女の子なら、みんな、騙されてしまうに違いない。

彼と一緒に夏休みを過ごすなんて夢のようだ。絵に描いたような展開に舞い上がり、何もできない彼に代わって一人で研究を進めていくのが目に見えている。

 でも、私は違う。そんなことさせるものか。絶対に思い通りにはさせない、と彼の隣で固く心に誓った。どんなに微笑まれても、嬉しい言葉を掛けられても、決して顔を緩めなかった。


「天道くん。今日ちょっと残れる?そろそろ、どの本にするか決めようと思うんだけど」

 梅雨に入って最初の本格的な雨降りになった土曜日、私は、放課後の図書室当番の最中に声を掛けた。

学園祭本番までまだまだ時間があったけれど…夏休みに入ったらすぐに作品の研究を始めたい、そのためには一学期中に本を読んでおかないと…何事も計画的に、速やかに手を付けないと気が済まない性分を発揮して思い立った。

 でも、私の気など知らない天道くんは隣で、友達から借りた格闘漫画に読みふけっている。これ最高だよ、リンちゃんも読む?と薦められたが、血だらけなのは怖い、と言って遠慮した作品だ。

きっと上の空なんだろうな、ずっと夢中だから、とため息をつこうとしたら、思いがけず素早く反応したから驚いた。

「あぁ、そうだね。決めちゃおうか」

「本当に?」

「誰かに言ってもらわないと、俺、いつまでも始めないから」

 と落ちぶれた王朝貴族でなく、現代に生きる爽やか高校生みたいな顔で微笑む。

 どういう風の吹きまわしだ。ひょっとして心を入れ替えたのだろうか…ありえないことを考えながら、やっぱり嬉しくて頬を緩めていると不意に、自分が喜んだ分だけ別の女の子が悲しむのではないか、と思って隣を覗いた。

「でも…大丈夫?」

「凪のこと?メールしとくから、気にしなくていいよ」

「…無理しなくていいのに」

 自分から話を持ち掛けて、肩をすくめていた。せっかく、怠け者の天道くんがその気になったのに…自分が何をしたいのか分からなくなってくる。

 今この瞬間も、凪さんは校舎の何処かで時間を潰しているんだろう。好きな人と一緒に帰るたった十五分ほどのために。それが何よりも大切なひと時だから…。

 そんな女の子の気持ちを私は弄んでいる?いや、こっちだって何も後ろめたいことはない。図書委員の仕事であり、彼も納得しているのだから…。

 でも、そう自分に言い聞かせても、申し訳ない気持ちを振り払うことができなかった。結局、三十分で打ち合わせを終え、天道くんを解放したけれど、最寄り駅に向かって歩いていく一本の群青色の傘、その下で肩を寄せて歩いていく二人の後ろ姿を、私は、とてももやもやとした気分で校門の前から見送った。まるで余計な気持ちが邪魔をするみたいに、群青色の傘が見る見るうちに霞んでいった。

 私たちが学園祭でプレゼンする本は、ライトノベルのベストセラー小説に決まった。

大学で謎の美少女と出会った男の子が、彼女と仲良くなり付き合い始めるが、やがて相手が何年も前から男の子のことを慕っていたことが分かってくる。その目的、正体が最後まで分からないまま物語が進んでいく…。

謎に包まれたヒロインをとことん描いた長編だ。去年、映画化もされ、若い世代にとても知名度が高い。文学作品や古典を紹介するのもいいが、こっちの方がお客さんに知られていておもしろいんじゃないかな、と天道くんが推して、私も、やりがいがあるかも、と思って了承した作品だ。

 私としては、何に対しても夢中になることがない彼が、珍しく前向きな気持ちで決めてくれたのが嬉しかった。この調子なら瞬く間に本を読んで夏休みに二人でじっくり研究できる。そうすれば、すばらしいプレゼンができるかもしれない。そう期待して、川越の駅ビルに入っている書店で同じ文庫本を二冊購入し、次の日、窓側の席に行って彼に渡した。

 天道くんは、お気に入りの漫画を手に入れたみたいにテンションを上げて、クラスの子たちを驚かした。

「すごい。早速、今日から読むよ」

「お互い、がんばろうね」

「もちろん。リンちゃんと一緒ならやる気が湧いてくる」

 二人で同じタイトルの本を掲げて、よし、とうなずく。

彼氏彼女の関係でなかろうと、周りからどう思われていようと、この瞬間、天道くんと繋がっていると思うと、やっぱり胸が熱くなる。

色々なことが頭の中を駆け巡って、ため息がもれる時もあるけれど、このイベントだけは成功させよう。学園祭本番まで、彼と力を合わせて進んで行こう、そう決めて、精一杯の言葉を掛けていた。

