次の日から、窓側の席から天道くんの声が上がらなくなった。リンちゃ~ん、という呼び名が教室の上空にふわふわと浮かび、クラス中の目線が向けられることもなかった。何故かというと、天道くんそのものが廊下側の私の席にやってきたからである。
この一大事を歓迎したのは、通路を挟んだ隣の席に座っている千沙だった。
「歴史はね、人物も出来事も相関図にした方が頭に入るよ。あと年号は、語呂で憶えた方が楽しくて続くんだ。例えば、藤原京の成立なら…」
社会・日本史といえば村井千沙、ということで、このはた迷惑な来訪者を私は、彼女に強引に振った。これ以上、クラスメートの注目を浴びるのはごめんだ、あっちに行け、という具合にあからさまに厄介払いしたのだが、意外なことに、学年一のイケメン王子様を押し付けられた千沙は、下を向いて口ごもるどころか頼もしい顔を上げて、自ら編み出した勉強法を彼に伝授した。
「ありがとう。村井さんって、本当に天才だね。この資料、大切にするよ」
例によって、天道くんから包み隠さず感謝の意を伝えられると、生まれて初めて存在を認められたみたいに誇らしげな息を吐いた。
何ということだ。何をするにも自信の欠片もなかった子が、こんなやりがいに満ちた顔をしているのだから、天道翔、恐るべし。かの大谷吉継さまも驚嘆しているに違いない。
「中学の時からあの調子…」
私が彼の影響力にうなっていると、前の席で生温かいため息をついていた奏が教えてくれた。
「テスト前になるといつも友達の間を走り回って助けを求める。まずい、どうしようって女の子に泣きついて、とっておきの資料や鉄板の出題ポイントを教えてもらって、何とかギリギリですり抜けるんだ」
「毎回?早めに準備しておこうとは思わないの?」
「そんなことをしたら、彼が彼でなくなる」
「でも…みんな、よく怒らないね。初めてならともかく、いつものことなら、いい加減にしろって言って突き放さない?」
「それが違うんだ。よく見て…」
そう言ってもう一度、千沙の方を向く。窓側の席に戻っていく天道くんに達成感いっぱいの顔で手を振っているのを目にして、なるほど、と納得してしまった。
つまり、みんな、窮地に陥った王子様を救って、喜びを噛みしめているのだ。私がいなければこの人は駄目、何とかしてあげなきゃ、とつい手を差し伸べてしまう。駄目男子としっかりものの女子、ウィンウィンの関係の出来上がり、という訳だ。
いやいや、そんなのおかしい。一見すると、男の子に必要とされて自分の存在価値を実感しているいたいけな乙女心だが、どう考えても実利を得ているのは天道くんだ。女の子のやさしさに付け込んでピンチを切り抜ける。自分は一つも努力しないで大きなリターンを得ている、悪徳商人もびっくりのやり口だ。
ヒモ、という大人の世界で使われている言葉を思い出した。女性の元に転がり込んだぐうたら男が、彼女に働かせるだけ働かせて、自分は悠々自適の日々を送るという…。
まさか、二十歳になる何年も前に、この種の生き物と遭遇するとは思わなかった。みんな、学生の時からこの手の罠に引っかかって大丈夫だろうか。
せめて、私だけはちゃんとしていよう。天道くんに、現実の厳しさ、というのを教えてやらなくちゃ、と奏の隣で拳を固く握りしめたのだが…。
その日、私はまたしても落ちぶれた王朝貴族の声にからめとられ、図書室のカウンターで個別指導の学習塾講師になっていた。決して根負けした訳ではない。努力の大切さと勉強の厳しさを彼に教えようと思ったら親身になるのが一番、と思ったのだ。もう甘い言葉に騙されない、見つめられてもくらっとしない、と自分の心に言い聞かせて、数学のノートと友達からかき集めたレジュメに埋もれながら英単語を呟いている彼の横で、ピピピッとバーコードリーダーを鳴らして図書委員の仕事をこなしていた。
「余計なことかもしれないけど…みんなからもらった資料を整理して、まとめておいた方がいいよ。一目で分かるようにしておかないと、捜すだけで時間を取られるから」
「…何?」
「それから英単語は、電車に乗っている時とか夜寝る前とか、何かの合間に繰り返し見た方が頭に入ってくる」
「そうなの?」
「一気にやっても憶えられない…」
そう言いながら、カウンターテーブルに散乱したレジュメに手を伸ばした。多分、言ってもやらないだろうから、科目ごとに分けて勉強しやすくしてあげよう、と何枚ものプリントをかき集めていく。すると、
「ありがとう」
「へ…?」
「リンちゃんに付いていけば何とかなるかもしれない。言われたとおりにやってみるよ」
「…本当に?」
「うん。だから、これからもよろしく」
そう言うと何を思ったか、天道くんは私の腕に手を添え、もののあはれ的な風情に満ちた目で見つめてきた。大勢の視線が集まる図書室のカウンターで自分が何をしているか、全く分かってない様子でいつまでも微笑んでいる。
分かっていないのは、私も同じだった。天道翔に腕を取られ、一心に見つめられている。裏表のない感謝の気持ちが胸の中に入ってくる。その状況に吸い込まれて、周りを気にしている余裕なんてなかった。
「…もう分かったから」
惜しい気持ちを引きずりながら天道くんの手を引き離す。それでも私の頭は、質の悪い熱に罹ったみたいにぼぅっとしていた。同じことを他の男子にやられたら絶対に突き飛ばしているのに、どういう訳か、天道くんなら仕方ないか、と思ってしまう。すごく悔しくて頭にくるけど、どうしようもなかった。