「私も、天道くんとなら頑張ろうって思うから、しっかり読んでくるね」


 そうして健闘を誓い合ったのが六月中旬だった。

 それから雨が降りつづく中、私たちは毎日のように言葉を交わし、昼休みや放課後に図書室の貸出カウンターに並んで座った。

天道くんは相変わらず友達から借りた格闘漫画に夢中で、図書委員の仕事を私に任せきりだったけれど、本読んでいる?と聞くと、もちろん順調だよ、と答えるので安心していた。窓側の席で同じ本を掲げた時のことを思い出して、よしよし、と心の中でうなずいていた。

七月に入って期末テストが近づくと、天道くんはまたも没落王朝貴族みたいな顔をして、バーコードリーダーを手にした私に泣きついてきた。

「どうしよう。英語のリスニングが最悪なんだ。あと、古文も…」

またか、中間テストであれほど痛い目にあったのに…そう思いながらも、

「じゃあ、ノート貸してあげようか?」

 と私は、彼を受け止めた。最早、天道翔の術中にはまった感がなくもなかったが、学園祭イベントの大事なパートナーだから仕方ない。彼が心おきなく研究に臨めるようにできる限り協力しよう、そう思ってリスニングと古典と、あと地理と化学も見てあげた。

 その結果、天道くんは期末テストで何とか落第点を逃れ、無事、夏休みを迎えることができた。

「ありがとう。リンちゃんがいなかったら、どうなっていたか分からなかった」

 子犬のようにくりくりした瞳で感謝されると、への字にした口元がつい緩んでしまう。結局、彼のいいように使われているだけかも、と自分にため息をついていた。

 でも、これで心配事がすべて消えた。気象庁が梅雨明け宣言したその日、私は、清々しい夏の空と同じ心持ちで黄色い電車に乗り、学校の最寄り駅に降り立った。

今日は夏休み初めての図書室当番。そして、学園祭のプレゼンに向けて作品の研究を始める日だ。

この日に向けて私は、二人で選んだライトノベルを二回読んで、印象に残った場面やキャラクター像など、自分なりに捉えた個所をレポート用紙にまとめてきた。

天道くんと互いの見解を持ち寄り、そこで見つけたポイントを並べたら、きっと研究が進むだろう。

そう思うとわくわくして、コンコースに上がる階段を跳ねるように上っていった。改札口で待ち合わせ、なんて言われた時はとても恥ずかしかったけれど、当日を迎えたら、駅ナカコンビニの前で待っていた彼に気持ちよく、おはよう、と言うことができた。

「やぁ、おはよう」

 天道くんは、ファッション雑誌のモデルみたいなとびきり爽やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。いや、いつもと変わらなかったかもしれないが、この時ばかりは、私一人のために国立の家から出掛けて改札口で待っていてくれた、としか思えなかった。

 そして、いつも彼と凪さんが手を繋いでいく通学路を、天道くんと並んで歩いている時だった。毎日購買に納品しているホームズパン屋も、商店街の角のお団子屋も、江戸時代に造られた用水路も、瑞々しい景色すべてが、その言葉一つで灰色に塗りつぶされた

「ごめん。今日の打ち合わせ、来週に延ばしてくれないかな?」

「どうしたの。何かあった?」

「実は…まだ読み終わってなくて。もう少しなんだけど…」

「後どれくらい?」

「うん…三百ページ、くらいかな」

 彼は、やはり爽やかな笑みを浮かべて頭を掻いていた。でも私は、同じ表情でその姿を見上げることができなかった。

「…どういうこと?」

 あの本は、全部で四百ページ近くある大作だ。つまり天道くんは、まだ物語の序盤しか読んでいないということだ。

この作品にする、と決めてから一か月以上経っているのに… 来週まで読んでくると言われても、とてもできると思えない。そんなことを平然と言ってのけられたら、校門の前で足が止まり、一歩も動くことができなかった。

「リンちゃん…?」

 下を向いて立ち尽くしている私に、さすがの天道くんも、やばい、と思ったのだろう。すぐに駆け寄って、大きな体を折り曲げて声を掛けてきた。

「本当にごめん。絶対、来週までに読んでくるから、それまで待ってくれないかな?」

「……」

「こんな大変な課題、俺一人じゃ絶対できないから。きみの力がどうしても必要なんだ」

 慣れた手つきで肩に触れながら、だから行こう、と私を促した。