この一大事を歓迎したのは、通路を挟んだ隣の席に座っている千沙だった。
「歴史はね、人物も出来事も相関図にした方が頭に入るよ。あと年号は、語呂で憶えた方が楽しくて続くんだ。例えば、藤原京の成立なら…」
社会・日本史といえば村井千沙、ということで、このはた迷惑な来訪者を私は、彼女に強引に振った。これ以上、クラスメートの注目を浴びるのはごめんだ、あっちに行け、という具合にあからさまに厄介払いしたのだが、意外なことに、学年一のイケメン王子様を押し付けられた千沙は、下を向いて口ごもるどころか頼もしい顔を上げて、自ら編み出した勉強法を彼に伝授した。
「ありがとう。村井さんって、本当に天才だね。この資料、大切にするよ」
例によって、天道くんから包み隠さず感謝の意を伝えられると、生まれて初めて存在を認められたみたいに誇らしげな息を吐いた。
何ということだ。何をするにも自信の欠片もなかった子が、こんなやりがいに満ちた顔をしているのだから、天道翔、恐るべし。かの大谷吉継さまも驚嘆しているに違いない。
「中学の時からあの調子…」
私が彼の影響力にうなっていると、前の席で生温かいため息をついていた奏が教えてくれた。
「テスト前になるといつも友達の間を走り回って助けを求める。まずい、どうしようって女の子に泣きついて、とっておきの資料や鉄板の出題ポイントを教えてもらって、何とかギリギリですり抜けるんだ」
「毎回?早めに準備しておこうとは思わないの?」
「そんなことをしたら、彼が彼でなくなる」
「でも…みんな、よく怒らないね。初めてならともかく、いつものことなら、いい加減にしろって言って突き放さない?」
「それが違うんだ。よく見て…」
そう言ってもう一度、千沙の方を向く。窓側の席に戻っていく天道くんに達成感いっぱいの顔で手を振っているのを目にして、なるほど、と納得してしまった。
つまり、みんな、窮地に陥った王子様を救って、喜びを噛みしめているのだ。私がいなければこの人は駄目、何とかしてあげなきゃ、とつい手を差し伸べてしまう。駄目男子としっかりものの女子、ウィンウィンの関係の出来上がり、という訳だ。
いやいや、そんなのおかしい。一見すると、男の子に必要とされて自分の存在価値を実感しているいたいけな乙女心だが、どう考えても実利を得ているのは天道くんだ。女の子のやさしさに付け込んでピンチを切り抜ける。自分は一つも努力しないで大きなリターンを得ている、悪徳商人もびっくりのやり口だ。
ヒモ、という大人の世界で使われている言葉を思い出した。女性の元に転がり込んだぐうたら男が、彼女に働かせるだけ働かせて、自分は悠々自適の日々を送るという…。
まさか、二十歳になる何年も前に、この種の生き物と遭遇するとは思わなかった。みんな、学生の時からこの手の罠に引っかかって大丈夫だろうか。
せめて、私だけはちゃんとしていよう。天道くんに、現実の厳しさ、というのを教えてやらなくちゃ、と奏の隣で拳を固く握りしめたのだが…。
その日、私はまたしても落ちぶれた王朝貴族の声にからめとられ、図書室のカウンターで個別指導の学習塾講師になっていた。決して根負けした訳ではない。努力の大切さと勉強の厳しさを彼に教えようと思ったら親身になるのが一番、と思ったのだ。もう甘い言葉に騙されない、見つめられてもくらっとしない、と自分の心に言い聞かせて、数学のノートと友達からかき集めたレジュメに埋もれながら英単語を呟いている彼の横で、ピピピッとバーコードリーダーを鳴らして図書委員の仕事をこなしていた。
「余計なことかもしれないけど…みんなからもらった資料を整理して、まとめておいた方がいいよ。一目で分かるようにしておかないと、捜すだけで時間を取られるから」
「…何?」
「それから英単語は、電車に乗っている時とか夜寝る前とか、何かの合間に繰り返し見た方が頭に入ってくる」
「そうなの?」
「一気にやっても憶えられない…」
そう言いながら、カウンターテーブルに散乱したレジュメに手を伸ばした。多分、言ってもやらないだろうから、科目ごとに分けて勉強しやすくしてあげよう、と何枚ものプリントをかき集めていく。すると、
「ありがとう」
「へ…?」
「リンちゃんに付いていけば何とかなるかもしれない。言われたとおりにやってみるよ」
「…本当に?」
「うん。だから、これからもよろしく」
そう言うと何を思ったか、天道くんは私の腕に手を添え、もののあはれ的な風情に満ちた目で見つめてきた。大勢の視線が集まる図書室のカウンターで自分が何をしているか、全く分かってない様子でいつまでも微笑んでいる。
分かっていないのは、私も同じだった。天道翔に腕を取られ、一心に見つめられている。裏表のない感謝の気持ちが胸の中に入ってくる。その状況に吸い込まれて、周りを気にしている余裕なんてなかった。
「…もう分かったから」
惜しい気持ちを引きずりながら天道くんの手を引き離す。それでも私の頭は、質の悪い熱に罹ったみたいにぼぅっとしていた。同じことを他の男子にやられたら絶対に突き飛ばしているのに、どういう訳か、天道くんなら仕方ないか、と思ってしまう。すごく悔しくて頭にくるけど、どうしようもなかった。